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日本の隅っこの歴史 https://gomahn.hatenablog.com/

某所で郷土史をやっていた方が集めた膨大な資料(主に紙)をデジタル化する作業のため、紐解いた内容に少々個人的な感想を交えて書いていく、覚書的な性質の濃いブログです。

あざらしごまふ
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2024/08/12

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  • 山田井堰堀川 着工までの社会情勢

    今回は、手元資料『改定 山田井堰堀川三百年史』を読んでいこうと思います。この資料は昭和56年発刊のものなので、発刊後に新たに立てられた説や新たな資料の発見等があるかもしれません。気付いた限りは書いていきますが、間違いや取りこぼしがありましたらご容赦ください。そして、お気づきの方はメール、コメント等でご指摘いただけますとありがたいです。 では、参ります。 最初は私、「山田井堰堀川」と言われましてもなんのことやら、でした。どうやら福岡県朝倉市に「堀川用水」という農業用の用水路があって、筑後川から甘木方面に水を引き込んでいるんだそうです。あの有名な三連水車やなんかがあるのが、この堀川用水なんですね。…

  • モンゴルが日本に攻めてきた後の話

    ではでは、予告通り1281年弘安の役後の元についてさっくり見て行きます。 弘安の役後、鎌倉幕府は「元からの脅威を取り除くため、やはり高麗へ侵攻せねば!」と考えますが、そんなことを言われても、遠征となれば軍の中心になるはずの九州の御家人のライフはすでにゼロですから、この計画は中止になります。 加えて、鎌倉幕府は合議制(乱?変?梶原景時参照)だったのですが、外敵の侵攻という非常時に、合議制では素早い対応ができないので、将軍時宗とごく近い側近のみで決議するという専断政治を行っていました。あくまで非常時体制だったのですが、これによって北条得宗家の執事的な立場である内管領が権力を持ち、権力が偏ることへの…

  • モンゴルが日本に攻めてきた話 弘安の役

    かなり遅ればせながら、皆様あけましておめでとうございます。 旧年中は、たくさんの御来訪に応援のスターまで頂き、ありがとうございました。 本年もぼちぼちやってまいりますので、何卒よろしくお願い申し上げます。 前回UPするときに、「ひょっとしたら年内もう一回UPするのは無理かもしれないな」と思ったら、UPどころか下調べすら全くできませんでしたよ。そして、年開けてもなかなか思うようには時間が取れない……。年末年始オソロシヤ……。そして目前に迫る年度末……。 ま、そんなことはどうでもいいですね。亀ペースにもほどがありますが、せめて元気に参ります。 和暦で文永11年、元暦で至元11年にあたる1274年。…

  • モンゴルが日本に攻めてきた話 文永の役

    1274年。高麗王の元宗が崩御し、新たにフビライの女婿である忠烈王が即位したのは、前回書いた通りです。その年、フビライは洪茶丘(ホン・タグ)に命じて、軍船300艘を建造させました。 私が見た全ての資料の中で、はっきり「戦艦300艘建造させた」と書いてあるのはウィキ●ディアだけで、あとは「軍船を通るように命じた」ということと、900と言う数字と300という数字があるだけで書き方が曖昧なんですよね。千料舟一艘作るのにどれくらいの期間がかかるか、という所から、どのくらい建造したのか類推している資料を発見してたんですが、ちょっと見当たらなくなっちゃいました。もういいや。どうせ推測にしかならないので。 …

  • モンゴルが日本に攻めてくる話 その3

    前回は、フビライとアリクブケのカン位争奪戦争で、1264年にフビライが勝利したところまでをおさらいしました。今回からいよいよフビライ・カンの登場ですが(クビライ・カアンが元の発音に近いらしいですね。まあいいいや)前回の最後に書いた状況(モンゴルが日本に攻めてくる話 その2参照)と、まだしばらく『元』にはならないことから、今回は『元』になるまでのフビライの国をフビライ・ウルスと呼ぶことにします。 ではでは、まずはちょっと後戻りして朝鮮を見てみましょう。 1259年に高麗は実質的に滅亡し、モンゴルの支配を受けるようになりました。その前年に、洪福源(ホン・ボグォン)は、1241年に偽王子として人質に…

