徳川治貞(とくがわはるさだ)は、紀伊和歌山藩主・徳川宗直(むねなお)の次男として誕生。松平頼邑(よりさと)の養子となり、宝暦3年、伊予西条藩主松平(紀伊)家5代、安永4年、和歌山藩主徳川家9代となりました。8代将軍・徳川吉宗の享保の改革にならって藩政改革を行ない、和歌山藩の財政再建に尽力。自ら綿服を着用、粗食を心掛け、冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄えを築いたといいますこのことから「...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
山内一豊の妻の像や愛妻の碑などがある辺りは、かつては杉の巨木がたくさんあったことから杉ノ段と呼ばれています。「井戸ノ段」とも呼ばれ、将軍家から下賜された「御鷹之鶴」を迎える際には藩主自らこの井戸段に出向いたといいます。また、藩主のお国入りや出駕の際には、ここに一族が出迎えや見送りに出向いてきました。また、「長崎蔵」や「塗師部屋」などの建物がありました。城内には14の井戸があり、その中でこの杉ノ段から...
高知城に柏の木があります。山内一豊の父・山内盛豊が、丹波の戦いの際、差物の代わりに、柏の枝を差して力戦し、勝利を得た後、3枚の柏の葉が残っていたことから勝利の吉例として、3枚の柏葉を組み合わせた三つ葉柏を家紋としたといいます。柏の葉は、縁起がいいとというのは、新芽が育つまで古い葉が落ちないことから、子孫繁栄といわれ、古くから庭に植えられてきました。葉には芳香があり、代が途切れない」縁起物とされ、柏餅...
高知城の追手門からの石段を上がったところは、かつては老杉が生い茂っていたことから、「杉の段」とう名が残されており、現在は花壇公園になっています。そこに立っている山内一豊の妻・千代の像です。千代の嫁入りの持参金またはへそくりで夫・一豊の欲しがった名馬(鏡栗毛)をという有名な逸話がモチーフとなっています。 山内千代(見性院)没年:元和3.12.4(1617.12.31)生年:弘治3(1557)安土桃山時代の武家の女性。山内一豊...
高知城の石垣には、石樋(いしどい)という城内の水を外に流すための排水設備が設けられています。石樋(いしどい)高知県は全国でも有数の多雨地帯のため、高知城も特に排水には注意が払われている。石樋は排水が直接石垣に当たらないように石垣の上部から突き出して造られており、その下には水受けの敷石をして地面を保護している。このような設備は雨の多い土佐ならではの独特の設備で、他の城郭では見ることのできない珍しいも...
高知城の追手門をくぐると、石段の右側に板垣退助の銅像があります。板垣は、自由民権運動の父とされ、特に「板垣死すとも自由は死せず」の名言は明治時代の一大流行語になりました。この銅像は昭和31年(1956)5月11日に再建除幕されたもので、題字は当時の内閣総理大臣吉田茂の書。板垣退助 1837-1919 幕末-明治時代の政治家。天保(てんぽう)8年4月17日生まれ。土佐高知藩士。戊辰(ぼしん)戦争で総督府参謀をつとめ,明治4年新政...
高知城の表門(大手)にあたる追手門(おうてもん)は、石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で、高知城にある15棟の国の重要文化財のひとつとなっています。門前は、門と矢狭間塀で囲まれた枡形状になっており、敵を3方から攻撃できるようになっています。ここから追手門と天守閣のツーショットが撮れます。天守閣と大手門(追手門)が揃って現存するのは、高知城、弘前城、丸亀城の3ヶ所のみなのだそう。にほんブログ村 歴史ブログランキ...
高知城の大手門前に、野中兼山邸跡の碑があります。堀を挟んで右手に山内一豊の騎馬像が見えます。この堀は、野中兼山の屋敷が近くにあったことにちなんで、「兼山堀」と呼ばれており、スイレンの花が綺麗に咲くことでも知られているそうです。野中兼山没年:寛文3.12.15(1664.1.13)生年:元和1(1615)江戸時代前期の土佐藩士,政治家,儒者。通称は伝右衛門,主計,伯耆,字は良継,兼山は号。父野中良明と母万の間に姫路で出生と伝える...
高知滞在二日目に高知城を訪ねました。追手門から入城すると、高知県立図書館前に建っているのが、土佐藩初代藩主・山内一豊の騎馬像です。銅像の本体は、高さ4.32m、重さ3.6トン、台座5.08m、総高9.4m。桂浜にある坂本龍馬の銅像などを製作した本山白雲のよるもので、1996年(平成8年)9月20日に再建除幕されました。没年:慶長10.9.20(1605.11.1)生年:天文15(1546)安土桃山・江戸前期の武将。姓は「やまのうち」ともいう。尾...
