chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
不思議活性 https://blog.goo.ne.jp/fushigikaxtusei/e/9e1b2aad16c5ef22bef0086ebfdd55d3

ちょっとした幸せを感じられたらな

ホームページとして、『太陽とともに・ふしぎかっせい』を作っています。 https://www5d.biglobe.ne.jp/~fushigi/ です。

ふー
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2022/01/25

arrow_drop_down
  • 老子道徳経 80

    第八十章独立(国は独立して民は移ることがない)国を小とし民を寡とす。民をして什伯(じゅうはく)有らしむ。人の器にして而も用いざれば、民をして死を重んじ、而して遠く徒(うつ)らざらしむ。舟輿(しゅうよ)有りと雖も之を乗ずる所無し。甲兵有りと雖も之を陳(つら)ぬる所無し。民をして結縄に復して之を用いしむ。其の食を甘(うま)しとし、其の服を美とす。其の居に安んじ、其の俗を楽しむ。隣国相望みて鶏狗(けいく)の声相聞こゆ。民、老死に至るまで相往来せず。この章は、小国で少数の人民よりいない所こそ道が行なわれ易いのであって、人民の幸福には、勝れた人も、便利な器物も、美食も、美肌も必要としないものであることを説く。自然の状態において、最も道に近いのは赤子である。赤子が誰にも愛されているのは、人は道に近いものを愛するという...老子道徳経80

  • 老子道徳経 79

    第七十九章任契(契を司る者に任す)大なる怨みに和(むく)うは必ず余怨有り。安んぞ以て善と為すべけんや。是を以て、聖人は左契を執りて人を責めず。有徳は契を司り、無徳は徹を司る。天道は親しみ無し、常に善人に与(くみ)す。過酷な政治を行って民の怨を受け、その怨をやわらげようとして、税を軽くしたり、税の取りたてをゆるめたりしても、怨は消えるものではないのである。一度重い税をかけられ、激しく取り立てられると、民は食う物や着る物までが足りなくなって、飢えや寒さに苦しみ、親子兄弟が共に暮らすことができず、はなればなれになるものさえ生ずるからである。以上のようなわけであるから、聖人は約束をしたことを引合すための左契を取るが、債権者の持つべき右契は持たないのである。これは、催促をして、人からものを取り立てるということを忠実...老子道徳経79

  • 青春の旅・・・ 9

    9もしあなたが本当に涅槃を遂げていたらあなたは世間に帰って来るだろうもうそこには何の恐れもないからだもうあなたはどこにもいられるいまや、地獄でさえ天国であり暗闇でさえ光でありそして、死でさえも生なのだもう、何ものもあなたを迷わせることができないあなたの達成はトータルだ完璧だ究極だハスの花でいなさい!〇根源への帰還“根源に還るためにあまりにも多くのステップが踏まれすぎたはじめから盲でつんぼだったほうがよかったのに!自分の真の住み家にいて外のことにかわりなし__川は穏やかに流れゆき花は赤く色づいている*****“あまりにも多くのステップが踏まれすぎた・・・・・”実際のところそんなにたくさんのステップを踏む必要などひとつもなかったしかし、これはあなたが第九の地点に来てはじめて認識されることだ<家>に帰り着こうと...青春の旅・・・9

  • 老子道徳経 78

    第七十八章任信(信に任すことのできる言(ことば))天下の柔弱は水に過ぐるは莫し。而して堅強を攻むる者の之に能く勝れるもの莫し。其の以て能く之より易きは無し。弱の強に勝ち柔の剛に勝つは、天下知らざること莫(な)く、能く行なうこと莫し。故に聖人云く、国の垢を受くる、是を社稷(しゃしょく)の主と謂う。国の不祥を受くる、是を天下の王と謂うと。正言は反するが若し。水は他の物を脆弱にしたり、崩壊させたりすることとができるのであるが、水と同じように、他の物を脆弱にしたり、崩壊させたりすることのできるものは、他にはないのである。柔弱が、常に剛強に勝つということは、柔弱はいつも急がず、あせらずに、剛強の分子と融合し、分解し、或は、結合してその剛強性をゆるめ、或は、崩壊させる作用をするのである。老子が、柔は剛に勝つ、というこ...老子道徳経78

  • 老子道徳経 77

    第七十七章天道(天道は弓を張るがごとし)天の道は其れ猶(なお)弓を張るがごときか。高き者は之を抑え、下き者は之を挙ぐ。余り有る者は之を損じ、足らざる者は之に与う。天の道は余り有るを損じて足らざるを補う。人の道は則ち然らず。足らざるを損じて以て余り有るに奉ず。敦(たれ)か能く余り有るを以て天下に奉ぜん。唯(ひと)り、有道の者な是を以て聖人は為して恃まず、功成りて処(お)らず、其の賢を見わさんことを欲せず。天の道は、弓を張るときに、高い所を抑えて低くなし、低い所を挙げて高くするように、総ての高き者は抑えるように、低き者は挙げるように、また、有余あるものはそれを減じて、足りない者に補ってやるように、平均させるように働くものである。然るに、人のやることは、これと反対であって、足りない者の方を減損させて、有り余って...老子道徳経77

  • 老子道徳経 76

    第七十六章戒強(強を戒める)人の生くることは柔弱なればなり。其の死することは堅強なればなり。万物草木の生ずることは柔脆なればなり。其の死することは枯槁(ここう)なればなり。故に、堅強なる者は死の徒にして、柔弱なる者は生の徒(ともがら)なり。是を以て、兵強ければ勝たず。木強ければ共にす。強大なるは下に処り、柔弱なるは上に処る。人の生れたときは全身柔軟であって、骨さえ柔らかである。心のかたくなのところがなくて、自由に変えることができる。泣いていても、直ぐ笑うようになるし、おこっていても、直ぐにこにこと、機嫌をよくすることができるのである。しかし、人は生長し、年を取るに従って柔軟さがなくなって、身体が硬くなり、死ねば身体は全く固くなって、手足を曲げることも難しくなってしまうのである。また、心に潤いとか、自由さと...老子道徳経76

  • 青春の旅・・・ 7・8

    7〇牛の超越“牛にまたがって私はわが家にたどり着く私は穏やかだ牛も休むことができる夜明けが至福の休息のうちに訪れた私の草屋の中で私は鞭も手綱も捨ててしまった”*****<心>によって組み立てられた、でっち上げられた解答でも経典から借りてきた解答でもなくあなたの実存から湧き上がる花開く、咲き誇るあなたの全面的な<天命>を顕在状態にもたらすあなたを完全に覚醒させる、そうした<解答>__それはひとつの<実現>になるだろう<解答>ではなくひとつの<実現><解答>ではなくひとつの<啓示><解答>ではなくひとつの<体験>それも実存的な__これこそ十牛の物語のすべてだその<探索>は実存的なものなのだ禅は最もストレートな道だそれはまっすぐ標的に向かって行くけっしてあっちへ行ったりこっちへ行ったりしないけっしてめぐりめぐっ...青春の旅・・・7・8

  • 老子道徳経 75

    第七十五章貪損(たんそん)(貪(そこな)れば損う)民の飢するは、其の上の税を食むことの多きを以てなり。是を以て飢(いいうえ)す。民の治め難きは、其の上の為すこと有るを以てなり。是を以て治め難し。人の死を軽んずるは、其の生を求むることの厚きを以てなり。是を以て死を軽んず。夫れ唯り生を以て為すこと無き者は、是れ生を貴ぶに賢れり。上に立っている為政者は、民の租税を以て仕事をなし、生活をしているものである。もし、上に立つ者が名利の念に駆られて、大きな事業を起こしたり、豪奢な暮しをしたりすれば、必ず重税を取り立てることになり、そのために、民は自分の食料にもこと欠くようになり、飢えに苦しむ者が多く生ずるようになるのである。地位を得、或は富を得れば、その生活を豊かにし、生を全うすることができると思ってやっていることが、...老子道徳経75

  • 老子道徳経 74

    第七十四章制惑(惑いを制すべきところ)民、死を畏れずんば、奈何ぞ死を以て之を懼(おど)さん。若し民をして常に死を畏れしめ、而して奇りを為す者は吾執らえて之を殺すことを得ば、敦(たれ)か敢えてせん。常に司殺する者有り。夫れ司殺する者に代わる、是を大匠に代わりて斲(けず)ると謂う。夫れ大匠に代わりて斲るは、其の手を傷つけざること有ること希なり。民が死を畏れないならば、死刑という重罰を以て嚇かしてもききめはないであろう。民が死を畏れないようになるのは、重税を課せられたり、職業上に種々の煩わしい禁令を出されたり、絶えず強盗や騒擾が人民を悩ましていて、この世に生きる喜びも楽しみもないと思うからである。第二十七章に、聖人は常に善く人を救う。故に棄人なし。常に善く物を救う。故に棄者なし。不善人は善人の資なり。その資を愛...老子道徳経74

  • 老子道徳経 73

    第七十三章任為(天は人の為すところに任す)敢に勇なれば則ち殺す。不敢(ふかん)に勇なれば則ち活く。此の両つの者、或いは利し或いは害す。天の悪(にく)む所、敦(たれ)か其の故を知らん。是を以て、聖人は猶これを難(はばか)るがごとし。天の道は、争わずして善く勝つ。言わずして善く応ず。召かずして自ずから来る。繟然(せんぜん)として善く謀(はか)る。天網は恢恢として、疎といえども失わず。敢えてするに勇となることは、生を生ずるの厚きことであって、第五十章に述べてあるように、死の徒となることである。これに反して、敢えてせざるに勇なる者は、善く生を摂する者であるから、生の徒であり、其の死地無き者であり、常に活路を開いているものである。天地自然の道は、古来から今日に至るまで、少しも変らないものである。人間は、自然に背き、...老子道徳経73

  • 青春の旅・・・ 5・6

    5宗教とは何かの信条の探索じゃない宗教とはまさに自分の実存の基盤そのものを知ろうとするまさに自分の存在の岩盤そのものに触れようとする努力だその自分の存在の岩盤の体験がわれわれが<真実>という言葉を使うときの意味なのだそれは実存的なものだそれはひとつの<体験>なのだ〇牛を手なづける“鞭と手綱は必要ださもないと彼はどこかの泥んこ道へそれかねないよく手なづけられれば彼も自然におとなしくなるそうなれば、つながれなくても彼は主人に従う”6〇牛に乗ってわが家に帰る牛に乗ってゆっくりと私はわが家に向かって帰る私の横笛の音は夜のしじまに響きわたる手拍子で脈打つハーモニーをうたい私は無限のリズムを取るこの調べを聞いた者は誰でも仲間にはいるだろう”*****“鞭”は覚醒のシンボルだそして“手綱”は内なる統制のシンボルだ覚醒と...青春の旅・・・5・6

  • 青春の旅・・・ 4

    4〇牛を捕まえる“大変な苦闘の末私は彼を取り押さえる彼の偉大な意志と力は無尽蔵だ雲海のかなたの高原に突進しあるいは不可侵の峡谷に立つ”集中というのは意識の狭隘化だ集中された心はほかのすべてに対してごくごく無感覚になるそれに対して、瞑想とは起っている一切に醒めることどんな選択もなくただ無選択に醒めていること__“私は鶯の歌を聞く太陽は暖かく、風はやさしく岸辺の柳は青々としているここに牛の隠れる余地はない!”これほどまでの感受性のもとではどうして牛が隠れられよう?牛が隠れられるのはあなたが一つの方向に集中している場合だあなたがどの方向にも集中していないときただあらゆる方向に開いているときどうして牛が隠れられる?ビューティフルな経文だもうそこには牛の隠れる余地はないなぜならば、隅から隅まであなたの意識に落ちこぼ...青春の旅・・・4

