上野の東京国立博物館で始まった「蔦屋重三郎」展に行ってきました。江戸期の優れた版画がずらりと並んだ豪勢な展覧会です。歌麿あり写楽ありで、どれをとっても見続けていたいような名品ばかりです。同時代の春英や春朗、北斎や清長らも一同に会し、浮世絵の絵画的質の高さ
裸婦スケッチを元に詩や物語を織り込んだ絵作りを楽しんでいます。
絵に様々な陰影を与える物語を感じながら鑑賞する絵を求めて自作の絵画やエスキースを載せています。
色彩や描線等による完全に抽象的な作品は現実のオブジェであって絵画の虚構ではありません。現実のものは現実で驚かせなければ観客の注目を集めませんから、巨大化したり、極端に緻密精工であったり、過度に乱暴であったり、最先端の科学を装ったり、ブランドをアピールした
本当のところ、絵画が表現するのはモチーフとなった対象物の再現ではありません。モチーフが何であるのか伝わらなければ画家が描いた世界への物語がわかりませんから、モチーフが何であるのかはわからなければなりません。そこで絵画ではモチーフが何であるのか分からせるた
生まれつき人間に備わっている行動は文化の中にも組み入れられていますが、それだけでは文化ではありません。食事や排泄、睡眠や休息など生まれつきの行動は文化ではありません。しかし、食事の仕方は手で食べる人たち、フォークとナイフの人たち、箸を使う人達、更にディナ
20世紀になって、特別な文化的偏向を避けてユニバーサルな文化の地平を目指そうとする一傾向が現れて、ルネッサンス以来の絵画伝統を一面的と断じました。それによってアカデミズム的な教育は消え、絵画を未文化的な創造の地平へと広げました。素朴派、グラフィックデザイン
原始の洞窟絵画などを見ますと対象のシンボリックなアイコンが文字の様に並べられ、事柄を物語っています。それは児童画などにも共通です。「視覚の描写」という特別な文化を習得しなければ、視覚の役割はアイコンと物語に集中します。視覚が第一に認めるのは大小関係や明暗
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上野の東京国立博物館で始まった「蔦屋重三郎」展に行ってきました。江戸期の優れた版画がずらりと並んだ豪勢な展覧会です。歌麿あり写楽ありで、どれをとっても見続けていたいような名品ばかりです。同時代の春英や春朗、北斎や清長らも一同に会し、浮世絵の絵画的質の高さ
画家が子供時代を描くのは子供時代を過ごした時代へのノスタルジアだけでなく画家自身が再びその頃の感受性で世界を見たいからでしょう。老いたる身には不可能な夢ですが、完全ではなくても子供の眼差しを真似て、世界が再び輝き出し、心がときめくのを幾分なりとも蘇らせた
恵比寿の明るい雰囲気の駅ビルアトレにある本屋さんの有隣堂という大変にオープンな場所での即売会、好評の内に終わることができました。6点の油絵が売れました。物語的なテーマのはっきりしたものが気に入られたようです。なにかのシーンを想像させる絵がたのしいいですよ
絵画は虚構です。ここにないものをあるように描いてみせます。ここに実際にあるのは絵画の画面を構成する材料です。物質的にはここにはないものがここにあると表現できるのが絵です。こうした議論は実に馬鹿げています。人の姿を見て、体重何キロでそのうち水分が何%、脂肪
4/1~6 恵比寿駅アトレの 有隣堂(本館5F書店入口)カモコラージュさんとのコラボで展示即売会をします。小さな日常をテーマにした小さな油絵です。お近くにいらした方は寄って観てください。by カネダオサム https://www.instagram.com/kanedaosamu99/?hl=jaブログ村 ラ
表現主義では「表現」の重要さを主張します。人生で「行動」の重要さを説くのに似ています。「表現」の内容よりも「表現」する行為を促しています。「まずは表現しろ」というのです。受け取る方は「表現してる」と受けとることになります。ゴッホにしてもムンクにしても表現
幼児期、成長期は人生において貴重な時期です。子供の時期にはあらゆるものが新鮮で魅惑に満ちていました。虫であれ、花であれ、犬や猫であれ、路端の石や雑草でもその内部には多くの謎や秘密、科学や物語が潜んでいました。空には星が満ち、夕暮れの哀しみを含んだ美しさに
幼い人たちの絵を見て、子供らしい発想や心境を読み取って良いだの面白いだの言っているのは誰なのでしょう。他人の児童画を鑑賞する子どもたちを見たこともないし、画集のように観賞用としてまとめられたものも知りません。技術はなくても表現したい意欲があれば良い表現だ
絵画は文化の中で多面的な存在です。絵画は美術という芸術分野で代表的な作品群ですし、絵本やお絵かきなど子供の頃から親しんできたエンターテインメントですし、各時代を体験できる歴史史料としても蘊蓄を傾け興味深いものです。「絵が好き」「趣味は絵画鑑賞です」と絵を
