金井八幡神社(→東京都町田市金井町)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代には広福寺(→現在は廃寺)が別当寺として祭祀を司りました。江戸時代中期の1726(享保11)年10月に仏師佐野木丞が御神像(→神仏習合の頃の神体、約15cm)を作り奉納、1751(寛延4)年7月に石段を建立、1828(文政11)年に仏師田村幸左衛門が神体の神像に彩色を施したと伝わります。また、この年に社殿が再建されたようです。現在の社殿は太平洋戦争が始まる194...
羅針盤ゼミナールの徒然ブログです。当塾の公式マスコットが歴史学の立場から解説を加え、訪問した神社・寺院・史跡などを紹介してまいります。塾の公式ブログですが塾の宣伝は少なめです。
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小山田家住宅・矢沢家表門(長野県長野市松代町)を訪問しました
小山田家住宅(→長野県長野市松代町)は、1849(嘉永2)年に建てられた木造2階建て、寄棟、銅板葺の数寄屋造(すきやづくり)の上級武家屋敷で、冠木門(かぶきもん)の西側に置かれた番所と母屋は2006(平成18)年に国登録有形文化財に指定されています。初代の小山田茂誠(おやまだしげまさ、1561年~1637)年は、甲斐都留郡の国衆小山田氏の一門筆頭で、父は1582(天正10)年3月の武田氏滅亡後に小田原北条氏を頼り、武蔵鉢形城(→埼玉県寄居町...
日本初の歌う女優として大正時代に一世を風靡した松井須磨子(まついすまこ)は、本名を小林正子といい、1886(明治19)年3月8日に長野県埴科郡清野村(→現在の長野県長野市松代町清野)で旧松代藩士小林藤太の五女(9人兄妹の末子)として生まれました。1909(明治42)年に坪内逍遥(つぼうちしょうよう)の文芸協会の第1期研究生となり、『ハムレット』のオフェリア役や『人形の家』の主人公ノラなど多くの舞台で活躍し、新劇界を代表する女...
真光山 林正寺(→長野県長野市松代町清野)は、鎌倉時代後期にこの地に配流され没した右大弁信広(うだいべんしんこう)の菩提を弔うために創建されたと伝わる浄土宗寺院です。戦後の1952(昭和27)年に旧松代藩主真田家の菩提寺である曹洞宗寺院・真田山 長國寺(→長野県長野市松代町松代)より2代藩主真田信政の御霊屋と表門が移築されたといいます。これらは江戸時代初期の霊廟建築として貴重であることから1966(昭和41)年に長野県の県...
科野のムラ(しなののむら→長野県千曲市屋代)は、長野県立歴史館の地下から発見された古墳時代のムラを復元したもので、発掘された茅葺の家・竪穴住居・高床倉庫・儀式場などの建物が復元されています。森将軍塚古墳の麓にあたる科野の里歴史公園の敷地内にあり、竪穴住居は囲炉裏に火がつき煙が噴き出していてリアルでした。水田や畑や池もあり、6月の第2日曜日に田植えの体験学習ができるようです。毎年11月には森将軍塚まつりが...
長野県立歴史館(→長野県千曲市屋代)は、森将軍塚古墳館とともに科野(しなの)の里歴史公園にあり、長野県内の考古資料や歴史史料などの展示によって原始から現代までの信濃(→長野県)の歴史を紹介する博物館で、1994(平成6)年11月に開館しました。常設展示室は「信濃の風土と人びとのくらし」をテーマに原始から近現代までを5つの時代に区分し、各時代を象徴する実大環境復元(→鎌倉時代の善光寺門前や江戸時代前期の中農農家、近代製...
千曲市森将軍塚古墳館(→長野県千曲市大字屋代)は、古墳時代前期に「科野(しなの)のクニ」を治めていた王(首長)の墓と考えられる森将軍塚古墳の資料を中心に、千曲市内の遺跡から発掘された考古資料などを所蔵・保管・展示している資料館です。2階の展示室には、森将軍塚古墳の後円部と竪穴式石室を再現し、周りには土器・埴輪・副葬品などをはじめ、長野県内の古墳・埋葬品や発掘調査のパネルなど、テーマごとに展示スペースが設け...
