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根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/

 戦国期の根来衆、そして京都についてのブログ。かなり角度の入った分野の日本史ブログですが、楽しんでいただければ幸甚です。

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2022/07/22

  • 戦国時代の京都について~その⑤ 京の自治組織・町組 vs 三好の足軽

    戦国期における京の、最も基本的な共同体の単位は「町(ちょう)」である。これは「同じ街筋の人々」からなる組織なのだが、構成が独特なのだ。「街路を挟んだ向かい側」に住む人々と、結成した共同体なのである。 京は他の町と違って、方形に区切られた区画を持っていた。これは平安京の名残なのであるが、面白いのは「町」はこの「区画ごと」に整理された共同体ではないのである。あくまでも「通りに面した向かい側」ごとに、共同体が組織されていたのだ。生活動線である通りこそが重要で、それが共同体の軸になっていることがわかる。 戦国期の京の、町(ちょう)ごとのイメージ図。単色が、それぞれが属していた町を表す。上記の図では、1…

  • 戦国時代の京都について~その④ 巨大な「環濠集落」、堺そして京

    そもそも堺は、遣明船貿易の拠点として細川氏が支配していた町であった。16世紀半ばには細川氏が没落し、三好氏がその後を取って代わる。だから堺には、三好氏の代官も滞在していたのである。だが、細川氏のように堺を直轄的な支配下におくことはしなかった――できなかった、というべきか。 イエズス会の報告には「この町では、敵対する勢力の者同士が、たまたま町中で出会ったとしても、互いに殺し合うことはしない」とある。戦国大名らの介入を許さなかった、この強力な自治権はどのようにして成立したのであろうか。 堺は「南荘」と「北荘」の、2つの自治組織から成り立っていたことが分かっている。そしてその上位に位置する機関として…

  • 戦国時代の京都について~その③ 「自力救済」から生まれた「環濠集落」

    古代から中世にかけてのトレンドは、中央集権から地方分権へ、というものだ。絶対的な権力者がいない、ということは逆に言えば、力のある者が自分の好き勝手にできる、ということでもある。事実、中世は「自力救済」、つまり「自分の身は、自分で守る」というのが基本ルールであった。 例えば「検非違使」は、平安期に京に置かれた治安維持のための組織だが、これは中世には既に存在しない、もしくは機能しなくなっている。代わりに京において軍事的な存在感を増したのが、「六波羅探題」である。ではこの六波羅探題が京の治安維持機能を担っていたかというと、そんなことはないのである。 彼らはあくまでも幕府から派遣された、「朝廷に対する…

  • 戦国時代の京都について~その② 総構で守られた城塞都市

    戦国期に入ると、京都はどう変わったのだろうか。 戦国の京は、時期によって大きく姿を変えている。「応仁の乱」以前と以後とでも大きく変わるのだが、一番変わったのは、戦国末期の1591年に秀吉が10万人を動員して行ったといわれている、京の大改造だ。 京の都は、秀吉の居城「聚楽第」を中心に再編成が行われる。殆どの寺院群は「寺町」ないし「寺の内」へと強制移転され、都市そのものは「御土居」と呼ばれる土塁と堀で囲まれたのである。聚楽第を中心とした、ひとつの城塞都市に生まれ変わったのだ。御土居はその後、京の拡大によって消えてしまうのだが、現代に通じる京の原型が整備されたのがこの時である。 さて拙著の1巻「京の…

  • 戦国時代の京都について~その① 都市計画に基づいて設計されたが、その通りには発展しなかった平安京

    新シリーズである――実はブログを開設した時からこの記事は用意していたのだが、根来衆関連のシリーズがひと段落ついたので、ようやく紹介できる運びとなった。「京の印地打ち」という小説を書く際に、戦国時代の京について色々調べたのだが、このシリーズではその際に得た知識を紹介してみようと思う。 まずは京の成り立ちについて。 平安期――桓武天皇の御代に、長岡京に代わる新しい都として「平安京」の建設が始まった。794年のことである。きちんとした都市計画に基づいて設計された都市で、モデルはお隣中国にあった大国、唐の首都・長安である。これを模して造られたまではよかったのだが、当時の日本の国力には大きすぎた。長安の…

  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑫ 織田家の場合・信長の革新性とその中央集権度

    シリーズの最後を飾るのは、みんな大好き織田信長である。彼の革新性については古くから定評があるのだが、最近ではそれを否定する方向で研究が進んでいるようだ。確かにこれまでの信長像は、「中世の破壊者」だとか「革命的な天才児」だとか、些か持ち上げすぎであった感は否めない。 最近の研究ではっきりと否定されているのは、まずは「楽市楽座の発明」。信長もやったのは間違いないが、既にその18年前の1549年に六角氏が「石寺新市」に対して楽市楽座令を出している。同じ文脈で語られるのが「座の否定」。これもかつて有名であったが、そこまで座を否定していなかったことも明らかになっている。実際、日本一の商業都市であった京で…

  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑪ 北条家の場合・「内政マニア」北条家

    さてこの記事では、北条家のまとめとして、その「家風」を見てみよう。 初代・宗瑞から三代目の氏康治世の前半までは、北条家は関東においては新興勢力であったから、やむなく博打を打つこともあった。例えば二代・氏綱の時の「国府台合戦」や、三代・氏康の時の「川越夜戦」(実際には夜戦ではなかったので、「砂窪合戦」と呼ぶ人もいる)がそうである。強大な敵に対し思い切った決断をし、大規模な会戦に勝利した結果、その勢力を大きく伸ばしている。 だが代が進み統治が安定してきた頃になると、北条氏には「王者の風格」が出てくる。大きな会戦を挑むような博打を打たなくなり、基本的には「大軍でもって少数の敵に当たる」という、真っ当…

  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑩ 北条家の場合・その堅実かつ緻密な領域支配

    さて氏綱であるが、彼は有名な「虎の印判状」を制定している。この虎の印判状がなければ、郡代・代官は支配下の郷村に公事・夫役の徴発などの命令を下すことができなかった。これまで一任されていたこうした行為が、以後は伊勢氏の同意なしには、勝手にできなくなったことを意味する。つまりローカル勢力は、中間搾取の入り口を閉ざされてしまったのだ。 次の氏康の代になってから、こうした動きは更に進む。領国内の郷村に対してこれまで地元勢力から取られていた雑多な公事(諸点役)を廃止する代わりに、北条家に貫高の6%を納めさせるという制度を導入しているのだ。また郷村がローカル勢力に不当な行為を受けた場合、その訴えを受け付ける…

  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑨ 北条家の場合・「他国の凶徒」ルサンチマンからの脱却

    伊勢宗瑞こと、北条早雲の国盗り物語があまりに面白くて、当初の予定よりも記事が長くなってしまった。著者の悪い癖である。このままだと北条家の歴史を追うだけで10記事くらいになってしまうので、細かいところは飛ばしてどんどん話を進めていきたいと思う。 さて・・・遂に扇谷上杉氏を敵に回した伊勢宗瑞。これは北条家のみならず、その後の関東の歴史の方向性を決めてしまうほど、大きな決断であった。以降、北条家は東進し、関東を制覇せんとする道を歩むのである。 だが扇谷上杉氏を敵に回すにあたって、問題がひとつあった。過去の記事で述べたように、関東において地縁も人縁もなかった宗瑞は、坂東武者たちにしてみれば「京から来た…

  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑧ 北条家の場合・京から来た「他国の凶徒」伊勢新九郎盛時(中)

    堀越公方の座を簒奪した茶々丸だが、彼はクーデターと同時に元服し、実名を名乗ったものと思われている。残念ながらその名が伝わっていないので、後世の人間からは常に幼名で記されてしまう運命にある茶々丸だが、関東管領・山内上杉氏と連携する道を取る。伊豆はかつて山内上杉氏の守護分国であった関係上、同家と所縁の深い国人らが多かったのだ。対する新九郎は扇谷上杉氏と連携する。そして新九郎の伊豆侵攻をきっかけに、小康状態であった両上杉氏の抗争も再燃するのである。 伊豆に侵攻するには、新九郎の手勢だけではとても足らないので、今川氏から兵を借りている。葛山氏を中心とする兵だったようだ(新九郎は後に、この葛山備中守の娘…

  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑦ 北条家の場合・京から来た「他国の凶徒」伊勢新九郎盛時(上)

    京から遠く広大な関東地方は、室町幕府より「鎌倉公方・足利家」、そしてそれを補佐する「関東管領・上杉家」によって統治を委任されていた。そういう意味では関東は「ミニ畿内」であったといえる。 しかし「応仁の乱」に先駆けて、1455年に関東では「享徳の乱」が発生、これを機に戦国時代に突入する。鎌倉公方は古河公方と堀越公方に分裂し、関東管領であった山内上杉氏は、分家の扇谷上杉氏と争い始め、更に内部で反乱が起きて合従連衡を繰り返す、という大混乱状態となる。(「応仁の乱」の訳の分からなさも大概だが、関東におけるこの「享徳の乱」も、相当なグダグダぶりである。)そんな魑魅魍魎渦巻く関東の地にやってきたのが、伊勢…

