上図は、推古までの古事記と日本書紀の天皇の年齢と在位期間を示したものです。さらに継体紀までは、日本書紀に紀年で書かれた記事の次の記事の年との差を表したものです。 たとえば、最初の神武は、古事記では137歳、日本書紀では127歳、在位期間は日本書紀の紀年記事の
古代遺跡、日本書紀、古事記、各地の伝承などには、大陸文化の痕跡が残されている。それらを持ち込んだ騎馬遊牧民、シルクロードの担い手のソグド人と日本の関わりを探る。縄文の話題。近畿一元史観ではない多元的歴史観について。古田史学の会の応援など。
ヨロイを着けた古墳人と、縄文土器、埴輪も見ごたえありの「発掘情報館」
群馬県埋蔵文化財調査センターにある発掘情報館は二度目の訪問だったが、前にはなかったヨロイを着けた古墳人のレプリカの展示には驚いた。 渋川市の金井東裏遺跡のものだが、今まで背中のヨロイだけが姿を見せている写真しか知らなかったのだが、ここでは、その背中側の
不思議な群馬県の八角形倉庫 伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館の八面甲倉
群馬には、八角形古墳が複数見られるのだが、古代の建物にも八角形がある。伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館で、解説パネルと復元模型を見ることができる。 伊勢崎市三軒屋遺跡から、礎石があったと判断される柱穴と、その前にも掘立柱式の八角形倉庫が見つかったという。そ
相澤忠洋氏の採集した旧石器の数々を見る事ができる。土地を自分で購入して調査を行うといったエピソード、納豆売り用の自転車の展示など、並々ならる苦労をされたことが知れる博物館だが、中には、少し気になる展示品もあって、たまたま菱形のように割れただけの自然石の
安中市学習の森 ふるさと学習館の2階に考古・歴史資料の展示室がある。前回の群馬訪問では、パスしてしまったのだが、今回、見に行ってよかったと思う豊富でユニークな展示資料であった。 はじめの写真は、四隅にイノシシが表現された土器だが、頭部の形が丸いので、まる
三津屋古墳は平面だけでなく立体的にも八角形がわかる貴重な古墳
北群馬郡吉岡町にある全国にもめずらしい正八角形墳であり、その姿を内部まで間近に見る事ができる。 この八角墳は全国に10基あまり、東日本に5基で、その中に伊勢塚古墳(不正という但し書き付きだが)、吉井町の一本杉古墳、多摩市稲荷塚古墳、山梨県一ノ宮経塚古墳が
群馬に古墳見学をされるなら必見の、西日本ではお目にかかれない芸術的な石室であり、それは飛白(かすり)模様とか水玉模様ともいわれる。 6世紀代の東日本で最大級、全長145mの前方後円墳である七輿山古墳のトイレを兼ねたパネル展示室のある駐車場に車を停めて、北へ
群馬県前橋市大室古墳群は、長径が1㎞にも及ぶ大室公園として整備されている。その中の6世紀初頭の前二子古墳は墳丘長が94mでその周囲を堀や外堤が取り巻く。全体がベンガラで塗られた横穴式石室で、ここが吉永小百合さんのポスターになっている。副葬品には、青色ガラス
古墳の石室を見る吉永小百合さんをモデルにされたJR東日本のポスター。これは2020年に企画されたキャンペーンのもの。群馬の博物館などに今も掲示されています。関西ではあまり見かけないものですが、博物館で初めて見ました。小百合さんがモデルとなれば、やはり絵になり
七支刀については、埴輪の例もあるように、鹿角をモチーフにした霊剣であったと考えるが、ではその霊剣がどのように倭国にもたらされたのか、百済との関りで私見を提示したい。1.銘文の一般的な解釈表 泰和四年十一月十六日丙午正陽造百練銕七支刀出辟百兵冝供供侯王□
『加耶』2022年度国際企画展示 歴史民俗博物館図録より 欽明天皇の時代に滅んだはずの任那に関する記事が、半世紀以上あとの推古天皇の時代に登場するといったことが他にもある。推古8年2月に新羅と任那の交戦記事がある。天皇は任那救援の指示を
