江戸時代、日本橋室町の浮世小路に料亭「百川楼」がありました。(現在の福徳神社の社務所周辺)百川楼は明和ごろから明治元年にかけて営業をした料亭です。初めは卓袱(しっぽく)料理の店で、後に会席料理に転向。卓袱料理は、江戸時代に伝わった中国料理で、はじめ長崎に伝えられ、京都や大阪にも広がりましたが、江戸では流行が長続きしなかったそうです。安政元年(1854)、ペリー来日の際には、百川楼の料理人が横浜まで出向き、...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
田畑政治は明治31年(1898) 12月1日、清酒の東天やサイダーを販売していた浜名郡浜松町成子(現・浜松市成子町)の造り酒屋「八百庄酒店」の次男として生まれました。実家は、浜松有数の資産家で、当主は浜松商業会議所設立や銀行の事業にも関わっていましたが、後に、浜松初の本格フレンチレストラン「オーク」へ業態転換しました。「田畑家は造り酒屋を営む浜松有数の資産家であった。八百庄という屋号で清酒・味醂・白酒・焼酎を...
天守1階には、築城の様子を再現したジオラマが展示されています。重機のない時代、このように築城していたのですね。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...
竹の節欄間細かなところにも工夫が見られますね。雪隠の間藩主様は、トイレも特別だったのですね!鉄砲狭間と忍び返しここにも防御設備が見られます。本丸北面の壁にある忍び返しは、現存天守で唯一残されているものだそう。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...
藩主の御座所である上段の間上段ノ間は、他の部屋より床が一段高くなっており、格天井、違い棚、付書院、帳台構えが設けられています。上段の間の武者隠帳台構えは、警固の武者を控えさせたことから武者隠しと呼ばれています。このようなつくりになっています。山内容堂公の詩書「酒と詩を愛す」なんてカッコいいですね~☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!に...
では、お庭にも注目してみましょう。二ノ間の南側は庭になっています。外側から見た物見窓や狭間をここでは内側から見ることができます。物見窓狭間は小さく作られているため、監視範囲を大きくとった物見窓が設けられていました。石落とし内側から見た石落としです。外側からはこのように見えます。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参...
お茶をたてる座敷の御茶所二ノ間と三ノ間の間には、「うちわけ波の透かし彫り」が施された欄間が見られます。 室町中期に起こり、桃山時代に完成した武家住宅の建築様式。平安時代の寝殿造りが変化発展したもの。建物の内部を数室に分け、室内には畳を敷きつめ、明障子(あかりしょうじ)、襖(ふすま)などを用い、表座敷は上段の間とし、床、棚、付書院を備え、出入口として玄関を設ける。江戸時代を経て、現今の一般の日本住宅様式...
納戸蔵には、お駕篭や土佐藩船の船印として使われていた三つ柏の山内家の家紋などが展示されています。覆いがあるお駕籠は特別だったのですね。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...
「功名が辻」関連の展示もあります。仲間由紀恵さん着用の着物功名が辻原作は司馬遼太郎が1960年代初頭に執筆した同名小説[注 1]で、司馬作品の大河ドラマ化は6作目となる。主人公である千代とその夫・山内一豊は仲間由紀恵と上川隆也がそれぞれ演じた。「桶狭間の戦い」直前、風雲急を告げる尾張領内で一人の浪人が一人の少女を助ける。少女は両親を戦によって失い、浪人は岩倉織田氏の家老だった父を織田信長によって攻め滅ぼさ...
天守は、高さ18.5mの3層6階、屋根入母屋造り本瓦葺きの望楼型で、山内一豊によって1603年(慶長8年)に築城されましたが、城下町の大火で一度消失。その後、1749年(寛延2年)に再建されました。1871(明治4)年の廃藩置県後、全国各地で城郭破壊が行われました。高知城も1873(明治6)年本丸以外の二ノ丸、三ノ丸の塀や櫓を残して表御殿、奥御殿などの建物が撤去され、明治政府から公園とすることが許可されました。その際、天守...
現在の天守は創建当初のものではなく、1727(享保12)年の火災後の再建にかかるもので、棟木の銘文によって1747(延享4)年12月26日に棟上げされたことがわかっています。外観4重(内部3層6階)の望楼型天守で、最上階には廻縁高欄が付けられています。「咸臨閣」という別称を持ち国の重要文化財に指定されています。右側の建物が本丸御殿である懐徳館、左が天守です。懐徳館の入口で、入場料を払い、お城の中へ!にほんブログ村 ...