  • 老子道徳経 72

    第七十二章愛己(己を愛する)民、威(そこ)なわるることを畏れざれば大威至る。其の居る所を狭むること無かれ其の生くる所を厭(しいた)ぐること無かれ。夫れ唯り厭げず。是を以て厭わず是を以て、聖人は自ら知りて自ら見わさず。自ら愛して自ら貴しとせず。故に、彼を去てて此を取る。聖人は、自分の身を何よりも大切にしているのであるが、第七章に、聖人は、其の身を後にして身先んじ、其の身を外にして身存ずとあり、第十三章には、身を以て天下をおさむることを愛すれば、乃ち以て天下を託すべしとあるように、人の望むような地位や、権勢には少しも執着心をもたないようにして、天から附与せられたことは厭うことなく、固く守るべきである。それが、道に適うことであるからである。威を畏れざれば、の威は、天命のことを指す。其の居る所を狭しとすること無く...老子道徳経72

  • 老子道徳経 71

    第七十一章知病(強知の病)知りて、知らずというは上なり。知らずして、知るというは病なり。夫唯(ただひと)り病を病む。是を以て病まず。聖人の病まざることは、其の病を病むを以て、是を以て病まず。知らないことを、知っているように言ったり、知っているように装ったりすることの多いのは、古から今日に至るまで変らないようであるが、これは、自分を物識だと思われたいたいとか、知らないと恥だとか、知らないと軽視されるとか、何れも強い競争心から起こっていることである。しかし、このことは、人を欺き、自分をも欺くことであって、いつかは偽がわかり、信用を失うことになるのは免れ難いことである。誰でも悪いことだと知りながら、知らないことを知っているように装うのであるから、これは万人に共通にある、心の病とも言うべきものである。以上に述べた...老子道徳経71

  • 老子道徳経 70

    第七十章知難(世に知り難い)吾が言は甚だ知り易く、甚だ行ない易し。天下能く知ること莫く、能く行なうこと莫(な)し。言に宗有り、事に君有り。夫唯(よのひと)知ること無し。是を以て、我を知らず。我を知る者は希なし。我に則る者は貴し。是を以て、聖人は褐(かつ)を被(き)て玉を懐(ふところ)にす。言葉には主となるもの、基となるものがあるのである。道の言葉の主となるものは、無である。無は無の心、私心のないことを現わすのであって、無私の心に生ずるものは、慈愛の心である。慈愛の心から、すべてのものを大切にする、倹の心が生じ、すべてのものと争わない、譲るという心も生ずるのである。第一章と第六十二章において述べたように、無欲になって座るということを習慣とすれば、無の心になることは容易であって、老子の言うことは解りやすく、行...老子道徳経70

  • 青春の旅・・・ 3

    3人間は鏡の前に立ち自分自身が映っているのを、反射されているのを見るそれだけじゃない彼は鏡の前に立ち自分の反射を見そして自分自身が自分の反射を見ているのを見るそれが限りなく続いてゆくこれがために<自意識>が起こるこれがために<自我>が生まれるこれがために人間は現実よりも映像のほうに興味を持つようになるあなた自身の心を見つめてごらん!あなたは本当の女よりもポルノ写真のほうに興味を持つ写真は人間の心をすさまじい力でつかむそれがゆえに、人間は虚構の中に生きているのだそして、<自己知>はフィクションの中では不可能だあなたは<映像>よりももっと<本物>のほうに興味を持たなくてはならない<鏡>が壊されなくてはならないあなたは<わが家>に帰って来なくてはならないのださもなければ、あなたはどんどんと自分自身から遠ざかるば...青春の旅・・・3

  • 青春の旅・・・ 2

    2〇足跡を見つける“川べりの木々の下に私は足跡を発見する!かぐわしい草のもとにさえ彼の足跡はある人里離れた山奥深くにもその足跡は見つかるこれらの足跡はもう天を見上げる自分の鼻づらほどにも隠れてはいない”*****まず第一に理解すべきことは“なぜ”を落とすということだたちまちにして、あなたは宗教的になる“なぜ”とつき合い続けてごらんあなたは哲学的なままだ質問をし続けてごらんあなたは頭から抜けられない“質問すること”を落としなさい突如として、エネルギーが新しい次元へ動いてゆくハートの次元__ハートには一つの質問もないそして、そこにこそ<解答>が隠れている*****仏陀は彼の弟子たちに「形而上学的な質問をしないこと実存的な質問をしなさい」と言うのをつねとしていたあなたがここにいるあなたは誰か?そして、その質問は...青春の旅・・・2

  • 老子道徳経 69

    第六十九章玄用(玄を用いる兵法)兵を用いるに言えること有り。吾、敢えて主為らず、而して客為(かくた)り。敢えて寸に進まず、而して尺に退くと。是を、行くに行無く、攘(かか)ぐるに臂(ただむき)無く、仍(ひ)くに敵無く、執るに兵無し、と謂う。禍は敵を軽んずるより大なるは莫(な)し。敵を軽んずるは吾が宝を喪うに幾し。故に、兵を抗げて相加(あいのぞ)むに、哀れむ者は勝つ。古の兵家の言葉として、次のようなことが伝えられている。もし兵を用いなければならぬことがあるときは、我からは決して兵を挙げてはいけない。先方から仕向けられたときに、やむことを得ず受けて立つようにせよ。一寸と雖も進むことは、いやしくもしてはいけないが、退くことならば、何尺にても退くようにせよ、と。故に、やむを得ずして兵を挙げたならば、敵を軽視すること...老子道徳経69

  • 老子道徳経 68

    第六十八章配天(天に配列すべき高い徳)善く士為(た)る者は武(たけ)からず。善く戦う者は怒らず。善く敵に勝つ者は与(くみ)せず。善く人を用いる者は之が下を為す。是を不争の徳と謂う。是を人の力を用いると謂う。是を天に配すと謂う。古の極まりなり。この章は、謙下の徳と、不争の徳は、自然に、人の力を用いるようになるものであって、これは天の道に適った極意であるということを説く。武ならざること、怒らざること、ともに戦わざること、人の下となることは、私の心、対立する心、争う心がないからできるので、以上の徳は、不争の徳である。不争の徳も、謙譲の徳も、その根本は私心がないから成立つのである。そこへは、百谷の水が、紅海へ向って流れるように、自然に引きつけられて行って、その力を奪いたい、というようになるのである。故に、不争の徳...老子道徳経68

  • 老子道徳経 67

    第六十七章三宝(三つの宝)天下皆、我を大にして不肖に似たりと謂う。夫れ、唯大なり。故に不肖に似たり。肖なるものの若きは久し。其の細(くわ)しければなり。夫れ、我に三宝有り、持して之を宝とす。二に曰く、倹。三に曰く、敢えて天下の先と為らず。慈あり、故に能く勇なり。倹あり、故に能く広し。敢えて天下の先と為らず、故に能く成器(せいき)の長たり。今、慈を舎てて且だ勇に、倹を舎てて且(た)だ広く、後を舎てて且だ先んずれば、死せん。夫れ、慈以て戦えば則ち勝ち、仁以て守れば則ち固し。天将に之を救わんとして、慈を以て之を衛(まも)る。我には三宝があって、宝としてこれを守っているのである。その一は慈である。他の一は倹である。もう一つの他のものは、敢て天下の先とならない、ということである。慈は柔和であるが、勇を生ずるものであ...老子道徳経67

  • 青春の旅・・・ 1

    『青春の旅・・・』はじめに道を求めて・・・・。私の青春は、1970年頃からでした・・・・。その前の1960年代を調べてみると、ヒッピーは、1960年代のカウンターカルチャーに関連する人々のことで、もともとは1960年代半ばに米国で始まり、世界各国に広がった若者たちのムーブメントで、ヒッピーは独自のコミュニティを作り、サイケデリックな音楽を聴き、性の革命を受け入れ、多くの人がマリファナやLSDなどの薬物を使用して変性意識状態を探求した。また、ビートルズ中期には、ドラッグとインド音楽の影響から、幻想的でサイケデリック色の強い作品が増える。インドレストランで聞いた民族楽器シタールの音色に惹かれたジョージ・ハリスン。1966年7月にスタートしたツアーでビートルズは初めてインドの地を踏む。その際にインドの思想に影響...青春の旅・・・1

  • 老子道徳経 66

    第六十六章後己(己を後にする)江海の能く百谷(ひゃっこく)の王為る所以(ゆえん)の者は、其の能く之に下るを以ての故なり。故に能く百谷の王為(た)り。是を以て聖人は、人に上たらんと欲すれば、必ず言を以て之に下る。民に先んぜんことを欲すれば、必ず身を以て之に後(おく)る。是を以て聖人は、上に処れども民は重しとせず、前に処(お)れども民は害せず。是を以て、天下推すことを楽しみて厭わず。其の争わざるを以てなり。故に天下能く之と争うこと莫し。江海は、天下のすべての谷の水を下り来らしめ、無限の水をたたえている有様は、天下のすべての谷に対して、王者と万民の関係をなしているのである。江海が、何故に王者の地位に居ることになるかというと、それは、紅海が、どの谷よりも低い位置にあるからである。聖人は、いつも謙下の態度でいるから...老子道徳経66

  • 老子道徳経 65

    第六十五章淳徳(淳朴の徳)古の善く道を為す者は、以て民を明らかにせんとには非ず、将に以て之を愚かにせんとす。民の治め難きは其の智の多きを以てなり。智を以て国を治むるは国の賊なり。智を以て国を治めざるは国の福なり。此の両者を知る、亦楷式(かいしき)なり。常に楷式を知る、是を玄徳と謂う。玄徳は深し、遠し、物と反す。乃ち大順に至る。才知の勝れたものは、互いに競争をするようになるものである。才知や才能の勝れたものは、利害関係に明るいから、自分が利益を得るように、損をしないようにと、競争をするようになるものである。従って、これ等の者が多くいるところにおいては、不平を言わさぬようにすることは、非常に難しいこととなるわけである。民が功利的になるように刺激することは、国を害うことになり、いつまでも、民を淳朴であるようにし...老子道徳経65

  • 老子道徳経 64

    第六十四章守微(微を守る)其の安かなるは持ち易く、其の未だ兆さざるは謀り易(やす)し。其の脆きは破り易く、其の微なるは散じ易し。之を未だ有らざるに為し、之を未だ乱れざるに治めよ。合抱の木も毫末(ごうまつ)より生(な)り、九層の台(うてな)も累土より起こり、千里の行も足下より始まる。為す者は之を敗り、執(と)る者は之を失う。聖人は為すこと無し、故に敗ること無し。執ること無し、故に失うこと無し。民の事を従(な)すこと、常に幾(ようや)く成るに於いて之を敗る。終わりを慎むこと始めの如くすれば、則ち事を敗ること無し。是を以て、聖人は欲せざるを欲し、得難きの貨を貴(たっと)ばず。学ばざるを学びて、衆人の過(あやま)つ所を復す。以て万物の自然を輔けて、而して敢えて為さず。一抱もあるような大木も、兎の毛のような細い短い...老子道徳経64

  • 私と銅版画 2

    『私と銅版画』2作品№10『〇△□』1998年(平成10年)・これと言った意味はない〇△□の作品です。作品№11『かぼちゃととんぼ』1998年(平成10年)・初めて色を使った版画作品『かぼちゃととんぼ』です。作品№12『想い出』1998年(平成10年)・ロマンチックな気分を描いてみました。作品№13『アトリエ』1999年(平成11年)・描くということに行き詰った頃の、1999年の作品です。作品№14『少女』2000年(平成12年)・かわいい少女を描いた作品です。作品№15『小さな世界』2001年(平成13年)・この『小さな世界』は、私の銅版画、最後の作品です。このほかにも、数点の作品がありますが、『私と銅版画』の紹介でした。(その時にしか描けない作品があるように、私はもう銅版画はやらないので、どれも小さな...私と銅版画2

