東京メトロ銀座線・半蔵門線の三越前駅より徒歩1分、中央区日本橋室町にある福徳神社(福徳稲荷)貞観年間(859年~876年)には既に鎮座していたとされています。日本橋室町二丁目付近は、昔は武蔵国豊島郡福徳村という農漁家の点在する片田舎で、その村名から「福徳稲荷」と呼ばれました。村人は神社の森を「稲荷の森」、里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいましたが、明暦3年(1657)正月8日の大地震により、...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
丹中山墓地には、戊辰戦争参戦者の墓もあります。真邊戒作正精(まなべ まさよし)御馬廻。迅衝隊 6番隊長、第 4胡蝶隊司令として会津まで若松城攻略戦まで転戦。のち高知藩留学生団長として英国へ留学したが、帰国後の明治 12年 ( 1879 ) 自殺した。長崎貫太頼房土佐郡小高村の徒士 ( かち )。迅衝 6番隊士として、幕府大鳥軍と戦い白河表において慶応 4年 ( 明治元年、1868 ) 7月 27日戦病死した。33歳。田中煌之進重行土佐郡小...
坂本家一族の墓所は、上町から北西に位置する通称・丹中山(たんちやま)の中にあります。坂本家墓所のあるここ丹中山(たんちやま、通称)は、隣接する小高坂・井口・上町に住居する下級武士をはじめとする墓地山として、長い歴史を重ねてきました。そのため、この周辺には江戸時代の治世・武術・医術・文芸などにすぐれた人物や幕末勤王志士・戌辰戦争従軍兵士、その家族の墓が集中し、坂本家もそのうちの一家です。 この地(丹...
浜松魅力発信館「いだてん」展がリニューアル!(4) 田畑政治紹介コーナー
浜松魅力発信館こちらは、田畑政治紹介コーナー田畑政治のプロフィール、年表、パネルなどが展示されています。田畑政治(前列左)と金栗四三(前列右)田畑政治が一年生の時の水泳訓練記念写真浜名湖に設置された飛び込み台田畑政治や金栗四三についての資料はこちらでいただけます。また、浜松魅力発信館では、現在「浜松フィルムコミッション展」も開催中です。浜松でも撮影が行われた長澤まさみさん主演映画「コンフィデンスマ...
浜松魅力発信館の「いだてん」展は、パネルによる説明も充実しています。田畑政治と金栗四三田畑をとりまく人々水泳日本代表チーム嘉納治五郎をとりまく人々四三をとりまく人々志ん生一家と孝蔵をとりまく人々四三と三島弥彦田畑政治選手団団長古橋廣之進(左端)いだてんに登場する街「浅草六区」にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加...
田畑政治の実家・造り酒屋「八百庄」のシーンを撮るため、当時の資料をもとに用意された撮影用小道具が展示されています。ところどころに「河童」の文字が!当時の八百庄田畑政治が立ち上げた水連本部のセットイメージを再現しています。バー「ローズ」にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日...
浜松魅力発信館の「いだてん」展がリニューアルオープンしました。ドラマ後半の主人公の田畑政治をはじめ、メインキャストの等身大パネルや衣装・小道具が展示されています。左:田畑政治ポスター撮影衣装 右:前畑秀子(上白石萌歌)橋本高等小学校の学生。後に椙山女学校の学生。高石勝男(斎藤工)競泳自由形の選手。招致アルバムいだてん脚本志ん生の扇子・手ぬぐい なめくじ艦隊バー「ローズ」のコースターバー「ローズ」の...
高知滞在最終日に、高知市桟橋通にある高知市立自由民権記念館を訪ねました。「自由は土佐の山間より」といわれるように、高知は自由民権運動発祥の地として知られています。植木枝盛や中江兆民、板垣退助ら多くの自由民権運動家を輩出し、土佐の自由民権運動は、全国へと広がり、日本で最初の国民的な民主主義運動になりました。自由民権記念館では、自由民権運動のあゆみをし、紹介板垣退助が襲われたときの短刀や、「自由万歳」...
