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根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/

 戦国期の根来衆、そして京都についてのブログ。かなり角度の入った分野の日本史ブログですが、楽しんでいただければ幸甚です。

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2022/07/22

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  • 旅行記~その④ 長篠の戦い 長篠城と鳥居強右衛門

    1575年4月から本格的にはじまった、今回の勝頼の遠征の目的は「クーデターに乗じて岡崎城を占領する」というものです。もし成功していたら、徳川家を滅ぼせたかもしれないレベルの大戦果でした。しかしそれが失敗した今、勝頼としては手ぶらで帰るわけには行けません。そこで攻撃目標を、吉田城攻略&家康の捕捉・殲滅に変更するも、これも失敗。勝頼は仕方なく、第三の目標として長篠城に目を付けたのでした。 さて当時の長篠城の城主は奥平信昌です。元々、この山深い奥三河の地を制していたのは、作手城の奥平氏、長篠城の菅沼氏、田峰城の菅沼氏の三氏で、彼らはひとくくりに「山家三方衆」と呼ばれていました。 徳川と武田の国境にい…

  • 旅行記~その③ 「長篠城址史跡保存館」を見学

    半年ほど前のことになりますが、息子と2人、長篠城と設楽原古戦場に行ってまいりました。今更ですが、その時の内容を紹介したいと思います。 その前に、「長篠の戦い」についての基礎知識を。武田氏に関しては近年、平山優氏をはじめ、黒田基樹氏、丸山和洋氏らによる優れた研究が成されています。「長篠の戦い」に至るまでの武田・徳川両家の動きを、平山優氏による著作「徳川家康と武田勝頼」から見てみましょう。 1574年頃より、武田勝頼による東美濃・遠江侵攻が始まりました。これにより、家康は領国の30%を失うという痛手を受けます。当時、単独では徳川家は武田家には勝てない、というのが彼我ともに共通する認識でした。 これ…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑮ 近世の鳥羽車借 その栄光と終わり

    室町期の往来物に「大津坂本馬借・鳥羽白河車借」と謡われた、中世の運送業者たち。江戸期に入って坂本馬借は衰退し、大津馬借は繁栄する。白河車借は既にない。最後のひとつ、鳥羽車借はどうなったのだろうか? 鳥羽車借の全盛期は、織豊期から江戸初期にかけてのようだ。1568年には、信長の命で御所修理のための木材数万石を運搬している。1578年には秀吉による播磨侵攻を受けて、大量の米を鳥羽より大物の浦戸へと運搬しており、その補給にひと役買っている。また家康の為にも木材・石の輸送を行っている。 さて大坂の陣が終わり、ようやく平和な世が到来する。京の人口は増大し、米の消費も急増する。鳥羽車借の御用の主力は、やは…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑭ 江戸期にたてられた「日本海~琵琶湖運河」開削計画

    前回に引き続き、記事の内容がなんだか「馬借・車借」というメインテーマからは、若干外れた内容になってしまっているような気がするが、ご容赦を・・・ さて河村瑞賢による「西廻り航路」開拓により、これまでより遥かに効率的かつ大々的に、米を運べることになった。これにより日本全国ほぼ全ての人が恩恵を受けたわけだが、その唯一の例外が、これまで琵琶湖経由ルートの利用により潤っていた人々である。 「若狭遠敷郡誌」には、西廻り航路以前に小浜から九里街道を通って、琵琶湖まで運ばれた荷は、年20万駄ほどであったが、それ以降は年1万7千駄にまで減ってしまった、とある。なんと92%の減である。 このように一気に衰退してし…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑬ 河村瑞賢の「西廻り航路」により、激変した米の流通ルート

    江戸初期の豪商に、河村瑞賢という人がいる――彼は凄い男なのである。南伊勢の、さほど豊かではない農家の長男に生まれるが、13歳で江戸に出ている(跡継ぎのはずなのだが、江戸に出てきた理由ははっきりしていない)。江戸では、まずは車力になったそうであるから、どこぞの車借組織に雇われていたのかもしれない。この時に知り合った、車持ちの娘を妻に迎えている。 その後、行商人になっている。この頃の逸話として、川岸にお盆の供え物の野菜が川に流されているのを見つけ、それを乞食に拾わせ樽に塩漬けにしたものを売って小金を稼いだ、という逸話が残っている。このように人をうまく使うのに天性の才があったのだろう、土木工事の人夫…

  • 中世の運送業者・馬借と車借~その⑫ 全盛期を迎える大津馬借、小遣い稼ぎをする坂本馬借

    前記事で述べたような理由で、大津馬借はそれなりの規模を持つ馬借集団として、江戸期も存続し続ける。彼らは京津街道の物流の担い手となるのだ。なおこのルートの物流の担い手として、他にも伏見の車借らがあげられる。1704年には京津街道を行き交う荷は、車借が40%・馬借が60%の比率で運ぶという取り決めができており、これは幕末まで続いたそうである。 歌川広重作「東海道五十三次・大津宿」。牛車の列が米俵を運んでいる。伏見の車借らであろうか。牛の背に架かっている帆のようなものは、直射日光を避けるための日よけである。京津街道の運送に牛車を本格的に使うようになったのは、近世に入ってからではないだろうか。京津街道…

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