百済・倭王同一人物説では、倭国では済であった蓋鹵王は、倭国から百済に戻った後に昆支を倭国に派遣し、その彼が世子興となる。すなわち、世子興はまだ生存している済から後を継いだ形になる。しかし、興の即位記事の前に済が死んだと「宋書・梁書」ともに記載されている
古代遺跡、日本書紀、古事記、各地の伝承などには、大陸文化の痕跡が残されている。それらを持ち込んだ騎馬遊牧民、シルクロードの担い手のソグド人と日本の関わりを探る。縄文の話題。近畿一元史観ではない多元的歴史観について。古田史学の会の応援など。
ヨロイを着けた古墳人と、縄文土器、埴輪も見ごたえありの「発掘情報館」
群馬県埋蔵文化財調査センターにある発掘情報館は二度目の訪問だったが、前にはなかったヨロイを着けた古墳人のレプリカの展示には驚いた。 渋川市の金井東裏遺跡のものだが、今まで背中のヨロイだけが姿を見せている写真しか知らなかったのだが、ここでは、その背中側の
不思議な群馬県の八角形倉庫 伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館の八面甲倉
群馬には、八角形古墳が複数見られるのだが、古代の建物にも八角形がある。伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館で、解説パネルと復元模型を見ることができる。 伊勢崎市三軒屋遺跡から、礎石があったと判断される柱穴と、その前にも掘立柱式の八角形倉庫が見つかったという。そ
相澤忠洋氏の採集した旧石器の数々を見る事ができる。土地を自分で購入して調査を行うといったエピソード、納豆売り用の自転車の展示など、並々ならる苦労をされたことが知れる博物館だが、中には、少し気になる展示品もあって、たまたま菱形のように割れただけの自然石の
安中市学習の森 ふるさと学習館の2階に考古・歴史資料の展示室がある。前回の群馬訪問では、パスしてしまったのだが、今回、見に行ってよかったと思う豊富でユニークな展示資料であった。 はじめの写真は、四隅にイノシシが表現された土器だが、頭部の形が丸いので、まる
三津屋古墳は平面だけでなく立体的にも八角形がわかる貴重な古墳
北群馬郡吉岡町にある全国にもめずらしい正八角形墳であり、その姿を内部まで間近に見る事ができる。 この八角墳は全国に10基あまり、東日本に5基で、その中に伊勢塚古墳(不正という但し書き付きだが)、吉井町の一本杉古墳、多摩市稲荷塚古墳、山梨県一ノ宮経塚古墳が
群馬に古墳見学をされるなら必見の、西日本ではお目にかかれない芸術的な石室であり、それは飛白(かすり)模様とか水玉模様ともいわれる。 6世紀代の東日本で最大級、全長145mの前方後円墳である七輿山古墳のトイレを兼ねたパネル展示室のある駐車場に車を停めて、北へ
群馬県前橋市大室古墳群は、長径が1㎞にも及ぶ大室公園として整備されている。その中の6世紀初頭の前二子古墳は墳丘長が94mでその周囲を堀や外堤が取り巻く。全体がベンガラで塗られた横穴式石室で、ここが吉永小百合さんのポスターになっている。副葬品には、青色ガラス
古墳の石室を見る吉永小百合さんをモデルにされたJR東日本のポスター。これは2020年に企画されたキャンペーンのもの。群馬の博物館などに今も掲示されています。関西ではあまり見かけないものですが、博物館で初めて見ました。小百合さんがモデルとなれば、やはり絵になり
七支刀については、埴輪の例もあるように、鹿角をモチーフにした霊剣であったと考えるが、ではその霊剣がどのように倭国にもたらされたのか、百済との関りで私見を提示したい。1.銘文の一般的な解釈表 泰和四年十一月十六日丙午正陽造百練銕七支刀出辟百兵冝供供侯王□
『加耶』2022年度国際企画展示 歴史民俗博物館図録より 欽明天皇の時代に滅んだはずの任那に関する記事が、半世紀以上あとの推古天皇の時代に登場するといったことが他にもある。推古8年2月に新羅と任那の交戦記事がある。天皇は任那救援の指示を
