できることなら、防御のためでなく攻撃のための下準備。思考というものについて、同じ悩むならそうしたい。考えは誰のものでもないんだからね。
環境とは、誰にとっても自己以外のすべて。宇宙とは、それとは反対に自己を含むすべて。宇宙と環境との唯一の境界は、自己。それは経験する観察者。身の丈尺足らず
(gif/originalunknown)心は火に似ています。火はそれ自体では燃えませんし、これといった形もないものですが、火が付くというように、それが物に着いて初めてその体を成すようになります。炭火があり、焚火があり、燈火などいろいろありますが、炭を取り去り、薪を取り去り、燈を取り去ってしまって、火というものを掴むことはできません。それぞれ、炭に着いて、薪に着いて、蝋燭に着いて、初めてその形を表すのです。心もまた同じように、必ず何かに着いてその形を表すもので、単に心というものだけを掴むことはできないのです。善いものに着けば善となりますが、不善に着けば不善となるのです。心こそ心惑わす心なり、こころ、こころに、こころゆるすな。心は火のようなもの
期待なしに人生を生きること具体的な結果を必要とせずに生きることこれが自由というものかもしれません。句読点の入れどころがわからない。名言であるかどうかはわからないけれど一つの至言ではありそうだ。詠み人知らず
行く末に宿をそことも定めねば踏み迷うべき道も無きかな今日はあそこの宿まで行って泊まろう、と思って急いでいるといかんせん、途中で道に迷ってしまった。結局そこまで行けず、ああなんてこった。しかし、既定、予定、思い入れ、などの定めをするから、迷い、焦りが生まれるのであって、それがなければ、そもそも「迷う」ということに意味はない。失敗と言うこともなければ、後悔と言うことも生まれない。行く当てのない旅は楽しい、と昔誰かが言っていたが、先を急ぐと、粋な発見や綺麗な風景を見落としてしまう。一休さん
腰かけて「みる」か。とは何事です。腰かけてみるのも、腰かけるのも、結果においては同じじゃないか。疑いながら試しに右へ曲がるのも、信じて断固として右へ曲がるのも、その運命は同じです。どっちにしたって引き返すことはできないんだ。試みたとたんにあなたの運命がちゃんと決められてしまうのだ。人生には試みなんで存在しないんだ。やってみるのは、やったのと同じだ。実にあなたたちは往生際が悪い。引き返すことが出来るものだと思っている。-太宰治「御伽草子」より往生際
将棋はとにかく愉快である。盤面の上で、この人生とは違った別な生活と事業がやれるからである。一手一手が新しい創造である。冒険をやってみようか、堅実にやってみようかと、いろいろ自分の思い通りやってみられる。しかもその結果が直ちに盤面に現れる。そのうえ遊戯とは思われぬくらいムキになれる。将棋は面白い。金のない人がその余生の道楽として、充分楽しめるほど面白いものだと思う。将棋を指すときは、怒ってはならない、ひるんではいけない、あせってはいけない。あんまり勝たんとしてはいけない。自分の棋力だけのものは、必ず現すという覚悟で、悠々として盤面に向かうべきである。そして、たとえ悪手があっても狼狽してはいけない。どんなに悪くてもなるべく、敵に手数をかけさすべく奮闘すべきである。そのうちには、どんな敗局にも勝機がぼつぼつと動...将棋
宇宙(自然)のことをおもえば、そこには決して悪と言うものはないのです。ただ過ぎるとと及ばざるとがあるばかりです。この過ぎたるところ、及ばざるところが即ち悪と言う。また同じように宇宙(自然)のことは、別に善と言うものがあるのではありません。ただ過ぎたると及ばざるとがないところが即ちこれが善であるというのです。例えば、徳川家康が女中達に対し、世の中で一番うまいものは何かと問うた時、お梶の局が、「それは塩でございます」と答えましたので、「それでは一番まずいものは何か」と問うと、やはり「塩でございます」と答えたということです。なるほど、塩は調味料でこれが過不足なければ美味、もし過不足あればこれほど不味いものはないのであります。-出典不詳善悪の弁
水面に月が映っている、月影が水底に宿っている、いま月光は水中に広まっているが、月が隠れると、水そのものにはなにも残らず、月も光も痕跡を残すことも無い。いささかも執着の跡がない、このような境地を求める、これを水月の道場と言うらしい。人間に心があり、眼、耳、鼻、舌、身、意、の欲がある以上、財宝も、名誉も、美人も、酒も、もとより心の水に映ってくる。映るのは当然である。しかしながら、それが映ってきても、痕跡を残さないように、それが水と月との関係のようであったなら、そこに執着は微塵も起こらない。空華は夢という意味で、人生のすべてを一切夢であるとみる、金も名誉も美人も地位も、ことごとくが夢であると観じたならば、それに執着することは野暮でしかない。ということで、この句の意味は、「執着のないこの水月の関係のように、人生の...水月の関係
