根小屋諏訪神社(ねこやすわじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根小屋)は、鎌倉時代初期の1192(建久3)年に筑井城(つくいじょう)を築城した筑井太郎次郎義胤(つくいたとうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。神仏習合の頃は井木山寿性院(→現在は廃寺)が別当寺を務めました。『津久井郡文化財神社編』によると、戦国時代には小田原北条氏の有力国衆であった津久井城主内藤景定(ないとうかげさだ)によって1527(大永7)年に50間4面の社...
羅針盤ゼミナールの徒然ブログです。当塾の公式マスコットが歴史学の立場から解説を加え、訪問した神社・寺院・史跡などを紹介してまいります。塾の公式ブログですが塾の宣伝は少なめです。
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根小屋諏訪神社(ねこやすわじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根小屋)は、鎌倉時代初期の1192(建久3)年に筑井城(つくいじょう)を築城した筑井太郎次郎義胤(つくいたとうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。神仏習合の頃は井木山寿性院(→現在は廃寺)が別当寺を務めました。『津久井郡文化財神社編』によると、戦国時代には小田原北条氏の有力国衆であった津久井城主内藤景定(ないとうかげさだ)によって1527(大永7)年に50間4面の社...
飯縄神社(いいづなじんじゃ→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、小田原北条氏の有力国衆であった津久井内藤氏の居城津久井城の飯縄曲輪(いいづなくるわ)にある神社で、鎌倉時代の1197(建久8)年に前身の筑井城(つくいじょう)を築いた筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね)が勧請したと伝わります。戦国時代には津久井城主内藤景定が城の守護神として社殿を改築したと伝わります。津久井城の山頂付近は西峰の本城曲輪・太鼓曲輪...
津久井城(つくいじょう→神奈川県相模原市緑区根古屋)は、鎌倉時代初期に三浦氏の一族である筑井太郎次郎義胤(つくいたろうじろうよしたね→筑井為行とも)が築城したところから始まる根古屋式の山城で、津久井湖の南に聳える標高375ⅿの城山に築かれています。戦国時代には、小田原北条氏の有力国衆で「津久井衆」を率いた津久井内藤氏が城主を務め、対武田氏の最前線の城として重視されました。『勝山記』には、1525(大永5)年に甲斐...
浅利明神(→神奈川県愛甲郡愛川町)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日の三増合戦(三増峠の戦い)において戦死した武田方の重臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀った神社です。江戸時代の1700(元禄13)年3月に曾雌常右衛門知義(そしつねえもんともよし)という武士が、主君の下総関宿藩主牧野備前守成春(まきのびぜんのかみなりはる)の命でこの地を検分した際に、自身にゆかりのある浅利信種がこの地で戦死したことを知り、「浅利墓所」...
三増合戦史跡(→神奈川県愛甲郡愛川町三増)は、戦国時代の1569(永禄12)年10月8日に、甲斐の武田信玄と小田原北条氏の別動隊との間で行われた「三増合戦(みませかっせん)」「三増峠の戦い(みませとおげのたたかい)」に関する史跡です。三増合戦場碑は昭和時代後期の1969(昭和44)年に建立され、その周辺には両軍の戦死者を埋葬したと伝わる首塚や胴塚や、戦死した武田家臣浅利信種(あさりのぶたね)を祀る浅利神社などがあります。〖三...
小山田家住宅(→長野県長野市松代町)は、1849(嘉永2)年に建てられた木造2階建て、寄棟、銅板葺の数寄屋造(すきやづくり)の上級武家屋敷で、冠木門(かぶきもん)の西側に置かれた番所と母屋は2006(平成18)年に国登録有形文化財に指定されています。初代の小山田茂誠(おやまだしげまさ、1561年~1637)年は、甲斐都留郡の国衆小山田氏の一門筆頭で、父は1582(天正10)年3月の武田氏滅亡後に小田原北条氏を頼り、武蔵鉢形城(→埼玉県寄居町...