  • モンゴルが日本に攻めてくる話 その2

    ではでは、前回の続きから オゴタイ崩御の知らせを聞いた時、バトゥはハンガリーを陥落させた直後で、当地の支配は確立していませんでした。なので、カルパチア山脈以西を一旦放棄し、急ぎカラコルムへ戻ります。しかし、この遠征中にトゥルイ家のモンケとは不仲になっていたようで、帰国後はオゴタイの後継者を巡って、次期カンとしてオゴタイの長男グユクを推すオゴタイ家チャガタイ家と、トゥルイの長男モンケを推すジョチ家トゥルイ家とが揉めて、なかなか決着がつかなくなります。 すると、バトゥは自身の領地に戻り、1243年にはキプチャク草原のサライを首都としてジョチ・ウルスを独立政権化します。教科書でキプチャク・ハン国とよ…

  • モンゴルが日本に攻めてくる話 その1

    前回おさらいした梶原景時の変で原田種雄が秋月荘を拝領し、古処山に城を築いたのが1203年(建仁3年)です。古処山城については、過去にどこかで詳しく書いたつもりでいたんですが、今探しても見つけられないので、ちょっと書いておきます。 古処山は、福岡県のど真ん中にある山です。朝倉市と嘉麻市の間に跨っています。先述した通り、原田種雄が梶原景時の変に際して武田有吉の共謀を知らせた功によって秋月の領主となり、古処山に山城を築きました。以後、有事にはこの古処山を拠点に秋月氏は戦国時代を戦い抜きます。原田種雄が秋月を拝領したことで「秋月」の姓を名乗ることとなり、以後、一族は筑前秋月氏と呼ばれます。 古処山城は…

  • 乱?変? 梶原景時

    予告通り今回は梶原景時の変です。『変』が正しいのか『乱』がいいのかわかりませんけど、個人的には『乱』にはなってないんじゃないかと思いました。 大河ドラマなんかをご覧になっている方は、よくご存知ではないかと思います。『鎌倉殿の13人』なんかはこの辺がクライマックスなのではないでしょうか?私は大河ドラマがどうにも苦手で、この事件のこともわかっていないので、しっかりおさらいしようと思います。知らない事を「おさらい」って、そこが『変』ですけど さて。 治承寿永の乱で義経と超仲が悪かった梶原景時ですが、頼朝には心底信頼されていたようです。 と、いうのも、1180年(治承4年)に小田原で頼朝が惨敗した時、…

  • 治承寿永の乱 後半

    木曽義仲が宇治川の戦いに敗れたことで一息つけた後白河上皇は、安徳天皇復権の芽を摘むために、後鳥羽天皇の即位の大礼を行おうとします。が、大礼に必要な三種の神器は、安徳天皇と一緒に平氏に持ち出されていました。 1184年(寿永3年)1月26日。後白河上皇は、旧平家領500ヶ所を頼朝に与え、平家追討と三種の神器奪還の院宣を出します。一方、福原に戻った平氏の方でも、2月には京都奪還の軍を出そうと、軍備を進めていました。 2月4日、源範頼・義経は京を発ち、範頼は50,000騎以上の兵を率いて大阪側の平地から、10,000騎を率いた義経は丹波の山道を迂回して明石側から福原(神戸市中央区付近)を目指します。…

  • 鹿ヶ谷の陰謀 ~ 治承・寿永の乱前半

    さて、平治の乱から15年くらい経った1176年(安元2年)、夏ごろから急に宮中は不幸が続きます。後白河上皇の妻、建春門院。二条天皇の中宮、高松院。後白河上皇の孫、六条上皇。近衛天皇の中宮、九条院。と、相次いで亡くなってしまいます。 この時の天皇は、六条上皇の三つ年上の叔父で、後白河上皇の息子、高倉天皇です。六条天皇は享年13才ですから、この当時16才ということになります。高倉天皇の母親は建春門院こと平滋子(たいらのじし)。清盛からみれば義妹にあたる人です。つまり、高倉天皇はお母さんを亡くしたことになり、同時に母方のバックアップを失ったことになります。奥さんは清盛の娘の平徳子(たいらのとくし)で…