高知滞在二日目の夜は、土佐の居酒屋 一本釣りへ行きました。高知の活き鮮魚を毎日、土佐沖の漁港(室戸、久礼)から直送しているそうで、カツオのタタキをはじめ、清水サバ、鯨、ウツボ、土佐ジローなど高知の素材を使った土佐料理が楽しめます。かつお塩タタキ注文してから焼いてくれるので、表面はアツアツでパリパリなタタキをいただけます。タタキのポン酢味と土佐の地酒「久礼」純米酒ネギ、ニンニクとともにいただきます。...
『高知よさこい情報交流館』は、昭和29年に生まれた高知の「よさこい祭り」の歴史や魅力を紹介する施設です。歴史と知識の「よさこいサークル」進化と体験の「よさこいスクエア」で構成されています。「よさこいシアター」では、よさこいの歴史が、150インチの大型スクリーンで上映されています。また、よさこい体感コーナーでは、鳴子を持って、よさこい体験もできます。よさこい祭りになくてはならない「衣装」「踊り」「音楽」...
この部屋には、主に茶会で利用され、部屋の中ほどに炉を切っています。 主屋の二つの座敷は、貸室として活用できるようになっているそうです。内部には、武士が日常生活に使った家具や調度品を再現しています。長屋の屋根、瓦の葺き方に、台風に備えた工夫が見られます。台所井戸私が訪ねた時、他に見学者がいなかったので、ボランティアガイドさんにとても丁寧に説明していただきました。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参...
大川筋武家屋敷(旧手嶋家住宅)は、城下で当時の武家の建築様式を残している唯一の建造物で、平成8年に高知市有形文化財に指定し復元され、11月に武家屋敷資料館として開館しました。見事なソテツ書院造りの主屋と長屋門を忠実に復元されています。手嶋家は掛川から山内一豊に従って入国し、山内家に御馬廻役として仕えました。その知行は250石で、禄高からみると上士の中では中級程度の武士であったようです。絵図によると、1746...
高知市大川筋2丁目にある小南五郎右衛門誕生の地の碑。大川筋武家屋敷資料館を訪ねた際、見つけました。実際の誕生地は、この碑のある大川筋武家屋敷資料館と道を挟んで反対側だそうです。小南五郎右衛門土佐国土佐藩下土佐郡大川筋(現高知県高知市大川筋2丁目)に生まれる。 大目付をつとめ、1853年に山内容堂より側用役として抜擢される。 安政の大獄時には、井伊直弼の容堂に対する追及をかわす為に、小南などの重臣が身代わり...
高知市洞ヶ島町に鎮座する薫的神社「くんてき」というお名前は、ご祭神でもある薫的和尚に由来したものです。薫的没年:寛文11(1671)生年:寛永2(1625)江戸初期の曹洞宗の僧。土佐国幡多郡中村(高知県中村市)の人。俗名は康松又衛門。長じてから仏門に入り,予岳寺(土佐山田町)で修行,のちに瑞応寺(高知市)の住職となる。寛文4(1664)年,逝去した土佐2代藩主山内忠義に菩提寺真如寺了谷が付した戒名を不穏当とし,また法会の席次が真...
洞ヶ島町にある安楽寺。立派な仁王門に惹かれて境内を散策してみました。鐘楼門になっているのですね。山号は妙色山(みょうしきざん)。 本尊は阿弥陀如来。 本堂伝承によれば、延喜年間(901年-923年)、菅原道真の長子である菅原高視が配流先の土佐国潮江で菅原道真逝去の知らせを受け、筑紫にある道真の菩提寺の安楽寺にちなんで、当地に安楽寺と潮江天満宮とを建立したという。寺は当初の潮江から升形を経て久万に移転した(...
はりまや橋から徒歩約5分、追手前小学校東側に、吉田東洋殉難の地の碑があります。幕末の土佐藩士。1853年藩政改革に際して藩主山内豊信(容堂)に起用されて手腕を発揮する一方,江戸で藤田東湖らと交わる。剛腹が災いし一時免職となるが,この間子弟の教育にあたった。1858年復帰後は自ら育てた人材を用い,西洋兵器の優秀さに着目した富国強兵策を唱えるなど開明的な政策を推進。東洋の下に集まった人材は〈新おこぜ組〉とよば...