「はりまや橋商店街」は、はりまや橋から東,全長約120メートルに約40店が軒を並べる商店街です。高知県産の木材を使用した全国的にも珍しい木造のアーケードを平成10年に取り入れており、よさこい祭りの競演場の一つにもなっています。「魚の棚商店街」は、はりまや橋商店街の途中から北に向かってのびる約80m、道幅3mほどの商店街で、魚や野菜、乾物、衣料品などの店が軒を連ねています。「魚の棚」は江戸時代初期の寛文年間(166...
中断していましたが、土佐の旅シリーズに戻ります。とさでん交通後免線で、県立美術館通停留場で下車。この日は、朝からずっと雨が降っていたのですが、ここに着く前に雨が上がり、美術館に向かっていく途中に虹が出ました! 徒歩約5分で到着。1993年11月3日に開館。芸術文化の発信地として、県立美術館ホールも併設され、映画上映会、コンサートや能、演劇などが開催されています。 土佐湾に注ぐ国分川沿いにあり、水辺に浮かぶ美...
豊川稲荷の最後の記事です。御神輿殿豊楽殿寺宝館 お寺が所蔵している文化財を保存しています。最後に・・・境内に咲いていたハスの花です。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...
弁天島の小さな公園の前に、浜名湖弁天島100mプール跡の案内板が設置されています。大正10年(1921)、浜名湾游泳協会幹事で、資産家の長谷川鐵雄が、長さ100m、幅30mの海水プールを建設し、ここで浜名湾全国競泳大会が開催されました。第2回大会で浜名湾勢は日本一を獲得。巨大な施設だった楽園は、夏のレジャーセンターとして多くの人で賑わったそうです。 大正10年(1921)、田畑政治の中学・高校・大学の大先輩であり、浜名湾...
最祥殿は、昭和4年竣工総檜造りで、間口十三間(23.6メートル)、奥行二十六間(47.27メートル)の日本式大建築物で、内部は四百畳敷きとなり講中、団体などの御信者約千有余人の接待ができる大座敷です。 二十九世黙童禅師の揮毫による「此處最吉祥」の大額が正面に掲げられているので、この建物を「最祥殿」と呼んでいます。 にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴...
三重塔本坊書院の西側には、庭園があります。書院の庭園として、江戸時代に造られたものです。池を設け、芝生の築山を置き、空滝を作り、主として山麓、池、汀、庭石を組み立て、庭木は、そてつの郡植およびさつき、くちなし、さざんか、茶などの刈り込みものを主体とし、松、紅葉などの植え込みを背景としています。妙厳寺の本殿と庭園亀の像金色の灯籠最祥殿昭和4年竣工総檜造りで、間口十三間(23.6メートル)、奥行二十六間(4...
奥の院文化11年(1814年)の建築で、昭和5年の大本殿の新築に伴い、旧本殿の拝殿を奥の院拝殿として移築したもので、彫刻は名匠諏訪ノ和四郎の一代の傑作といわれています。春・秋の祭典の行事が行われる霊殿でもあります。納符堂お札を納めるところです。景雲門奥の院参道の中間にあります。安政5年(1858年)の創建で、旧奥の院拝殿を昭和5年の大本殿の御開帳に際し、現在地に移転し、景雲門と名付けられました。彫刻は名匠・諏...
さらに霊狐塚を進んでいくと、紅い前掛けをかけた狐の石像に変わります。おびただしい数の狐の像でしょう!狐の表情やポーズが一体ずつ違うので、すべてを見て回りたくなります。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...
霊狐塚は、もとは納めの狐像を祀る場所でしたが、祈願成就の御礼として御信者が奉納された狐の石像が、大小800体ほどお祀りされています。ちょっと険しい表情の象ですねw(゚o゚)wにほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...
では、鳥居をくぐってお参りします。豊橋稲荷は、神社ではないものの、鳥居があるのです(^^ゞ鳥居をくぐった先にある大本殿には、当寺の信仰の中心になっている吒枳尼天が祀られています。入母屋造重層屋根、妻入の大規模な堂宇。1908年(明治41年)に着工し、20年以上をかけて1930年(昭和5年)に竣工しました。建物は総欅造り、妻入二重屋根三方向拝の形をとり、間口十間七分五厘(19.35メートル)、高さ百二尺(30.6メートル)...