  • 保元の乱と平治の乱 おさらい

    筑前秋月家 その2でちらっと書いた、源平合戦こと治承寿永の乱をおさらいしようとしたんですが、なにしろ知識が中学レベルの素人なもので、ここからおさらいしないと理解できませんでした。 なので、保元の乱からはじめます。 承平天慶の乱で、平将門と対立した将門の従兄弟、平貞盛(承平天慶の乱 おさらい参照)は、北山の決戦で平将門を討ち取り、従五位上に叙せられ、その後も出世を重ねます。貞盛の息子たちもそれぞれに地歩を固め、四男維衡(これひら)は伊勢国に地盤を築き、藤原道長の元で『道長四天王』と呼ばれるまでになります。以後、平維衡の子孫たちは『伊勢平氏』とよばれることとなりました。 維衡から100年ほど経った…

  • 刀伊の入寇 おさらい

    今回は、刀伊の入寇をおさらいします。 これって意外にタイムリーなお話なんですね。私、大河ドラマは見ないのですが、そういえば同じ時期のお話ですね。 さて、参ります。 「刀伊」とは、高麗の人々が彼らを指して呼んでいた「トイ」という音に漢字をあてたもので、その正体は女真族だといわれています。 女真族は後の満州族で、現在の中国黒竜江省とロシアのアムールを合わせたあたりに住んでいた、ツングース系の民族です。現在は居住地によって中国語を話しますが、元はツングース語系の女真語を本来は話していたようで、文字は、1019年当時はわかりませんが、1119年以降は女真文字を使い、その後満州語を話すようになって、明代…

  • 承平天慶の乱 おさらい

    前回まで、秋月家に関する歴史を4回にわたってやって来ました。その中で節目となった出来事とその背景を、今回からいくつかおさらいしようと思います。 まずは、秋月家のご先祖、大蔵春実が秋月にやってくるきっかけとなった、承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)から始めます。 承平天慶の乱は、「平将門の乱」「藤原純友の乱」と分けて呼ばれることもあります。全く別の土地で、全く別のことをきっかけとして始まった反乱なので、分けて呼ぶのが妥当かも知れませんが、この二つの内乱がほぼ同時期に起こったことで武士の台頭が始まり、貴族政治が揺らぎ始めることになります。 将門と純友が示し合わせて反乱を起こしたわけではない…

  • 筑前秋月家 その4

    あっついですねえ。 さっき、家族と話してたんですが、一日中エアコンの効いた部屋の中にいると体が動かなくなる気がします。だけど、この猛暑の中エアコンのない所にいても何もできませんよね。屋外やエアコンなしの屋内でお仕事なさっている方には、社会の一員として感謝申し上げます。そしていずれの皆様もくれぐれもご自愛なさって、この夏を乗り切りましょう。 前回の最後の方と前後しますが、1568年(永禄11年)、立花鑑載(たちばなあきとし)と高橋鑑種(たかはしあきたね)たちが大友宗麟に立てついたのは、どうも策略家の毛利元就に乗せられたようです。立花鑑載が大友に謀反するのはこれが二度目なので、なんかつけいる隙はあ…

  • 筑前秋月家 その3

    どうにも区切りが悪いのですが、前回筑後川の戦いまで書いてたので、その後をちょろっと書いておきます。 筑後川の戦い以来、九州で菊池氏をはじめとする一勢力を保持していた懐良親王は、1351年に大宰府を攻略。以後、大宰府を征西府とします。観応の擾乱・武蔵野合戦・八幡の戦いで機内と関東以北は一応大人しくなり、南朝の最大勢力は九州にいる彼等たちとなっていました。 京都で北山文化が花開くまでもう少しという1372年。当時14歳の征夷大将軍足利義満は、九州探題として今川貞世、大内義弘を派遣します。(実際は管領として将軍を補佐していた細川頼之の指示らしいですけどね。)早速、九州探題は早速南朝討伐に乗り出し、就…

  • 筑前秋月家 その2

    ええと、まだ平安時代終わっていませんでした。それから今後の進め方としては、前回分も含めて秋月氏の歴史をさっくり辿った後で、背景となる事件をひとつずつおさらいすることにします。それでは前回の続きから。 書籍によって家系図が微妙に違うのですが、秋月家譜を元にしますと、安徳天皇に仕えたという大蔵種成の長男が原田種直(はらだたねなお)となります。この頃の人々は、文献に寄って姓を「大蔵」としたり「原田」としたりされますが、このサイトでは種直から「原田」としましょう。特に理由はありませんけど。 というわけで、1158年(保元3年)平清盛が大宰大弐に就任した時、原田種直は大宰大監でした。この頃、大蔵氏一族は…

