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根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/

 戦国期の根来衆、そして京都についてのブログ。かなり角度の入った分野の日本史ブログですが、楽しんでいただければ幸甚です。

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2022/07/22

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  • 室町期の仏教について~その⑨ 室町期の時衆 念仏札を配る権利「賦算権」とは

    日本には、奈良期頃から遊行僧というものがいた。いわゆる「聖(ひじり)」と呼ばれる人たちである。仏僧の格好はしてはいたが、きちんとした学識があったかどうかは怪しいものである。民間呪術の使い手でもあった彼らは、地方を回りながら祈祷・まじないを行う存在であった。 平安期になり浄土思想の流行によって、彼ら聖の多くは「念仏聖」へとジョブチェンジする。寺院に定住せず、「南無阿弥陀仏」を唱えながら遍歴修行する半僧半俗の存在である。代表的な聖として、平安中期「市聖(いちのひじり)」と呼ばれた空也がいるが、彼は傑出した存在であって、その殆どはもっと怪しげな存在であっただろう。 さて鎌倉期に登場した時衆であるが、…

  • 室町期の仏教について~その⑧ 法然の後継者たち 分裂しまくる浄土宗

    「専修念仏」や「他力」という概念を持ち込み、これまでの仏教に大変革をもたらした、偉大なる思想家・法然。彼の死後、長老であった信空が後継となったもののその後、浄土宗は数多くの派閥に分派してしまっている。 どんな宗派でも、開祖が亡くなった後は分派してしまうのは世の習いであり、臨済宗の例などでも見てきた通りなのだが、それにしても浄土宗はその傾向が強い。こうなってしまった理由は何故だろうか? ブログ主が考えるに、初期の浄土宗は構造的な問題を抱えていたように思われる。それは「法脈というものを重視していなかった」という問題である。 いきなりだが、日本の仏教を料理に例えてみよう。まず仏教というものはインドで…

  • 室町期の仏教について~その⑦ 曹洞宗が行った巨大イベント「千人湖会」

    五山に比べると曹洞宗においては、比較的参禅の気風は守られていたようだ。しかし室町中期以降となると、林下と同じように師弟の間で口訣伝授される「密参録」が流行してしまい、本来あった禅風は失われてしまう。このように閉鎖的な環境に陥ってしまうと、自ずと分派活動が促進されることになる。 また地方をメインに活動していた曹洞宗が円滑に布教するためには、その地の支配者である戦国大名の庇護を受けることが必須となる。その結果、戦国大名の領国ごとに教線を広げていくことになったから、これまたロ-カル色が強くなる要因となった。各門派は互いに連絡がなく、別個に本末関係を結んで発展していったわけである。 しかしある時期から…

  • 室町期の仏教について~その⑥ 「禅の民衆化」に成功した曹洞宗

    さて現代において最も寺院数の多い仏教宗派は何かというと、実は曹洞宗なのである。文化庁が発行している宗教年鑑によると、曹洞宗だけで1万4000を超えるのだ。次点が浄土真宗で本願寺派が約1万、3位が大谷派の約8000である。これまでの記事で紹介した、室町期に盛んであった臨済宗はというと、妙心寺派が最大でその数は約3000である。 鎌倉期から南北朝期にかけて、曹洞宗はまだ小さい教団でしかなかった。ひとつの独立した宗派というよりも、同じ禅宗ということで臨済宗に数多ある林下諸派――大覚寺派や妙心寺派と、同じようなものとして一括りに捉えられていたのである。この記事では、如何にして曹洞宗が室町期以降にその教…

  • 室町期の仏教について~その⑤ 禅寺の興亡 その制度と文化(下)

    次に禅寺における生活スタイルを見てみよう。禅僧たちは、基本的には僧房において集団生活を行っていた。彼らを率いるのは、既に悟りの境地にいる(はずの)師匠である。師と共に生活し、その一挙手一投足に注目し、そこから何らかの意味を見出すべく日々坐禅し、公案に挑むのである。大寺院であれば数百人規模の禅僧たちが、一堂に会して生活していたわけである。 とはいえ時代が下るにつれ、五山における禅風に変化が起きてくる。まずは禅の密教化である。初期臨済宗の特徴は兼修禅であったから、必ずしも密教を否定する立場にはなかった。禅僧の中には伝法灌頂を受けるものなどもいたのである。しかしその場合でも、密教はあくまでも禅と並列…

  • 室町期の仏教について~その④ 禅寺の興亡 その制度と文化(上)

    五山の禅僧には、宗教活動を行う「西班衆」と、寺院の経理や荘園の管理を担う職能集団の「東班衆」がいたことが分かっている。これはどんな宗派の寺院も一緒なのだが、巨大な寺院群を運営していく以上、このように役割を分担せざるを得ないのである。 例えば旧仏教の一員である根来寺のケースを見てみよう。これまでの記事でさんざん紹介済みだが、根来寺には上級僧侶である「学侶方」と、下級僧侶である「行人方」がいた。そして両者の間には、はっきりとした身分の差があったのである。下級僧である行人は、あくまでも学侶僧の修業を補助する存在であり、学侶僧が参加する法会などには参加する資格はなかった。(最も時代が下っていくと、行人…

  • 室町期の仏教について~その③ 室町幕府の財政を支えた禅寺

    このように臨済宗は、室町幕府の下で大きく発展することになる。室町幕府は鎌倉以来の禅寺の「五山制度」をそのまま受け継いだが、この室町期に五山は官寺としての組織化が徹底して進むことになる。 一例として、室町幕府には「禅律方」という役職があった。これは幕府が禅宗と新義律宗を統率するための役職なのである(この頃、新義律宗もまた大きな勢力を持っていたことが分かる)。 禅律方には頭人(とうにん)と奉行を置き、それに五山を統率させたのである。五山の下には、最終的には数千の末寺・塔頭が所属することになるのだが、この膨大な数の禅寺は室町幕府の管理の下、巨大なピラミッド型の官僚体制が構築されたのであった。 このよ…

  • 室町期の仏教について~その② マルチな才能を発揮した禅宗のプロデューサー・夢窓疎石

    弘安の役から18年後――鎌倉期も終盤にさしかかった1299年に、建長寺で入門試験が行われている。記録によると、この時の試験において上級でパスしたのは2人だけ、うち1人が夢窓疎石という僧であった。彼はこの時25歳、既に京と鎌倉の禅寺においてかなりの研鑽を積んだ、前途有望な僧であった。 彼は元々、奈良の東大寺で受戒した真言僧である。しかし天台の高僧であった師の死に臨んで、その教えに疑義を抱くようになり、禅宗へ宗旨替えしたのである。極めて優秀な頭脳の持ち主であった夢窓は、建長寺にて最終的には修行僧の最上位である「首座(しゅそ)」の座にまで昇り詰めるのだ。しかしそこで壁に突き当たってしまう。どうしても…

  • 室町期の仏教について~その① 武士たちにとって親しみやすかった、臨済宗

    これまでのシリーズで、仏教が如何にして日本社会に受容されていったか、そして2人の天才・空海と最澄の登場による平安仏教の興隆、更に鎌倉仏教の登場についてなどを紹介してきた。このシリーズではその後、南北朝から室町期において仏教各宗派はどのように発展していったか?を紹介してみたいと思う。 結論から言ってしまうと、室町期の仏教は鎌倉仏教が巻き起こしたような、思想上のセンセーションは起こさなかった。教義的にはそこまで大きな進展はないのだ。その代わり、各教団において組織の質的変化と規模の拡大が行われた。各宗派はより組織化され、洗練された教団へと成長していくのである。 なお内容の一部は前シリーズのものと重複…

  • 当ブログ開設2周年 解説と分析~その② 急に増えたXからのアクセス 「黒人奴隷・弥助」騒動

    さて少し前の24年7月16日に、1日あたり230くらいの突出したアクセスがありました。これまでの最高値だったので、なんだろうと調べてみたら、Xからのリンクが急増していました。どなたかにXで記事のリンクを貼っていただいたようです。どの記事のリンクであったか調べてみたら、下記の記事でした。 Xからのリンクは普段はほぼゼロなのに、この日だけ急に増えています。リンク先は「晩期倭寇」シリーズにある、2つの記事でした。リンク先は下記です。 はてな?なぜだろうと思っていたら、思い至りました。日大准教授のトーマス・ロックリー氏の研究や著作が炎上した件ですね。これはどういう炎上案件かというと、実は世界を巻き込ん…

  • 当ブログ開設2周年 解説と分析~その① 1年前と比べた分析

    ブログを開設してから2年4か月が経ちました。タイトルは2周年となっており、この記事は7月にUPする予定でいたのですが、継続中の仏教シリーズの腰を折るのもなんなので、ひと段落したところで記事をUPした次第です。 さて細々と続けている当ブログですが、おかげさまでようやく、トータルで3万近いPV数に達しました。吹けば飛ぶようなPV数ですが、1日あたりのPV数は増えています。1年前の記事を見てみると、1日当たりPVは平均20がいいところでしたが、今では平均して60~70ほど、100を越える日も珍しくありません。分析してみると、明らかに検索サイトからの数が増えているのが分かります。下記は当ブログのアクセ…

  • 日蓮と忍性、そして蒙古襲来~その⑩ 撃退された元寇 予言が当たらず困惑する日蓮

    なお服部氏は、1回目の侵攻「文永の役」に関しても、独自の説を唱えている。まず元軍の数に関してであるが、池内説3万以上に対して、服部氏は1万6500人ほど(高麗史による)としている。そして池内説では「博多に上陸した10月20日に戦いが行われ、その日のうちに撤退した」ことになっている。この撤退も「大風によって艦隊がダメージを負ったのが原因」としているのだが、服部氏はこの「1日で撤退した」というのも間違いであると主述べている。 そもそもこの「1日撤退説」と「大風説」の由来は、「八幡愚童訓」に書かれている「白装束の神の使いが現れて、艦隊に弓を放つと海が炎上した。日本の神の怒りを恐れた蒙古軍は一夜で姿を…