浜松の学童数の増加に伴い、明治42年(1909)に浜松南尋常小学校が新設されました。田畑政治は6年の夏から新校舎へ通うことになりましたが、成績が抜群で実家も資産家であったため、浜松中学校(現在の浜松北高)への進学を希望するようになったそうです。浜松市中区海老塚の浜松南尋常小学校跡は、現在は双葉小学校となっています。随分モダンな建物ですね。今では珍しい二宮金次郎の像双葉小学校の前に、案内板が設置されています。...
豊川稲荷は、愛知県豊川市豊川町にある曹洞宗の寺院で、正式の寺号は妙厳寺(みょうごんじ)といいます。豊川稲荷の「稲荷」とは、境内の鎮守として祀られる吒枳尼天(だきにてん)のことで、その稲穂を担いだ姿などから、一般には「豊川稲荷」の名で呼ばれるようになりました。吒枳尼天は、インドの古代民間信仰に由来する仏教の女神ですが、日本では稲荷信仰と習合し、稲荷神と同一視されるに至ったそうです。豊川稲荷は神社では...
土佐の旅シリーズが途中ではありますが、今日から豊川稲荷の記事をお届けします。一昨年の夏、愛知県の豊川稲荷をお参りしてきました。豊川駅を降りて、駅前に出るときつねの像が出迎えてくれます。あらゆるところにお稲荷さんが登場してきます。駅前と豊川稲荷を繋ぐ参道を歩いて行くと、すぐに観光案内所があり、参道の両側にお店がずらりと並んでいます。案内板も充実!稲荷神社といえば「いなり寿司」が定番ですよね。こちらの...
2017年(平成29)3月、高知城のふもとに開館した高知城歴史博物館(通称 城博じょうはく)は、国宝や重要文化財を含む約6万7千点に及ぶ土佐藩主山内家伝来の貴重な資料を中心に、土佐藩・高知県ゆかりの歴史資料や絢爛豪華な大名道具や美術工芸品の数々を収蔵・展示しています。複製品の山内一豊の陣羽織山内豊房の陣羽織軍扇実物資料を中心に、体験型展示や映像、メディア機器などで、大人から子供まで楽しみながら歴史を学ぶこと...
高知市はりまや町に山田橋番所跡があります。ここで、多くの勤王党志士が命を落としました。山田橋の南詰東側が藩の獄舎跡地で、西側が番所跡。この橋は北街道、東街道からの城下への入り口であり、かつては番所と高札場がありました。この獄舎で、文久2年(1862年)には青蓮院宮の令旨を得て、隠居中の山内豊資のもとで藩政改革を行おうとし、山内容堂の怒りに触れた間崎滄浪、平井収二郎、弘瀬健太らが投獄され、切腹処刑されて...
そして、最後に高知城の天守閣からの眺めをどうぞ!ここで立ち止まって撮影することができなかったので、数枚しか写せませんでしたが、二の丸~三の丸を照らし出す幻想的なライトアップを堪能できました。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...
本丸と二ノ丸を結ぶ渡り廊下の襖には波を描いた作品が見られます。色とりどりのライトに映し出される天守閣と木々追手門から三ノ丸・二ノ丸,本丸へと進できました、いよいよ天守の中へと入っていきます。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...
明治35年(1902)創部の浜松中学校水泳部は、茗荷屋旅館を借りて、古式泳法・遠泳・飛び込み・水上運動会等の水泳訓練を行っていました。ここが生家の堀江耕造は浜松中水泳部の中心人物で、浜名湾の会長や日本水泳連盟副会長も務めました。弁天島海浜公園に、浜名湖弁天島茗荷屋旅館跡の案内板が設置されています。浜松中学校の水泳部の活動が始まったのは明治35年(1902)。舞阪町の宝珠院に本部を置き、弁天島の老舗旅館である茗荷...
卵型の照明を手前にして、高知城の天守を撮ってみました。城内の木々が赤く染まっているよう。皆さんはどの照明の色がお好みですか?にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...
ライトアップされた石垣と天守閣卵型の照明が至る所に並んでいます。この卵型の照明が次々に色を変え、天守閣が幻想的に浮かび上がります。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...
昨年の秋、高知城では、11月22日より「志国高知 幕末維新博」の特別企画として、「チームラボ 高知城 光の祭」が開催されていました。大手門から入城。同じところに立っていますが、照明の色がころころと変わるので、違った雰囲気を楽しめます。石垣には、様々な動物が鳴き声とともに映し出されまるでナイトサファリのようでした。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村...
