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石ころ https://blog.goo.ne.jp/bachan-no-1

日々の聖書通読から、聖霊のお導きによって気づかせられたことや、 新しく教えられたことなどを書いて居ます。 それは今日を生きるための知恵となり、失敗からの守りとなります。 また、不意な出来事に対して、予め備えてくださる言葉でした。

ムベ
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奈良県
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京都府
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2016/04/03

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  • モーセの信仰

     神は突然モーセに現れて、イスラエルをエジプトから救い出せと命じられた。 「今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」(出エジプト3:10) モーセはこの言葉におじまどっている。過去はともかくも今はエジプトにも、イスラエルにも知られぬ一介の羊飼いであると思っていたからである。しかし、神は彼の命を守って王女に拾わせ、宮殿を恐れない備えをしておられたのであり、神の計画はイスラエルのリーダーとすることである。それはモーセの努力や力に拠って成すことではなく、すべて神の備えに拠る神の計画である。 キリスト者が自分を取るに足りない者と思う時も、神の計画はそれぞれに必要な賜物を備えて、命をたまわったときから神のご計画にある存在だ。 それは人に尋ねて知ること...モーセの信仰

  • 日常の罪がイエスを売ることに至る

     イエスを売るという最悪、再重要な役割を果たしたユダはただの盗人であり、彼は日頃の行いの延長線上でこのことをしたのであり、彼がイエスにいたのも何時でも盗むことが出来る財布を任せられていたからであった。 此処でイエスがユダに財布を預けたのは、彼が重要な役割を負うことになる布石であるとしても、ユダにはイエスを信じて心を入れ替えるチャンスは何時でもあった。ユダは何時もみことばを聞き、近しく神の御わざを見ていたのである。それはすべて彼が生き方を変えるチャンスであった。しかし、彼の興味も関心も金にしか無かったのである。イエスの御わざを見ていても何も感じなかったが、もし、イエスが癒しの度に金を取っていたら、彼はイエスを尊敬していただろう。 マリアの高価な香油がイエスに注がれた時、彼は取り乱すほどの怒りに襲われた。「な...日常の罪がイエスを売ることに至る

  • 預言(使徒21章)

     アガボという名の預言者がユダヤから下って来た。 彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って言った。「聖霊がこう言われます。『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に渡すことになる。』」(10~11) 彼が預言した言葉は事実である。彼はパウロに事実を告げる働きをしたことで、パウロが将来を知った上でみこころに歩んだ信仰に拠って、今もキリスト者のモデルなのである。 これを聞いて、私たちも土地の人たちもパウロに、エルサレムには上って行かないようにと懇願した。(12) 人は預言によって命を守ることを考えるが、主は進んで行く道を照らすために語られる。その預言によって自分で将来を選択することは出来る。人々が勧めたことは、誰もが死ぬべき命を少しの間長らえるための...預言(使徒21章)

  • 悔い改め(ヨハネ6章)

     イエスに繰り返し足を洗って頂くことが正しいことなのであろうか。それは勿体なくもイエスを何時までも奴隷の働きに留めることになるのではないか。未だ肉を着ている者であっても、イエスに一度足を洗って頂いた者はもうきよいのである。もう、全身きよいのである。 再び罪の泥水を選んで歩くことはないように、汚れを見分ける霊の目が見えるようにしてくださっている。十字架のキリストによる完全な罪のあがないに安息するなら、罪に執着する肉からは解かれて、心の底に沈殿する罪の暗闇を掻き回し、罪の欠片を探す習慣から解かれて、救いの喜びに住むことが出来るのだ。 繰り返し罪を侵すのは魂が罪に縛れてのことであり、イエスに罪をあがなわれ、聖霊の守りに在る者は、いつもキリストのうちに在ってきよさに浸され、罪から解放された神の子の喜びに満たされて...悔い改め(ヨハネ6章)

  • 神に語る祝福のストーリィ(マタイ19章)

     すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」(16) この一見純粋と見える質問は、罪や弱さに悩む者には決して口に出来な言葉である。良いことをしている者だけが、なをその行いに付け加えるものがあるのかと問い、イエスからいのちの約束を聴くことが目的なのである。 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」(17) イエスは彼の心を知っておられ、「なぜ尋ねるのか」と言われた。自分で行い戒めを守れば良いのである。彼にはイエスは必要ないからである。 彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはな...神に語る祝福のストーリィ(マタイ19章)

  • 黙って居られなくなる

    キリスト者はイエスの十字架の血潮によって罪を洗いきよめられ、あがないのゆえに義と認められて神に受け入れられた者である。彼らは世から取り出されて、イエスの死とよみがえりを霊に於いて共にし、まったく新しく生み出された者である。 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3) 救いに与るまでとは全く違う価値観にを持つようになり、日々みことばに根ざして生きる者である。世では自分の好みのままに人生を選択し、あるいは、どうすることも出来ない弱さの中で、世の流れに身を任せて生きて来た者が、聖霊の解き明かしによってたまわった永遠いのちを知り、救いの喜びにあふれて生きる者とされる。 心の底から湧き上がる喜びが状況が良くても悪くても変わ...黙って居られなくなる