  • 鎌倉後期の法華宗・真言律宗(新義律宗)、そして元寇~その⑨ 「弘安の役」に関する、服部氏の新説

    この記事では、前回紹介した服部英夫氏による著作「蒙古襲来と神風~中世の対外戦争の真実」の内容に基づいて、弘安の役の戦いの推移について紹介していく。 まず服部氏は、東路軍の進撃タイミングと進撃路に対して、以下のような説を唱えている――「通説では東路軍が合浦を出たのが5月3日、対馬占領は5月26日以前、志賀島占領は6月6日となっている。しかし実際には、対馬占領は5月8日、15日に壱岐を占領、続いて博多の志賀島占領は5月26日なのである。また通説によると、武士団の反撃があった結果、東路軍は志賀島を放棄したとされているが、実際には元軍は持ちこたえ、志賀島の橋頭堡は維持したままであった」というものだ。 …

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その㉖ 引き籠る日蓮 「弘安の役」で大勝する日本

    甲斐国身延山に引きこもり、著作に励む日蓮。この間、彼は大量の手紙を弟子や信者たちに送っており、断片的なものも含めると現存するものは600点にも及ぶとも言われている(ただし偽物も多いようだ)。一次史料が大量に残っているということは、その人物像が具体的に分かるということである。中世自社勢力の研究者である伊藤正敏氏は「中世ではその人となりまで分かる人は少ないが、日蓮はそのひとりである」と述べている。 見延山での彼は「ただひとりの弟子を相手に、ひたすら法華経の研究に打ち込みたい」という願いを持っていたようだ。だが彼の下には次第に人が集まってくるようになる。最終的には、この地で100人ほどの教団が結成さ…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その㉕ 鎌倉武士団 vs 元軍 「文永の役」戦いの様相

    元は日本に対して、都合6回の使者を送っている(うち2回は本土までたどりつけず)。当初はガン無視を決め込んでいた鎌倉幕府であったが、さすがにそういうわけにもいかなくなった。こちらからも使者を送るなどの動きも見せているし、祈祷以外にもちゃんとした対策を講じている。具体的には「異国警固番役」の設置である。九州に所領を持つ東国御家人を鎮西に下向させ(これを契機として、九州に所領を持つ御家人の在地化が進むようになる。肥前千葉氏や薩摩島津氏など)、少弐資能・大友頼泰の2名を沿岸警備の総指揮官としているのだ。 次に北条得宗家内における、中央集権化の動き。これにまつわる騒動が1272年に発生した「二月騒動」で…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その㉔ 日蓮最大の危機・竜ノ口法難と、遂にやってきた元寇

    大国・元の脅しに対して、徹底して無視を決め込んだ鎌倉幕府。しかし幕府も、必ずしも無策でいたわけではない。この時点で幕府がとった対策は「そうだ!寺社に祈祷してもらおう」というものであった・・・これを読んで、思わず脱力してしまった人もいるかと思うが、当時の人たちは大真面目だった。それだけ祈祷には力がある、と信じられていたのだ。 取り急ぎ幕府は「異国降伏」の祈祷を、建長寺・寿福寺(臨済宗)、極楽寺・多宝寺(律宗)、大仏殿・長楽寺(念仏宗系)、浄光明寺(四宗兼学だが、メインは律宗)の有力寺院らに依頼したのだが、これがまた日蓮にとっては耐え難いことであったのだ。 日蓮にしてみれば、この世にはびこる「邪宗…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その㉓ 社会事業にまい進する忍性 亡国の危機に焦る日蓮

    日蓮は焦っていた。 なにしろ同じ鎌倉にいる、新義律宗を率いる忍性の勢いには凄まじいものがあったのだ。彼が成し遂げたこと――鎌倉幕府のトップである、北条得宗家に戒律を授け、仏の教えの上での師となる――は、実のところ日蓮がしたくて堪らなかったことなのである。(なお、新義律宗の大ボス・叡尊は北条実時・時頼両名に授戒する目的を果たした後、鎌倉における布教は忍性に任せ、すぐに奈良に帰っている) ここに至って、忍性を最大のライバルと認定した日蓮とその弟子は、このようなロジックで彼を攻撃している――「生身の仏のごとく崇められている忍性であるが、彼は財を蓄え、貸金業を営んでいる。教えと行いが乖離しているではな…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その㉒ 法難に逢う日蓮、躍進する忍性

    浄土宗に深く帰依していた、その地の地頭・東条景信は、念仏宗を非難中傷する日蓮に対し、激しい敵意を抱く。景信による襲撃の恐れもあり、日蓮は故郷を離れ、一路鎌倉へと向かうのであった――というのが、現在の日蓮宗に伝わる公式ストーリーである。 しかし実際のところは信仰の問題というよりは、清澄寺と東条氏との間で領家の権益をめぐってのトラブルがあった、というのが真相のようだ。裁判の結果、東条氏が全面敗訴したのだが、この際に清澄寺の僧として精力的に弁護活動に動いたのが日蓮であり、これが理由で景信から憎まれたようである。 だがこうしたトラブルがなくても、いずれにせよ何処かの時点で日蓮は鎌倉へ向かっていただろう…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その㉑ もうひとつの鎌倉仏教 「真言律宗(新義律宗)」叡尊と忍性(下)

    ※注意※ この記事は前回UPしたものと、内容的には同じになります。記事内容に不足があったので加筆修正しましたが、散漫かつ冗長になってしまったので、9月17日に更に大幅に手を入れ再編集し、(上)(下)に分割しました。情報量も増え、読みやすくなっていると思います。 さて、叡尊が復興させた「通受」とは、どういうものであろうか。 戒律には多くのルールがあるのだが、大別すると3つに分けられる。「摂善法戒(善いことを成すための戒)」「摂衆生戒(衆生救済を目指す戒・要するに人々を救う戒)」「摂律儀戒(悪をとどめる戒)」の3種類である。 この3種の戒を受けることを、「通受」と呼ぶのである。戒を受けるということ…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑳ もうひとつの鎌倉仏教「真言律宗(新義律宗)」

    日蓮に関しては数多くの著作が出ている。何冊か読んでみたが、最も客観性があって面白いと思った本が、日本中世史・仏教史学者である松尾剛次氏の著した「日蓮・戦う仏教者の実像」である。以降の記事の内容の多くは、この本に書かれた内容を参考にしていることを明記しておく。 さて1252年、日蓮は遊学先より安房国・東条にある清澄寺に帰還する。この地において、遂に立教開宗を宣言するのである。 実のところ、前記事で述べた彼の教義の多くは、時の経過によって幾分か変遷している。例えば「お題目を唱え、即身成仏を目指し、この世を正していく」という部分に関しても、この時点ではまだそこまではっきりとした形になっていなかったよ…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑲ 戦う男・日蓮 その目的は「世界を正す」こと

    さて鎌倉仏教のトリを飾るのは、日蓮宗である。おなじみ日蓮が開いた宗派であるが、開祖の名がそのまま宗派になっているのは、この日蓮宗だけである。そういうことからも分かるように、日蓮は強烈な個性を持っていた男なのである。 日蓮の名言、というか迷言として「真言亡国(しんごんぼうこく)、禅天魔(ぜんてんま)、念仏無間(ねんぶつむげん)、律国賊(りつこくぞく)」というものがある。他宗をここまであからさまに攻撃した開祖は今までになく、その攻撃的姿勢は日蓮宗そのものにも受け継がれた。「炎上上等」なのである。故に日蓮宗は、時の政権によく弾圧されている。 この記事では日蓮が、如何にしてこうした過激な思想を持つに至…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑱ 「お葬式」を発明した曹洞宗

    鎌倉仏教を奉じる教団の傾向として、旧仏教ほど「寄進された荘園」というものを持っていない、ということがある(一部例外はある)。彼らは中世に入って出現した新興勢力であったから、残されたパイであるところの「余った土地」が少なかったわけである。(故に武士階級から支持されたともいえる。一部の宗派を除いて、土地の取り合いで武士たちと競合することはなかったわけだ)。ではどうやって教団を維持していくかというと、主に在家信者による「銭や物の寄付」に頼ることになるのである。 どこも宗祖が存命の頃は、その個人的な人間関係や、カリスマ性によって集まってくる寄進でやっていける。しかし2代目以降となると、そうはいかなくな…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑰ 日本人好みの倫理観「自己に厳しく、ストイック」を日本に定着させた道元

    前回の記事で、禅宗の教えの根本は「人は本来仏であり、生きることは悟りに向かって進んでいくことでもある」と紹介した。とてもポジティブな考え方なのであるが、これもまたどこかで似たような思想を聞いたことがないだろうか? そう、またもおなじみ「本覚思想」である。この本覚思想、以前の記事で法然の「専修念仏」を曲解した考え方との類似性を指摘したことがある。スタート地点は違えど、共に「修業は不要だから、怠けてもいい」という着地点に至ってしまった考え方である。堕落に通じるロジックとして悪用されてしまったわけであるが、禅宗のこの考え方もまた例外ではなかった。人は易きに流れがちな生き物なのである。 どんな思想から…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑯ 曹洞宗・道元 ただひたすらに座禅する「只管打座」

    禅系統の鎌倉仏教としては、前記事で紹介した栄西の臨済宗の他に、道元の興した曹洞宗がある。臨済宗との違いは何なのであろうか? 今回の記事は内容はなかなかに難しいので、書いているブログ主も自分の解釈が正しいかどうか、若干自信がない。致命的な間違いがあったら、コメント欄でご教示いただきたい。まずは道元の生い立ちから見てみよう。 親ガチャ的には、道元はかなり恵まれている。内大臣であった久我通親の子(ないしは孫)として1200年に生まれており、幼少から英邁であったようだ。わずか13歳にして仏道を志す。両親が早逝してしまったことが関係しているようだが、詳しいことは分かっていない。その翌年に叡山にて出家する…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑮ 臨済宗・栄西 日本オリジナル禅「達磨宗」との確執

    禅宗を日本に持ち帰った栄西。しかし実のところ、他の宗派の例に違わず、禅の教え自体は、奈良時代から平安時代にかけて既に伝わっていたのである。例えば平安時代前期には、唐の禅僧・義空が皇太后・橘嘉智子に招かれて来日し、檀林寺で禅の講義が行われている。しかしながら当時の日本における禅への関心の低さに失望し、数年で唐へ帰国した、とある。 この時は、禅は日本に根付かなかった。しかし禅に関する知識は、先達たちが日本に持ち帰っていた各種の書籍に――散逸的な形ではあるが――残されていたのである。 これに着目した男がいた。平安末期の比叡山の天台僧侶、大日房能忍である。当時の延暦寺が所持していた仏教文献の数は日本一…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑭ 臨済宗・栄西 求めたのは規律正しい生活スタイル「禅 with 戒」