人々が怪訝な顔をして作品の前を通り過ぎると、突然、これは素晴らしい、これは斬新だ、アイロニーに満ちてシニカルだと称賛する者が現れます。いち早く作品の意味を理解したのだと宣言します。それに乗り遅れまいと数人が理解を共有します。アートの誕生です。世の中の固定
心に浮かんだ形や色を表出するのが抽象ですが、抽象だけでは絵画ではありません。絵画は対象を持ちますが、その対象とは現実の世界に存在するものです。一角獣のように想像の動物が絵には現れますが、角や面は既存の形体から取られ組み合わされたものです。姿は女性で体はラ
絵画にはかたちがあります。絵画は何らかのもののかたちについての絵なのです。ものの仮象性が絵画と他の造形物とを分けています。しかし、その仮象性は表面的な視覚の描写から観念的な形まで含まれます。太陽は円で描かれ、月は三日月、星は五角形で描かれるのは視覚である
遠くの丘が亀の形に見えたり、空の雲がラクダに見えたり、古い木の瘤が人の顔に見えたりするのを仮象性といいます。青い壁が海原に感じたり、青空に感じたりするのも色彩の仮象性です。実在しない対象をその場に表現できるのが仮象性です。絵画の面白さはこの仮象性に基づい
モネの絵を見る度に絵画の究極の要素を感じます。色彩と形体が仮象としてあること、もしくは何らかの対象物を感じさせる色彩と形体でであることに収斂してゆくのです。モンドリアンは追求の結果、対象性から逸脱して抽象絵画に行きましたが、モネは対象性に踏みとどまり絵画
新年の事始め、展覧会鑑賞でもうすぐに終わりそうな「モネ展」に行ってきました。毎年、どこかで大々的な「モネ展」をやっていて、行くたびに感動するのですが、今回も色彩の美しさに感動です。あのコバルトヴァイオレットの輝きは印刷では感じることのできないときめきを与
新年明けましておめでとうございます。今年の初日の出は穏やかに煌々と輝いていました。クロード・ロランのように古典的で平穏な年明けでした。太陽を拝みたくなる気持ちが自然と湧いてきます。海に面した溶岩台地で潮騒を聞きながら水平線に現れる太陽を希望のように愛でる
絵画が技術の蓄積として人を楽しませるところは大いにあるでしょう。時計細工のように複雑なメカニズムが絵画という形態をとり、どう描いているのか分からない魅力的な謎として鑑賞者に受け取られる。それに対して芸術は精神を開放してくれるから肯定すると、規則や法則、技
イメージの広がりや覚醒といったアートの意義が本当だとすると、アートの作品そのものには価値があるのでしょうか。解説がない作品をアートとして鑑賞する感覚がある人はデュシャン流のアートにいたるところで出会い、見出すことができるでしょう。レディ・メイドの中にアー
アートを教養と考えている人にとっては、一般に知識ある人、知識人、センスの良い人達、商品として市場価値を常に監視している市場関係者、専門研究機関、大学や学会などで認められ、マスメディアが紹介するアートでないと正式でないと判断するのでしょう。自分には知識もな
時代には逆説的反映というのもあるでしょう。政治的混乱や戦禍の多い時代にそれに背を向けて花鳥風月に邁進し、秘密の花園を作り出して美を主張するといったものです。具体的、個別的に述べるのは控えますが、現実から目をそらせるような狂騒的メディアも現代の世相の反映な
絵を描きたいけれども何を描いて良いのかわからない。テーマはどのようにして見つけるのですか、という質問をよく受けます。テーマは何でも良いのです、と答えます。尋ねた人はキョトンとしてなんのことかわからない表情をします。テーマはとりあえず絵を描く前進力となる行
絵画で対象のモノの表現の仕方は、作者とモノとの距離感や関係性を表しています。細密に描くのはモノの価値を外見に置くからです。作者以外の対象であるモノは、目前の物質である以外に作者の記憶やイメージの中で特別の位置を占めているものです。思い出の品であったり個性
絵画は事実関係を証明するものではないでしょう。それには写真や映像、論文やジャーナリズムの文章などが適しているでしょう。絵画は対象の事実関係や詳細な分析を語るものではなく、ひたすら心象としてのリアリティを伝えるものです。心象と言っても喜怒哀楽のような感傷だ
絵画は虚構への扉を開いてくれます。絵画それ自体が積極的な虚構だからです。虚構の世界では私達は自由に振る舞うことができます。空想の翼を広げ夢想を羽ばたかせます。日々の拘束から開放されて、より気高く、自信に満ち、悠然と、繊細で、気品に満ちた生き方を選ぶことが