本丸に到着!本丸には天守・本丸御殿・納戸蔵・廊下門・東多聞・西多聞・黒鉄門などの建造物が残っています。いずれも国の重要文化財に指定されています。東多聞は武器庫として使用したといわれ、西多聞には本丸警護の武士が詰める番所が置かれていたといいます。西多聞は、廊下門の西端南に孤立して建ち、廊下門との間には一間の築地塀があります。内部は3室に区分され、各室の間仕切はないつくりとなっています。にほんブログ村 ...
黒鉄門(くろがねもん)は、本丸西に南面する入母屋造り、本瓦葺きの二階造の門で、国の重要文化財となっています。階下の柱、扉などの南面に筋鉄を入れ、外観上は漆喰塗の壁がみられず、すべて板張りで黒く仕上げているところから黒鉄門の名がある。黒鉄門の内側黒鉄門からの眺めにほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協...
本丸へと進んで行きます。鐘楼石落とし石落としは、敵からの攻撃を防ぐ為に、上って来る敵兵に石を投げ、湯を流したり、槍で突いたりできる仕掛けです。矢狭間塀丸、三角、長方形などの形があります。丸や三角が鉄砲、長方形が矢で攻撃する構造になっています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)...
二の丸には、藩主の居住空間である二ノ丸御殿がありました。また、北東には家具櫓や数奇屋櫓などがあり、調度や道具類を収納していました。西隅には三階建ての乾櫓があり、まるで小天守のようであったといわれています。※この卵型の照明は、ライトアップ用のものです。ライトアップされるとこのようになります。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログラン...
詰門は、本丸と二ノ丸をつなぐ役目を果たす櫓門で、門内に侵入した敵がまっすぐに通り抜けられないよう、一階部分は入口と出口の扉の位置が「筋違い」に設置されています。東側の入り口から入ると、本丸西側の梅ノ段に抜けるように作られており、本丸につながっていません。 また、一階は籠城用の塩を貯蔵する塩蔵になっていました。二階は二の丸と本丸を結ぶ廊下橋となっており、藩政時代には「橋廊下」と呼ばれていました。詰門...
平成12年の三の丸の石垣改修工事に伴う発掘調査で確認されたこの石垣は、長宗我部元親が岡豊城から天正16年(1588)大高坂山に移り築城したときのものと考えられています。しかし、水害などによって城下町形成が十分にできず、長宗我部は天正19年(1591)には土佐湾に面した浦戸城へ移転しました。慶長6年(1601)、山内一豊が土佐に入国し、高知城を築く際、長宗我部の大高坂山城の遺構を壊し、その上に盛土をして高知城を建てたのでは...
三ノ丸には、かつては三ノ丸御殿が建っており、年中行事や儀式を行う大書院・裏書院・藩主の控えの間である御居間などから構成されていました。創建当時、室内は絢爛豪華な障壁画によって装飾されていたといいます。水路遺構高知は雨の多い土地柄であり、高知城の排水には様々な工夫が見られます。この水路遺構は、三ノ丸に降った雨水を集めて2か所の石樋から排水することにより、石垣内部に泥水が入り目詰まりによるゆるみが生じ...
高知城の鉄門は、三ノ丸入り口付近の防衛上非常に重要な位置にあり、かつては二階建ての門でした。門扉に多数の鉄板を打ち付けてあったことから鉄門(くろがねもん)と呼ばれたそうです。門を囲む石垣は「打込みハギ」と呼ばれる手法により堅固な石垣が築かれ、石垣の上から攻撃できるようになっています。門内は小枡形になっており、詰門へと続いています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお...
家康公祭り・家康楽市 2019の楽しい一時はあっという間に過ぎていき、いよいよフィナーレの時間になりました。閉会式では、この日の参加者が勢揃い。各武将隊の皆さん司会の高橋茉奈さん。そして、今年も大活躍をしてくれた新井美羽ちゃん&琉月ちゃん!最後にお餅投げが予定されていたのですが、途中で雨が降ってきたため、急遽「お餅配り」に変更となりました。出演者からの手渡しという粋な計らいに感謝.゚+.(・∀・)゚+.美羽ちゃん...