  • 私と銅版画 1

    『私と銅版画』1私が初めて版画を制作したのは、小学生のときの彫刻刀を使っての木版画でした。次に中学生のときのドライポイントが思い出されます。で、四十歳になった頃、なぜか、『銅版画』についての本に出会い、独学で、幾つかの銅版画を制作してみました。もう、再び、銅版画を制作することはないのですが、今回、その頃の作品を振り返ってみました。拙い作品ですが、ご覧いただけたら幸いです。作品№1『浅間山』1995年(平成7年)・初めての銅版画で、ふるさとの浅間山をなんとか表現してみました。作品№2『太陽の詩』1995年(平成7年)・この作品は、画家ゴッホの影響から、ふるさとの太陽と向日葵と田園風景を描いてみました。作品№3『再生の詩』1995年(平成7年)・この作品は、画家ホアン・ミロの作品からインスピレーションを得て、...私と銅版画1

  • 小倉百人一首 15

    第十五首君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に    雪はふりつつ  光孝天皇      (830-887)仁明天皇の皇子。陽成天皇廃位の後、五十五歳で即位した。温厚な性格で学問を好んだ。部位四季(春)出典古今集 主題雪に降られながら若菜を摘む、相手へのまごころ 歌意あなたに差し上げるために、春の野原に出て若菜を摘んでいる。その私の着物の袖に雪がしきりに降りかかっている。天皇が、まだ時康親王と申しあげていたころ、ある人に若菜を贈られるにつけて、添えられた歌であるが、雪に降られながらつんだのだというところに、まごころがこもっているのである。春の若菜を食することは、邪気を払うものとされていて、この歌の、いかにもすがすがしい春のしらべがふさわしいものとなっている。仁明天皇第三皇子。元慶八年、藤原基経に迎えられ...小倉百人一首15

  • 小倉百人一首 14

    第十四首陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし  われならなくに       かわらのさだいじん    河原左大臣    源融(822-895)嵯峨天皇の皇子。賀茂川西岸に広大な邸宅・河原院を造営。光源氏のモデルとも。部位恋出典古今集 主題相手のために乱れてしまった心の強い高ぶり 歌意陸奥のしのぶもじずりの乱れ模様のように、私の心は忍ぶ恋のために乱れています。このように乱れはじめたのは誰のせいでしょうか。私ではなくて皆あなたのせいなのですよ。女から疑いを受け、それに答えて詠んだものと思われる。私のこころは乱れているが、それはあなたよりほかの誰のためにも乱れそめてしまった私ではないのだ。あなた一人のためなのに。世に河原院、河原左大臣などと呼ばれた。また、宇治に別荘を営んだが、これが後の平等院となる。陸奥の...小倉百人一首14

  • 小倉百人一首 13

    第十三首つくばねの峰より落つるみなの川こひぞつもりて淵となりぬる       ようぜいいん   陽成院 (868-949)清和天皇の皇子。幼くして即位したが精神を患って退位。晩年は和歌に没頭した。部位恋出典後撰集 主題ひそかな恋心が積もり深い物思いに悩んでいること 歌意筑波山の峰から流れ落ちる男女川は、流れ行くとともに水量が増して淵(深み)となるように、私の恋心も、時とともに思いは深まり、今は淵のように深い恋になってしまった。釣殿のみことよばれた綏子(すいし)内親王(光孝天皇の皇女)に恋情をうったえられた歌で、ほのかに思いそめたことが、深い思いとなったことを、かすかな水がつもって淵となるのにたとえて、一気によみきったところに、狂気にわずらわされて数奇な生活を送った院の心のたかぶりが見える。院の歌は勅撰集に...小倉百人一首13

  • 小倉百人一首 12

    第十二首天つ風雲のかよひ路吹きとぢよをとめの姿   しばしとどめむ       僧正遍昭 そうじょうへんじょう    (816-890)桓武天皇の皇孫。仁明天皇に仕え、天皇崩御を機に出家した。六歌仙、三十六歌仙の一人。部位雑出典古今集 主題五節の舞姫の美しさに魅せられ、これを賛美する心 歌意大空を吹く風よ、雲の中の通路を閉じておくれ。天に戻っていきそうな、この美しい天女たちをとどめて、今しばらくその舞を見ていたいと思うから。遍昭が出家前、宮中の五節の舞(陰暦十一月)を見て歌ったもので、まだ三十五歳にならないころのことであったようです。舞いおわって帰ってゆくあの美しい天女たちの姿を、もうしばらくここにとどめておきたいと思うのだ。出家後も必ずしも俗界と離れたわけではなく、特に光孝天皇との関係は密接であった。小倉百人一首12

  • 小倉百人一首 11

    第十一首わだの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ  あまのつり舟 参議篁さんぎたかむら     小野篁(802-852)参議岑守の子。博学で、漢詩や和歌に優れる。現世と冥界を行き来したなど伝説が残る。部位羈旅出典古今集 主題配流の舟出の孤独感と、都の人に寄せる思慕の情 歌意海原はるかに多くの島々を目指して私を乗せた舟は漕ぎ出していったと、都(京都)にいる私の親しい人に告げておくれ。そこにいる漁師の釣り舟よ。流罪となって、今遠く配所へ向かって難波の浦から船出をしたのである。承和五年(八三八)遣唐副使に任じられながら大使藤原常嗣と争い病と称して行かなかったため、一時流罪。難波から出帆し、瀬戸内海を通りぬけて、讃岐の島へ行くのだという。はるかなる船路を前にして、故郷の人を思いやったこの歌は、悲劇の人、篁のイ...小倉百人一首11

  • 運の不思議

    『運の不思議』はじめに運って何なんだろう。運がいいとか悪いとか。「運」とは、めぐりあわせ。さだめ。「めぐりあわせ」とは、偶然の成り行きや物事の結果。「さだめ」とは、定まっていて動かせないこと。定まった運命。などとありました。同じく、運命という言葉について調べてみると、人間の意志にかかわらず、身にめぐって来る吉凶禍福。めぐり合わせ。転じて単に、将来。人間の意志を超えて、幸福や不幸、喜びや悲しみをもたらす超越的な力。また、その善悪吉凶の現象。巡り合わせ。とありました。そのように考えると、「運」について、何か言おうとすることは恐れ多いことかもしれません。そんなわけで、これから私が述べようとすることは、他愛もない独り言として受け取っていただければいいのかなと・・・・。1さて。運命って何?ですが、先ず、この世に父母...運の不思議

  • 老子道徳経 63

    第六十三章恩始(始めを恩(いつく)しむ)無為を為(しわざ)とし、無事を事とし、無味を味わう。大きくせんとすれば小さくし、多くせんとすれば少なくす。怨みに報ゆるに徳を以てす。難を其の易きに図り、大を其の細きに為す。天下の難事は必ず易きに作り、天下の大事は必ず細きに作る。是を以て聖人は終(つい)に大を為さず。故に能く其の大を成す。夫れ軽く諾(うべな)うは必ず信寡(しんすくな)し。易きこと多ければ必ず難(かた)きこと多し。是を以て聖人は猶之を難(はば)かる。故に終に難かること無し。この章は、道を行う者は、細事も小事も慎重に処理するが故に、難事が生ずることなく、大事を成就なし得ることを説く。いかなる難しいことも、始めは容易になすことができるときがあったのである。また、大きな事も、始めは小さいときがあったはずなので...老子道徳経63

  • 老子道徳経 62

    第六十二章為道(ただ道を為すこと)道は万物の奥なり。善人の宝なり。不善人の保つ所なり。美言は以て市たるべし。尊行あるは以て人に加(こと)なるべし。人の不善なる、何の棄つることか之有らん。故に天子を立てて三公を置く。拱璧を有して以て駟馬(しば)に先んずと雖も、坐して此の道に進まんには如かず。古の此の道を貴ぶ所以の者は何ぞや。日に遠く行かず、求めて以て得ればなり。罪有るも以て邪を免れん。故に天下の貴為(きた)り。道は万物の主であり、すべてのことの根本であって、善人は道を修めることによって益々心が明らかになり、道によって、常にものごとを控えめにするようになるから、精力は充実して健康を維持することができ、何事もよくできるようになるのである。また、争う心はなくなり、従って、敗れたり、人をうらむようなことはなくなり、...老子道徳経62

  • 老子道徳経 61

    第六十一章謙徳(謙下の徳)大国は下流のごとし。天下の交なり、天下の牝(ひん)なり。牝は常に静を以て牡(ぼ)に勝ち、静を以て下ることを為す。故に、大国は小国に下るを以て則ち小国を取る。小国は大国に下るを以て則ち大国を取る。故に、或いは下りて以て取り、或いは下りて而(しか)して取る。大国の過(あやま)たざるは、人を兼ね蓄(やしな)わんことを欲すべし。小国の過たざるは、入りて人に事えんことを欲すべし。各おの其の欲する所を得んとならば、大なる者は宜しく下ることを為すべし。大国は、水に於いてたとえるならば、江海のようなものである。江海は最も低い所にあるから、上流にある幾百の川谷の水は、皆此所へ流れて来るのである。これと同様に、もし大国が腰を低く、謙譲の態度でいるならば、周囲の小国は安心して集まって来ることができるの...老子道徳経61

  • ホリスティックヘルスについて 2

    2続いてIARPマンスリー1979年9月号より。<ホリスティックヘルスの実現とその科学>病気の種類として。①肉体の病(A)生物的次元の病気細胞、その構成物と化学物質の異常、或は細菌、ウイルスの侵入による細胞レベルでの変性等による病気。(これらは薬で改善治癒できる。)(B)気の次元の機能異常経絡を流れる体液、気エネルギーの流れの異常。例えば、気の流れの偏りや停滞、不足等により生ずる体質的疾病傾向、臓器組織の機能的異常。(これらの気エネルギーの流れの異常による機能異常は、気の流れの虚・実を治し、気の流れをよくすれば治る。但し、体質的なものは半年~一年を要す。一時的ものは容易に治る。治療法は鍼灸治療、経絡体操、経絡指圧、ヨーガのアーサナ等である。)②精神身体病感情のもつれ、その発散やコントロールができない時。感...ホリスティックヘルスについて2

  • 老子道徳経 60

    第六十章居位(道徳によって位に居す)大国を治むるは、小鮮を烹るが若し。道を以て天下に莅めば、其の鬼、神ならず。其の鬼、神ならざるに非ず。其の神、人を傷らざればなり。其の神、人を傷らざるに非ず。聖人亦、人を傷(やぶ)らざればなり。夫れ、両つながら相傷らず。故に徳、交(こも)ごも焉(き)に帰す。大国を治めるのは、生の小魚を烹るのと同じような心得をもって行うべきである。小魚は、大魚と同じように料理をすることができないから、そのまま丸煮としなければならない。強い火を急にあてると、片側だけがこげつくが、そうかといって、裏返しをしようとして、箸などでかきまわすと、形がくずれてうまくゆかないから、弱い火でもって、一様に熱がまわるように、あせらないようにやらなければならない。国を治めるのも、これと同じ道理であって、法令等...老子道徳経60

  • 老子道徳経 59

    第五十九章守道(道を守るには深根固蔕(しんこんこてい))人を治め天を事(もち)いることは、嗇(おし)むに若くは莫し。唯り嗇(おし)む、是を早ず服(う)ると謂う。早ず服る、之を重ねて徳を積むと謂う。重ねて徳を積めば、則ち尅(か)たざること無し。剋たざること無ければ、則ち其の極を知ること莫し。其の極を知ること莫ければ、以て国を有(たも)つべし。国を有つの母にして、以て長久(ちょうきゅう)なるべし。是を根を深くし、蔕(へた)を固くすと謂う。長生久視(ちょうせいきゅうし)の道なり。この章は、人を治めるのも、徳を修めるのも、常にものごとを控えめにすることが大切で、常に余力を残すようにするということは、徳を積むことであり、この徳は、国をたもつの道であり、長生久視の道であることを説く。政治を行う場合でも、道を行う場合で...老子道徳経59