日本初の歌う女優として大正時代に一世を風靡した松井須磨子(まついすまこ)は、本名を小林正子といい、1886(明治19)年3月8日に長野県埴科郡清野村(→現在の長野県長野市松代町清野)で旧松代藩士小林藤太の五女(9人兄妹の末子)として生まれました。1909(明治42)年に坪内逍遥(つぼうちしょうよう)の文芸協会の第1期研究生となり、『ハムレット』のオフェリア役や『人形の家』の主人公ノラなど多くの舞台で活躍し、新劇界を代表する女...
真光山 林正寺(→長野県長野市松代町清野)は、鎌倉時代後期にこの地に配流され没した右大弁信広(うだいべんしんこう)の菩提を弔うために創建されたと伝わる浄土宗寺院です。戦後の1952(昭和27)年に旧松代藩主真田家の菩提寺である曹洞宗寺院・真田山 長國寺(→長野県長野市松代町松代)より2代藩主真田信政の御霊屋と表門が移築されたといいます。これらは江戸時代初期の霊廟建築として貴重であることから1966(昭和41)年に長野県の県...
科野のムラ(しなののむら→長野県千曲市屋代)は、長野県立歴史館の地下から発見された古墳時代のムラを復元したもので、発掘された茅葺の家・竪穴住居・高床倉庫・儀式場などの建物が復元されています。森将軍塚古墳の麓にあたる科野の里歴史公園の敷地内にあり、竪穴住居は囲炉裏に火がつき煙が噴き出していてリアルでした。水田や畑や池もあり、6月の第2日曜日に田植えの体験学習ができるようです。毎年11月には森将軍塚まつりが...
長野県立歴史館(→長野県千曲市屋代)は、森将軍塚古墳館とともに科野(しなの)の里歴史公園にあり、長野県内の考古資料や歴史史料などの展示によって原始から現代までの信濃(→長野県)の歴史を紹介する博物館で、1994(平成6)年11月に開館しました。常設展示室は「信濃の風土と人びとのくらし」をテーマに原始から近現代までを5つの時代に区分し、各時代を象徴する実大環境復元(→鎌倉時代の善光寺門前や江戸時代前期の中農農家、近代製...
千曲市森将軍塚古墳館(→長野県千曲市大字屋代)は、古墳時代前期に「科野(しなの)のクニ」を治めていた王(首長)の墓と考えられる森将軍塚古墳の資料を中心に、千曲市内の遺跡から発掘された考古資料などを所蔵・保管・展示している資料館です。2階の展示室には、森将軍塚古墳の後円部と竪穴式石室を再現し、周りには土器・埴輪・副葬品などをはじめ、長野県内の古墳・埋葬品や発掘調査のパネルなど、テーマごとに展示スペースが設け...
森将軍塚古墳(→長野県千曲市大字森字大穴山)は、古墳時代前期(→4世紀中頃)に造られた長野県最大規模の前方後円墳で、古墳時代の「科野(しなの)のクニ」を治めていた王(首長)の墓と考えられ、全長は約100ⅿあります。古墳館の裏山の標高490ⅿの山頂には、発掘調査をもとに復元された森将軍塚古墳があり、古墳までは遊歩道が設けられ歩いて往復40分ほど、専用バスで往復10分ほどで行くことができます。山頂からは戸隠山や飯綱山が見え...
松操山 典厩寺(しょうぞうざん てんきゅうじ→長野県長野市篠ノ井杵淵)は、武田信玄と上杉謙信(→当時は上杉政虎)が5度にわたって争った川中島合戦のうち、最大の激戦となった1561(永禄4)年の第四次川中島合戦(八幡原合戦)で討死した、武田信玄の実弟・武田典厩信繁(たけだ てんきゅう のぶしげ)を埋葬した瑠璃光山 鶴巣寺(るりこうざん かくそうじ)を前身とする曹洞宗寺院です。江戸時代前期の1654(承応3)年に初代松代藩主真田信之(...
