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大河ドラマに恋して http://shizuka0329.blog98.fc2.com/

大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り

しずか
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2013/09/04

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  • 土佐の旅(29)龍馬郵便局

    龍馬生誕の地から歩いて5分ほどのところに龍馬郵便局という郵便局があります。以前は、「上町一郵便局」という名でしたが、高知市、郵政局、地元の方たちや龍馬の親族などが協力し合い、1999年8月に名前を変更したのだそうです。入口前には、坂本龍馬の銅像が立っています。ここに着いたのが、開局前でしたので、中には入っていないのですが、局内には龍馬関連の資料が展示され、この郵便局から郵便物を発送すると、生誕の地と龍...

  • 土佐の旅(28)坂本龍馬の本家「才谷屋跡」

    上町二丁目の喫茶「さいたにや」周辺が、郷士坂本家の本家「才谷屋跡」です。寛政4(1792)年頃の「上町分町家名附牒」によれば、現在の喫茶「さいたにや」の手前から南にかけて広く、南の水路も隔て更に南側までもあったのではと推定されているそうです。才谷屋は郷士坂本家の本家で、三代目の弟・八兵衛守之が、寛文6年(1666年)に長岡郡才谷村から出て来て質屋を始め、後に酒屋や諸品売買業へと商いを拡大していった。元禄から享...

  • 土佐の旅(27)近藤長次郎邸跡

    「龍馬の生まれたち記念館」から徒歩数分のところに、近藤長次郎邸跡があります。記念館にも銅像がありましたね。あの方です!近藤長次郎は天保9(1838)年3月、水道町3丁目の餅菓子・饅頭屋に生まれました。長次郎自身も饅頭を売り歩いていたため、はじめは苗字がなく饅頭屋長次郎と呼ばれていました。長次郎の生家は、現在碑が建っている場所より東側にあったとされており、龍馬とは家が近く、少年時代から交流があったといわれて...

  • 土佐の旅(26)龍馬の生まれたまち記念館 その参

    近藤長次郎と龍馬の姉・乙女の像二階の展示では、上町を中心に周辺の龍馬関連史跡等を案内する城下町マップと、幕末期の上町のミニチュア模型を設置されています。上町の模型バーチャル4面シアターでは、龍馬が生きた時代の町並みや人々がCGで再現され、龍馬の生きた時代を感じることができます。また龍馬に関連する資料を展示するコーナーもあります。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願...

  • 土佐の旅(25)龍馬の生まれたまち記念館 その弐

    時のトンネル離れへと繋がるトンネル。足元には、高知の四季を映像が演出されており、一歩ずつ踏み出すたびに映像が変化します。至る所で見かける龍馬の像坂本家の離れ龍馬へ宛てたメッセージノートがあります。また龍馬・乙女姉さんとの写真撮影も楽しめます。高知県の郷土料理「皿鉢」についてにほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加し...

  • 土佐の旅(24)龍馬の生まれたまち記念館 その壱

    坂本龍馬の生誕地の上町にある龍馬の生まれたまち記念館は、龍馬の生い立ちや町の歴史を紹介した記念館です。入り口には、立派な龍馬の像がありますよ。館内にはボランティアガイドも常駐しており、記念館内を無料で案内していただけます。一階の展示では、昔の上町の町並みを半立体模型で再現し、龍馬の育った上町を紹介しています。「動くお城下今昔マップ」では、昔と現在のお城下の地図を比較し、また、龍馬にゆかりのある大里...

  • 土佐の旅(23)秋葉神社

    坂本龍馬誕生地からほど近いところに鎮座する秋葉神社。龍馬が小さい頃境内で遊んだといわれています。防災や災難除けに火の神様をお祀りしています。今はこぢんまりとした神社ですが、当時はもっと大きな境内だったのでしょう。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...

