現代の生活に欠かせない「ソフトウェア」はまさに「修正」がつきもの。「修正」抜きに運用は不可能と断言できる。「ただしく」「なおす」。この作業を怠れば、とたんに不具合が生じるのは明らか。現代社会こそ「修正」に強く依存しているのだ。
開国後の日本にとって言語は重要な防壁になりました。それに気付かない日本人に向け、国防の観点から「鋭敏な言語感覚」の重要性を訴えています。「言葉は生き物」「言葉に寛容になれ」と心無い批判をされた人へ。あなたの言語感覚は間違っていない。
管理人の活動実績 https://nippon-gengo.com/performance-table/ 言語という堤防を自ら破壊する日本人 https://nippon-gengo.com/gengo-teibou-hakai/ 【不適切用法】育児に「ワンオペ」なんてない https://nippon-gengo.com/ikuji-one-operation/
ラサール石井よ「インボイス制度導入」は身から出た錆だと自覚しろ
「インボイス制度」施行に至った原因の一つは「的外れな政権批判/政策批判」にある。ラサール石井やそのお仲間がやってきたことはまさに「的外れな政権批判/政策批判」。その結果増えたのは、外国人や国境が邪魔な奴らが有利になる政策。日本が不利になり国民が貧困化するのは当然。「的外れな政権批判/政策批判」の支柱は、やはり「空想的平和主義」だ。
「プライマリーバランス黒字化」「財政破綻」「通貨の信認」などは優先的に語義を疑うべきだと私も思う。しかし、ここから先が三橋氏と私の見解が大きく違うところだ。その違いを述べよう。
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現代の生活に欠かせない「ソフトウェア」はまさに「修正」がつきもの。「修正」抜きに運用は不可能と断言できる。「ただしく」「なおす」。この作業を怠れば、とたんに不具合が生じるのは明らか。現代社会こそ「修正」に強く依存しているのだ。
日本人が米国の属領に甘んじているのは、開国前から引きずっている「言葉への寛容さ」と深く結びついていると、誰も気付かないのは当然だ。「言葉の変化寛容論」や「慣用肯定論」が力を増した世の中で、私の意見が「嘲笑」されるのは仕方がない。「寛容」の危うさと「慣用」の恐ろしさに気付かないままに。
バブル期に若者だった私の感覚では防衛や憲法について取り組もうとする気運はなかった。AV(アダルトビデオ)レンタルショップが出現し「良い時代だなぁ」なんて喜ぶ私のような鈍感日本人ばかりだった、とまでは言わない。単に私がエロに屈したバカだったことは認める。だが、皆が各々の立場で「浮かれていたことは事実。
よく社会問題絡みで暴力沙汰が起こると、こんなことを言う人がいる。暴力に訴えるのではなく言論で戦いましょうよ 確かにそれは正しい。しかし、その正しさがいつしか呪縛になる。その呪縛は「政治は命がけ」という避けがたい暗部から目を逸らしてしまう。私が思うに「民主主義こそ暴力に裏打ちされるべき」なのだ。
「差別するな」という言いがかりに対して「区別」だと反論する日本人がいる。確かに「区別」のほうが適切な気もする。だが、私はあえて申し上げたい。「差別」ではなく「区別」だ、なんて諭す必要はないと。かつての渡来人のように日本に同化する意識もなく「在日特権なんてない!」と平気でほざく輩に「区別」なんて優しい表現は不要なのだ。
劇場版の製作者が「国防=自立した国家運営をすること」と認識していれば、ストーリーは大きく違っただろう。そして「国防という名の流行り病」なんて恥知らずなセリフは出てこないはずだ。
森永氏と「あえて」直接対峙し、「森永は支離滅裂な妄言を吐くキチガイなのだ」と、視聴者に刷り込む魂胆が米山にあった。
「言葉に関する性善説」によって「ネトウヨプロパガンダ」を放置してきたことが「ネトウヨという架空の存在」をデッチ上げた。河野太郎の「ネトウヨ呼ばわり」は、世間によってデッチ上げられた「架空の存在」を刷り込まれていることに他ならない。
テレビ/ラジオ/新聞/ウェブサイトなどの「可能性」の用い方には首を傾げることが多い。 疑わしいことにも「可能性」危険な対
「ザイム真理教」なる言葉が徐々に拡がっている。それは非常に喜ばしいことだ。この点においては森永卓郎氏に「ありがとうございます」とお礼を申し上げたい。ただし、私はこうも申し上げたい。「ザイム真理教」は派生宗教でしかないと。何故なら、民主主義そのものが宗教だからだ。派生宗教はカルト化するのが常。
民主主義は最良の制度であるという不可解な教義 [jin-yohaku50] 「ザイム真理教」なる言葉が徐々に拡がっている
「インボイス制度」施行に至った原因の一つは「的外れな政権批判/政策批判」にある。ラサール石井やそのお仲間がやってきたことはまさに「的外れな政権批判/政策批判」。その結果増えたのは、外国人や国境が邪魔な奴らが有利になる政策。日本が不利になり国民が貧困化するのは当然。「的外れな政権批判/政策批判」の支柱は、やはり「空想的平和主義」だ。
「プライマリーバランス黒字化」「財政破綻」「通貨の信認」などは優先的に語義を疑うべきだと私も思う。しかし、ここから先が三橋氏と私の見解が大きく違うところだ。その違いを述べよう。
竹中平蔵、お前をいつか必ず殺してやる 竹中平蔵や堀江貴文など、多くの国民を苦しめた奴らがいる。間接的にせよ、奴らのせいで
[jin-yohaku50] ありがとうございました [jin-yohaku50] 私はこれまで何ら疑いを持たず上記の表
[jin-yohaku50] ありがとうございました [jin-yohaku50] 私はこれまで何ら疑いを持たず上記の表
本来の読み方の記録。これに戻せと主張しているわけではない。ひとまず、こんな読み方だったのかと思って貰えればそれで良い。
私は溢れかえる「コスパ」なる言葉のデタラメさに辟易し、激しい怒りすら覚えるようなった。近頃では「コスパ」と書かれているレビューには片っ端から「参考ならない」「違反報告」などをクリックしている。「レビュー」の条件を満たしていないからだ。乱用される「コスパ」には特徴がある。それは
他者の視点から自分に反論を試みた。これまで私は言語に関してあらゆる問答を目撃してきた。その問答の渦中に己がいたこともある。当ブログの記事は、今まで経験した問答に対する私論だ。考え抜いた末の答えなので、大抵の反論に対応できている。だが、曖昧な部分や矛盾点があることにも気付いたのだ。己を懐疑し矛盾を直視するのは、意見を公表する者として当然であるという考えの元、投稿する。
私としては「分類関係なく反発するのもやむなし」という心情が若干ある一方で「誤りは条件問わず指摘し合うのが好ましい」と考えている。つまり「一部に限定すれば反論に賛成」と思いつつも、やはり好ましい表現を提案されたならば素直に従うべきという立場。ただし「なります敬語」「させていただきます敬語」「お疲れ様」などの
民主主義は最良の制度であるという不可解な教義 [jin-yohaku50] 「ザイム真理教」なる言葉が徐々に拡がっている
「ザイム真理教」なる言葉が徐々に拡がっている。それは非常に喜ばしいことだ。この点においては森永卓郎氏に「ありがとうございます」とお礼を申し上げたい。ただし、私はこうも申し上げたい。「ザイム真理教」は派生宗教でしかないと。何故なら、民主主義そのものが宗教だからだ。派生宗教はカルト化するのが常。