徳川治貞(とくがわはるさだ)は、紀伊和歌山藩主・徳川宗直(むねなお)の次男として誕生。松平頼邑(よりさと)の養子となり、宝暦3年、伊予西条藩主松平(紀伊)家5代、安永4年、和歌山藩主徳川家9代となりました。8代将軍・徳川吉宗の享保の改革にならって藩政改革を行ない、和歌山藩の財政再建に尽力。自ら綿服を着用、粗食を心掛け、冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄えを築いたといいますこのことから「...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
龍馬生誕の地から歩いて5分ほどのところに龍馬郵便局という郵便局があります。以前は、「上町一郵便局」という名でしたが、高知市、郵政局、地元の方たちや龍馬の親族などが協力し合い、1999年8月に名前を変更したのだそうです。入口前には、坂本龍馬の銅像が立っています。ここに着いたのが、開局前でしたので、中には入っていないのですが、局内には龍馬関連の資料が展示され、この郵便局から郵便物を発送すると、生誕の地と龍...
上町二丁目の喫茶「さいたにや」周辺が、郷士坂本家の本家「才谷屋跡」です。寛政4(1792)年頃の「上町分町家名附牒」によれば、現在の喫茶「さいたにや」の手前から南にかけて広く、南の水路も隔て更に南側までもあったのではと推定されているそうです。才谷屋は郷士坂本家の本家で、三代目の弟・八兵衛守之が、寛文6年(1666年)に長岡郡才谷村から出て来て質屋を始め、後に酒屋や諸品売買業へと商いを拡大していった。元禄から享...
「龍馬の生まれたち記念館」から徒歩数分のところに、近藤長次郎邸跡があります。記念館にも銅像がありましたね。あの方です!近藤長次郎は天保9(1838)年3月、水道町3丁目の餅菓子・饅頭屋に生まれました。長次郎自身も饅頭を売り歩いていたため、はじめは苗字がなく饅頭屋長次郎と呼ばれていました。長次郎の生家は、現在碑が建っている場所より東側にあったとされており、龍馬とは家が近く、少年時代から交流があったといわれて...
近藤長次郎と龍馬の姉・乙女の像二階の展示では、上町を中心に周辺の龍馬関連史跡等を案内する城下町マップと、幕末期の上町のミニチュア模型を設置されています。上町の模型バーチャル4面シアターでは、龍馬が生きた時代の町並みや人々がCGで再現され、龍馬の生きた時代を感じることができます。また龍馬に関連する資料を展示するコーナーもあります。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願...
時のトンネル離れへと繋がるトンネル。足元には、高知の四季を映像が演出されており、一歩ずつ踏み出すたびに映像が変化します。至る所で見かける龍馬の像坂本家の離れ龍馬へ宛てたメッセージノートがあります。また龍馬・乙女姉さんとの写真撮影も楽しめます。高知県の郷土料理「皿鉢」についてにほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加し...
坂本龍馬の生誕地の上町にある龍馬の生まれたまち記念館は、龍馬の生い立ちや町の歴史を紹介した記念館です。入り口には、立派な龍馬の像がありますよ。館内にはボランティアガイドも常駐しており、記念館内を無料で案内していただけます。一階の展示では、昔の上町の町並みを半立体模型で再現し、龍馬の育った上町を紹介しています。「動くお城下今昔マップ」では、昔と現在のお城下の地図を比較し、また、龍馬にゆかりのある大里...
坂本龍馬誕生地からほど近いところに鎮座する秋葉神社。龍馬が小さい頃境内で遊んだといわれています。防災や災難除けに火の神様をお祀りしています。今はこぢんまりとした神社ですが、当時はもっと大きな境内だったのでしょう。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...
路面電車で上町1丁目下車してすぐのところに、坂本龍馬誕生地があります。坂本龍馬誕生地の碑は、昭和27年5月、当時の首相吉田茂の揮毫のものを、昭和43年「明治百年記念行事」の一環として整備したもので平成14年、説明板とモニュメントが作られました。坂本家は明和7(1770)年新規郷士に取り立てられ、ここに独立分家しました。龍馬誕生の頃は、この付近から南側水道町までが龍馬の生家であったと伝えられています。誕生日であり...