川中島古戦場八幡社(→長野県長野市小島田)は、戦国時代に武田信玄と上杉謙信が争った5回の川中島合戦のうち最も著名な1561(永禄4)年9月10日の第四次川中島合戦の舞台となった八幡原(はちまんぱら)古戦場跡に建立された神社です。八幡原(はちまんぱら)の由来は、平安時代中期の1094(嘉保元)年8月に信濃国に配流された村上顕清(むらかみあききよ)が八幡神を祀った事によります。現在の社殿は1941(昭和16)年に長野県上田市の生島足島...
真田邸(→長野県長野市松代町松代)は、幕末期の1864(元治元)年に、松代藩9代藩主真田幸教(さなだゆきのり)が義母の貞松院の住まいとして松代城の城外御殿として建設したもので、当時は「新御殿」と呼ばれました。江戸時代、大名の妻子は生涯江戸住まいを義務付けられていましたが、1862(文久2)年に行われた文久の改革(→薩摩藩の島津久光が孝明天皇の勅使大原重徳(おおはらしげとみ)を奉じて江戸に参府し、14代将軍徳川家茂に実施さ...
松代城(まつしろじょう→長野県長野市松代町)は、戦国時代に甲斐の武田晴信(武田信玄)と越後の長尾景虎(上杉謙信)が北信濃の覇権を競った川中島合戦において、武田方の拠点として1560(永禄3)年に山本勘助(山本菅助)が築いたと伝わる海津城を前身とする平城です。武田時代には屋代氏・香坂氏・春日氏といった主に川中島4郡(→埴科郡・更級郡・高井郡・水内郡)の国衆が城代を務めました。江戸時代前期の1622(元和8)年に上田藩主の真田...
象山神社(ぞうざんじんじゃ→長野県長野市松代町)は、幕末の松代藩士で兵学・朱子学・洋学者の佐久間象山(さくましょうざん)を祭神として祀る神社で、1864(元治元)年7月11日に京都で暗殺された象山の、殉難50年祭が1913(大正2)年に行われたことを機に、松代町出身の大審院長(→現在の最高裁長官)横田秀雄(よこたひでお)を中心に全国の教育関係者の尽力で神社建立が計画され、1938(昭和13)年11月3日に象山神社(県社)が建立されました...
山寺常山邸(→長野県長野市松代町松代)は、儒学者鎌原桐山(かまはらとうざん)・洋学者佐久間象山(さくましょうざん)とともに「松代の三山」と称えられた松代藩士山寺常山(やまでらじょうざん)の邸宅跡です。山寺常山は、8代藩主・老中真田幸貫(さなだゆきつら→8代将軍徳川吉宗の曾孫)の信望が厚く藩政に尽力し、藩の寺社奉行・郡奉行を務めたのち藩士に兵学を教授した人物として知られます。常山は、明治時代になり真田家が東京に移...
象山 恵明禅寺(→長野県長野市松代町西条)は、江戸時代前期の1677(延宝5)年に松代藩3代藩主・真田幸道が開基、明国から来日した黄檗宗2世木庵性瑫(もくあんしょうとう)が開山した黄檗宗(→臨済宗黄檗派)寺院です。一般的には恵明寺と呼ばれ、江戸時代には京都府宇治市にある黄檗山 万福寺の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。1825(文政8)年に火災に遭い、山門のみ火災を免れ今に至ると伝わります。境内には真田幸道の正室豊姫(→...
皓月山 大英寺(→長野県長野市松代町)は、江戸時代前期の1622(元和8)年に初代松代藩主真田信之が、妻の小松姫(稲姫→徳川家康養女、本多忠勝の娘)の菩提を弔うために創建した浄土宗寺院です。1620(元和6)年2月24日に死去した小松姫は上田の常福寺(→現在の芳泉寺)に祀られましたが、1622(元和8)年に信之が松代に移封されたため、小松姫の御霊屋も大英寺に移されました。山号は小松姫の戒名「大蓮院殿英誉皓月大禅定尼」から採ってい...