  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑥ 毛利氏の場合(下)・その緩やかな支配構造

    ローカルな独立勢力である、いわゆる「国衆」たち。その国にある守護や守護代などの強大な存在、もしくは国衆の中から一頭抜きんでた存在などが他を圧しはじめると、その大名の本拠地周辺の国衆たちは、次第にその大名の譜代家臣化してくる。 毛利氏でいうと、国司氏、児玉氏などがそうであり、早くから譜代化している。だが吉田荘周辺はともかく、安芸国内であっても少し離れた場所にいる国衆たちは、1557年時点においても、まだ譜代化していなかったのは、前記事で説明した通り。そういう意味では、1565年に出雲に攻め入れられた際に、多くの国衆に裏切られた尼子義久と「中央集権度」という点では、大きな差はなかったといえる。では…

  • 日本中世の構造と戦国大名たち~その⑤ 毛利氏の場合(上)・国人から戦国大名へ 一代で成りあがった男

    滅ぶときは、あっけなかった尼子氏。ではその尼子氏を滅ぼした、毛利氏の組織はどのような体制だったのだろうか。 いち国人から、一代で成りあがった下剋上の典型ともいえる毛利元就。そういう意味では、因習やしがらみといったものに一切縛られなかった彼は自由に行動でき、その類い稀なるカリスマ性も相まって、己の元に絶大な権力を集めることに成功したのであった――と言いたいところであるが、そんなことは全くなかったのである。 安芸の国の特質として、国人衆らの一揆的結合が強かったことが挙げられる。これは遡ること1404年、安芸守護に補任された山名満氏が安芸の国衆に対して、自領根拠となる文書の提出を命じた騒動に端を発す…

  • 日本中世の構造~その④ 尼子氏の場合(下)・構造改革に悪戦苦闘する大名たち

    中央集権化を進めた尼子晴久。彼の改革はある程度は進んだのだが、戦国大名としての尼子家は、次の義久の代に一度滅んでしまうのだ。尼子家が滅んだ原因はどこにあったのだろうか? まず晴久がそこまで長生きできなかったのが、大きかった。晴久は1561年12月、47歳の時に急死してしまうのだ。次の当主・義久は祖父や父に比べると――いや比べなくても、遥かに凡庸な男であった。そして前記事の最後に示唆したように、隣には飛ぶ鳥を落とす勢いの毛利元就がいたのだ。代替わりの際の隙に乗じ、元就がすかさず動く。 元就は以前より、石見銀山を喉から手が出るほど欲していたのだが、晴久在命時には何度攻勢をかけても、これを奪うことは…

  • 日本中世の構造~その③ 構造改革に悪戦苦闘する大名たち・尼子氏の場合

    前記事で紹介したように、「加地子得分」を代表とする錯綜した権利関係を元に構成された、これまた錯綜した「リゾーム構造」を持つ日本の中世社会。こうした社会の中から、富と武力の蓄積に成功し、権力を持つ者が各地で台頭してくる。後に戦国大名となる者たちである。 土着の開発領主などでいうと、国人層がそれである。彼らはローカル色の強い地頭職などから力をつけてきた在郷武士で、その代表的な例に安芸の毛利氏、土佐の長宗我部氏などがある。また在京していた不在地主である守護から、その地の経営を任されていた守護代なども力を持つようになる。尾張織田氏、出雲尼子氏などがそうである。守護からそのまま、戦国大名に華麗なる転身を…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~番外編その② 中世社会のリゾーム構造を支えた「加地子得分」とは

    日本中世特有のリゾーム構造。では何故、日本の中世はこんなにも複雑な社会構造になってしまったのだろうか。それはこれまでの中央集権的な古代日本の国家体制が、地方分権的なものへと体質を変えていったから、ということになる。 ではなぜ、こうした体質になってしまったのだろうか?これには複合的な理由があり、歴史学者たちが昔から喧々諤々論じている問題でもある。筆者レベルの学識ではとても追いきれないので、ここでは深くは立ち入らないことにするが、ただひとつだけ、リゾーム構造を象徴する例として「加地子得分」を紹介してみようと思う。 加地子得分とは何か。実は過去の記事で、この言葉は散発的に出てきてはいる。 中世以前の…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~番外編その① 中世的リゾーム構造 vs 近世的ツリー構造

    なぜ根来寺は秀吉に負けたのだろうか?何とかして、体制を維持したまま生き延びる道はなかったのだろうか?このシリーズ番外編では、日本中世社会が持つ、独特の社会構造について考察してみたいと思う。 まず根来寺滅亡について、学侶僧らはどう考えていたのだろうか?根来寺に日誉という学侶僧がいた。20歳戦後で根来寺に入り、そこで修行を積んでいる。根来滅亡直前に高野山に避難し、命永らえた後は京都の智積院に行き、最終的には能化三世となった傑物である。中世根来寺滅亡後、新義真言宗の中興の祖とも称えられた、極めて学識のある人物であった。 彼は晩年に「根来破滅因縁」という書物を記している。その書物の中で彼は、根来寺の破…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑧ 紀州征伐後、それぞれのその後

    根来寺は炎に焼き尽くされた。太田城も陥落し、雑賀惣国も滅亡した。 根来寺の近くには粉河寺がある。根来ほど規模は大きくなかったが、同じように武装した僧兵たちによって運営されていた寺社勢力のひとつであった。この粉河寺も、根来寺が炎上したのとほぼ同じタイミングで秀吉に侵略され、同じように炎上している。 真言の総本山である高野山はどうなったか?根来寺と粉河寺が炎上したのが3月23日。高野山へ秀吉の使者が来たのが4月10日のことであった。「降伏しなければ、両寺と同じように焼き尽くす」という脅しに抵抗できるわけもなく、秀吉お気に入りの僧侶、木食応其を間に立て高野山は降伏した。 こうしてルイス・フロイスが記…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑦ 太田城陥落と中世の終わり

    1585年4月5日前後に堤防が完成、早速紀ノ川の支流・宮井川(大門川上流をこう呼ぶ)の水を引き入れ始める。秀吉側にとって都合のいいことに、堤完成後にちょうど雨が降り始めたこともあって、あっという間に一面の満水となったらしい。その様は大海に浮かぶ小舟のようであった、とある。別の記録には、堤防の内側にあった民家には浮いて水面を漂うものもあった、とある。 前記事でも触れたが、太田城の東側には南北に走る「横堤」という堤防があった。太田側の記録である「根来焼討太田責細記」には「この横堤は秀吉側の水攻めに備えて築いたもの」という旨の記述があるが、囲まれている最中に外に出て工事などできるわけもなく、やはり以…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑥ 太田城水攻め堤防

    さてこの太田城だが、現在の和歌山駅のすぐ西側にあった。城内と推定される場所からは、日用品として使われた土器などが出土しており、生活の場であったと考えられている。古くからある環濠集落から、城に発展した城市だったのだろう。瓦なども出土していることから、城内には寺院なども建っていたと思われる。フロイスの報告にも「この城郭は、まるでひとつの町のようであり~云々」という、それを裏付ける記述がある。 宮郷に秀吉軍が入ってきたのが3月23日で、前記事の戦闘が行われたのが25日あたりのようだ。戦闘の後、この太田城に対して秀吉は水攻めを行うことを決定するのだが、築堤作業開始が3月28日以降であると推定されている…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑤ 自壊する惣国

    根来寺を侵略した同じ日、1585年3月23日には秀吉軍の先手が雑賀にも入っている。翌24日には、秀吉本隊も紀ノ川の右岸を進んで、土橋氏の本拠地である雑賀庄の粟村を占領した。居館を守るべき雑賀の者たちは、前日の夜にことごとく逃げ去ってしまって、何の抵抗もなかったらしい。 実は秀吉軍の侵攻直前に、雑賀衆の間で深刻な内部抗争が起きていたのである。前日の22日に「雑賀の岡の衆が湊衆に鉄砲を撃ちかけ攻めた」という旨の記述が宇野主水の「貝塚御座所日記」にある。日記には続けて「雑賀も内輪散々に成りて、自滅之由風聞あり」とある。どうやら岡の衆は、以前より秀吉側にある程度内通していたらしく、前線崩壊の報を聞いて…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その④ 根来炎上

    近木川防衛ラインを、あっけなく突破されてしまった紀泉連合。そのまま軍を南に進めた秀吉軍は、23日には山を超えて根来寺に入った。おそらく風吹峠と桃坂峠、2つの峠を同時に越えて北から境内に侵入したのだろう。 この秀吉による根来寺侵攻の詳細を、隣の雑賀太田党の目線から記した、「根来焼討太田責細記」という記録がある。江戸前期に書かれたもので、これには秀吉軍と根来行人らによる、根来寺を舞台とした激しい戦いの記録が記されている。少し長くなるが、要旨を見てみよう―― 秀吉軍に対するは、泉識坊をはじめ、雲海坊・範如坊・蓮達坊、そして杉乃坊といった面々。これら荒法師ら総勢500騎を率いるは、津田監物こと杉乃坊算…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡 その③ 紀泉連合の敗北と、防衛ラインの崩壊