湖西市の女河浦海水浴場は、長さ約200m程の遠浅で波が静かな浜辺で、浜名湖対岸まで見渡せる眺めの良い海水浴場です。泳ぎながらアサリ採りもできます。昨年8月には、ここで「いだてん」の浜名湖ロケが行われたそうです。昨夜の15話で、その模様が流れましたね。今日は、潮干狩りをしている家族連れの姿を目にしました。夏には、海の家・更衣室・トイレも整備され、ライフジャケットの無料レンタルもあるそうですよ。トイレ、ライ...
明治4年(1871年)、土佐藩十六代の藩主で、初代藩知事となった豊範が、藤並神社の御旅所であった現在地に、山内神社を創建し、3代忠豊から14代豊惇までの霊を祀りました。明治5年(1872年)、山内神社は高知県庁に引き渡され、村社に列格。昭和7年(1933年)、15代豊信(容堂)・16代豊範の明治維新での功績を顕彰する神社を新たに造ることとなり、山内神社に祀られていた歴代藩主の霊を藤並神社に遷座し、新しい社殿を造営。昭和...
高知市鷹匠町に鎮座する山内神社は、文化3年(1806年)10代藩主・豊策(とよかず)により、土佐藩初代藩主・山内一豊、夫人の見性院(千代)二代藩主・忠義を祀るために高知城内に造営された藤並神社に始まります。鷹匠公園に面している東参道の入り口に立つこの大きな二基の燈籠は、裏に刻まれた文字から、大正5年(1916)2月11日に建てられたものであることが分かります。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。...
三翠園、旧山内家下屋敷長屋の向かい側の鷹匠公園は、山内容堂の邸があったところです。公園の前に、山内容堂公邸址の碑があります。鷹匠町は、江戸時代、鷹匠が住んでいたことに由来するのだそう。山内容堂幕末の土佐藩主。名は豊信(とよしげ)。容堂は号で,ほかに鯨海酔侯(げいかいすいこう)などの別号をもつ。20歳で藩主となり吉田東洋らを起用して藩政改革を行なった。1857年―1858年将軍継嗣問題の際,松平慶永,島津斉彬らと...
旧山内家下屋敷長屋展示館の2階の展示室には、土佐藩船などの和船模型と土佐の人物40名のパネルが展示されています。土佐藩船四万十川の渡しくじら舟遣唐使船阿波藩御座船菱垣廻船千石船長細い造りの長屋を上手く活用した展示ですね。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキン...
一階は、五部屋と土間からなり、幕末~明治時代の家具や民具が展示されています。銭箱この長屋展示館は、すべて無料で見学できます!にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...
同じく三翠園内に、幕末に建てられた山内家の足軽屋敷が、旧山内家下屋敷長屋展示館として一般公開されています。 山内一豊とその妻・千代の顔出しパネル通称は散田邸。国の重要文化財。幕末の元治元年(1866年)に土佐藩15代藩主山内容堂の下屋敷として、家臣の屋敷七軒を召し上げて建設された長屋です。下屋敷で警固番を勤めた足軽の詰所であったとみられています。国の重要文化財にも指定されている全国的にも数少ない建物で、...
高知市鷹匠町のホテル三翠園がある場所には、かつて山内容堂の別邸下屋敷がありました。戦後、会見場所の屋敷は売却され、現在は大部分が三翠園の敷地になっています。三翠園の庭園に山内容堂・西郷南州会見の地の碑があります。慶応3年(1867)年2月、西郷隆盛は、薩摩藩主・島津久光の命を受け、四候会議への参加を促すために来高し、この日本庭園内で容堂と会見しました。慶応三年 ( 西暦一八六七年 ) 二月十七日薩摩島津公の命に...
板垣退助誕生地から鏡川方向に南へ150メートルほど進むと、聖泉幼稚園の前に後藤象二郎誕生之地の碑があります。後藤象二郎は、天保9年3月19日(1838年4月13日)土佐藩士・後藤正晴(馬廻格・150石)の長男として高知城下片町に誕生。少年期に父を失い、義理の叔父・吉田東洋に預けられて育ちました。東洋が開いた少林塾に学び、また柳河藩士の大石種昌に大石神影流剣術を学び文武の業を修めました。 明治期の政治家。天保(てんぽう...