医王山 瑞雲寺(→神奈川県横浜市都筑区川和町)は、南北朝時代の1338(暦応元/延元3)年に瑞鹿山 円覚寺(→神奈川県鎌倉市山ノ内、鎌倉五山第二位)の7代住職梅林霊竹が開山したという臨済宗円覚寺派寺院です。境内の地蔵菩薩は「都築橘樹(つづきたちばな)酉年(とりどし)開帳地蔵菩薩霊場」の1つに数えられ、12年に1度の酉年に開帳されることで知られます。寺宝に「鷹薬師如来」と呼ばれる像があり、徳川家康がこの辺りで鷹狩をしていた...
岩沢山 香樹院 天宗寺(→神奈川県横浜市都筑区川和町)は、戦国時代の1539(天文8)年に小田原北条氏に仕えた地侍岩沢伊左衛門が開基、松亀山 本覚院 泉谷寺(→神奈川県横浜市港北区小机町)の5代住職東誉が開山した浄土宗寺院です。岩沢伊左衛門は北条氏滅亡後に帰農し、山号と院号は自身の名字と法名から採ったと記されます。江戸時代には泉谷寺の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。当時の観音堂に安置された観音像は厩戸王(うま...
川和富士(かわわふじ→神奈川県横浜市都筑区富士見が丘)は、富士講の発願により幕末期の1860(万延元)年から27年の歳月をかけ、延べ3120名の人夫によって作られた富士塚で、明治時代中期の1887(明治20)年4月に完成しました。1860(万延元)年は富士山御縁年(→庚申年)に当たり、冨士講が幕末期にピークに達した年として知られます。当時は現在の神奈川県立川和高等学校の近くにあった標高80ⅿ(地上高27ⅿ)、底部直径40ⅿという大きな富士塚...
池辺富士・浅間社(→神奈川県横浜市都筑区池辺町)は、江戸時代後期の1796(寛政8年)8月に建立された富士塚で、「池辺富士」と呼ばれています。山頂には浅間社(→石祠)が祀られていて、江戸時代中期以降に隆盛した冨士講の歴史を今に伝えています。富士塚は、毎年富士山に登ることが困難な信者に、富士塚を登れば同じ利益があると富士講が喧伝したのが始まりで、関東では1779(安永8)年に但馬国(→兵庫県北部)出身の高田藤四郎(たかだと...
永山諏訪神社(→東京都多摩市諏訪1丁目)は、室町時代に武蔵国守護代で由井城主の大石信濃守顕重(おおいし しなののかみ あきしげ)が諏訪大社(→長野県諏訪市・茅野市・下諏訪町)を勧請し、大風(→台風)除けの守護神として崇敬されたと伝わります。永山駅周辺は由井領(→国衆大石氏の領国)に含まれ、戦国時代の1559(永禄2)年11月には、北条氏照(→北条氏康三男)が養子縁組の形で大石氏の家督を譲られ、氏照の奉行人として付けられた家老...
貝取山 大福寺(→東京都多摩市貝取1丁目)は、江戸時代前期に僧の起厳伝秀によって開山されたと伝わる曹洞宗寺院です。起厳伝秀は1640(寛永17)年7月6日に死去しているので創建はそれ以前であることが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により吉祥山 寿徳寺(→東京都多摩市桜ヶ丘4丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。境内の地蔵堂に対して幕府より堂領5石5斗の朱印地を拝領しています。地蔵堂には行基(→東大寺の廬舎那...
