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2021/07/05

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  • 仁木城 三河 その1 春日部氏の詰城として築かれ、家康による改修が行われた可能性がある山城

    仁木城は愛知県豊田市上仁木町にあります。春日部家綱が流浪の身となってこの地に居住し、小原一円を領有したと伝えられ、春日部の姓は後に春日井と改められ、ご子孫は仁木城の山下に居住するとされ、往時の居館もここにあった可能性が指摘されます。今見る城郭遺構は、その後に武田勝頼の三河侵入に備えた家康による改修が行われた可能性が考えられるようです。今回の参考資料は(1)「藤岡・小原・旭の中世城館」愛知県中世城郭研究会1993(2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(3)「小原の城郭」作図:千田嘉博小原村文化財保護委員会1993などです。仁木城春日部氏が崇敬したとされる白鳥神社が田代川を挟んで祀られる仁木城の南側の尾根には古墳群が在り、古くから田代川の水利による田地が開けていて、山間部であっても、先住...仁木城三河その1春日部氏の詰城として築かれ、家康による改修が行われた可能性がある山城

  • 米倉城 遠江 混乱する伝承が残る城郭 主郭部の残りが良好

    米倉城は静岡県周智郡森町米倉にあります。森町米倉は現在森町一宮に住所表示が変更されたようですが、城の名は「こめぐら」と呼ばれ、米蔵と書かれた資料もありました。城主は二俣近江守昌長が在城したと伝承されてきましたが、確証はないようです。今回の参考資料は(1)『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会1978(2)「静岡県の城跡西部・遠江国版」静岡古城研究会2022(3)「遠江史蹟瑣談」岩田孝友著1952などです。米倉城各所に割拠していた土豪が信玄の侵攻で武田に属したか遠江の城郭は、信玄の侵攻によって割拠していた土豪の城が改造された例が多くみられますが、資料(2)によると米倉城も進軍する武田軍の駐屯地となった可能性が考えられるとされます。※仲明城は→こちら家田城は→こちら片瀬城は→こちら米倉城二俣街道は城主の伝承か...米倉城遠江混乱する伝承が残る城郭主郭部の残りが良好

  • 天王山砦 美濃 木曽川の渡河地点を見下ろす武田氏によって築かれた単郭の拠点

    天王山砦は岐阜県恵那市武並町藤にあります。明治まで木曽川を渡し船で渡河していた地点を見下ろす軍事拠点として、武田氏の美濃侵攻時に築かれた可能性のある単郭の城郭で、遺構の残存状態は良好でした。今回の参考資料は(1)「信濃をめぐる境目の山城と美濃・飛騨・三河・遠江編」宮坂武男編2015(2)「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第三集」岐阜県教育委員会2004(3)ひなたGIS岐阜県CS立体図などです。天王山砦明治の地図には武並橋はなく渡船場の記号が描かれている木曽川は、木曽ヒノキなどの材木を流すために邪魔になる橋は作られず、鉄道が敷設され、ダムが作られるようになって橋が作られるようになったようで、明治の地図を見ると、木曽川のあちこちに渡船場の記号が見られます。天王山砦掘切や竪堀群が厳重に東に備えている東から延びる...天王山砦美濃木曽川の渡河地点を見下ろす武田氏によって築かれた単郭の拠点

  • 広見城 三河 その4 拡張された城域の興味深い登城路を探索する

    広見城は愛知県豊田市広幡町にあります。その1~その3では縄張図に描かれた広見城の多数の城郭遺構を見てきましたが、その4では拡張されたとされる遺構への登城路を探索してみたいと思います。参考資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(2)現地案内板(3)保見の歴史を伝える会の資料などです。※その1は→こちらその2は→こちらその3は→こちら広見城八草城の中条秀正によって築かれ(諸説あり)正林寺が秀正の菩提寺とされる資料(1)によると、広見城の遺構の構造から、築城当初の城域を後に拡張したと考えられる遺構が見られるとありました。その3で見学したときに虎口地形のように見える部分がありましたのでヒョットすると拡張された部分の登城路ではないかと思って探索しました。広見城地点31に虎口地形が見られた...広見城三河その4拡張された城域の興味深い登城路を探索する

  • 齢松山城 信濃 城郭遺構の残りが良好 城域を取り巻く鬼場新汐も興味深い

    齢松山城は長野県茅野市本町にあります。上原城の東の備えとして築かれ、諏訪氏の支族矢ヶ崎氏が居城したとされます。城域を取り巻くように残る鬼場新汐(堰)の跡は江戸期に設けられた農業用水路ですが、その歴史も興味深いものがあります。今回の参考資料は(1)「信濃の山城と館6」宮坂武男著2013(2)ひなたGIS長野県立体図(3)Ⅰ郭に立つ案内板などです。齢松山城齢松山は南下の福寿院の山号にちなんで名付けられた齢松山城は上原城の諏訪氏の支城として東に隣接する鬼場城よりも古く、鬼場城が築かれると重点は鬼場城に移ったと考えられています。齢松山城Ⅰ郭Ⅱ郭堀切三五郎(さぐろ)鬼場新汐などが読み取れる鬼場新汐跡が帯曲輪のように城域を巻いていますが、江戸期に作られたもので、城郭遺構とは関係がないようです。齢松山城城道不明でaから...齢松山城信濃城郭遺構の残りが良好城域を取り巻く鬼場新汐も興味深い

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