幕末の頃、高野山金剛峯寺塔頭上蔵院が全焼。焼失した堂宇を復興するため、院主であった原信頂和尚は諸国を巡錫していた折、廃仏毀釈により荒廃した土佐の仏閣の惨状を目にし、この地に寺院建立を発願しました。 明治15年、板垣退助生地を譲り受け、高野山出張所として開創され、 高野寺となりました。昭和20年7月4日の空襲により焼失、昭和39年に再建されました。高野寺の門前に、板垣退助誕生地の碑があります。明治十年、板垣退...
高知で鰹のタタキといえば『明神丸』というほどの有名店。土佐の旅の初日は、妙神丸本店で夕食をいただきました。まずは、土佐の地酒をオーダー。お店の方にオススメを聞いて、「美丈夫」を選びました。美丈夫とは容姿の美しい男性を指すのだそう。その名にふさわしい口当たりは柔らかく、喉越しはスッキリとした飲み口でした。鰹串の炭焼き甘味噌味をオーダー。そして、伝統の藁焼き製法で作る鰹のたたきは、噂通りの絶品でした!...
「南国土佐を後にして」の歌碑は、南国土佐の歌碑を建てる会の有志らの呼び掛けによって、はりまや橋公園東側に歌碑が建てられました。 「南国土佐を後にして」は、ペギー葉山さんが歌って1959年に大ヒットした歌です。太平洋戦争の時代に、郷土出身の鯨部隊(朝倉44連隊)が遠く離れた戦地でふるさとをしのんで歌った歌が原曲で、後に作曲家・武政英策さんによって補作・編曲されたものです。この歌を後世にまで歌い継ぎ、高知を...
長岡謙吉邸跡から道路を挟んで向かい側に、米国より帰国したジョン万次郎の取り調べに当たったことで知られる画人・河田小龍の生誕地の碑があります。河田 小龍(かわだ しょうりょう、「しょうりゅう」とも。文政7年10月25日(1824年12月15日) - 明治31年(1898年)12月19日)は日本画家、思想家。通称篤太郎、本名は維鶴(これたず)、小梁、松梁、皤山、小龍と号するほか、翠竹斎、半舫斎の書斎号も称す。文政7年(1824年)10...
長岡謙吉は、天保5年(1834)、高知城下の浦戸町の医師・今井孝順の息子として生まれました。旧浦戸町は、現在の南はりまや町一丁目に当たり、今は得月楼本店の駐車場やレンタル衣装屋さん辺りが長岡謙吉の生家跡であるといいます。高知城下の浦戸町の医師・今井孝順(孝純、玄泉)の長男として生まれる。孝順は坂本龍馬の継母・伊予の縁者であった。幼少期は河田小龍の下で蘭学に励んだ。その後は江戸や大坂に遊学して、医学や文学...
今日は、昨年の「西郷どん」ゆかりの地です。慶応2年(1866年)に薩長同盟を締結した薩摩藩は、長州藩の名誉回復に尽力するとともに、幕府主導ではなく、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革したいと考えました。そこで薩摩藩の小松清廉・西郷隆盛・大久保利通らは雄藩諸侯らを上京させて、長州問題・兵庫開港問題などの国事を議する会議を画策します。慶応3年2月16日、西郷隆盛は、山内容堂に京での四侯会議に出席して貰う...
はりまや橋の東側にあるからくり時計。午前9時から午後9時まで、1時間おきによさこい節の音楽に合わせて、からくり時計の上から高知城、下にはよさこいの踊り子人形、右にはりまや橋、左に桂浜が登場します。夜間にはライトアップも行われています。土佐銘菓サムライせんせいの顔出し看板はりまや通りにもアンパンマンのオブジェがありました。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします...
よさこい節で歌われた「土佐の高知のはりまや橋」です。「土佐の高知のはりまや橋で、坊さんかんざし買うを見た」とよさこい節のフレーズにもなり、純信とお馬の恋物語でも知られているはりまや橋です。江戸時代に、堀川を挟んで商売を行っていた土佐藩の御用商人の播磨屋宗徳と櫃屋道清が、両者の往来のため私設の橋を架けたことが「はりまや橋」の由来といわれています。その後,何度か橋は架けかえられ,堀川も埋め立てられまし...
高知市九反田の東九反田公園に「憲政之祖国」の大きな碑があります。この公園が「開成館跡」、「三傑会見の地」、「海南学校跡」、「憲政記念館」と呼ばれるところです。開成館は慶応2年(1866)年、藩が殖産興業と富国強兵を目的して技術教育、軍艦局、貨幣局、火薬局などが設置され建設されました。明治4(1871)年1月19日、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、長州の木戸孝允、杉孫七郎と、板垣退助、福岡孝弟らによる三傑会見が行われ、...
