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根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/

 戦国期の根来衆、そして京都についてのブログ。かなり角度の入った分野の日本史ブログですが、楽しんでいただければ幸甚です。

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2022/07/22

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  • 根来寺と新義真言宗について~その⑤ 過激派によるテロ・覚鑁殺害未遂事件「錐もみの乱」

    高野山を実質的に統べる立場にある「金剛峯寺の座主」に就任することは、覚鑁の強い意志によるものだ。だが彼は決して名誉を求めたわけではない。その証左に、翌1135年には弟子である真誉に、金剛峯寺と大伝法院、両座主の座をあっさり譲ってしまい、自分は密厳院にて趣味?である無言行に入ってしまっている。 ではなぜ彼は、そこまでして金剛峯寺座主の座を求めたのだろうか? そもそも高野山のトップである金剛峯寺座主の座は、これまでずっと京にある東寺のトップ、東寺一長者が兼帯してきた。「本末制度」により、高野山は東寺の末寺化してしまっていたことは過去の記事で述べたが、覚鑁はこれを問題視していたのである。1134年、…

  • 根来寺・新義真言宗とは~その④ 覚鑁、高野山の改革に挑む

    さてこの新しい教義を、覚鑁はどのようにして広めようとしたのか。 1130年、高野山上において彼は新たに「伝法院」という名の寺院を建立する。密教寺院には、そもそも「伝法会(でんぽうえ)」という教義上の議論を行う、研究会のようなものがあった。空海の十大弟子のひとりであった実恵が始めたものだが、高野ではいつしか行われなくなって久しかった。彼はそこに目をつけたのである。 覚鑁は高野山において、教義上の研究会を自らの主導で進めることによって、高野の教義そのものを内部から変えようとしたのである。そしてその改革を進める足掛かりとして設置したのが、この「伝法院」なのであった。 記録によると、このとき建てられた…

  • 根来寺・新義真言宗とは~その③ 空海の再来・覚鑁登場

    さて平安期の仏教は(南都六宗も天台も真言も)貴族のための宗教であったわけだが、浄土思想や末法思想にうまく対処できず――というよりも、開き直りに近い姿勢を見せて――平安末期頃から台頭してきた、武士や庶民たちのニーズを満たすことができなかったのは、前回の記事で述べた通り。 だがもし仮に、例えば真言宗が真摯に彼らに向き合ったとしても、そのままの教えでは、彼らに受け入れられることはなかっただろうと思われる。 過去の記事で述べたが、密教の教えというのは端的にいうと「スーパーマンになる」ことを目指した宗教である。現世からひとり、高みへと昇る。救われるのは自分、ないし自分が導く弟子たちだけ。彼らは加持祈祷で…

  • 根来寺・新義真言宗とは~その② 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(下)

    平安後期に流行した「浄土思想」。これを象徴するのが「この世をば~」の歌で有名な、わが娘を3代に渡って天皇の后に送り込み、位栄華を極めた藤原道長の死に様である。 己の死が近いと感じた彼は、法成寺という寺を突貫工事で建てさせた。寺には三昧堂・阿弥陀堂(無量寿院)・五大堂などの伽藍が立ち並び、阿弥陀堂の本尊にはもちろん阿弥陀如来を据えた。夕方になると、道長を先頭に大勢の僧侶たちが念仏を唱え始め、「浄土はかくこそ」と思われるほどであった、と伝えられている。これはつまり、浄土を地上に再現しているわけである。 道長は死に臨んで、東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の阿弥陀堂に入った。そして…

  • 根来寺開祖・覚鑁と新義真言宗~その① 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(上)

    ようやくにして根来寺・新義真言宗の教義がどういうものなのか、どのようにして成立したのか、高野山から独立に至った経緯などについて語れるまで辿り着いた。 そもそもこの話がしたくて始めたシリーズだが、前段として仏教の基礎知識がないと理解できないので、そもそも日本における仏教とは~という話から始めざるを得なく、予想以上に長くなってしまった。途中からやむなく前半部分を「日本中世に至るまでの仏教について」というシリーズとして独立させた次第である。 信心深い性質ではないので、信仰としての仏教にはそこまで心を惹かれない。しかしそのロジックや思想の変遷などは面白く、全14回と長めのシリーズになってしまった。番外…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑬ 番外編 破戒僧・円載(下)

    次に考えてみたいのは、前記事の4にあげた「円珍に対して中傷を行ったり、行跡に乱れがあること」である。実はここに円珍と円載の仲が悪くなった、直接的かつ最大の原因があるのだ。 前記事で述べたように、2人の衝撃的な再会から半年後、円珍は円載と落ち合うために越州へ行く。円載はなかなか来ず、実際に落ち合ったのは蘇州においてであり、そこから共に密教の灌頂を授かるべく長安へ向かった。 その途上の潼関の宿にて、円珍は円載より酷く罵倒されたわけだが、この争いの原因は何だったのであろうか?円珍はその原因を述べていない。だが推測することはできる。 円珍は渡唐の際、お供の僧を何人か連れてきている。その中の1人に豊智と…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑫ 番外編 破戒僧・円載(中)

    円珍は円載との出会いを「行歴抄」という書物に書き残している。2人の出会いはどんなものであったのだろうか?当該部分に手を加えて要約してみよう。 ――馬に乗って寺にやってくる老人がいた。兄弟子の円載だ。息せき切って彼の下に駆け寄って礼拝し、涙を流して喜んだ。ところが円載の顔には喜色はみえない。思いがけない反応に、頭から冷や水をかけられた思いであった。昔、比叡山で机を並べていた先輩後輩の仲であったのに、この態度はおかしい。一体どうしたことだろう。話をしても全く聞いていない様子。どうやら日本語を忘れてしまったらしい―― 思いもかけない円載の様子に、戸惑いを覚える円珍。中国語や筆談を交えての会話が進む。…

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