  • 老子道徳経 58

    第五十八章順化(民は上に順い上に化す)其の政悶悶たれば、其の民醇醇(じゅんじゅん)たり。其の政察察たれば、其の民欠欠たり。禍は福の倚る所、福は禍の伏す所なり。敦か其の極を知らんや。其れ、正しからざれば、正も復た奇りを為す。善も復た妖い(わざわ)を為す。人の迷えること、其の日は固に久し。是を以て、聖人は方にして割(けず)らず、廉にして劌(やぶ)らず。直にして肆(の)びず、光(て)って曜(かがや)かず。この章は、民の心を刺激して神経質にならしめることがなければ、民はいつも醇朴であることを説く。禍と福とは、物の裏表のように、絶えず入れ替わって回ってくるようなもので、果てがないようであり、これは、定まるということがないものであろうか。正しいことが邪悪になったり、善が悪となったり、怪しいものとなったりすることも多い...老子道徳経58

  • ホリスティックヘルスについて 1

    『ホリスティックヘルスについて』1人間は肉体だけの存在ではなく、魂と霊体を持つ複合生命体だということは、ほとんどの人は受け入れているのでは・・・・。安東民氏の言葉より。「古代人たちの素朴な宇宙観を見ると、この宇宙は陰陽五行が支配する世界であった。また人間の体も、陰陽の気が調和を保っていると健康なのであり、その釣合いが破れると、健康が悪くなると考えたのである。日本では疾病を普通「病気にかかる」という。病的な気運、即ち有毒ガスが体の中に多くこもっているのが「患っている状態」と表現したのである。また、元気旺盛という言葉もある。これは宇宙の健全な本来の気、即ち宇宙のエネルギーが充満しているという意味じゃないかと、私は考えている。」「人間は複合生命体であるのです。われわれの肉体とはマイナス電気、静電気を帯びた炭素型...ホリスティックヘルスについて1

  • 小倉百人一首 10

    第十首これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬもあふ坂の関  蟬丸  (生没年不詳) 宇多天皇の皇子に仕えた雑色、または醍醐天皇の皇子という説がある。部位雑出典後撰集 主題人々が出逢っては別れる、逢坂の関に寄せる感慨 歌意これが都(京都)から東へ下っていく人も、都へ帰ってくる人も、顔見知りの人もそうでない人も逢っては別れ、別れては逢うというこの名の通りの逢坂の関なのだなあ。「これやこの」「行も帰るも」「しるもしらぬも」と畳みかけた語法は、当時の一つの流行であったようです。定家も、「会者定離の心」(会ったものは必ず別離するという心)という仏教の無常感をともなって鑑賞されていたかと思われます。『後撰集』の詞書によれば、逢坂の関のほとりに住んでいた隠者で、ほぼその時代の人と考えられる。小倉百人一首10

  • 小倉百人一首 9

    第九首花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに      小野小町   (生没年不詳)絶世の美女とされる女流歌人。様々な伝説が残る。六歌仙、三十六歌仙の一人。部位四季(春)出典古今集 主題色あせた桜に寄せての、容色の衰えと憂愁の心 歌意桜の花の色がすっかり色あせてしまったと同じように、私の容姿もすっかり衰えてしまったなあ。桜に降る長雨を眺め、むなしく恋の思いにふけっている間に。「ふる」は「経(ふ)る」と「降る」の掛詞。「ながめせましに」は、「長雨」と「眺め」の掛詞。「花の色はうつりにけりな」は、わが身の容色の衰えをも遇しているととるべきであろう。小野小町と言えば絶世の美女と浮ぶので、一目見てみたいとも思ってしまうが、晩年おちぶれて諸国を流浪したという、玉造小町の伝説が展開されています。...小倉百人一首9

  • 小倉百人一首 8

    第八首わが庵は都のたつみしかぞすむ 世をうぢ山と  人はいふなり きせんほうし   喜撰法師      (生没年不詳)六歌仙の一人だが、伝不詳。宇治山に住んだといわれる。部位雑出典古今集 主題心静かに住む、宇治での隠棲 歌意私の庵は都の東南にあり、辺りには鹿もいるほど寂しいが、これこの通り静かに暮らしている。それなのに人は私を世の中をつらいと思って宇治に遁れていると言っているそうだ。「世をうぢ山」の表現は、ふつうには世間の人が憂しと思う宇治山というようにとっているが、「是はわれ世の中をうしと思ふ故にのがれ来てここに住めり」とする説もある。六歌仙の一と名高い喜撰も、確実な歌は、この一首だけで、『古今集』の成立当時、すでにその作品はほかには伝わっていなかったようである。小倉百人一首8

  • 小倉百人一首 7

    第七首天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に    出でし月かも  あべのなかまろ        安倍仲麿     (698-770)留学生として唐に渡り、李白らと交流した。船の難破により帰国に失敗し、唐で没した。部位羈旅出典古今集 主題異国で見る月によって催された望郷の念 歌意大空を仰いで見ると、こうこうと月が照り輝いている。かつて奈良の春日にある三笠山の上に昇っていたあの月が、今ここに同じように出ているのだなあ。安倍仲麿呂が、遺唐使清河に従って帰国を志し、蘇州江上にて、折りからの満月を異郷の空に眺め、望郷のおもいにひたってよんだ歌とされている。安倍仲麿呂は、奈良時代に遺唐留学生として唐に渡り長く暮らし、その後、日本に帰国しようとしたが、帰国船が難破し、日本に帰ることはできませんでした。在唐五十四年、帰...小倉百人一首7

  • 小倉百人一首 6

    第六首かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば  夜ぞふけにける      中納言家持   大伴家持(718?-785)、父は旅人。三十六歌仙の一人。部立四季(冬)出典新古今集 主題宮中の冬の霜の夜更けの幻想的な美しさ 歌意かささぎが翼を並べて架けたといわれる天の川の橋。それにたとえられる宮中の橋に真っ白な霜が降りて、その白の深さを見るにつけても、夜もいっそう更けてきたことよ。七月七日のたなばたの夜、かささぎという鳥が、天の川に翼をひろげて橋を作り、織女星を渡したという伝説上の橋ですが、宮中を天上に見立てて宮殿の階段をもいうようになったとのこと。父の死後、衰えつつあった大伴氏の首長として種々困難に遭遇し、政治的には不遇に終った。『万葉集』中もっとも歌数多く、短歌三百九十二、長歌四十五、蓮歌一、詩一首を残し...小倉百人一首6

  • 幻想的写実主義の画家 アントワーヌ・ヴィールツ

    幻想的写実主義の画家、アントワーヌ・ヴィールツ。1806年2月22日。ベルギー・ディナンに生まれる。ヴィールツは子供の頃から好んで彫刻、絵画、版画などを手掛け、14歳のとき富豪の保護者M.ド・メーブの援助で芸術学校に入学。デッサンと音楽を学ぶ。1820年、アンヴェルスの美術学校に通う。昼間は油絵を描き、夜はデッサンをするというように、刻苦勉励する。1832年、ローマ賞コンクールに参加、首尾よく賞を得て、ローマに赴く。このローマ時代が彼の生涯での最も実り豊か時期となる。ローマ滞在ののちブリュッセルに戻り、非常な名声を得る。1865年6月8日、ブリュッセルで没。59歳。『墓のキリスト』1839年解説より。彼の表現上の武器は写実主義であり、それも、見るものを欺くほど真実の世界と一致するような技巧をもった、職業的...幻想的写実主義の画家アントワーヌ・ヴィールツ

  • 老子道徳経 57

    第五十七章淳風(淳徳の爽風)正を以て国を之らしむ。奇を以て兵を用いしむ。無事を以て天下を取めしむ。吾、何を以て其の然ることを知るや。此を以てなり。天下に忌諱(きい)多ければ民弥(たみいよ)いよ貧し。民に利器多ければ国家滋(ます)ます昏し。人に技巧多ければ奇物滋ます起こる。法物滋ます彰れて盗賊多く有り。故に聖人の云く、我無為にして民自ずから化す。我静を好みて民自ずから正し。我無事にして民自ずから富む。我無欲にして民自ずから朴(すなお)なりと。国を治めるには法律や禁令等を守らしめ、兵を用いるときは、敵の意表に出るような術策や経略を用い、天下の人心を得るには、何も目立ったことをしないで、無事のうちに得るようにするのである。どういう理で、そういうことになるかというと、法令に従わせたり、兵の威力を示したりすることは...老子道徳経57

  • 老子道徳経 56

    第五十六章玄徳(玄同の徳)知る者は言わず、言う者は知らず。其の兌(め)を塞ぎ、其の門(くち)を閉ざす。其の鋭むを挫(おさ)え、其の忿(いきどお)りを解く。其の光を和らげ、其の塵を同じくす。是を玄同と謂う。故に、得て親(むつ)まじゅうすべからず。亦得て疏(うと)んずべからず。得て利すべからず。亦得て害すべからず。得て貴ぶべからず。得て賤しむべからず。故に、天下の貴と為る。この章は、いかなる叡智才能も包み、世俗の間に入り、同調して行くことのできる玄同の徳は、天下において、最もと貴いものであることを説く。道を会得している者は、そのことを、人に知らせなければならないとは思っていないものであって、ひたすら、道を実行しようという、心があるばかりである。道は言わずして行うところにあるものであって、人に示そうとするところ...老子道徳経56

  • 老子道徳経 55

    第五十五章玄符(玄妙に符合する者)徳を含むの厚きをば、之を赤子に比す。毒虫も螫(さ)さず、猛獣も拠(つか)まず、攫鳥(かくちょう)も搏(う)たず。骨弱く筋柔らかにして、握ること固し。未だ牝牡(ひんぼ)の合を知らざれども朘作(さいさく)するは、精の至ればなり。終日号(な)けども唖(むせ)ばざるは、和の至ればなり。和を知るを常と曰う。常を知れば日に明らかなり。生を益せば日に祥(まさ)る。心、気を使えば日に強(こわ)し。物、壮んにして則ち老ゆ。之を道にあらずと謂う。道にあらざれば早く巳(お)わる。この章は、人が天から与えられている偉大な徳を充分に役に立てるためには、常に和の心を主とし剛強であったり、身神を使い過ぎたりしてはならないことを説く。赤子は、骨は弱く筋肉は柔かいが、握ることは、しっかりと固く握るものであ...老子道徳経55

  • 一枚の絵画と詩 15『ガラテア』ギュスターヴ・モロー

    『一枚の絵画と詩』15『ガラテア』1880年ギュスターヴ・モロー(1826~1898)写実主義と自然主義の時代に生まれたギュスターヴ・モローですが、彼の作品ほど現実から遠いものはないし、彼の作品ほど、生活から遠く離れたものはない。と言われています。この一枚の絵『ガラテア』も、巨人族キュクロプスの中で特に粗暴で知られる一つ目の巨人≪ポリュペモス≫が、海神ネレウスの娘の中のひとりで、水晶より輝き白鳥の綿毛より柔らかと称された美しい海のニンフ≪ガラテア≫を覗き見る場面が描かれています。しかし、この幻想的な一枚の絵画『ガラテア』ですが、ガラテアに絡みつくかのような海中植物は、より写実的に描写されており、この絵を見る私たちは、つかの間、現実の出来事として受け入れているのではないのでしょうか。まさしく、この一枚の絵画...一枚の絵画と詩15『ガラテア』ギュスターヴ・モロー