はりまや橋から西へ徒歩約5、高知市帯屋町1丁目の中央公園内に立志社跡の碑があります。立志社は、明治7年、板垣退助らが海南義社を吸収して結成した自由民権運動の中心的政治結社です。「人民は国の本」を主張し、民権思想の普及に努め、士族救済のための商社活動・法律研究・討論会なども行いました。立志社は、明治7(1874)年4月10日、帯屋町の旧兵舎跡で発会式をあげ、その後このあたりにあった旧町会所跡を山内家から買...
武市半平太の故郷・吹井村をイメージした小庭園が、横堀公園の一角にあります。いろんな石がありましたよ。こちらが半平太の横顔に似ている石だとか・・・にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...
桜井町1丁目の横堀公園の北東隅に、武市半平太邸跡の碑と説明板があります。文政12年(1829年)9月27日に土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)に生まれ、嘉永2(1849)年、吹井村から妻冨子や祖母と共にここに転居、安政2(1855)年の春、道場を建てました。道場には120人の門弟が集まり、 門下には中岡慎太郎や岡田以蔵などがいました。あの坂本龍馬もよく来ていたといいます。現在、碑は公園内にありますが、もとはこの道路の...
「ブログリーダー」を活用して、しずかさんをフォローしませんか?
徳川治貞(とくがわはるさだ)は、紀伊和歌山藩主・徳川宗直(むねなお)の次男として誕生。松平頼邑(よりさと)の養子となり、宝暦3年、伊予西条藩主松平(紀伊)家5代、安永4年、和歌山藩主徳川家9代となりました。8代将軍・徳川吉宗の享保の改革にならって藩政改革を行ない、和歌山藩の財政再建に尽力。自ら綿服を着用、粗食を心掛け、冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄えを築いたといいますこのことから「...
日本橋堀留町に鎮座する三光稲荷神社は、江戸三座の一つである中村座に出演していた歌舞伎役者・関三十郎が伏見より勧請したと言われ、娘さん、子供、芸妓の参拝で賑わったそうです。当社は落語「百川」にも登場します。百川(ももかわ)は古典落語の演目。6代目三遊亭圓生の十八番として知られる。田舎(いなか)から出てきた百兵衛は、葭町(よしちょう)の千束(ちづか)屋という桂庵(けいあん)(口入れ屋)からの紹介で日本橋浮世小...
江戸時代、日本橋室町の浮世小路に料亭「百川楼」がありました。(現在の福徳神社の社務所周辺)百川楼は明和ごろから明治元年にかけて営業をした料亭です。初めは卓袱(しっぽく)料理の店で、後に会席料理に転向。卓袱料理は、江戸時代に伝わった中国料理で、はじめ長崎に伝えられ、京都や大阪にも広がりましたが、江戸では流行が長続きしなかったそうです。安政元年(1854)、ペリー来日の際には、百川楼の料理人が横浜まで出向き、...
東京メトロ銀座線・半蔵門線の三越前駅より徒歩1分、中央区日本橋室町にある福徳神社(福徳稲荷)貞観年間(859年~876年)には既に鎮座していたとされています。日本橋室町二丁目付近は、昔は武蔵国豊島郡福徳村という農漁家の点在する片田舎で、その村名から「福徳稲荷」と呼ばれました。村人は神社の森を「稲荷の森」、里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいましたが、明暦3年(1657)正月8日の大地震により、...
中央区日本橋大伝馬町「べらぼう」で、片岡愛之助さんが演じる鱗形屋孫兵衛は、江戸時代、通旅籠町と呼ばれたこの地に地本問屋を構えていました。浄瑠璃本、草双紙、吉原細見、宝船などでを手掛け、安永4年(1775年)に恋川春町『金々先生栄花夢』を刊行して黄表紙をヒットさせました。日本橋堀留町に鎮座する池州稲荷神社は、かつて鱗形屋を同じ通旅籠町にあったったといわれています。創建年代などは不祥ですが、池州屋敷の池沼...