ひろめ市場は、帯屋町2丁目にある集合型の屋台村で、主として飲食店が中心となっています。その他、高知の地場産品の鮮魚、精肉、青果、酒類、総菜の販売も行われ、衣料品店などもあります。江戸時代初期は、山内一豊、忠義に仕えた家老・乾和三の屋敷があった場所にあたり、乾氏失脚ののち、南邸・深尾家の屋敷となり、幕末は土佐藩の名家老・深尾弘人蕃顕(ふかおひろめしげあき)の屋敷(いわゆるひろめ屋敷)となりました。こ...
高知市本町「大橋通り市場」という商店街の一角にある「本池澤」で、ランチをいただきました。こちらのお店は、大正14年に魚屋さんとして開店し、昭和44年に和食処もオープンしたのだそう。近くのひろめ市場にもお店があるのですが、落ち着いて食事したかったので、こちらの本店を選びました。店内には、小池百合子さん、船越英一郎さん、王貞治さん、有名人のサインがずらりと飾られています。こちらがランチメニューです。迷った...
高知市丹中山、坂本家墓所に進む道と反対方向の細い道を上っていった民家の間の小さな墓所に、平井収二郎の墓があります。平井収二郎没年:文久3.6.8(1863.7.23)生年:天保7(1836)幕末の土佐(高知)藩士,勤王運動家。幼名幾馬,通称収二郎,本名義比。文武を修め,特に史書に通じた。文久1(1861)年,土佐勤王党結成に参画し幹部となる。2年,藩論は尊王攘夷に傾き,藩主山内豊範を擁して京都に押し出した。時に諸藩の勤王運動家が続々上洛...
いだてんの浜名湖ロケ地・湖西市の女河浦海水浴場を訪ねる前に、女河八幡宮(めがわはちまんぐう)を参拝しました。それからわずか2日後の4月23日、火野正平さんが自転車で旅するNHK「にっぽん縦断こころ旅」で紹介されました。あまりにタイムリーでびっくりしました(^^ゞ湖西市新所に鎮座する女河八幡宮は、品陀和気命を中座に比売大神、息長帯姫命の三座が祀られています。社伝によれば、斎明天皇元年(655)の鎮座とされていま...
土佐勤王党に参加し、尊王攘夷運動に奔走した平井収二郎、収二郎の妹であり、坂本龍馬の初恋の相手でもある加尾の誕生地の碑が高知市山手町にあります。この踏切のすぐ上の民家の庭の隣りに碑があります。平井収二郎1835年8月、土佐藩士(新留守居組格、三人扶持10石)平井伝八直証(直澄)の嫡子として土佐郡久万村に生まれる。 1861年、武市半平太を中心とする土佐勤王党に参加し、尊王攘夷運動に奔走する。1862年、藩主山内豊範...
高知市中須賀町の小さな公園の一角に、徳弘董斎生誕地の碑があります。1807-1881 江戸後期-明治時代の砲術家,画家。通称・孝蔵。文化4年8月15日生まれ。代々土佐藩の御持筒役を勤める土佐高知藩士・徳弘石門の長男として生まれました。9歳の時には島田流砲術師範松木重右衛門に入門。12代藩主豊資の命により、江戸で高島流砲術の下曾根金三郎に洋式砲術を学びました。半年後には免許皆伝となり、土佐初の洋式砲術家として、仁井...
高知市井口町の永福寺この寺の門前で、文久元年(1861)3月、井口村(現高知市井口町)上士と下士の井口村刃傷事件が起きました。上士と下士との間ではこれまでも対立があったが、藩庁の裁決は何時の場合も下士に対して厳しく、彼らの憤激するところとなった。そのため下士勢力は藩の政治体制に反発し、それは更に思想上の対立に発展して行く勢いにあった。こうしたなかで、井口事件は下士グループの新たな結束への自覚を促すこと...
高知市升形に福岡孝弟の生誕地の碑があります。福岡孝弟は、後藤象二郎らと大政奉還を徳川慶喜に勧告、五箇条の御誓文を加筆、政体書を起草した人物です。幕末・明治時代の官僚、政治家。天保6年2月土佐藩家老福岡家の支族に生まれた。藤次と称す。1863年(文久3)藩主側役(そばやく)となり、幕末政局に土佐藩を代表して活躍、1867年(慶応3)参政に進み、10月同藩士後藤象二郎らと将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告した。王政復古直後...
帯屋町2丁目、四国銀行帯屋町支店の角に、武市瑞山(半平太)殉節地の碑があります。「獄中自画像」 高知県立歴史民俗資料館蔵...