    千石堀城攻めとほぼ同じタイミング、もしくはそれよりやや早く、近木川ライン中央に位置する積繕寺城(しゃくぜんじじょう)も秀吉軍の攻撃にさらされている。籠城兵力はよく分かっていないが、戦略上最も重要なこの城に兵力を集中させたのは間違いないところだ。紀泉連合は近木川ラインの諸城塞に1万ほどの兵力を分散配置していたようだが、その半分近くはこの城に籠城していたのではないだろうか。この積善寺城に籠っていたのは、根来衆であった。 岸和田市立郷土資料館蔵「根来出城図」に著者が加筆したもの。原図を90度、回転させてある。江戸後期に描かれた図なので、どこまで正確なのかは不明。積善寺城は近木川防衛ラインの中央に位置…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その② 千石堀城攻防戦

    堺を通過して、和泉国を南下する秀吉軍。岸和田城まで来たら、近木川防衛ラインはすぐ目と鼻の先だ。軍の主力は21日の15時頃には岸和田城に到着、16時には千石堀城の目前まで迫っている。 秀吉軍は到着するや否や、千石堀城にいきなり攻めかかった。攻め手は(諸説あるが)筒井順啓・堀秀政・長谷川秀一の軍勢が主だったようである。総指揮官は羽柴秀次。1万5000人ほどの軍勢だったようだ。対する千石堀城を守るは、根来衆のうち愛染院と福永院を主力とした1500人。守将は大谷左大仁と伝えられている。 岸和田市立郷土資料館蔵「根来出城図」より千石堀城を回転拡大。右に流れているのが近木川である。南北2キロほどの丘の先端…

  • 秀吉の紀州侵攻と根来滅亡 その① 近木川防衛ライン

    ※このシリーズでは「秀吉の紀州侵攻」、そして「中世根来寺の滅亡」を取り上げる。ここに至るまでの経緯は、下記リンク先「根来と雑賀」シリーズを参照のこと。 根来と雑賀 カテゴリーの記事一覧 - 根来戦記の世界 (hatenablog.com) 諸般の事情で延び延びになっていた、紀州征伐。だが秀吉は、1585年に遂に紀州に対する本格的な侵攻を決意する。これまで有利に進んでいた小牧の役で家康側と停戦してまで、紀州を攻めることを決めたのだ。 この戦役が始まる直前、85年3月上旬に秀吉側の使者として、高野山の客僧である木食応其(もくじきおうご)が根来寺に遣わされている。戦いの前に、一応は和平の条件を提示し…

  • 根来と雑賀~その⑦ 紀泉連合軍の大阪侵攻 岸和田合戦と小牧の役

    85年3月、信雄の秀吉派三家老粛清を機に、羽柴と織田&徳川の両陣営は臨戦態勢に入った。領地の大きさでは秀吉に比するべくもない織田&徳川は、紀泉連合との連携を試みる。 話は飛ぶが根来滅亡後、生き残った根来衆の一部は「根来組」として家康に召し抱えられることになる。そんな根来組が、自らの出自由来を記した「根来惣由緒書」という書物がある。書かれたのは江戸期も後半に入ってからの1811年なのであるが、この「由緒書」によると「小牧の役」の際、「秀吉より味方するよう使いが来たが返答せず、権現様(家康)からの使者(井上正就)より御書を下され、一山を頼られる思召しにつき、御請け致し、西国より攻め上がる秀吉の味方…

  • 根来と雑賀~その⑦ 土橋一族の逆襲、そして根来・雑賀連合結成へ

    本能寺にて信長、横死す――この報せは、あっと言う間に雑賀に伝わった。 先の政変で壊滅的な打撃を受けていた土橋派は、しかし未だ強い勢力を保持していたようで、この報せを受け即座に決起する。まず4か月前のクーデターで、土橋若太夫を裏切った土橋兵太夫・土橋子左衛門の両名を襲い、兵太夫を殺害する(小左衛門は逃亡)。 また信長派の頭目・雑賀孫一を誅殺すべく館に押しかけたが、流石は孫一、戦場で鍛えられた進退の勘所を遺憾なく発揮したようで、館は既にもぬけの殻だった。彼はいち早く織田方の勢力圏内であった、和泉国・岸和田城へと逃げ込んだのであった。 月岡芳年作「太魁題百撰相 謎解き浮世絵叢書」より。「銃弾に貫かれ…

  • 根来と雑賀~その⑥ 根来vs雑賀 ラウンド3 雑賀の内戦に参加した泉識坊快厳

    先の信長の雑賀攻めにて、侵入者を惣国内に引き入れた宮郷・中郷・南郷の三組。ところが思惑と異なり、信長は大した戦果のないまま兵を引き上げてしまう。梯子を外されてしまった格好のこの三組に対して、十ケ郷・雑賀庄の二組が巻き返しを狙う。 1557年3月、信長の「雑賀攻め」直後における根来・雑賀内の勢力イメージ図。青色が信長派、赤色が反信長派を表す(反信長派の構成員のうち、多数が本願寺門徒ではあったが、全てではないことに注意)。宮郷・南郷・中郷は全体としては信長派である。特に中郷には威徳院を有する湯橋家があり、またすぐ隣の小倉荘は杉乃坊の本拠地であったために、根来の影響が強かった。そんな中郷からですら、…

  • 根来と雑賀~その⑤ 根来vs雑賀 ラウンド2 信長による雑賀侵攻と、その先導に務めた杉乃坊(下)

    山手から攻め寄せる織田軍3万は、佐久間・羽柴・堀・荒木・別所らの諸軍で構成されていた。その先頭に立つのは杉乃坊、そして雑賀三郷の者どもだ。 この山手勢は雄ノ山峠を越え、田井ノ瀬で紀ノ川を渡河し、焼き討ちと略奪を重ねながら、2月24日頃には小雑賀川(和歌川)まで到達したようだ。この川を越えれば雑賀庄である。しかし雑賀衆はこの川沿いに複数の砦を築き、最終防衛ラインを敷いて待ち構えていた。 前記事の地図と同じものを再掲。江戸後期に編纂された地誌である「紀伊続風土記」には、紀州藩内の寺伝が幾つも収集されている。それらを分析すると、織田軍の進撃路から離れたところにある寺社が、数多く焼けているのが分かる。…

  • 根来と雑賀~その④ 根来vs雑賀 ラウンド2 信長による雑賀侵攻と、その先導を務めた杉乃坊(上)

    前記事で紹介したように、岸和田合戦で信長は散々痛い目にあわされる。戦線が崩壊するどころか、危うく自分まで討たれるところであったのだ。 本願寺の武力の担い手は雑賀である。ならばその本拠地を叩くべし――そう考えた信長は、1577年2月に10万とも号する大軍を動員し、山手勢・浜手勢・信長本隊の三手に分けて、雑賀に侵攻したのである。のちの世に「雑賀合戦」と称される、戦役の始まりである。 さてこの時、隣にある根来はどのような行動をとったのだろうか。 この10年に渡る石山戦役で根来衆は終始、信長に味方していた。根来では建前としては、重要な決定事項は全山による合議制で決めることになっていた。しかしこの時期の…

  • 根来と雑賀~その③ 根来vs雑賀 ラウンド1 天王寺合戦(下)

    ※この記事は、以前載せたものに加筆&修正して、再録したものになります。記事をジャンル分けして並び替える必要上、こうした処理になりました。ご了承ください。なお以前の記事は当該記事のUPと同時に削除しています。 信長は石山本願寺を包囲する形で各所に砦を築いて、じわじわと本陣に迫っていく。だが本願寺は海岸線に大小いくつもの砦を構築しており、浜手から本陣へと続く地域を確保していた。この海からの補給路を潰さない限りは、本願寺は弱体化しない。海岸線にある木津一帯には、南に突出するような形で幾つかの本願寺の砦が頑張っていた。 信長の命をうけ、木津にある砦を攻略すべく5月3日、原田(塙)直政を主将とする攻撃隊…

  • 根来と雑賀~その② 根来vs雑賀 ラウンド1 天王寺合戦(上)

    ※この記事は、以前載せたものに加筆&修正して、再録したものになります。記事をジャンル分けして並び替える必要上、こうした処理になりました。ご了承ください。なお以前の記事は、当該記事のUPと同時に削除しています。 先の記事での紹介した通り、雑賀衆も根来衆も傭兵稼業に従事していたから、戦場において敵味方に分かれて殺し合いをすることは、珍しいことではなかった。ただ源左衛門の記録を見る限りではその殆どは、小規模な集団同士での局地戦であったようだ。 では根来と雑賀が、それなりの数の軍勢を率いて戦場で戦ったことはあるのだろうか?それがあるのだ。過去の記事でも少し触れた「天王寺合戦」において、両部隊が直接、銃…