恒例の「城おとし合戦」の始まりはじまり~!!会場に集まったちびっ子たちが武田軍と家康軍に分かれ、先にお城を落城させた方が勝ちとなります。今年は、美羽ちゃんが家康軍、琉月ちゃんが武田軍に参加。二人とも陣羽織を着用してやる気満々!直虎殿の掛け声で合戦スタート!琉月ちゃんは、ちょっと緊張気味かな?ボールを持った子ども達。一斉にお城めがけてボールを投げつけます。さ~先に堕ちるのはどっちだ?爆発音にビビり気...
家康公祭り二日目の戦国太鼓 龍牙迅風の演舞より龍牙迅風は、和太鼓、剣舞、舞を融合させた和のエンターテインメントチームです。酒井忠次殿の迫力満点の太鼓松下清景殿のしなやかな舞二人の掛け合いがお見事です!ぜひ動画でご覧ください!家康公祭り2019 龍牙迅風の演舞(1)https://youtu.be/QsSMiN8wN5s家康公祭り2019 龍牙迅風の演舞(2)https://youtu.be/tilXLGfwBxIにほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援...
家康公祭り・家康楽市 2019 遠州綿紬を着た新井美羽ちゃん「竜宮小僧のうた」
新井美羽ちゃんと琉月ちゃんが、本丸ステージに登場!司会は、秋元実行委員長です。家康公祭り2019 新井美羽&琉月ちゃん 本丸ステージhttps://youtu.be/FC0-ooD23VY楽しいトークの後は、美羽ちゃんが「竜宮小僧のうた」を披露してくれました♪家康公祭り2019 新井美羽ちゃん「竜宮小僧のうた」https://youtu.be/RE9MjLPvqCQ懐かしい直虎の名場面が浮かんできますね。この後、浜松商工会議所のブースにて、竜宮小僧の名刺を美羽ちゃ...
家康公祭り・家康楽市 2019 浜松徳川武将隊「三方ヶ原の戦い」と夏目次郎左衛門吉信の碑
家康公祭り二日目の午後の浜松徳川武将隊のステージでは、「三方ヶ原の戦い」より家康の敗走が演じられました。家康公を誰が演じるのかと思ったら・・・井伊直虎殿でした!金髪ウィッグをつけて颯爽と登場!徳川家康役の直虎殿武田軍によって徳川軍の各隊が次々に壊滅していく中、家康自身も追い詰められ、夏目次郎左衛門吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰りました。家康公をお守りするのは、松...
家康公祭り・家康楽市 2019 6月2日の部 新井美羽ちゃんが語る「竜宮小僧」
さて、家康公祭りスペシャル実行委員長の新井美羽ちゃんが、高橋茉奈アナの司会の家康楽市パワーフードパークステージに登場!美羽ちゃんの直筆サイン色紙を賭けたじゃんけん大会が催されました。妹の琉月ちゃんもじゃんけんに参加してくれました。美羽ちゃんは、どうもパーを出す癖があるようですね(^^ゞ私も参加してみましたが、途中であいこになって敗退(;_;)(あいこは負けというルールだったので)午後からのステージは、竜宮小...
家康公祭り二日目のオープニングに続き、戦国太鼓”龍牙迅風”が登場!龍牙迅風は、和太鼓、剣舞、舞を融合させた和のエンターテインメントチームです。一方、高橋茉奈さん司会のパワーフードパークステージに、大久保結奈アナとうなもが登場!うなもに関するクイズが出題されました。続いて浜松徳川武将隊の午前のステージです。松下おりん殿松下常慶殿松下清景殿井伊直虎殿榊原康政殿井伊直政殿本多忠勝殿酒井忠次殿この日は、直虎...
家康公祭り・家康楽市 2019 6月2日の部 新井美羽ちゃん登場!
秋元健一家康楽市実行委員長の司会で、家康公祭り・家康楽市二日目のスタートです!武将隊の入場です。浜松徳川武将隊岐阜城盛り上げ隊 斉藤義龍 明智光秀 帰蝶光秀様といえば、来年の大河ドラマの主人公ですね。奇しくも6月2日は、本能寺の変が起こった日。何か一波乱ありそうな・・・(^^ゞこの方は、帰蝶様です!(確認のため(;´∀`)グレート家康公「葵」武将隊 稲姫 徳川家康 井伊直政稲姫様が、浜松徳川武将隊の本多忠勝...