    栄西は平安末期~鎌倉初期にかけて活躍した僧である。備中国・吉備津神社の神官の家に生まれ、13歳で比叡山延暦寺に登り、かの地で天台宗の教学と密教を学んでいる。しかし彼は、貴族仏教化していた叡山に嫌気がさしていたらしい。中国の正しい仏法を学んで日本の仏法の誤りを矯正しようと、1168年に大陸へと渡っている。栄西、このとき28歳であった。 当時の中国は異民族である女親族の侵略により、長江より北は金、南は南宋が支配するところになっていた。目指す天台山は長江より南にあったため、南宋へ渡航する。天台山や阿育王山などに詣でた後に、天台宗の書籍60巻を入手、同年に帰国している。 帰国してから、栄西は密教の研究…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑬ 踊り念仏・一遍 行く先々で多大な利益を与えた、興行としての踊り念仏

    法然の浄土宗を皮切りに、道元・栄西・親鸞・日蓮など、鎌倉新仏教の宗祖らは、いずれも旧仏教サイドから弾圧された歴史を持つ。しかし一遍の時衆に関してはそうした例があまりない。これは何故だろうか? そのヒントが「一遍聖絵」に描かれている。前記事でも少し言及したが、1284年3月、近江・大津の関寺にて踊り念仏が行われている。この時の踊り念仏を描写した絵巻を見てみると、面白いことが分かるのである。 「一遍聖絵」より、近江・関寺で開催された踊り念仏。高屋ではなく池の中島に踊り屋が設けられるという、変わったスタイルで行われている。 踊り念仏が描かれたシーンでは、高屋の踊り屋で開催されているものが多いのだが、…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑫ 踊り念仏・一遍 中世の「ウッドロック」 京・市屋で開催された伝説的踊り念仏

    信州小田切里にて行われた、初の踊り念仏。これを皮切りに、一遍らは踊り念仏を行うようになるのだが、まずは手探りといったところで、遊行先で必ず踊りが開催されたわけではなかったようだ。踊りそのものもまだ出来たばかりだったから、どのような手順ではじまり、どうクライマックスを迎えるのかなど、試行錯誤で行っていたようだ。 なお「踊り念仏」そのものは平安期の市聖・空也が始めたという説がある。実は一遍自身がそのようなことを言っていたようなのだ。しかしながら空也のそれは同時代の記録には残っておらず、また彼の死後は広がりも見せずに隔絶してしまっていることから、踊り念仏と称されるほどのものではなく、「リズミカルな称…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑪ 踊り念仏・一遍 すべてを捨てて、みな踊れ!

    「人が勧めるから成仏できるのではない。大昔に阿弥陀仏の願いが叶った結果、全ての人が往生できるのだ。それはもう決まったことで、念仏を信じようが信じまいが、その人が清い人であろうが、穢れた人であろうが関係ないのだ。」――これが一遍の主張であることは、前記事で紹介した。 そして一遍の主張はこう続くのだ――「だから思う存分に、念仏札を配るのだ。そして念仏を唱えるのだ!」 上記の主張からは、一遍の喜びが伝わってこないだろうか。我々は既に救われているのだ。こんなに嬉しいことがあろうか!念仏札を配るのも、楽しくてしょうがない。配っているうちに喜びが体の中から湧き上がってくる。その喜びに身を任せ、さあ念仏を唱…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑩ 踊り念仏・一遍 「信不信を選ばず、不浄を嫌わず」

    ※前回、浄土真宗つながりで本願寺・蓮如の記事を書いてUPしましたが、2回目以降の記事を下書きをしてみたところ、どうも長いシリーズになりそうで(多分6記事ほど)、流石に別のシリーズとして独立させることにしました。先の記事は1回取り下げて、「本願寺を強大化させた男・蓮如」シリーズとして後日UPし直します。ご了承ください。 鎌倉新仏教の中で、現代に生きる我々にとって最も馴染みがない宗派が「時宗」であろう。現代にも時宗の寺は存在する。総本山は神奈川県藤沢市にある清浄光寺である。全国にある時宗の寺の数は、2014年時点で411、信者(というか檀家数)は5万8950人である。10年前のデータなので、今はも…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑩ 本願寺・蓮如(上) 本願寺を強大化させたカリスマ

    1262年11月26日、親鸞は入滅する。その遺骨は京・鳥部野北辺の大谷に葬られた。10年後、親鸞の死を看取った末娘・覚信尼により、墓は改葬され「大谷廟堂」となる。 親鸞亡き後しばらくは、この覚信尼が弟子たちのまとめ役であったと見られている。そして大谷廟堂は以降、覚信尼の血筋の者が継ぐことになるのだが、あくまでも「留守職」つまり墓守りとしてであって、その勢力は大きいものではなかった。廟堂を建てる際の建設費は、そのすべてを東国からの寄進で賄ったようだ。 覚信尼の孫である覚如の代に、大谷廟堂は寺院化して本願寺を号するようになる。これが1321年のことで、この年が本願寺の実質的な始まりといえる。 さて…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑨ 法然の弟子たち・親鸞 教団によって脚色された?その人生

    「鎌倉仏教のミカタ」という、中世史を専門とする本郷和人氏と、宗教学者である島田裕克已氏が行った対談本がある。これがなかなか面白く大変勉強になったので、その主張を一部紹介してみたい。 特に刺激的なのが、親鸞の経歴に関してである。先の記事で1204年に法然が比叡山から訴えを起こされたとき、弟子たちを激しく諫めた、と書いた。この時に法然が弟子たちに示したのが、「七か条制戒」である。 内容としては「他の仏や菩薩を誹謗するな、無知にも関わらず知識のある人たちに対して諍いを吹っ掛けるな、この戒めに背くものは門人ではない」などといった、門人たちに対して厳しく指導するものだ。内容から法然自身は穏健派であったの…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑧ 法然の弟子たち 親鸞の教え・「絶対他力」浄土真宗

    法然はその生涯で数回の法難に遭遇しているが、第1回目のそれは1204年に起きている。比叡山から天台座主・真如に、専修念仏の停止を求める訴えが起こされているのだ。こうした動きに対し、法然は弟子らを厳しく窘めるなどの動きに出た。反発することなく慎重に対応したのである。 その甲斐あって、この時はことなきを得たのだが、2回目のときはそうはいかなかった。何しろ時の最高権力者であった、後鳥羽上皇を怒らせてしまったのである。 きっかけは1205年に、興福寺より朝廷に出された奏状である。内容としては第1回目と同じ、主に専修念仏の教えの停止を求めたものであった。これ自体はそこまで問題になったわけではなく、うまく…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑦ 法然の専修念仏(下) 本覚思想との相似性

    さてここまで、法然の思想を紹介してきた。彼の分かりやすい「万人を救う」教義は瞬く間に支持を集め、多くの信者を獲得する。 法然の教団――彼は生前、自宗を興さなかったので、この記事では教団と表現する――はしかし、次第に既存の仏教勢力から敵視されるようになる。 彼の唱える「専修念仏」、つまり念仏第一主義は、突き詰めて考えていくと念仏以外の行を否定するものであったから、それらを第一義とする旧仏教サイドとの衝突は、必然であったといえる。 更に状況を悪化させたのは、一部の門下による振る舞いである。念仏は誰でも等しく救う――ということはつまり、悪人でも救われるわけだ。どうも当時の記録を読むと、法然の元に集ま…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑥ 法然の専修念仏(中) 念仏さえ唱えれば「誰でも」往生できる

    他力とは「仏の意志は絶対で、人はそれに関与しない」と考えるものだ。ぶっちゃけて言うと、人間の意志や努力を無下にする考え方でもあるので、現代の多くの日本人からすると、馴染み難い考え方かもしれない。しかし当時の多くの人たちにとって、この考え方はとても前向きに受け止められたのである。なぜか? 法然の有名な弟子のひとりに「平家物語」にも出てくる、熊谷直実(なおざね)の名が挙げられる。彼は武蔵国・熊谷に住んでいた鎌倉幕府に仕える御家人のひとりで、源平合戦の際に敵将を討ち取っている。しかしこの敵将はこの時、数えでまだ17歳であった童顔の少年・平敦盛だったことに衝撃を受け、出家を志すことになる――というのが…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑤ 法然の専修念仏(上) コペルニクス的発想転回「ただひたすらに念仏を唱える」

    法然は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した僧である。齢13にして比叡山に登り、その優秀さから将来を嘱望されていたが、18歳の時に比叡山黒谷別所に居を移してしまう。 叡山内には隠者的生活を営むコミュニティがいくつかあり(かつて源信がいた横川もそうである)、この黒谷もそうした性質を持つ場所であった。つまり山内の出世レースから下りて、真摯に求道を志すことにしたのである。この時点で彼は、叡山の主流の考え方であった天台本覚思想と決別していることが分かる。 以来、法然はひたすら学問に励む。万巻の経典を読んで、読んで、読みまくった。そして43歳のときに「観無量寿経」を読み、これまで蓄えた知見を基礎…

  • 中世以降の新仏教~その④ 浄土思想と本覚思想・対立しあう2つの教義

    ここまでの流れをまとめよう。 世に無常を感じ、そこからの解脱を目指す。物質や欲に囚われてはいけない。このように本来の仏教の教えは、厭世的側面が強かった。例えば出家。これは本来、持てるもの全てを捨てて解脱に挑む、という行為であったわけだ。 密教がそれを変えた。解脱を宇宙的存在との一体化と捉え、スーパーマンに成ることを目指す。このように密教の教えは、とことん現世利益を追求したものであり、底抜けに明るいものであった。 誤解を恐れず、今風に言えばこうなる――「解脱は素晴らしいことであると同時に、超楽しいことでもあるんだぜ。だって、スーパーマンになれちゃうんだぜ!その力を以て加持祈祷して衆生を救い、世界…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その③ 日本人が自然に手を合わせるのは何故か?「本覚思想」について