  • 根来と雑賀~その① 雑賀衆と根来衆 その奇妙な関係性

    根来寺と雑賀惣国は、すぐ隣同士にある間柄だ。昔に書かれた戦国時代の本を読むと、根来衆と雑賀衆は1セットとして括られることもよくあった。どちらが有名かというと、残念ながら?雑賀衆の方が有名で、根来衆はそれに付随して語られる存在になりがちであった。このシリーズでは、雑賀衆が有名になった理由と、両者の複雑な関係性について見ていこうと思う。 なお、以前にUPした記事(天王寺合戦の上下)をジャンル分けし直すつもりである。その際には編集の都合上、既にある該当記事を削除して、新たに再録する予定なので、ご了承いただきたい。 さて紀州の特性として、突出した存在の成長を阻害する要因があったので、戦国大名が生まれな…

  • 根来行人と鉄砲~その⑪ 根来vs雑賀 ラウンド1 天王寺合戦(下)

    信長は石山本願寺を包囲する形で各所に砦を築いて、じわじわと本陣に迫っていく。だが本願寺は海岸線に大小いくつもの砦を構築しており、浜手から本陣へと続く地域を確保していた。この海からの補給路を潰さない限りは、本願寺は弱体化しない。海岸線にある木津一帯には、南に突出するような形で幾つかの本願寺の砦が頑張っていた。 信長の命をうけ、木津にある砦を攻略すべく5月3日、原田(塙)直政を主将とする攻撃隊が天王寺砦から出撃する。空いた天王寺砦には、代わって佐久間信栄と明智光秀が入った。攻撃隊の先陣は三好康長・根来衆・和泉衆、二陣は原田直政・大和衆・山城衆であった。ちなみにこの原田直政は、信長の馬廻りである母衣…

  • 根来行人と鉄砲~その⑩ 根来vs雑賀 ラウンド1 天王寺合戦(上)

    根来衆と雑賀衆、共に鉄砲を得意とした集団であるが、実は両者は何度か戦ったことがある。前記事でも少し触れた「天王寺合戦」において、両者は銃火を交えているのだ。この記事ではその天王寺合戦、そしてそこに至るまでの経緯を紹介していきたいと思う。 まず前段として「石山合戦」について言及しなければならない。これは1570年10月から1580年9月まで、ほぼ10年に渡って続いた本願寺と信長の戦いである。期間中ずっと戦っていたわけではなく、休戦と開戦を何度も繰り返しつつ、断続的に続いた戦役であった。 この一連の戦いには、雑賀・根来衆が大勢参加していたので、鉄砲が活躍した戦いでもあった。特に本願寺の主力は雑賀の…

  • 根来行人と鉄砲~その⑨ 佐武源左衛門の10の鉄砲傷

    おなじみ慶誓こと、佐武源左衛門も鉄砲の名手だった。彼が根来衆であった時期は短く、戦歴の殆どは雑賀衆としてのものなのだが、参考までに「佐武伊賀守働書」における彼の武勇伝を見ていこう。自ら記したこの記録によると、生涯で彼が参加した戦いの数は、確認できるだけで20回。鉄砲を駆使して、多くの敵を倒している様子が描かれている。 一番の見せ場は、1570年に三好側について織田方と戦った際のエピソードである。河内の大海(おおが)という城の矢倉に陣取った源左衛門が、従者に装てんさせた鉄砲5丁を何回も取り替えて発砲し、攻め寄せる敵を何人も打ち倒した、とある。この戦いで彼が取った首は13、この戦闘で死んだ敵方のう…

  • 根来行人と鉄砲~その⑧ 根来の鉄砲隊を率いた男たち 行来左京(おくさきょう)と小密茶(こみつちゃ)

    根来の鉄砲隊といえば、やはり杉乃坊だ。そもそも種子島から火縄銃を持ち込んだのが杉乃坊算長で、津田流砲術という日本初の鉄砲術の流派を起こすくらいだから、当たり前と言えば当たり前なのであるが。この津田流をさらに発展させたのが、彼の子であり兄の養子となって門跡を継ぎ、杉乃坊の最後の門主となった、杉之坊照算こと自由斎である。彼は自由斎流という流派をたて、これを世に広めた。 この杉乃坊系列の子院に、左京院という子院がある。左京院は和泉国日根郡・入山田村大木を本拠とする、奥左近家という土豪が設立した子院である。子院の門主の名を左京院友章(友童?)、別名を行来(おく)左京とも言い、当時の人々の間でも良く知ら…

  • 根来衆と鉄砲~その⑦ 鉄製大砲の鋳造に成功した、凄腕の職人・増田安次郎

    戦国から、いきなり幕末の話になってしまった・・・すぐに話が逸れるのが、著者の悪い癖である。この記事では本筋と少し離れて、その後の日本の鉄砲、特に大砲の技術的変遷について述べたいと思う。 江戸期に入ると幕府によって鉄砲と大砲の生産は規制され、技術的進化が止まってしまう。しかしペリー来航により太平の眠りから目が覚めた幕府は、鉄砲と大砲の生産をようやく解禁した――と思ったら、今度は各藩に異国船対策として「海陸お固め」を命じるのだ。各藩は慌てて湾岸警備に必須の、鉄砲と大砲の生産に取り組むことになる。 上記のような理由で注文が殺到したから、幕末において国産鉄砲の生産量は増大している。堺の鉄砲鍛冶・井上家…

  • 根来衆と鉄砲~その⑥ 難航した大砲の国産化と、その理由

    鉄砲に比べ、大砲の国産化の方は難航している。大友氏が小型青銅砲の製造を行っていたようだが、銅はとにかく高価であったから、製造コストが非常に高くつく。代わりに安価な鉄で大砲を鋳造する、というのが世界的な代替手段なわけだが、日本においては難しかった。なぜか。 これは技術的要因、というよりも材料の質によるものだ。日本では古来より砂鉄などを原材料にした「タタラ銑鉄」により鉄を生産していたのだが、実はタタラにより得られた和鉄は、この種の鋳造に向いていなかったのである。 大砲製作に適した原材料は、ケイ素と炭素が適度に多く入っている鉄だ。柔らかく、靱性(じんせい)のある鉄――これを溶かして鋳造した結果、炭素…

  • 根来衆と鉄砲~その⑤ そして鉄砲大国へ・・・日本に鉄砲は何丁あったのか?

    日本人はあっという間に鉄砲の生産技術を習得、世界有数の鉄砲保有国になってしまう。戦国期の日本は、どれくらい鉄砲を有していたのだろうか? もちろん統計なぞないから、推測するしかない。まず時代が経てば経つほど鉄砲普及率は上がっていくはずだ。戦国前期と後期とでは数字がかなり異なるだろうというのは、想像に難くない。ネット上では「10万丁以上」という人もいれば、「100万丁」という数字をあげているものまである。ただこれらの数字がいつの時代を指しているのか、またどこから出ているのか、出典を示していないのでよく分からないものが多い。 鉄砲に関する研究の先駆者、鈴木真哉氏の著作「鉄砲と日本人」には、参考になり…

  • 根来衆と鉄砲~その④ 火縄銃の国産化と、その運用を支えた貿易体制

    複数のルートで、日本各地に伝播した火縄銃。前記事でも触れた通り、日本の鍛冶屋は日本刀によって培われた鍛鉄技術に秀でていたから、すぐに技術を習得、各地で鉄砲生産が始まった。国産の第一号が造られたのは、種子島である。関の出身であった鍛冶師・八坂金兵衛が試作に成功したのが1544年だとされている。それとほぼ同じタイミング、もしくは少し遅れる形で、西坂本において津田監物と芝辻清右衛門が試作に成功している。 種子島開発総合センター鉄砲館蔵「伝八坂金兵衛作火縄銃」。代々、種子島家に伝わってきた、国産第一号と推測される火縄銃。先の記事で紹介した、1549年6月に発生した「黒川崎の戦い」において使用されたのは…

  • 根来衆と鉄砲~その③ 薩摩の海賊に奪われた、鉄砲の謎

    明が残した記録に、非常に興味深い内容のものがある。前回の記事で、薩摩からの船が捕まった話を紹介したが、その1か月後の48年4月に別の密貿易業者・方三橋という男の船が、同じように双嶼付近で明軍に捕まっているのだ。 その記録によると、押収したこの船の荷には「小型仏郎機4・5座、鳥嘴銃4・5箇あり」、つまり大砲と火縄銃がそれぞれ4~5丁あったとはっきりと記されてある。そしてこの船の乗員であった陳端という男は、明の取り調べに対して、これらの火器はなんと「ポルトガル人が日本にやってきた際に、戦って奪い取ったものである」と述べているのだ。 この「火縄銃が奪われた戦い」とは、いつどこで行われた戦いなのだろう…

  • 根来衆と鉄砲~その② 鉄砲は日本にいつ、どこに伝来したのか

    鉄砲は日本にいつ、どこに伝来したのか。 一般にも知られている鉄砲伝来のストーリーとしては、1542年、ないし43年に種子島に到着した中国人倭寇、王直の船に乗っていたポルトガル商人から、当主の種子島時堯(ときたか)が鉄砲を入手。うち1丁が津田監物(別名、杉乃坊算長。おそらく杉乃坊の親方であった、杉乃坊明算の弟)により、根来の地にもたらされた。日本の鍛冶屋は、日本刀によって培われた鍛鉄技術に秀でていたから、すぐにこれを習得、西坂本や堺において鉄砲の生産が始まった――というものだ。 negorosenki.hatenablog.com 王直と津田監物に関しては、上記の記事を参照。 1992年に日本到…