境内社として、土佐藩京都屋敷の鎮守である「よさこい稲荷神社」があります。明治以後、北奉公人町川岸端に遷座し、のちに出雲大社土佐分院に遷座し、さらに現在地に遷座したそうです。よさこい稲荷神社正式名称:稲荷神社この大神は皇室の安泰、国家の繁栄をはじめとして、衣食住事、土地農産、航海貿易陸上道路の安全、芸能音楽、商工業の事から、一家親族、知己朋友等の交際に関する相互和合の福利に至るまで全てを守護し、人々...
帯屋町の高知大神宮は、明治6年(1873年)に帯屋町の神宮教会に創建されたことに始まり、神宮よりご分霊を勧請して、これを祀ったといいます。金色の鳥居にびっくり!ご祭神は天照大神。狛犬の代わりに狛鶏?境内には、尾長鶏がうろうろしていました(^^ゞにほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女...
高知市本町の豆腐と湯葉・土佐文化の店「大名」は、土佐藩家老・五藤家のお屋敷を改装したお店です。五藤氏は橘諸兄の末裔とされ、そこより継承して記載されている家系譜が現在、安芸市立歴史民俗資料館に存在する。 五藤平太郎(藤原光基五藤平太郎)の子として誕生した。正式な名乗りは藤原光方五藤三郎左衛門浄基。 岩倉織田家の家老・山内盛豊と尾張国郷戸の渡船にて会って意気投合し、家に数日滞在巨礼を執り近習奉仕する。五...
自転車で散策中、「水丁場」の標柱というのを見つけました。上町には、城下町を洪水から守るために土佐藩が決めた水防の持ち回り制度「水丁場(みずちょうば)」ありました。鏡川は、江戸時代には12組に分かれた水防組織で管理され、この石柱は、鏡川流域の洪水による災害を防ぐために設けられた受け持ち区域(丁場)の境界を示す標柱です。以下「NHK松山放送局」のサイトの水丁場の説明です。高知は、かつて「河内(こうち)」と...
上町の南側を流れる鏡川は、アユやカワセミが生息しているような美しい川です。元々は「潮江(うしおえ)川」と呼ばれる川でした。土佐藩初代藩主・山内一豊により鏡川と北部の江ノ口川を外堀に利用した城の建設と城下町整備が始まり、治水工事が行われました。慶長8年(1603年)に本丸と二の丸が完成し、両川にちなみ河中山(こうちやま)城と名付けられましたが、鏡川が度重なるはん濫を起こしたため、2代藩主忠義は、「高智山城...
日根野道場は、小栗流・日根野弁治が和術を教えていた道場で、坂本龍馬も14歳から19歳まで剣術の修行に通った道場です。現在は道場跡を特定できるものはありませんが、築屋敷と呼ばれる場所に開かれたと伝わっています。周辺には頑丈な石垣や龍馬が泳いだという鏡川が流れています。中央に写っているのが、一日中乗り回したレンタサイクルです🚲にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!に...
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徳川治貞(とくがわはるさだ)は、紀伊和歌山藩主・徳川宗直(むねなお)の次男として誕生。松平頼邑(よりさと)の養子となり、宝暦3年、伊予西条藩主松平(紀伊)家5代、安永4年、和歌山藩主徳川家9代となりました。8代将軍・徳川吉宗の享保の改革にならって藩政改革を行ない、和歌山藩の財政再建に尽力。自ら綿服を着用、粗食を心掛け、冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄えを築いたといいますこのことから「...
日本橋堀留町に鎮座する三光稲荷神社は、江戸三座の一つである中村座に出演していた歌舞伎役者・関三十郎が伏見より勧請したと言われ、娘さん、子供、芸妓の参拝で賑わったそうです。当社は落語「百川」にも登場します。百川(ももかわ)は古典落語の演目。6代目三遊亭圓生の十八番として知られる。田舎(いなか)から出てきた百兵衛は、葭町(よしちょう)の千束(ちづか)屋という桂庵(けいあん)(口入れ屋)からの紹介で日本橋浮世小...
江戸時代、日本橋室町の浮世小路に料亭「百川楼」がありました。(現在の福徳神社の社務所周辺)百川楼は明和ごろから明治元年にかけて営業をした料亭です。初めは卓袱(しっぽく)料理の店で、後に会席料理に転向。卓袱料理は、江戸時代に伝わった中国料理で、はじめ長崎に伝えられ、京都や大阪にも広がりましたが、江戸では流行が長続きしなかったそうです。安政元年(1854)、ペリー来日の際には、百川楼の料理人が横浜まで出向き、...