人だけでなく、軍用犬・軍馬慰霊碑や「猫塚」「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」(三味線の革の供養)など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数。著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉などの墓があります。山東京伝の墓鼠小僧次郎吉の墓猫塚1793年(寛政5年)、老中・松平定信の命によって造立された「水子塚」は、水子供養の発祥とさ...
明暦大火の供養塔明暦の大火振袖(ふりそで)火事,丸山火事とも。1657年(明暦3年)江戸本郷丸山町から出火し,江戸城本丸をはじめ江戸市中を焼き尽くした火事。死者10万人以上といわれ,江戸城も西丸を残して焼失。幕府は復興に際し御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転,寺社の外辺部への移転などを進め,町屋も道幅を広げ,広小路や火除地を設定,家屋の規模を定めるなどの措置をとった。(コトバンクより)明暦三年(1657...
墨田区両国二丁目にある回向院は、振袖火事と呼ばれる明暦3年(1657)に起きた明暦の大火の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まりで、のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬されました。明和5年(1768)以降には、境内で勧進相撲が興行され、これが今日の大相撲の起源となり、明治42年(1909)旧両国国技館が建てられました。回向院明暦三年(1657)、江戸史...
今夜の「べらぼう」で、ついに蔦重が日本橋に進出することに🙌今まで敵対してきた鶴屋もようやく蔦重の才覚を認め、通油町が吉原ものを歓迎するというお話でした。中央区日本橋大伝馬町に、蔦屋重三郎「耕書堂」跡の案内版があります。日本橋の通油町(とおりあぶらちょう)は、古くから重三郎と付き合いのあった版元の鱗形屋孫兵衛だけでなく、鶴屋喜右衛門、西村屋与八など錦絵創始の老舗版元が多数店を構える江戸の出版界の中心...
大伝馬本町本通りは、かつての日光・奥州街道です。江戸時代、五街道の起点・日本橋は交通の要所で、大伝馬町本通には、「越後屋」や「白木屋」などの店が軒を連ねていました。日本橋から延びる日光東照宮への参詣道「日光街道」も人や物が行き交い、日本橋の町は大変賑わいました。徳川家康公江戸開府に際し、御傳馬役支配であった馬込勘解由が名主としてこの地に住し以後大傳馬町と称された(碑文より)江戸名所図絵や広重の錦絵に...
神田駅から歩いて4~5分のところにある旧今川中学校のグラウンド前に「平賀源内居住跡」の案内板があります。平賀源内は、讃岐から上京してから転居を繰り返し、神田白壁町(現・鍛冶町)や神田大和町、神田橋本町などに住んでいたといいます。(千代田区観光協会リーフレットより)今年に入り、「べらぼう」が始まってから設置されたようです。平賀源内(享保13年(1728)~安永8年(1779))は、エレキテル(摩擦静電気発生装置) の...
合祀殿籠祖神社(猿田彦神、塩土老翁神)をはじめ、神田明神本殿に合祀されていた八幡神社(誉田別命)や富士神社(木花咲耶姫命)、天神社(菅原道真命、柿本人麻呂命)、大鳥神社(日本武尊)、天祖神社(天照大御神)、諏訪神社(建御名方神)を合祀。籠祖講関係石造物群千代田区指定有形文化財2005年(平成17年)4月1日指定籠祖(かごそ)神社は、塩土翁神と猿田彦大神祭神が祭神で、社伝によれば1798年(寛政10年)に神田神社...
神田明神は何度か参拝してますが、今まで見逃していたのが、浮世絵師 水野年方顕彰碑です。水野年方(みずのとしかた)日本画家。通称は粂次郎。初め月岡芳年に歌川派の錦絵,山田柳塘に陶画,柴田芳州に南画を学び,のち三島蕉窓,渡辺省亭に師事して人物画,草木画,風景画を得意とした。1887年頃から『やまと新聞』に挿絵を描き,また日本美術協会,日本美術院,日本画会に作品を発表するかたわら,評議員や審査員を務め,浮世絵...
鳳輦神輿奉安殿神田祭において、一の宮・大己貴命がお乗りになる一の宮鳳輦、二の宮・少彦名命がお乗りになる二の宮神輿、神田明神大神輿を奉安する。神田祭の時にこの場所で「鳳輦神輿遷座祭」を執り行う。(神田明神HPより)三の宮奉安庫 (鳳輦庫)三の宮・平将門命(たいらのまさかどのみこと)、平将門様のお乗りになる神輿が奉安されています。三宿稲荷神社・金刀比羅神社三宿稲荷神社 江戸時代より神田三河町の氏神として奉斎...