青木山 東福寺(→東京都多摩市落合2丁目)は、江戸時代前期の元和年間(→1615年~1624年)にもと永福寺の住職で白山社(→現在の落合白山神社)の創建にも名を連ねる僧の円能が創建したという真言宗智山派寺院です。創建当初は上落合村の「堀合堰」という場所にあったと記されますので、遅くとも文政年間(→1818年~1831年)までに、現在地に移されたことが分かります。江戸時代には、本山・末寺の制により高幡山 明王院 金剛寺(いわゆる高...
落合白山神社(→東京都多摩市落合2丁目)は、創建年代は不詳ですが、江戸時代前期の1618(元和4)年11月11日に、甲斐武田氏の旧臣で徳川氏の旗本になった八王子代官小宮山助為と、もと永福寺の住職で青木山 東福寺(→東京都多摩市落合2丁目)を開山した円能が、能登国の白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ→石川県白山市三宮町)を勧請して東福寺領に再興したと伝わります。1648(慶安元)年7月19日に、幕府(→3代将軍徳川家光の頃)より社領10...
乞田八幡神社(→東京都多摩市豊ヶ丘1丁目)は、室町時代(→戦国期)の1490(延徳2)年9月に創建され、江戸時代前期の1668(天和2)年に乞田村と貝取村の鎮守社として社殿を創建したと伝わります。1668(天和2)年の棟札控には「上乞田・下乞田・貝取・宇竜(→瓜生)」の4村とあり、それぞれ再建に携わった村民の名が書かれています。『多摩市史』には1726(享保11)年に神祇道宗家の吉田家より正一位の神階が贈られたと記されます。江戸時代には...
唐木田稲荷神社(→東京都多摩市唐木田1丁目)は、江戸時代後期の1843(天保14)年に上落合村の組頭(→村方三役の1つ、名主の補佐役)の横倉重衛門が記したものを下落合村の有山文衛門が書き写したという『落合旧記』によると、現在も唐木田に住んでいる唐木田三家(→横倉家・高村家・古沢家)が江戸時代初期に稲荷社を氏神として祀ったことから始まります。明治時代後期には国の一村一社政策を受けて近くの秋葉社を合祀したようです。現在...
小野神社(→東京都多摩市一ノ宮1丁目)は、平安時代前期の927(延長5)年に作成された『延喜式神名帳』(えんぎしきじんじょうちょう→朝廷より官社に指定された全国の神社一覧)に記載された武蔵国多磨郡八座のうちの「小野神社」に比定される神社の1つです。東京都府中市にも小野神社がありますが、多摩川の氾濫にともない移転を繰り返した結果2社に分かれたとも、どちらかが本社でもう片方が分社であるとも言われています。鎌倉時代に...
分倍河原合戦(ぶばいがわらかっせん)は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月15日~16日に多摩川河畔の分倍河原(→東京都府中市分梅町2丁目)において、新田義貞(にったよしさだ)率いる討幕軍と北条泰家(ほうじょうやすいえ→北条高時の実弟)率いる幕府軍との間で行われた合戦で、5月16日の関戸合戦を含めて新田方は「分倍河原」、幕府方は「関戸」での合戦と軍忠状に記しています。当初、新田義貞の挙兵を歯牙にもかけなかった鎌倉幕府首...
龍門山 等持院 高安寺(→東京都府中市片町2丁目)は、平将門の乱(→939年~940年)を鎮圧した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の館跡に建てられた市川山見性寺を前身とする曹洞宗寺院です。寺伝によると源義経・武蔵坊弁慶主従が何度も参詣したといい、義経主従が奉納したと伝わる大般若経や、弁慶硯の井戸が残されています。鎌倉時代末期の戦乱で荒廃したようですが、南北朝時代前期の1340(暦応3)年頃、室町幕府の初代将軍足利尊氏が鎌倉...