6月1日と2日、浜松城公園で、「出世の街浜松 家康公祭り」が盛大に開催されました。浜松城は、徳川家康公が、青年期を17年を過ごし、その後も多くの城主が幕府の要職に就いたことから出世城と呼ばれるようになりました。家康公祭りは、浜松城を舞台に、浜松の魅力を発信するイベントです。今回も昨年に引き続き、浜松市文化顧問で歴史家の磯田道史先生によるトークショーや、武将隊によるパフォーマンスが披露されました! また...
高知城の三ノ丸石垣三ノ丸石垣三ノ丸は、慶長6年の築城開始から10年を要して最後に完成した。面積は4,641㎡、出隅部分の石垣の高さは約13m。石垣に使用されている石柱は主にチャートであるが、砂岩、石灰岩も一部使用されており、穴太衆が安土城の石垣で始めたとされる自然石の形を活かした野面積みで多くの面が構築されている。また、三の丸には1,815㎡の壮大な御殿が建築されていた。三ノ丸の入口にあたる鉄門付近の石垣は、鉄...
杉の段にある楠正興尚徳の碑1829-1887 幕末-明治時代の医師。文政12年9月23日生まれ。漢方医学をおさめたのち,大坂で緒方研堂らに西洋医学をまなぶ。高知藩主山内豊信(やまうち-とよしげ)の侍医をつとめ,維新後は高知で開業した。明治20年5月1日死去。59歳。土佐(高知県)出身。通称は権蔵。別姓に町。 (コトバンクより)医師・楠正興。先祖はその昔芸郡に下った楠正成の曾孫正盛を祖とし、町氏と称して長岡郡久礼田村 ( 南国市 ...
杉の段にある愛妻之碑 あきかぜの福井の里にいもをおきて 安芸の大山越えがてぬかも鹿持雅澄先生山斉集よりこれは土佐出身の国学者・鹿持雅澄が、藩命で室戸市羽根に向かう途中、大山岬で妻・菊子に想いを馳せた歌なのだそうです。鹿持雅澄 (かもちまさずみ)高知市生まれ。国学者・歌人。土佐で歌作に勤しむとともに『万葉集』を軸に古代文化の究明に生涯を捧げた。没後、明治天皇のご下賜金で『万葉集古義』を発行。彼の皇朝学...
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江戸時代、日本橋室町の浮世小路に料亭「百川楼」がありました。(現在の福徳神社の社務所周辺)百川楼は明和ごろから明治元年にかけて営業をした料亭です。初めは卓袱(しっぽく)料理の店で、後に会席料理に転向。卓袱料理は、江戸時代に伝わった中国料理で、はじめ長崎に伝えられ、京都や大阪にも広がりましたが、江戸では流行が長続きしなかったそうです。安政元年(1854)、ペリー来日の際には、百川楼の料理人が横浜まで出向き、...
東京メトロ銀座線・半蔵門線の三越前駅より徒歩1分、中央区日本橋室町にある福徳神社(福徳稲荷)貞観年間(859年~876年)には既に鎮座していたとされています。日本橋室町二丁目付近は、昔は武蔵国豊島郡福徳村という農漁家の点在する片田舎で、その村名から「福徳稲荷」と呼ばれました。村人は神社の森を「稲荷の森」、里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいましたが、明暦3年(1657)正月8日の大地震により、...
中央区日本橋大伝馬町「べらぼう」で、片岡愛之助さんが演じる鱗形屋孫兵衛は、江戸時代、通旅籠町と呼ばれたこの地に地本問屋を構えていました。浄瑠璃本、草双紙、吉原細見、宝船などでを手掛け、安永4年(1775年)に恋川春町『金々先生栄花夢』を刊行して黄表紙をヒットさせました。日本橋堀留町に鎮座する池州稲荷神社は、かつて鱗形屋を同じ通旅籠町にあったったといわれています。創建年代などは不祥ですが、池州屋敷の池沼...
人だけでなく、軍用犬・軍馬慰霊碑や「猫塚」「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」(三味線の革の供養)など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数。著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉などの墓があります。山東京伝の墓鼠小僧次郎吉の墓猫塚1793年(寛政5年)、老中・松平定信の命によって造立された「水子塚」は、水子供養の発祥とさ...
明暦大火の供養塔明暦の大火振袖(ふりそで)火事,丸山火事とも。1657年(明暦3年)江戸本郷丸山町から出火し,江戸城本丸をはじめ江戸市中を焼き尽くした火事。死者10万人以上といわれ,江戸城も西丸を残して焼失。幕府は復興に際し御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転,寺社の外辺部への移転などを進め,町屋も道幅を広げ,広小路や火除地を設定,家屋の規模を定めるなどの措置をとった。(コトバンクより)明暦三年(1657...