続いて神田明神の摂末社の紹介です。魚河岸水神社 日本橋魚河岸の守護神として創建され、元和年間に神田明神境内に遷座しました。魚河岸水神社 御祭神 弥都波能売命祭礼日 五月五日 日本橋魚河岸水神社は、徳川家の武運長久と併せて大漁安全を祈願する為、魚河岸の先人により武蔵国豊嶋郡柴崎村神田神社境内(今の千代田区大手町)に鎮座された。 元和年間(1615~)神田神社と共に此の地に遷り、大市場交易神と称されその後、水...
神田明神の境内を紹介します。御社殿昭和9年に竣功。権現造。当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の社殿。本殿・幣殿・拝殿さらに神饌所・宝庫が重なり合うように造られて昭和初期の神社建築では新しい形式をもつ。現の社殿の前は、天明2年に江戸幕府によって造営された。木造で権現造・総朱漆塗。江戸時代後期の神社建築を代表する社殿であったと言われている。社殿内には江戸幕府造営を象徴する徳川将軍家の葵...
神田明神(かんだみょうじん)は、千代田区外神田二丁目にある神社で正式名称は神田神社大鳥居をくぐるとすぐに随神門があります。随神門昭和天皇御即位50年の記念事業として昭和50年に新たに再建されました。総檜・入母屋造。二層建て・屋根は銅板瓦棒葺。外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因幡の白兎」など、だいこく様の神話をモチーフにした彫刻が、二層目には、平将門に由来する金箔をほどこした「繋馬」の彫刻が...
滝沢馬琴住居跡から神田明神に向かう際、急な階段が立ちはだかりました。この石段は「明神男坂」と呼ばれ、『江戸名所図会』にも登場します。『江戸名所図会』にも登場するこの坂は、江戸時代には「明神石坂」、「石坂」、「明神東阪」などと呼ばれていました。高台で見晴らしが良かったため、風光明媚な場所として錦絵にも描かれています。幕府が1825年から1828年(文政8年~11年)の間に町名主に提出させた、町の情報をまとめた...
外神田三丁目の芳林公園の前に滝沢馬琴住居跡の案内板があります。滝沢馬琴は、『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』、『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』などを著わした江戸時代の戯作者(げさくしゃ)です。旗本松平信成の家臣の子として生まれた馬琴は、元飯田町中坂下(現在の九段北一丁目)の下駄屋会田家の養子となりますが、家業を人に任せ、戯作者としての道を歩み始めます。1824年(文政7年)には、外...
土日祝日は、湯島聖堂の大成殿の内部が公開されています。ちょうどこの日は土曜日でしたので、内部を見学してきました。大成殿(たいせいでん)湯島聖堂の中心的な建造物で、孔子を祀るための殿堂。間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートル、入母屋造り。大成とは、孔子廟の正殿の名称。宋(北宋)の仁宗のとき命名。「孟子」万章下「孔子聖之時者也、孔子之謂集大成、集大成也者、金聲玉振之也。」に基づく。殿内、中央...
もとは、蹴鞠・和歌の宗家である飛鳥井家の邸宅地で、手水舎の飛鳥井(あすかい)は、清少納言の『枕草子』の中で、9つの代表的な井戸のひとつに挙げられています。飛鳥井白峯神宮の飛鳥井は平安の昔から有名です。平安時代の歌謡曲の催馬楽「飛鳥井」には「飛鳥井に宿りはすべし、や、おけ、蔭もよし、御水(ミモヒ)も寒し、御秣(ミマクサ)もよし」と謡われていて、オアシスのように人々が憩っていたと想像されます。(や、おけ...
京都市上京区今出川通にある白峯神社のご祭神は、崇徳天皇と淳仁天皇。崇徳天皇は、鳥羽天皇の皇子としてご生誕、保安4年に第75代の天皇に即位されましたが、保元の乱により、讃岐に配流され、長寛2年に45歳で崩御、白峰山陵に奉葬されました。讃岐に配流されてからは、髪も剃らず、爪も切らずに日本国の大魔縁になって朝廷を呪い続けたと伝えられています。崩御されてから大火事や不穏な事件が頻繁に起きたため、崇徳天皇の祟...