  • 土佐の旅(22)坂本龍馬生誕の地の碑

    路面電車で上町1丁目下車してすぐのところに、坂本龍馬誕生地があります。坂本龍馬誕生地の碑は、昭和27年5月、当時の首相吉田茂の揮毫のものを、昭和43年「明治百年記念行事」の一環として整備したもので平成14年、説明板とモニュメントが作られました。坂本家は明和7(1770)年新規郷士に取り立てられ、ここに独立分家しました。龍馬誕生の頃は、この付近から南側水道町までが龍馬の生家であったと伝えられています。誕生日であり...

  • 「いだてん」の浜名湖ロケが行われた女河浦海水浴場

    湖西市の女河浦海水浴場は、長さ約200m程の遠浅で波が静かな浜辺で、浜名湖対岸まで見渡せる眺めの良い海水浴場です。泳ぎながらアサリ採りもできます。昨年8月には、ここで「いだてん」の浜名湖ロケが行われたそうです。昨夜の15話で、その模様が流れましたね。今日は、潮干狩りをしている家族連れの姿を目にしました。夏には、海の家・更衣室・トイレも整備され、ライフジャケットの無料レンタルもあるそうですよ。トイレ、ライ...

  • 土佐の旅(21)山内神社に建つ山内容堂の像

    明治4年(1871年)、土佐藩十六代の藩主で、初代藩知事となった豊範が、藤並神社の御旅所であった現在地に、山内神社を創建し、3代忠豊から14代豊惇までの霊を祀りました。明治5年(1872年)、山内神社は高知県庁に引き渡され、村社に列格。昭和7年(1933年)、15代豊信(容堂)・16代豊範の明治維新での功績を顕彰する神社を新たに造ることとなり、山内神社に祀られていた歴代藩主の霊を藤並神社に遷座し、新しい社殿を造営。昭和...

  • 土佐の旅(34)山内神社 参道に並ぶ燈籠

    高知市鷹匠町に鎮座する山内神社は、文化3年(1806年)10代藩主・豊策(とよかず)により、土佐藩初代藩主・山内一豊、夫人の見性院(千代)二代藩主・忠義を祀るために高知城内に造営された藤並神社に始まります。鷹匠公園に面している東参道の入り口に立つこの大きな二基の燈籠は、裏に刻まれた文字から、大正5年(1916)2月11日に建てられたものであることが分かります。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。...

  • 土佐の旅(33)山内容堂公邸址

    三翠園、旧山内家下屋敷長屋の向かい側の鷹匠公園は、山内容堂の邸があったところです。公園の前に、山内容堂公邸址の碑があります。鷹匠町は、江戸時代、鷹匠が住んでいたことに由来するのだそう。山内容堂幕末の土佐藩主。名は豊信(とよしげ)。容堂は号で,ほかに鯨海酔侯(げいかいすいこう)などの別号をもつ。20歳で藩主となり吉田東洋らを起用して藩政改革を行なった。1857年―1858年将軍継嗣問題の際,松平慶永,島津斉彬らと...

  • 土佐の旅(32)旧山内家下屋敷長屋展示館 その参 和船模型

    旧山内家下屋敷長屋展示館の2階の展示室には、土佐藩船などの和船模型と土佐の人物40名のパネルが展示されています。土佐藩船四万十川の渡しくじら舟遣唐使船阿波藩御座船菱垣廻船千石船長細い造りの長屋を上手く活用した展示ですね。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキン...

  • 土佐の旅(31)旧山内家下屋敷長屋展示館 その弐

    一階は、五部屋と土間からなり、幕末~明治時代の家具や民具が展示されています。銭箱この長屋展示館は、すべて無料で見学できます!にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...

  • 土佐の旅(30)旧山内家下屋敷長屋展示館 その壱

    同じく三翠園内に、幕末に建てられた山内家の足軽屋敷が、旧山内家下屋敷長屋展示館として一般公開されています。 山内一豊とその妻・千代の顔出しパネル通称は散田邸。国の重要文化財。幕末の元治元年(1866年)に土佐藩15代藩主山内容堂の下屋敷として、家臣の屋敷七軒を召し上げて建設された長屋です。下屋敷で警固番を勤めた足軽の詰所であったとみられています。国の重要文化財にも指定されている全国的にも数少ない建物で、...

