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大河ドラマに恋して http://shizuka0329.blog98.fc2.com/

大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り

しずか
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2013/09/04

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  • 土佐の旅(61)高知城 杉ノ段

    山内一豊の妻の像や愛妻の碑などがある辺りは、かつては杉の巨木がたくさんあったことから杉ノ段と呼ばれています。「井戸ノ段」とも呼ばれ、将軍家から下賜された「御鷹之鶴」を迎える際には藩主自らこの井戸段に出向いたといいます。また、藩主のお国入りや出駕の際には、ここに一族が出迎えや見送りに出向いてきました。また、「長崎蔵」や「塗師部屋」などの建物がありました。城内には14の井戸があり、その中でこの杉ノ段から...

  • 土佐の旅(60)高知城 柏の葉と山内家の家紋

    高知城に柏の木があります。山内一豊の父・山内盛豊が、丹波の戦いの際、差物の代わりに、柏の枝を差して力戦し、勝利を得た後、3枚の柏の葉が残っていたことから勝利の吉例として、3枚の柏葉を組み合わせた三つ葉柏を家紋としたといいます。柏の葉は、縁起がいいとというのは、新芽が育つまで古い葉が落ちないことから、子孫繁栄といわれ、古くから庭に植えられてきました。葉には芳香があり、代が途切れない」縁起物とされ、柏餅...

  • 土佐の旅(59)高知城 山内一豊の妻・千代の像

    高知城の追手門からの石段を上がったところは、かつては老杉が生い茂っていたことから、「杉の段」とう名が残されており、現在は花壇公園になっています。そこに立っている山内一豊の妻・千代の像です。千代の嫁入りの持参金またはへそくりで夫・一豊の欲しがった名馬(鏡栗毛)をという有名な逸話がモチーフとなっています。 山内千代(見性院)没年:元和3.12.4(1617.12.31)生年:弘治3(1557)安土桃山時代の武家の女性。山内一豊...

  • 土佐の旅(58)高知城 石樋

    高知城の石垣には、石樋(いしどい)という城内の水を外に流すための排水設備が設けられています。石樋(いしどい)高知県は全国でも有数の多雨地帯のため、高知城も特に排水には注意が払われている。石樋は排水が直接石垣に当たらないように石垣の上部から突き出して造られており、その下には水受けの敷石をして地面を保護している。このような設備は雨の多い土佐ならではの独特の設備で、他の城郭では見ることのできない珍しいも...

  • 土佐の旅(57)高知城 板垣退助の銅像

    高知城の追手門をくぐると、石段の右側に板垣退助の銅像があります。板垣は、自由民権運動の父とされ、特に「板垣死すとも自由は死せず」の名言は明治時代の一大流行語になりました。この銅像は昭和31年(1956)5月11日に再建除幕されたもので、題字は当時の内閣総理大臣吉田茂の書。板垣退助 1837-1919 幕末-明治時代の政治家。天保(てんぽう)8年4月17日生まれ。土佐高知藩士。戊辰(ぼしん)戦争で総督府参謀をつとめ,明治4年新政...

  • 土佐の旅(56)高知城 追手門(大手門)

    高知城の表門(大手)にあたる追手門(おうてもん)は、石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で、高知城にある15棟の国の重要文化財のひとつとなっています。門前は、門と矢狭間塀で囲まれた枡形状になっており、敵を3方から攻撃できるようになっています。ここから追手門と天守閣のツーショットが撮れます。天守閣と大手門(追手門)が揃って現存するのは、高知城、弘前城、丸亀城の3ヶ所のみなのだそう。にほんブログ村 歴史ブログランキ...

  • 土佐の旅(55)高知城 野中兼山邸跡

    高知城の大手門前に、野中兼山邸跡の碑があります。堀を挟んで右手に山内一豊の騎馬像が見えます。この堀は、野中兼山の屋敷が近くにあったことにちなんで、「兼山堀」と呼ばれており、スイレンの花が綺麗に咲くことでも知られているそうです。野中兼山没年:寛文3.12.15(1664.1.13)生年:元和1(1615)江戸時代前期の土佐藩士,政治家,儒者。通称は伝右衛門,主計,伯耆,字は良継,兼山は号。父野中良明と母万の間に姫路で出生と伝える...

