高野において、金剛峯寺と大伝法院の主導権争いは続けられる。とはいっても、この頃すでに両寺とも権門寺院化していたので、皇族や公家たちが座主に就任するのが常態化していた。これが鎌倉期に入ると、権力争いの構図が若干変わってくる。寺社勢力に対する、幕府の影響力の増大である。将軍の覚えめでたい僧侶らが幕府の威光を背に、金剛峯寺や大伝法院の座主に就任してくるようになるのである。 こうした影響を受けて、大伝法院の管領権が一時的に八条院に移ったり、鎌倉幕府の後押しを受けた金剛三昧院が新たに台頭してくる、などの変化はあったのだが、基本的には「金剛峯寺vs大伝法院」の争いの構図は変わらない。1242年にも金剛峯寺…