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根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/

 戦国期の根来衆、そして京都についてのブログ。かなり角度の入った分野の日本史ブログですが、楽しんでいただければ幸甚です。

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2022/07/22

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  • 根来寺・新義真言宗とは~その④ 覚鑁、高野山の改革に挑む

    根来寺・新義真言宗とは~その④ 覚鑁、高野山の改革に挑む

    さてこの新しい教義を、覚鑁はどのようにして広めようとしたのか。 1130年、高野山上において彼は新たに「伝法院」という名の寺院を建立する。密教寺院には、そもそも「伝法会(でんぽうえ)」という教義上の議論を行う、研究会のようなものがあった。空海の十大弟子のひとりであった実恵が始めたものだが、高野ではいつしか行われなくなって久しかった。彼はそこに目をつけたのである。 覚鑁は高野山において、教義上の研究会を自らの主導で進めることによって、高野の教義そのものを内部から変えようとしたのである。そしてその改革を進める足掛かりとして設置したのが、この「伝法院」なのであった。 記録によると、このとき建てられた…

  • 根来寺・新義真言宗とは~その③ 空海の再来・覚鑁登場

    根来寺・新義真言宗とは~その③ 空海の再来・覚鑁登場

    さて平安期の仏教は(南都六宗も天台も真言も)貴族のための宗教であったわけだが、浄土思想や末法思想にうまく対処できず――というよりも、開き直りに近い姿勢を見せて――平安末期頃から台頭してきた、武士や庶民たちのニーズを満たすことができなかったのは、前回の記事で述べた通り。 だがもし仮に、例えば真言宗が真摯に彼らに向き合ったとしても、そのままの教えでは、彼らに受け入れられることはなかっただろうと思われる。 過去の記事で述べたが、密教の教えというのは端的にいうと「スーパーマンになる」ことを目指した宗教である。現世からひとり、高みへと昇る。救われるのは自分、ないし自分が導く弟子たちだけ。彼らは加持祈祷で…

  • 根来寺・新義真言宗とは~その② 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(下)

    根来寺・新義真言宗とは~その② 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(下)

    平安後期に流行した「浄土思想」。これを象徴するのが「この世をば~」の歌で有名な、わが娘を3代に渡って天皇の后に送り込み、位栄華を極めた藤原道長の死に様である。 己の死が近いと感じた彼は、法成寺という寺を突貫工事で建てさせた。寺には三昧堂・阿弥陀堂(無量寿院)・五大堂などの伽藍が立ち並び、阿弥陀堂の本尊にはもちろん阿弥陀如来を据えた。夕方になると、道長を先頭に大勢の僧侶たちが念仏を唱え始め、「浄土はかくこそ」と思われるほどであった、と伝えられている。これはつまり、浄土を地上に再現しているわけである。 道長は死に臨んで、東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の阿弥陀堂に入った。そして…

  • 根来寺開祖・覚鑁と新義真言宗~その① 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(上)

    根来寺開祖・覚鑁と新義真言宗~その① 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(上)

    ようやくにして根来寺・新義真言宗の教義がどういうものなのか、どのようにして成立したのか、高野山から独立に至った経緯などについて語れるまで辿り着いた。 そもそもこの話がしたくて始めたシリーズだが、前段として仏教の基礎知識がないと理解できないので、そもそも日本における仏教とは~という話から始めざるを得なく、予想以上に長くなってしまった。途中からやむなく前半部分を「日本中世に至るまでの仏教について」というシリーズとして独立させた次第である。 信心深い性質ではないので、信仰としての仏教にはそこまで心を惹かれない。しかしそのロジックや思想の変遷などは面白く、全14回と長めのシリーズになってしまった。番外…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑬ 番外編 破戒僧・円載(下)

    中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑬ 番外編 破戒僧・円載(下)

    次に考えてみたいのは、前記事の4にあげた「円珍に対して中傷を行ったり、行跡に乱れがあること」である。実はここに円珍と円載の仲が悪くなった、直接的かつ最大の原因があるのだ。 前記事で述べたように、2人の衝撃的な再会から半年後、円珍は円載と落ち合うために越州へ行く。円載はなかなか来ず、実際に落ち合ったのは蘇州においてであり、そこから共に密教の灌頂を授かるべく長安へ向かった。 その途上の潼関の宿にて、円珍は円載より酷く罵倒されたわけだが、この争いの原因は何だったのであろうか?円珍はその原因を述べていない。だが推測することはできる。 円珍は渡唐の際、お供の僧を何人か連れてきている。その中の1人に豊智と…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑫ 番外編 破戒僧・円載(中)