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上図は、推古までの古事記と日本書紀の天皇の年齢と在位期間を示したものです。さらに継体紀までは、日本書紀に紀年で書かれた記事の次の記事の年との差を表したものです。 たとえば、最初の神武は、古事記では137歳、日本書紀では127歳、在位期間は日本書紀の紀年記事の
図は、古事記に記された天皇崩御年の干支と日本書紀との対照表。右側に干支の順番の番号をつけて、年差がわかるようにしました。たとえば、崇神天皇は、古事記は戊寅で15、日本書紀で辛卯は28。よって13年も異なることになります。このように崇神から継体まで崩御年が異な
群馬県高崎市綿貫観音山古墳武人埴輪 景行天皇も116歳と長寿であるが、古事記ではさらに137歳となっており、偶然なのか神武と同じ年齢になっている。ただ書紀の神武は127歳と違っている。天皇としての在位期間も60年と長いが、開
図は神功皇后紀の百済・中国史書との記事対照年表 百済王の崩御即位記事は、二運120年ずらして神功紀にはめ込まれている。(画像はクリックして御覧ください) 日本書紀の中にあって、奇妙な存在のひとりが神功皇后こと気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)である。
1.古代の天皇の年齢は二倍年暦によるものなのか 日本書紀には、神武から天武までの間で、年齢が記載されていない天皇の方が多い。神武からいわゆる欠史八代、さらには応神までは途切れることなく記載されているのに、仁徳から武烈までは不記載が続く。図の書紀の年齢の( )
宋書倭国伝に記された倭の五王、すなわち、讃・珎・済・興・武を、日本書紀の天皇のことだとし、理由を付けて各天皇に当てはめるということが行われている。しかし、掲げた図にもあるように、倭の五王の在位期間と、天皇のそれは全く一致しないのである。とにかく、近畿の
佐賀県唐津市加唐島 オビヤ浦に武寧王生誕地がある 日本書紀には、武寧王誕生の説話が雄略紀と武烈紀の二カ所に登場する。渡来した新羅王子であるアメノヒボコについては、日本書紀や古事記、そして播磨国風土記などにも描かれている。ところが武寧王は、佐賀県唐津市加唐
和泉史談会の古代史講演会の案内です。大阪府和泉市で開催します。 日本の加唐島で生まれたとされる百済の武寧王は、百済王に即位するまでの半生が不明です。どこでどうしていたのでしょうか?ところが、後の桓武天皇の母、高野新笠は、武寧王の子孫だというのです。ど
頭部に蛇が描かれている土偶、縄文中期藤内遺跡出土 長野県諏訪郡富士見町井戸尻考古館 たいていの土偶と同じく、下半身と左手が欠損していたのだが、発見者らが木製の土台に固定させたそうだ。 頭に蛇が表現される土偶は大変珍し
写真は京都府福知山市三和町大原地区、国道173号線沿いの大原神社に隣接の産屋1、日本書紀にみえる臼を背負う天皇の意味 日本書紀には、景行天皇の二年に皇后が双子を生む記事がある。大碓(おほうす)皇子と小碓(をうす)の兄弟の誕生の逸話だが、小碓が後のヤマトタケル
写真は、群馬県渋川市北橘歴史資料館 ガラスケースでの展示で、鮮明には撮れず。 縄文時代後晩期のものと考えられる小さな形の石剣です。出土地は不明のようですが、群馬県前橋市箱田の木曽三柱神社の社宝としてまつられていたとのこと。 全長30センチメートル、
龍鳳文環頭太刀(環頭部)6世紀前半 山清生草M13号墳 国立晋州博物館 任那日本府は、日本書紀の欽明紀のわずか10年ほどの期間に登場する、韓半島における加耶の組織であった。 だが、任那、とはされていないが、雄略紀
5.神武紀に描かれた猟の民俗―宇陀の血原の意味 神武東征の一場面に、菟田(宇陀)の兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を天皇は呼ばれたが、弟だけがやってきて、兄は歓待のふりをして襲撃の準備をしていると報告する。そこで道臣命を遣わして、兄猾を責め立てた。追い