  • 義なる神の裁きから愛なる神の赦しへ

       妻が身を汚していて、夫にねたみの心が起こり、妻に対して憤る場合、あるいは妻が身を汚していないのに、夫にねたみの心が起こり、妻に対して憤る場合、(民5:14) 民数記には様々な場合、祭司が主がモーセに命じられた事に従って民を裁き、神の民から汚れを取り除くのである。上記の場合は実際に罪を侵した場合と、姦淫を疑われただけの場合が並べて書かれてある。どちらにしても、女が祭司の言葉に従うことによって身の証しがなるようである。無実であれば免れて子を宿すとある。子は神の祝福だからであろう。 妻が罪を犯していないことを証し出来るのは神だけである。裁判の無実は、罪の証拠が得られないので罰することが出来ないだけであって、罪が無いと証されたことではない。しかし、神の基準は心の中で欲望を描いたけで罪なのである。それゆえ義人...義なる神の裁きから愛なる神の赦しへ

  • 成長のための癒し

     日曜日は地域の草刈りだった。私も公園の草を見ながら「もうそろそろだな・・」と思うまでにこの地に馴染んでいた。先日から左足首に痛みがあって自由が利かなかったので、昨夜、主に「しゃがんで草引きが出来るようにしてください。」と願った。 朝食の準備をしていて、ふと痛みが無いことに気付いた。癒された時はどうかすると癒しに気づかないことがある。逆に痛みが残っている時は直ぐに気付くのだ。我ながら不信仰だと思う。主は肉に過ぎない者のこどなど先刻ご存じであり、信仰によって癒されるのではなく、癒しは必要を満たすための、主の憐みに拠ることであるとわかる。 不自由がある度に何度でも祈る。重い病気の癒しも、老いによる日々の衰えも、数えきれず癒されて今生きている。癒しは主のみこころのままにたまわり、癒された命は主のものである。 癒...成長のための癒し

  • 花壇でジャガイモ堀り

     コロコロと土より生まるジャガイモはハラハラどきどき今日で百日 土曜日に、それまで我慢して来たジャガイモ堀をした。思っても見なかった掌の半分もある芋がコロコロと出て来た時は、息が止まるほど驚いた。まさか、こんなのが出来ているとは思っても見なかったから。それというのも、此処は畑ではなく息子が造った花壇の一角。花を植えるのに間があるということで、ジャガイモを育てて見たいと頼んで植えたもの。 通りがかりの方に「これはなにですか」と良く問われ、「ジャガイモです」と答えては「やはりそうですよね」と笑い合った。まさか出来立ての花壇に芋を植えるとはね、驚かれる気持ちはよくわかる。でも、そんなことでお話が出来たことは嬉しかったけれど・・。 包丁の背を当てるとつるんと皮が剥けて真っ白なお肌が現れる。じゃがベーコンやカレーラ...花壇でジャガイモ堀り

  • 神の豊かさを生きるための戒め(レビ記25章)

     神はモーセに、民が備えの地で豊かに生きるための戒めを与えられた。それは「豊かさを得たければ、寸暇を惜しんで働いて備えよ」と言うことではなく、「六年毎に一年間の静まる時を持て」と言う命令であった。不信仰と貪欲による貧しさからの守りのためである。 「イスラエルの子らに告げよ。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は主の安息を守らなければならない。六年間はあなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の刈り込みをして収穫をする。七年目は地の全き休みのための安息、主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の刈り込みをしたりしてはならない。(2~4) 六年間働いて収穫を得たなら1年は休めということである。その年はすべての農作業をしてはならないとあり、前年度の種からこぼれて成った実の収穫もしては...神の豊かさを生きるための戒め(レビ記25章)

  • 目には目を歯には歯を

     あわれみをかけてはならない。いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を。(申19:21) 民の中から罪を取り除くために、罪の代償は同じものを差し出させよ、とある。故意に命を奪った者は命を求められ、目を傷つけた者は目を差し出すことを神は命じられた。それによってイスラエルの民を治めるためである。 神はご自分の愛するひとり子イエスの命を持って、罪のゆえに死に行く人類を滅びの死からあがなわれた。それによって、イエスを信じるすべての人に無条件の救いが及んだのである。ご自身の定められた「いのちにはいのち」によるルールを適応されたのである。聖なる神には、人が心の中で考えることに拠る汚れも罪であり、あがないを必要とするもので、神の御前に義人は一人もいないのである。 内側から、すなわち人の心の中か...目には目を歯には歯を

  • バリアフリー

     引っ越した家の室内は完全なバリアフリーで躓くものはない。ただ、門から玄関まで数段の階段がある。息子は「スロープにするか?」と聞いてくれたことがあったが止めた。注意深く階段を昇るほうが安全なことを知っているから。 50年前に建てた前の家は、当然トイレも和式であり、お風呂のリフォームをしたときも、日々強制的にスクワットを繰り返すことが、私に良いと思ったからである。わざわざ運動をするために、何処かに通う気などさらさら無いからである。 引っ越して二年経ったが私は和式トイレに自信があったので、出かけ先で和式を使用したとき、直ぐに立ち上げることが出来なくなっていたことに驚愕した。使わない筋肉が退化してしまっていたのだ。新築の家ではバリアフリーは当然とされているが、それは筋肉が退化した時に役立つものであって、本当は必...バリアフリー

  • 祭司のつとめ

     キリスト者はみな神の祭司とされ、新しく生かされた霊をもって神に仕える者である。 あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。(1ペテロ2:5)あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(1ペテロ2:9) レビ記には身に欠陥の在る者は祭司となれないとある。キリスト者が神に仕える祭司とされているのは、自身の完全に拠ることではなく、イエス・キリストのあがないの完全にある義と聖に拠ることである。 たとえ見える所は完全であっても、みな心の内には罪があり、また体にあっては、歳と共...祭司のつとめ

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