  • 一枚の絵画と詩 14『朝日に向かって立つ女』ダヴィト・フリードリヒ

    『一枚の絵画と詩』14『朝日に向かって立つ女』1818年頃カスパール・ダヴィト・フリードリヒ(1774~1840)フリードリヒは、自然の中に、神の世界、聖なるものを見続けたドイツ・ロマン派の巨匠です。「神的なものは至る所にある。一粒の砂の中にも」と語って、人々がぬかずくべき祭壇としての風景画を描いたと。この絵については、日の出の風景であるとする説と日の入りの風景であるとする説があり、意見が分かれているとのことですが、私は、『朝日に向かって立つ女』と見ます。道の脇には岩が、女性の右手に1つ、左手に2つあり、岩の周りには、白色の小さい花が生息している。画面左手奥に描かれた2本の木の間の後方に、教会堂が小さく見えています。この『朝日に向かって立つ女』は、女性は妊娠しており、子どもが誕生する瞬間が表現されているの...一枚の絵画と詩14『朝日に向かって立つ女』ダヴィト・フリードリヒ

  • 一枚の絵画と詩 13 『吹雪』 ターナー

    『一枚の絵画と詩』13『吹雪・アルプスを越えるハンニバルとその軍隊』1812年頃ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775~1851)ターナーの風景画は、半ば瞼を閉じ、まつ毛のあいだに散乱する光を通して、その光の震えを捉えようとするかのような瞬間の世界を描きだしていると言われます。また、ターナーの描く作品は「崇高」の感情に浸された自然現象または気象現象のイメージには違いないが、同時にまた、彼の内部から生まれた幻想的なイメージに外ならないと。この作品はハンニバル戦役を描いたもので、ハンニバルは吹雪の中アルプスを越えていきローマ軍から勝利。ハンニバルが必死の思いで峠を越える様子が描かれています。暗い岩陰に逃げ込む兵士たちの集団の上に重く不気味に覆いかかる巨大な恐ろしげな空には圧倒されます。まさしく、自...一枚の絵画と詩13『吹雪』ターナー

  • 小倉百人一首 5

    第五首奥山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ  秋は悲しきさるまるたゆふ猿丸大夫     (生没年不詳)『古今集』真名序に名が記されている歌人。各地に伝承が残るが経歴は不明。三十六歌仙の一人。部位四季(秋)出典古今集 主題暮れてゆく秋山の寂寥と哀感 歌意遠く人里離れた奥山で、一面散り積もった紅葉の枯れ葉を踏み分けながら、恋の相手を求めて鳴く雄鹿の声を聞くときこそ、秋の悲しさはひとしお身にしみて感じられるものだ。定家は、この歌を高く評価していたが、猿丸大夫という人は、まったく伝不詳で、『猿丸大夫集』という一つの古歌集の名前と結びついて、しだいに歌人像が作られていったようです。定家も『古今集』では「よみ人しらず』の歌であることを知った上で、だいたい『百人一首』は、秀歌例の一つとして、人よりも歌を重視し、定家が...小倉百人一首5

  • 小倉百人一首 4

    第四首田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に  雪はふりつつ やまべのあかひと      山部赤人(生没年不詳)聖武天皇に仕えた宮廷歌人。自然の美しさを詠んだ叙景歌が特に優れる。三十六歌仙の一人。部位四季(冬)出典新古今集 主題富士山の神聖な美しさへの感動 歌意田子の浦の海岸に出て、はるか向こうを仰いで見ると、神々しいばかりの真っ白な富士山の頂に、今もしきりに雪は降り続いているよ。今、田子の浦と呼ばれているのは富士市に属するが、古代はさった山の麓から由比・蒲原・岩淵あたりまでの海岸をさしたらしい。山部赤人は、歌人としては柿本人麻呂と並び称される。長歌より短歌に秀作が多く、特に叙景歌にすぐれていた。『万葉集』に長歌十三首、短歌三十四首を残す。小倉百人一首4

  • 小倉百人一首 3

    第三首あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む     かきのもとのひとまろ  柿本人麻呂    (生没年不詳)三十六歌仙の一人。官位は低く任地の島根県で没したという。後世、歌聖と呼ばれた。部位恋出典拾遺集 主題長い夜をひとり寝るさびしさの嘆き 歌意垂れ下がった山鳥の尾羽のような長い長いこの秋の夜を、離ればなれで寝るという山鳥の夫婦のように、私もたった一人で寂しく寝ることになるのかなあ。「しだり」は「しだる」の連用形。長くたれさがっている尾。恋しい人とも離れて、たったひとりでさびしく寝ることであろうかな。キジは、雄は尾が長い。夜は雌雄谷をへだてて寝るという。『新古今』のころは、山鳥といえば、この習性が思いおこされた。万葉時代最大の歌人で、長歌・短歌ともにすぐれ、『万葉』に長歌に二十首。短...小倉百人一首3

  • 小倉百人一首 2

    第二首春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山持統天皇(645-702)天智天皇の皇女で、天武天皇の皇后。飛鳥浄御原令を施行、藤原京へ遷都した。部位四季(夏)出典新古今集 主題さわやかな夏のおとずれ、時の推移 歌意いつの間にか春が過ぎて夏が来たらしい。どうりで、夏になると白い衣を干すと言い伝えのある天の香具山の麓に、目にも鮮やかな真っ白な衣が干してあるのが見えるよ。衣ほすてふは、といふの約。天香具山は奈良県。天香具山の山麓に天岩戸神社があり、奈良の昔話では、古事記でおなじみの岩戸伝説にまつわる伝承があります。天香具山は、もとは天にあって、それが降りてきたという神話から、とくに神聖視されてきました。吉野をはじめ諸所に巡遊され、その旅を契機として、柿本人麻呂のすぐれた長歌が多く生まれ、万葉歌風の最盛期が...小倉百人一首2

  • 小倉百人一首 1

    『小倉百人一首』1先日、部屋の片隅から『小倉百人一首』を見つけました。私は名前を聞いたことがあるだけで、そのなかみはというと何も知らないのでした。で、つれづれなるままに『小倉百人一首』を、一首一首を紹介できたらなと・・・・。「百人一首(ひゃくにんいっしゅ)とは百人の和歌を一人につき一首ずつ選んで作られた秀歌撰(詞華集)。百人首(ひゃくにんしゅ)とも言われる。藤原定家が京都小倉山の山荘で鎌倉時代初期に揮毫した小倉山荘色紙和歌に基づくものが「歌がるた」として広く用いられ、後世に定着して小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)と呼ばれていると。」では、歌人たちの思いをのせた百人一首ですが、『百人一首』島津忠夫訳注よりの紹介です。第一首秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ    天智天皇  (62...小倉百人一首1

  • ふるさとにて

    令和六年・甲辰(きのえたつ)明けましておめでとうございます。みんな幸せな日々でありますように、本年もよろしくお願いいたします。ブログ仲間で毎日更新している人はすごいなと思います。ブログでは、自分が行ったことのない所の景色や情報に触れることが出来るのがいいですね。それも、ブログ作成者の目を通した情報であり、自分が行ったことはないのに身近に感じることが出来ます。また不思議ですが、続けて訪問していると、顔は見えないのにブログを書いた人の思いとか考えかたが伝わってきて、なんだかほっとします。面と会わなくても一つのリアルなのだと・・・・。それは、一つの詩を読んで、一枚の絵を見て感じる何かに通じるのでしょう。私は、もう人生はひと通り終わったかなと思うときもあります。でもブログ仲間の自分より一回りも上の人が、しっかりと...ふるさとにて

  • 『方丈記』と無常

    『方丈記』と無常今年もあとわずかおもむくままに『方丈記』について調べてみました。方丈記に一貫して流れているのは「無常観」といわれる思想です。実際に起こった大火事・地震・飢饉などをなまなましく描写し、人の命や人生・社会のはかなさ、不安定さ、うつろいやすさを説き、その苦悩を訴えています。その苦悩から逃れるために世間から離れるのが隠遁生活であり、彼らは隠者・世捨て人などと呼ばれていました。その、災害に対して無力な人と栖(すみか)の無常を目の当たりにし、俗世を離れて心の安らぎを追求した鴨長明ですが、隠遁生活を通じて心の安らぎを獲得したように見えたものの、最後には、方丈での生活に愛着を抱く自身を顧みて、まだまだと自らを突き放します。以下に紹介するのは、『方丈記』鴨長明・佐藤春夫訳よりの概略です。この辺に美しい立派な...『方丈記』と無常

  • 老子道徳経 54

    第五十四章修観(修道の観)善く建つる者は抜きえず。善く抱く者は脱きえず。子孫以て祭祀して轍(や)まず。之を身に修むれば、其の徳乃ち真なり。之を家に修むれば、其の徳乃ち余り有り。之を郷に修むれば、其の徳乃ち長ず。之を国に修むれば、其の徳乃ち豊かなり。之を天下に修むれば、其の徳乃ち普(あまね)し。故に、身を以て身を観、家を以て家を観、郷を以て郷を観、国を以て国を観、天下を以て天下を観る。吾何を以て天下の然ることを知るや。此を以てなり。善く建てたる徳は、道によって行われる徳であり、それは、長い間に自然の如くに行われてきたことである。従って、深く根を下ろした大木のように、容易に抜けないものとなっているのである。道によるところの徳は、天地自然は万物を平等に愛するものであるという原理に基づいて、総てのものを平等に敬愛...老子道徳経54

  • 老子道徳経 53

    第五十三章益証(道に益となる非道の証)我をして介然として知ること有らしめば、大道を行かん。唯り施すこと、是を畏れん。大道は甚だ夷(たい)らかなれども、而るを民は径を好む。朝は甚だ除まり、田は甚だ蕪(あ)れ、倉は甚だ虚し。文繍(ぶんしゅう)を服(き)、利剣を帯び、飲食に厭きて財貨余り有り。是を盗の夸りと謂う。道に非ざるかな。大道は、平らかなものであって、有るか、無いか、判らないものである。例えば、道が行なわれているときは、政治が行なわれているか、行われていないか判らないものである。朝廷が租税を重くし、また、農繁期も構わず民を利用して立派な建物を建てさせたり、種々の仕事に使役することがあると、農民は農耕に専念できないために田畑は荒れ、収穫は少ないために貯蔵する程の穀物は収穫できないので、倉へ入れる穀物は極めて...老子道徳経53

  • 老子道徳経 52

    第五十二章帰元(根元に復帰する)天下始(みち)有れば以て天下の母為り。既に其の母を知れば又以て其の子を知るべし。既に其の子を知り復た其の母を守れば、身を没して殆(あや)うからず。其の兌(め)を塞ぎ其の門(くち)を閉ざせば、身を終うるまで勤(くる)しまず。其の兌を開き其の事を済(ま)せば、身を終うるまで救われず。小を見るを明と曰う。柔を守れば日に強し。目、其の光を用いれば其の明に復帰して、身に殃(わざわ)いを遺すこと無し。是を習常と謂う。天下の始めに道があり、道から万物が生じたのであるから、道は、万物の母であり、万物は、道の子であるわけである。ところで、道を守る方法であるが、それは、耳、目、鼻、口等の、神経を使う所の五官は、使い過ぎないようにすることが肝要なのである。この事を固く守って行けば、神経が疲れると...老子道徳経52

  • 一冊の本 『歌集 滑走路』と私

    私は先日、ひょんなことから、『歌集滑走路』を手にしました。作者萩原慎一郎さんは、1984年生まれで2017年に自死とあり驚きました。その原因として、いじめを受けてきたことに起因すると・・・・。私は、リタイアして青春時代は遠い昔であるのですが、若者の自死には言葉もありません。私の小学校・中学校・高校のときは、いじめなんかなかったように思います。「いじめ」という言葉を耳にするようになったのはいつ頃からか、調べてみました。<学校でのいじめですが、日本で言う「いじめ」は特に1985年(昭和60年)ごろから陰湿化した校内暴力をさすことが多い。日本では1980年代ごろから教育現場で顕著になっていたが、1990年代になって深刻な社会問題としてとらえられるようになった。また、「いじめ」は何歳頃がピークなのか。実はあまり知...一冊の本『歌集滑走路』と私