3.火に囲まれた大国主が落ちて助かった穴の謎 古事記には、スサノオによる大国主への試練の一節に野原で火に囲まれてしまう場面がある。 鼠來云「內者富良富良、外者須夫須夫」如此言故、蹈其處者、落隱入之間、火者燒過。 鼠来て曰く、「内はほらほら、外はすぶすぶ」
写真は群馬県前橋市柏川歴史民俗資料館 実物大?の落し穴模型 古事記や日本書紀の説話には、当時の民俗から取り入れられたものがあるという事例を取り上げます。1. 落し穴猟の底にある杭の目的は? 縄文時代には、罠用の落し穴が列島全体で100万基を超えると予想さ
埼玉県稲荷山古墳復元礫郭 2015撮影 現在、礫郭はパネルになっているようです。 杖刀人については『山陽公載記』の記述に従って「刀を杖つく人」とする説など、複数の解釈はあるが、いずれにしても杖刀人とは武官であって、大王に近侍する親衛隊、宮廷警備の武人とい
写真は、光州博物館展示の胴部に大きな穴のあけられた土器 こちらは、愛知県朝日遺跡の円窓(まるまど)付土器1.愛知県清須市の朝日遺跡の円窓付土器 環濠のある弥生集落だが、従来、防御施設といった解釈がされてきたが、こちらで示したように、洪水など、水害対策
光州博物館展示機織り道具 右側が桛(かせ)日本の弥生時代にあたる頃のもの1.弥生人が持つのは釣り竿なのか?それとも・・ 銅鐸絵画に、工字型(I字型ともいわれる)の器具をもつ人物が描かれている。なかには下図にあるように工字だけ描かれているものもある。これ
1.大塚ひかり氏の『昔話はなぜお爺さんとお婆さんが主役なのか』(草思社2015)のご紹介 著者は古典エッセイストとして活躍。ユニークな切り口で古典を語っておられる。ここでは、昔話の主人公に見られる特徴から、古代社会の問題を浮き彫りにされている。 柳田国
写真は、奈良の歴史イベントでの服部氏の講演 古代史の通説では語られることはないが、多元史観では、701年に王朝交代があったとする視点での議論がされてきている。ここでは、古田史学の会の服部静尚氏の王朝交代論を簡単に紹介したい。1.日本書紀の最後は次の記
『史跡巡りハイキングのご案内』古田史学の会 済 當麻の地をめぐる2023・12月2日(土)集合 近鉄当麻(たいまでら)駅改札口 午前10時05分※大阪方面は、大阪阿部野橋駅より近鉄南大阪・吉野線準急 河内長野行 9時4分発に乗車奈良方面は、橿原神宮前駅から近鉄南
『長柄の人柱』の説話について。大阪市の淀川の長柄橋の架橋工事は、大水のたびに壊れて工事に苦渋していたが、この時に垂水 (現吹田市垂水町)の長者・巌氏が「架橋を成功させるには人柱が必要。袴につぎの当たった者を人柱に」と役人に進言した。ところが自分の袴につぎが
【3】スサノオに気づかなかったヤマタノオロチ 有名なオロチ退治の説話も、実はよく考えれば奇妙な点がある。スサノオはクシナダヒメを櫛に変えて髪にさしてオロチに臨む。やってきたオロチは捧げられた酒を飲みほして酔いつぶれる。そこをスサノオが斬りつける。めでたしめ
記紀の説話にはその解釈に誤解があって、本来の話の真意が伝わりにくくなっているものがあることを、いくつかの事例で説明する。既に多くの研究者によって指摘されていることを利用させていただき、そこにわずかな私見を交えて論じるものであ
當麻寺を訪れると、寺の創建年(移築)の説明の掲示が三か所見受けられました。そこに記された年代はいずれも681年となっていますが、それは西暦であって当時の年代表記としては、天皇の紀年や元号、干支で表されているのですが、この掲示板の表記では、西暦は同じでも
古代史講演会案内 済 ありがとうございました【和泉史談会】 11月14日(火):午後2時〜4時 (1時半開場) 『古代史の中の誤解を見直す(2)』講師:大原重雄(ブログ主です。)内容:仁徳天皇のカマドの煙の説話、遣唐使、三輪伝承の鍵穴、 金印の蛇の