    これまでの記事で、鎌倉新仏教を構成する重要な3つのピースのうち2つ、「浄土思想」と「称名念仏」を紹介した。この記事では、最後のピースである「本覚思想」を紹介したいと思う。 この本覚思想、実は現代の日本人の精神性にも深く影響を与えている、極めて重要な考え方なのである。 さて大乗仏教は、衆生を救う教えである。基本的に、すべての衆生には悟りの可能性がある、というスタンスに立つものだ。 人がその内に有している「悟りに至る可能性」、これを「仏性」と呼ぶが、院政期頃よりこの「仏性」という言葉の代わりに、「本覚」という言葉が使われるようになる。同時に言葉の示す意味も変わっていく。 どう変わったのかというと、…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その② 観想から称名へ(下) 称名の地位向上と、その流行

    称名はこの時点ではまだ、観想ができない人が浄土に往きやすくするための、次善の手段に過ぎない。しかしこの考え方が変わる契機となった書が院政期に出現する。その書の名を「観心略要集」という。 さて、そもそも天台宗の根本教義は「空・仮・中」の三つの真理で表わすことができる。この世の事物はすべて実体ではないとする「空諦」、すべて縁起によって生じた現象であるとする「仮諦」、すべては空・仮を超えた絶対的真実であるとする「中諦」、これらを総称して「三諦」と呼ぶ。そしてこの「空・仮・中」であるが、これはそれぞれ「阿・弥・陀」の三字に相当するのだ、旨を記したのがこの「観心略要集」なのである。 「阿・弥・陀」=「空…

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その① 観想から称名へ(上) 如何にうまく成仏するか

    このシリーズでは、中世に出現した「庶民のための仏教」、いわゆる鎌倉新仏教を取り上げてみようと思う。内容が過去の記事と重複する部分もあるかもしれないが、ブログ主が頭の中を整理するために書いている意味もあるので、復習だと思ってお付き合いいただければ・・・ さて鎌倉新仏教は、既存の仏教に対するアンチテーゼとして生まれた宗派である。平安末期よりまず武士が、遅れて庶民らが台頭してくるわけだが、既存の寺社勢力は広大な荘園を抱え、皇族や有力貴族らの子弟が座主に就任する貴族仏教であったため、必然的にその教えも体制を補強するものとして利用されていた。新興勢力であった、彼ら武士や庶民らを対象とするものではなかった…

  • 根来寺・新義真言宗について~その⑨ 学侶僧の派閥争いと、根来寺滅亡~そして新義真言宗の設立

    前記事で紹介したように、紀州・根来寺においては行人方僧侶が力をつけてくるわけだが、学侶僧たちの構造にも変化が出てくる。先の記事で述べた、全国各地から集まってきた僧たち(これを客僧と呼ぶ)と、本籍を根来に置く僧たち(これを常住僧と呼ぶ)との間で派閥争いが表面化してくるのだ。 客僧はあくまでもゲストであって、根来寺においては重要な職に就くことはできなかった。いずれは地元に帰っていく者たちが多く、その数も少なかったから、当初はそれでもよかったのだ。だが時代が下るにつれ、客僧の数が増大してくる。日本全国から集まってきた客僧には、また極めて優秀な者たちが多かったのだ。 根来の座主は、京にいる院家出身の僧…

  • 根来寺・新義真言宗について~その⑧ 紀州・根来寺の成立と、行人方の台頭

    覚鑁派の本流であった大伝法院が高野山から退去し、根来の地に合流したことによって、ようやく本格的な根来寺の興隆がはじまった。軌を一にして、大伝法院伽藍群の建設が本格的にスタートする。金堂大伝法院・鐘楼堂・大塔・阿弥陀仏堂・不動堂など全ての堂塔群の完成を見るのは、それから実に300年後のことになるのだが。 根来がここまで大きくなれたのは、何といっても先の記事で紹介した、頼瑜の功績が大きい。彼によって構築されたテキスト群が全国に広がったことにより、地方の真言学侶僧が最先端の根来教学を学びに、来山するようになったのだ。このテキストは特に東国において普及したようで、多くの僧が関東以北から訪れている。 最…

  • 根来寺・新義真言宗について~その⑦ 覚鑁の弟子たち(下) 根来中興の祖、天才・頼瑜と「大湯屋騒動」

    高野において、金剛峯寺と大伝法院の主導権争いは続けられる。とはいっても、この頃すでに両寺とも権門寺院化していたので、皇族や公家たちが座主に就任するのが常態化していた。これが鎌倉期に入ると、権力争いの構図が若干変わってくる。寺社勢力に対する、幕府の影響力の増大である。将軍の覚えめでたい僧侶らが幕府の威光を背に、金剛峯寺や大伝法院の座主に就任してくるようになるのである。 こうした影響を受けて、大伝法院の管領権が一時的に八条院に移ったり、鎌倉幕府の後押しを受けた金剛三昧院が新たに台頭してくる、などの変化はあったのだが、基本的には「金剛峯寺vs大伝法院」の争いの構図は変わらない。1242年にも金剛峯寺…

  • 根来寺と新義真言宗について~その⑥ 覚鑁の弟子たち(上) 仕事のできるお坊ちゃん・隆海の40年に渡る政治闘争

    覚鑁亡き後の根来の地には円明寺があり、そこでも教えは守られ続けてきたようだが、覚鑁派の本流は未だ高野山中にあった。その中心は、何といっても覚鑁が建立した大伝法院である。 鳥羽上皇から多くの寄進を受け、財政的にも豊かであった大伝法院の勢力は、カリスマであった覚鑁が不在でも、一朝一夕になくなるものではなかった。彼の教えは、引き続きこの大伝法院において引き継がれていくことになる。 この時期の大伝法院を率いていたのは、先に記事で少しだけ触れた隆海であるが、彼が大伝法院座主の座に就いたのは、なんと19歳の時である。彼は覚鑁の有力門弟であった兼海法印の弟子であった。 数多いる直弟子を差し置いて、孫弟子に過…

  • 根来寺と新義真言宗について~その⑤ 過激派によるテロ・覚鑁殺害未遂事件「錐もみの乱」

    高野山を実質的に統べる立場にある「金剛峯寺の座主」に就任することは、覚鑁の強い意志によるものだ。だが彼は決して名誉を求めたわけではない。その証左に、翌1135年には弟子である真誉に、金剛峯寺と大伝法院、両座主の座をあっさり譲ってしまい、自分は密厳院にて趣味?である無言行に入ってしまっている。 ではなぜ彼は、そこまでして金剛峯寺座主の座を求めたのだろうか? そもそも高野山のトップである金剛峯寺座主の座は、これまでずっと京にある東寺のトップ、東寺一長者が兼帯してきた。「本末制度」により、高野山は東寺の末寺化してしまっていたことは過去の記事で述べたが、覚鑁はこれを問題視していたのである。1134年、…

  • 根来寺・新義真言宗とは~その④ 覚鑁、高野山の改革に挑む

    さてこの新しい教義を、覚鑁はどのようにして広めようとしたのか。 1130年、高野山上において彼は新たに「伝法院」という名の寺院を建立する。密教寺院には、そもそも「伝法会(でんぽうえ)」という教義上の議論を行う、研究会のようなものがあった。空海の十大弟子のひとりであった実恵が始めたものだが、高野ではいつしか行われなくなって久しかった。彼はそこに目をつけたのである。 覚鑁は高野山において、教義上の研究会を自らの主導で進めることによって、高野の教義そのものを内部から変えようとしたのである。そしてその改革を進める足掛かりとして設置したのが、この「伝法院」なのであった。 記録によると、このとき建てられた…

  • 根来寺・新義真言宗とは~その③ 空海の再来・覚鑁登場

    さて平安期の仏教は(南都六宗も天台も真言も)貴族のための宗教であったわけだが、浄土思想や末法思想にうまく対処できず――というよりも、開き直りに近い姿勢を見せて――平安末期頃から台頭してきた、武士や庶民たちのニーズを満たすことができなかったのは、前回の記事で述べた通り。 だがもし仮に、例えば真言宗が真摯に彼らに向き合ったとしても、そのままの教えでは、彼らに受け入れられることはなかっただろうと思われる。 過去の記事で述べたが、密教の教えというのは端的にいうと「スーパーマンになる」ことを目指した宗教である。現世からひとり、高みへと昇る。救われるのは自分、ないし自分が導く弟子たちだけ。彼らは加持祈祷で…

  • 根来寺・新義真言宗とは~その② 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(下)

    平安後期に流行した「浄土思想」。これを象徴するのが「この世をば~」の歌で有名な、わが娘を3代に渡って天皇の后に送り込み、位栄華を極めた藤原道長の死に様である。 己の死が近いと感じた彼は、法成寺という寺を突貫工事で建てさせた。寺には三昧堂・阿弥陀堂(無量寿院)・五大堂などの伽藍が立ち並び、阿弥陀堂の本尊にはもちろん阿弥陀如来を据えた。夕方になると、道長を先頭に大勢の僧侶たちが念仏を唱え始め、「浄土はかくこそ」と思われるほどであった、と伝えられている。これはつまり、浄土を地上に再現しているわけである。 道長は死に臨んで、東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の阿弥陀堂に入った。そして…

  • 根来寺開祖・覚鑁と新義真言宗~その① 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(上)

    ようやくにして根来寺・新義真言宗の教義がどういうものなのか、どのようにして成立したのか、高野山から独立に至った経緯などについて語れるまで辿り着いた。 そもそもこの話がしたくて始めたシリーズだが、前段として仏教の基礎知識がないと理解できないので、そもそも日本における仏教とは~という話から始めざるを得なく、予想以上に長くなってしまった。途中からやむなく前半部分を「日本中世に至るまでの仏教について」というシリーズとして独立させた次第である。 信心深い性質ではないので、信仰としての仏教にはそこまで心を惹かれない。しかしそのロジックや思想の変遷などは面白く、全14回と長めのシリーズになってしまった。番外…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑬ 番外編 破戒僧・円載(下)