  • 土佐の旅(29)山内容堂・西郷南洲会見の地

    高知市鷹匠町のホテル三翠園がある場所には、かつて山内容堂の別邸下屋敷がありました。戦後、会見場所の屋敷は売却され、現在は大部分が三翠園の敷地になっています。三翠園の庭園に山内容堂・西郷南州会見の地の碑があります。慶応3年(1867)年2月、西郷隆盛は、薩摩藩主・島津久光の命を受け、四候会議への参加を促すために来高し、この日本庭園内で容堂と会見しました。慶応三年 ( 西暦一八六七年 ) 二月十七日薩摩島津公の命に...

  • 土佐の旅(28)後藤象二郎誕生地の碑

    板垣退助誕生地から鏡川方向に南へ150メートルほど進むと、聖泉幼稚園の前に後藤象二郎誕生之地の碑があります。後藤象二郎は、天保9年3月19日(1838年4月13日)土佐藩士・後藤正晴(馬廻格・150石)の長男として高知城下片町に誕生。少年期に父を失い、義理の叔父・吉田東洋に預けられて育ちました。東洋が開いた少林塾に学び、また柳河藩士の大石種昌に大石神影流剣術を学び文武の業を修めました。 明治期の政治家。天保(てんぽう...

  • 土佐の旅(27)板垣退助生家と高野寺

    幕末の頃、高野山金剛峯寺塔頭上蔵院が全焼。焼失した堂宇を復興するため、院主であった原信頂和尚は諸国を巡錫していた折、廃仏毀釈により荒廃した土佐の仏閣の惨状を目にし、この地に寺院建立を発願しました。 明治15年、板垣退助生地を譲り受け、高野山出張所として開創され、 高野寺となりました。昭和20年7月4日の空襲により焼失、昭和39年に再建されました。高野寺の門前に、板垣退助誕生地の碑があります。明治十年、板垣退...

  • 土佐の旅(26)妙神丸本店

    高知で鰹のタタキといえば『明神丸』というほどの有名店。土佐の旅の初日は、妙神丸本店で夕食をいただきました。まずは、土佐の地酒をオーダー。お店の方にオススメを聞いて、「美丈夫」を選びました。美丈夫とは容姿の美しい男性を指すのだそう。その名にふさわしい口当たりは柔らかく、喉越しはスッキリとした飲み口でした。鰹串の炭焼き甘味噌味をオーダー。そして、伝統の藁焼き製法で作る鰹のたたきは、噂通りの絶品でした!...

  • 土佐の旅(25)「南国土佐を後にして」の歌碑

    「南国土佐を後にして」の歌碑は、南国土佐の歌碑を建てる会の有志らの呼び掛けによって、はりまや橋公園東側に歌碑が建てられました。 「南国土佐を後にして」は、ペギー葉山さんが歌って1959年に大ヒットした歌です。太平洋戦争の時代に、郷土出身の鯨部隊(朝倉44連隊)が遠く離れた戦地でふるさとをしのんで歌った歌が原曲で、後に作曲家・武政英策さんによって補作・編曲されたものです。この歌を後世にまで歌い継ぎ、高知を...

  • 土佐の旅(24)河田小龍生誕地

    長岡謙吉邸跡から道路を挟んで向かい側に、米国より帰国したジョン万次郎の取り調べに当たったことで知られる画人・河田小龍の生誕地の碑があります。河田 小龍(かわだ しょうりょう、「しょうりゅう」とも。文政7年10月25日(1824年12月15日) - 明治31年(1898年)12月19日)は日本画家、思想家。通称篤太郎、本名は維鶴(これたず)、小梁、松梁、皤山、小龍と号するほか、翠竹斎、半舫斎の書斎号も称す。文政7年(1824年)10...