森将軍塚古墳(→長野県千曲市大字森字大穴山)は、古墳時代前期(→4世紀中頃)に造られた長野県最大規模の前方後円墳で、古墳時代の「科野(しなの)のクニ」を治めていた王(首長)の墓と考えられ、全長は約100ⅿあります。古墳館の裏山の標高490ⅿの山頂には、発掘調査をもとに復元された森将軍塚古墳があり、古墳までは遊歩道が設けられ歩いて往復40分ほど、専用バスで往復10分ほどで行くことができます。山頂からは戸隠山や飯綱山が見え...
松操山 典厩寺(しょうぞうざん てんきゅうじ→長野県長野市篠ノ井杵淵)は、武田信玄と上杉謙信(→当時は上杉政虎)が5度にわたって争った川中島合戦のうち、最大の激戦となった1561(永禄4)年の第四次川中島合戦(八幡原合戦)で討死した、武田信玄の実弟・武田典厩信繁(たけだ てんきゅう のぶしげ)を埋葬した瑠璃光山 鶴巣寺(るりこうざん かくそうじ)を前身とする曹洞宗寺院です。江戸時代前期の1654(承応3)年に初代松代藩主真田信之(...
川中島古戦場八幡社(→長野県長野市小島田)は、戦国時代に武田信玄と上杉謙信が争った5回の川中島合戦のうち最も著名な1561(永禄4)年9月10日の第四次川中島合戦の舞台となった八幡原(はちまんぱら)古戦場跡に建立された神社です。八幡原(はちまんぱら)の由来は、平安時代中期の1094(嘉保元)年8月に信濃国に配流された村上顕清(むらかみあききよ)が八幡神を祀った事によります。現在の社殿は1941(昭和16)年に長野県上田市の生島足島...
真田邸(→長野県長野市松代町松代)は、幕末期の1864(元治元)年に、松代藩9代藩主真田幸教(さなだゆきのり)が義母の貞松院の住まいとして松代城の城外御殿として建設したもので、当時は「新御殿」と呼ばれました。江戸時代、大名の妻子は生涯江戸住まいを義務付けられていましたが、1862(文久2)年に行われた文久の改革(→薩摩藩の島津久光が孝明天皇の勅使大原重徳(おおはらしげとみ)を奉じて江戸に参府し、14代将軍徳川家茂に実施さ...
松代城(まつしろじょう→長野県長野市松代町)は、戦国時代に甲斐の武田晴信(武田信玄)と越後の長尾景虎(上杉謙信)が北信濃の覇権を競った川中島合戦において、武田方の拠点として1560(永禄3)年に山本勘助(山本菅助)が築いたと伝わる海津城を前身とする平城です。武田時代には屋代氏・香坂氏・春日氏といった主に川中島4郡(→埴科郡・更級郡・高井郡・水内郡)の国衆が城代を務めました。江戸時代前期の1622(元和8)年に上田藩主の真田...
象山神社(ぞうざんじんじゃ→長野県長野市松代町)は、幕末の松代藩士で兵学・朱子学・洋学者の佐久間象山(さくましょうざん)を祭神として祀る神社で、1864(元治元)年7月11日に京都で暗殺された象山の、殉難50年祭が1913(大正2)年に行われたことを機に、松代町出身の大審院長(→現在の最高裁長官)横田秀雄(よこたひでお)を中心に全国の教育関係者の尽力で神社建立が計画され、1938(昭和13)年11月3日に象山神社(県社)が建立されました...
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金井八幡神社(→東京都町田市金井町)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代には広福寺(→現在は廃寺)が別当寺として祭祀を司りました。江戸時代中期の1726(享保11)年10月に仏師佐野木丞が御神像(→神仏習合の頃の神体、約15cm)を作り奉納、1751(寛延4)年7月に石段を建立、1828(文政11)年に仏師田村幸左衛門が神体の神像に彩色を施したと伝わります。また、この年に社殿が再建されたようです。現在の社殿は太平洋戦争が始まる194...
能ヶ谷神社(→東京都町田市能ヶ谷6丁目)は、江戸時代前期の正保年間(→1644年~1647年)に東照宮として創建された村民持(もち)の神社を母体とし、江戸時代後期には十六所神社といいました。幕末期の1854(安政元)年4月に再建され、1877(明治10)年6月に村社に列せられたと記されます。1914(大正3)年11月に近隣の表谷神社・天照大神・神明社・住吉神社を合祀して社号を能ヶ谷神社に改めました。現在の社殿は戦前の1931(昭和6)年4月に造営...