芸術は個人のものというのが私の考えですので、政治化する芸術はプロパガンダや洗脳の類と感じ警戒することにしています。タトリンやデュシャンやモンドリアン等の作品は皆美しいのですが、抽象化し政治化したモダンアートには怖さを感じてしまいます。政治が個人を押しつぶ
ルネッサンス絵画の魅力は絵画に現れたルネッサンス精神です。17世紀以降の絵画では技術が向上して描写、キアロスクーロ、構図、物語などそれぞれ先鋭的な発展や習熟がなされましたが、根本にある人間の尊厳と自由の行使というルネッサンス精神が希薄となり、管理統制の行き
すべてのメディアは人生と関わっているでしょう。若者向けのメディアはまだ観ぬ世間、社会への参加を促す情報に溢れています。流行のエンターテイメント、ファッション、フード、音楽や旅行など、それが人生の世界であるかのように伝えます。最近はそれにSNSの情報が近未来的
20世紀には美術は多方面に発展しました。絵画を名乗ったものもデザイン全般に広がり、視覚メディア全般を絵画の名で語るようになりました。ヴィジュアルコミュニケーションとして絵画が位置づけられるとグラフィックデザインやテキスタイルデザインの明確性が絵画を凌駕し、
若い人の作品の中で妙に記憶に残った作品があります。風呂屋の富士山の絵にヌードをコラージュしたような絵で、『きっとここに戻ってくるだろう』と題した大西美来さんの絵で、絵画の原風景をイメージしているのでしょう。日本人風の裸婦の背後にはピエロ・デラ・フランチェ
五美大展に行ってきました。久しぶりに、若い人たちの活気ある作品に触れ、春風のように心地よく、爽やかな印象でした。コロナ禍の間、冷静に絵を見つめていたようです。まず、モダンアート風の絵画は美しいテキスタイルのように、マチエール、色彩ともに十分にこなれて美し
現代美術や現代音楽など現代の芸術が目論む新しい体験の追求は新奇さを衒う傾向にあります。新しい体験は電車の窓から景色を眺めるようで、目に入ってくるときは興味を引くのですが電車が止まってしまうと退屈な風景に変わるようです。新奇さは時代の速度感のようなものでし
現代ではピカソ流の訳の分からない画像が絵画芸術の象徴として多く使われます。芸術とは訳の分からいもので、理由はしれないが高値で取引されるらしいという訳です。裸婦が絵画芸術の象徴であったのは19世紀中頃から20世紀中頃までの約百年間でした。芸術家は官能的なものを
20世紀の政治を動かしたのは過去の歴史における事柄を現代の倫理基準や美的基準で再評価もしくはキャンセルしようとする運動です。芸術作品のパトロンとなっていた人や階層が現代において批判に値するならばその作品の価値を認めるべきではないとする論理です。20世紀初頭に
19世紀に生まれた世間の常識と戦う芸術家像は20世紀になると政治的な目的のために利用されることとなります。例えば、一般の人々、大衆が美と思うものは堕落した体制の象徴いえば言えるでしょうし、奢侈で美しいものは堕落の結果、個人で所有し愛玩するものは悪政による強欲
19世紀フランスではアングルをはじめとして多くの裸婦が描かれます。裸婦の魅力はエロティシズムと美という2面を備えており、欲望と品格との微妙なバランスの上に成立していました。当然、裸婦では欲望に直結するエロティシズムが優勢となるのですが、それを抑える神話や異国
裸婦が絵画芸術の象徴となるにはマネの裸婦が契機となります。ただの裸婦、ただの女性の裸が芸術となるにはそれなりの芸術についての文脈があった上での話になります。マネの絵画は日本人が好む芸術の高揚感が色彩にも構図にもありません。我が国でマネといえば『笛を吹く少
レアリズムの本質は何だったのかというと「口実、建前、嘘で固めた体制は嫌だ」との感情でしょう。科学主義とか論理主義とかいうのではなくて、どんなことでも真実なら暴露して体制の鼻を明かしたいという怒りなのでしょう。優美に上品に取り繕ったり、冷ややかに冷笑するの
裸婦が問題を引き起こしたのは19世紀に始まります。社会の常識に反抗する芸術家のイメージが生まれたのも同じ頃です。ロココ時代には享楽的モチーフとして裸婦が沢山描かれましたが、19世紀以前は神話的な情景という口実を設けていました。神々や精霊などは裸で描かれるのは
新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。と新年ですが、正月休みで時間ができたので、画像検索で色々とネット上の散歩を試みました。ついでだから自分のも検索してみたら、「この画像は露骨な表現を含んでいる可能性があります。セーフサーチ
あらゆる行為に善悪があります。それは行為をどちらの側で見ているかによります。自分たちが善であるとしたら、自分たちの側から行為を見れば相手が悪です。自分たちが悪であるとしたら相手が善です。どちら側に位置するかで善悪はひっくり返るのです。美についても偽善的で