天守6階に到着!この階には、廻縁・高欄がつけられており、高知市街を四方から見渡すことができます。東側北側西側南側三ノ丸詰門・廊下門・東多聞こうして上から眺めてみると、複雑なお城のつくりがわかりますね!にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...
天守3階の破風の間破風の内側に部屋を設け、人が入れるようになっています。高知城の破風の間は、石打棚と呼ばれ、物見や鉄砲狭間としての役割があり、東西南面に設けられています。また、北側の破風内部は、隠し部屋となっています。4階は、全国のお城の写真などが展示されています。ここから鯱を間近に見ることができます。高知城の鯱は、上重、下重とも青銅製で、雄雌一対で、阿吽の相を表しています。宝暦7年(1757)と寛政4年(1...
明治22年(1889)の東海道鉄道全通に伴い、浜松の資産家たちは弁天島に別荘をもつようになり、田畑家も弁天橋のたもとに別荘を造りました。政治は浜名湖で自然に泳ぎを覚え、幼少時から水泳に高い関心を持つようになったそうです。明治の中頃になると、海水浴が病気の治療に効果があるとされ注目を集めた。明治22年(1889)東海道鉄道が全通すると、浜松の資産家たちは弁天島に別荘を持つようになり、田畑家も弁天橋のたもとに別荘を...
「ブログリーダー」を活用して、しずかさんをフォローしませんか?
東京メトロ銀座線・半蔵門線の三越前駅より徒歩1分、中央区日本橋室町にある福徳神社(福徳稲荷)貞観年間(859年~876年)には既に鎮座していたとされています。日本橋室町二丁目付近は、昔は武蔵国豊島郡福徳村という農漁家の点在する片田舎で、その村名から「福徳稲荷」と呼ばれました。村人は神社の森を「稲荷の森」、里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいましたが、明暦3年(1657)正月8日の大地震により、...
中央区日本橋大伝馬町「べらぼう」で、片岡愛之助さんが演じる鱗形屋孫兵衛は、江戸時代、通旅籠町と呼ばれたこの地に地本問屋を構えていました。浄瑠璃本、草双紙、吉原細見、宝船などでを手掛け、安永4年(1775年)に恋川春町『金々先生栄花夢』を刊行して黄表紙をヒットさせました。日本橋堀留町に鎮座する池州稲荷神社は、かつて鱗形屋を同じ通旅籠町にあったったといわれています。創建年代などは不祥ですが、池州屋敷の池沼...
人だけでなく、軍用犬・軍馬慰霊碑や「猫塚」「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」(三味線の革の供養)など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数。著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉などの墓があります。山東京伝の墓鼠小僧次郎吉の墓猫塚1793年(寛政5年)、老中・松平定信の命によって造立された「水子塚」は、水子供養の発祥とさ...
明暦大火の供養塔明暦の大火振袖(ふりそで)火事,丸山火事とも。1657年(明暦3年)江戸本郷丸山町から出火し,江戸城本丸をはじめ江戸市中を焼き尽くした火事。死者10万人以上といわれ,江戸城も西丸を残して焼失。幕府は復興に際し御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転,寺社の外辺部への移転などを進め,町屋も道幅を広げ,広小路や火除地を設定,家屋の規模を定めるなどの措置をとった。(コトバンクより)明暦三年(1657...
墨田区両国二丁目にある回向院は、振袖火事と呼ばれる明暦3年(1657)に起きた明暦の大火の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まりで、のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬されました。明和5年(1768)以降には、境内で勧進相撲が興行され、これが今日の大相撲の起源となり、明治42年(1909)旧両国国技館が建てられました。回向院明暦三年(1657)、江戸史...
今夜の「べらぼう」で、ついに蔦重が日本橋に進出することに🙌今まで敵対してきた鶴屋もようやく蔦重の才覚を認め、通油町が吉原ものを歓迎するというお話でした。中央区日本橋大伝馬町に、蔦屋重三郎「耕書堂」跡の案内版があります。日本橋の通油町(とおりあぶらちょう)は、古くから重三郎と付き合いのあった版元の鱗形屋孫兵衛だけでなく、鶴屋喜右衛門、西村屋与八など錦絵創始の老舗版元が多数店を構える江戸の出版界の中心...