スサノオの奇妙で乱暴な行為の数々は、北方騎馬遊牧民にとっては普通の習俗であることを、山口博氏は明らかにしている。(こちら) 他にも同じように日本書紀や古事記には、騎馬遊牧民ら大陸の文化で見ないと理解できない記述がいくつも見受けられる。 古事記のヤマト
当ブログのタイトルの背景写真に使わせていただいたブルーのガラスの勾玉は、島根県出雲市大津町「出雲弥生の森博物館」の展示品。隣接する西谷(にしだに)墳墓群史跡公園の西谷3号墓の第一主体からの出土である。隣り合う第4主体が王墓とされ、二重の木棺からはガラス管
【1】大陸、半島から列島につながる燕国の遼寧青銅器文化 秦王の殺害を企てた燕国はおよそ紀元前十一世紀の春秋戦国時代から、北京あたりで金属器文化を持つ勢力であった。それは遼寧青銅器文化とも呼ばれている。北朝鮮の龍淵洞遺跡から多量の燕の鋳造鉄器や、燕国で流通し
【1】入鹿はどうして刀を俳優(わざひと)に預けてしまったのか? 次は入鹿が自分の剣を預けて座につく場面の一節。「中臣鎌子連、知蘇我入鹿臣、爲人多疑、晝夜持劒。而教俳優、方便令解、入鹿臣、咲而解劒、入侍于座」 用心深い入鹿は常に帯刀しているので、鎌足の策略で俳
【1】秦王(始皇帝)暗殺未遂を描く画像石 石材に図像を彫刻したものを画像石と呼び、築かれた古代の墳墓の装飾品としておかれる。その画像の題材に秦王の暗殺未遂事件を描いたものがよく使われた。なぜこの場面が死者を
⑴日本書紀の打毱(だきゅう) 2022年7月末の新聞報道に、日本古来の遊戯「打毬」に使われた可能性がある木球の記事があった。奈良市の平城宮跡で約三十五年前に出土した木球が、西洋の馬術競技ポロに似た日本古来の遊戯「打毬」に使われた可能性があることがわかったという
市民古代史の会京都 秋の講演会のお知らせ 済 ありがとうございました。2023年11月3日(金)祝日の日です。12時40分開場 13時開始 服部静尚さんは、「王朝交代の真相」の講演です。平城京の大和朝廷は、7世紀末の前王朝にとってかわったものなのです。この歴史の真実を
隋書倭国伝(岩波文庫)に記された婦が夫の家に入る際に犬〔火〕を跨ぐ、とあることについて、犬の可能性について検討(1)してきたが、現在も世界の各地で報告されている火に関わる婚姻儀礼とすることがやはり妥当であり、さらにこのことが九州の地を裴世清が見聞してい
三内丸山遺跡のシンボルのような存在となっている大型掘立柱建物(通称六本柱)は、復元にあたっては異論もあって、結局は妥協の産物とでもいえるような屋根のない床三層の違和感のある建物に落ち着いた。報告書や解説本を見る中でいくつか疑問点が浮かび、その後の検討の
ソグド人の研究が進んでおり、この集団の果たした歴史的役割が浮き彫りにされてきている。わずかだが、そのほんの一部を抜粋させていただく。 森部豊『唐―東ユーラシアの大帝国』中公新書2023 より「最近、隋唐革命が成功した別の要因も明らかになってきている。それ
古事記の下巻の仁徳記の前に、次のような記述がある。 起大雀皇帝盡豐御食炊屋比賣命凡十九天皇 仁徳(オホサザキノスメラミコト)から推古(トヨミケカシキヤヒメノミコト)まで十九の天皇、だとされている。ところが、実際の記事は十八代で一人少ないのである
◇九州年号一覧表 (倭国年号とも表記) 701年からの大和朝廷の「大宝」以前の517年より、九州王朝によって作られた年号。 九州年号については、後世の偽作といった論調がありますが、例えば聖武天皇は神亀元年(七二四年)十月一日の詔勅の中で、 「白鳳より以
3. 狭穂彦王のセリフ、「枕を高くして百年を終える」という現代語訳の疑問 次は、日本書紀の垂仁天皇紀の狭穂彦王と妹の狭穂姫が、天皇殺害を企てるも果たせずに自分たちの身を亡ぼすという顛末の説話。妹に対して、狭穂彦王の次のような台詞がある。 「必與汝照臨天
2. 三十年も泣いてばかりいる誉津別命 日本書紀の垂仁天皇二十三年秋九月の記事。天皇暗殺をもくろんだ狭穂彦(サホヒコ)の妹で垂仁天皇の皇后である狭穂媛が生んだ皇子の誉津別命は、三〇歳にもなっているのに髯も長いのに泣いてばかりいてしゃべれない。困った天皇が