  • 筑前秋月家 その1

    今回からしばらく、田代将門著『舊志に據れる筑前秋月家の研究』という本を読んでいきます。書きながら、この本のタイトルがブログでちゃんと表示されるのか危ぶんでいるんですが、旧漢字なんですよ。書いたはいいけど私自身、ちゃんと読めなくて調べました。 舊志:旧志(キュウシ)。昔、記録されたもの 據る:因る・由る・拠る・依る・縁る(ヨる)。手段とする。根拠とする。のっとる。 それぞれほかの意味もありますが、特に『據る』は活用範囲が広いので割愛します。今回の用法では、こういう意味のようです。 旧字が使われていることで古い書物だということはお分かりだと思いますが、初版が昭和6年4月3日。戦前なんです。印刷者の…

  • 気づいたこと

    神功皇后についていろいろと書いてきましたが、当然、資料にあってもここに書けていないことも沢山あります。一番ブログの参考にすることが多かった河村哲夫先生の『西日本古代紀行』などは、神功皇后が香椎宮から松峡宮に移動された時の道行き、それから、羽白熊鷲を討ってからの行程などを事細かに解説してあるんですよ。 それを読んで思ったのが、 神社が多い! ということ。 事あるごとに神社造る。何か困ったら神社造る。上手くいったら神社造る。作らないまでも既にある神社に何か奉納するし、社に何か祀ったりする。なので、神功皇后にまつわる謂れのある神社がめちゃめちゃ多いんです。勿論、神社以外もあります。 朝倉郡筑前町にあ…

  • 大乙貴神社

    あ、暑いですね… パソコン部屋にエアコンがないので作業が厳しくなってきました あれこれ調べながらブログ書いていてると、私よりパソコンが先に音を上げるんですよね💧今はまだ、内蔵データ飛ばされたくないので、労らないと。もっと要領よくやれればいいんですけどね。 まだまだ暑い日が続きますが、皆様も熱中症等ご注意ください。 今日は、大乙貴(おおなむち)神社についてです。 朝倉郡筑前町弥永にある大乙貴神社の御祭神は、天照大御神、大国主命、春日大明神です。日本書記に、次のような一文があります。 『一書に曰く、大国主神は、またの名を大物主神、また国造りの大乙貴神と号し、また八千戈神といい、また大国玉神といい、…

  • 荷持田村と層増岐野

    前回の記事で、日本書記に「荷持田村(のとりたのふれ)に羽白熊鷲あり」とあると書きましたが、その荷持田村について書くのを忘れていました。 羽白熊鷲の勢力範囲が脊振山系から朝倉郡にかけてだということなので、荷持田村は羽白熊鷲個人の居住地でしょうか?日本書記の書き方はあっさりしすぎていてよくわかりませんが、そんな書き方ですよね?資料には、現在の朝倉市秋月野鳥、平成の大合併前は甘木市大字野鳥だったところ辺りではないかと書かれています。 朝倉市秋月の秋月城や武家屋敷なんかがある観光地の所から、小石原川の支流である野鳥川を遡るように秋月街道を古処山方面に上っていった所に、昔は野鳥村というのがあったそうです…

  • 羽白熊鷲と橿日宮と松峡宮

    7月になりましたね。全国のあちこちで大雨が降っていますが、皆様の所は大丈夫でしょうか?皆様が恙なくお過ごしになりますよう祈っております。 予告通り、羽白熊鷲(はしろくまわし)について書いて行こうと思います。 日本書記では、荷持田村(のとりたのふれ)に羽白熊鷲あり、と書かれています。手元の資料によれば、羽白熊鷲は儺県(福岡市)の南方、脊振山系から朝倉郡にかけて勢力を持っていた土酋の一人、だそうです。「土酋」とは、先住民の統率者のことだそうなので、羽白熊鷲という人が率いる集団がいたんですね。「羽白熊鷲」ってう集団がいたのかと思っていました。 日本書紀では羽白熊鷲について「その人となりは強健で、翼が…

  • 熊襲

    熊襲、熊鷲、土蜘蛛。これらは、九州にあった大和朝廷とは別個の勢力のことです。熊襲と羽白熊鷲は、おのおの独立した特定の勢力を指すようですが、土蜘蛛は九州に色々いる土着勢力の総称の事のようです。昔は東国と呼ばれていた、関東以北の勢力を蝦夷と呼んでいたのと同じですね。 神功皇后はほぼ関係ないのですが、先ず、熊襲について書いて行こうと思います。 おそらくは大和朝廷がまだ完全に九州を掌握出来ていない頃、景行天皇は即位12年に熊襲征伐のため、九州巡行を行います。景行天皇は第12代天皇なので、神功皇后の御主人である仲哀天皇の2代前の天皇です。 8月に出立し、途中、周防の国や豊後の国で賊や土蜘蛛を倒しながら1…