とはいうものの、体験からいうと、辛いや痛いというのは何となく我慢できるけれども、苦しいというのはどうしようもなく苦しいのであります。苦は楽の種楽は苦の種
首を回らせば、七〇有余年、人間の是非、看破に飽きたり。往来跡幽かなり深夜の雪、一炷線香古窓の下。ー偈/良寛禅師良寛さん
生涯、身を立つるにものうく、騰々天心に任す。嚢中三升の米、炉辺一束の薪、誰か問わん、迷悟の跡、何ぞ知らん、名利の塵。夜雨草庵の裡、双脚等間に伸ばす。良寛さん
良寛さんは、年とるにつれて、人々から尊敬されるやうになった。みんなは良寛さんを偉いお方だと思った。べつだん良寛さんは、人が驚くやうな大きな仕事をしたわけではなかった。良寛さんの偉さはじみで、目立たなかった。ちょうど眼に見えないほど細い糸で、しみじみと降る春雨のやうに。春雨は土を黒く潤し、草や木を芽ぶかせてやる。良寛さんの人がらも、そのまわりの人々の心を潤し、浮ついていた心をしっとり落着かせ、知らぬ間に希望(のぞみ)と喜びの芽をふかせると言う風である。世間で偉いと言われている人々の中には、なるほど固い意志の力を持って大きな仕事をしとげはするが、人間らしさを持たないという人もないものではない。しかし良寛さんはそんな人とは違っていた。良寛さんは、飽くまで人間らしさを失わなかった。或日良寛さんは、野中の一本道を歩...良寛さん
魂は抗議する。「われわれは不運だ。これからどれほどつらい試練に堪えなければならないことか!肉体を満足させるためにどれ程いやなことをしなければならないことか!肉体は間もなく滅びるのに!」ー「コレ・コスム」ヘルメス古写本よりいいね!をつける。
勧酒、題からしてオッときます。井伏鱒二さんの意訳がまたこれぞ、です。蘇軾の春夜、春宵一刻値千金、声細細、夜沈沈、などもまたこれ韻を踏んで好きな詩です。好きな詩
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できることなら、防御のためでなく攻撃のための下準備。思考というものについて、同じ悩むならそうしたい。考えは誰のものでもないんだからね。
あかしろやにしきにましてくろやこいこんとよばれるこのみおしても金魚
作者不詳の日本最古の漫画ともいわれる鳥獣戯画。下手くそがまねて描いてもほんのりゆるされるゆるさ。懐深い、とはこういうことを言うのかと思ったりします。鳥獣戯画
私は酒が好きであり水もまた好きである。昨日までは酒が水よりも好きであった。今日は酒が好きな程度に於いて水も好きである。明日は水が酒よりも好きになるかもしれない。ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯ー山頭火全句集より山頭火
怒り声は誰に一番よく聞こえるんだ。自分を傷つけたくないのなら、ほえるのはやめとけ。やめとけ。
言い得るも我言い得ざるも我肝を作れ人を作れ腹をくくる。
古いものに目新しさはない。ただ、新しいものに年代物という箔はつかない。熟成かどうかの問題。
袋をもっている。入れたいと思えるものに出会えばなんでも入れられる袋は、持っている。布袋さんはおもう。わしがこれに何か入れたら、もう布袋としての存在理由はなくなる。もっているから持っていない。布袋という冥加。
腕の逞しさや頭の力これらでどれほどの心の静けさを得られる私利私欲を離れ礼節と道義これらこそ人生の安静を得られるんじゃないかい蝦蟇河豚相撲図
生きることは老いて皺を刻むことと同じことで想うことは想うこととしての皺をつくる想うことを想うことはできないが想ってことで出来た皺については想うことができるー中原中也皺。
その腹に何が不足ぞ鳴く蛙蝦蟇
ほんとうは一つ目小僧なんですけどね。豆腐が好きでいつも買いに行くのです。あと茗荷と雑魚と葱も一緒に。何処に行くんですか?と聞かれるとある日は「足の向くまま」と答えます。又次の日に聞かれると「風の吹くまま」と答えます。又次の日「愛の向くまま、風の吹くままですか?」と聞かれるとこう答えます。「豆腐を買いに」。豆腐小僧
僕が初めて兄貴に贈り物をしたのが新築祝い、マーク・ロスコのリソグラフでした。オレンジとグレーの。オマージュ