    中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑫ 番外編 破戒僧・円載(中)

    円珍は円載との出会いを「行歴抄」という書物に書き残している。2人の出会いはどんなものであったのだろうか?当該部分に手を加えて要約してみよう。 ――馬に乗って寺にやってくる老人がいた。兄弟子の円載だ。息せき切って彼の下に駆け寄って礼拝し、涙を流して喜んだ。ところが円載の顔には喜色はみえない。思いがけない反応に、頭から冷や水をかけられた思いであった。昔、比叡山で机を並べていた先輩後輩の仲であったのに、この態度はおかしい。一体どうしたことだろう。話をしても全く聞いていない様子。どうやら日本語を忘れてしまったらしい―― 思いもかけない円載の様子に、戸惑いを覚える円珍。中国語や筆談を交えての会話が進む。…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑫ 番外編 「破戒僧」・円載(上)

    中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑫ 番外編 「破戒僧」・円載(上)

    遣唐使に選ばれた多くの僧たちが大陸へと渡ったが、その正確な人数はデータが残っていないので分からない。遣唐使を構成するメンバー数は、前期は200~250名ほど、後期は5~600名ほどであったが、そのうち僧は何名ほどいたのであろうか? 遣唐使に関する記録が最も残っているのは、第19回目である。なぜ残っているのかというと、この遣唐使には前々回の記事で紹介した、あの円仁が参加していたからだ。彼は「入唐求法巡礼行記」という、遣唐使についてのみならず、7世紀の中国に関する社会風俗についてなど、極めて優れた記録を残している。 この記録によると、第19回遣唐使の参加人数600名ほどのうち、留学僧ないしは請益僧…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑪ 空海の後継者たち 天竺を目指し、南海に消えた高丘親王

    中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑪ 空海の後継者たち 天竺を目指し、南海に消えた高丘親王

    さて空海が開いた「東密」の方は、その後どうなっていったのであろうか。 教義という点では、真言宗は大きな問題を抱えているわけではなかった。天台宗のように4つの宗派を統合する必要もなく、密教という単一の分野をただひたすらに深堀りしていけばよかったわけで、また空海は理論構築の天才でもあったから、彼の死後も教理上残された大きな課題というのは、そんなに残されているわけではなかったのである。 そして空海には、多くの優れた弟子たちがいた。その代表的な10人を十大弟子と称するが、中でも有名なのは一番弟子である真済、最澄から離れて空海の弟子となった泰範、そして皇族出身の真如こと、高丘親王であろう。 彼らは天台宗…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑩ 最澄の後継者たち その後の比叡山

    中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑩ 最澄の後継者たち その後の比叡山

    最澄は822年に、空海は835年に遷化する。(なお空海は死んではおらず、生死の境を超えて永遠の瞑想に入っていることになっている。高野山奥之院にいる彼のもとに、1日2回食事と着替えが届けられる、という儀式が今も行われている。)この二大巨頭の死後、2つの教団はどのように発展していったのだろうか? まずは天台宗から。最澄の死後、彼の後継者たちは未完であった天台宗の教義の確立をせんとする。だが空海の真言宗との関係性は途絶え、これ以上の密教経典の借用は望めない。ならばいっそ、ということで改めて遣唐使の船に乗って、本場の密教を学び直しに行ったのである。倭寇の時代とは大違いで、当時の日本の航海技術は極めて低…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑨ 「南都六宗」に、果敢に戦いを挑んだ最澄

    中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑨ 「南都六宗」に、果敢に戦いを挑んだ最澄

    徳一の著した「仏性抄」は法相宗の立場、つまり前記事で紹介した「三乗説」を唱える立場で書かれた書物である。この書は現存していないので、その正確な内容は分からないのだが、どうもこの中で徳一は「一乗の教えを説く『法華経』を、文字通りに受け取ってはいけない」と述べたようである。 要するに、仏陀が法華経の教えを諭していた時、その場にいた多くの人は、前記事でいうところの「不定性」の人々であったため、彼らを仏陀への道へ誘導するために、分かりやすく「方便として」一乗の教えを説いた、というロジックを展開したのである。 これに激しく嚙みついたのが最澄であった。彼が反論するために著した書が「照権実鏡」であるが、この…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑧ 最澄vs徳一(上) 「三一権実争論」とは