  • 土佐の旅(23)長岡謙吉の生家跡・得月楼

    長岡謙吉は、天保5年(1834)、高知城下の浦戸町の医師・今井孝順の息子として生まれました。旧浦戸町は、現在の南はりまや町一丁目に当たり、今は得月楼本店の駐車場やレンタル衣装屋さん辺りが長岡謙吉の生家跡であるといいます。高知城下の浦戸町の医師・今井孝順(孝純、玄泉)の長男として生まれる。孝順は坂本龍馬の継母・伊予の縁者であった。幼少期は河田小龍の下で蘭学に励んだ。その後は江戸や大坂に遊学して、医学や文学...

  • 土佐の旅(21)西郷宿舎・燕雀楼跡

    今日は、昨年の「西郷どん」ゆかりの地です。慶応2年(1866年)に薩長同盟を締結した薩摩藩は、長州藩の名誉回復に尽力するとともに、幕府主導ではなく、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革したいと考えました。そこで薩摩藩の小松清廉・西郷隆盛・大久保利通らは雄藩諸侯らを上京させて、長州問題・兵庫開港問題などの国事を議する会議を画策します。慶応3年2月16日、西郷隆盛は、山内容堂に京での四侯会議に出席して貰う...

  • 土佐の旅(20)からくり時計

    はりまや橋の東側にあるからくり時計。午前9時から午後9時まで、1時間おきによさこい節の音楽に合わせて、からくり時計の上から高知城、下にはよさこいの踊り子人形、右にはりまや橋、左に桂浜が登場します。夜間にはライトアップも行われています。土佐銘菓サムライせんせいの顔出し看板はりまや通りにもアンパンマンのオブジェがありました。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします...

  • 土佐の旅(19)はりまや橋

    よさこい節で歌われた「土佐の高知のはりまや橋」です。「土佐の高知のはりまや橋で、坊さんかんざし買うを見た」とよさこい節のフレーズにもなり、純信とお馬の恋物語でも知られているはりまや橋です。江戸時代に、堀川を挟んで商売を行っていた土佐藩の御用商人の播磨屋宗徳と櫃屋道清が、両者の往来のため私設の橋を架けたことが「はりまや橋」の由来といわれています。その後,何度か橋は架けかえられ,堀川も埋め立てられまし...

  • 土佐の旅(17)開成館跡

    高知市九反田の東九反田公園に「憲政之祖国」の大きな碑があります。この公園が「開成館跡」、「三傑会見の地」、「海南学校跡」、「憲政記念館」と呼ばれるところです。開成館は慶応2年(1866)年、藩が殖産興業と富国強兵を目的して技術教育、軍艦局、貨幣局、火薬局などが設置され建設されました。明治4(1871)年1月19日、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、長州の木戸孝允、杉孫七郎と、板垣退助、福岡孝弟らによる三傑会見が行われ、...

  • 土佐の旅(18)立志社跡

    はりまや橋から西へ徒歩約5、高知市帯屋町1丁目の中央公園内に立志社跡の碑があります。立志社は、明治7年、板垣退助らが海南義社を吸収して結成した自由民権運動の中心的政治結社です。「人民は国の本」を主張し、民権思想の普及に努め、士族救済のための商社活動・法律研究・討論会なども行いました。立志社は、明治7(1874)年4月10日、帯屋町の旧兵舎跡で発会式をあげ、その後このあたりにあった旧町会所跡を山内家から買...

  • 土佐の旅(16)武市半平太ゆかりの小庭園

    武市半平太の故郷・吹井村をイメージした小庭園が、横堀公園の一角にあります。いろんな石がありましたよ。こちらが半平太の横顔に似ている石だとか・・・にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...

  • 土佐の旅(15)武市瑞山(半平太)邸と道場跡

    桜井町1丁目の横堀公園の北東隅に、武市半平太邸跡の碑と説明板があります。文政12年(1829年)9月27日に土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)に生まれ、嘉永2(1849)年、吹井村から妻冨子や祖母と共にここに転居、安政2(1855)年の春、道場を建てました。道場には120人の門弟が集まり、 門下には中岡慎太郎や岡田以蔵などがいました。あの坂本龍馬もよく来ていたといいます。現在、碑は公園内にありますが、もとはこの道路の...

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