  • 根来衆と鉄砲~その① 鉄砲と大砲 その開発の歴史

    根来と言えば、隣の雑賀と並んで鉄砲隊が有名である。戦国期に根来寺がここまで勢力を伸ばせたのは、間違いなくこの新兵器の威力によるものが大きい。このシリーズでは、根来衆と鉄砲に関わる歴史を見ていこうと思う。 そもそも鉄砲、とは何か。辞典には「銃身を有し、火薬の力で弾丸を発射する装置」とある。当然、火薬の発見以降に開発された兵器になるわけだが、その前段となった武器が存在する。 中国・南宋時代に、「火槍」という武器があった。これは「槍の穂先に火薬を詰めた筒をつけ、敵の前に差し出す」武器である。筒から発する火花と轟音を以て敵をひるます代物で、発想としては火炎放射器に近い。野戦に使える代物ではなく、攻城戦…

  • 晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑨ 倭寇による国造り・台湾王国樹立とその滅亡

    オランダ勢力を駆逐して、台湾を手に入れた鄭成功はさらに南方、スペイン人の占領するフィリピンに目を向ける。彼の旗下にいたイタリア人修道士をマニラに遣わし貢納を要求した、という記録が残っている。これは現地のスペイン人に、ちょっとした恐慌を巻き起こした。すぐにでも鄭軍が攻めてくるに違いない、そう思い込んだスペイン軍は戦時の内応を恐れ、先手を打って在マニラ中国人を虐殺するという暴挙に出たのだ。(事実、そういう動きもあったのだ) 報告を聞いて激怒した鄭成功は、マニラを占領せんとフィリピン攻略を企画する。だがこれが実現する前、1662年6月に鄭成功は病死してしまうのだ。台湾征服からわずか数か月後、この時ま…

  • 晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑧ 倭寇vsオランダ ゼーランディア城攻防戦

    当時の台湾はオランダの勢力下にあった。その拠点は台南のゼーランディア城にあり、支城として近くにプロヴィンシア城があった。鄭芝龍が明の高官であった30年~40年ほど前、鄭一族とオランダは矛を交えた時期もあったが、概ね商売上のよき取引相手であった。しかし1661年4月30日、その息子・鄭成功は300隻の艦隊に1万1700人の兵員を乗せて、ゼーランディア城に攻め入ったのである。 台湾総督コイエットの元に「鄭成功が台湾を狙っている」という情報が届いていないわけではなかったのだが、攻めてきたその数には仰天した。当時のオランダ方の記録には、「霧が晴れたのち、多くの船が北線尾港口にあるのが見えた。マストは大…

  • 晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑦ 倭寇から明の忠臣になった男・鄭成功

    長きに渡って倭寇を紹介してきたこのシリーズも、ようやく終わりに近づいてきた。最後はトリを飾るのに相応しい男の登場である。 1625年。鄭芝龍という男がいた。福建省出身の彼は、故郷の閩南(びんなん)語の他、南京官話、ポルトガル語、オランダ語など数か国語に堪能であったと伝えられている貿易商人、つまりは倭寇の一員だ。鎖国前の平戸を拠点にしていた、顔思済という親分の元で頭角を現した彼は、この年、その後を継ぐ形で船団を率いることになったのだ。 拠点を平戸から台湾に移した彼は、福建省沿岸で武装活動を行い、顔思済の部下時代に同僚であったライバルたちを次々と滅ぼしていく。当初は100隻程度であった彼の艦隊は、…

  • 晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑥ 日本人町と鎖国

    東南アジア各地には、イスラム教徒や現地勢力が築いた小規模な王国が幾つかあったが、16世紀初頭からポルトガル人やスペイン人ら西欧勢が交易網の結節点に町を形成、こうした周辺の小王国を滅ぼして植民地化を進めていった。ポルトガルの拠点はマラッカであり、スペインのそれはマニラであった。遅れて参加したオランダは先の記事で紹介したように、ポルトガルからマラッカを奪おうとしたが失敗、その代わりにバタヴィアと台湾に拠点を置いた。 そしてこのオランダとほぼ同じタイミングで、日本人町が東南アジア各地に形成されはじめる。こうした日本人町は、どのようにして形成されていったのだろうか。 徳川幕府は国内の混乱を治めた後、海…

  • 晩期の倭寇と、世界に広がった日本人奴隷・傭兵・商人たち~その⑤ 東南アジアにおける日本人傭兵たち

    サイヤ人ばりに戦闘能力が高かった戦国期の日本人は、傭兵としての需要も大きかった。最も有名なのは、タイの傭兵隊長・山田長政であるが、他にも例は幾らでもある。1579年にタイのアユタヤ王朝がビルマとラオス連合軍に侵略された際には、500人の日本人傭兵がアユタヤ側に雇われて戦った、とある。1596年1月18日には、スペイン軍のカンボジア遠征に日本人傭兵団が参加している。2年後に行われた同遠征にも、別の日本人傭兵団が雇われている。このように大小さまざまな規模の日本人傭兵団が、東南アジア各地にいたということだ。 静岡浅間神社蔵「山田長政 日本義勇軍行列の図」より。タイの軍団と共に行進している日本人軍団。…

  • 晩期の倭寇と、世界に広がった日本人奴隷・傭兵・商人たち~その④ 海外に売られていった日本人奴隷(下)

    アジアにおける奴隷貿易は、如何ほど儲かったのだろうか?1609年に人さらいに騙されて、マカオで船に乗せられ、マニラにて売りに出された中国人の少年少女たちの史料が残っている。それによると、誘拐犯からの仕入れ値は1人につき10パルダオ、マニラにおける販売価格は120~130パルダオ、とある。12倍から13倍で売れたということなので、相当儲かる商売だったのだろう。 ただポルトガル人によるこれらの奴隷の扱いは、そう酷いものばかりではなかったらしい。例えばアジアにおけるポルトガル人の根拠地・マカオの港湾機能は、日本人に限らずこれら奴隷たちの労働によって支えられていたのだが、賃金の50%は本人のものになっ…

  • 晩期の倭寇と、世界に広がった日本人奴隷・傭兵・商人たち~その③ 海外に売られていった日本人奴隷(上)

    ここで一回、倭寇から離れて当時の日本人奴隷について見ていきたい。16世紀から17世紀にかけて、大勢の日本人が東南アジアのみならず、インドや中南米にまで移住している。パターンとしては、これまで見てきたように、まずは貿易に関わる商人として。次にタイ・フーサのように海賊、つまり倭寇として。そして意外にも多かったのが奴隷として、である。 戦国期、大名たちは近隣に侵略を繰り返した。侵略の際には乱取りがつきものだ。拙著の2巻冒頭にちょっとだけ出てくるが、和泉の国に佐藤宗兵衛という男がいる。1502年に根来寺と同盟関係にあった彼が日野根に侵攻した際、男女を問わず周辺の住民を生け捕りにした、と記録にある。多く…

  • 晩期の倭寇と、世界に広がった日本人奴隷・傭兵・商人たち~その② 流れ流れて、幾千里。倭寇の親分になった「大夫様」

    日本人が頭目であった倭寇集団もあった。最も有名なのが1582年にフィリピンにおいて発生した、ルソン島・カガヤンを縄張りとする「タイ・フーサ」として知られている倭寇集団と、スペインとの間で行われた「カガヤンの戦い」である。 この「タイ・フーサ」だが、「大夫様」と部下に呼ばれていた日本人だと考えられている。「大夫」というのは、正式には官職ないし神職にある、それなりに偉い位なのである。最も官名なぞ、各自が好き勝手に名乗っていた時代だったから、彼がしかるべき偉い人であったかどうかは、甚だしく疑問である。 ちなみに根来にも、大夫という名の行人がいたことが確認できる。1556年の跡式の出入りで、槍で突きか…

  • 晩期の倭寇と、世界に広がった日本人奴隷・傭兵・商人たち~その① 海賊王を目指した林鳳

    後期倭寇の最盛期は1550年代だが、その数を減らしながらも活動自体は引き続き続いていく。これまで前期倭寇と後期倭寇を紹介してきたが、後期倭寇のうち万暦年間の始まり、1573年あたりからの倭寇を「第三期倭寇」と呼ぶ学者もいる。「晩期倭寇」とでも名付けるべきであろうか。特徴としては、構成分子の国際的色彩がより豊かになり、活動地域が中国沿岸から、台湾・フィリピン・タイなど東南アジアを含む南洋全体に広がったことだ。 この晩期の倭寇として、まず有名な人物に林鳳(スペイン側の記録ではリマホン)がいる。潮州出身で祖父の代から倭寇であったというから、筋金入りの海賊大将である。1565年あたりから活動をはじめ、…

  • 後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑩ 史上最大の倭寇船団を率いた男・徐海と、日本人倭寇たち(下)

