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根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/

 戦国期の根来衆、そして京都についてのブログ。かなり角度の入った分野の日本史ブログですが、楽しんでいただければ幸甚です。

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2022/07/22

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  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑪ 牙を抜かれた馬借たち 発展する大津、廃れる坂本

    戦国が終わり、世の中は織豊政権による中央集権体制となる。天下が完全に鎮まるまでは、「関ヶ原」や「大阪の陣」など、まだ幾つかの大戦を経なければならなかったが、少なくともこれまで各地で多発していたような、小勢力同士の泥沼の小競り合いはなくなった。また流通の最大の障害であった、星の数ほどあった関所の数も激減したため、商品流通経済がより活発になったのである。 シリーズの始めで紹介したように、中世の馬借たちは地域の権力者――つまりは戦国大名らと結びついて、その地の物流を担っていた。近世に入っても、その構図自体は大きくは変わらないのだが、これまで持っていた商人的側面ははく奪されてしまう。かつて強い力を持っ…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~~その⑩ 鳥羽車借の京への運搬ルート

    京へ続く三大街道は、京津街道・竹田街道、そして鳥羽街道である。この三街道は、戦国期には日本最大の人口を抱える大都市・京へと続く、物流の大動脈であった。うち鳥羽街道は、巨椋池に荷揚げされる米などの運搬によく使用されていたのは、先の記事で見た通り。 拙著では「大路屋」の車借の列が、塩樽を上京に運ぶシーンを描いた。このシーンを元に、鳥羽の車借の列が京へと向かうルートを紹介してみよう――なお、本当に鳥羽車借がこのルートを使用したかどうかは分からない。あくまでもブログ主の想像である。 下鳥羽にある「大路屋」を出発した車借の列は、まず鳥羽街道を北上していく。街道の横には京より続く加茂川が流れているが、その…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑨ 車借の二大拠点・鳥羽と白河(下) 京の物流を支え続けた鳥羽車借

    早くに衰退してしまった白河車借に比して、鳥羽車借はなんと明治まで続いている。両者の違いは何であったのだろうか? 六勝寺と同じように、廃れてしまったのは鳥羽離宮も同じなのだが、鳥羽には大きな利点がひとつあった。灌漑によって埋められてしまって、今はもう見ることはできないが、中世の下鳥羽の南には巨椋池があったのである。 この巨椋池、琵琶湖から流れてくる宇治川や、桂川・木津川など3つの水系が流れ込む、池というよりは湖であった。ここで一旦貯めこまれた水は、淀川を通じて大阪湾へと流れていく。4つの川と通じているこの湖は水上交通の結節点であり、船で運ばれた荷が荷揚げされる「津」が複数存在した。 国土交通省H…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑧ 車借の二大拠点・鳥羽と白河(上) 白河車借の興隆と衰退

    車借の二大拠点といえば、鳥羽と白河である。細かく見ていけば、小規模な車借拠点は各地にあるのだが、ここまで大規模なのはこの2か所だけだ。鳥羽と白河において、なぜここまで車借が発展したのだろうか? そもそも効率的には、馬の背に乗せて物を運ぶよりも、車を使った方がいいに決まっている。馬の背に乗せる場合、運べる荷は1頭につきせいぜい米2俵だが、牛車を使えば米を8俵乗せられるのだ。にも関わらず小荷駄を使わざるを得なかったのは、日本は坂道が多かったからなのだが、好都合なことに鳥羽と白河から洛中へと至る両ルートは、平坦な道が続いていたのである。 そして何よりも「車借」にできて「馬借」にできないことがあった。…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑦ 牛車で米を運送した車借たち

    小荷駄で荷を運ぶ「馬借」に対して、牛に車を曳かせて運搬する業者のことを「車借」と呼んだ。有名なのが「白河車借」、そして拙著にも出てくる「鳥羽車借」である。 坂本の馬借の起源が「馬の衆」といわれる、日吉社の神人たちだったとすると、車借の起源は何なのだろう。牛に車を曳かせる、という点から考えると、真っ先に頭に浮かぶのは、平安期の貴族の乗り物・牛車である。 平安貴族たちは、牛車を誰に曳かせたのだろうか?この時代においては、「牛追い童」という職能民がこの役割を果たしていた。平安期は「職能」というものがようやく機能してきた時代である。平安初期の「牛追い童」には「官庁に属していた者」と「寺社や貴族の家に属…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑥ 土一揆に参加して暴れはするが、それはそれとして強訴の動員にも応じる馬借たち

    さて前記事で見たように、1428年9月18日の馬借蜂起を契機とし「正長の土一揆」が発生したわけだが、実はその1か月前の8月に近江国において、徳政(借銭棒引き)が行われていたことが複数の記録に残っている。 近江国におけるこのケースだが、そもそも誰が徳政を出したのか、徳政に至るまでの経緯、そして実際に暴動沙汰があったかどうかなど、記録が断片的で全体像がよく分かっていない。だが、どうもこの騒動も先の記事で紹介した「山門による麹の訴訟沙汰」に影響されて起こったものらしい。 叡山はこの麹訴訟を起こす際に「返事によっては、馬借蜂起も辞さず」と公言していたようだ。幕府に対して、強いプレッシャーをかけていたの…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑤ 「敵は北野社にあり」 土一揆のきっかけは、馬借たちによる「麹騒動」

    さて1428年に、日本史上初の大規模な土一揆・「正長の土一揆」が発生する。清水克行氏はその著作「室町社会の騒擾と秩序」において、そもそもこの土一揆が発生したきっかけは、叡山と北野社の勢力争いがあったのではないか、と推測している。 「天神さん」として京の人に親しまれている北野天満宮、つまり北野社は中世においては、叡山の勢力下にある末社であった。にもかかわらず両者の仲が悪くなったのは、4代目将軍である足利義持が北野社の法印・松梅院禅能という社僧を偏愛したことによる。義持はお気に入りの北野社に対して、「酒麹の独占権」という極めて大きな利権を付与したのであった。 麹は日本酒の醸造過程に欠かせない原料で…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その④ 「強訴の尖兵」馬借たち その行動原理

    叡山にしてみれば「強訴の尖兵」という暴力装置として、大変に利用価値があった馬借たちであったが、しかし彼らは必ずしも山門に絶対的な忠実な存在だったわけではない。「命令されたから暴れる」わけではなく、彼らなりの「暴れる理由」があり、その要求を通すためにも「馬借蜂起」したのであった。 今回の記事では、馬借たちの持つそうした「行動原理」がよく分かる事例を紹介したいと思う。 まず今更だが、比叡山延暦寺について。比叡山には「延暦寺」という名の寺院は存在しない。比叡山にある、多数の寺院の連合体を称して「延暦寺」と呼ぶのである。その最盛期には、境内である「三塔十六谷」の中に3000とも称される寺院が存在した。…

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