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2021/07/05

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  • 家田城 遠江 点群データの立体図を利用して城郭の縄張りを確認してみる

    家田城は静岡県磐田市家田にあります。隣接する南側には仲明城があり家田城は仲明城の一部だったとする説もあるようです。今回は静岡県の3次元点群データを利用して城郭遺構を見学してみたいと思います。今回の参考資料は(1)「静岡県の中世城館跡」静岡県教育委員会1978(2)静岡県の城跡西部・遠江国版静岡古城研究会2022と(3)静岡県の3次元点群データによる立体図などです。家田城仲明城とは別の城郭として見学する資料(1)では家田城は仲明城の一部としていますが、資料⑵では周囲の状況から、別の城郭としています。当ブログでも別の城郭として扱っています。家田城点群データによる立体図で遺構の確認をする今回の見学では道aのルートで城域に入り道bのルートで下りました。資料(2)の縄張図には道Cのルートが一部示されていますが、確認...家田城遠江点群データの立体図を利用して城郭の縄張りを確認してみる

  • 土居城と上土居城 美濃 鳥羽川を挟んだ二つの城の関連はあるのか

    土居(つちい)城は岐阜県岐阜市下土居にあります。城主に土居駿河守頼継の名が伝わりますが、城歴等の詳細は不明のようです。上土居城は鳥羽川を挟んで上土居に築かれている山城ですが、詳細は不明です。今回の資料は(1)「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第2集」岐阜県教育委員会2003(2)「城」第138号東海古城研究会1990などです。土居城と上土居城土居城は館城上土居城は山城資料(1)によると、土居城は鳥羽川の蛇行による自然堤防上にあったと推定され付近よりも少し高かったとされます。土居城図2昭和23年の空中写真国土地理院地図・空中写真閲覧サービスより土居城現在の地図に土居城推定地を落とし込む戦後まもなくの空中写真では、資料(1)で示された土居城推定地には住宅があるようですね。写真右側には南北に水路が流れ(現存)、そ...土居城と上土居城美濃鳥羽川を挟んだ二つの城の関連はあるのか

  • 飯盛山城 三河 その2 鎌倉期に足助氏によって築かれたが今はモミジの香嵐渓として有名

    飯盛山城は愛知県豊田市足助町にあります。今回はその2をお届けします。城址の位置、歴史、参考資料等はその1をご覧ください→こちら飯盛山城主な見学路はa・b→c、d、iその1ではa・b→c→eの見学路を登りⅠ郭に到達しましたが、その2では北西側のdから登りⅠ郭の北側の遺構を見学してiの道を下ります。飯盛山城見学路d途中にイノシシゲートがある北西斜面にはカタクリの群生地があり、春のカタクリとしても人気ですが、イノシシに荒らされないようにフェンスが設けられていました。飯盛山城見学路d途中の段々平場見学路dを登ると、途中に多数の階段状の平場がありました。資料によると戦争中に食糧増産のため、耕作地として造成された平場も多数あり、城郭遺構との区別は難しそうです。図2ではかなり省略しました。飯盛山城平場6南西から資料で遺...飯盛山城三河その2鎌倉期に足助氏によって築かれたが今はモミジの香嵐渓として有名

  • 飯盛山城 三河 その1 鎌倉期に足助氏によって築かれたが今はモミジの香嵐渓として有名

    飯盛山城は愛知県豊田市足助町にあります。初代足助氏は平安末期に足助の地に入り、足助氏を名乗り黍生城を築き、二代重秀が築城したのが飯盛山城とされ八代まで居城した伝わります。戦国時代になって鈴木氏が足助に入り足助鈴木氏として天正十八年の家康の関東移封まで続きました。今回の参考資料は(1)「足助の中世城館」足助町教育委員会2001(2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(3)現地案内板などです。※飯盛山城は、城郭遺構だけでなくその歴史も興味深いので2回に分けて掲載したいと思います。今回はその1です。飯盛山城足助七城と称される城塞群の中心にある足助氏は飯盛山城を中心として黍生城、臼木ヶ峰城、城山城、大観音城、真弓山(足助)城、成瀬城を築いて居館は飯盛山城の麓(現香積寺)に設けたとされてきました...飯盛山城三河その1鎌倉期に足助氏によって築かれたが今はモミジの香嵐渓として有名

  • 丸山能頭城 三河 乙川が削り残した急峻な地形の残存遺構は詰城だったか

    丸山能頭(まるやまのうとう)城は愛知県岡崎市丸山町能頭にあります。額田郡牢人一揆に登場する丸山中務入道の城とされますが、後には松平氏配下の成瀬伊賀守国次が居城したとされます。城址遺構は三河の大河矢作川の支流の乙川に削られた急峻な地形に残りますが、周囲の状況から想像すると居館とは別に築かれた、いわゆる詰めの城にあたる可能性がありそうに思いました。今回の参考資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(2)「岡崎市史第7巻」柴田顕正著出版岡崎市1929などです。丸山能頭城乙川がS字状に蛇行し削り残された突端にある乙川が土地を削り、岩盤に当って大きく蛇行する場所に城址はあり、川面から10m以上の高低差があります。付近には古墳が多数残り、古くから乙川沿いに人が集住していたとされます。丸山能頭...丸山能頭城三河乙川が削り残した急峻な地形の残存遺構は詰城だったか

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