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百済・倭王同一人物説では、倭国では済であった蓋鹵王は、倭国から百済に戻った後に昆支を倭国に派遣し、その彼が世子興となる。すなわち、世子興はまだ生存している済から後を継いだ形になる。しかし、興の即位記事の前に済が死んだと「宋書・梁書」ともに記載されている
先に、倭王の済と世子興の間には、蓋鹵王にとっては不本意なX王が存在したと想定し、中国への遣使も行ったが、横暴さもあって数年後に世子興が派遣されることになったとの考えを示したが、倭の五王の最後の倭王武の後に、継体紀に薨去記事だけ残された純陀太子が、倭王武の
1. 百済三王と倭の三王の同一人物説 蘇鎮轍氏らの倭王武と武寧王同一人物説を検討する中で、前代の済が蓋鹵王、世子興が昆支と考えるように至ったが、簡単にその根拠を述べる。なお、讃と珍は材料がとぼしく、検討課題としておく。もちろん、日本書紀の記す天皇とは全く無
長野県下伊那郡松川町資料館 顔面把手付土器 頭部がマムシのように造形されている。生きたマムシが土器を這っているように見える。1.マムシの生態についての迷信のようなお話 以前に、次のような信じがたい記述があるのを見つけた。縄文時代と蛇に関するものだが、以下の
京都府乙訓郡大山崎町 離宮八幡宮 年末年始にすえられる茅の輪くぐり。 ここは中世のエゴマからなる油の製造販売発祥の地であり、そのエゴマで輪が作られている。1.茅の輪くぐりは、蛇の脱皮を擬(もど)くものだった。 茅の輪くぐりは、たいていの神社では、6月の晦日、
1.済と世子興のあいだに王名のない遣使記事がある 雄略紀5年(461)に、蓋鹵王が子の昆支を派遣している。その際、昆支は蓋鹵王の身重の女性を手に入れて渡海するのである。これは既に説明した武寧王誕生譚につながるのだが、その翌年の462年、『宋書』の大明6年に世子興を
1.蓋鹵王は、倭国に滞在したことがあるのであろうか? 蓋鹵王は、日本書紀の雄略5年に昆支に倭国派遣を申し渡しており、それは百済本国でのこととであろう。蓋鹵王が済であるならば倭国に滞在していた痕跡がないと、同一人物説は成り立たない。蓋鹵王も日本にいたと考えら
史君墓石堂 複製 陝西省西安市より出土579年に亡くなった史君と妻の康氏(ソグド語ではウィルカークとウィヤーウシー)ために造られた精緻な浮彫が見事な石堂。いわば豪華な家形石棺と言えようか。 正面入り口の上部にある銘文は、ソグド語で記されたもの。 入口の左右
スマホでいくつか撮影したが、あとで図録を見て、さすがというか、やはりプロの写真は違うということを痛感した。また、ショーケースに展示された中で、小ぶりの器物は肉眼では細かいところは、よほど視力のいい人でない限り見ることは出来ないと思う。特に金製品の模様な
駱駝さんがお出迎え。本物、というか剥製。名前が付いてます。中国の敦煌研究院から東京富士美術館創立者の池田大作氏に寄贈されたものだそうです。生きてるようにみえます。体毛はけっこうふさふさです。これを見ると、「田道間守の非時香菓、橘はナツメヤシのデーツだった
1.百済のために高句麗を非難する倭王武 倭王武が中国の宋に送った上表文は、末尾に一部を省略した原文と現代語訳を掲載した。その要旨は、中国への遣使を妨害するといった横暴な高句麗への報復の開始前に、突然、父兄が亡くなり、喪中に入ったので、兵を動かすことができ
図は二中歴の九州年号総覧 善記年に「以前武烈即位」とある. 以前に、倭王武と武寧王が同一人物であるとする説を述べた際に、漢籍では二人が同時に存在しているから、この主張は成り立たない、とのご意見があった。二人が同じ人物であるなど信じがたいという思いもあっての
図は、武烈紀と続日本紀の記述の系譜をつなげたもの⒈武寧王は、倭国王権(九州王朝)にいる純陀太子に斯我君を送った。 日本書紀の武烈7年の斯我君が、法師君を産んだその相手についての既述はない。だが、「奉事於朝」(ミカドにつかえたてまつらしむ)とあるように、ミカ