墨田区両国二丁目にある回向院は、振袖火事と呼ばれる明暦3年(1657)に起きた明暦の大火の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まりで、のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬されました。明和5年(1768)以降には、境内で勧進相撲が興行され、これが今日の大相撲の起源となり、明治42年(1909)旧両国国技館が建てられました。回向院明暦三年(1657)、江戸史...
今夜の「べらぼう」で、ついに蔦重が日本橋に進出することに🙌今まで敵対してきた鶴屋もようやく蔦重の才覚を認め、通油町が吉原ものを歓迎するというお話でした。中央区日本橋大伝馬町に、蔦屋重三郎「耕書堂」跡の案内版があります。日本橋の通油町(とおりあぶらちょう)は、古くから重三郎と付き合いのあった版元の鱗形屋孫兵衛だけでなく、鶴屋喜右衛門、西村屋与八など錦絵創始の老舗版元が多数店を構える江戸の出版界の中心...
大伝馬本町本通りは、かつての日光・奥州街道です。江戸時代、五街道の起点・日本橋は交通の要所で、大伝馬町本通には、「越後屋」や「白木屋」などの店が軒を連ねていました。日本橋から延びる日光東照宮への参詣道「日光街道」も人や物が行き交い、日本橋の町は大変賑わいました。徳川家康公江戸開府に際し、御傳馬役支配であった馬込勘解由が名主としてこの地に住し以後大傳馬町と称された(碑文より)江戸名所図絵や広重の錦絵に...
神田駅から歩いて4~5分のところにある旧今川中学校のグラウンド前に「平賀源内居住跡」の案内板があります。平賀源内は、讃岐から上京してから転居を繰り返し、神田白壁町(現・鍛冶町)や神田大和町、神田橋本町などに住んでいたといいます。(千代田区観光協会リーフレットより)今年に入り、「べらぼう」が始まってから設置されたようです。平賀源内(享保13年(1728)~安永8年(1779))は、エレキテル(摩擦静電気発生装置) の...
合祀殿籠祖神社(猿田彦神、塩土老翁神)をはじめ、神田明神本殿に合祀されていた八幡神社(誉田別命)や富士神社(木花咲耶姫命)、天神社(菅原道真命、柿本人麻呂命)、大鳥神社(日本武尊)、天祖神社(天照大御神)、諏訪神社(建御名方神)を合祀。籠祖講関係石造物群千代田区指定有形文化財2005年(平成17年)4月1日指定籠祖(かごそ)神社は、塩土翁神と猿田彦大神祭神が祭神で、社伝によれば1798年(寛政10年)に神田神社...
神田明神は何度か参拝してますが、今まで見逃していたのが、浮世絵師 水野年方顕彰碑です。水野年方(みずのとしかた)日本画家。通称は粂次郎。初め月岡芳年に歌川派の錦絵,山田柳塘に陶画,柴田芳州に南画を学び,のち三島蕉窓,渡辺省亭に師事して人物画,草木画,風景画を得意とした。1887年頃から『やまと新聞』に挿絵を描き,また日本美術協会,日本美術院,日本画会に作品を発表するかたわら,評議員や審査員を務め,浮世絵...
鳳輦神輿奉安殿神田祭において、一の宮・大己貴命がお乗りになる一の宮鳳輦、二の宮・少彦名命がお乗りになる二の宮神輿、神田明神大神輿を奉安する。神田祭の時にこの場所で「鳳輦神輿遷座祭」を執り行う。(神田明神HPより)三の宮奉安庫 (鳳輦庫)三の宮・平将門命(たいらのまさかどのみこと)、平将門様のお乗りになる神輿が奉安されています。三宿稲荷神社・金刀比羅神社三宿稲荷神社 江戸時代より神田三河町の氏神として奉斎...
続いて神田明神の摂末社の紹介です。魚河岸水神社 日本橋魚河岸の守護神として創建され、元和年間に神田明神境内に遷座しました。魚河岸水神社 御祭神 弥都波能売命祭礼日 五月五日 日本橋魚河岸水神社は、徳川家の武運長久と併せて大漁安全を祈願する為、魚河岸の先人により武蔵国豊嶋郡柴崎村神田神社境内(今の千代田区大手町)に鎮座された。 元和年間(1615~)神田神社と共に此の地に遷り、大市場交易神と称されその後、水...