  • 土佐の旅(54)高知城 山内一豊像

    高知滞在二日目に高知城を訪ねました。追手門から入城すると、高知県立図書館前に建っているのが、土佐藩初代藩主・山内一豊の騎馬像です。銅像の本体は、高さ4.32m、重さ3.6トン、台座5.08m、総高9.4m。桂浜にある坂本龍馬の銅像などを製作した本山白雲のよるもので、1996年(平成8年)9月20日に再建除幕されました。没年:慶長10.9.20(1605.11.1)生年:天文15(1546)安土桃山・江戸前期の武将。姓は「やまのうち」ともいう。尾...

  • 土佐の旅(53)土佐の居酒屋 一本釣り

    高知滞在二日目の夜は、土佐の居酒屋 一本釣りへ行きました。高知の活き鮮魚を毎日、土佐沖の漁港(室戸、久礼)から直送しているそうで、カツオのタタキをはじめ、清水サバ、鯨、ウツボ、土佐ジローなど高知の素材を使った土佐料理が楽しめます。かつお塩タタキ注文してから焼いてくれるので、表面はアツアツでパリパリなタタキをいただけます。タタキのポン酢味と土佐の地酒「久礼」純米酒ネギ、ニンニクとともにいただきます。...

  • 土佐の旅(52)高知よさこい情報交流館

    『高知よさこい情報交流館』は、昭和29年に生まれた高知の「よさこい祭り」の歴史や魅力を紹介する施設です。歴史と知識の「よさこいサークル」進化と体験の「よさこいスクエア」で構成されています。「よさこいシアター」では、よさこいの歴史が、150インチの大型スクリーンで上映されています。また、よさこい体感コーナーでは、鳴子を持って、よさこい体験もできます。よさこい祭りになくてはならない「衣装」「踊り」「音楽」...

  • 土佐の旅(51)大川筋武家屋敷(旧手嶋家住宅)(2)

    この部屋には、主に茶会で利用され、部屋の中ほどに炉を切っています。 主屋の二つの座敷は、貸室として活用できるようになっているそうです。内部には、武士が日常生活に使った家具や調度品を再現しています。長屋の屋根、瓦の葺き方に、台風に備えた工夫が見られます。台所井戸私が訪ねた時、他に見学者がいなかったので、ボランティアガイドさんにとても丁寧に説明していただきました。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参...

  • 土佐の旅(50)大川筋武家屋敷(旧手嶋家住宅)(1)

    大川筋武家屋敷(旧手嶋家住宅)は、城下で当時の武家の建築様式を残している唯一の建造物で、平成8年に高知市有形文化財に指定し復元され、11月に武家屋敷資料館として開館しました。見事なソテツ書院造りの主屋と長屋門を忠実に復元されています。手嶋家は掛川から山内一豊に従って入国し、山内家に御馬廻役として仕えました。その知行は250石で、禄高からみると上士の中では中級程度の武士であったようです。絵図によると、1746...

  • 土佐の旅(49)小南五郎右衛門誕生之地

    高知市大川筋2丁目にある小南五郎右衛門誕生の地の碑。大川筋武家屋敷資料館を訪ねた際、見つけました。実際の誕生地は、この碑のある大川筋武家屋敷資料館と道を挟んで反対側だそうです。小南五郎右衛門土佐国土佐藩下土佐郡大川筋(現高知県高知市大川筋2丁目)に生まれる。 大目付をつとめ、1853年に山内容堂より側用役として抜擢される。 安政の大獄時には、井伊直弼の容堂に対する追及をかわす為に、小南などの重臣が身代わり...

  • 土佐の旅(48)薫的神社

    高知市洞ヶ島町に鎮座する薫的神社「くんてき」というお名前は、ご祭神でもある薫的和尚に由来したものです。薫的没年:寛文11(1671)生年:寛永2(1625)江戸初期の曹洞宗の僧。土佐国幡多郡中村(高知県中村市)の人。俗名は康松又衛門。長じてから仏門に入り,予岳寺(土佐山田町)で修行,のちに瑞応寺(高知市)の住職となる。寛文4(1664)年,逝去した土佐2代藩主山内忠義に菩提寺真如寺了谷が付した戒名を不穏当とし,また法会の席次が真...

  • 土佐の旅(47)安楽寺

    洞ヶ島町にある安楽寺。立派な仁王門に惹かれて境内を散策してみました。鐘楼門になっているのですね。山号は妙色山(みょうしきざん)。 本尊は阿弥陀如来。 本堂伝承によれば、延喜年間(901年-923年)、菅原道真の長子である菅原高視が配流先の土佐国潮江で菅原道真逝去の知らせを受け、筑紫にある道真の菩提寺の安楽寺にちなんで、当地に安楽寺と潮江天満宮とを建立したという。寺は当初の潮江から升形を経て久万に移転した(...

