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根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/

 戦国期の根来衆、そして京都についてのブログ。かなり角度の入った分野の日本史ブログですが、楽しんでいただければ幸甚です。

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2022/07/22

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  • 河原者と天部について~その① 平安末期に成立した「触穢思想」とは

    新シリーズである。拙著1巻の主人公・次郎は印地打ちであり、その師匠として「鹿丸」という印地の達人を出した。彼は山水河原者である。 「河原者」とは何か。端的に言うと、彼らは河原に住み、賤視されていた被差別民である。なぜ彼らは賤民視されていたのだろうか?これを理解するためには、そもそも中世の日本において賤民視される人たちが、どのようにして不当な地位に貶められていったのか、を見ていく必要がある。 なお、同じく被差別民であった「非人」であるが、中世においては、非人と河原者はどうやら別種のものとして認識されていたようである。非人についてはまた別シリーズで述べるが、ただ賤民視されていたのは同じで、その理由…

  • 戦国時代の京都について~その⑬ 天文法華の乱・その後の京

    この「天文法華の乱」を以てして「日本における宗教戦争のひとつ」と論じる人いるが、どうだろうか。宗教戦争の定義にもよるが、確かにそういう面もあるだろう。開戦に至った契機は、教義上の争いである「松本問答」なのだから。 だが教義上の違いが問題になったというよりも、叡山にとっては論争に負けて面子を潰された、という体面の問題の方が大きかったように思われる。この時代、体面を潰されて黙っていることは、己の権益を保証している社会的な地位が下がることに直結したから、叡山としては絶対に見過ごすことのできない大問題だったのである。 また京という強大な権益を生み出す都を、日蓮宗の手から取り戻したい、という思惑もあった…

  • 戦国時代の京都について~その⑪ 天文法華の乱・京都炎上

    そして運命の日、1536年7月23日。その夜、みやこの人々は東にある叡山を遠望し、恐怖におののいたことだろう。山中に無数の篝火が焚かれ、蠢いている。そしてその火は、列となって一斉に山を下りてくるではないか。みやこを襲わんと、松明を手に下山する叡山の大軍勢である。 追い詰められた法華宗徒たちも、総力を結集する。何とかかき集めた軍勢は2万ほど。みやこの東側に陣を構え、山法師らを迎え討つ構えを見せた。翌24日から、御霊口辺りで小競り合いが始まる。この時に攻めてきたのは、主に叡山の僧兵どもだったようだ。25日にも東河原において合戦があり、京勢がよく防いだことが記録に残っている。 法華宗徒も必死なのだ。…

  • 戦国時代の京都について~その⑪ 天文法華の乱・比叡山延暦寺、兵を挙げる

    山科本願寺を壊滅させ、京のご政道を我が物とした京の町衆たち。これが実現したのが1532年のことである。ここから約2年間は町衆、というか法華宗徒たちの我が世の春が始まる。先の記事で見た通り、「衆会の衆」たちによる「洛中洛外のご政道」が行われるのだ。これは前代未聞の出来事であった。 これを苦々しい思いで見ていた者たちがいる。比叡山延暦寺である。 開山当初から霊的な意味で京を守ってきた彼らは、その地にまた絶大な権益をも有していた。元々、京にあった有力な土倉・要するに銭貸しは、軒並み叡山が経営するものであった。だが室町時代も後期に入ると、足利幕府による統制の影響もあって、山門による銭貸し業は大打撃を受…

  • 戦国時代の京都について~その⑩ 天文法華の乱・宗教的な自治組織「衆会(しゅうえ)の衆」

    洛中洛外における検断権、地子銭などの納税拒否、そして遂には京周辺の村落の代官請の要求など、未だかつてないほど高まった、町衆らによる京の自治権。だが注意しておきたいのは、日蓮宗(法華宗)を核としたこの「衆会の衆」を、地縁を元とした「京の町衆」とを同一視してよいのか、という問題である。 過去の記事で、共同体の例として、①「宗教」②「座」③「村落共同体」などがあると述べたが、こうした共同体は必ずしも単独の要素のみで存在するわけではない。複数の要素が錯綜して、入り組んだ関係となっているのが殆どである。 例えば商業都市である堺は、①は主に「日蓮宗」、②の商業的組織である「会合衆」と、③の村落共同体組織で…

  • 戦国時代の京都について~その⑨ 天文法華の乱・京の検断権を握った京人たち

    1年余り続いた、一向一揆との苦しい戦い。しかし1533年6月、一向一揆との和議が成り、ようやく京に平和が訪れた。将軍・足利義晴と新管領・細川晴元は、更にそれから1年たった1534年6月になって、ようやく入洛を果たしている。将軍・義晴は南禅寺を仮御所として政務を見たようだが、晴元は京には住まず、近くにある摂津芥川城へ入ったようだ。 いまだ戦いをやめない、一部の本願寺抗戦派と対峙する必要があったのも確かだ。だがそれよりも、機を見るに敏な晴元は、在京することで生じるであろう、法華宗徒たちとの政治的対決を避けた節がある。幕府による京の支配は、今までのようにはいかなかったのである。 一向一揆は実に手強か…

  • 戦国時代の京都について~その⑧ 天文法華の乱・一向一揆との死闘

    本願寺・第10世宗主である証如はこの時17歳で、教団の実権はその祖父であり後見人でもあった、蓮淳が握っていた。細川晴元と組んで、一揆の蜂起を決定したのもこの蓮淳であったが、今や暴走する一揆をなんとか制御下に置こうと、悪戦苦闘する始末。しかし一向一揆の暴走は収まらない。 一方、新たに幕府を統べる立場となった晴元にしてみれば、そもそも自分が蒔いたタネがこうした事態を引き起こしたわけで、一刻も早く事態を収拾する必要があった。 細川晴元は一向一揆を見限り、その殲滅を目論むことにする。その動きを知った蓮淳は激怒、一揆を鎮める方向から180度方針転換する。8月2日、今やはっきりと敵に回った晴元の本拠地であ…

  • 戦国時代の京都について~その⑦ 天正法華の乱 畿内を暴れまくった一向一揆

    先の記事で触れた通り、京の自治権がピークに達したのは、1530年代である。この頃何があったかというと、畿内においては一向宗が暴れまわっていた。なぜ一向一揆が暴れまわっていたかというと、幕府の混迷のせいなのである。 応仁の乱以降、幕府は弱体化し、将軍位の座は不安定なものとなっていた。更に1507年に発生した「永正の錯乱」による、管領・細川政元の死により、細川家まで分裂してしまう。この辺りの経緯は実に複雑怪奇であって、詳しく記すときりがないので端折ってしまうが、1530年の時点では、まず将軍位は足利義晴のものとなっていた。義晴のバックには管領・細川高国、そして近江守護の六角定頼らがいた。 これに対…

  • 戦国時代の京都について~その⑥ 町組はどのような組織で、どう機能していたのか?

    このように外敵には結束して、事に当たった町衆だが、町や町組同士でも争うことがあったようだ。時期は違うがやはり同じ日記に、二条室町と押小路三条坊門との間で、何百人もが参加した合戦に近い大喧嘩があり、双方100人ほどの怪我人が出たことが記されている。 そこで上京・下京を囲む総構とは別に、町組ごとに「町の囲い(ちょうのかこい)」があった。この囲いを出入りするには、釘貫門と呼ばれる木戸門を通らなければならない。つまりは総構の中にも、幾つもの土塀と門があった、ということになる。 上杉本「洛中洛外図」より。過去の記事でも紹介した「町の囲い」。上下京内にあったと思われるこの囲いであるが、どこからどこまで囲っ…

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