神田明神の境内を紹介します。御社殿昭和9年に竣功。権現造。当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の社殿。本殿・幣殿・拝殿さらに神饌所・宝庫が重なり合うように造られて昭和初期の神社建築では新しい形式をもつ。現の社殿の前は、天明2年に江戸幕府によって造営された。木造で権現造・総朱漆塗。江戸時代後期の神社建築を代表する社殿であったと言われている。社殿内には江戸幕府造営を象徴する徳川将軍家の葵...
神田明神(かんだみょうじん)は、千代田区外神田二丁目にある神社で正式名称は神田神社大鳥居をくぐるとすぐに随神門があります。随神門昭和天皇御即位50年の記念事業として昭和50年に新たに再建されました。総檜・入母屋造。二層建て・屋根は銅板瓦棒葺。外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因幡の白兎」など、だいこく様の神話をモチーフにした彫刻が、二層目には、平将門に由来する金箔をほどこした「繋馬」の彫刻が...
滝沢馬琴住居跡から神田明神に向かう際、急な階段が立ちはだかりました。この石段は「明神男坂」と呼ばれ、『江戸名所図会』にも登場します。『江戸名所図会』にも登場するこの坂は、江戸時代には「明神石坂」、「石坂」、「明神東阪」などと呼ばれていました。高台で見晴らしが良かったため、風光明媚な場所として錦絵にも描かれています。幕府が1825年から1828年(文政8年~11年)の間に町名主に提出させた、町の情報をまとめた...
外神田三丁目の芳林公園の前に滝沢馬琴住居跡の案内板があります。滝沢馬琴は、『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』、『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』などを著わした江戸時代の戯作者(げさくしゃ)です。旗本松平信成の家臣の子として生まれた馬琴は、元飯田町中坂下(現在の九段北一丁目)の下駄屋会田家の養子となりますが、家業を人に任せ、戯作者としての道を歩み始めます。1824年(文政7年)には、外...
土日祝日は、湯島聖堂の大成殿の内部が公開されています。ちょうどこの日は土曜日でしたので、内部を見学してきました。大成殿(たいせいでん)湯島聖堂の中心的な建造物で、孔子を祀るための殿堂。間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートル、入母屋造り。大成とは、孔子廟の正殿の名称。宋(北宋)の仁宗のとき命名。「孟子」万章下「孔子聖之時者也、孔子之謂集大成、集大成也者、金聲玉振之也。」に基づく。殿内、中央...
透塀入徳門木造、平家建。切妻造り。延面積14.16m2宝永元年(1704)建造。入徳とは、朱熹の「大学章句序」「子程子曰、大学、孔子之遺書而初学入徳之門也。」による。聖堂内、唯一の木造建造物。水屋水屋の脇に紫陽花が咲いていたのでパチリ📷紫陽花越しに入徳門を見下ろすと杏壇門(きょうだんもん)間口20メートル、奥行4.7メートル、入母屋造り。杏壇とは、山東省曲阜にある孔子の教授堂の遺址のこと。宋の乾興のとき、大殿(大成...
御茶ノ水ソラシティから聖橋を渡ります。湯島聖堂を目指して歩いていると、右手に練塀が見えてきました。湯島聖堂は、1690年、上野忍岡の林羅山邸内にあった孔子廟を五代将軍・徳川綱吉がこの地へ移したのがはじまりです。綱吉は先聖殿を「大成殿」と改称し、それに付属する建物を含めて「聖堂」と総称し、建物全体を朱塗りにして青緑に彩色したと記録に残されているそうです。1797年には、西隣に幕府直轄の昌平坂学問所が開設され...
法金剛院は、京都市右京区花園にある律宗の寺院で、開基は待賢門院とされています。ここは平安時代初期の右大臣・清原夏野の山荘を平安末期に待賢門院(鳥羽上皇の中宮、後白河天皇の母)が再興した律宗のお寺です。清原夏野(きよはら の なつの)は、平安時代初期の皇族・公卿。舎人親王の孫である内膳正・小倉王の五男。官位は従二位・右大臣、贈正二位。清原夏野『前賢故実』延暦23年(804年)同じ内舎人の官職にあった親族の...