  • 神功皇后伝承おさらい

    字だらけの記事が続きますが、先にこれをやっといた方が後が書きやすいので、福岡の古代史語りに欠かせない、神功皇后のおさらいをしておこうと思います。 神功皇后は、実在の人物ではないとか、何人かのエピソードを纏めて一人の人物として語られたものだとか言われていたりもます。まあ、そうかもしれませんし、そうでなかったとしても誇張や神格化はされているでしょう。 なので、どこまでを史実とするかは置いておいて、今回は神功皇后がどんなことをしたと言われているかをざっくりおさらいします。そしてこの先しばらく各エピソードを細かく見ていくことになると思います。 では、スタート。 神功皇后というのは諡号なので、本来のお名…

  • 斉明天皇の朝鮮出兵に至る歴史おさらい

    斉明天皇と中大兄皇子の朝鮮出兵に関する記事が続きましたので、ちょっとこの辺の歴史をおさらいしたいと思います。 高校の日本史の教科書を読んでみましたけど…………うん。わからん。 なので、私が納得できるようにあれこれ調べて書いていきます。 西暦300年代ごろからの朝鮮半島は、小勢力が乱立するいわば群雄割拠状態だったようです。その中で倭国こと日本も朝鮮半島で影響力を持つべく、半島の南端で日本列島からほど近い任那と言う勢力を応援します。勿論無償ではなかったようで、任那からはいろいろ貰っていたようです。いつ頃からかというと、日本書記などに神功皇后が出てくるころには、任那は既にあるものとして書かれているの…

  • 宮地嶽神社と宮野神社

    宮地嶽神社は全国にありますが、福岡県福津市にある神社が有名ですね。年2回見える海まで続く光の道は、所謂映え写真のスポットです。ここの神社が、全国各地にある宮地嶽神社の総本社なんだそうです。 ただ、今回はここの宮地嶽神社ではなく、朝倉市宮野の宮地嶽神社です。というか、宮地嶽神社がこんなにいっぱいあるの、初めて知ったんですけど!朝倉市だけで3か所くらいある!ざっくり地図もらってなかったら、どの宮地嶽神社かわからないところでした。 この宮地嶽神社は、先日から書いている橘広庭宮跡から直線距離で1kmちょっと北西ににあります。山の上なので、実際はもうちょっとあるでしょうね。 ちっちゃい神社で、鳥居と拝殿…

  • 綾鼓

    昨日は橘広庭宮からあれこれ書きました。今日もその辺のお話です。 斉明天皇が661年の旧暦で5月9日に崩御されたので、実子でもある中大兄皇子は殯(もがり)しないといけなくなりました。 殯っていうのは古代のお葬式で、故人の遺体を火葬したり埋葬したりせずに、棺に入れたまま葬礼用の屋敷に安置して、近親者がその中で遺体が腐敗して白骨化していくのを確認し、確かに亡くなったことを納得する儀式なんだそうです。 本当でしたら天皇家の方なので、殯宮っていう宮をひとつ建ててその中で一年間暮らすのだそうですが、中大兄皇子は、「戦の陣中だから」ってことで、ひと月を1日に替えて12日間の殯としたのだそうです。 で、この殯…

  • 朝倉橘広庭宮

    はじめまして。初回なのですが、経緯はプロフィールに書きましたのでご挨拶抜きでいきなり書き出します。 本当に手当たり次第なうえ、まだこのブログに慣れていませんので、色々とご容赦くださいませ。 さて、御存知の方も沢山いらっしゃるでしょうが、福岡県朝倉市に『橘広庭宮跡』というのがあるんだそうです。教科書にも載っている663年の白村江の戦いに向かう時に、いわば大本営として造られた、天皇の御座所ですね。 朝倉橘広庭宮跡 「あさくらのたちばなのひろにわのみや」と読みます。画像は手持ちがなかった(多分、どこかにはあると思われます)ので、福岡観光WEBさんから。 造営時の天皇は斉明天皇。あの方ですね。蘇我入鹿…

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