大伝馬本町本通りは、かつての日光・奥州街道です。江戸時代、五街道の起点・日本橋は交通の要所で、大伝馬町本通には、「越後屋」や「白木屋」などの店が軒を連ねていました。日本橋から延びる日光東照宮への参詣道「日光街道」も人や物が行き交い、日本橋の町は大変賑わいました。徳川家康公江戸開府に際し、御傳馬役支配であった馬込勘解由が名主としてこの地に住し以後大傳馬町と称された(碑文より)江戸名所図絵や広重の錦絵に...
神田駅から歩いて4~5分のところにある旧今川中学校のグラウンド前に「平賀源内居住跡」の案内板があります。平賀源内は、讃岐から上京してから転居を繰り返し、神田白壁町(現・鍛冶町)や神田大和町、神田橋本町などに住んでいたといいます。(千代田区観光協会リーフレットより)今年に入り、「べらぼう」が始まってから設置されたようです。平賀源内(享保13年(1728)~安永8年(1779))は、エレキテル(摩擦静電気発生装置) の...
合祀殿籠祖神社(猿田彦神、塩土老翁神)をはじめ、神田明神本殿に合祀されていた八幡神社(誉田別命)や富士神社(木花咲耶姫命)、天神社(菅原道真命、柿本人麻呂命)、大鳥神社(日本武尊)、天祖神社(天照大御神)、諏訪神社(建御名方神)を合祀。籠祖講関係石造物群千代田区指定有形文化財2005年(平成17年)4月1日指定籠祖(かごそ)神社は、塩土翁神と猿田彦大神祭神が祭神で、社伝によれば1798年(寛政10年)に神田神社...
神田明神は何度か参拝してますが、今まで見逃していたのが、浮世絵師 水野年方顕彰碑です。水野年方(みずのとしかた)日本画家。通称は粂次郎。初め月岡芳年に歌川派の錦絵,山田柳塘に陶画,柴田芳州に南画を学び,のち三島蕉窓,渡辺省亭に師事して人物画,草木画,風景画を得意とした。1887年頃から『やまと新聞』に挿絵を描き,また日本美術協会,日本美術院,日本画会に作品を発表するかたわら,評議員や審査員を務め,浮世絵...
鳳輦神輿奉安殿神田祭において、一の宮・大己貴命がお乗りになる一の宮鳳輦、二の宮・少彦名命がお乗りになる二の宮神輿、神田明神大神輿を奉安する。神田祭の時にこの場所で「鳳輦神輿遷座祭」を執り行う。(神田明神HPより)三の宮奉安庫 (鳳輦庫)三の宮・平将門命(たいらのまさかどのみこと)、平将門様のお乗りになる神輿が奉安されています。三宿稲荷神社・金刀比羅神社三宿稲荷神社 江戸時代より神田三河町の氏神として奉斎...
続いて神田明神の摂末社の紹介です。魚河岸水神社 日本橋魚河岸の守護神として創建され、元和年間に神田明神境内に遷座しました。魚河岸水神社 御祭神 弥都波能売命祭礼日 五月五日 日本橋魚河岸水神社は、徳川家の武運長久と併せて大漁安全を祈願する為、魚河岸の先人により武蔵国豊嶋郡柴崎村神田神社境内(今の千代田区大手町)に鎮座された。 元和年間(1615~)神田神社と共に此の地に遷り、大市場交易神と称されその後、水...
神田明神の境内を紹介します。御社殿昭和9年に竣功。権現造。当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の社殿。本殿・幣殿・拝殿さらに神饌所・宝庫が重なり合うように造られて昭和初期の神社建築では新しい形式をもつ。現の社殿の前は、天明2年に江戸幕府によって造営された。木造で権現造・総朱漆塗。江戸時代後期の神社建築を代表する社殿であったと言われている。社殿内には江戸幕府造営を象徴する徳川将軍家の葵...
神田明神(かんだみょうじん)は、千代田区外神田二丁目にある神社で正式名称は神田神社大鳥居をくぐるとすぐに随神門があります。随神門昭和天皇御即位50年の記念事業として昭和50年に新たに再建されました。総檜・入母屋造。二層建て・屋根は銅板瓦棒葺。外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因幡の白兎」など、だいこく様の神話をモチーフにした彫刻が、二層目には、平将門に由来する金箔をほどこした「繋馬」の彫刻が...