金比羅宮(→東京都多摩市桜ケ丘1丁目)は、江戸時代後期の文化年間(→1804年~1818年)に当時の関戸村の名主紺屋井上林蔵が勧請し、大山(→神奈川県伊勢原市)の宮大工手中明王太郎が造営を請負ったと伝わります。上棟祭は1817(文化14)年8月に行われたようです。境内地は、天保年間(→1830年~1844年)に編纂された『江戸名所図会』に景勝地と記され、「物見の松」「鞍懸け松」「祈り松」などの伝承が残されています。往時の社殿は昭和時代...
関戸城跡(→東京都多摩市桜ヶ丘1丁目)は、金比羅宮付近の「天守台」と呼ばれた地域にあった中世の軍事施設跡です。多摩市教育委員会が設置した標柱には「一帯の山を城山」といい「物見台的城塞として敵を察知したり、急変を狼煙(のろし)などで知らせる通信拠点であった」と記されています。「天守台」は江戸時代になってからの呼び名ですが、江戸時代に関戸城はなく、この場所に天守閣が存在したことはありません。1213(建暦3)年の...
山神社(→東京都多摩市桜ケ丘4丁目)は、戦国時代の1557(弘治3)年に吉祥山 寿徳寺の僧守頓坊が、出身地の山城国(→京都府)から取り寄せた岩石を神体として寺域に創建したと伝わります。江戸時代前期の1648(慶安元)に寺方村の鎮守社と幕府に認められ、寿徳寺が別当寺として祭祀を司りました。記録には、1826(文政9)年と1839(天保9)年に寺方村・原関戸村・新田村の3村で屋根の葺き替えと太鼓の張替えを行い、ペリー来航の7年前にあたる1...
吉祥山 寿徳寺(→東京都多摩市桜ケ丘4丁目)は、南北朝時代の1390(明徳元)年に真言宗の僧・念阿によって創建されたと伝わります。1441(嘉吉元)年に念阿が死去したのち廃寺となったようですが、戦国時代に武蔵守護・扇谷上杉氏の被官(もしくは国人領主)といわれる佐伯一助道永が菩提寺として再建し、日舜宗栄を中興開基として曹洞宗に改めたといいます。なお、関戸郷は「松田盛秀判物」から、1555(天文24)年1月までには小田原北条氏の...
寺方大屋敷(→東京都多摩市東寺方)は、吉祥山 寿徳寺の観音堂前に建つ中世の豪族屋敷の跡地です。主などは『多摩市史』にも記録がなく不詳ですが、西側に開けた谷の窪地に位置し、山を背に乞田川と大栗川を活かした中世の豪族館の典型といえます。関戸は戦国時代には小田原北条氏の直轄領となり松田盛秀が代官となり、屋敷跡に建つ吉祥山 寿徳寺は小田原北条氏の家臣で関戸城代を務めた佐伯氏が菩提寺として開基したと伝わります。...
関戸熊野神社(→東京都多摩市関戸5丁目)は、室町時代中期の1489(延徳元)年9月に紀伊国熊野三社(→熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を勧請したといい、江戸時代後期の1786(天明6)年に名主の相沢源左衛門休郭が願主となり関戸村の鎮守「熊野三社宮」として社殿を建立したと伝わります。江戸時代には隣接していた尼寺の無量山 熊慶寺(ゆうけいじ→廃寺)が別当寺として祭祀を司りました。関戸熊野神社境内にある井戸は熊慶...
霞ノ関南木戸柵跡(→東京都多摩市関戸6丁目)は、鎌倉時代前期の1213(建暦3)年におきた和田合戦を契機に、北関東からの侵攻を防ぐ要衝として鎌倉幕府が設置した軍事的な関所と言われ、関戸熊野神社の参道で発見された南木戸柵の柱穴上に木柱がたてられています。和田合戦 (「鎌倉殿の13人」より/画像提供: NHK)和田合戦では、横山党(→武蔵武士団)の横山時兼(よこやまときかね)が姻戚関係にあった和田義盛(わだよしもり)加勢してお...