    こうして全ての邪魔者を始末した徐海は、8月1日に手勢を率いて官憲に降伏する。はじめ胡宗憲はこれを手厚くもてなしたという。帰順した徐海一党には、適当な居留地が与えられることになり、8日に沈家荘という地に入る。東側に徐海一党が、川を挟んだ西側に陳東と麻葉の残党が入居することになった。 しかし官軍の警戒が一向に解かれず、軟禁状態に置かれてしまったことに、徐海はようやく気づくのだ。だが、もう遅かった。あれだけあった手勢はわずかしか残っておらず、自身も既に籠の中の鳥である。自暴自棄になった彼は、17日に胡宗憲の使者を斬って、最期の戦に備える。 ところが官軍が迫って荘中が混乱する中、捕まっているはずの陳東…

  • 倭寇に参加した根来行人たち~その⑫ 史上最大の倭寇船団を率いた男・徐海と、日本人倭寇たち(中)

    暴風でいきなりケチがついたとはいえ、依然もの凄い数である。何しろ最終的に浙江省を中心に暴れまわった倭寇の数は、2万と伝えられているのだ。いちどきに出航したわけではなく、幾つもの船団に別れ、三々五々日本を発ったので嵐に遭わずに済んだ船団もいたのだろう。また日本から来襲した数よりも、現地で蜂起した数の方が多かったはずだ。 既に大陸入りをしており、各地で越冬していた倭寇たちもいた。沙上では、正月早々から倭寇居留地を攻めてきた官軍と戦いこれに大勝、1000人余りの官兵を殺している。これらは日本から襲来してくる略奪船団と呼応する形で、3月には分散して各地で略奪行為を始めるのだ。 日本からの船団は、五月雨…

  • 倭寇に参加した根来行人たち~その⑪ 史上最大の倭寇船団を率いた男・徐海と、日本人倭寇たち(上)

    これまでの記事にも何度か名前だけ登場したが、王直と並び立つほどの大物として除海という倭寇の親分がいる。若い頃、叔父の借金のカタに人質として豊前に住んでいた元僧侶で、日本では明山和尚と名乗っていた人物である。彼は実に評判が悪い男である。子分格であった陳東との諍いの話が残っている――以下に紹介しよう。 陳東の元に、攫ってきた一人の女性がいた。一緒に暮らしているうちに情が移った陳東は、彼女を故郷に帰してやろうとしたのだが、それを聞いた除海が「帰すくらいなら、俺に寄こせよ」と笑いながら言ったので、激高した陳東が剣の柄に手をかけた、というものだ。 他にも瀝港に来てすぐの頃、新参者にも関わらず密貿易をしつ…

  • 倭寇に参加した根来行人たち~その⑩ 海雄・王直の死

    さて、ここまで倭寇の大物プロデューサーの代表格として王直を紹介してきたが、実は彼は無実だったのではないか、という説がある。略奪をしたのは、あくまでも彼の元部下たちであって、彼自身は関わっていなかった、というものだ。 瀝港(れきこう)が陥落したのが1553年3月である。逃げ出した王直は、そのまますぐに日本に向かっている。ところが彼の手下の暴れん坊の一人、蕭顯(しょうけん)という親分率いる倭寇の一団は、日本に行かずにそのまま江南各地を襲い始めたらしい。4月から始まったこの略奪が、本格的な「嘉靖の大倭寇」の口火をきることになったわけだが、これは果たして王直の指示によるものなのだろうか? 王直の下には…

  • 倭寇に参加した根来行人たち~その⑨ 倭寇 vs 明の軍隊

    倭寇はその主体が日本人だったり、中国人だったり、はたまたポルトガル人だったりしたわけだが、果たして彼らはどの程度、強かったのであろうか。「そりゃ、集団の性格と規模によるでしょ」という突っ込みは正しいのだが、それを言ってしまうと話が終わってしまうので、試しにいくつか事例を拾って見てみよう。 1557年3月、海塩に布陣していた倭寇が、洪水発生時に小高い丘に陣取って、急造の堤を造成している。官軍を攻撃する際にはこの土手を切って水を流し、官兵の多くを溺死させたと記録にある。この集団は、こうした土木工事を行うほどの組織力・技術力を持っていたということになる。 戦術面ではどうであろうか。1558年5月7日…

  • 著作について~その④ 1巻の表紙を変える・完成しました! & 1巻と2巻を期間限定で0円で配布します!

    遂に完成しました!根来戦記第1巻、「京の印地打ち」の新バージョンの表紙になります! 本文中にある、1シーンを再現してもらいました。5月5日の「節句の向かい礫」で次郎ら六条印地衆が、悪名高い白河印地衆と礫の打ち合いをしている場面になります。次郎が狙っているのは川向うの対岸にいる、スタッフスリングを持つ白河印地衆の群れです。次郎の動き如何で、仲間の命が助かるかどうか、という緊迫感のある場面です。なので次郎の顔も、お祭りらしからぬ緊迫感のある顔つきになっています。 躍動感のある、とても素晴らしい表紙絵になりました。頭の中にあるぼんやりとした形を、実際のものとして造形して表現できる、というのは凄いです…

  • 倭寇に参加した根来行人たち~その⑧ 倭寇たちの略奪ツアーの行程

    こうした倭寇の略奪船団はどの程度の規模で、どのようなルートを辿り、どう行動したのだろうか。典型的なパターンを見てみよう。 まず倭寇の親分たちが、南日本を中心とした各地で兵を募る。それぞれ懇意にしている地域(縄張り?)があったらしく、前述した陳東の顔が利いたのは薩摩だったし、除海は大隅や種子島だった。いずれにせよ、船団の集合場所は五島列島で、ここが略奪コースの起点となる。入り組んだ地形で湾が多く、船の停泊には絶好の地であった。王直も自身は平戸にいたが、配下の船団の根拠地は五島に置いていた。 各地より三々五々集まってきた船が揃い、予め決めておいた日時になると、出発である。風向きの関係上、季節は3月…

  • 倭寇に参加した根来行人たち~その⑦ 嘉靖(かせい)の大倭寇

    さて、後期倭寇である。明が密貿易の本拠地である双嶼を撲滅させた。その結果、食えなくなった密貿易グループによる略奪が激化する、という逆効果をうむ。そして日本に居を移した王直や、若いころ大隅に住んでいた除海を筆頭に、鄧文俊、林碧川、沈南山などといった、略奪行の敏腕プロデューサーらに誘われる形で、多くの日本人が後期倭寇に参加することになる。 これに参加した日本人だが、「籌海図編(ちゅうかいずへん)」によると、メインは薩摩・肥後・長門の人が多く、これに次いでその他の九州各地と、紀伊・摂津の人である、とある。ちなみに「南海通記」という書物において、伊予の村上海賊衆が倭寇に参加していた旨が述べられているが…

  • 倭寇に参加した根来行人たち~その⑥ 日本に本拠を置いた王直と、杉乃坊算長

    双嶼が壊滅した時、王直はどうしていたのか?実は彼は、既に双嶼に見切りをつけていたらしく、1547年頃から日本の五島列島に拠点を移していた、という説がある。それによると王直は、本拠を双嶼に置いていなかったことを幸い、蘆七や沈九、陳思盻(ちんしけい)らといった双嶼の残党集団を壊滅させ、うまく立ち回って現地の官憲の信頼を得ることに成功したらしい。 ライバルを潰してその船団を吸収し、ますます大規模化した王直の船団は、双嶼近くの瀝港(れきこう)に本拠を置き、現地の官憲・郷紳らと結託し、盛んに密貿易を行った、とある。人民の中には、進んで酒米や子女を与える者もいたし、官兵の中にも紅袍や玉帯を贈る者までいたと…

  • 倭寇に参加した根来行人たち~その⑤ 双嶼壊滅と後期倭寇の始まり

    双嶼の繁栄は長く続かなかった。先の記事で「略奪などはそんなには行っていなかった」と書いたが、それも1546年までのことだった。この年から翌47年にかけて、密貿易商の親分格であった・許棟兄弟が突如70余隻の船団を率いて、浙江省の沿岸地帯を襲い始めたのである。 町を襲い、その地の富豪を誘拐し身代金をせしめる、などの暴挙に出た理由は、多額の借金にあったようである。許棟兄弟は4人兄弟であったが、うち許一と許三が海難事故にあってしまった。それによる損害を挽回するため、双嶼におけるポルトガル人の親玉のひとり、ランサロッサ・ペレイラから出資を募って、日本に向けて密貿易船を送り込む。だが、思ったように利が上が…

  • 著作について~その③ 1巻の表紙を変える・色入りの絵が上がってきました & 紐と袋を勘違い

    色入りの絵が上がってきました! 徐々に、命が吹き込まれていく感がありますね。 帯の柄が素晴らしいです!特に考えもなく指定していなかったのですが、珍飯さんがデザインしたものを入れていただきました。お祭り用に誂えた感がしてピッタリです。この絵を受けて、本編の文中をほんの一部ですが、差し替えようと思っています。表紙が新しくなったバージョンの販売時に、反映させる予定です。絵を見て文が影響されるのも、双方向な感じがしていいですよね。 余談ですが・・実は修正の過程で、投石紐にある礫受けを、もうちょっとだけ幅のあるものに変えていただきました。違いが分かりますか? BEFORE AFTER 設定では、この礫受…