滝沢馬琴住居跡から神田明神に向かう際、急な階段が立ちはだかりました。この石段は「明神男坂」と呼ばれ、『江戸名所図会』にも登場します。『江戸名所図会』にも登場するこの坂は、江戸時代には「明神石坂」、「石坂」、「明神東阪」などと呼ばれていました。高台で見晴らしが良かったため、風光明媚な場所として錦絵にも描かれています。幕府が1825年から1828年(文政8年~11年)の間に町名主に提出させた、町の情報をまとめた...
外神田三丁目の芳林公園の前に滝沢馬琴住居跡の案内板があります。滝沢馬琴は、『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』、『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』などを著わした江戸時代の戯作者(げさくしゃ)です。旗本松平信成の家臣の子として生まれた馬琴は、元飯田町中坂下(現在の九段北一丁目)の下駄屋会田家の養子となりますが、家業を人に任せ、戯作者としての道を歩み始めます。1824年(文政7年)には、外...
土日祝日は、湯島聖堂の大成殿の内部が公開されています。ちょうどこの日は土曜日でしたので、内部を見学してきました。大成殿(たいせいでん)湯島聖堂の中心的な建造物で、孔子を祀るための殿堂。間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートル、入母屋造り。大成とは、孔子廟の正殿の名称。宋(北宋)の仁宗のとき命名。「孟子」万章下「孔子聖之時者也、孔子之謂集大成、集大成也者、金聲玉振之也。」に基づく。殿内、中央...
透塀入徳門木造、平家建。切妻造り。延面積14.16m2宝永元年(1704)建造。入徳とは、朱熹の「大学章句序」「子程子曰、大学、孔子之遺書而初学入徳之門也。」による。聖堂内、唯一の木造建造物。水屋水屋の脇に紫陽花が咲いていたのでパチリ📷紫陽花越しに入徳門を見下ろすと杏壇門(きょうだんもん)間口20メートル、奥行4.7メートル、入母屋造り。杏壇とは、山東省曲阜にある孔子の教授堂の遺址のこと。宋の乾興のとき、大殿(大成...
御茶ノ水ソラシティから聖橋を渡ります。湯島聖堂を目指して歩いていると、右手に練塀が見えてきました。湯島聖堂は、1690年、上野忍岡の林羅山邸内にあった孔子廟を五代将軍・徳川綱吉がこの地へ移したのがはじまりです。綱吉は先聖殿を「大成殿」と改称し、それに付属する建物を含めて「聖堂」と総称し、建物全体を朱塗りにして青緑に彩色したと記録に残されているそうです。1797年には、西隣に幕府直轄の昌平坂学問所が開設され...
蔦屋重三郎は、数々の文化人や作家たちを世に送り出しました。その中の一人・大田南畝(おおた なんぽ)は、江戸を代表する狂歌師や随筆家として知られています。狂歌では、唐衣橘洲や朱楽菅江とともに「狂歌三大家」と呼ばれていました。重三郎は、南畝が残した数々の作品に出版者として携わり、「嘘言八百万八伝」も蔦屋重三郎が版元として世に送り出しました。御茶ノ水駅から徒歩1分の「御茶ノ水ソラシティ」が建つ地には、江戸...
下京区夕顔町に夕顔之墳があります。ここは、『源氏物語』第4帖「夕顔」に登場する夕顔の屋敷があった場所とされ、住宅地の一角に立つ石碑には「源語傳説 五條邊 夕顔之墳」と刻まれています。昭和4年に京都史蹟会によって建てられたそうです。夕顔は物語の中の架空の人物ではありますが、当地の地名も夕顔町となっています。「源氏夕顔巻」(月岡芳年『月百姿』)光源氏が夕顔の屋敷に泊まると、深夜に夢に嫉妬したもののけ(六条...
北野天満宮の帰りに大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)を参拝しました。大将軍八神社は、桓武天皇が、王城鎮護のために星神大将軍を勧請したといわれる社で、方違え(方除け厄除けの神)として、建築・移動・転宅・婚姻・旅行・交通等あらゆる人間生活に於いて方位の厄災から守護する神として信仰されました。方違えとは、陰陽道に基づいて平安時代以降に行われていた風習のひとつで、外出や造作、宮中の政、戦の開始などの...