長滝山 多聞院 妙延寺(→東京都町田市森野2丁目)は、室町時代前期にこの地の領主であった渋谷重宗(しぶやしげむね)が長栄山 大国院 池上本門寺(→東京都大田区池上1丁目)の4代住職日山の弟子である日顕を開山に招いて創建した日蓮宗寺院です。日顕は1429(正長2)年7月23日に死去したので創建はそれ以前であることが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により前述の池上本門寺の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。また、江戸...
森野住吉神社(→東京都町田市森野5丁目)は、江戸時代前期の1640(寛永17)年9月にこの地の領主であった幕府旗本須藤家の3代須藤太郎左衛門盛忠(すどうたろうざえもんもりただ)が、祖先の菩提と武運長久のため名主の渋谷由右衛門尉重忠(しぶやゆえもんのじょうしげただ→旧北条家臣、帰農)および氏子により摂津国住吉郡の住吉大社を勧請して創建したと社宝の棟札に記されます。1710(宝永7)年12月に5代須藤権之助盛連(すどうごんのすけも...
西田杉山神社(→東京都町田市金森6丁目)は、江戸時代前期の1683(天和3)年12月に幕臣高木伊勢守の館の鬼門の守護神として創建したと伝わる神社で、社殿・参道ともに高木伊勢守の館(→神奈川県大和市下鶴間)の方角を向いてます。1793(寛政5)年12月と1936(昭和11)年に社殿が再建されました。境内には5mほどの神木の大公孫樹があります。〖祭神〗・日本武尊(やまとたけるのみこと)西田杉山神社は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂...
金神神社(こんじんじんじゃ→神奈川県川崎市麻生区白鳥4丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、1873(明治6)年に富士講(→富士山信仰)を束ねて設立された富士一山講社を起源とする扶桑教の神社です。扶桑教はかつての教派神道13派(→明治時代以降、政府によって公認された神道系の宗教団体)の一つとして知られます。境内社には笑顔が印象的な江戸期の一木彫り日本一の大黒天が祀られています。〖祭神〗・天祖参神・金山比古命(かな...
日吉神社(→神奈川県横浜市港北区日吉3丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが、往古から武蔵国橘樹(たちばな)郡矢上村の総鎮守として同村北方の俗称「お伊勢原」と呼ぶ丘上にあり神明社と称しました。江戸時代には曹洞宗寺院の谷上山 保福寺(→神奈川県横浜市港北区日吉4丁目)が別当寺を務めましたが、祭祀は平村の神職小泉信濃が来て行ったと記されます。旧社殿は田沼意次(たぬまおきつぐ)が老中首座にあった1785(天明5)年の修造と伝...
普賢山 妙海寺(→神奈川県川崎市中原区木月4丁目)は、戦国時代の1534(天文3)年に木月村の村民鳥海讃岐が開基、僧の仏性院日正が開山したと伝わる日蓮宗寺院です。鎌倉時代初期の1187(文治3)年に源義宗という人物が創建した薬師寺という草庵を鳥海讃岐が一寺としたと伝わります。境内には南北朝時代の「貞和六年」(北朝年号→1350年)と彫られた板碑があるようです。江戸時代には後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の中宮となった徳川和子...
横浜赤レンガ倉庫(→神奈川県横浜市中区新港1丁目)は、現在は公園を備えた赤レンガパークとして1年中何かしらのイベントが行われているみなとみらい地区の代表的な文化・商業・観光施設ですが、もともとは、開国以来、国内最大の貿易港となり取り扱い貨物の急増に対応するため、1899(明治32)年に東洋初の接岸式埠頭として新港埠頭の建設が始まり、その一環として作られた保税倉庫(→外国から運び込まれた輸入手続きが済んでいない物...
横浜市開港記念会館(→神奈川県横浜市中区本町1丁目)は、横浜市開港50周年を記念して市民の寄付金によって第一次世界大戦中の1917(大正6)年6月30日に竣工した「ジャックの塔」の愛称で知られる国の重要文化財です。赤レンガに花崗岩(かこうがん)をとり混ぜた辰野式フリークラシック様式(→東京駅丸の内駅舎など赤レンガに白い石材を配した華やかな西洋建築)で、通りに面した3つの隅部に時計塔・角塔・八角塔を配し、ドームを架けた建...