  • 老子道徳経 51

    第五十一章養徳(徳を養う)道は之を生じ、徳は之を蓄う。物は之を形し、勢は之を成す。是を以て、万物は道を尊びて徳を貴ばずということ莫し。道の尊きは徳の貴きなり。夫れ、之に命ずること莫(な)くして、常に自ずから然り。故に、道は之を生じ、徳は之を畜(やしな)う。之を長じ、之を育す。之を成し、之を熟す。之を養い、之を覆う。生じて有(たも)たず、為して恃(たの)まず、長じて宰せず。是を玄徳と謂う。万物は、道によって生じたものであり、徳によって生育せしめられたものである。万物が成長を遂げるには、種々の物質が加わらなければならないし、また、四囲の情勢によって、種々の影響を受けるものである。風の吹くことも、雲の動くことも、河水の流れることも、日が照り、雨や、雪の降ることがあるのも、鳥や、虫の飛ぶことも、獣類の走ることも、...老子道徳経51

  • 老子道徳教 50

    第五十章貴生(生を貴ぶ)出ずれば生き、入れば死す。生の徒(ともがら)は十有三、死の徒は十有三。人の生きんとして動かば、皆死地の十有三に之(ゆ)く。夫れ何の故ぞや。其の生を生くるの厚きを以てなり。蓋し聞く、善く生を摂(やしな)う者は、陸を行くも兕虎(じこ)に遇わず軍に入るも甲兵を被(き)ず。兕も其の角を投(い)るる所無く、虎も其の爪を措(お)く所無く、兵も其の刃を容るる所無し。夫れ何の故ぞや。其の死地無きを以てなり。人間は、種々の私欲から死因を作ってるものであるが、死因の外へ出れば、生きていることができるが、死因の中へ入れば、死ぬものである。ややもすれば死因に近づいて行くものが十人の中に三人位の割合でいるのである。栄養があるからといって美味のものを食べ過ぎたり、元気をつけようと思って酒のようなものを飲み過ぎ...老子道徳教50

  • 『銀河鉄道の夜と私』について

    『銀河鉄道の夜と私』について私が宮沢賢治作『銀河鉄道の夜』に、自分なりの解釈で挿絵としてペン画を描いたのが1978年(昭和53年)24歳の時でした。これは非売品として百部ほど自費出版したのでした。その後、事情があり、その本の表紙など破棄して、改めて『スケッチ集銀河鉄道の夜と私』として、製本し直したのが、30歳の頃でしょうか。その本も、今は押入れに眠っているのですが。2020年(令和2年)でじたる書房より電子書籍にしてみました。そして、2022年にグーブログを始めて、その2月から、『スケッチ集銀河鉄道の夜と私』として、五回にわたって紹介しました。その時の紹介文として、(私が賢治作『銀河鉄道の夜』を自分なりに心象スケッチとしてペン画で描いたのは24歳の時でした。それから、40年は過ぎました。そう、改めて『銀河...『銀河鉄道の夜と私』について

  • 老子道徳教 49

    第四十九章任徳(聖徳に任ねる)聖人は常の心無し。百姓の心を以て心と為す。善なる者は吾亦之を善とす。善ならざる者は吾亦之を善とす。徳あって善とす。信ある者は吾亦之を信とす信ならざる者は吾亦之を信とす。徳あって信とす。故に聖人の天下に在るや怵怵(じゅつじゅつ)たり。天下を為むるに其の心を渾(こん)ず。百姓は皆其の耳目を注いる。聖人は皆之を孩(やしな)う。この章は、百姓が、どの苗にも差別をつけないで育てておる心と同じ心をもって、聖人は、民にのぞむものであることを説く。信なるものはもとより信頼するが、不信なる者は、生来記憶力が弱いために、或は、身体の発育がおくれて能力が足りないために、忘れたり、思うようにものごとができなくて、やむを得ず不信の者となる場合が多いのであるから、信ある者と同じように認めるのである。信な...老子道徳教49

  • 老子道徳教 48

    第四十八章亡知(知を亡くす)学を為せば日に益す。道を為せば日に損ず。之を損じて又之を損じ、以て無為に至る。無為にして為さざること無し。天下を取むるには常に無事を以てす。其の事有るに及んでは以て天下を取むるに足らず。この章は、道を修めている者は、目立ったことをなして、人に示したいという心がなくなるものであるが、そのようになれば、できないということは、ないようになるということを説く。第四十三章に、不言の教、無為の益は、天下之に及ぶこと希なりとあるように、道を行う者は、自らの手柄となるようなこと、自らの利益となるようなことは、なさないのであるから、自らを利することを先に考える世俗の人から見れば、道を行う者は、損をした上にも損をしているようである。このように、自らを利することをなさないようになれば、自我を離れた域...老子道徳教48

  • 賢治童話と私 北守将軍と三人兄弟の医者 4

    4、馬医リンブー先生ソン将軍が、お医者の弟子と、けしの畑をふみつけて向ふの方へ歩いて行くと、もうあつちからもこつちからも、ぶるるるふうといふやうな、馬の仲間の声がする。そして二人が正面の、巨きな棟にはひつて行くと、もう四方から馬どもが、二十疋もかけて来て、蹄をことこと鳴らしたり、頭をぶらぶらしたりして、将軍の馬に挨拶する。向ふでリンプー先生は、首のまがつた茶いろの馬に、白い薬を塗つている。さつきの弟子が進んで行つて、ちよつと何かをさゝやくと、馬医のリンプー先生は、わらつてこつちをふりむいた。巨きな鉄のむなあてを、がつしりはめていることは、ちやうどやつぱり鎧のやうだ。馬にけられぬためらしい。将軍はすぐその前へ、じぶんの馬を乗りつけた。「あなたがリンプー先生か。わしは将軍ソンバーユーぢや。何分ひとつたのみたい...賢治童話と私北守将軍と三人兄弟の医者4

  • 賢治童話と私 北守将軍と三人兄弟の医者 3

    3、リンパー先生さてソンバーユー将軍は、いまやリンパー先生の、大玄関を乗り切って、どしどし廊下へ入つて行く。さすがはリンパー病院だ、どの天井も室の扉も、高さが二丈ぐらいある。「医者はどこかね。診てもらいたい。」ソン将軍は号令した。「あなたは一体何ですか。馬のまんまで入るとは、あんまり乱暴すぎませう。」萌黄の長い服を着て、頭をそった一人の弟子が、馬のくつわをつかまへた。「おまへが医者のリンパーか、早くわが輩の病気を診ろ。」「いゝえ、リンパー先生は、向ふの室に居られます。けれどもご用がおありなら、馬から下りていたゞきたい。」「いゝや、そいつができんのぢや。馬からすぐに下りれたら、今ごろはもう王様の、前へ行つてた筈なんぢや。」「ははあ、馬から降りられない。そいつは脚の硬直だ。そんならいゝです。おいでなさい。」弟...賢治童話と私北守将軍と三人兄弟の医者3

  • 賢治童話と私 19 北守将軍と三人兄弟の医者 1

    『北守将軍と三人兄弟の医者』1、三人兄弟の医者むかしラユーといふ首都に、兄弟三人の医者がいた。いちばん上のリンパーは、普通の人の医者だった。その弟のリンプーは、馬や羊の医者だった。いちばん末のリンポーは、草だの木だのの医者だった。そして兄弟三人は、町のいちばん南にあたる、黄いろな崖のとっぱなへ、青い瓦の病院を、三つならべて建てていて、てんでに白や朱の旗を、風にぱたぱた云わせていた。坂のふもとで見ていると、漆にかぶれた坊さんや、少しびっこをひく馬や、しおれかかった牡丹の鉢を、車につけて引く園丁や、いんこを入れた鳥かごや、次から次とのぼって行つて、さて坂上に行き着くと、病気の人は、左のリンパー先生へ、馬や羊や鳥類は、中のリンプー先生へ、草木をもった人たちは、右のリンポー先生へ、三つにわかれてはいるのだった。さ...賢治童話と私19北守将軍と三人兄弟の医者1

  • 老子道徳教 47

    第四十七章鑑遠(行くことなく遠くを鑑知する)戸を出でずして以て天下を知り、牖(まど)を闚(うかが)わずして以て天道を見る。其の出ずること弥いよ遠ければ、其の知ること弥いよ少な是を以て聖人は、行かずして知り、見ずして名づけ、為さずして成す。天下の形勢も、世の中の事情も、平等において聞くことを怠らぬようにしておれば、わざわざ家から外へ出ていかなくとも、大抵のことは分るのである。天下の形勢のように、広い範囲に亘ることは、調査のために遠くまで出て行けば、その地方の、局部的のことは知ることができても、元の位置から遠くへ離れては、精力を浪費し、頭脳の働きを低下させ、大局の事は却って分り難くなるのである。この章の文章は、普通の人には、できそうに思われないようなことばかりが書いてあるので、聖人は、不思議な力をもっているも...老子道徳教47

  • ヒエロニムス・ボス 快楽の園 2

    2左パネルの『エデンの園』より。エヴァの誕生の場面ですが、中央の神は2本指を立てて祝福のサインのようです。その美しいエデンの園ですが、足元の大きな穴には、ちょっと気味が悪い生き物たちの姿があります。上の場面では、天地創造の後の、一角獣やキリンや象などの生き物は楽しそうに綺麗に描かれています。最後は、『地獄』の場面です。顔をこちらに向けている人の頭の白い台の上には、バグパイプがあり、その下では、リュートに裸の男が縛られ、もう一人はハープに串刺しになっています。淫欲の罪を犯し肉欲に支配され、人間が堕落した『音楽地獄』の様子が描かれているということでしょうか。以上、ヒエロニムス・ボス『快楽の園』の簡単な紹介でしたが、『エデンの園・天国』、『地上の楽園・現世』、『地獄』の三つのパネルに描かれた人間の姿は、生と性と...ヒエロニムス・ボス快楽の園2

  • ヒエロニムス・ボス 快楽の園 1

    『快楽の園』1先日、本屋で一冊の本『謎解きヒエロニムス・ボス』小池寿子著に出会いました。そのボスの不思議な絵は以前、白黒の挿絵として見たことがあるだけで、その挿絵からは、何が描かれているのかよくわかりませんでした。それが今回、カラー印刷で掲載されていましたので、ボスの世界について何か書いてみようと・・・・。ルネッサンス初期のネーデルランドの画家(1450年頃-1516年)ヒエロニムス・ボスですが、驚いたのは、その画風です。たとえば、ボスの代表作『快楽の園』ですが、その奇想天外な表現には圧倒されます。それが、今から500年も前の作品であることに、尚更の驚きでした。ともかく、その画は、500年前に描かれたというより500年後の未来からやって来たといってもおかしくないなと思った私です。『快楽の園』ですが、『エデ...ヒエロニムス・ボス快楽の園1

  • 老子道徳教 46

    第四十六章倹慾(慾を倹(つま)しくする)天下道あれば、走馬を却けて以て糞(おさ)めしむ。天下道無ければ、戎馬郊(じゅうばこう)に生まる。罪は可欲より大なるは莫(な)し。禍は足ることを知らざるより大なるは莫し。咎は得んことを欲するより大なるは莫し。故に、足ることを知るの足るは常に足る。天下に道が行なわれていて、各の国が、平和に治まっているときは、早く走ることのできる良馬も、走らねばならぬことがないから、平和時代には必要のない、駆けまわるということはさせないで、農耕に従わせるのである。戦乱に勝つ方も、敗ける方も大なる損害を蒙ることは前に述べた通りであるが、仮に隣国の領土を占領したとしても、その民心を得ることも、旧領土と新領土を公平に修めるということも、難しいことである上に、戦争のために人心はすさんで平穏に治め...老子道徳教46

