秋山好古と明石元二郎は囲碁の好敵手でした。 明石元二郎(あかしもとじろう)と云えば、日露戦争時のロシアに対する諜報活動で著名な陸軍軍人です。彼はロシア公使館付武官として任命され、ロシアの政情不安を利用して反皇帝勢力と連携し、ロシアを内部から
「坂の上の雲ノロジー」とは、坂の上の雲と年表のクロノロジー(Chronology)を合わせた造語です。弊サイトでは、小説『坂の上の雲』(司馬遼太郎著)の物語である幕末と明治の出来事を、時系列にてまとめています。
1898年(明治31年)7月13日、正岡子規は「正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹の里人・・・」という墓誌銘を、河東銓に宛てて書き送ります。 正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書
1905年(明治38年)6月19日、小説「坂の上の雲」の主人公である秋山兄弟の母・貞が、千葉県習志野の秋山好古邸で永眠しました。(享年79歳) 秋山貞 この時、秋山兄弟は日露戦争に出征していましたが、弟の秋山真之は日本海海戦の後で佐世保に帰
1897年(明治30年)6月26日、明治海軍は日清戦争のため中断されていた留学制度を再開し、選抜した5人の海軍大尉を留学生として欧米諸国に派遣します。 この時選ばれたのが、イギリスに財部彪大尉、フランスに村上格一大尉、ドイツに林三子雄大尉、
聯合艦隊解散之辞(連合艦隊解散の辞)の原文を現代語訳、英訳で
1903年(明治36年)12月28日に、日本とロシアの開戦に備えて編成された連合艦隊は、1905年(明治38年)5月の日本海海戦に於いて華々しい勝利をあげ、戦いは終結。 同年12月20日、連合艦隊はその戦時編成を解き、東郷平八郎連合艦隊司令
サイ・ヤングと同い年!正岡子規が日本野球に残したその功績とは
西暦1867年、後に「サイ・ヤング賞」で有名なアメリカプロ野球にその名を刻むサイ・ヤングが誕生しますが、その年日本にも、後に日本野球の普及に多大な貢献を残す正岡子規が誕生したのでした。 1. ベースボールに熱中する正岡子規 正岡子規は、東京
正岡子規の経歴とその年の出来事 1867年(慶応3年) 9月17日 松山藩士正岡隼太常尚の長男として誕生 生誕の地松山市新玉町1丁目8、9番地、戦災後の街路改正で定かでなく、ほぼその跡に当る花園町筋に記念の標柱が立っている。 1869年(明
昭和11年に秋山好古大将伝記刊行会より発行された伝記『秋山好古』より、秋山好古の経歴をまとめました。 秋山好古の経歴 1859年(安政6年) 1月7日 伊予松山藩士・秋山久敬の三男に生まれる 1866年(慶応2年) 藩校・明教
大正7年に発行された『秋山眞之七七日忌念写真帖』及び昭和8年に秋山眞之会より発行された伝記『秋山眞之』より、秋山真之の経歴をまとめました。 秋山真之の経歴 1868年(慶応4年・明治元年) 3月20日 父・秋山久敬と母貞の五男として誕生 1
正岡子規の肖像写真です。なお、画像はPhotoshopのフィルター機能でカラー化しています。 正岡子規ポートレート(肖像写真) 明治7年の頃(写真下段の右から3番目が正岡子規) 明治18年頃母八重と写した記念写真 明治20年頃第一高等中学校
昭和11年に秋山好古大将伝記刊行会より発行された『秋山好古』より、秋山好古の肖像写真を掲載しています。なお、画像はPhotoshopのフィルター機能でカラー化しています。 秋山好古ポートレート(肖像写真) 大阪師範学校時代 少尉の時 大尉の
1918年(大正7年)に発行された『秋山眞之七七日忌念写真帖』より、秋山真之の肖像写真を掲載しています。なお、画像はPhotoshopのフィルター機能でカラー化しています。 秋山真之ポートレート(肖像写真) 両親並に12歳の時 少尉候補生の
司馬遼太郎氏が10年の歳月をかけた歴史長編小説『坂の上の雲』
「明治」という新しい時代が誕生してから100年後の1968年(昭和43年)4月22日(月)、「産経新聞」の夕刊に司馬遼太郎氏の連載小説がスタートします。それが、小説『坂の上の雲』です。 産経新聞(夕刊)に1968年(昭和43年)4月22日~
俳句の革新運動は正岡子規一人の運動ではなく、尾崎紅葉の硯友社においても、新しい句作が試みられた。ただ紅葉らにとって俳句は小説の余技でしかなく、俳句を遊戯とみなす伝統的思想から抜けきれないものがあった。 それに反して子規においては全く魂を打込
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秋山好古と明石元二郎は囲碁の好敵手でした。 明石元二郎(あかしもとじろう)と云えば、日露戦争時のロシアに対する諜報活動で著名な陸軍軍人です。彼はロシア公使館付武官として任命され、ロシアの政情不安を利用して反皇帝勢力と連携し、ロシアを内部から
昭和5年に発行されました『海軍逸話集』より、竹内重利中将の談話「秋山真之中将逸事」を現代文に訳してご紹介いたします。 1. 秋山真之の銅像建立に寄せて 秋山真之の銅像が近々故郷である松山に建てられることになったのは、本当に喜ばしいことです。
結婚は人生の重要な節目であり、夫婦が互いに調和し、理解し合うことは必要不可欠です。本文は、秋山真之が親族の令嬢の婚礼に際して贈った、結婚に関する古の智恵を集めた教えです。 これらの教えは、時代背景を反映したものであり、現代の視点から見ると一