横浜税関本関(→神奈川県横浜市中区海岸通1丁目)は、先代が1923(大正12)年9月1日の関東大震災で倒壊焼失したため、復興事業の一環で1934(昭和9)年に再建されました。竣工当時は横浜市で最も高い建造物で、イスラム寺院(→モスク)風の塔や連続アーチなど優美でエキゾチックな雰囲気から「クイーンの塔」の愛称で親しまれている横浜市認定歴史建造物です。横浜税関資料展示室「クイーンのひろば」では横浜港と横浜税関の歴史、貿易の最...
神奈川県庁舎(→神奈川県横浜市中区日本大通1丁目)は、横浜港近くの日本大通りに面して建ち、「キングの塔」の愛称で親しまれている国指定重要文化財です。先代が1923(大正12)年9月1日の関東大震災で大被害を受けたため鉄骨鉄筋コンクリート構造が採用され、1928(昭和3)年10月31日に竣工しました。昭和初期に大流行したライト様式(→旧帝国ホテルなどを設計した近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトの手による建築様式で、茶色の...
鵜野森日枝神社(→神奈川県相模原市南区鵜野森2丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが、中世の頃より鵜野森郷の鎮守四社(→山王社・神明社・鹿島社・八幡社)として祀られており、江戸時代中期の1725(享保10)年に社殿を再建した棟札があるようです。明治維新後の1871(明治4)年に山王社を日枝大神と改称し、さらに1873(明治6)年に日枝神社と改称して村社となりました。国の一村一社政策を受けて1922(大正11)年には神明社・鹿島社・八幡...
方運山 青柳寺(→神奈川県相模原市南区上鶴間本町3丁目)は、室町時代中期の1499(明応8)年に日朝が創建した清龍寺という小庵を前身とする日蓮宗寺院です。1583(天正11)年に、室町幕府15代将軍足利義昭(あしかがよしあき)のもとを離れ小田原北条氏の家臣となった渋谷越後守義重が、日蓮宗僧侶日題が開山に迎えて青柳寺を開基したと記されます。江戸時代には本山・末寺の制により鎌倉の妙巌山 本覚寺(→神奈川県鎌倉市小町1丁目)の末寺...
上鶴間鹿島神社(→神奈川県相模原市南区上鶴間本町3丁目)は、鎌倉時代初期の建久年間(→1190年~1199年)に鎌倉幕府の初代将軍源頼朝が鶴舞の里(→鶴間)に鶴舞神社(→現在の上鶴間浅間神社)を創建した頃に境川付近の下森に創建した神社が前身と伝わる神社です。江戸時代後期の1801(享和元)年8月に現在地に遷座したという文書(→「鎮守鹿島明神社遷座願」)が残されています。遷座後は隣接する方運山 青柳寺が鹿島社と境内社の天神社(→現在...
町田天満宮(→東京都町田市原町田1丁目)は、戦国時代の天正年間(→1573年~1593年)のうち小田原北条氏の統治下(→1590年まで)に創建され、江戸時代前期の1615(元和元)年にこの地の領主となった幕府の旗本三橋氏・武藤氏によって社殿が造営されたと伝わる神社です。江戸時代には寺領7石3斗の曹洞宗寺院、金森山 宗保院(→東京都町田市原町田1丁目)が別当寺として祭祀を司りました。明治維新後は菅原神社と称したようです。1872(明治5)年...
金森杉山神社(→東京都町田市金森7丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代前期の1683(天和3)年12月に幕府の旗本高木伊勢守夫妻(→妻は於亀)及びその一族が下屋敷内に社殿を再建したと社宝の棟札に記されています。再建には家臣や名主(→村長)の大貫助兵衛・囲曽甚五右衛門が費用の大半を工面したようです。江戸時代を通して金森村の村民が西田杉山神社(→東京都町田市金森6丁目)と隔年で神体を奉遷して祭礼を行ったようです...
母智丘神社(もちおじんじゃ→東京都町田市原町田5丁目)は、『東京都神社名鑑』によると第一次世界大戦末期の1919(大正8)年に黒木昇・黒木ハナの両氏が宮崎県の石峰山山頂に鎮座する母智丘神社(→石岑稲荷明神とも、宮崎県都城市横市町)を自宅に勧請したが、「家屋鳴動し畏懼(いく→恐れおののくこと)の念に耐えず」社殿を創建したと記される神社です。家屋鳴動云々の真偽の程は定かではありませんが、個人によって建てられた神社とし...