法金剛院は、京都市右京区花園にある律宗の寺院で、開基は待賢門院とされています。ここは平安時代初期の右大臣・清原夏野の山荘を平安末期に待賢門院(鳥羽上皇の中宮、後白河天皇の母)が再興した律宗のお寺です。清原夏野(きよはら の なつの)は、平安時代初期の皇族・公卿。舎人親王の孫である内膳正・小倉王の五男。官位は従二位・右大臣、贈正二位。清原夏野『前賢故実』延暦23年(804年)同じ内舎人の官職にあった親族の...
下京区夕顔町に夕顔之墳があります。ここは、『源氏物語』第4帖「夕顔」に登場する夕顔の屋敷があった場所とされ、住宅地の一角に立つ石碑には「源語傳説 五條邊 夕顔之墳」と刻まれています。昭和4年に京都史蹟会によって建てられたそうです。夕顔は物語の中の架空の人物ではありますが、当地の地名も夕顔町となっています。「源氏夕顔巻」(月岡芳年『月百姿』)光源氏が夕顔の屋敷に泊まると、深夜に夢に嫉妬したもののけ(六条...
北野天満宮の帰りに大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)を参拝しました。大将軍八神社は、桓武天皇が、王城鎮護のために星神大将軍を勧請したといわれる社で、方違え(方除け厄除けの神)として、建築・移動・転宅・婚姻・旅行・交通等あらゆる人間生活に於いて方位の厄災から守護する神として信仰されました。方違えとは、陰陽道に基づいて平安時代以降に行われていた風習のひとつで、外出や造作、宮中の政、戦の開始などの...
元三大師堂本尊は元三大師(良源)。他に毘沙門天像、薬師如来像、不動明王像などを安置。毘沙門天は京都七福神の一つ。鐘楼手水社廬山寺(ろざんじ)(廬山天台講寺[ろざんてんだいこうじ])沿革天慶年中、元三大師良源によって草創される。良源は康保3年(966)55歳で第18世天台座主となり、内供奉に補せられて以降、比叡山から宮中に参内するにあたり、現船岡山の麓、現蘆山寺通北に輿願金剛院を建立し、寛和元年(985)正月3...
京都市上京区北之辺町の廬山寺は、紫式部の邸宅跡として知られています。山門南門(薬医門)遡れば、紫式部の曽祖父である藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅があり、藤原為時に譲り、紫式部はこの邸で生まれ育ち、『源氏物語』を執筆したとされています。廬山寺(ろざんじ)現在の廬山寺は豊臣秀吉の時代にこの地に移されたもので、ただしくは廬山天台講寺という。もとは天慶元年(938)に慈恵大師良源(じけいだいし りょうげん)...
藤原宣孝 は、正暦元年(990)、御嶽詣を行い、その年筑前守となりました。紫式部との結婚は998年(長徳4)の末か長保元年(999)のはじめといわれいます。紫式部の父の為時と為輔はいとこであり、宣孝と式部はまたいとこの関係にありました。998年には、石清水臨時祭、賀茂臨時祭の舞人を奉仕、同年山城守を兼任。11月末には豊前国宇佐神宮の奉幣使に任ぜられ、翌年帰京。この年4月平野臨時祭の勅使となり、7月相撲召合にも武官として...
合格門をくぐり、階段を上がっていくと、安倍晴明をお祀りする晴明堂に行き着きます。 晴明堂は、平安時代の陰陽師・安倍晴明をお祀りしています。 当山は安倍一族の寺として古来より安倍晴明信仰の聖地の一つとして数えられています。平成十六年(2004)、安倍晴明千回忌を迎えるにあたり二百年振りに晴明堂が再建されました。 正面にある「如意宝珠」は、いかなる願望も意のままに成就し、また悪を払い、災難を防ぐ功徳がある...
石仏石仏群は、江戸時代、境内地に四国八十八所・西国三十三所の本尊仏として祀られていた石仏を一同に安置したものです。その前には弘法大師像と御砂踏み石がお祀りされており、「御砂踏み石」の中には四国八十八所の御砂が奉納されています。(案内板より)白山堂 白山堂は、室町時代に建立されました。流造屋根柿葺(こけらぶき)で美しい曲線の唐破風をもった社殿です。 国の重要文化財にも指定されています。 御祭神は全国の白...