1.跡継ぎのいない天皇と跡継ぎが生まれたという武烈紀の奇妙な記事 武烈天皇は、跡継ぎがいないので、自分の名が忘れられないようにと小泊瀬舎人(おはつせのとねり)を設けるという記事がある。そのため、継体紀では次の天皇の擁立に苦労する経緯が描かれるのである。とこ
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示の金銅製筒形品の復元品1.筒形品に残存していた繊維質は髪の毛だった。 報道(2024.11.20)によれば、金銅製筒形品は長さ約40センチ、最大径6センチ。中央が細くなる形状で、表面には歩揺(ほよう)と呼ばれる飾りが多数付けられ、
図は、日本書紀の神功皇后から雄略紀までの、百済の毗有(ヒユウ)王に関係する書紀と三国史記などの記事だけを抜粋して表にしたものである。この時期の年代が明確な百済王の記事は、日本書紀では干支二運、120年遡って記述され、雄略紀で実年に合うようになっている。その
写真は京都市西京区の桓武天皇生母高野新笠の大枝陵1.平成天皇の記者会見で語られた、「韓国とのゆかり」 平成13年(2001)12月18日に、平成天皇の記者会見が行われ、記者の質問(ワールドカップ日韓合同開催にちなんで)に対して、次のように述べられた。以下は、宮内庁H
上図は、推古までの古事記と日本書紀の天皇の年齢と在位期間を示したものです。さらに継体紀までは、日本書紀に紀年で書かれた記事の次の記事の年との差を表したものです。図はクリックして御覧ください。 たとえば、最初の神武は、古事記では137歳、日本書紀では127歳、
図は、古事記に記された天皇崩御年の干支と日本書紀との対照表。右側に干支の順番の番号をつけて、年差がわかるようにしました。たとえば、崇神天皇は、古事記は戊寅で15、日本書紀で辛卯は28。よって13年も異なることになります。このように崇神から継体まで崩御年が異な
群馬県高崎市綿貫観音山古墳武人埴輪 景行天皇も116歳と長寿であるが、古事記ではさらに137歳となっており、偶然なのか神武と同じ年齢になっている。ただ書紀の神武は127歳と違っている。天皇としての在位期間も60年と長いが、開
弥生時代の環濠遺跡やその出土物を、真っ先に軍事面でとらえる傾向があるのは、その背景に魏志倭人伝の「倭国乱」の解釈の誤解があって、卑弥呼登場までの長期間にわたって大規模な内乱があったかのように刷り込まれてしまったことが要因と考えられる。 早くに古田武彦氏
「弥生時代中期前葉~中葉(紀元前4~前2 世紀)集落が大きく広がり、南居住域と北居住域、東墓域と西墓域など、集落の基本的な配置が定まりました。北居住域の南側には、環濠・逆茂木・乱杭等からなる強固な防御施設が築かれました」 上記は、あいち朝日遺跡ミュージアム
『何が歴史を動かしたのか』(雄山閣)所収の、藤田三郎氏の「唐古・鍵遺跡と清水風遺跡の絵画土器」についてふれさせていただく。⑴防御面が強調される弥生環濠の役割への新解釈 既に藤田氏は『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』(2019)において、大規模な多
新潟県糸魚川市長者ヶ原考古館展示品の井の上遺跡からの出土で、男女の文様が描かれた土器です。糸魚川市と上越市のおよそ中間の海岸近くの舌状台地に広がる縄文中期から古代の大規模な遺跡でした。土砂崩れなどで多くは破壊されて住居址らしいものは見当たりませんが、
古代から水神や在地の守護神とするような蛇信仰があった。人の命を奪う毒牙を持つものもあり、姿を見かけると多くの人が忌避するであろう蛇を、人はどうして神にしたのか。しかも崇められるはずが神話では最後に一刀両断に切られるのは何故なのか。人が蛇
言わずと知れたビートルズのジョン・レノンは、小野洋子から様々なことを学んでいる。解散後のジョージ・ハリスンのコンサートに友情出演することになっていたのに、本番当日にいつまでたっても姿を見せないジョンに、ジョージは電話を入れてせかすが、彼は今日は日が悪