    次に考えてみたいのは、前記事の4にあげた「円珍に対して中傷を行ったり、行跡に乱れがあること」である。実はここに円珍と円載の仲が悪くなった、直接的かつ最大の原因があるのだ。 前記事で述べたように、2人の衝撃的な再会から半年後、円珍は円載と落ち合うために越州へ行く。円載はなかなか来ず、実際に落ち合ったのは蘇州においてであり、そこから共に密教の灌頂を授かるべく長安へ向かった。 その途上の潼関の宿にて、円珍は円載より酷く罵倒されたわけだが、この争いの原因は何だったのであろうか?円珍はその原因を述べていない。だが推測することはできる。 円珍は渡唐の際、お供の僧を何人か連れてきている。その中の1人に豊智と…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑫ 番外編 破戒僧・円載(中)

    円珍は円載との出会いを「行歴抄」という書物に書き残している。2人の出会いはどんなものであったのだろうか?当該部分に手を加えて要約してみよう。 ――馬に乗って寺にやってくる老人がいた。兄弟子の円載だ。息せき切って彼の下に駆け寄って礼拝し、涙を流して喜んだ。ところが円載の顔には喜色はみえない。思いがけない反応に、頭から冷や水をかけられた思いであった。昔、比叡山で机を並べていた先輩後輩の仲であったのに、この態度はおかしい。一体どうしたことだろう。話をしても全く聞いていない様子。どうやら日本語を忘れてしまったらしい―― 思いもかけない円載の様子に、戸惑いを覚える円珍。中国語や筆談を交えての会話が進む。…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑫ 番外編 「破戒僧」・円載(上)

    遣唐使に選ばれた多くの僧たちが大陸へと渡ったが、その正確な人数はデータが残っていないので分からない。遣唐使を構成するメンバー数は、前期は200~250名ほど、後期は5~600名ほどであったが、そのうち僧は何名ほどいたのであろうか? 遣唐使に関する記録が最も残っているのは、第19回目である。なぜ残っているのかというと、この遣唐使には前々回の記事で紹介した、あの円仁が参加していたからだ。彼は「入唐求法巡礼行記」という、遣唐使についてのみならず、7世紀の中国に関する社会風俗についてなど、極めて優れた記録を残している。 この記録によると、第19回遣唐使の参加人数600名ほどのうち、留学僧ないしは請益僧…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑪ 空海の後継者たち 天竺を目指し、南海に消えた高丘親王

    さて空海が開いた「東密」の方は、その後どうなっていったのであろうか。 教義という点では、真言宗は大きな問題を抱えているわけではなかった。天台宗のように4つの宗派を統合する必要もなく、密教という単一の分野をただひたすらに深堀りしていけばよかったわけで、また空海は理論構築の天才でもあったから、彼の死後も教理上残された大きな課題というのは、そんなに残されているわけではなかったのである。 そして空海には、多くの優れた弟子たちがいた。その代表的な10人を十大弟子と称するが、中でも有名なのは一番弟子である真済、最澄から離れて空海の弟子となった泰範、そして皇族出身の真如こと、高丘親王であろう。 彼らは天台宗…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑩ 最澄の後継者たち その後の比叡山

    最澄は822年に、空海は835年に遷化する。(なお空海は死んではおらず、生死の境を超えて永遠の瞑想に入っていることになっている。高野山奥之院にいる彼のもとに、1日2回食事と着替えが届けられる、という儀式が今も行われている。)この二大巨頭の死後、2つの教団はどのように発展していったのだろうか? まずは天台宗から。最澄の死後、彼の後継者たちは未完であった天台宗の教義の確立をせんとする。だが空海の真言宗との関係性は途絶え、これ以上の密教経典の借用は望めない。ならばいっそ、ということで改めて遣唐使の船に乗って、本場の密教を学び直しに行ったのである。倭寇の時代とは大違いで、当時の日本の航海技術は極めて低…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑨ 「南都六宗」に、果敢に戦いを挑んだ最澄

    徳一の著した「仏性抄」は法相宗の立場、つまり前記事で紹介した「三乗説」を唱える立場で書かれた書物である。この書は現存していないので、その正確な内容は分からないのだが、どうもこの中で徳一は「一乗の教えを説く『法華経』を、文字通りに受け取ってはいけない」と述べたようである。 要するに、仏陀が法華経の教えを諭していた時、その場にいた多くの人は、前記事でいうところの「不定性」の人々であったため、彼らを仏陀への道へ誘導するために、分かりやすく「方便として」一乗の教えを説いた、というロジックを展開したのである。 これに激しく嚙みついたのが最澄であった。彼が反論するために著した書が「照権実鏡」であるが、この…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑧ 最澄vs徳一(上) 「三一権実争論」とは

    奈良から平安期にかけて栄えた南都六宗であるが、その中で最も権勢があったのは法相宗である。この法相宗の教えはユニークなものなので、その教義を少し紹介してみよう。 まず日本仏教を語るには、中国仏教なしには語れない。日本の仏教は、おしなべて中国経由で入ってきたものだからだ。日本ならではの宗派が独自に確立し、発展するのは鎌倉期に入ってからである。平安期までの仏教――南都六宗・密教・天台宗などはインドが源流ではあるが、すべて中国で発展・解釈され直したものなので、中華風に味付けされた仏教だといえる。 この中国仏教に最も影響を与えた名僧は、4世紀後半から5世紀にかけて活躍した鳩摩羅什(クマラージュ)である。…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑦ 密教・禅・戒律をミックスさせた、最澄の「シン・天台宗」

    密教を日本に持ち込み、更にその教義を発展させた空海。新興勢力であったにも関わらず、官寺である東寺まで賜り、これを密教の専修道場とするなど、日本において確固たる地位を築き上げたのであった。一方、日本仏教界のもう一方の新星であった、最澄はどうであったのだろうか? 日本において「天台宗」を開宗するため、天台の教えを学びに大陸に渡った最澄。帰国してから念願叶い、天台宗は南都六宗に肩を並べる存在になったわけだが、当時の皇室と貴族には、現世利益を叶えてくれる最新の教えであった「密教」のほうがウケが良かったのは、過去の記事で紹介した通り。そこで求められるまま灌頂や加持祈祷を行ったわけだが、己の密教に対する力…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その⑥ 他宗をもその内に取り込んだ、空海の先進性

    空海により日本にもたらされた密教の教え。空海はそれに独自の解釈を加え、更に発展させる。彼が打ち立てた真言の理論は、天才が収集・編纂した故に、それ以上の解釈や発展がなかなか進まなかった、と言われているほどである。彼の先進性を示す一端として、「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」の障りの部分だけ紹介してみよう。 正確には「秘密曼荼羅十住心論」というこの著作は、そもそもは淳和天皇が各宗派の第一人者に「それぞれの教義を記して提出せよ」と下した命に応え、空海自らが著して提出したものだ。 この著作で空海は、仏教における密教の立ち位置を素人でも分かるように定義している。その定義を表にしたのが、下記の画像である…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その⑤ 目指すところは「スーパーマン」 密教の教えとは

    密教はインドにおいて発生した、仏教の一派である。初期の密教は呪術的な要素が多く入っており、極めて土俗的な性格が強いものであった。こうした初期密教を「雑密」と呼ぶ。例えば、初期に成立した「孔雀王呪経」は毒蛇除けの護身呪であり、おまじないに近いものだった。 だがその後、インドでは後発のヒンズー教が急速に力をつけてくる。これに対抗する必要上、密教の理論化が進んだため、洗練された教義に生まれ変わった。これが中期密教である。 唐が西域まで進出したことにより、8世紀前半にインドから中国に入ってきたのが、この中期密教であった。伝えられたのは、主に「大日経」と「金剛頂経」の2つの経典であるが、この2つは中国に…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その④ 最澄と空海・平安期が生んだ2人の天才

    奈良期は日本の歴史上、仏教が最も権力と結びついた時代である。それがピークに達したのが、769年に発生した政治僧・道鏡による皇位簒奪の動きである。この企て自体は失敗したが、こうした動きに象徴されるような寺社勢力の強大化、そして僧侶の退廃ぶりも目立つようになってきた。 794年、桓武天皇による平安遷都が行われる。理由のひとつは政界からの寺院勢力の排除であった。「仏教都市」であった平城京には、数多くの巨大寺院が存在したが、新都である平安京には(当初は)東寺と西寺、この2つの官寺しか許されなかったのである。 桓武天皇は他にも、新規の造寺・寺院による土地購入・営利事業の禁止などを定め、寺社勢力の力を抑え…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その③ 神仏習合と、奈良期の「南都六宗」について

    そんなわけで、この時期本格的に国政に仏教が入ってきたのであるが、今まであった日本古来の神道はどうなったのか。他国においてはこういう場合、今まで信ぜられていた宗教は破棄、ないしは上書きされてしまう場合が多いのだが、日本においてはそうならなかった。 そもそも仏教が伝来した時から、日本の人々によって「神」と「仏」は、漠然と同じようなものとして信仰されていた。仏は「蕃神」つまり「外国の神」として捉えられていたのである。また仏教はヒンズー教が強かったインドで生まれ、発展していった宗教であったから、多神教的な味付けを加えられていたことも大きい。古代日本人の一般的な認識としては、あくまでも「外国の神ではある…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その② 「総合文化芸術」仏教に魅せられた古代の人々

    日本にやってきた、仏教という新しい教え。しかし日本古来よりある神道を奉じる、有力豪族・物部氏をはじめとした豪族たちの強い反発にあい、敏達天皇は否応なく仏教の排撃を余儀なくされる。これに対し、仏教導入派である蘇我氏が反撃、物部氏らを滅ぼすことに成功する。以降、日本において仏教が発展することになる――というのが、かつてブログ主が学んだ大まかな歴史の流れであった。 上記の説の根拠となっているのは「日本書紀」なわけだが、最近の説ではどうなっているのだろうか。物部氏の本拠地である河内国・渋川の地には、寺院の跡が残っていることから、物部氏はそこまで狂信的な廃仏派ではなかった、という説があるのだ。 薗田香融…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その① 古代日本にやってきた舶来宗教

