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根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/

 戦国期の根来衆、そして京都についてのブログ。かなり角度の入った分野の日本史ブログですが、楽しんでいただければ幸甚です。

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2022/07/22

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  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑫ 番外編 「破戒僧」・円載(上)

    遣唐使に選ばれた多くの僧たちが大陸へと渡ったが、その正確な人数はデータが残っていないので分からない。遣唐使を構成するメンバー数は、前期は200~250名ほど、後期は5~600名ほどであったが、そのうち僧は何名ほどいたのであろうか? 遣唐使に関する記録が最も残っているのは、第19回目である。なぜ残っているのかというと、この遣唐使には前々回の記事で紹介した、あの円仁が参加していたからだ。彼は「入唐求法巡礼行記」という、遣唐使についてのみならず、7世紀の中国に関する社会風俗についてなど、極めて優れた記録を残している。 この記録によると、第19回遣唐使の参加人数600名ほどのうち、留学僧ないしは請益僧…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑪ 空海の後継者たち 天竺を目指し、南海に消えた高丘親王

    さて空海が開いた「東密」の方は、その後どうなっていったのであろうか。 教義という点では、真言宗は大きな問題を抱えているわけではなかった。天台宗のように4つの宗派を統合する必要もなく、密教という単一の分野をただひたすらに深堀りしていけばよかったわけで、また空海は理論構築の天才でもあったから、彼の死後も教理上残された大きな課題というのは、そんなに残されているわけではなかったのである。 そして空海には、多くの優れた弟子たちがいた。その代表的な10人を十大弟子と称するが、中でも有名なのは一番弟子である真済、最澄から離れて空海の弟子となった泰範、そして皇族出身の真如こと、高丘親王であろう。 彼らは天台宗…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑩ 最澄の後継者たち その後の比叡山

    最澄は822年に、空海は835年に遷化する。(なお空海は死んではおらず、生死の境を超えて永遠の瞑想に入っていることになっている。高野山奥之院にいる彼のもとに、1日2回食事と着替えが届けられる、という儀式が今も行われている。)この二大巨頭の死後、2つの教団はどのように発展していったのだろうか? まずは天台宗から。最澄の死後、彼の後継者たちは未完であった天台宗の教義の確立をせんとする。だが空海の真言宗との関係性は途絶え、これ以上の密教経典の借用は望めない。ならばいっそ、ということで改めて遣唐使の船に乗って、本場の密教を学び直しに行ったのである。倭寇の時代とは大違いで、当時の日本の航海技術は極めて低…

  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑨ 「南都六宗」に、果敢に戦いを挑んだ最澄

    徳一の著した「仏性抄」は法相宗の立場、つまり前記事で紹介した「三乗説」を唱える立場で書かれた書物である。この書は現存していないので、その正確な内容は分からないのだが、どうもこの中で徳一は「一乗の教えを説く『法華経』を、文字通りに受け取ってはいけない」と述べたようである。 要するに、仏陀が法華経の教えを諭していた時、その場にいた多くの人は、前記事でいうところの「不定性」の人々であったため、彼らを仏陀への道へ誘導するために、分かりやすく「方便として」一乗の教えを説いた、というロジックを展開したのである。 これに激しく嚙みついたのが最澄であった。彼が反論するために著した書が「照権実鏡」であるが、この…

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