東京メトロ銀座線・半蔵門線の三越前駅より徒歩1分、中央区日本橋室町にある福徳神社(福徳稲荷)貞観年間(859年~876年)には既に鎮座していたとされています。日本橋室町二丁目付近は、昔は武蔵国豊島郡福徳村という農漁家の点在する片田舎で、その村名から「福徳稲荷」と呼ばれました。村人は神社の森を「稲荷の森」、里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいましたが、明暦3年(1657)正月8日の大地震により、...
中央区日本橋大伝馬町「べらぼう」で、片岡愛之助さんが演じる鱗形屋孫兵衛は、江戸時代、通旅籠町と呼ばれたこの地に地本問屋を構えていました。浄瑠璃本、草双紙、吉原細見、宝船などでを手掛け、安永4年(1775年)に恋川春町『金々先生栄花夢』を刊行して黄表紙をヒットさせました。日本橋堀留町に鎮座する池州稲荷神社は、かつて鱗形屋を同じ通旅籠町にあったったといわれています。創建年代などは不祥ですが、池州屋敷の池沼...
人だけでなく、軍用犬・軍馬慰霊碑や「猫塚」「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」(三味線の革の供養)など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数。著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉などの墓があります。山東京伝の墓鼠小僧次郎吉の墓猫塚1793年(寛政5年)、老中・松平定信の命によって造立された「水子塚」は、水子供養の発祥とさ...
明暦大火の供養塔明暦の大火振袖(ふりそで)火事,丸山火事とも。1657年(明暦3年)江戸本郷丸山町から出火し,江戸城本丸をはじめ江戸市中を焼き尽くした火事。死者10万人以上といわれ,江戸城も西丸を残して焼失。幕府は復興に際し御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転,寺社の外辺部への移転などを進め,町屋も道幅を広げ,広小路や火除地を設定,家屋の規模を定めるなどの措置をとった。(コトバンクより)明暦三年(1657...
墨田区両国二丁目にある回向院は、振袖火事と呼ばれる明暦3年(1657)に起きた明暦の大火の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まりで、のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬されました。明和5年(1768)以降には、境内で勧進相撲が興行され、これが今日の大相撲の起源となり、明治42年(1909)旧両国国技館が建てられました。回向院明暦三年(1657)、江戸史...
今夜の「べらぼう」で、ついに蔦重が日本橋に進出することに🙌今まで敵対してきた鶴屋もようやく蔦重の才覚を認め、通油町が吉原ものを歓迎するというお話でした。中央区日本橋大伝馬町に、蔦屋重三郎「耕書堂」跡の案内版があります。日本橋の通油町(とおりあぶらちょう)は、古くから重三郎と付き合いのあった版元の鱗形屋孫兵衛だけでなく、鶴屋喜右衛門、西村屋与八など錦絵創始の老舗版元が多数店を構える江戸の出版界の中心...
大伝馬本町本通りは、かつての日光・奥州街道です。江戸時代、五街道の起点・日本橋は交通の要所で、大伝馬町本通には、「越後屋」や「白木屋」などの店が軒を連ねていました。日本橋から延びる日光東照宮への参詣道「日光街道」も人や物が行き交い、日本橋の町は大変賑わいました。徳川家康公江戸開府に際し、御傳馬役支配であった馬込勘解由が名主としてこの地に住し以後大傳馬町と称された(碑文より)江戸名所図絵や広重の錦絵に...
神田駅から歩いて4~5分のところにある旧今川中学校のグラウンド前に「平賀源内居住跡」の案内板があります。平賀源内は、讃岐から上京してから転居を繰り返し、神田白壁町(現・鍛冶町)や神田大和町、神田橋本町などに住んでいたといいます。(千代田区観光協会リーフレットより)今年に入り、「べらぼう」が始まってから設置されたようです。平賀源内(享保13年(1728)~安永8年(1779))は、エレキテル(摩擦静電気発生装置) の...
合祀殿籠祖神社(猿田彦神、塩土老翁神)をはじめ、神田明神本殿に合祀されていた八幡神社(誉田別命)や富士神社(木花咲耶姫命)、天神社(菅原道真命、柿本人麻呂命)、大鳥神社(日本武尊)、天祖神社(天照大御神)、諏訪神社(建御名方神)を合祀。籠祖講関係石造物群千代田区指定有形文化財2005年(平成17年)4月1日指定籠祖(かごそ)神社は、塩土翁神と猿田彦大神祭神が祭神で、社伝によれば1798年(寛政10年)に神田神社...