    中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑧ 最澄vs徳一(上) 「三一権実争論」とは

    奈良から平安期にかけて栄えた南都六宗であるが、その中で最も権勢があったのは法相宗である。この法相宗の教えはユニークなものなので、その教義を少し紹介してみよう。 まず日本仏教を語るには、中国仏教なしには語れない。日本の仏教は、おしなべて中国経由で入ってきたものだからだ。日本ならではの宗派が独自に確立し、発展するのは鎌倉期に入ってからである。平安期までの仏教――南都六宗・密教・天台宗などはインドが源流ではあるが、すべて中国で発展・解釈され直したものなので、中華風に味付けされた仏教だといえる。 この中国仏教に最も影響を与えた名僧は、4世紀後半から5世紀にかけて活躍した鳩摩羅什(クマラージュ)である。…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑦ 密教・禅・戒律をミックスさせた、最澄の「シン・天台宗」

    中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑦ 密教・禅・戒律をミックスさせた、最澄の「シン・天台宗」

    密教を日本に持ち込み、更にその教義を発展させた空海。新興勢力であったにも関わらず、官寺である東寺まで賜り、これを密教の専修道場とするなど、日本において確固たる地位を築き上げたのであった。一方、日本仏教界のもう一方の新星であった、最澄はどうであったのだろうか? 日本において「天台宗」を開宗するため、天台の教えを学びに大陸に渡った最澄。帰国してから念願叶い、天台宗は南都六宗に肩を並べる存在になったわけだが、当時の皇室と貴族には、現世利益を叶えてくれる最新の教えであった「密教」のほうがウケが良かったのは、過去の記事で紹介した通り。そこで求められるまま灌頂や加持祈祷を行ったわけだが、己の密教に対する力…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その⑥ 他宗をもその内に取り込んだ、空海の先進性

    日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その⑥ 他宗をもその内に取り込んだ、空海の先進性

    空海により日本にもたらされた密教の教え。空海はそれに独自の解釈を加え、更に発展させる。彼が打ち立てた真言の理論は、天才が収集・編纂した故に、それ以上の解釈や発展がなかなか進まなかった、と言われているほどである。彼の先進性を示す一端として、「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」の障りの部分だけ紹介してみよう。 正確には「秘密曼荼羅十住心論」というこの著作は、そもそもは淳和天皇が各宗派の第一人者に「それぞれの教義を記して提出せよ」と下した命に応え、空海自らが著して提出したものだ。 この著作で空海は、仏教における密教の立ち位置を素人でも分かるように定義している。その定義を表にしたのが、下記の画像である…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その⑤ 目指すところは「スーパーマン」 密教の教えとは

    日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その⑤ 目指すところは「スーパーマン」 密教の教えとは

    密教はインドにおいて発生した、仏教の一派である。初期の密教は呪術的な要素が多く入っており、極めて土俗的な性格が強いものであった。こうした初期密教を「雑密」と呼ぶ。例えば、初期に成立した「孔雀王呪経」は毒蛇除けの護身呪であり、おまじないに近いものだった。 だがその後、インドでは後発のヒンズー教が急速に力をつけてくる。これに対抗する必要上、密教の理論化が進んだため、洗練された教義に生まれ変わった。これが中期密教である。 唐が西域まで進出したことにより、8世紀前半にインドから中国に入ってきたのが、この中期密教であった。伝えられたのは、主に「大日経」と「金剛頂経」の2つの経典であるが、この2つは中国に…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その④ 最澄と空海・平安期が生んだ2人の天才

    日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その④ 最澄と空海・平安期が生んだ2人の天才

    奈良期は日本の歴史上、仏教が最も権力と結びついた時代である。それがピークに達したのが、769年に発生した政治僧・道鏡による皇位簒奪の動きである。この企て自体は失敗したが、こうした動きに象徴されるような寺社勢力の強大化、そして僧侶の退廃ぶりも目立つようになってきた。 794年、桓武天皇による平安遷都が行われる。理由のひとつは政界からの寺院勢力の排除であった。「仏教都市」であった平城京には、数多くの巨大寺院が存在したが、新都である平安京には(当初は)東寺と西寺、この2つの官寺しか許されなかったのである。 桓武天皇は他にも、新規の造寺・寺院による土地購入・営利事業の禁止などを定め、寺社勢力の力を抑え…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その③ 神仏習合と、奈良期の「南都六宗」について