  • 土佐の旅(46)吉田東洋殉難の地

    はりまや橋から徒歩約5分、追手前小学校東側に、吉田東洋殉難の地の碑があります。幕末の土佐藩士。1853年藩政改革に際して藩主山内豊信(容堂)に起用されて手腕を発揮する一方,江戸で藤田東湖らと交わる。剛腹が災いし一時免職となるが,この間子弟の教育にあたった。1858年復帰後は自ら育てた人材を用い,西洋兵器の優秀さに着目した富国強兵策を唱えるなど開明的な政策を推進。東洋の下に集まった人材は〈新おこぜ組〉とよば...

  • 土佐の旅(45)ひろめ市場

    ひろめ市場は、帯屋町2丁目にある集合型の屋台村で、主として飲食店が中心となっています。その他、高知の地場産品の鮮魚、精肉、青果、酒類、総菜の販売も行われ、衣料品店などもあります。江戸時代初期は、山内一豊、忠義に仕えた家老・乾和三の屋敷があった場所にあたり、乾氏失脚ののち、南邸・深尾家の屋敷となり、幕末は土佐藩の名家老・深尾弘人蕃顕(ふかおひろめしげあき)の屋敷(いわゆるひろめ屋敷)となりました。こ...

  • 土佐の旅(42)和食処「本池澤」

    高知市本町「大橋通り市場」という商店街の一角にある「本池澤」で、ランチをいただきました。こちらのお店は、大正14年に魚屋さんとして開店し、昭和44年に和食処もオープンしたのだそう。近くのひろめ市場にもお店があるのですが、落ち着いて食事したかったので、こちらの本店を選びました。店内には、小池百合子さん、船越英一郎さん、王貞治さん、有名人のサインがずらりと飾られています。こちらがランチメニューです。迷った...

  • 土佐の旅(41)平井収二郎の墓

    高知市丹中山、坂本家墓所に進む道と反対方向の細い道を上っていった民家の間の小さな墓所に、平井収二郎の墓があります。平井収二郎没年:文久3.6.8(1863.7.23)生年:天保7(1836)幕末の土佐(高知)藩士,勤王運動家。幼名幾馬,通称収二郎,本名義比。文武を修め,特に史書に通じた。文久1(1861)年,土佐勤王党結成に参画し幹部となる。2年,藩論は尊王攘夷に傾き,藩主山内豊範を擁して京都に押し出した。時に諸藩の勤王運動家が続々上洛...

  • 女河八幡宮

    いだてんの浜名湖ロケ地・湖西市の女河浦海水浴場を訪ねる前に、女河八幡宮(めがわはちまんぐう)を参拝しました。それからわずか2日後の4月23日、火野正平さんが自転車で旅するNHK「にっぽん縦断こころ旅」で紹介されました。あまりにタイムリーでびっくりしました(^^ゞ湖西市新所に鎮座する女河八幡宮は、品陀和気命を中座に比売大神、息長帯姫命の三座が祀られています。社伝によれば、斎明天皇元年(655)の鎮座とされていま...

  • 土佐の旅(40)平井収二郎・加尾の誕生地

    土佐勤王党に参加し、尊王攘夷運動に奔走した平井収二郎、収二郎の妹であり、坂本龍馬の初恋の相手でもある加尾の誕生地の碑が高知市山手町にあります。この踏切のすぐ上の民家の庭の隣りに碑があります。平井収二郎1835年8月、土佐藩士(新留守居組格、三人扶持10石)平井伝八直証(直澄)の嫡子として土佐郡久万村に生まれる。 1861年、武市半平太を中心とする土佐勤王党に参加し、尊王攘夷運動に奔走する。1862年、藩主山内豊範...

  • 土佐の旅(39)徳弘董斎(孝蔵)生誕地

    高知市中須賀町の小さな公園の一角に、徳弘董斎生誕地の碑があります。1807-1881 江戸後期-明治時代の砲術家,画家。通称・孝蔵。文化4年8月15日生まれ。代々土佐藩の御持筒役を勤める土佐高知藩士・徳弘石門の長男として生まれました。9歳の時には島田流砲術師範松木重右衛門に入門。12代藩主豊資の命により、江戸で高島流砲術の下曾根金三郎に洋式砲術を学びました。半年後には免許皆伝となり、土佐初の洋式砲術家として、仁井...