『何が歴史を動かしたのか 第二巻』所収の、深澤芳樹氏らの「荒尾南遺跡の船絵に付属する半円形弧線について」にふれてみたい。1.弥生時代の櫂に支点を設けた漕法の表現 何やらムカデのようにも見える弥生土器の線刻絵画だが、その櫂の船べりに半円形が描かれている。言わ
1.戸惑う研究者の背景にあるもの NHK放送の「フロンティア 日本人は何者なのか」では、古墳時代の人のDNAの解析結果に驚き、戸惑いながら語る研究者が描かれている。これまでは、縄文人と弥生人の二重構造で説明されてきた日本人のルーツだが、実は古墳時代に第三のDNAが
福岡県古賀市の船原古墳(古墳時代後期)で出土した金銅製馬具の一つは、揺れるときらきらと輝く歩揺(ほよう)付き金具を複数組み合わせた飾りであったという。市教育委員会と九州歴史資料館は「極めて華麗なデザインで、出土例がない」と発表している。 他にも杏葉(ぎ
12.8.29久々野歴史民俗資料館 岐阜県高山市久々野町にあり、縄文時代の堂之上遺跡の竪穴住居などを復元した公園と隣接しています。 写真の土器のデザインは展示品の中でも特に気を引くものです。顔が表現されたように見えますが、縄文土器ではよく使われる文様の
NHKフロンティア「日本人とは何者なのか」 「常識がくつがえされる」と謳われるが、その「常識」とは、これまで渡来人問題にまともに向き合おうとしなかった人たちの視野の狭い「常識」にすぎない。 古代のDNA分析で、縄文人と弥生人の二重構造で日
NHK フロンティア「日本人とは何者なのか」 ⑴ 驚きのインドシナ半島のマニ族の姿 タイのパッタルンというところの森の奥地。そこに古くから、孤立してくらす森の民がいた。はるか古代から変わらぬ生活をしており、そのDNAは縄文人と近似しており、
CDが登場してから、レコードは聞かなくなって、オーディオも処分してしまっていたが、CDより音がいいという評判の声もよく聞かれるようになって気になっていた。ただ家にはやんちゃな猫さんがいるので、迷っていたが、まあ試しにと安価なプレーヤーを購入してみた。もう30
秋田県鹿角(かずの)市大湯環状列石後期BC1800頃 高さ5.8cm 滋賀県のミホミュージアムの土偶展で見た時に、とても小さくてかわいいと思いましたが、これをシャーマンが呪術などに使ったかどうかはわかりません。だがこの土版、小型であっても縄文人がある程度の数
16.03.20富山県南砺市埋蔵文化財センターHPはこちら FBもあります。 みなみとち市ではなく「なんと市」です。 上図は、黒曜石で作られた両頭尖頭器。縄文時代前期前半の東北地方を中心に、わずか20例ほどの出土という珍しいもので、この北陸ではこれだけという貴重
日本書紀の斉明紀には、いわゆる狂心(たぶれごころ)の渠(みぞ)といわれた大工事をおこなったという記事がある。一般的には、奈良県の、香具山の西から現在の天理市付近と考えられる石上山までに至るもので、石を運搬するための運河と呼ぶべきものと考えられている。石
天孫降臨のための先遣隊として、高御産巣日(タカミムスヒ)は、天若日子(アマワカヒコ)を送り出したが、いっこうに戻って報告する気配がない。そこで様子を知るために鳴き女と言う名の雉(キギシ)を遣わすが、天若日子が矢で射殺してしまう。その矢は、タカミムスヒの
『史跡巡りハイキングのご案内』古田史学の会 済 當麻の地をめぐる2023・12月2日(土)集合 近鉄当麻(たいまでら)駅改札口 午前10時05分※大阪方面は、大阪阿部野橋駅より近鉄南大阪・吉野線準急 河内長野行 9時4分発に乗車奈良方面は、橿原神宮前駅から近鉄南
『長柄の人柱』の説話について。大阪市の淀川の長柄橋の架橋工事は、大水のたびに壊れて工事に苦渋していたが、この時に垂水 (現吹田市垂水町)の長者・巌氏が「架橋を成功させるには人柱が必要。袴につぎの当たった者を人柱に」と役人に進言した。ところが自分の袴につぎが
【3】スサノオに気づかなかったヤマタノオロチ 有名なオロチ退治の説話も、実はよく考えれば奇妙な点がある。スサノオはクシナダヒメを櫛に変えて髪にさしてオロチに臨む。やってきたオロチは捧げられた酒を飲みほして酔いつぶれる。そこをスサノオが斬りつける。めでたしめ