    そもそもこのブログは、ブログ主の著作(といっても、現時点で2作しか出していないが)を紹介、というか宣伝するためのブログであった。1巻の舞台は1555年の京であるが、2巻で主人公はとある理由で紀州・根来寺に行き、そこで行人方子院「大楽院」の親方、つまりは僧兵集団の小ボスになる。 なのでこのブログ、最初は京都や根来寺に関する歴史ネタがメインであったのだが、いつの間にかそれ以外のことに話が広がってしまっている。ネタ筋はもちろん、ブログ主が興味のある分野の歴史に関することである。 だが実は根来寺に関する大きなネタで、まだ触れていないものがひとつある。それは根来寺において発展し、伝えられてきた仏教の教義…

  • 旅行記~その⑦ 長篠の戦い 丸山砦と馬場信春

    この戦いにおける武田方の戦死者は、1万とも数千とも言われていますが、甚大な被害を被ったことは間違いありません。これまで武田家を支えていた多くの重臣たち――馬場信春、山形昌県、内藤昌秀、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟らが軒並み戦死してしまいました。これら諸将の死は、武田家にとって相当な痛手だったわけですが、同じくらい痛かったのは、数字には表すことができない武田軍の質の低下でした。 先代・信玄公の元、何十年にも渡って練り上げてきた武田軍。一兵卒から物頭、そして先手の将に至るまで、こういう時にはどう動けばいいか、どう指揮をすればいいか、阿吽の呼吸で動ける軍隊に仕上がっていました。武田の強さを支えていた、…

  • 旅行記~その⑥ 長篠の戦い 設楽原古戦場へ(下)

    21日の日の出と共に、勝頼は攻撃命令を下します。武田方の主力は左翼にいた山県昌景・原昌胤・内藤昌秀・小山田信茂らが率いる精鋭部隊でした。徳川方は右翼に位置していたので、もろにその猛攻を受けます。 武田氏の戦闘スキルは、戦国最強といってもいいレベルのものでしたが、戦闘の様相は野戦とはかけ離れたものでした。野戦築城に対する攻城戦に近い戦いだったのです。対する徳川方は、野戦築城を最大限に生かした戦い方をしてきたのです。徳川方の大久保兄弟が、敵が攻めてきたら柵の後ろに退き、敵が退いたら追撃し、常に敵と一定の距離を保って戦っているのを見た信長が「よき膏薬の如し。敵について離れぬ膏薬侍なり(当時の薬は、布…

  • 旅行記~その⑤ 長篠の戦い 設楽原古戦場へ(上)

    陥落寸前の城を救うため、織田・徳川連合軍3万8000が長篠に急行します。5月18日には設楽郷に到着、信長は極楽寺山裏に本陣を構えました。家康が布陣したのはやや前方にある高松山(弾正山とも)です。翌19日から、有名な馬防柵の建設が始まっています。 指呼の距離にまで迫った織田・徳川連合軍に対して、勝頼は下した決断は「決戦あるのみ」でした。どうも設楽原における陣地構築の動きを「戦いを決断できない、連合軍の弱気」と判断してしまったようです。また信長は本陣を山の後ろに置いたので、勝頼は連合軍の総数を正確に把握できず、戦力を過小評価していた可能性があります。 しかし百戦錬磨の武田軍は、戦前の偵察・情報収集…

  • 旅行記~その④ 長篠の戦い 長篠城と鳥居強右衛門

    1575年4月から本格的にはじまった、今回の勝頼の遠征の目的は「クーデターに乗じて岡崎城を占領する」というものです。もし成功していたら、徳川家を滅ぼせたかもしれないレベルの大戦果でした。しかしそれが失敗した今、勝頼としては手ぶらで帰るわけには行けません。そこで攻撃目標を、吉田城攻略&家康の捕捉・殲滅に変更するも、これも失敗。勝頼は仕方なく、第三の目標として長篠城に目を付けたのでした。 さて当時の長篠城の城主は奥平信昌です。元々、この山深い奥三河の地を制していたのは、作手城の奥平氏、長篠城の菅沼氏、田峰城の菅沼氏の三氏で、彼らはひとくくりに「山家三方衆」と呼ばれていました。 徳川と武田の国境にい…

  • 旅行記~その③ 「長篠城址史跡保存館」を見学

    半年ほど前のことになりますが、息子と2人、長篠城と設楽原古戦場に行ってまいりました。今更ですが、その時の内容を紹介したいと思います。 その前に、「長篠の戦い」についての基礎知識を。武田氏に関しては近年、平山優氏をはじめ、黒田基樹氏、丸山和洋氏らによる優れた研究が成されています。「長篠の戦い」に至るまでの武田・徳川両家の動きを、平山優氏による著作「徳川家康と武田勝頼」から見てみましょう。 1574年頃より、武田勝頼による東美濃・遠江侵攻が始まりました。これにより、家康は領国の30%を失うという痛手を受けます。当時、単独では徳川家は武田家には勝てない、というのが彼我ともに共通する認識でした。 これ…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑮ 近世の鳥羽車借 その栄光と終わり

    室町期の往来物に「大津坂本馬借・鳥羽白河車借」と謡われた、中世の運送業者たち。江戸期に入って坂本馬借は衰退し、大津馬借は繁栄する。白河車借は既にない。最後のひとつ、鳥羽車借はどうなったのだろうか? 鳥羽車借の全盛期は、織豊期から江戸初期にかけてのようだ。1568年には、信長の命で御所修理のための木材数万石を運搬している。1578年には秀吉による播磨侵攻を受けて、大量の米を鳥羽より大物の浦戸へと運搬しており、その補給にひと役買っている。また家康の為にも木材・石の輸送を行っている。 さて大坂の陣が終わり、ようやく平和な世が到来する。京の人口は増大し、米の消費も急増する。鳥羽車借の御用の主力は、やは…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑭ 江戸期にたてられた「日本海~琵琶湖運河」開削計画

    前回に引き続き、記事の内容がなんだか「馬借・車借」というメインテーマからは、若干外れた内容になってしまっているような気がするが、ご容赦を・・・ さて河村瑞賢による「西廻り航路」開拓により、これまでより遥かに効率的かつ大々的に、米を運べることになった。これにより日本全国ほぼ全ての人が恩恵を受けたわけだが、その唯一の例外が、これまで琵琶湖経由ルートの利用により潤っていた人々である。 「若狭遠敷郡誌」には、西廻り航路以前に小浜から九里街道を通って、琵琶湖まで運ばれた荷は、年20万駄ほどであったが、それ以降は年1万7千駄にまで減ってしまった、とある。なんと92%の減である。 このように一気に衰退してし…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑬ 河村瑞賢の「西廻り航路」により、激変した米の流通ルート

    江戸初期の豪商に、河村瑞賢という人がいる――彼は凄い男なのである。南伊勢の、さほど豊かではない農家の長男に生まれるが、13歳で江戸に出ている(跡継ぎのはずなのだが、江戸に出てきた理由ははっきりしていない)。江戸では、まずは車力になったそうであるから、どこぞの車借組織に雇われていたのかもしれない。この時に知り合った、車持ちの娘を妻に迎えている。 その後、行商人になっている。この頃の逸話として、川岸にお盆の供え物の野菜が川に流されているのを見つけ、それを乞食に拾わせ樽に塩漬けにしたものを売って小金を稼いだ、という逸話が残っている。このように人をうまく使うのに天性の才があったのだろう、土木工事の人夫…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑫ 全盛期を迎える大津馬借、小遣い稼ぎをする坂本馬借

    前記事で述べたような理由で、大津馬借はそれなりの規模を持つ馬借集団として、江戸期も存続し続ける。彼らは京津街道の物流の担い手となるのだ。なおこのルートの物流の担い手として、他にも伏見の車借らがあげられる。1704年には京津街道を行き交う荷は、車借が40%・馬借が60%の比率で運ぶという取り決めができており、これは幕末まで続いたそうである。 歌川広重作「東海道五十三次・大津宿」。牛車の列が米俵を運んでいる。伏見の車借らであろうか。牛の背に架かっている帆のようなものは、直射日光を避けるための日よけである。京津街道の運送に牛車を本格的に使うようになったのは、近世に入ってからではないだろうか。京津街道…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑪ 牙を抜かれた馬借たち 発展する大津、廃れる坂本

    戦国が終わり、世の中は織豊政権による中央集権体制となる。天下が完全に鎮まるまでは、「関ヶ原」や「大阪の陣」など、まだ幾つかの大戦を経なければならなかったが、少なくともこれまで各地で多発していたような、小勢力同士の泥沼の小競り合いはなくなった。また流通の最大の障害であった、星の数ほどあった関所の数も激減したため、商品流通経済がより活発になったのである。 シリーズの始めで紹介したように、中世の馬借たちは地域の権力者――つまりは戦国大名らと結びついて、その地の物流を担っていた。近世に入っても、その構図自体は大きくは変わらないのだが、これまで持っていた商人的側面ははく奪されてしまう。かつて強い力を持っ…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~~その⑩ 鳥羽車借の京への運搬ルート

    京へ続く三大街道は、京津街道・竹田街道、そして鳥羽街道である。この三街道は、戦国期には日本最大の人口を抱える大都市・京へと続く、物流の大動脈であった。うち鳥羽街道は、巨椋池に荷揚げされる米などの運搬によく使用されていたのは、先の記事で見た通り。 拙著では「大路屋」の車借の列が、塩樽を上京に運ぶシーンを描いた。このシーンを元に、鳥羽の車借の列が京へと向かうルートを紹介してみよう――なお、本当に鳥羽車借がこのルートを使用したかどうかは分からない。あくまでもブログ主の想像である。 下鳥羽にある「大路屋」を出発した車借の列は、まず鳥羽街道を北上していく。街道の横には京より続く加茂川が流れているが、その…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑨ 車借の二大拠点・鳥羽と白河(下) 京の物流を支え続けた鳥羽車借

    早くに衰退してしまった白河車借に比して、鳥羽車借はなんと明治まで続いている。両者の違いは何であったのだろうか? 六勝寺と同じように、廃れてしまったのは鳥羽離宮も同じなのだが、鳥羽には大きな利点がひとつあった。灌漑によって埋められてしまって、今はもう見ることはできないが、中世の下鳥羽の南には巨椋池があったのである。 この巨椋池、琵琶湖から流れてくる宇治川や、桂川・木津川など3つの水系が流れ込む、池というよりは湖であった。ここで一旦貯めこまれた水は、淀川を通じて大阪湾へと流れていく。4つの川と通じているこの湖は水上交通の結節点であり、船で運ばれた荷が荷揚げされる「津」が複数存在した。 国土交通省H…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑧ 車借の二大拠点・鳥羽と白河(上) 白河車借の興隆と衰退