神田明神は何度か参拝してますが、今まで見逃していたのが、浮世絵師 水野年方顕彰碑です。水野年方(みずのとしかた)日本画家。通称は粂次郎。初め月岡芳年に歌川派の錦絵,山田柳塘に陶画,柴田芳州に南画を学び,のち三島蕉窓,渡辺省亭に師事して人物画,草木画,風景画を得意とした。1887年頃から『やまと新聞』に挿絵を描き,また日本美術協会,日本美術院,日本画会に作品を発表するかたわら,評議員や審査員を務め,浮世絵...
鳳輦神輿奉安殿神田祭において、一の宮・大己貴命がお乗りになる一の宮鳳輦、二の宮・少彦名命がお乗りになる二の宮神輿、神田明神大神輿を奉安する。神田祭の時にこの場所で「鳳輦神輿遷座祭」を執り行う。(神田明神HPより)三の宮奉安庫 (鳳輦庫)三の宮・平将門命(たいらのまさかどのみこと)、平将門様のお乗りになる神輿が奉安されています。三宿稲荷神社・金刀比羅神社三宿稲荷神社 江戸時代より神田三河町の氏神として奉斎...
続いて神田明神の摂末社の紹介です。魚河岸水神社 日本橋魚河岸の守護神として創建され、元和年間に神田明神境内に遷座しました。魚河岸水神社 御祭神 弥都波能売命祭礼日 五月五日 日本橋魚河岸水神社は、徳川家の武運長久と併せて大漁安全を祈願する為、魚河岸の先人により武蔵国豊嶋郡柴崎村神田神社境内(今の千代田区大手町)に鎮座された。 元和年間(1615~)神田神社と共に此の地に遷り、大市場交易神と称されその後、水...
神田明神の境内を紹介します。御社殿昭和9年に竣功。権現造。当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の社殿。本殿・幣殿・拝殿さらに神饌所・宝庫が重なり合うように造られて昭和初期の神社建築では新しい形式をもつ。現の社殿の前は、天明2年に江戸幕府によって造営された。木造で権現造・総朱漆塗。江戸時代後期の神社建築を代表する社殿であったと言われている。社殿内には江戸幕府造営を象徴する徳川将軍家の葵...
神田明神(かんだみょうじん)は、千代田区外神田二丁目にある神社で正式名称は神田神社大鳥居をくぐるとすぐに随神門があります。随神門昭和天皇御即位50年の記念事業として昭和50年に新たに再建されました。総檜・入母屋造。二層建て・屋根は銅板瓦棒葺。外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因幡の白兎」など、だいこく様の神話をモチーフにした彫刻が、二層目には、平将門に由来する金箔をほどこした「繋馬」の彫刻が...
滝沢馬琴住居跡から神田明神に向かう際、急な階段が立ちはだかりました。この石段は「明神男坂」と呼ばれ、『江戸名所図会』にも登場します。『江戸名所図会』にも登場するこの坂は、江戸時代には「明神石坂」、「石坂」、「明神東阪」などと呼ばれていました。高台で見晴らしが良かったため、風光明媚な場所として錦絵にも描かれています。幕府が1825年から1828年(文政8年~11年)の間に町名主に提出させた、町の情報をまとめた...
外神田三丁目の芳林公園の前に滝沢馬琴住居跡の案内板があります。滝沢馬琴は、『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』、『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』などを著わした江戸時代の戯作者(げさくしゃ)です。旗本松平信成の家臣の子として生まれた馬琴は、元飯田町中坂下(現在の九段北一丁目)の下駄屋会田家の養子となりますが、家業を人に任せ、戯作者としての道を歩み始めます。1824年(文政7年)には、外...
土日祝日は、湯島聖堂の大成殿の内部が公開されています。ちょうどこの日は土曜日でしたので、内部を見学してきました。大成殿(たいせいでん)湯島聖堂の中心的な建造物で、孔子を祀るための殿堂。間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートル、入母屋造り。大成とは、孔子廟の正殿の名称。宋(北宋)の仁宗のとき命名。「孟子」万章下「孔子聖之時者也、孔子之謂集大成、集大成也者、金聲玉振之也。」に基づく。殿内、中央...
もとは、蹴鞠・和歌の宗家である飛鳥井家の邸宅地で、手水舎の飛鳥井(あすかい)は、清少納言の『枕草子』の中で、9つの代表的な井戸のひとつに挙げられています。飛鳥井白峯神宮の飛鳥井は平安の昔から有名です。平安時代の歌謡曲の催馬楽「飛鳥井」には「飛鳥井に宿りはすべし、や、おけ、蔭もよし、御水(ミモヒ)も寒し、御秣(ミマクサ)もよし」と謡われていて、オアシスのように人々が憩っていたと想像されます。(や、おけ...