羨君有酒能便酔羨君無銭能不憂うらやむきみがさけありてよくすなわちようことをうらやむきみがせんなくしてよくうれいざることを「これはまずもっての美酒である。」「味わって貰いたい。」「何という名前の酒?」「メイコン、迷へる魂、迷魂。」「どうして君はそのような銘酒を手に入れたの?」「私はメイコンと称ばれる良酒を服用して、適度に酔うて来ました。」「次には何を味わって飲むの?」「メイテイ・・・」2020-02-12 酔唄抄。良酒は誘う大海原へ
天狗は人の心を読むという。ある木こりが奥山で天狗と遭遇した。「こりゃ怖い」と思うと、天狗は怖がっていることを知って余計に脅す。「これはまずいあっちに逃げよう」とすると、天狗は心を読んであっちこっちと先回りする。あっちこっちに逃げ惑う間にふと、木こりも意図せず持っていた斧がカズラを切りそれが天狗にぶち当たった。心を読めず思いもよらない仕返しに天狗はびっくらこいて、木こりを恐れ逃げ去った。念慮萌とかいてキザシ、誠や心の大切さ、おのれの余計ななにかに萌(きざ)されてはいけない。念慮萌
心に我慢あるときは愛嬌を失う我慢なきときは愛嬌そなわる心に欲なきときは義をおもう欲あるときは義をおもわず心を飾るときは偽りをおもう飾りなきときは偽りなし心に傲りあるときは人をうらむ傲りなきときは人を敬う心に私あるときは人を疑う私なきときは疑になし心に誤りあるときは人を怒る誤りなきときは恐るることなし心に邪見あるときは人を損なう直なるときは疑わず心に怒りあるときは言葉はげし怒りなきときは言葉やわらかなり心に貪りあるときには人に諂う貪りなきときは諂いなし心に愁いなきときは悔やみなし愁いあるときは悔やみ多し心に自慢あるときは人の善を知らず自慢なきときは人の善を知る心に迷いあるときは人を咎める迷いなきときは咎めることなし心ここにあらざれば視れども見えず聴けども聞こえずよくよく心するべし。どれかは嵌る、修養禅話。
時間はあっても金がないその境遇もまた一段の風流といわねばならぬ。あたりまえのことはあたりまえではないという処にいかぬかぎり知れるようなものではない。あるものを費やしてないものを贖う。
六識(眼耳鼻舌身意)には、それぞれ相手があるものです。眼には色、耳には声、鼻には臭、舌には味、身には触、意には法(ああはならぬ、こうはならぬという類)、これを六塵という。目は視るが役、耳は聴くが役、しかも視れども何の色と知らず唯視るのみ、聴けども何の音と知らず唯聴くのみ、これを分別するものは意識でございます。しかれども、得て悪いほうへ傾き易い意識なれば、俺が俺がが主になって、身贔屓身勝手に使われますと、分別も正しく働かぬのみかかえって固有の明徳を覆い隠して、さまざまの悪しきこと思いつくようになりまする。untitled
みのたけにあわせて捨てて拾うて生きる。わたしはやどかりになりたい。
刺激への反応は瞬時に起きるのではない。その合間に私たちはどう対応するかを選択でき、対応の仕方には自身の成長と自由が投影される。-ヴィクトール・フランクル無題
「時が自らについて考えている、それが光だ」。そう書いたのは詩人オクタビオ・パスである。自省する時間こそが光となって出現する。深く示唆的な霊感である。時間は見えない。刻々と時を刻む経過的時間を可視化するためにつくられた装置が時計である。時計の時間は流れすぎてゆく。しかし、私たちが意識する時間とは生の営みのなかでただ直線的に経過するものだけではない。淡い朝の光が強烈な昼の太陽光線となり、やがて黄昏の光となって暮れてゆく。光の微細な変容の中で時間が生起し、時間が自らについて思索しているかのように様々な濃淡と色彩を持った光が明滅する。ー今福龍太「原風景への誘い」より時と光
少年読者諸君に一言する。日本の政治は立憲政治である、立憲政治というのは憲法によって政治の運用は人民の手をもって行なうのである。人民はそのために自分の信ずる人を代議士に選挙する、県においては県会議員、市においては市会議員、町村においては町村会議員。これらの代議員が国政、県政、市政、町政を決議するので、その主義を共にする者は集まって一団となる、それを政党という。政党は国家の利益を増進するための機関である、しかるに甲の政党と乙の政党とはその主義を異にするために仲が悪い、仲が悪くとも国家のためなら争闘も止むを得ざるところであるが、なかには国家の利益よりも政党の利益ばかりを主とする者がある。人民に税金を課して自分達の政党の運動費とする者もある。人間に悪人と善人とあるごとく、政党にも悪党と善党とある、そうして善党はき...いつの世も
(カフクハアザナエルナワノゴトシ)フランツ・カフカは真実の道についての考察でこんな風に述べている。「真実の道は一本の縄。別に高く張られているわけではなく、地上からほんの少しの高さに張られている一本の縄を超えてゆくのだ。それは人々がその上を歩いていくためよりも、人々がそれに躓くためにつくられているように思われる」。縄