  • 土佐の旅(38) 永福寺

    高知市井口町の永福寺この寺の門前で、文久元年(1861)3月、井口村(現高知市井口町)上士と下士の井口村刃傷事件が起きました。上士と下士との間ではこれまでも対立があったが、藩庁の裁決は何時の場合も下士に対して厳しく、彼らの憤激するところとなった。そのため下士勢力は藩の政治体制に反発し、それは更に思想上の対立に発展して行く勢いにあった。こうしたなかで、井口事件は下士グループの新たな結束への自覚を促すこと...

  • 土佐の旅(37)福岡孝弟生誕地

    高知市升形に福岡孝弟の生誕地の碑があります。福岡孝弟は、後藤象二郎らと大政奉還を徳川慶喜に勧告、五箇条の御誓文を加筆、政体書を起草した人物です。幕末・明治時代の官僚、政治家。天保6年2月土佐藩家老福岡家の支族に生まれた。藤次と称す。1863年(文久3)藩主側役(そばやく)となり、幕末政局に土佐藩を代表して活躍、1867年(慶応3)参政に進み、10月同藩士後藤象二郎らと将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告した。王政復古直後...

  • 土佐の旅(36)武市瑞山(半平太)殉節地

    帯屋町2丁目、四国銀行帯屋町支店の角に、武市瑞山(半平太)殉節地の碑があります。「獄中自画像」 高知県立歴史民俗資料館蔵...

  • 土佐の旅(35)高知大神宮 よさこい稲荷

    境内社として、土佐藩京都屋敷の鎮守である「よさこい稲荷神社」があります。明治以後、北奉公人町川岸端に遷座し、のちに出雲大社土佐分院に遷座し、さらに現在地に遷座したそうです。よさこい稲荷神社正式名称:稲荷神社この大神は皇室の安泰、国家の繁栄をはじめとして、衣食住事、土地農産、航海貿易陸上道路の安全、芸能音楽、商工業の事から、一家親族、知己朋友等の交際に関する相互和合の福利に至るまで全てを守護し、人々...

  • 土佐の旅(34)高知大神宮(1)金色の鳥居と尾長鶏

    帯屋町の高知大神宮は、明治6年(1873年)に帯屋町の神宮教会に創建されたことに始まり、神宮よりご分霊を勧請して、これを祀ったといいます。金色の鳥居にびっくり!ご祭神は天照大神。狛犬の代わりに狛鶏?境内には、尾長鶏がうろうろしていました(^^ゞにほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女...

  • 土佐の旅(33)五藤家跡に建つ「大名」

    高知市本町の豆腐と湯葉・土佐文化の店「大名」は、土佐藩家老・五藤家のお屋敷を改装したお店です。五藤氏は橘諸兄の末裔とされ、そこより継承して記載されている家系譜が現在、安芸市立歴史民俗資料館に存在する。 五藤平太郎(藤原光基五藤平太郎)の子として誕生した。正式な名乗りは藤原光方五藤三郎左衛門浄基。 岩倉織田家の家老・山内盛豊と尾張国郷戸の渡船にて会って意気投合し、家に数日滞在巨礼を執り近習奉仕する。五...

  • 土佐の旅(32)水丁場

    自転車で散策中、「水丁場」の標柱というのを見つけました。上町には、城下町を洪水から守るために土佐藩が決めた水防の持ち回り制度「水丁場(みずちょうば)」ありました。鏡川は、江戸時代には12組に分かれた水防組織で管理され、この石柱は、鏡川流域の洪水による災害を防ぐために設けられた受け持ち区域(丁場)の境界を示す標柱です。以下「NHK松山放送局」のサイトの水丁場の説明です。高知は、かつて「河内(こうち)」と...

  • 土佐の旅(31) 龍馬も泳いだ鏡川

    上町の南側を流れる鏡川は、アユやカワセミが生息しているような美しい川です。元々は「潮江(うしおえ)川」と呼ばれる川でした。土佐藩初代藩主・山内一豊により鏡川と北部の江ノ口川を外堀に利用した城の建設と城下町整備が始まり、治水工事が行われました。慶長8年(1603年)に本丸と二の丸が完成し、両川にちなみ河中山(こうちやま)城と名付けられましたが、鏡川が度重なるはん濫を起こしたため、2代藩主忠義は、「高智山城...

  • 土佐の旅(30)若き龍馬が武芸修行に通った日根野道場跡

    日根野道場は、小栗流・日根野弁治が和術を教えていた道場で、坂本龍馬も14歳から19歳まで剣術の修行に通った道場です。現在は道場跡を特定できるものはありませんが、築屋敷と呼ばれる場所に開かれたと伝わっています。周辺には頑丈な石垣や龍馬が泳いだという鏡川が流れています。中央に写っているのが、一日中乗り回したレンタサイクルです🚲にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!に...

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