京都市上京区今出川通にある白峯神社のご祭神は、崇徳天皇と淳仁天皇。崇徳天皇は、鳥羽天皇の皇子としてご生誕、保安4年に第75代の天皇に即位されましたが、保元の乱により、讃岐に配流され、長寛2年に45歳で崩御、白峰山陵に奉葬されました。讃岐に配流されてからは、髪も剃らず、爪も切らずに日本国の大魔縁になって朝廷を呪い続けたと伝えられています。崩御されてから大火事や不穏な事件が頻繁に起きたため、崇徳天皇の祟...
法金剛院は、京都市右京区花園にある律宗の寺院で、開基は待賢門院とされています。ここは平安時代初期の右大臣・清原夏野の山荘を平安末期に待賢門院(鳥羽上皇の中宮、後白河天皇の母)が再興した律宗のお寺です。清原夏野(きよはら の なつの)は、平安時代初期の皇族・公卿。舎人親王の孫である内膳正・小倉王の五男。官位は従二位・右大臣、贈正二位。清原夏野『前賢故実』延暦23年(804年)同じ内舎人の官職にあった親族の...
下京区夕顔町に夕顔之墳があります。ここは、『源氏物語』第4帖「夕顔」に登場する夕顔の屋敷があった場所とされ、住宅地の一角に立つ石碑には「源語傳説 五條邊 夕顔之墳」と刻まれています。昭和4年に京都史蹟会によって建てられたそうです。夕顔は物語の中の架空の人物ではありますが、当地の地名も夕顔町となっています。「源氏夕顔巻」(月岡芳年『月百姿』)光源氏が夕顔の屋敷に泊まると、深夜に夢に嫉妬したもののけ(六条...
北野天満宮の帰りに大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)を参拝しました。大将軍八神社は、桓武天皇が、王城鎮護のために星神大将軍を勧請したといわれる社で、方違え(方除け厄除けの神)として、建築・移動・転宅・婚姻・旅行・交通等あらゆる人間生活に於いて方位の厄災から守護する神として信仰されました。方違えとは、陰陽道に基づいて平安時代以降に行われていた風習のひとつで、外出や造作、宮中の政、戦の開始などの...
元三大師堂本尊は元三大師(良源)。他に毘沙門天像、薬師如来像、不動明王像などを安置。毘沙門天は京都七福神の一つ。鐘楼手水社廬山寺(ろざんじ)(廬山天台講寺[ろざんてんだいこうじ])沿革天慶年中、元三大師良源によって草創される。良源は康保3年(966)55歳で第18世天台座主となり、内供奉に補せられて以降、比叡山から宮中に参内するにあたり、現船岡山の麓、現蘆山寺通北に輿願金剛院を建立し、寛和元年(985)正月3...
京都市上京区北之辺町の廬山寺は、紫式部の邸宅跡として知られています。山門南門(薬医門)遡れば、紫式部の曽祖父である藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅があり、藤原為時に譲り、紫式部はこの邸で生まれ育ち、『源氏物語』を執筆したとされています。廬山寺(ろざんじ)現在の廬山寺は豊臣秀吉の時代にこの地に移されたもので、ただしくは廬山天台講寺という。もとは天慶元年(938)に慈恵大師良源(じけいだいし りょうげん)...
藤原宣孝 は、正暦元年(990)、御嶽詣を行い、その年筑前守となりました。紫式部との結婚は998年(長徳4)の末か長保元年(999)のはじめといわれいます。紫式部の父の為時と為輔はいとこであり、宣孝と式部はまたいとこの関係にありました。998年には、石清水臨時祭、賀茂臨時祭の舞人を奉仕、同年山城守を兼任。11月末には豊前国宇佐神宮の奉幣使に任ぜられ、翌年帰京。この年4月平野臨時祭の勅使となり、7月相撲召合にも武官として...
合格門をくぐり、階段を上がっていくと、安倍晴明をお祀りする晴明堂に行き着きます。 晴明堂は、平安時代の陰陽師・安倍晴明をお祀りしています。 当山は安倍一族の寺として古来より安倍晴明信仰の聖地の一つとして数えられています。平成十六年(2004)、安倍晴明千回忌を迎えるにあたり二百年振りに晴明堂が再建されました。 正面にある「如意宝珠」は、いかなる願望も意のままに成就し、また悪を払い、災難を防ぐ功徳がある...
石仏石仏群は、江戸時代、境内地に四国八十八所・西国三十三所の本尊仏として祀られていた石仏を一同に安置したものです。その前には弘法大師像と御砂踏み石がお祀りされており、「御砂踏み石」の中には四国八十八所の御砂が奉納されています。(案内板より)白山堂 白山堂は、室町時代に建立されました。流造屋根柿葺(こけらぶき)で美しい曲線の唐破風をもった社殿です。 国の重要文化財にも指定されています。 御祭神は全国の白...