「出来た人」というのはこうもあろうかと思うことがある。秋山好古大将がそういう人であった。 1. 大将の墓 大将の墓は、伊予松山市道後温泉の鶯谷という山にある。累々たる墓石の中に、一見しただけでは容易には見つけられないほど小さな墓で
1. 同胞(はらから)の交わり 『同胞(はらから)』という言葉や、『連枝』という表現は、兄弟間の年長者と年少者の序列を示し、これは君臣の義理、父子の親愛、夫婦の区別、友人間の信頼とともに、人間関係の基本的な道徳として称賛されていま
広瀬武夫は海軍兵学校の15期生、秋山真之は17期生になり、広瀬は秋山の先輩となります。 一方、この二人の誕生日はというと、秋山真之は1868年(慶應4年)の3月20日生まれで、広瀬武夫は同年の5月27日生まれとなるため、秋山真之の方が2ヶ月
(前編のあらすじ) 松山で誕生した正岡子規と秋山真之は外の世界への憧れを強めるようになり、上京を決意。憧れの東京で東京大学予備門に入学した二人は、立身出世を夢見て学問に励みます。そして、同じ夢を目指す同郷の仲間たちと青春を謳歌していました。
志半ばにして亡くなった友の死に、秋山真之と正岡子規は、友の為に必ず立身出世し、功を成し遂げようと誓います。様々な困難を励ましあい支えあい克服していった、二人の熱き友情の物語をご紹介いたします。 本文の構成は、2008年(平成20年)4月4日
戦艦「三笠」とは 日清戦争後、海軍は仮想敵国ロシアとの対決に備えて六・六艦隊の整備に着手します。六・六艦隊とは、戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を基幹とするもので、この拡張計画は1896年(明治29年)度から1905年(明治38年)度までの10年計
日本海海戦における秋山真之の名文「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」。 では、この「浪高シ」とは実際にはどのくらいの高さの波なのでしょうか。 1. 「浪高し」の波の高さはどのくらい? やがて飯田少佐が真之のところへやってきて、草稿をさし出した。「
1894年(明治27年)7月25日、日清戦争開戦時に東郷平八郎艦長の指揮する巡洋艦浪速がイギリス商船高陞号を撃沈する事件が起こりました。 1. 高陞号事件 高陞号撃沈の図 午前十時、済遠をさがしていた浪速は、べつの目標を発見した。大型汽船で
東郷平八郎の経歴 1847年(弘化4年) 12月22日 鹿児島城下、加治屋町の邸に誕生 1870年(明治3年) 12月11日 「龍驤」艦見習士官 1871年(明治4年) 3月12日 英国へ海軍修業として留学 1878年(明治11年) 1月3
1934年(昭和9年)5月30日午前7時、元帥・海軍大将・正二位・大勲位・功一級・侯爵東郷平八郎が逝去します。その生前の偉大な功績に対し、従一位に昇位、そして国葬を賜ります。 東郷平八郎、逝去 晩年の東郷平八郎(昭和8年11月頃撮影) *東
1. スペシャルドラマ坂の上の雲、第13回「日本海海戦」のロケ現場 撮影日:2010年5月27日 戦艦三笠ロケセット全容 セット 撮影中 水柱を上げる為の噴射機 三笠のファンネル(煙突)が被弾したシーン 戦艦三笠正面 被弾した煙突 本番前
1. 秋山家の人々 秋山真之(淳五郎) 【海兵17期】本ドラマの主人公。海軍の道に進み、後に連合艦隊参謀を務める 配役小林廉(幼少期)→ 本木雅弘 秋山好古(信三郎) 【旧陸士3期】秋山真之の兄。日本騎兵を戦略機動集団に育て「騎兵の父」と呼
第1部(2009年放送) 第1回「少年の国」 松山城 260年続いた幕藩体制を倒して、日本には「明治」近代国家が誕生した。その国は、帝国主義まっただ中の西欧列強という「大人」たちに囲まれた「少年の国」であった。 四国・伊予松山に三人の男がい
原作となる小説『坂の上の雲』は、1968年(昭和43年)~1972年(昭和47年)の4年3ヶ月に渡って「産経新聞」に連載され好評を博した作品で、日露戦争の時代を生きた明治の青春群像を、司馬遼太郎が10年の歳月をかけ渾身の力で書き上げた壮大な
1. 軍服で押し通す 乃木希典は新婚の初夜、花嫁の静子を放ったらかしにして酒を飲みに出かけほど、若い頃はかなり荒っぽい遊びをしていましたが、1888年(明治21年)、2年間のドイツ留学をを終えて帰ってくると、ガラリと変わって、衣食住にはまる
武士道は言葉ではない かってある人が乃木に「武士道」とは如何なるものでありましょうかと尋ねたところ、乃木は言下に、 武士道は言葉ではない と答えた。 そして自分は軍人であるから、政治など関係すべきでないと議員選挙にはいつも棄権した。 他人か
乃木希典(のぎまれすけ)とは 乃木希典 1849年(嘉永2年)11月11日、江戸の長府藩邸に生れる。 1865年(慶応元年)、報国隊に参加し幕府軍と戦う。 1869年(明治2年)、伏見御親兵兵営に入営、翌年脱藩騒動鎮圧のため帰藩する。 西南
結婚は人生の重要な節目であり、夫婦が互いに調和し、理解し合うことは必要不可欠です。本文は、秋山真之が親族の令嬢の婚礼に際して贈った、結婚に関する古の智恵を集めた教えです。 これらの教えは、時代背景を反映したものであり、現代の視点から見ると一