元三大師堂本尊は元三大師(良源)。他に毘沙門天像、薬師如来像、不動明王像などを安置。毘沙門天は京都七福神の一つ。鐘楼手水社廬山寺(ろざんじ)(廬山天台講寺[ろざんてんだいこうじ])沿革天慶年中、元三大師良源によって草創される。良源は康保3年(966)55歳で第18世天台座主となり、内供奉に補せられて以降、比叡山から宮中に参内するにあたり、現船岡山の麓、現蘆山寺通北に輿願金剛院を建立し、寛和元年(985)正月3...
京都市上京区北之辺町の廬山寺は、紫式部の邸宅跡として知られています。山門南門(薬医門)遡れば、紫式部の曽祖父である藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅があり、藤原為時に譲り、紫式部はこの邸で生まれ育ち、『源氏物語』を執筆したとされています。廬山寺(ろざんじ)現在の廬山寺は豊臣秀吉の時代にこの地に移されたもので、ただしくは廬山天台講寺という。もとは天慶元年(938)に慈恵大師良源(じけいだいし りょうげん)...
藤原宣孝 は、正暦元年(990)、御嶽詣を行い、その年筑前守となりました。紫式部との結婚は998年(長徳4)の末か長保元年(999)のはじめといわれいます。紫式部の父の為時と為輔はいとこであり、宣孝と式部はまたいとこの関係にありました。998年には、石清水臨時祭、賀茂臨時祭の舞人を奉仕、同年山城守を兼任。11月末には豊前国宇佐神宮の奉幣使に任ぜられ、翌年帰京。この年4月平野臨時祭の勅使となり、7月相撲召合にも武官として...
合格門をくぐり、階段を上がっていくと、安倍晴明をお祀りする晴明堂に行き着きます。 晴明堂は、平安時代の陰陽師・安倍晴明をお祀りしています。 当山は安倍一族の寺として古来より安倍晴明信仰の聖地の一つとして数えられています。平成十六年(2004)、安倍晴明千回忌を迎えるにあたり二百年振りに晴明堂が再建されました。 正面にある「如意宝珠」は、いかなる願望も意のままに成就し、また悪を払い、災難を防ぐ功徳がある...
石仏石仏群は、江戸時代、境内地に四国八十八所・西国三十三所の本尊仏として祀られていた石仏を一同に安置したものです。その前には弘法大師像と御砂踏み石がお祀りされており、「御砂踏み石」の中には四国八十八所の御砂が奉納されています。(案内板より)白山堂 白山堂は、室町時代に建立されました。流造屋根柿葺(こけらぶき)で美しい曲線の唐破風をもった社殿です。 国の重要文化財にも指定されています。 御祭神は全国の白...
続いて、十一面観音をお参りしました。十一面観音 十一面観音は、苦しんでいる人をすぐに見つけるため、頭上に十一のお顔があり常に全方向を見守っています。 奈良時代から多く信仰され、延命、病気治癒などを願って各地でお祀りされるようになりました。 古来より当山に伝えられる十一面観音は昭和五十七年(1982)に、この場所に勧請し建立されました。また十一面観音の周りの側壁には四千五百体の奉納仏がお祀りされています...
安倍文殊院の稲荷社は、安倍晴明出生の地として、晴明の母とされる白狐・信太森葛葉稲荷が祀られています。江戸時代までは、境内の西古墳の頂上に稲荷社があったそうですが、現在は晴明が祀られている金閣浮御堂が見える場所に移されています。五穀豊穣・金運財運・商売繁盛・家運隆昌等の御利益が厚いことで信仰されています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴...
続いて金閣浮御堂へ。金閣浮御堂金閣浮御堂・霊宝館は開運弁財天(大和七福神)、安倍仲麻呂、安倍晴明の御尊像、安倍晴明の御尊軸、方位災難除けの九曜星など、陰陽道に関する宝物をお祀りしている御堂で内陣参拝できます。堂内の壁面には、秘仏の十二天御尊軸(四方(東・西・南・北)と、四隅(東北・東南・西北・西南)の八方、天と地、日と月、すべての方角を司る守護神)がお祀りされています。この御堂は「七まいり」という魔...