    車借の二大拠点といえば、鳥羽と白河である。細かく見ていけば、小規模な車借拠点は各地にあるのだが、ここまで大規模なのはこの2か所だけだ。鳥羽と白河において、なぜここまで車借が発展したのだろうか? そもそも効率的には、馬の背に乗せて物を運ぶよりも、車を使った方がいいに決まっている。馬の背に乗せる場合、運べる荷は1頭につきせいぜい米2俵だが、牛車を使えば米を8俵乗せられるのだ。にも関わらず小荷駄を使わざるを得なかったのは、日本は坂道が多かったからなのだが、好都合なことに鳥羽と白河から洛中へと至る両ルートは、平坦な道が続いていたのである。 そして何よりも「車借」にできて「馬借」にできないことがあった。…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑦ 牛車で米を運送した車借たち

    小荷駄で荷を運ぶ「馬借」に対して、牛に車を曳かせて運搬する業者のことを「車借」と呼んだ。有名なのが「白河車借」、そして拙著にも出てくる「鳥羽車借」である。 坂本の馬借の起源が「馬の衆」といわれる、日吉社の神人たちだったとすると、車借の起源は何なのだろう。牛に車を曳かせる、という点から考えると、真っ先に頭に浮かぶのは、平安期の貴族の乗り物・牛車である。 平安貴族たちは、牛車を誰に曳かせたのだろうか?この時代においては、「牛追い童」という職能民がこの役割を果たしていた。平安期は「職能」というものがようやく機能してきた時代である。平安初期の「牛追い童」には「官庁に属していた者」と「寺社や貴族の家に属…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑥ 土一揆に参加して暴れはするが、それはそれとして強訴の動員にも応じる馬借たち

    さて前記事で見たように、1428年9月18日の馬借蜂起を契機とし「正長の土一揆」が発生したわけだが、実はその1か月前の8月に近江国において、徳政(借銭棒引き)が行われていたことが複数の記録に残っている。 近江国におけるこのケースだが、そもそも誰が徳政を出したのか、徳政に至るまでの経緯、そして実際に暴動沙汰があったかどうかなど、記録が断片的で全体像がよく分かっていない。だが、どうもこの騒動も先の記事で紹介した「山門による麹の訴訟沙汰」に影響されて起こったものらしい。 叡山はこの麹訴訟を起こす際に「返事によっては、馬借蜂起も辞さず」と公言していたようだ。幕府に対して、強いプレッシャーをかけていたの…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑤ 「敵は北野社にあり」 土一揆のきっかけは、馬借たちによる「麹騒動」

    さて1428年に、日本史上初の大規模な土一揆・「正長の土一揆」が発生する。清水克行氏はその著作「室町社会の騒擾と秩序」において、そもそもこの土一揆が発生したきっかけは、叡山と北野社の勢力争いがあったのではないか、と推測している。 「天神さん」として京の人に親しまれている北野天満宮、つまり北野社は中世においては、叡山の勢力下にある末社であった。にもかかわらず両者の仲が悪くなったのは、4代目将軍である足利義持が北野社の法印・松梅院禅能という社僧を偏愛したことによる。義持はお気に入りの北野社に対して、「酒麹の独占権」という極めて大きな利権を付与したのであった。 麹は日本酒の醸造過程に欠かせない原料で…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その④ 「強訴の尖兵」馬借たち その行動原理

    叡山にしてみれば「強訴の尖兵」という暴力装置として、大変に利用価値があった馬借たちであったが、しかし彼らは必ずしも山門に絶対的な忠実な存在だったわけではない。「命令されたから暴れる」わけではなく、彼らなりの「暴れる理由」があり、その要求を通すためにも「馬借蜂起」したのであった。 今回の記事では、馬借たちの持つそうした「行動原理」がよく分かる事例を紹介したいと思う。 まず今更だが、比叡山延暦寺について。比叡山には「延暦寺」という名の寺院は存在しない。比叡山にある、多数の寺院の連合体を称して「延暦寺」と呼ぶのである。その最盛期には、境内である「三塔十六谷」の中に3000とも称される寺院が存在した。…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その③ 土一揆の主力を成した馬借たち

    1603年にイエズス会宣教師らが作成した、日本語をポルトガル語に訳した「日葡(にっぽ)辞書」というものがある。キリスト教を布教するためのツールとして、宣教師らが作成したものだ。 当時の日本には、もちろん「百科事典」といったものが存在しなかったから、本来ならば当時使用されていた言葉の発音や、正確な使用方法・意味などは、分からないことだらけだったはずなのである。しかしながら、この第一級の史料である「日葡辞書」があるおかげで、中世日本語の音韻体系をはじめ、個々の語の発音・意味・用法、各種名詞やよく使用された語句、生活風俗などを知ることができるのである。 この「日葡辞書」における「Baxacu(馬借)…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その② 坂本の馬借(上) その前身は「馬の衆」か

    馬借に関する直接的な史料が残っているのは、前記事で述べた「浦・山内馬借」に関するものであるが、「存在感の有無」という形で最も有名なのは、やはり「坂本の馬借」である。 坂本そして大津の町は琵琶湖畔にあり、湖運を通じて多くの物資がこの港町に集まってくる。ここから京に至るルートは、東からの物流の大動脈であったのであり、その陸運の主力を担っていたのが「坂本・大津の馬借」だったのである。 「坂本の馬借」は京に近く、また比叡山に属する存在であったために、各種の史料に横断してよく名前が出てくる――のだが、史料そのものは断片的で、量もそんなに多くはない。坂本の馬借に関する史料はもっと残っていてもおかしくないの…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その① 運送業から商人へ

    日本の陸上運送の主力は、江戸時代までは馬である。地形が険しく道の狭い日本においては、馬の背に荷物を括りつけて運ぶ、小荷駄が発達した。中世において、このように馬を使って荷を運ぶ運送業者のことを「馬借」という。 馬借・車借という職能の設立はそこまで古いものではなく、大体において鎌倉期の末頃だとみられている。彼らは地方にある荘園の余剰物資等を、運送する目的によって発達した職能民なのである。ただし一大消費都市であり、経済先進地帯であった京においては、早くも平安末期に馬借・車借の記載が見られる。 1057年頃に成立したと思われる「新猿楽記」という物語がある。これはフィクションではあるが、下級貴族の実態を…

  • 非人について~その⑮ 「非人に近い扱い」をされていた職能民たち

    このシリーズの始めのほうの記事で、非人には「狭義の非人と広義の非人」がいると紹介した。しかしこれまた時期と地域によるのだが、「非人に近い扱い」をされていた職能民というものが数多くいたようだ。 以前紹介した「狭義・広義」の非人の定義づけは、あくまでも1302年時点でのものである。それより前、例えば鎌倉期における「賤民」の定義はより広かったようで、漁師の子であった日蓮が、自らを「旃陀羅(せんだら)が子」と自称していたことも、前に紹介した。 また例えば、室町期に成立した「三十二番職人歌合」には「菜売り」「鳥売り」などが「いやしき者なり」として紹介されている。 「三十二番職人歌合せ」より。左が鳥売り、…

  • 非人について~その⑭ 京の声聞師たち・中世のカルト教団「彼の法(かのほう)」集団

    この「通夜参籠の術」のギミックは、拙著1巻でも使わせてもらっている。(以降ネタバレになるので、先を読む方は注意)。 主人公の義姉に対して、種付けをした声聞師らがいる。淀君に対して種付けを行った者らと、同じ党であるという設定である。その党の名を「陀天(だてん)党」とした。この陀天党は、これまた中世に実在したカルト教団をモデルにしてある。 その教団の名は伝わっていないが、現在の研究者の間では、便宜的に「彼の法(かのほう)」集団、或いは「内三部経流(ないさんぶきょうりゅう)」と呼ばれている。 この「彼の法」集団は13世紀前半に成立した教団で、密教本流から分派したというよりは、田舎の民間信仰をベースに…

  • 非人について~その⑬ 京の声聞師たち・通夜参籠(つやさんろう)の術(下) 淀君の暴走と秀吉の葛藤、そして秀次の死

    先の記事で少し触れたが、声聞師たちは秀吉によって弾圧を受けている。1594年、堺で10人、大阪で8人、そして京都で109人の声聞師たちが、尾張に強制移住させられているのだ。 この奇妙な事件を、これまでの史学会ではどう説明していたのか?声聞師たちは治水の技術を(呪術的なものを含む)持っていたらしく、それを尾張における灌漑のために役立てたかったのだ、というのが通説のようだ。しかし裏には次のような事情があったのではないか――というのが服部氏の論旨なのだ。 西洞院時慶が記した「時慶記」1593年10月19日の条には、このような旨の記載がある――「大阪城にいた声聞師が追放された。男女の問題で金塊を得たと…

  • 非人について~その⑫ 京の声聞師たち・通夜(つや)参籠(さんろう)の術(上)秀頼は誰の子か?

