還暦前後から老後の暮らしを豊かにするための東洋、西洋、仏典などの古典の紹介。
上堂(9)「汝等諸人、作麼生會」(さて、諸君はそれをどのように会得するのか) 「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「上堂」の最後の部分になります。 ここでは臨済禅の要点が述べられます。 どれも簡潔な言い方になっていますが、理解しやすいものではなりません。 どれも真剣に取り組み、考え抜かないといけないものでしょう。 しかし、ここまで臨済が言っているように...
上堂(8)「論劫在途中、不離家舍」(仏法を論じて進みながらも本来いるべきところを離れていない) 「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「上堂」での講話の続きです。 前回は修行の目指すべき方向、究極の姿についての臨在の考え方が示されていました。 今回の部分では、どのように修行をしていくべきか、どのようにすることで、最終的な悟りの境地に至れるのか、それを短い言葉で語っています...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「上堂」での講話が続きます。 今回は禅の修行の到達点に触れています。 修行の先にどのような境地に至ればよいのか、到達点はどのようなところか、という議論が修行僧の間で行われていたのでしょう。 あるいは、過去にそのような境地に達した人は誰だった...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「上堂」が続きます。 今回の部分は、禅における問答のあり方に焦点をおいています。 師と向き合った修行僧は、どのような状況に置かれるのでしょうか。 もし修行している僧が、その口頭で、まるで真剣の刃を向けるような質問をしたら、臨済はどのように答...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「上堂」の5回目。 前回は喝、今回は棒です。 棒もいろいろな場面で使われます。 いずれも、身体を速やかに動かすことが求めらているように読めます。 心とともに身体も即妙の対応をするべし、と言われているのかもしれません。 臨済録の原文全文...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「上堂」の4回目。 ここでは臨済と僧たちとの間で「喝」についてのやり取りが三通り行われます。 一つ目 は、臨在が上堂してすぐ。 一人の僧が師の前に出てきます。 臨在はすかさず一喝します。 前に出てきた僧は、今の喝は、自分を試すためのも...
こんにちは、 暖淡堂 です。 今回は「上堂」の3回目。 臨済禅のキーワードの一つ、「無位の真人」が出てきます。 「赤肉團上」とは、いままさに生きているこの肉体のこと。 そこに「無位の真人」がいるのだ、と言います。 なんの位置付けもない、立場もない、なにものにもとら...
こんにちは、 暖淡堂 です。 今回は「上堂」の2回目です。 河北を治めていた藩鎮の一つ、成徳府(成徳軍節度使)主の王常侍に依頼されて行われた説教の続きです。 この日、臨済は王常侍から説法を依頼され、修行僧たちが集まる堂で座に上ります。 臨済が話し始めようとすると...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「臨済録」の内容を続けて紹介しています。 今回は「上堂」の冒頭部分です。 臨済は自らが河北の滹沱河を臨む院の住持となって以来、河北の地を中心に教えを広めていました。 この「上堂」は、当時河北を治めていた藩鎮の一つ、成徳府(成徳軍節度使)主の...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「臨済録」の現代語訳の作業を一通り終えました。推敲を続けながら、少しずつこの散木の小屋で紹介していきたいと思います。 今回は序文。すでに一部を記事にしていますが、今回は序文全文をあらためて紹介します。 漢文を学ぶときに、原文を書き下し文...
論語卷第十 子張第十九 子張曰、士見危致命、見得思義、祭思敬、喪思哀、其可已矣、 子張曰、執德不弘、信道不篤、焉能爲有、焉能爲亡、 子夏之門人問交於子張、子張曰、子夏云何、對曰、子夏曰、可者與之、其不可者拒之、子張曰、異乎吾所聞、君子尊賢而容衆、嘉善而矜不能、我之大賢與、於人何...
論語卷第九 陽貨第十七 陽貨欲見孔子、孔子不見、歸孔子豚、孔子時其亡也、而往拜之、遇諸塗、謂孔子曰、來、予與爾言、曰、懷其寶而迷其邦、可謂仁乎、曰、不可、好從事而亟失時、可謂知乎、曰、不可、日月逝矣、歲不我與、孔子曰、諾、吾將仕矣、 子曰、性相近也、習相遠也、 子曰、唯上知與下...
論語卷第八 衛靈公第十五 衛靈公問陳於孔子、孔子對曰、俎豆之事、則嘗聞之矣、軍旅之事、未之學也、明日遂行、 在陳絕糧、從者病莫能興、子路慍見曰、君子亦有窮乎、子曰、君子固窮、小人窮斯濫矣、 子曰、賜也、女以予爲多學而識之者與、對曰然、非與、曰、非也、予一以貫之、 子曰、由、知德...