奈良県桜井市阿部にある安倍文殊院は西暦645年に創建された寺院で、京都・天橋立の切戸文殊、山形の亀岡文殊と共に日本三文殊のひとつです。表山門大化の改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂が大化元年(645年)に孝徳天皇の勅願もあって安倍氏の氏寺として安倍山崇敬寺(安倍寺)を建立したのが始まりである。創建当時の寺地は現在の文殊院の西南300メートルほどのところにあったが、平安時代末期に多武峰の妙楽寺(現、...
大津市歴史博物館では、令和6年(2024年)1月から、特集展示「源氏物語と大津」を約1年間にわたって開催されています。私は3月末に見て来ました。エントランスロビーの無料エリアでは、石山寺本堂の「源氏之間」が再現されており、中に入って写真撮影ができるフォトスポットになっています。「源氏之間」再現コーナーこの横には、紫式部になりきれるフォトスポットもあります。デジタル絵巻54帖各巻のあらすじや関係図が楽しめます。...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。平成橋『紫式部日記絵巻』「御産養の夜、中宮(彰子)の前に対座し静かに御簾をあげる紫式部」「御産養の盛儀を覗き見て感激する夜居の僧」蛭子橋『源氏物語絵巻』「柏木(一)女三宮を見舞う朱雀院」「柏木(二)病に伏す柏...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。千代鶴橋『紫式部日記絵巻』「新造の竜頭鷁首の舟を下見する道長」この 国安橋の向こうには、千代鶴神社があります。昭和7年(1932年)に建てられた神社で、越前打ち刃物の祖「千代鶴国安」をお祀りしています。千代鶴国安は良...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。鈴虫橋『紫式部日記絵巻』道長から賀の歌を求められる紫式部御五十日の祝いの宵、若宮に餅を供する道長岩永橋『紫式部日記絵巻』「御五十日祝いに若宮を抱く中宮と祝膳を供する女房」「渡殿にある紫式部の局に立ち寄る斉信と...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる紫きぶ七橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。河濯橋『紫式部日記絵巻』「渡殿の紫式部の局の戸をたたく藤原道長」「中宮・彰子に新楽府を進講する紫式部」城ヶ堀橋『紫式部日記絵巻』「女房たちと語りながら歳末の夜を過ごす紫式部」「風の涼しい夕暮れ、琴を弾いて憂...
武生中央公園内にあるしきぶきぶんミュージアムには、「光る君へ 越前 大河ドラマ館」や、紫式部が暮らした越前の文化や歴史を紹介する歴史展示、お土産やグッズを販売する「光る越前SHOP」があります。エントランスでは、まひろ(紫式部)役の吉高由里子さんのウェルカムメッセージのVTRが流れています。等身大パネルと一緒に記念撮影ができるスポット「衣装や小道具の展示コーナー」藤原為時紫式部(まひろ)為時が太郎に読み聞かせ...
紫式部公園に隣接した「紫ゆかりの館」は、紫式部が越前国の国司に任命された父・藤原為時とともに、武生で青春時代を過ごしたことから2021年4月23日にオープンした資料館です。 出逢いの庭紫式部の間紫式部が越前国府で過ごした青春の日々を表した展示・体験空間紫式部が越前国を訪れ、その後「源氏物語」を執筆するまでのストーリーを、絵巻物風の映像で紹介しています。また、姫君のタイプを診断できる性格診断のゲームもありま...
園内には、十二単をまとった金色の紫式部の像があります。顔は日野山、からだは京を向いているのは、日野山を見ながら京の小塩山を懐かしむ式部の心情を表しているのでしょう。像の背後のレリーフ紫式部の歌碑園内を一周すると、平安時代にタイムスリップしたかのような感覚に陥ります。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています...
紫式部公園は、紫式部を偲んで造られた平安時代の庭園を再現した公園です。「越前富士」と称される日野山を借景にした寝殿造庭園となっています。寝殿造り=寝殿、正殿などの建物と、池や築山を配した庭から成る貴族の屋敷の建築様式のこと。源氏物語に登場する主要キャスト&主要人物を表す植物釣殿池にせり出す釣殿は総檜造り。池を中心に、橋や遣水などが配置され、平安時代の雅さを感じることができます。にほんブログ村 歴史ブ...