    話が唐突にそれるのだが、秀頼は秀吉の実子ではない・・・というのは「現代医学的には」間違いのないところらしい。幾つかのデータを現代医学の知見から見てみよう。 服部英雄氏の著作「河原ノ者・非人・秀吉」によると、好色な秀吉が生涯に愛した女性の数は、100人以上いたらしい。己の出自が卑しい、という強烈なコンプレックスがあったため、その多くが高貴な身分の女性であった。 その数を厳密に数えることはできないが、中には経産婦も多数いたことが分かっている。代表的な女性に、秀吉の最もお気に入りの側室であった京極龍子がいる。この龍子、秀吉の元に嫁す前に三人の子を産んでいるのだ。 にもかかわらず、秀吉との間には子ども…

  • 非人について~その⑪ 京の声聞師たち・秀吉による追放令――豊臣家の大スキャンダル

    先の記事で、戦乱の世を乗り越えられなかった声聞師集団として「小犬党」を紹介した。こうした党は他にもあって、室町期の記録にはあるが、戦国期の記録には出てこない党として「柳原党」「犬若党」「蝶阿党」などがある。 まず「柳原党」だが、これは比較的大きな集団であったようだ。相国寺に隷属し、その西方にあった柳原散所を本拠としていた。声聞師たちは、どうもこうした大きな党を母体として、更に小さな党を形成していた節がある。犬若党や蝶阿党などは、もしかしたらここに所属していた声聞師が別に結成した、小さな党だったかもしれない。或いは柳原散所を本拠として活動する幾つかの声聞師集団を、まとめて柳原党と呼んでいた可能性…

  • 非人について~その⑨ 京の声聞師たち・室町の世を一世風靡した芸能集団・「小犬党」

    先の記事で、応仁の乱を境に声聞師集団のパワーバランスが変化した可能性がある、と書いた。室町期に見られた幾つかの党が、戦国期の記録には見られなくなるのだ。 室町期に存在した有名な声聞師集団に「小犬党」がある。 相国寺の西、柳原に居住していたと思われる声聞師集団である。各種記録には「小犬党」の他、「唱門師小犬」「小犬太夫」「小犬座」などという名で登場している。この小犬党を率いていた者の名は、「小犬」である。これは個人名ではなく、小犬党を率いていたリーダーが、代々名乗っていた名前なのである。名を継ぐ、という点では、河原者の死刑執行人・天部又次郎と同じである。 この声聞師集団「小犬党」は、少なくとも1…

  • 非人について~その⑨ 京の声聞師たち・声聞師大黒党と大左義長

    京の声聞師集団は、正月の4日・5日の両日に禁裏、7日には将軍邸を訪れ、そこで中世のミュージカルである「曲舞(くせまい)」を披露して正月を祝った、と当時の記録にある。この行事を「千秋万歳(せんずまんさい)」と呼ぶ。 まず4日に行われる「千秋万歳」を行っていたのが、声聞師集団「大黒党」である。1570年の正月には、千秋万歳とは別にその名の由来となる「大黒舞」を正親町天皇の前で披露した、という記録が残っている。 この大黒党であるが、禁裏の近くの今出川町辺りに集住していたようだ。その起源は古く、13世紀に遡る。京の声聞師集団の中でもそれなりに力を持っていた、由緒ある党であったと思われる。 中世の加茂川…

  • 非人について~その⑦ 京の声聞師たち・彼らを仕切っていた組織

    大道芸で食っていた声聞師たちであるが、それぞれが勝手気ままに町中を徘徊し、芸を行っていたわけではない。混乱や争いを避けるために、彼らなりの仕来りがあり、縄張りもあるのだ。つまり彼らを仕切っていた組織があったのである。 こうした組織として、奈良にあった「五カ所」と「十座」が有名である。両組織を統括する立場にあった、興福寺・大乗院の史料が豊富に残されているから、詳細な研究が進んでいるのだ。 両者は大和における声聞師の指導者的立場にいた集団で、いわゆるひとつの「座」を形成していた。まず「十座」は、大和数十カ所に対する声聞師の座頭として、「七道に対する自専権」を持っていた。そして「五カ所」と呼ばれた声…

  • 非人について~その⑥ 京の声聞師たち・芸能の民

    拙著1巻「京の印地打ち」に登場する「大黒印地衆」は「声聞師(しょもじ)」たちから成る印地集団である。声聞師とは「広義の非人」の中に分類された職能のひとつで、民間で芸能ごとを行っていた人々である。安倍晴明で有名な陰陽師の系譜を引く、という触れ込みで活動していたが、嘘であろう。 世界的に見ても凡そ全ての芸能は、「祝い」という宗教的な行事がその源流にある。声聞師たちの携わっていた芸能もそうである。そして中世は現在よりも遥かに、こうした祝福芸能を大変に重視した社会なのである。なので、その種類も大変に多かった。 声聞師の代表的な芸をあげると、まず「陰陽」は卜占や加持祈祷、「金鼓」は鉦を打ちながら経文を唱…

  • 非人について~その⑥ 非人たちの既得権益「得分」とは

    当時の被差別民が携わっていた職能は多岐に渡っていたように見えるが、基本的には全てキヨメに関わるもの、ないしはそこから派生したものであった。過去の記事で「千本河原者」がキヨメの仕事に参入してきた「一本杉河原者」に対して、北野社に訴えを起こした話を紹介した。 このように職能の縄張りに関して、彼らはとても神経を尖らせていた。実はこうした仕事に従事するにあたって、彼らは必ずしもその都度、銭などの対価を貰っていたわけではない(中世後期からは、仕事によっては支払われる例も見られる)。 にも関わらず、彼らが己の職域に関して他者の参入を頑なに拒んだのは、実のところ己の職能に関わる分野においては、独占的な権益が…

  • 非人について~その⑤ 清水坂vs奈良坂 非人宿同士の三十年戦争(下) 清水坂の逆襲

    先の記事で紹介した騒動から10年ほどたった1224年、清水坂で大きな動きが起きる。奈良坂の後ろ盾で復権したAが、何とその支配からの脱却を狙ったのだ。奈良坂からの入り婿であった淡路法師をはじめとする、吉野・伊賀・越前法師ら、奈良坂派の長吏らを一斉追放したのである。 これに怒った奈良坂宿は、武闘派の播磨法師率いる手勢に清水坂宿を攻めさせる。同年3月25日に清水坂で行われたこの戦いで、敗れたAは殺されてしまうのであった。 このあと清水坂宿は、Aの息子が新たに後を継いだようだ(やはりその名が伝わっていないので、これをBとする)。しかしBは、父を殺された恨みを忘れてはいなかったのである。 奈良坂宿の下に…

  • 非人について~その④ 清水坂vs奈良坂 非人宿同士の三十年戦争(上) 清水坂を占領した奈良坂

    犬神人は清水坂宿に所属していた非人である。その清水坂宿は、近江から瀬戸内にかけて存在する、数多の非人宿を支配下に置く、いわゆる「本宿」であった。 だがこの清水坂宿と並ぶ、強力な対抗勢力がもうひとつあった。奈良は興福寺の近くにあった、奈良坂宿である。奈良坂宿もまた、大和・伊賀を中心とした多くの非人宿をその支配下に置く「本宿」であり、畿内にある非人宿は全て、この2つある「本宿」のどちらかに属していたと思われる。 この2つの勢力の間で、合戦に近い縄張り争いが発生したことが分かっている。清水坂宿は祇園社(=延暦寺)の管理下にあり、奈良坂宿は興福寺の管理下にあったから、実のところこれは、中世にあった2つ…

  • 旅行記~その② ドイツ・フルダの「18世紀への時間の旅」イベント(下)

    城の中庭にあるイベント会場に入ると、ご覧の通り天幕がズラリ。 広い敷地の中にざっと数えただけでも、50以上の天幕がありました。 これらの天幕は何なのかというと、このイベントにコスプレで参加している人たちのテントなのです。この時にあった説明によると、今回のイベントでコスプレで参加している人たちは、340人以上いたとのことです。天幕はそれぞれコスプレした国、或いは連隊ごとに分かれて張ってあり、ポールには国旗が掲げられています。ドイツのイベントらしく、みな18世紀の衣装コンセプトを厳格に守っており、雰囲気に逸脱した参加者たちはひとりもいませんでした。 以下、イベントで撮影した様々な写真を紹介します。…

  • 旅行記~その① ドイツ・フルダの「18世紀への時間の旅」イベント

    シリーズの途中に流れをぶった切る形になりますが・・・とある珍しいイベントを見学してきたので、そのご紹介を。 長い夏休みを取って、ドイツに行ってまいりました。ドイツでは親類の家に居候、ローカルな生活を楽しみました。フランクフルトから車で1~2時間の所にある、フルダという古都です。 親戚の家はフルダ郊外にありました。丘の上に教会があり、そこを中心に小さな町が出来ています。写真は家の近くの丘から撮ったもの。なんと美しい光景か。涼しいこともあって、日本とは別世界でした。 居候先は素晴らしく居心地がよく(向こうの家は広い!)、殆どの時間を近場で過ごしました。ベルリンに2日間ほど行った他は、あまり観光らし…

  • 非人について~その③ 祇園社の「犬神人」について

    これまでの記事で言及したように、「非人宿」を管理していたのは「長吏とその配下集団」である。畿内にあったこれら宿の総元締めのひとつが「清水坂宿」であった。そしてこの清水坂宿に住む配下集団は、「犬神人」とも呼ばれていた。(ただ清水宿にいたこの配下集団の、全員が犬神人と同一であったとは断言はできず、議論の分かれるところのようだ) 名に「神人」とあることから分かるように、彼らは寺社に属する存在であった。清水坂における犬神人らは祇園社に従属していたが、京以外の寺社にも犬神人はいた。おなじみ石清水八幡宮や、鎌倉の鶴岡八幡宮、越前の気比社、美濃の南宮社にも、犬神人と呼ばれる存在がいたことが分かっている。 な…

  • 非人について~その② 非人の数と、その分類

    前記事では典型的な「狭義の非人」と称される「宿非人」を取り上げた。では「広義の非人」とは何か。細川涼一氏による「中世非人に関する二、三の論点」という論文がよくまとまっているので、この内容を紹介してみようと思う。 まずは京における非人の数について。1302年のことになるが、後深草法皇の死去に伴い、各種法要が行われている。この法事の際に、京にいる非人に対して非人施行(1人10文ずつ)と温室(入浴療法)料が施された。そして当時の記録に、その数と集住地が残されているのである。下記がその内訳である。まずはAグループから。 ・清水坂―――1000人 ・蓮台野―――170人 ・東悲田院――150人 ・散在―…

  • 非人について~その① そもそも、非人とは何か

    少し前のシリーズで、河原者を取り上げた。今回取り上げるのは、非人である。そもそも非人、とはなんぞや。これは難題で非人の定義によるのだ。過去の記事で述べた通り「河原者は非人の一種である」と捉える研究者もいるわけだから、本当はこのシリーズを先にやるべきであったかもしれない。 さて中世の記録を見ていくと「宿非人(しゅくひにん)」という言葉が出てくる。これは「宿」に住む「非人」ということである。では「宿」とは何か。これは中世において、非人たちが集住していた村のことを指す。 各地にあったこれら「宿」だが、近畿にあったものに関していえば、2つの系統に分けられる。まず大和・伊賀・南山城にあったもの。これらは…

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