下京区夕顔町に夕顔之墳があります。ここは、『源氏物語』第4帖「夕顔」に登場する夕顔の屋敷があった場所とされ、住宅地の一角に立つ石碑には「源語傳説 五條邊 夕顔之墳」と刻まれています。昭和4年に京都史蹟会によって建てられたそうです。夕顔は物語の中の架空の人物ではありますが、当地の地名も夕顔町となっています。「源氏夕顔巻」(月岡芳年『月百姿』)光源氏が夕顔の屋敷に泊まると、深夜に夢に嫉妬したもののけ(六条...
北野天満宮の帰りに大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)を参拝しました。大将軍八神社は、桓武天皇が、王城鎮護のために星神大将軍を勧請したといわれる社で、方違え(方除け厄除けの神)として、建築・移動・転宅・婚姻・旅行・交通等あらゆる人間生活に於いて方位の厄災から守護する神として信仰されました。方違えとは、陰陽道に基づいて平安時代以降に行われていた風習のひとつで、外出や造作、宮中の政、戦の開始などの...
元三大師堂本尊は元三大師(良源)。他に毘沙門天像、薬師如来像、不動明王像などを安置。毘沙門天は京都七福神の一つ。鐘楼手水社廬山寺(ろざんじ)(廬山天台講寺[ろざんてんだいこうじ])沿革天慶年中、元三大師良源によって草創される。良源は康保3年(966)55歳で第18世天台座主となり、内供奉に補せられて以降、比叡山から宮中に参内するにあたり、現船岡山の麓、現蘆山寺通北に輿願金剛院を建立し、寛和元年(985)正月3...
京都市上京区北之辺町の廬山寺は、紫式部の邸宅跡として知られています。山門南門(薬医門)遡れば、紫式部の曽祖父である藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅があり、藤原為時に譲り、紫式部はこの邸で生まれ育ち、『源氏物語』を執筆したとされています。廬山寺(ろざんじ)現在の廬山寺は豊臣秀吉の時代にこの地に移されたもので、ただしくは廬山天台講寺という。もとは天慶元年(938)に慈恵大師良源(じけいだいし りょうげん)...
藤原宣孝 は、正暦元年(990)、御嶽詣を行い、その年筑前守となりました。紫式部との結婚は998年(長徳4)の末か長保元年(999)のはじめといわれいます。紫式部の父の為時と為輔はいとこであり、宣孝と式部はまたいとこの関係にありました。998年には、石清水臨時祭、賀茂臨時祭の舞人を奉仕、同年山城守を兼任。11月末には豊前国宇佐神宮の奉幣使に任ぜられ、翌年帰京。この年4月平野臨時祭の勅使となり、7月相撲召合にも武官として...
合格門をくぐり、階段を上がっていくと、安倍晴明をお祀りする晴明堂に行き着きます。 晴明堂は、平安時代の陰陽師・安倍晴明をお祀りしています。 当山は安倍一族の寺として古来より安倍晴明信仰の聖地の一つとして数えられています。平成十六年(2004)、安倍晴明千回忌を迎えるにあたり二百年振りに晴明堂が再建されました。 正面にある「如意宝珠」は、いかなる願望も意のままに成就し、また悪を払い、災難を防ぐ功徳がある...
石仏石仏群は、江戸時代、境内地に四国八十八所・西国三十三所の本尊仏として祀られていた石仏を一同に安置したものです。その前には弘法大師像と御砂踏み石がお祀りされており、「御砂踏み石」の中には四国八十八所の御砂が奉納されています。(案内板より)白山堂 白山堂は、室町時代に建立されました。流造屋根柿葺(こけらぶき)で美しい曲線の唐破風をもった社殿です。 国の重要文化財にも指定されています。 御祭神は全国の白...
続いて、十一面観音をお参りしました。十一面観音 十一面観音は、苦しんでいる人をすぐに見つけるため、頭上に十一のお顔があり常に全方向を見守っています。 奈良時代から多く信仰され、延命、病気治癒などを願って各地でお祀りされるようになりました。 古来より当山に伝えられる十一面観音は昭和五十七年(1982)に、この場所に勧請し建立されました。また十一面観音の周りの側壁には四千五百体の奉納仏がお祀りされています...
安倍文殊院の稲荷社は、安倍晴明出生の地として、晴明の母とされる白狐・信太森葛葉稲荷が祀られています。江戸時代までは、境内の西古墳の頂上に稲荷社があったそうですが、現在は晴明が祀られている金閣浮御堂が見える場所に移されています。五穀豊穣・金運財運・商売繁盛・家運隆昌等の御利益が厚いことで信仰されています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴...