続いて、十一面観音をお参りしました。十一面観音 十一面観音は、苦しんでいる人をすぐに見つけるため、頭上に十一のお顔があり常に全方向を見守っています。 奈良時代から多く信仰され、延命、病気治癒などを願って各地でお祀りされるようになりました。 古来より当山に伝えられる十一面観音は昭和五十七年(1982)に、この場所に勧請し建立されました。また十一面観音の周りの側壁には四千五百体の奉納仏がお祀りされています...
安倍文殊院の稲荷社は、安倍晴明出生の地として、晴明の母とされる白狐・信太森葛葉稲荷が祀られています。江戸時代までは、境内の西古墳の頂上に稲荷社があったそうですが、現在は晴明が祀られている金閣浮御堂が見える場所に移されています。五穀豊穣・金運財運・商売繁盛・家運隆昌等の御利益が厚いことで信仰されています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴...
続いて金閣浮御堂へ。金閣浮御堂金閣浮御堂・霊宝館は開運弁財天(大和七福神)、安倍仲麻呂、安倍晴明の御尊像、安倍晴明の御尊軸、方位災難除けの九曜星など、陰陽道に関する宝物をお祀りしている御堂で内陣参拝できます。堂内の壁面には、秘仏の十二天御尊軸(四方(東・西・南・北)と、四隅(東北・東南・西北・西南)の八方、天と地、日と月、すべての方角を司る守護神)がお祀りされています。この御堂は「七まいり」という魔...
奈良県桜井市阿部にある安倍文殊院は西暦645年に創建された寺院で、京都・天橋立の切戸文殊、山形の亀岡文殊と共に日本三文殊のひとつです。表山門大化の改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂が大化元年(645年)に孝徳天皇の勅願もあって安倍氏の氏寺として安倍山崇敬寺(安倍寺)を建立したのが始まりである。創建当時の寺地は現在の文殊院の西南300メートルほどのところにあったが、平安時代末期に多武峰の妙楽寺(現、...
大津市歴史博物館では、令和6年(2024年)1月から、特集展示「源氏物語と大津」を約1年間にわたって開催されています。私は3月末に見て来ました。エントランスロビーの無料エリアでは、石山寺本堂の「源氏之間」が再現されており、中に入って写真撮影ができるフォトスポットになっています。「源氏之間」再現コーナーこの横には、紫式部になりきれるフォトスポットもあります。デジタル絵巻54帖各巻のあらすじや関係図が楽しめます。...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。平成橋『紫式部日記絵巻』「御産養の夜、中宮(彰子)の前に対座し静かに御簾をあげる紫式部」「御産養の盛儀を覗き見て感激する夜居の僧」蛭子橋『源氏物語絵巻』「柏木(一)女三宮を見舞う朱雀院」「柏木(二)病に伏す柏...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。千代鶴橋『紫式部日記絵巻』「新造の竜頭鷁首の舟を下見する道長」この 国安橋の向こうには、千代鶴神社があります。昭和7年(1932年)に建てられた神社で、越前打ち刃物の祖「千代鶴国安」をお祀りしています。千代鶴国安は良...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。鈴虫橋『紫式部日記絵巻』道長から賀の歌を求められる紫式部御五十日の祝いの宵、若宮に餅を供する道長岩永橋『紫式部日記絵巻』「御五十日祝いに若宮を抱く中宮と祝膳を供する女房」「渡殿にある紫式部の局に立ち寄る斉信と...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる紫きぶ七橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。河濯橋『紫式部日記絵巻』「渡殿の紫式部の局の戸をたたく藤原道長」「中宮・彰子に新楽府を進講する紫式部」城ヶ堀橋『紫式部日記絵巻』「女房たちと語りながら歳末の夜を過ごす紫式部」「風の涼しい夕暮れ、琴を弾いて憂...
武生中央公園内にあるしきぶきぶんミュージアムには、「光る君へ 越前 大河ドラマ館」や、紫式部が暮らした越前の文化や歴史を紹介する歴史展示、お土産やグッズを販売する「光る越前SHOP」があります。エントランスでは、まひろ(紫式部)役の吉高由里子さんのウェルカムメッセージのVTRが流れています。等身大パネルと一緒に記念撮影ができるスポット「衣装や小道具の展示コーナー」藤原為時紫式部(まひろ)為時が太郎に読み聞かせ...