    日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その③ 神仏習合と、奈良期の「南都六宗」について

    そんなわけで、この時期本格的に国政に仏教が入ってきたのであるが、今まであった日本古来の神道はどうなったのか。他国においてはこういう場合、今まで信ぜられていた宗教は破棄、ないしは上書きされてしまう場合が多いのだが、日本においてはそうならなかった。 そもそも仏教が伝来した時から、日本の人々によって「神」と「仏」は、漠然と同じようなものとして信仰されていた。仏は「蕃神」つまり「外国の神」として捉えられていたのである。また仏教はヒンズー教が強かったインドで生まれ、発展していった宗教であったから、多神教的な味付けを加えられていたことも大きい。古代日本人の一般的な認識としては、あくまでも「外国の神ではある…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その② 「総合文化芸術」仏教に魅せられた古代の人々

    日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その② 「総合文化芸術」仏教に魅せられた古代の人々

    日本にやってきた、仏教という新しい教え。しかし日本古来よりある神道を奉じる、有力豪族・物部氏をはじめとした豪族たちの強い反発にあい、敏達天皇は否応なく仏教の排撃を余儀なくされる。これに対し、仏教導入派である蘇我氏が反撃、物部氏らを滅ぼすことに成功する。以降、日本において仏教が発展することになる――というのが、かつてブログ主が学んだ大まかな歴史の流れであった。 上記の説の根拠となっているのは「日本書紀」なわけだが、最近の説ではどうなっているのだろうか。物部氏の本拠地である河内国・渋川の地には、寺院の跡が残っていることから、物部氏はそこまで狂信的な廃仏派ではなかった、という説があるのだ。 薗田香融…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その① 古代日本にやってきた舶来宗教

    日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その① 古代日本にやってきた舶来宗教

    そもそもこのブログは、ブログ主の著作(といっても、現時点で2作しか出していないが)を紹介、というか宣伝するためのブログであった。1巻の舞台は1555年の京であるが、2巻で主人公はとある理由で紀州・根来寺に行き、そこで行人方子院「大楽院」の親方、つまりは僧兵集団の小ボスになる。 なのでこのブログ、最初は京都や根来寺に関する歴史ネタがメインであったのだが、いつの間にかそれ以外のことに話が広がってしまっている。ネタ筋はもちろん、ブログ主が興味のある分野の歴史に関することである。 だが実は根来寺に関する大きなネタで、まだ触れていないものがひとつある。それは根来寺において発展し、伝えられてきた仏教の教義…

  • 旅行記~その⑦ 長篠の戦い 丸山砦と馬場信春

    旅行記~その⑦ 長篠の戦い 丸山砦と馬場信春

    この戦いにおける武田方の戦死者は、1万とも数千とも言われていますが、甚大な被害を被ったことは間違いありません。これまで武田家を支えていた多くの重臣たち――馬場信春、山形昌県、内藤昌秀、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟らが軒並み戦死してしまいました。これら諸将の死は、武田家にとって相当な痛手だったわけですが、同じくらい痛かったのは、数字には表すことができない武田軍の質の低下でした。 先代・信玄公の元、何十年にも渡って練り上げてきた武田軍。一兵卒から物頭、そして先手の将に至るまで、こういう時にはどう動けばいいか、どう指揮をすればいいか、阿吽の呼吸で動ける軍隊に仕上がっていました。武田の強さを支えていた、…

  • 旅行記~その⑥ 長篠の戦い 設楽原古戦場へ(下)

    旅行記~その⑥ 長篠の戦い 設楽原古戦場へ(下)

    21日の日の出と共に、勝頼は攻撃命令を下します。武田方の主力は左翼にいた山県昌景・原昌胤・内藤昌秀・小山田信茂らが率いる精鋭部隊でした。徳川方は右翼に位置していたので、もろにその猛攻を受けます。 武田氏の戦闘スキルは、戦国最強といってもいいレベルのものでしたが、戦闘の様相は野戦とはかけ離れたものでした。野戦築城に対する攻城戦に近い戦いだったのです。対する徳川方は、野戦築城を最大限に生かした戦い方をしてきたのです。徳川方の大久保兄弟が、敵が攻めてきたら柵の後ろに退き、敵が退いたら追撃し、常に敵と一定の距離を保って戦っているのを見た信長が「よき膏薬の如し。敵について離れぬ膏薬侍なり(当時の薬は、布…

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