高ヶ坂熊野神社(→東京都町田市高ヶ坂2丁目)は、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災によって由緒等が散逸したため創建年代等の詳細は不明ですが、和歌山県の熊野三山神社の那智大社に地形がよく似ていて水源に奉斎し、裏山に滝があったようです。1843(天保14)年の古文書に御供米として毎年地頭より6斗の奉納があり、また除地分として600坪があったとあります。江戸時代の頃は図師村の図師山 大蔵院 釜田寺(→関東大震災で倒壊...
高ヶ坂子育地蔵堂(→東京都町田市高ヶ坂7丁目)は、1971(昭和46)年に南農協高ヶ坂支部倉庫が火災で焼失したため、当時荒廃していた子育地蔵堂の敷地を整理して倉庫と地蔵堂を建設したようです。その後、倉庫は不要となり賃貸倉庫として南農協高ヶ坂支部の運用に使用されていましたが地蔵堂が老朽化したため、1993(平成5)年に支部職員全員で子育地蔵講を設立して資金を積み立てて地蔵堂の新築再建することを決め、1999(平成11)年9月に...
当麻山 無量光寺(→神奈川県相模原市南区当麻)は、鎌倉時代の1261(弘長元)年に「踊り念仏」を広めたことで知られる一遍(いっぺん)が開いた草庵を起源とする時宗(じしゅう)寺院です。一遍から遊行を引き継いだ真教(しんきょう)が老衰のためこの地に戻り、1304(嘉元2)年ここに堂宇を建立し、阿弥陀仏の別名である無量光仏から「無量光寺」と名付け、一遍の分骨を埋骨して念仏の根本道場としました。真教は1319(文保3)年1月に死去する...
根小屋諏訪神社(ねこやすわじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根小屋)は、鎌倉時代初期の1192(建久3)年に筑井城(つくいじょう)を築城した筑井太郎次郎義胤(つくいたとうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。神仏習合の頃は井木山寿性院(→現在は廃寺)が別当寺を務めました。『津久井郡文化財神社編』によると、戦国時代には小田原北条氏の有力国衆であった津久井城主内藤景定(ないとうかげさだ)によって1527(大永7)年に50間4面の社...
飯縄神社(いいづなじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、小田原北条氏の有力国衆であった津久井内藤氏の居城津久井城の飯縄曲輪(いいづなくるわ)にある神社で、鎌倉時代の1197(建久8)年に前身の筑井城(つくいじょう)を築いた筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。戦国時代には津久井城主内藤景定が城の守護神として社殿を改築したと伝わります。津久井城の山頂付近は西峰の本城曲輪・太鼓曲輪...
津久井城(つくいじょう→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、鎌倉時代初期に三浦氏の一族である筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね→筑井為行とも)が築城したところから始まる根古屋式の山城で、津久井湖の南に聳える標高375ⅿの城山に築かれています。戦国時代には、小田原北条氏の有力国衆で「津久井衆」を率いた津久井内藤氏が城主を務め、対武田氏の最前線の城として重視されました。『勝山記』には、1525(大永5)年に甲斐...
浅利明神(→神奈川県愛甲郡愛川町)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日の三増合戦(三増峠の戦い)において戦死した武田方の重臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀った神社です。江戸時代の1700(元禄13)年3月に曾雌常右衛門知義(そしつねえもんともよし)という武士が、主君の下総関宿藩主牧野備前守成春(まきのびぜんのかみなりはる)の命でこの地を検分した際に、自身にゆかりのある浅利信種がこの地で戦死したことを知り、「浅利墓所」...
三増合戦史跡(→神奈川県愛甲郡愛川町三増)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日に、甲斐の武田信玄と小田原北条氏の別動隊との間で行われた「三増合戦(みませかっせん)」「三増峠の戦い(みませとおげのたたかい)」に関する史跡です。三増合戦場碑は昭和時代後期の1969(昭和44)年に建立され、その周辺には両軍の戦死者を埋葬したと伝わる首塚や胴塚や、戦死した武田家臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀る浅利神社などがあります。〖三...