論語卷第七 子路第十三 子路問政、子曰、先之勞之、請益、曰、無倦、 仲弓爲季氏宰、問政、子曰、先有司、赦小過、舉賢才、曰、焉知賢才而舉之、曰、舉爾所知、爾所不知、人其舍諸、 子路曰、衛君待子而爲政、子將奚先、子曰、必也正名乎、子路曰、有是哉、子之迂也、奚其正、子曰、野哉由也、君...
臨済の修行のスタイルは、よく 「臨済の喝」 と呼ばれます。師や弟子たちとのやり取りで、勘所にくると「喝」と叫び、悟りへの一歩を進めます。 師の黄檗は 「黄檗の棒」 とされているのと好対照ですね。黄檗は弟子を棒でピシャリと打ちました。 臨済もまた棒で打ったり、平手を喰らわ...
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「臨済録」原文全文とその現代語訳を紹介しました。 仏教や禅に関する書籍ですが、純粋に東洋思想の書物としても読むことができます。 そこに書かれている言葉は、現代に生きる私たちにとって、自信を持ち、より心穏やかに暮らすための導きとなるものばかりです。 「臨済録」が、より多くの人たちに読まれることを
臨済は、自らの法を伝えた慧然に、最後の問いかけをします。 それに対し、慧然は一喝で答えます。 臨済はその答えに満足したのでしょうか。 それとも大いに不満だったのでしょうか。 自分の法は、目の見えない驢馬のところで滅んでしまう。 そう言って亡くなりました。 臨済が亡くなった後、慧然らは師の
金牛和尚は臨済の振る舞いを無礼であると咎めます。 しかし臨済はまったく構いません。 そして、さらになにか言おうとする金牛和尚に一棒を加えます。 溈山に、さてこの二人、どちらが勝ったのだろうかと問われた仰山は答えます。 勝ったとしたらどちらも勝ち、負けたとしたらどちらも負け。 勝ち負けは、こ
溈山は、古人たちの教えは電光石火のようなもの、誰も追い切れないが、そもそもそんな言葉には意味などなかったのだ、と言います。 それに対し、仰山は言います、表向きには誰も通さないが、裏ではこっそりと馬も車も通り抜けています。 言葉の上での厳しさはあっても、通り抜ける術はあるものだ。 そう言っている
明化は臨済に、どうして歩き回っているのかと尋ねます。 臨済は、ただ歩いて草鞋をすり減らそうとしているだけです。 あるいは、ただ草鞋がすり減ってしまうまで歩いているだけです、ということかもしれません。 明化はさらに問います。 それはどういうことか、と。 臨済はそれに答えるのではなく、ただつぶ
臨済は凡でもなく聖でもないところを象田に尋ねます。 それに対し象田は、まあ自分は見たままの、このままのものだよ、と答えます。 臨済は一喝して、ここに集まっている僧たちは、象田から何を学ぼうとしているのか、と言います。 その言葉の意味は、何通りかに解釈できるかと。 ここには学ぶべきものはない。
翠峰の問いかけに対して、臨済は、黄檗には特別な言葉などありません、と答えます。 そうだとしても、何か言ってごらんと翠峰はさらに問いかけます。 それで、臨済は、矢のように、あっという間に西に向かって飛び去った。 もうここには痕跡も残っていないのだ、と言います。
とても短いやり取りの中で、華厳和尚と臨済はお互いの力量を計りあっています。 そしてそれぞれを認めているのでしょう。 臨済録の中に出てくる人たちは、懸命に経典を読むことよりも、むしろ居眠りをするような状況を評価しているようです。 そこから私たちはどのようなことを読み取るべきでしょうか。
大慈和尚は臨済に答えて言います。 冬の寒さの中でも松は変わらず、千年経とうとも他のものとは同じではない。 しかし、世の中も春ともなれば、老人は花を手にもて遊ぶのだ。 それは大慈和尚のそのままの現状を言ったものかもしれません。 それに対して臨済は言います。 古くから完成された知恵といわれてい
臨済は、師である黄檗の教えを、その痕跡を見ることもできない、と言います。 それは形を変え、臨済自身の中に流れ込んだものということかもしれません。 黄檗の教えが、笛に流れ込む爽やかな風であれば、きっと清々しい音を出すはず。 その笛の音を聞いている者はどこにいるのか、と平和尚は尋ねます。 その問
剣先を交えることなく勝ちを得るにはどうしたらよいか、どうかその方便を示してほしい。 臨済はそう問います。 それに対して龍光は剣で相手に切り掛かるときのかけ声を発します。 咄嗟の方便ではなく、追い詰められたときに発する一声のように聞こえます。 臨済は遠慮することなく言います。 龍光は負けた、
住職は、仏陀のお墓に礼拝しますか、それとも祖師のお墓を先にしますか、と聞きます。 臨済は、どちらにも礼拝しない、と言って、立ち去ってしまいます。 では臨済は何をしにそこに行ったのでしょうか。 仏教や禅の修行者を縛り付けているものの張本人たちを確認しに行ったのかもしれません。 そして、それらの
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