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根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/

 戦国期の根来衆、そして京都についてのブログ。かなり角度の入った分野の日本史ブログですが、楽しんでいただければ幸甚です。

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2022/07/22

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  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その③ 神仏習合と、奈良期の「南都六宗」について

    そんなわけで、この時期本格的に国政に仏教が入ってきたのであるが、今まであった日本古来の神道はどうなったのか。他国においてはこういう場合、今まで信ぜられていた宗教は破棄、ないしは上書きされてしまう場合が多いのだが、日本においてはそうならなかった。 そもそも仏教が伝来した時から、日本の人々によって「神」と「仏」は、漠然と同じようなものとして信仰されていた。仏は「蕃神」つまり「外国の神」として捉えられていたのである。また仏教はヒンズー教が強かったインドで生まれ、発展していった宗教であったから、多神教的な味付けを加えられていたことも大きい。古代日本人の一般的な認識としては、あくまでも「外国の神ではある…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その② 「総合文化芸術」仏教に魅せられた古代の人々

    日本にやってきた、仏教という新しい教え。しかし日本古来よりある神道を奉じる、有力豪族・物部氏をはじめとした豪族たちの強い反発にあい、敏達天皇は否応なく仏教の排撃を余儀なくされる。これに対し、仏教導入派である蘇我氏が反撃、物部氏らを滅ぼすことに成功する。以降、日本において仏教が発展することになる――というのが、かつてブログ主が学んだ大まかな歴史の流れであった。 上記の説の根拠となっているのは「日本書紀」なわけだが、最近の説ではどうなっているのだろうか。物部氏の本拠地である河内国・渋川の地には、寺院の跡が残っていることから、物部氏はそこまで狂信的な廃仏派ではなかった、という説があるのだ。 薗田香融…

  • 日本中世における仏教、そして根来寺・新義真言宗について~その① 古代日本にやってきた舶来宗教

    そもそもこのブログは、ブログ主の著作(といっても、現時点で2作しか出していないが)を紹介、というか宣伝するためのブログであった。1巻の舞台は1555年の京であるが、2巻で主人公はとある理由で紀州・根来寺に行き、そこで行人方子院「大楽院」の親方、つまりは僧兵集団の小ボスになる。 なのでこのブログ、最初は京都や根来寺に関する歴史ネタがメインであったのだが、いつの間にかそれ以外のことに話が広がってしまっている。ネタ筋はもちろん、ブログ主が興味のある分野の歴史に関することである。 だが実は根来寺に関する大きなネタで、まだ触れていないものがひとつある。それは根来寺において発展し、伝えられてきた仏教の教義…

  • 旅行記~その⑦ 長篠の戦い 丸山砦と馬場信春

    この戦いにおける武田方の戦死者は、1万とも数千とも言われていますが、甚大な被害を被ったことは間違いありません。これまで武田家を支えていた多くの重臣たち――馬場信春、山形昌県、内藤昌秀、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟らが軒並み戦死してしまいました。これら諸将の死は、武田家にとって相当な痛手だったわけですが、同じくらい痛かったのは、数字には表すことができない武田軍の質の低下でした。 先代・信玄公の元、何十年にも渡って練り上げてきた武田軍。一兵卒から物頭、そして先手の将に至るまで、こういう時にはどう動けばいいか、どう指揮をすればいいか、阿吽の呼吸で動ける軍隊に仕上がっていました。武田の強さを支えていた、…

  • 旅行記~その⑥ 長篠の戦い 設楽原古戦場へ(下)

    21日の日の出と共に、勝頼は攻撃命令を下します。武田方の主力は左翼にいた山県昌景・原昌胤・内藤昌秀・小山田信茂らが率いる精鋭部隊でした。徳川方は右翼に位置していたので、もろにその猛攻を受けます。 武田氏の戦闘スキルは、戦国最強といってもいいレベルのものでしたが、戦闘の様相は野戦とはかけ離れたものでした。野戦築城に対する攻城戦に近い戦いだったのです。対する徳川方は、野戦築城を最大限に生かした戦い方をしてきたのです。徳川方の大久保兄弟が、敵が攻めてきたら柵の後ろに退き、敵が退いたら追撃し、常に敵と一定の距離を保って戦っているのを見た信長が「よき膏薬の如し。敵について離れぬ膏薬侍なり(当時の薬は、布…

  • 旅行記~その⑤ 長篠の戦い 設楽原古戦場へ(上)

    陥落寸前の城を救うため、織田・徳川連合軍3万8000が長篠に急行します。5月18日には設楽郷に到着、信長は極楽寺山裏に本陣を構えました。家康が布陣したのはやや前方にある高松山(弾正山とも)です。翌19日から、有名な馬防柵の建設が始まっています。 指呼の距離にまで迫った織田・徳川連合軍に対して、勝頼は下した決断は「決戦あるのみ」でした。どうも設楽原における陣地構築の動きを「戦いを決断できない、連合軍の弱気」と判断してしまったようです。また信長は本陣を山の後ろに置いたので、勝頼は連合軍の総数を正確に把握できず、戦力を過小評価していた可能性があります。 しかし百戦錬磨の武田軍は、戦前の偵察・情報収集…

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