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根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/

 戦国期の根来衆、そして京都についてのブログ。かなり角度の入った分野の日本史ブログですが、楽しんでいただければ幸甚です。

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2022/07/22

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  • 河原者と天部について~その⑪ 千本河原者の赤(しゃく)について

    これまでの記事で紹介したように、京における河原者の村で最大のものは「天部」であった。天部は四条河原にあり、その名の通り彼らは河原に住んでいたわけであるが、河原に住んでいない河原者もいた。例えば千本河原者、或いは野口河原者とも呼ばれた者たちである。(両者は別物である可能性もあるが、この記事では同じ河原者集団として扱う) 千本という地名は、広義の意味では船岡山の西から南の地域にあたる。この辺りは蓮台野と呼ばれる古くからの葬送地であった。野地秀俊氏の研究によると、「洛中洛外地図屏風」において描かれた「千本閻魔堂」の門前にあたる場所に、「野口ノ大藪」という但し書きのついた藪があり、その中に数軒の家屋の…

  • 河原者と天部について~その⑩ 首斬り又次郎について(下)

    さて、秀次一族の三条河原の処刑について調べていたところ、ネットで気になる画像を見つけた。秀次の一生を漫画化したものらしいのだが、下記がその画像である。 「秀次の生涯」というタイトルの学習漫画だろうか。2コマ目では雨まで降っている。当日は雨であったという記録があるのだろうか。これも確認できなかった。情報求む。ちなみに2コマ目に出てくる駒姫とは、東北の雄・最上義光の愛娘で伊達政宗の従妹にもあたる人物である。その美貌から15歳にして秀次から側室として求められ、故郷から遥々京へとやってきて最上屋敷で体を休めていたところ、秀次の自害騒動が発生する。実質的に嫁入り前であったにも関わらず、騒動の巻き添えにな…

  • 河原者と天部について~その⑨ 首斬り又次郎について(上)

    次に紹介するのは「天部又次郎」である。庭師の又四郎と違って、これは個人の名前ではない。とある役職に就く河原者が、継承していく名前なのである。またの名を「首斬り又次郎」という。 河原者の仕事のひとつに刑務業務がある。幕府に命じられ、罪人の捕縛や家屋の破却業務に携わるなど、刑の執行役を担っていたのだ。そして当時、河原は死刑執行場所でもあった。死刑方法には釜炒り・磔などいろいろあるが、首斬りもそのひとつだ。 一例をあげると、1481年4月26日に足利義尚邸に侵入した賊が2人、六条河原で首を斬られている。一条から六条河原まで罪人の移送業務を担当し、死刑を執行したのは、この天部又次郎らであったと思われる…

  • 河原者と天部について~その⑧ 山水河原者・庭師の又四郎について

    河原者はどうやって食っていたのか。過去の記事で触れたように、彼らの職域は実に多岐に渡るのだ。藍の染物の他、土木、屠殺、皮はぎ、清掃、刑の執行者など。 必ずしも専業ではなく、複数の業務を掛け持ちしていたようである。ただ職種によって――というよりも人によっては、専業化が進んでいたものもあったようだ。例えば「山水河原者」、つまり庭師の仕事に就いていた者の中でも、名人と呼ばれる者などがそれである。彼らはやんごとない場所で、やんごとない人々に接する機会が多かったので、穢れの度合いが多い仕事には従事していなかった可能性がある。これについては後の記事で述べる。 さて多くの河原者が住んでいた四条河原は、古くか…

  • 河原者と天部について~その⑦ 堤に守られていた天部と蓮池

    四条河原にあった天部であるが、正確に言うと天部と賀茂川は、堤によって仕切られていたようだ。古代末から中世にかけて、賀茂川の西岸沿いには段丘が形成されつつあった。氾濫から身を守るための堤が、時間をかけて築かれていったのだろう。 この堤は後年、秀吉の京都改造時に「御土居」として増改築されることになる。そこを加味すると、天部と河原の位置関係は下のイメージ図のようになる。 下坂守氏の論文「中世『四条河原』再考」を基に、著者が作成したイメージ図。当時の「河原」を現代の感覚でイメージしてはならない。川の幅そのものが現在よりも広かったのは勿論だが、河原も今よりも遥かに広大だったのである。場所によっても異なる…

