メインカテゴリーを選択しなおす
三河 五葉城 その4 諸国古城之図の「七曲坂大手口」と道を探す
五葉城は愛知県新城市富岡にあります。五葉城その1~3では堀切部、五葉城本丸、高城砦を見てきましたが、その4では「諸国古城之図」に書き込まれている「七曲坂大手口」と大手口の道を探してみたいと思います。今回の参考資料は五葉城その1~3と同様(1)「城」第149号東海古城研究会1993(2)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997と浅野文庫「諸国古城之図」「三河八名五葉」広島市立図書館所蔵の絵図です。※「諸国古城之図三河八名五葉」はその1でご覧ください。五葉城旧地図に載る七曲大手口の道候補の山道は3本ある絵図によると「七曲坂大手口」と書き込まれた道は図1の西に伸びる尾根(物見台)の方向でした。この方向の古い山道は旧地図上で見るとA、B、Cの3本が有りました。旧地図では豊川用水路、大原調整池(五葉湖)もま...三河五葉城その4諸国古城之図の「七曲坂大手口」と道を探す
三河 五葉城その3 高城砦とは一体の城郭遺構か?絵図を参照して確認する
五葉城は北側の本丸と南側の高城砦や堀切部を含めて一体の城郭とみる場合が多いようですが、資料によってその役割や成り立ちに異なる解釈があるようです。今回は五葉城その3として高城砦の見学をしたいと思います。参考資料は(1)「城」第149号東海古城研究会1993(2)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997と現地案内板と絵図「諸国古城之図三河八名五葉」です。高城は(1)によって高城(たかつき)砦と命名されましたが(2)では高城(たかしろ)(こうじょう)となっています。諸国古城之図「三河八名五葉」では高城とされ五葉より三十一間高いとなっています。※絵図「諸国古城之図三河八名五葉」は→こちら五葉城高城砦は中山峠方面からの侵入を防ぐ位置にある中山集落に存在した五本松城(館城か?)は、今川の勢力に東から中山峠を越...三河五葉城その3高城砦とは一体の城郭遺構か?絵図を参照して確認する
三河・五葉城 その2 諸国古城之図と資料を参照ながら興味深い遺構を見学する
五葉城は愛知県新城市富岡にあります。その1では、広島市中央図書館所蔵の浅野文庫「諸国古城之図三河八名五葉」やその他の資料を参照しながら「堀切部」と名付けられた遺構を見学しました。その2では、五葉城の本丸部分を見学したいと思います。五葉城の築かれた山塊の南側と西側は近年大規模な採石が行われ大きく削り取られて形を変え、山上の城域付近は林道の敷設が行われて一部の城郭遺構が失われていますが、絵図に描かれた「三河八名五葉」を参照すると、現地で往時の姿を想像することがかなり出来ることがわかりました。参考資料は(1)「城」第149号東海古城研究会1993(2)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997と現地案内板などです。※「諸国古城之図三河八名五葉」はその1でご覧ください。五葉城旧地図と起伏図の重ね合わせで往時...三河・五葉城その2諸国古城之図と資料を参照ながら興味深い遺構を見学する
三河・五葉城 その1 諸国古城之図を参照しながら興味深い堀切部を見学する
五葉城は愛知県新城市富岡にあります。付近には高城砦があり五葉城と一体の城郭だったともいわれます。城主や城歴については諸説があり明確ではないようですが、南側山下の中山を拠点とした西郷氏の詰城だった説が有力のようです。伝承によれば武田軍の攻勢で大野田城を退去した菅沼定盈が一時居城したとも伝わります。見学は浅野文庫「諸国古城之図」より「三河八名五葉」広島市立図書館所蔵の絵図を参照しながら行いました。参考資料は(1)「城」第149号東海古城研究会1993(2)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997などです。今回は、五葉城その1として五葉城と高城砦の中間のにある、資料(1)で「堀切部」とされている部分をとりあげたいと思います。※大野田城その1は→こちら、その2は→こちら五葉城浅野文庫「諸国古城之図」「三河...三河・五葉城その1諸国古城之図を参照しながら興味深い堀切部を見学する