  • 倭寇に参加した根来行人たち~その④ 密貿易ネットワーク

    16世紀の中国沿岸。福建省・広東省・浙江省などでは、海運を使用した密貿易が盛んに行われていた。福建省に至っては、人口の9割が何らかの形で密貿易に関わっていた、とある。明代の中国には「郷紳」という、中央から派遣されてくる現役官僚と連携して、富を蓄える官僚OBの大地主たちがいた。彼らは資本家でもあったから、密貿易にも進んで携わって利を追い求めたのである。 朝貢以外は貿易を認めず、というのが明の祖法であったから、しばしば海禁令が出されたのだが、効き目はほとんどなかったようだ。商品流通経済が進んでいた中国にとって、そもそも海禁という制度自体に無理があるのだ。中期以降の海禁令に至っては、中国人同士の海運…

  • 倭寇に参加した根来行人たち~その③ 李氏朝鮮が払った代償と、三浦の乱

    1443年に嘉吉条約が結ばれたことによって、前期倭寇は終息した。だが、この条約は李氏朝鮮にとっては高くつくものであった。例えば、対馬が貿易のために訪朝した際には、その滞在費、そして交易品の運搬費用は、全て朝鮮側の負担になった。交易品を運ぶ任を負わされた、街道沿いの住民たちの負担は大きく怨嗟の的となった、と記録にある。こんな不利な取り決めに朝鮮側が甘んずるを得なかったのは、倭寇による略奪被害がそれだけ厳しかった、ということであろう。 そもそも農本主義が国是であった李氏朝鮮は、同時代の日本ほど商品経済が発達しておらず、交易も市場に任せない官貿易であったから、抜け目のない商人たちのいい食い物となった…

  • 著作について~その② 1巻の表紙を変える・下書きがあがる

    1巻のラフから、下書きが上がりました。とても難しい構図だと思うのですが、見事なものです。自分には絵心が全くないので、こんなに上手に絵を描ける人を、純粋に尊敬してしまいます。 次郎の斜め下に少年が座っていて、そこから見上げている視点になります。 動きに合わせて、はためく着物の袖や裾の感じが、素晴らしくないですか?ただ袖や裾がやや重たく感じたので、短めにしていただき、また珍飯さんの提案で次郎に襷をかけることにしました。直していただいたのが、下の画像です。 小袖の裾を短くしてもらったので、次郎の膝頭が出ています。また襷かけしているので、裾が捲れて二の腕が見えています。 袖の動きがなくなってしまったの…

  • 倭寇に参加した根来行人たち~その② 前期倭寇の終息

    前期倭寇のピークは、1376年から1389年にかけての13年間である。朝鮮半島における記録を見てみると、それまでは年にひとケタ、多くて年に10回ほどであったのが、1376年に12回を数えた後、翌77年からは29回、22回、15回、17回と、ふたケタ台が当たり前の状況が続き、この13年間を平均すると年に15.3回という襲撃回数になる。記録に載らない小規模なものもあっただろうから、受けた被害は相当なものだったろう。 なおこの時期、中国は元王朝の崩壊→明の建国、といった混乱期にあたる。特に倭寇に関する元代の史料の多くは、内乱で失われてしまったようで、中国側の記録には不備が多い。ただ朝鮮半島ほどの被害…

  • 倭寇に参加した根来行人たち~その① 前期倭寇の正体

    倭寇と根来の行人。一見関係なさそうだが、意外にも少しあるのだ。このシリーズでは倭寇と根来行人とのかかわり、そして当時の国際的なネットワークについて見てみようと思う。 まず倭寇には「前期倭寇」と「後期倭寇」がある。なぜ2期に分かれているのかというと、前期と後期では様相が異なっていたからである。連続して変質していった、というよりも、両者は全くの別ものなのである。 まずは前期倭寇から。年代的には14世紀~15世紀にかけて。記録によると1350年4月、100余艘の倭船が順天府にある漕船を襲った、とある。これまでも松浦党などによる散発的な襲撃はあったようだが、ここまで大規模かつ本格的な襲撃は初めてだった…

  • 著作について~その① 1巻の表紙を変える・ラフをお願いする

    1巻「京の印地打ち」の表紙絵を変えようとしています。以前にお願いしていた絵師さんは、もう描かなくなったとのことで、1巻の表紙絵を2巻に描いていただいた「珍飯」さんに、お願いし直しているところです。 利用したのは、SUKIMAという仲介サービスです。ここに絵師さんが作品を並べているので、自分の世界観にあった絵柄を選んで申し込む。納期や料金などの条件が折り合えば、取引成立です。便利な時代になったものですね。 お願いした珍飯さんは、なんとプロの漫画家さんでもあります。空廼カイリさんという名義で、何作も作品を描かれています。こちらの希望や意図をくみ取って、想像以上の構図を提示してきます。さすがはプロで…

  • 白河印地党について~その③ 白河印地党と禁裏の砂

    上杉本「洛中洛外図」において、御所はどのように描かれているのか?どうやらここでは正月の風景を描いているらしく、前庭において元日節会の行事である舞楽が行われている様子を見ることができる。そしてこの庭には、真っ白な砂が敷き詰められているのが分かる。江戸時代の文献には「この白砂は白川の源流、白川山の石を細かく砕いて砂としたものを使った」とある。 上杉本「洛中洛外図」より。禁裏の御庭には、目にも鮮やかな白い砂が敷き詰められているのが分かる。 瀬田勝哉氏はその著書「洛中洛外の群像」の中で、甲子園の砂のように、御下がりの禁裏の白砂が尊いものとして、京土産に使用された例を紹介している(その白砂は結局、偽物だ…

  • 白河印地党について~その② 白河印地党の正体

    何故に白河に、印地の党ができたのだろうか?実はよく分かっていない。以下は個人的な見解になるのだが、白河には平安期、法勝寺を代表とする六勝寺が建てられていた。200年余りで廃れてしまい、今は跡形も残っていないが、白河期に建てられたこれらの寺は、国王の氏寺としての位置づけで格式も高かった。こうした白河の地に、神人を母体とする印地打ちたちが生まれたのは必然であったのかもしれない。 では、彼らは何をして食べていたのか?これもよく分かっていない。当然、白河には田畑があり、農民たちが住んでいた。だがこれら「きちんとした」自営の農民たちが、印地の党を形成していたとは思えない。本百姓や脇百姓ではない、下人層だ…

  • 白河印地党について~その① 印地のエリート白河印地

    拙著「京の印地打ち」で登場する白河印地衆。作中では、強烈な個性を持つ悪党の集団として描いている。この白河印地、軍記物である「義経記」に出てくる集団だ。「義経記」は平安末期が舞台である。この物語の中で、義経を助ける偉大な印地打ちとして「鬼一法眼」が登場する。実在した人間とは思えないが、彼は京の剣流の元祖である「京八流」の開祖としても伝えられている。 この鬼一法眼の一番弟子にして娘婿に、「湛海坊(たんかいぼう)」という印地の達人が出てくるのだ。彼は北白川の出、とされている。これも実在した人物とは思えないが、モデルはいただろう。そのモデルは白河にいた神人だったと思われる。 また同書には、在京している…

  • 印地について~その⑥ 日本近世~近代編

    天下統一が成り、戦乱の世も終わった。独立色の強かった様々な集団は、あらかた潰されるか、権益を取り上げられ幕藩体制という新しい仕組みの中に再編されていった。平和と秩序の時代の到来である。 発生するたびに死者が出る向かい礫など、お上にとっては百害あって一利なし。当然、禁令を出した。いや禁令はこれまでも出ていたのだが、どこか腰の引けているものであって、例えば鎌倉幕府の北条泰時に至っては「あれを禁止すると飢饉が起こるといって、騒ぎになるから放っておけ」と言ったものである。 しかし既に中世は終わり、新しい時代となっていた。寛永の頃に禁止令が出されているようで、これ以降、死者が何十人も出るような、凄まじい…

  • 印地について~その⑤ 日本中世編(下)

    さて節句の向かい礫である。京には大小の祭りはたくさんあるが、時代が下るにつれ「祭礼飛礫」は正月と節句、この2つの祭りに集約していったようだ。 拙著「京の印地打ち」では節句の向かい礫は、加茂川を挟んで行われていたように書いたが、実際にはみやこの辻々で行われていたようだ。刀や棒などの打ち物は勿論のこと、盾まで持ちだしていたようだ。 下図は1841年に出版された「尾張名所図会」の中の、印地打ちの図だ。「印地打ちの古図」とあるので、古い時代の原図を写したものと思われる。印地打ちに参加している多くの者たちの腰には、刀が差されていることに注目。 差しているのは刀ではなくて菖蒲の葉、という説もあるが・・それ…

  • 印地について~その④ 日本中世編(上)