  • 河原者と天部について~その⑥ 天部と「四条の青屋」について

    さて拙著に出てくる、天部である。てんぶ、或いはあまへ、とも読む。天分村、また余部とも余部屋敷ともいう。天部は河原者たちが住まう村であった。この時代、天部は四条河原にあった堤の内側にあった。(秀吉の京都改造で、のち三条の鴨川加茂川東岸に移転。) その成立はいつなのだろうか。鎌倉時代の絵巻物「天狗草紙」の中で、その存在が既に示唆されている。しかし、源流はもっと昔まで遡ることができるようだ。実は中世における天部の範囲は、860年に藤原良相が居宅のない一族の子女のために設置した「崇親院」の所領の範囲と、ほぼ重なっていることが~~氏の研究により分かっているのだ。その範囲は今で言うと、南北は四条通りと仏光…

  • 河原者と天部について~その⑤ 非人と河原者の違い

    職能としての中世賤民の発生は、平安後期10~11世紀辺りである。だが「畏れ」よりも「汚穢」という面が強まってくるのは、14世紀辺りからのようだ。その少し前から、「職能の専門化」から「専門業者化」への動きが始まっている。商工民たちの源流を遡ってみると、寺社の神人・寄人や、朝廷の供御人、或いは有力家門に属していた雑人などから発展しているパターンが多い。 当初は隷属する先へ貢納するため、生産物を集積・管理していたのが、次第に利潤を目的としたものへと変わっていく。最終的には「座」を形成し、富の蓄積に成功する者が出てくる――商人の誕生である。 富があるものは強い。彼らは必然的に「汚穢」から逃れ、社会的階…

  • 河原者と天部について~その④ 聖なる存在でもあった、河原者

    さてここまでは前段であって、今回からようやく本題に入る。 河原者や非人といった中世被差別民であるが、彼らを社会的にどう位置付けるか、という研究は昔から続けられてきた。ざっとであるが、研究史の変遷を辿ってみよう。 戦前から戦後にかけては、「被差別民は、元々は異民族であった」という論が主流であった。有名なものに在野の民俗学研究者、菊池山哉(さんさい)がいる。全国の被差別部落700余りを踏査し、「東北の蝦夷の一部が俘囚(ふしゅう)として畿内や西日本に移住させられ、賎民にされた」という説を唱えたのである。だがこれらの異民族説は、現在からみるとどれも研究水準は怪しいものであった。 50~60年代になって…

  • 河原者と天部について~その③ 「肉食は穢れ」の禁忌(タブー)は、どこから来たのか

    イザナギ・イザナミの黄泉平坂(よもつひらさか)の神話からも分かるように、神道における「死の穢れ」を強く忌む風習は、古くからあったものだ。古代日本においては「陵戸」という墓守を職とする人たちがいたが、律令制下においては彼らは賤民の一種とされていた。昔はこの「陵戸」こそが、中世につながる被差別民の原型である、という説が主流だったのだが、現在では概ね否定されているようだ。 神道にはこの「死の穢れ」とは別に、「肉を食べること」への禁忌もあったから、延喜式においては「肉食」も穢れと規定されている。しかし、これは比較的新しい考え方であった。 神道はとても古く、その起源はおそらく縄文時代の精霊信仰(アニミズ…

  • 河原者と天部について~その② 宮中を震撼させた「穢れ」大騒動

    平安末期の1143年、9月23日。おりしも疫病が発生し、みやこのそこら中に行き倒れた死体が放置されていたときのことである。 蔵人の高階業隆が、死体があった陽明門の前を通って宮中に参内した。死体を跨いだわけではなく、その近くを通っただけ(そもそも通らないと参内できない)なのだが、これが大問題となった。みかどの元に、「穢れ」を持ち込んだというのだ。 こういう時の為に「明法家」という、穢れについて造詣の深い専門家がいる。摂政・藤原忠通は明法家の意見を求め、「穢れが内裏に及んだ可能性は低い」という回答を得た。だがこの答えに納得できなかった忠通は――どうも彼はことを大ごとにしたかったらしい――数人の公卿…

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