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三河・大野田城 その1 菅沼定盈ゆかりの城郭を絵図と遺構の対比をしながら見学する
大野田城は愛知県新城市野田にあります。大野田城の歴史は古く建武の新政の(1333)頃に富永氏によって築城されたと伝わります。その後応永年間(1394~1427)頃に城所浄古斎の砦として利用されたとされます。大野田城の西700mには菅沼氏の野田城があり、今川氏との戦いで荒れた野田城修復のため菅沼定盈が大野田城を拡張・改修して一時利用したとされますが元亀二年(1571)武田軍の攻撃を受け火を放って自洛し南約8kmの西郷地区の五葉城に隣接する高城に退いたとされます。諸国古城之図や菅沼家譜所載の絵図を見ると、主郭以外にも興味深い複数の曲輪があり、屋敷地と思われる広い平場もあったとされますので、絵図を片手に出掛けて現地を見学し遺構の現況を見学しました。今回の資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ」愛知県教育委員会199...三河・大野田城その1菅沼定盈ゆかりの城郭を絵図と遺構の対比をしながら見学する
三河・大野田城 その2 城域中心部の興味深い遺構がよく残る城郭を見学する
大野田城は愛知県新城市野田にあります。その1では広島市立中央図書館所蔵浅野文庫「諸国古城之図」の「三河設楽浄古斎」を参照しながらⅠ郭の周辺部を見学しました。その2では遺構がよく残るⅠ郭(本城)を見学します。今回の参考資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ」愛知県教育委員会1997と(2)「菅沼家譜」新城市教育委員会(1970)です。その1も参照しながらご覧ください。大野田城菅沼家譜(延宝五年本)所載の絵図浄古斎城をトレースして重ね合わせるその1で紹介した「諸国古城之図」とは細部で違いがありますが、ほとんど同じ図になっています。大野田城の名称は、資料(2)によると延宝五年(1677)成立の菅沼家譜所載の絵図では浄古斎城と記されていますので、往時は「浄古斎城」と呼ばれていた可能性がありそうです。本城、二之丸、三之...三河・大野田城その2城域中心部の興味深い遺構がよく残る城郭を見学する