  • 閑話 8 ホームページとパソコン

    私が初めてパソコンを手にしたのは、デスクトップ型パソコンVALUESTARでした。2000年WindowsMeと呼ばれたものです。その次に手にしたのは、WindowsXPでしたが、同じく、デスクトップ型でした。そして、今使用しているのが、ノート型パソコンの2012年Windows7です。WindowsMeでは、ジージーという電話回線でネットをつないでいました。WindowsXPのときは、ADSLで、Windows7になってからは光回線です。そして、Windows7のサポート終了日は、2020年1月14日ということでしたので、Windows7をWindows10にアップデートして今現在使用しています。WindowsXPですが、プラグをつなぎっぱなしでいたため、雷が電話回線に落ちたときに使えなくなってしまい、...閑話8ホームページとパソコン

  • 老子道徳教 45

    第四十五章洪徳(洪(おお)いなる徳)大成は缺けたるが若し。其の用いること弊(つい)えず。大盈(たいえい)は沖(むな)しきが若し。其の用いること窮まらず。大直は屈(ま)げたるが若し。大巧(たいこう)は拙きが若し。たいこうつたなごと大弁は訥なるが若し。躁勝(そうきわ)まって寒く、静勝まって熱す。清静(せいせい)は天下の正為(せいた)り。この章は、大成、大盈、大巧、大弁等について論じ、天下のことは、帰するところは、清静を以て規準とすべきであることを説く。自然の道を体得し、人格の大成した人は、却って、未だ不十分な、欠けているところがあるように見えるのである。それは、自分では大成ということを考えず、常に自分の足らざるところを改めようと、謙虚な心で努力をしているからである。 大盈は徳が盈ちていることをいうのである。徳...老子道徳教45

  • 一枚の絵画と詩 12『『フォンテーヌブローの森のはずれ,日没』 テオドール・ルソー

    『一枚の絵画と詩』12『フォンテーヌブローの森のはずれ,日没』1848-49年テオドール・ルソー(1812~1867)パリの南郊、フォンテーヌブローの森のはずれのバルビゾン村に住み着いた画家の一派をバルビゾン派といい、テオドール・ルソーは同派の代表的な画家です。歴史上の物語の背景などではない、フランスの現実の風景そのものの純粋な風景画を確立しようとしたルソーです。本作はルソーが移住したバルビゾン村の近くにあるフォンテーヌブローの森の様子を描いた作品で、夕暮れの穏やかなひとときが見事に描写されています。私は実際にフォンテーヌブローの森に行ったことはないですが、何気ない私自身のふるさとのうすくれないの夕暮れの景色に、心がほっとするときがあります。それは、カタログの解説にあった次の言葉に通じるからでしょうか・・...一枚の絵画と詩12『『フォンテーヌブローの森のはずれ,日没』テオドール・ルソー

  • 一枚の絵画と詩11『いくつもの絵のある一枚の絵』パウル・クレー

    『一枚の絵画と詩』11『いくつもの絵のある一枚の絵』1937年パウル・クレー(1879~1940)不思議な絵です。古代の象形文字というかエジプトの壁画を思い浮かべました。世界の四大文明(メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明)のひとつであるエジプト文明。エジプトではピラミッドをはじめ、多くの遺跡において壁画を見ることができ、その壁画には当時のエジプト人の生活習慣や宗教概念などが記されていると。東洋人である私は、乾いた異国の景色を思い、また、別の遊星からの通信を思ったりしますが・・・・。クレーの言葉として、「自分の絵の目標として、建築的絵画と詩的絵画とを調和させること」「芸術は眼に見えるものをあらためて提示するのではない。見えないものを見えるようにするのだ」と。この一枚の絵に、私は、何を見、...一枚の絵画と詩11『いくつもの絵のある一枚の絵』パウル・クレー

  • 一枚の絵画と詩 10 『家具―食物の離乳』サルバドール・ダリ

    『家具―食物の離乳』10『家具―食物の離乳』1934年サルバドール・ダリ(1904~1989)ダリと言えば、シュルレアリスムという言葉がついてきます。シュルレアリスムとは、無意識の表面化、無意識と理性との一致を目指した「超現実主義」と訳されます。また、ダリは自分の制作方法を「偏執狂的批判的方法(ParanoiacCritic)」と称し、写実的描法を用いながら、多重イメージなどを駆使して夢のような風景画を描きました。そして、ダリは、バロックを代表する画家ヨハネス・フェルメールを高く評価していたと・・・・。この『家具―食物の離乳』ですが、解説より。地に根のはえたようなたくましい女の身体をくりぬき、それが崩れてしまいそうなのを、ダリ好みの松葉杖で支えるという面白い仕掛け。とありますが、ダリは、いったい何を言おう...一枚の絵画と詩10『家具―食物の離乳』サルバドール・ダリ

  • 老子道徳教 44

    第四十四章立戒(長久となるための立戒)名と身と孰(いず)れか親しき。身と貨と孰れか多なる。得ると亡うと孰れか病(やま)しき。甚だ愛すれば必ず大いに費やす。多く蔵(おさ)むれば必ず厚く亡(うしな)う。足ることを知れば辱しめられず。止まることを知れば殆(あや)うからず。以て長久なるべし。人は、皆強い競争心をもっておるために、人に負けたり、或は、人より劣っていたりすることには、心の平静を保っていることが難しいのである。そのために無理な努力をして、健康を害うようなことがあっても、直ぐに止めるということができず、大病になって、身動きも自由にならないようになると、はじめて、自分の身命が、何よりも大切なことが解るのである。いかなる名誉も、それは、他人が思ってくれることであって、他人の心に起こる現象に過ぎないのである。し...老子道徳教44

  • モディリアーニとジャンヌと・・・ 2

    2『すわる裸婦』1917年解説より。ルーマニア出身の彫刻家ブランクーショに出会ったモディリアーニは、その手ほどきで、石のじか彫りに取り組み、シンプルな美しさのある彫刻作品をかなり作った。絵においても、この経験はいかされており、彼の人体の形のつかみ方は簡素で、強い。『すわる裸婦』も、背中までよく描けている、といっていいような存在感を備えている。モディリアーニが、彫刻に関わったのは、1909年から1915年頃で、資金不足と健康の悪化による体力不足などの理由により、途中で断念せざるを得なかったと。そう、モディリアーニのプリミティブな彫刻ですが、その細長い顔のフォルムは、まさしく、モディリアーニのその後の絵画作品の特徴ともなっています。この彫刻の経験がなければ、フォルムの単純化としてのモディリアーニの絵画は成り立...モディリアーニとジャンヌと・・・2

  • モディリアーニとジャンヌと・・・ 1

    『モディリアーニとジャンヌと・・・』1『ロマの母と子』1919年アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ(1884年7月12日-1920年1月24日)は、イタリアの画家、彫刻家。モディリアーニ絵画の代表作は、大部分が1916年から1919年の間に集中して制作されている。ほとんどは油彩の肖像と裸婦であり、顔と首が異様に長いプロポーションで目には瞳を描き込まないことが多いなど、特異な表現をとっているが、これは自身の彫刻の影響が指摘されている。肖像画についてはモデルの心理や画家との関係を表現するが、一方、裸体画については、女性の造形美への関心が表れているのが特徴である。なお、初期には、ピカソの『青の時代』やポール・セザンヌの影響を受けた絵を制作していると。私はモディリアーニの絵画を実際に見たことはなく、印刷物で見る...モディリアーニとジャンヌと・・・1

  • 老子道徳教 43

    四十三章遍用(遍く用いることができるもの)天下の至柔(しじゅう)は天下の至堅(しけん)に馳騁(ちてい)す。有ること無きは間無きに入る。吾、是を以て無為の益有ることを知る。不言の教え、無為の益は天下此に及ぶこと希なり。この章は、無為の益と、不言の教えの妙用を、水をたとえに引き、柔軟、謙虚の態度が、偉大なる働きをなし遂げることに、如何に役立つものであるかを説く。「至柔」とは、水である。「至堅」とは、金石である。水はよく堅を貫き、剛に入り、あらゆるところに通じる。「有ること無き」とは、道をいう。道には形質がない。ゆえに、よく無間に出入して、神を群生に通す。以上のことから、人の考えを、相手の人に教えようとするときは、相手の人の考えと、衝突することのないように工夫すべきである。そのためには、教えるべきことは細かく分...老子道徳教43

  • 牧水と懐古園

    秋晴れの日、ふらりと隣町の小諸城址懐古園に行ってきました。その、二の丸跡に若山牧水の短歌「かたはらに秋くさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな」が彫られています。私は高校の教科書でその歌を見たような・・・・。人生が何かなんてわからない自分には、ほろびしものはなつかしきかなの句にはピンときませんでしたが、今回、改めて読むと、少しはわかったのかなと・・・・。「廃墟となった小諸城址に座っているとすぐそばに咲く秋草の花が語ることには滅んだものは懐かしいものだね」という意味のようで、この歳になってようやく過去が懐かしく思われる自分を見るのですでも、この短歌は、牧水が26歳で出版した第四歌集『路上』が出典ですと、驚きました。牧水は25歳の折に大失恋をしていて、それが元で体を壊し信州で静養していました。『路上』に...牧水と懐古園

  • 賢治童話と私 土神と狐 5

    5そのうちとうとう秋になりました。樺の木はまだまっ青でしたがその辺のいのころぐさはもうすっかり黄金いろの穂を出して風に光りところどころすずらんの実も赤く熟しました。あるすきとおるように黄金の秋の日土神は大へん上機嫌でした。今年の夏からのいろいろなつらい思いが何だかぼうっとみんな立派なもやのようなものに変って頭の上に環になってかかったように思いました。そしてもうあの不思議に意地の悪い性質もどこかへ行ってしまって樺の木なども狐と話したいなら話すがいい、両方ともうれしくてはなすのならほんとうにいいことなんだ、今日はそのことを樺の木に云ってやろうと思いながら土神は心も軽く樺の木の方へ歩いて行きました。樺の木は遠くからそれを見ていました。そしてやっぱり心配そうにぶるぶるふるえて待ちました。土神は進んで行って気軽に挨...賢治童話と私土神と狐5

  • 賢治童話と私 土神と狐 3

    3土神の棲んでいる所は小さな競馬場ぐらいある、冷たい湿地で苔やからくさやみじかい蘆などが生えていましたが又所々にはあざみやせいの低いひどくねじれた楊などもありました。水がじめじめしてその表面にはあちこち赤い鉄の渋が湧きあがり見るからどろどろで気味も悪いのでした。そのまん中の小さな島のようになった所に丸太でこしらえた高さ一間ばかりの土神の祠があったのです。土神はその島に帰って来て祠の横に長々と寝そべりました。そして黒い瘠せた脚をがりがり掻きました。土神は一羽の鳥が自分の頭の上をまっすぐに翔けて行くのを見ました。すぐ土神は起き直って「しっ」と叫びました。鳥はびっくりしてよろよろっと落ちそうになりそれからまるではねも何もしびれたようにだんだん低く落ちながら向うへ遁げて行きました。土神は少し笑って起きあがりました...賢治童話と私土神と狐3

  • 賢治童話と私 18 土神と狐 1

    『土神と狐』1一本木の野原の、北のはずれに、少し小高く盛りあがった所がありました。いのころぐさがいっぱいに生え、そのまん中には一本の奇麗な女の樺の木がありました。それはそんなに大きくはありませんでしたが幹はてかてか黒く光り、枝は美しく伸びて、五月には白き雲をつけ、秋は黄金や紅やいろいろの葉を降らせました。ですから渡り鳥のかっこうや百舌も、又小さなみそさざいや目白もみんなこの木に停まりました。ただもしも若い鷹などが来ているときは小さな鳥は遠くからそれを見付けて決して近くへ寄りませんでした。この木に二人の友達がありました。一人は丁度、五百歩ばかり離れたぐちゃぐちゃの谷地の中に住んでいる土神で一人はいつも野原の南の方からやって来る茶いろの狐だったのです。樺の木はどちらかと云えば狐の方がすきでした。なぜなら土神の...賢治童話と私18土神と狐1