続いて、十一面観音をお参りしました。十一面観音 十一面観音は、苦しんでいる人をすぐに見つけるため、頭上に十一のお顔があり常に全方向を見守っています。 奈良時代から多く信仰され、延命、病気治癒などを願って各地でお祀りされるようになりました。 古来より当山に伝えられる十一面観音は昭和五十七年(1982)に、この場所に勧請し建立されました。また十一面観音の周りの側壁には四千五百体の奉納仏がお祀りされています...
安倍文殊院の稲荷社は、安倍晴明出生の地として、晴明の母とされる白狐・信太森葛葉稲荷が祀られています。江戸時代までは、境内の西古墳の頂上に稲荷社があったそうですが、現在は晴明が祀られている金閣浮御堂が見える場所に移されています。五穀豊穣・金運財運・商売繁盛・家運隆昌等の御利益が厚いことで信仰されています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴...
続いて金閣浮御堂へ。金閣浮御堂金閣浮御堂・霊宝館は開運弁財天(大和七福神)、安倍仲麻呂、安倍晴明の御尊像、安倍晴明の御尊軸、方位災難除けの九曜星など、陰陽道に関する宝物をお祀りしている御堂で内陣参拝できます。堂内の壁面には、秘仏の十二天御尊軸(四方(東・西・南・北)と、四隅(東北・東南・西北・西南)の八方、天と地、日と月、すべての方角を司る守護神)がお祀りされています。この御堂は「七まいり」という魔...
奈良県桜井市阿部にある安倍文殊院は西暦645年に創建された寺院で、京都・天橋立の切戸文殊、山形の亀岡文殊と共に日本三文殊のひとつです。表山門大化の改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂が大化元年(645年)に孝徳天皇の勅願もあって安倍氏の氏寺として安倍山崇敬寺(安倍寺)を建立したのが始まりである。創建当時の寺地は現在の文殊院の西南300メートルほどのところにあったが、平安時代末期に多武峰の妙楽寺(現、...
大津市歴史博物館では、令和6年(2024年)1月から、特集展示「源氏物語と大津」を約1年間にわたって開催されています。私は3月末に見て来ました。エントランスロビーの無料エリアでは、石山寺本堂の「源氏之間」が再現されており、中に入って写真撮影ができるフォトスポットになっています。「源氏之間」再現コーナーこの横には、紫式部になりきれるフォトスポットもあります。デジタル絵巻54帖各巻のあらすじや関係図が楽しめます。...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。平成橋『紫式部日記絵巻』「御産養の夜、中宮(彰子)の前に対座し静かに御簾をあげる紫式部」「御産養の盛儀を覗き見て感激する夜居の僧」蛭子橋『源氏物語絵巻』「柏木(一)女三宮を見舞う朱雀院」「柏木(二)病に伏す柏...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。千代鶴橋『紫式部日記絵巻』「新造の竜頭鷁首の舟を下見する道長」この 国安橋の向こうには、千代鶴神社があります。昭和7年(1932年)に建てられた神社で、越前打ち刃物の祖「千代鶴国安」をお祀りしています。千代鶴国安は良...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。鈴虫橋『紫式部日記絵巻』道長から賀の歌を求められる紫式部御五十日の祝いの宵、若宮に餅を供する道長岩永橋『紫式部日記絵巻』「御五十日祝いに若宮を抱く中宮と祝膳を供する女房」「渡殿にある紫式部の局に立ち寄る斉信と...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる紫きぶ七橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。河濯橋『紫式部日記絵巻』「渡殿の紫式部の局の戸をたたく藤原道長」「中宮・彰子に新楽府を進講する紫式部」城ヶ堀橋『紫式部日記絵巻』「女房たちと語りながら歳末の夜を過ごす紫式部」「風の涼しい夕暮れ、琴を弾いて憂...
武生中央公園内にあるしきぶきぶんミュージアムには、「光る君へ 越前 大河ドラマ館」や、紫式部が暮らした越前の文化や歴史を紹介する歴史展示、お土産やグッズを販売する「光る越前SHOP」があります。エントランスでは、まひろ(紫式部)役の吉高由里子さんのウェルカムメッセージのVTRが流れています。等身大パネルと一緒に記念撮影ができるスポット「衣装や小道具の展示コーナー」藤原為時紫式部(まひろ)為時が太郎に読み聞かせ...