    鎌倉期に入り、武士たちの時代が始まる。しかし西日本はまだ、概ね朝廷の支配下にあった。東の武士政権、西の王朝政権である。(「2つの王権」論に基づく。これに対する考え方に、「権門体制」論がある) 朝廷のお膝元、京においては、寺社勢力による「強訴」は引き続き行われていた。そんな中「遊手浮食の輩」が神輿御行に供して飛礫を行った、という記録が見られるようになる。彼らは神人ではない。何をして食っているのかよく分からない、いわゆるゴロツキどもである。 網野善彦氏によると、13世紀の京において職能民としての印地打ちが見られるようになる、という。これが、いわゆる「印地の党」である。昔ながらの神人たちによる印地打…

  • 根来寺の行人たち~その⑧ 出入りの掟

    頻繁に起きていた境内での出入りだが、争いがエスカレートしないよう、守るべきルールがあったことが判明している。これを「根来寺之法度(はっと)」という。これまでに紹介した、慶誓が参加した2つの出入りを読んで気づいたことはないだろうか?そう、武器に鉄砲が使用されていないのである。 鉄砲伝来が1542年。出入りがあった1555~56年には、既に根来の門前町である西坂本で鉄砲生産が始まっていた可能性が高い。にも関わらず、使用されていないのだ。 どうも殺傷力が高い武器の使用は、禁止されていたようなのだ。確かに境内で射撃戦なぞ始められたら、死傷者の数が増えるどころか、流れ弾で周囲にも被害が及ぶだろう。 被害…

  • 根来寺の行人たち~その⑦ どこの谷にあるのか、系列はどこなのか

    根来の四院――泉識坊・岩室坊・閼伽井坊・杉乃坊のこれら有力子院は、大きな経済力と軍事力を持っていた。こうした力のある子院は、まるで企業が子会社を作るように、系列の子院を増やしていく。例えば泉識坊系列の子院として、愛染院や福宝院などの名が挙げられる。両者は親分・子分の関係にあり、主従関係に近い形だった。 これに対して、地縁で繋がった共同体的な関係性がある。根来は山あいの谷間にあったが、峰々を刻む谷ごとに共同体が成立していた。京の町組のようなものである。生活のための水利や伐採権を共有しているので、これらの枯渇は子院の死活問題につながる。なので、谷ごとの共同体の横の繋がりは強いものだった。 1555…

  • 根来寺の行人たち~その⑥ 1556年、跡式の出入り

    もう1つ、違う出入りを紹介したい。やはり同じ慶誓が参加した「跡式の出入り」だ。先の「山分けの出入り」からわずか1年後、1556年に発生した出入りである。 それにしても、慶誓が参加していない出入りもあったはずなので、こうした戦いが常時、境内において繰り広げられていたということになる。随分と物騒な環境だ。関係ない学侶方の僧はさぞかし迷惑だったろう――案外、どちらが勝つかで賭けをしていた僧なども、いたのではないかという気もするが。 この出入りだが、泉識坊系の「威徳院」と杉乃坊系の「三實院」との間に、相続を巡る争いがあったのが事の発端らしい。ずっと話し合いが続けられていたが、破綻して「跡式の出入り」が…

  • 根来寺の行人たち~その⑤ 1555年、山分けの出入り

    以前の記事で少し述べたが、根来の行人方子院の間では、内輪もめが絶えなかった。内輪もめといっても、喧嘩レベルの話ではない。死傷者が何人も出る合戦レベルの戦いを、境内において繰り広げていたことが分かっている。 これを「出入り」という。 佐武源左衛門という、知る人ぞ知る武士がいる。彼は雑賀出身で12歳にして弓矢を持って村同士の合戦に参加するほどの、相当な暴れん坊だ。18歳の時に、雑賀の隣にある根来寺・福宝院の行人となっている。なぜ根来入りしたのかよく分からないが、武者修行のつもりだったのではないだろうか。彼はこの地において水を得た魚のごとく、縦横無尽に暴れまくるのである。ちなみに拙著にも、主人公と絡…

  • 根来寺の行人たち~その④ 行人たちの実態

    行人たち――僧兵でもあった彼らは、どんな生活をしていたのだろうか。まずは見た目から。これに関してはフロイスの記録が詳しい。該当部分を引用してみよう。 「彼らは絹の着物を着用して、世俗の兵士のように振る舞い、富裕であり立派な金飾りの両刀を差して歩行した。(中略)さらに彼らはナザレ人のように頭髪を長く背中の半ばまで絡めて垂れ下げ~(中略)一瞥しただけでその不遜な面構えといい、得体の知れぬ人柄といい、彼らが仕えている主――すなわち悪魔がいかなる者であるか――を示していた」とある。 この後、彼らがいかに堕落しているか、キリスト教的主観に基づいた悪口が続くので省略するが、行人たちの出で立ちについては、客…

  • 根来寺の行人たち~その③ 台頭する行人たち

    ともあれ、地域の国衆を吸収して強大化した根来寺。根来に属した行人方子院たちは、外部に対しても盛んに侵略を行うようになる。 経済的な侵略方法としては、加地子(かじし)得分(とくぶん)(年貢以外の余剰収穫分のこと。場所によっては年貢の数倍~数十倍もの収穫があった)の集積や、その地における代官職の獲得などである。これらは借金のカタに回収したり、強引な買い叩きなどをして集めたようだ。その背景となったのが、根来の軍事力である。所領の押領、と形容した方がいいような方法もあったかもしれない。 根来寺の行人方子院はこのようにして、徐々にその影響圏を拡大していく。近くにある粉河寺(こかわてら)とは、長年に渡り権…

  • 根来寺の行人たち~その② 国衆と行人方子院

    多くの戦国大名の成立過程というものは、概ね以下のようなものだ。 ① 守護や守護代、国衆の中から、力がある家が台頭してくる。 ② 周辺の国衆を滅ぼすか、傘下に入れるかなどして、その国を統一する。 ③ 独立性の強い国内勢力を粛清、再編成しつつ他国へ侵攻する。 だが紀泉においては、①はできても②ができなかった。なぜか。日本の権力の中心地である京に近いため、強大な力を持つ大名(細川・三好など)の影響力を排することができなかった、というのもある。だが、もうひとつある。それは根来寺があったからなのだ。 ある程度まで力をつけた国衆は、自ら領地を根来寺に寄進する。結果、寺領が増えていった根来寺が大きな力を持つ…

  • 根来寺の行人たち~その① 行人とは

    紀州根来寺は、現在の和歌山県岩出市に今もある、新義真言宗の総本山である。開祖は覚鑁上人。戦国期における寺院の数は数百を越え、抱える僧兵は数万、石高は72万石に達した、といわれている。当時の人々の概念としては、根来に集まった寺院群の総称を「根来寺」と呼んでいたようである。 1570年にネーデルランドのオリテリウスが作成した世界地図には、「Negrou」として、その名が大きく記載されている。これは当時のポルトガル宣教師・ザビエルらが本国に送った報告書の影響と考えられる。ザビエルが訪日した時期は、まさしく根来寺の最盛期でもあったのだ。 オリテリウスの世界地図。JAPANの右下にNegrou、とある。…

  • 印地について~その③ 日本古代編

    まずは印地の語源について。「石打ち」から転化して「いんぢ」となり、それに後から漢字をあてたものらしい。「印地」のほか「印字」「因地」「伊牟地」とも記される。 既に弥生時代前期の遺跡から礫が出土している。石製ないし土製のものだ。古来よりずっと礫が使われていた証左だが、文献がない時代なのでどのような使われ方をしていたか分からない。スリングである「投石紐」の出土例もないが、植物繊維ないし革製だっただろうから、残らなかったのだろう。 「印地」が出現する最も古い文献上の記録は、平安期中頃の997年4月16日に書かれた「小右記」である。「藤原一門に連なる貴族の一員が、花山天皇に仕える雑人たちによって飛礫を…

  • 印地について~その② 戦場におけるスリングの弱点

    武器としてこんな素晴らしいスリングだが、古代から中世にかけて戦場からは徐々に姿を消してしまう。理由はいくつかある。 まずは金属製の鎧と盾の普及。スリンガーたちも石弾を紡錘形に成形したり、より重い鉛弾を使ったりするなどして、攻撃力を上げる工夫はしていたのだが、流石に金属製、特に鉄製の盾と鎧に対しては分が悪かった。またそうなると結局は工房などで弾を形成することになり、容易に弾を補給できる、というメリットのひとつも失われてしまった。 次にライバルの進化。相手が木製の単弓や、弩であるならばまだ張り合えたのだが、複合弓や長弓など、より進化した弓が出てきてしまうと、速射性・攻撃力共に遥かに及ばなかった。上…

  • 印地について~その① スリンガーたち

    「印地」とは一言でいうと石投げのことである。石を投げる行為だけでなく、それを含む日本特有の文化・技術・行事を指す。この章は「印地」ではなく、まずは「石投げ」について取り上げる。 「石投げ」は世界各国で最も原始的な遠戦手段として使われてきた。材料はその辺りに転がっている石。持って投げるだけ。ローコストで手軽。遠距離攻撃。使わない手はない。 より殺傷力の高い弓矢が発明されると、必然的に石投げは廃れた・・わけでもなく、並行して使われ続けた。何故かというと、素手で投げるだけではなく、投石器(スリング)という石投げのための道具が既に発明され、使用されていたからだ。 スリングの材質は主には革や布だが、動物…

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