  • 老子道徳教 42

    第四十二章道化(道徳による徳化)道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負いて陽を抱き、沖気は以て和を為す。人の悪(にく)む所は唯孤寡、不轂(ふこく)なり。而るを王公は以て称と為す。故に物は、或いは之を損じて而して益す。或いは之を益して而して損ず。人の教うる所、我も亦人に教う。強梁(きょうりょう)の者は其の死を得ずと。吾将た以て教えを為す父(はじめ)とす。道から陰と陽を生じ、陰と陽との他に、中性のもの、すなわち、冲気を生じたことを指す。とあるは、万物には、陰性と陽性の部分が備わっているが、その他に、中性の部分が備わっているので、全体の調和がとられていることをいうのである。孤寡は、孤児と、老いて夫のないやもめのことであり、不轂(ふこく)は、不善のこと、徳のないことであって、どちら...老子道徳教42

  • 一枚の絵画と詩 9 『花瓶の花』 オディロン・ルドン

    『一枚の絵画と詩』9『花瓶の花』1912年頃オディロン・ルドン(1840~1916)解説に、オディロン・ルドンは印象派の画家たちと同世代であるが、ルドンはもっぱら幻想の世界を描き続けた。象徴派の文学者らと交友をもち、象徴主義に分類されることもあるが、19世紀後半から20世紀初頭にかけてという、西洋絵画の歴史のもっとも大きな転換点にあって、独自の道を歩んだ孤高の画家というのがふさわしい。自然は彼にとってはつねに出発点にすぎず、むしろ尽きることのない不満と疑惑と不安の源泉であった。彼は自然を近くから眺め、探求し、孤立させ、言い難いほどの魔術的な謎めいた雰囲気のなかに捉えようとする。目に見える世界と並んで、そこにはつねに目に見えない世界が存在しており、この点では、先輩のロマン派の画家たちと共通するものをもってい...一枚の絵画と詩9『花瓶の花』オディロン・ルドン

  • 一枚の絵画と詩 8 『舞台の踊り子』 エドガー・ドガ

    『一枚の絵画と詩』8『舞台の踊り子』1878年エドガー・ドガ(1834~1917)このドガの『舞台の踊り子』は、なんて美しいのだろう。右足で体全体を支え両手を広げ上向いた顔から、踊り子は夢の世界にいるようです・・・・。この一枚の絵画『舞台の踊り子』に何の説明もいらないでしょう。ただ、解説として。ドガはすぐれたデッサンの名手であり、舞台の踊り子や、疾走する馬など、激しい運動を見せる対象をきわめて明確に捉え、画面に定着させ、油絵においても、形態はつねに明確であり、しばし明暗のコントラストによって、ことさらくっきりとその存在を主張するように描かれたと。また、ドガの描く女たちの肉体には、耳をすませば息づかいが聞こえてくるのではないかと思えるほどに、生命力のほとばしりが感じられる。ドガの絵を見ていると、表面的な美醜...一枚の絵画と詩8『舞台の踊り子』エドガー・ドガ

  • 一枚の絵画と詩 7 『夕映えの中の羊飼いの女と羊』 ミレー

    『一枚の絵画と詩』7『夕映えの中の羊飼いの女と羊』1868-70年ジャン=フランソワ・ミレー(1814~1875)解説に、ミレーは、風景画を好んだ他の画家よりも、働く農民の生活への関心が強く、農民画を多く制作している。農民の生活に向き合って真摯に観察したところにミレーの独自性がある。また、晩年の作品には、印象派的性格を見るなどとあり・・・・、私はミレーの描く光の表現に引き込まれました。ミレーの時代は日本では、江戸時代の終わりから明治時代のはじめ頃にあたるでしょうか。私はミレーの描いた『落穂拾い』や『馬鈴薯植え』などを見ると、それら人物に、生きるということの敬虔な姿を思います。そして、背景の風景からも、ありきたりという言葉でなく、時に敬虔なおもむきを受け取るのです。そして、この一枚の絵画、『夕映えの中の羊飼...一枚の絵画と詩7『夕映えの中の羊飼いの女と羊』ミレー

  • 老子道徳教 41

    第四十一章同異(道の異同)上士は道を聞いて、勤めて之を行なう。中士は道を聞いて、存するが若く亡(うしな)うが若(ごと)し。下士は道を聞いて、大いに之を笑う。笑われずんば以て道と為るに足らず。言を建けて之を有す。道に明るきは昧きが若し。道に進むは退くが若し。道に夷(ひと)しきは類するが若し。上徳は谷の若し。大白は辱なるが若し。広徳は足らざるが若し。建徳は揄(ひ)くが若し。質直は渝(あ)せたるが若し。大方は隅無し。大器は晩く成る。大音は声希(すくな)し。大象は形無し。道は隠れて名無し。夫れ唯道は善く貸(あた)えて且つ成す。上士というのは、道を聞いて、忠実に道を行う人である。忠実に道を行っているうちには、無限の妙味のあることが次第に会得できるようになり、道から離れないようになるのである。中士というのは、道を聞い...老子道徳教41

  • 久しぶりに

    久しぶりに、娘と子供たちが帰ってきました。秋晴れの日、近くの昆虫体験学習館に行って来ました。女の子ではありますが、小さな虫たちに興味を持ちカブトムシの背に触れたりしました。家に帰ってきてからも、小さな庭にくるトンボやバッタなどを追いかけていました。自分は、二・三歳の頃の記憶はありませんが、子供時代は今より自然に囲まれていて、自然とのふれあいは楽しい想い出です。三歳位になると、いろいろと主張されますが、まだ、言葉もうまく話せない下の子は無邪気です。自分の娘の小さな頃を想い返したりもしますが、人生って、繰り返しなんだなと・・・・。元気をもらった、秋晴れの日でした・・・・。久しぶりに

  • トアール星と地球 10 ぼくと宗教と・・・ 3

    32月11日は「建国記念の日」です。この日は「紀元節」とも呼ばれ、初代神武天皇が橿原の宮にて御即位された日本のはじまりの日です。日本は紀元前660年に誕生したのです。日本史年表として、古代(縄文~院政期まで)、中世(院政期~戦国時代まで)、近世(戦国~幕末まで)、近代(明治~戦前まで)、現代(戦後~現在まで)です。そして、ぼく自身は昭和に生まれ、しらけ世代と呼ばれています。しらけ世代は、1950年〜1964年生まれで2023年現在59歳〜72歳の定年前後である世代です。団塊世代に次ぐ世代であることから、ポスト団塊世代とも呼ばれています。しらけ世代が過ごした時代は、団塊世代で活発だった学生運動も沈静化を迎えた時期でした。しらけ世代は「しらける」という動詞が由来となっており、政治について無関心で、しらけた態度...トアール星と地球10ぼくと宗教と・・・3

  • トアール星と地球 10 ぼくと宗教と・・・ 2

    2○○先生と出会った、同じくその頃、韓国の超能力者○○先生の書かれた本との出会いがありました。その中からの紹介です。大体において筆者が従来の心霊科学者と違うのは、人間の魂を一種の四次元的生命体だと見ている点である。三次元生命体であるわれわれ肉体人間と魂が根本的に違うところは肉体はいつかは消滅するはかない生命に違いないが、魂である霊魂は時間をのり越えて永遠を生きる生命体であるという点であるが、それよりも、魂も生命体である以上は、分裂増殖してその個体をふやす方法が肉体人間とは全然違うということである。今迄、宗教は人間の魂をすくうのだけを目的として存在した傾向があるが、人間とは魂だけの存在ではないのであり、肉体をもった存在であり、日々その肉体の影響を受けて生きている存在なのである。だから、肉体の本質と魂の本質を...トアール星と地球10ぼくと宗教と・・・2

  • トアール星と地球 10 ぼくと宗教と・・・ 1

    地球にて。『ぼくと宗教と・・・』はじめにぼくは宗教ということを本当に考えたことはなかったのです・・・・。ぼくの家には神棚があり、神棚には、皇室の御先祖である天照大御神と、氏神様、崇敬する神社のお神札が祀られています。それとは別に、仏壇があり亡き両親の位牌が祀られています。で、今回、ぼくは、いろいろと考えてみました。1先ずは、ぼくの家の宗派は、曹洞宗です。仏教の生みの親、お釈迦様の第二十八代目の弟子、達磨大師が六世紀にインドから中国に渡来して、禅宗を開きました。禅はいつしか中国中に広まり、その禅宗のなかの一つが曹洞宗と呼ばれるようになりました。日本へは、鎌倉時代初めに栄西禅師が臨済宗を、道元禅師が曹洞宗を伝え、江戸時代には隠元禅師が黄檗宗を伝えたとあります。菩提樹の下の瞑想の末に悟りを開いたお釈迦様とありま...トアール星と地球10ぼくと宗教と・・・1

  • 老子道徳教 40

    第四十章去用(去が用(はたら)けば来がある)反は道の動なり。弱は道の用なり。天下の万物は有より生ず。有は無より生ず。この章は、反は動の本であり、弱は強の本であり、無は有の本であるという、道の根本原理について説く。人は、行くということについてはよく考えているが、かえるということについてはよく考えていないことが多いのである。例えば、山に登ったり、遠方へ行ったりするような場合は、頂上に着き、或は、先方に到着すれば、それで目的を達したように思うことが多いのであるが、そこで、登山のことが終ったわけではない。必ず下山して帰って来るまでの体力や、食料や、時間を用意してかからなければならぬのである。人は、動と、強と、物を重視して、これだけあればことが足りると思いがちであるが、これらはその反面であって、他の反面であるところ...老子道徳教40

  • 一枚の絵画と詩 6 『トレドの風景』 エル・グレコ

    『一枚の絵画と詩』6『トレドの風景』1597-1599年エル・グレコ(1541~1614)ジョルジョーネの『嵐・テンペスタ』が1508年頃として、エル・グレコの『トレドの風景』は、1597~1599年頃制作とのこと。エル・グレコはジョルジョーネの次の世代ですが、エル・グレコの『トレドの風景』とジョルジョーネの『嵐・テンペスタ』は、どこか通じるところがあると思うのです。それは、『トレドの風景』の雲海のかたまりが嵐を呼んでいるのと、画面中央の橋と川の流れの構図が似ているところから来ているのかも・・・・。また、二人の画風は違っていても、私は二人の画家に共通する何かを感じるのかもしれません。そんな意味でも、この一枚の絵画、『トレドの風景』も、また、詩的な一枚の絵画なのだと思うのです・・・・。・尚、エル・グレコにつ...一枚の絵画と詩6『トレドの風景』エル・グレコ

  • 一枚の絵画と詩 5 『嵐・テンペスタ』 ジョルジョーネ

    『一枚の絵画と詩』5『嵐・テンペスタ』1508年頃ジョルジョーネ(1477~1510)解説に、色彩豊かで詩的な風景描写、抒情的で人物と風景が調和した作品のジョルジョーネ。人物の周囲に広がる風景を、風景画といえるほどのレベルで丁寧に描きあげ、『嵐・テンペスタ』は最初の風景画ともいわれていると。また、ジョルジョーネの描く絵画からは、微かに覆い流れている一種憂愁の気配が感じられ、言葉にならない『一枚の絵画と詩』として、ジョルジョーネの描く絵画は、どれもが詩的であると思う私です・・・・。画面左下に若者を配し、右側に乳飲み子と母親の裸婦、中央には小川が流れ、そして空を走る稲妻・・・・。言葉にすれば、それだけのことですが、言葉にならない「詩想の画家・ジョルジョーネ」です。一枚の絵画と詩一枚の絵画と詩5『嵐・テンペスタ』ジョルジョーネ

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、ふーさんをフォローしませんか?

ハンドル名
ふーさん
ブログタイトル
不思議活性
フォロー
不思議活性

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用