続いて金閣浮御堂へ。金閣浮御堂金閣浮御堂・霊宝館は開運弁財天(大和七福神)、安倍仲麻呂、安倍晴明の御尊像、安倍晴明の御尊軸、方位災難除けの九曜星など、陰陽道に関する宝物をお祀りしている御堂で内陣参拝できます。堂内の壁面には、秘仏の十二天御尊軸(四方(東・西・南・北)と、四隅(東北・東南・西北・西南)の八方、天と地、日と月、すべての方角を司る守護神)がお祀りされています。この御堂は「七まいり」という魔...
奈良県桜井市阿部にある安倍文殊院は西暦645年に創建された寺院で、京都・天橋立の切戸文殊、山形の亀岡文殊と共に日本三文殊のひとつです。表山門大化の改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂が大化元年(645年)に孝徳天皇の勅願もあって安倍氏の氏寺として安倍山崇敬寺(安倍寺)を建立したのが始まりである。創建当時の寺地は現在の文殊院の西南300メートルほどのところにあったが、平安時代末期に多武峰の妙楽寺(現、...
大津市歴史博物館では、令和6年(2024年)1月から、特集展示「源氏物語と大津」を約1年間にわたって開催されています。私は3月末に見て来ました。エントランスロビーの無料エリアでは、石山寺本堂の「源氏之間」が再現されており、中に入って写真撮影ができるフォトスポットになっています。「源氏之間」再現コーナーこの横には、紫式部になりきれるフォトスポットもあります。デジタル絵巻54帖各巻のあらすじや関係図が楽しめます。...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。平成橋『紫式部日記絵巻』「御産養の夜、中宮(彰子)の前に対座し静かに御簾をあげる紫式部」「御産養の盛儀を覗き見て感激する夜居の僧」蛭子橋『源氏物語絵巻』「柏木(一)女三宮を見舞う朱雀院」「柏木(二)病に伏す柏...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。千代鶴橋『紫式部日記絵巻』「新造の竜頭鷁首の舟を下見する道長」この 国安橋の向こうには、千代鶴神社があります。昭和7年(1932年)に建てられた神社で、越前打ち刃物の祖「千代鶴国安」をお祀りしています。千代鶴国安は良...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。鈴虫橋『紫式部日記絵巻』道長から賀の歌を求められる紫式部御五十日の祝いの宵、若宮に餅を供する道長岩永橋『紫式部日記絵巻』「御五十日祝いに若宮を抱く中宮と祝膳を供する女房」「渡殿にある紫式部の局に立ち寄る斉信と...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる紫きぶ七橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。河濯橋『紫式部日記絵巻』「渡殿の紫式部の局の戸をたたく藤原道長」「中宮・彰子に新楽府を進講する紫式部」城ヶ堀橋『紫式部日記絵巻』「女房たちと語りながら歳末の夜を過ごす紫式部」「風の涼しい夕暮れ、琴を弾いて憂...
武生中央公園内にあるしきぶきぶんミュージアムには、「光る君へ 越前 大河ドラマ館」や、紫式部が暮らした越前の文化や歴史を紹介する歴史展示、お土産やグッズを販売する「光る越前SHOP」があります。エントランスでは、まひろ(紫式部)役の吉高由里子さんのウェルカムメッセージのVTRが流れています。等身大パネルと一緒に記念撮影ができるスポット「衣装や小道具の展示コーナー」藤原為時紫式部(まひろ)為時が太郎に読み聞かせ...
紫式部公園に隣接した「紫ゆかりの館」は、紫式部が越前国の国司に任命された父・藤原為時とともに、武生で青春時代を過ごしたことから2021年4月23日にオープンした資料館です。 出逢いの庭紫式部の間紫式部が越前国府で過ごした青春の日々を表した展示・体験空間紫式部が越前国を訪れ、その後「源氏物語」を執筆するまでのストーリーを、絵巻物風の映像で紹介しています。また、姫君のタイプを診断できる性格診断のゲームもありま...
園内には、十二単をまとった金色の紫式部の像があります。顔は日野山、からだは京を向いているのは、日野山を見ながら京の小塩山を懐かしむ式部の心情を表しているのでしょう。像の背後のレリーフ紫式部の歌碑園内を一周すると、平安時代にタイムスリップしたかのような感覚に陥ります。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています...