図は、最初に東日流外三郡誌として製本化された市浦村版にある宝剣額の写真である。ここには写真の掲示と簡単な説明があるだけであった。そこには、寛政元年八月に秋田孝季と和田長三郎が祈願したことが記されている。 しかし、和田喜八郎は、この本の「薦言」で、和田長
古代遺跡、日本書紀、古事記、各地の伝承などには、大陸文化の痕跡が残されている。それらを持ち込んだ騎馬遊牧民、シルクロードの担い手のソグド人と日本の関わりを探る。縄文の話題。近畿一元史観ではない多元的歴史観について。古田史学の会の応援など。
ヨロイを着けた古墳人と、縄文土器、埴輪も見ごたえありの「発掘情報館」
群馬県埋蔵文化財調査センターにある発掘情報館は二度目の訪問だったが、前にはなかったヨロイを着けた古墳人のレプリカの展示には驚いた。 渋川市の金井東裏遺跡のものだが、今まで背中のヨロイだけが姿を見せている写真しか知らなかったのだが、ここでは、その背中側の
不思議な群馬県の八角形倉庫 伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館の八面甲倉
群馬には、八角形古墳が複数見られるのだが、古代の建物にも八角形がある。伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館で、解説パネルと復元模型を見ることができる。 伊勢崎市三軒屋遺跡から、礎石があったと判断される柱穴と、その前にも掘立柱式の八角形倉庫が見つかったという。そ
相澤忠洋氏の採集した旧石器の数々を見る事ができる。土地を自分で購入して調査を行うといったエピソード、納豆売り用の自転車の展示など、並々ならる苦労をされたことが知れる博物館だが、中には、少し気になる展示品もあって、たまたま菱形のように割れただけの自然石の
安中市学習の森 ふるさと学習館の2階に考古・歴史資料の展示室がある。前回の群馬訪問では、パスしてしまったのだが、今回、見に行ってよかったと思う豊富でユニークな展示資料であった。 はじめの写真は、四隅にイノシシが表現された土器だが、頭部の形が丸いので、まる
三津屋古墳は平面だけでなく立体的にも八角形がわかる貴重な古墳
北群馬郡吉岡町にある全国にもめずらしい正八角形墳であり、その姿を内部まで間近に見る事ができる。 この八角墳は全国に10基あまり、東日本に5基で、その中に伊勢塚古墳(不正という但し書き付きだが)、吉井町の一本杉古墳、多摩市稲荷塚古墳、山梨県一ノ宮経塚古墳が
群馬に古墳見学をされるなら必見の、西日本ではお目にかかれない芸術的な石室であり、それは飛白(かすり)模様とか水玉模様ともいわれる。 6世紀代の東日本で最大級、全長145mの前方後円墳である七輿山古墳のトイレを兼ねたパネル展示室のある駐車場に車を停めて、北へ
群馬県前橋市大室古墳群は、長径が1㎞にも及ぶ大室公園として整備されている。その中の6世紀初頭の前二子古墳は墳丘長が94mでその周囲を堀や外堤が取り巻く。全体がベンガラで塗られた横穴式石室で、ここが吉永小百合さんのポスターになっている。副葬品には、青色ガラス
古墳の石室を見る吉永小百合さんをモデルにされたJR東日本のポスター。これは2020年に企画されたキャンペーンのもの。群馬の博物館などに今も掲示されています。関西ではあまり見かけないものですが、博物館で初めて見ました。小百合さんがモデルとなれば、やはり絵になり
七支刀については、埴輪の例もあるように、鹿角をモチーフにした霊剣であったと考えるが、ではその霊剣がどのように倭国にもたらされたのか、百済との関りで私見を提示したい。1.銘文の一般的な解釈表 泰和四年十一月十六日丙午正陽造百練銕七支刀出辟百兵冝供供侯王□
『加耶』2022年度国際企画展示 歴史民俗博物館図録より 欽明天皇の時代に滅んだはずの任那に関する記事が、半世紀以上あとの推古天皇の時代に登場するといったことが他にもある。推古8年2月に新羅と任那の交戦記事がある。天皇は任那救援の指示を
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図は、最初に東日流外三郡誌として製本化された市浦村版にある宝剣額の写真である。ここには写真の掲示と簡単な説明があるだけであった。そこには、寛政元年八月に秋田孝季と和田長三郎が祈願したことが記されている。 しかし、和田喜八郎は、この本の「薦言」で、和田長
津軽外三郡誌の和田喜八郎は、他人の写真を詐称して自分の著作に掲載し、裁判で慰謝料40万円の支払いを命じられたが、他にも悪用されているものがいくつもあるようだ。 『東日流外三郡誌. 補巻』 北方新社版 グラビア写真最初の図①降魔弥陀図(天真名井家関係遺品)
藤本光幸の「反証」記事 『「古史古伝」論争』別冊歴史読本1993 前回、宝剣額は神社に早くから飾られていた、との証言に疑問があることを説明したが、他にも奇妙な点があることを付記させていただく。⑴宝剣額の発見の経緯は奇妙 以下は、古田がこの寛政の宝剣額
右端の奉納は天保14年とある。 多数の剣の奉納額がある不動尊が現在も東北には残っている 宝剣額とは、東日流外三郡誌の著者とされる秋田孝季の実在を証明するものとして喧伝されたものだ。日吉(日枝)神社に奉納された額で、そこに寛政元年や秋田孝季の名が書か
既に、縄文時代の遮光器土偶や三内丸山六本柱について述べてきたが、他にも、明治時代以降の知識がないと書けないものが散りばめられた、およそ史書などというものではなく漫画のような創作であることをいくつか紹介する。実際の遺跡、遺物やアイヌ文化などが悪用されてい
この絵図は、三内丸山遺跡の六本柱建物の復元案が発表されてから、和田喜八郎が古田武彦氏に送付したもの。 以前に、三内丸山遺跡六本柱の高層建物の復元が虚構であることを説明していたが、これに関して古田史学の会員の方から、ご質問を受けた。それは、復元された六本
左は明治時代に画家佐藤蔀(しとみ)が描いた『考古画譜』の亀ヶ岡遮光器土偶 右は『東日流六郡誌絵巻』(1986発刊)のアラハバキの神像とされた遮光器土偶の絵図 和田喜八郎は土偶のレプリカは所有していたが、立体的なものを絵にするのは簡単ではないので左の図を参考
生々しい和田キヨヱさんの証言 古賀達也氏(古田史学の会代表・今回の「東日流外三郡誌の逆襲」の編集主幹)は、偽作説への反論、真作であると主張する論考に、よく誰々の証言、を持ち出される。それが決定的証拠になるとお考えのようだが、その証言者に担ぎ出されている人
1.「石」の説明はない 『東日流外三郡誌の逆襲』という本を準備していると聞いた時、唖然としたのだが、そのタイトルに笑ってしまった。逆襲?ではなく逆ギレではないのかと。 私は、参加している古田史学の会の集まりの中で、この件については質問し、意見も述べてきた。
三重県猿田彦神社の火打による火鑽習俗『常陸国風土記』 久慈郡に次の記事がある。 「北有小水 丹石交錯 色似㻞碧 火鑽尤好 因似號玉川」 現代語訳「北に小川がある。赤い石が入り混じっている。色は、|琥碧《クハク》に似ていて、火打石に使うのに大変
「風土記逸文」の裁判の情景を描いたといった解釈は、後世の後付けと考えられる。現在確認できる石造物から、そのような判断はできない。 資料館に収蔵された石製品100点。人物形は、武人、文人、力士、裸体の男女など。武具では、剣、靫、盾。動物形は馬、鶏、小型の鶏、
1.イザナギはどうやって櫛に火をつけたのか イザナギは、亡くなったイザナミを連れ戻そうと黄泉の国に出向いて説得するのだが、なかなか現れないイザナミの様子を見ようと、自分の櫛の先に火を灯して覗き見ようとした。そこでイザナミの醜い姿を見てしまい、慌てて逃げだす
古田史学では、上記の記事から、九州王朝の残党が反乱を起こし、ヤマト王権による制圧が行われたという解釈がある。しかし、はたしてそのような理解が妥当なのであろうか。以下この点について述べてみたい。1.続日本紀の記述《文武四年(七〇〇)六月庚辰(戊寅朔三)》薩
1.疑わしい万葉歌や事績 万葉歌の長歌2首、短歌4首が、すべて持統天皇の作歌とできる確証たるものはない。中西進氏は、長歌の159番「やすみしし・・」は「詞人の代作」、162番「明日香の浄御原・・・」も形式上大后の作とされる。160番「燃える火も」と161番「北山(向南山
律令制国家の礎を築いた女性天皇として、評価の高まりつつある持統天皇だが、そもそも、その存在自体が、あやしい点がある。 よくいわれることだが、『懐風藻』では、天皇ではなく皇太后とされ、『扶桑略記』では、持統は不比等の私宅を宮にしていたとのことから、即位し
古事記の神武東征でよく議論になるところである。「その八咫烏の後(しり)より幸(いで)行(ま)しせば、吉野河の河尻に到りましとき、筌を作りて魚を取る人あり」 吉野川で筌を使って漁をしていたのである。 しかし、河尻は川下ではない。なぜなら神武は吉野川で筌を使う
筑後国風土記逸文として筑紫の名の由来が三つ挙げられているが、その一つに甕依姫の登場する説話がある。この人物を、古田武彦氏は「みかよりひめ」と訓じて、卑弥呼と同一人物との可能性が高いとされたが、まだまだ検討すべき余地があると思われるので、この点につ
図は古田武彦氏の『鏡が映す真実の古代 三角縁神獣鏡をめぐって』(ミネルヴァ書房 2016)のP236に掲載の和田喜八郎の所有していたという鏡である。 ※タイトルの東日流外三郡誌は「つがるそとさんぐんし」です。 古田氏はこの鏡について次のように書いている。「和田喜
縄文土器には、把手なのか、文様なのかよくわからない眼鏡状とか、橋状とも言われている双環突起がついています。土器によっては、そこに腕のようなものが伸びていたり、蛙や蛇の頭のような表現ともとれるものもあります。そして、いわゆる出産文土器にも少し大きめの双環
図は各風土記に登場する天皇名を表にしたもの。 以下は、各風土記の中に登場する天皇とその地名を抽出したものである。記載された天皇名は、漢風諡号ではないのだが、現在に通用している解釈の天皇で分類した。 皇極、斉明は同一人物となる。 欠史八代の天皇は既述なく
伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館 縄文晩期釜の口遺跡の土製耳飾 1.耳飾りの美に感嘆する。 写真は、直径5センチは下らない縄文のピアスの耳飾り。もちろん粘土細工だが、器用な縄文人が作りだした芸術作品のようであり、今でもこのようなデザインの装飾品があっても通用
群馬県高崎市観音塚考古資料館の展示の様子。巨大パネルが連なった圧巻の展示ディスプレイです。 観音塚古墳は石室そのものは、あの巨大な墳丘を持つ奈良県見瀬丸山古墳を少し小さくしたものではあるが、たいへん立派な巨石が使われた石室を見に行ったのですが、蚊の襲
群馬県埋蔵文化財調査センターにある発掘情報館は二度目の訪問だったが、前にはなかったヨロイを着けた古墳人のレプリカの展示には驚いた。 渋川市の金井東裏遺跡のものだが、今まで背中のヨロイだけが姿を見せている写真しか知らなかったのだが、ここでは、その背中側の
群馬には、八角形古墳が複数見られるのだが、古代の建物にも八角形がある。伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館で、解説パネルと復元模型を見ることができる。 伊勢崎市三軒屋遺跡から、礎石があったと判断される柱穴と、その前にも掘立柱式の八角形倉庫が見つかったという。そ
相澤忠洋氏の採集した旧石器の数々を見る事ができる。土地を自分で購入して調査を行うといったエピソード、納豆売り用の自転車の展示など、並々ならる苦労をされたことが知れる博物館だが、中には、少し気になる展示品もあって、たまたま菱形のように割れただけの自然石の
安中市学習の森 ふるさと学習館の2階に考古・歴史資料の展示室がある。前回の群馬訪問では、パスしてしまったのだが、今回、見に行ってよかったと思う豊富でユニークな展示資料であった。 はじめの写真は、四隅にイノシシが表現された土器だが、頭部の形が丸いので、まる
北群馬郡吉岡町にある全国にもめずらしい正八角形墳であり、その姿を内部まで間近に見る事ができる。 この八角墳は全国に10基あまり、東日本に5基で、その中に伊勢塚古墳(不正という但し書き付きだが)、吉井町の一本杉古墳、多摩市稲荷塚古墳、山梨県一ノ宮経塚古墳が
群馬に古墳見学をされるなら必見の、西日本ではお目にかかれない芸術的な石室であり、それは飛白(かすり)模様とか水玉模様ともいわれる。 6世紀代の東日本で最大級、全長145mの前方後円墳である七輿山古墳のトイレを兼ねたパネル展示室のある駐車場に車を停めて、北へ
群馬県前橋市大室古墳群は、長径が1㎞にも及ぶ大室公園として整備されている。その中の6世紀初頭の前二子古墳は墳丘長が94mでその周囲を堀や外堤が取り巻く。全体がベンガラで塗られた横穴式石室で、ここが吉永小百合さんのポスターになっている。副葬品には、青色ガラス
古墳の石室を見る吉永小百合さんをモデルにされたJR東日本のポスター。これは2020年に企画されたキャンペーンのもの。群馬の博物館などに今も掲示されています。関西ではあまり見かけないものですが、博物館で初めて見ました。小百合さんがモデルとなれば、やはり絵になり
七支刀については、埴輪の例もあるように、鹿角をモチーフにした霊剣であったと考えるが、ではその霊剣がどのように倭国にもたらされたのか、百済との関りで私見を提示したい。1.銘文の一般的な解釈表 泰和四年十一月十六日丙午正陽造百練銕七支刀出辟百兵冝供供侯王□
『加耶』2022年度国際企画展示 歴史民俗博物館図録より 欽明天皇の時代に滅んだはずの任那に関する記事が、半世紀以上あとの推古天皇の時代に登場するといったことが他にもある。推古8年2月に新羅と任那の交戦記事がある。天皇は任那救援の指示を
型吹亀甲文紺色坏 慶州天馬塚 6世紀 類例は4世紀頃の東地中海から黒海周辺、南ロシアなど広く分布しているが、東アジアでは唯一の出土例とのこと。 『ユーラシアの風新羅へ』より 日本書紀は、古代の情報が豊富に綴られた重要な書物である。しかし、その記述には、様
隋書の倭が俀と表記されていることについて、これは倭国のことではなく、俀国という別の国があったという解釈が繰り返されている。だが、一般的には俀は倭に修正されて記述されている。岩波文庫も『隋書倭国伝』である。図書館で「隋書俀国伝」と検索しても出てこないとこ
縄文後期住居跡から出土した青銅製の刀子 (山形県遊佐町三崎山遺跡) 詳しくは、文化遺産オンライン(こちら)をご覧ください。 縄文時代に青銅器などあり得るのか、とお思いの方も多いはず。研究者の中には、当初、戦時中に中国から持ち帰ったもので
図はDNA分析から日本人の成り立ちの研究をされる篠田謙一氏作成の4万年前の海岸線と人類の移動ルートを表したものである。 この三つのルートが、ほぼ定説のようになっているが、よく見るとこの図には気になる点がある。それは現在の海岸線とともに、氷期の海水面の低下で
(写真は、新潟県長者ヶ原考古館の説明パネル) 弥生時代のみならず、1万年あまりの縄文時代も移住者が自分たちのエリアを開拓しては、既存の集団と交流をし、文化を発展させていった。こういったことは当たり前のようであるが、研究者の多くには不思
天理参考館の中国唐の時代、乗馬ポロを楽しむ女性を描いたもの。おそらく、彼女の右手にマレットが握られていた。このポロが高松塚古墳絵画にも関係している。 同じ古代史の会で奈良新聞の方から、うれしい知らせが届いたので、転載させていただきます。 向かって右側の
写真は、富山県南砺市埋蔵文化財センターの玦(けつ)状耳飾り 大陸始原の遺物と考えられる。1.縄文時代が1万年続いたという誤解 よく縄文時代は1万年以上の長い期間続いたという、世界に類を見ないことだといった表現を目にすることがある。しかしこれは、ちょっと奇妙で
1.後の加耶の地からやって来た弥生移住民 最初の弥生時代の移住者は、半島のどこからやって来たのだろうか?それを示す分かりやすい図がある。支石墓、松菊里型住居(住居の形が円形で中央に穴があり、その両脇に2本の柱がある)、丹塗磨研壺、石包丁という渡来の代表的な