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坂の上の雲ノロジー https://sakakumo.com

「坂の上の雲ノロジー」とは、坂の上の雲と年表のクロノロジー(Chronology)を合わせた造語です。弊サイトでは、小説『坂の上の雲』(司馬遼太郎著)の物語である幕末と明治の出来事を、時系列にてまとめています。

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2022/04/18

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  • 広瀬武夫の名言・語録

    広瀬少佐の筆蹟(八代六郎大佐に宛てた告別の書簡) 広瀬少佐の筆蹟 指揮福井丸再赴旅順口閉塞 七生報国 七たび生まれて国に報ぜん 一死心堅 一死 心堅し 再期成功 再び成功を期し 含笑上船 笑みを含みて船に上る武夫天佑を確信し

  • 児玉源太郎の名言・語録

    1. 墓が立派になっていい 日露戦争開戦前の1898年(明治31年)に児玉源太郎は台湾総督に任命されます。1900年(明治33年)には台湾総督のまま陸軍大臣を兼任。そして1903年(明治36年)には内務大臣も兼任します。しかしこれだけの重任

  • 児玉源太郎の人となりが表れる逸話7選

    1. 児玉源太郎の水浴び 児玉大将産湯之井戸 児玉源太郎は幼年7歳の時から水浴びを始めます。以来、日露戦争の始まるまでの50年間は毎日欠かさず水浴びを続けたといいます。井戸に往き、頭からザブッと浴び、寒中といえども決して欠かすことはなかった

  • 稀世の英雄・児玉源太郎の人物評

    川上操六、桂太郎とともに「明治陸軍の三傑」と呼ばれる児玉源太郎の人物像及び人物評をご紹介いたします。 1. 児玉源太郎とは 児玉源太郎 1852年(嘉永5年)2月25日、周防国徳山藩士の子として生れる。父代わりの義兄が藩内旧主派に暗殺され一

  • 広瀬武夫の人となりが表れる逸話4選

    1. 広瀬武夫の大食漢 広瀬武夫が17、8歳で、まだ海軍士官でなかった頃の話です。広瀬は鰻丼なら5杯、お鮨なら10人前を平気で食べる大食漢であったそうです。 ある日、広瀬武夫が東京本所区花町のお祖母さん(継母のお母さん)の家に遊びに行った時

  • 軍神・広瀬武夫の人物評

    1. 広瀬武夫とは 1868年(慶応4年)5月27日、豊後国竹田町(大分県竹田市)に生まれる。父は岡藩士で、幕末期に倒幕に加わり、明治維新後は裁判官として大阪・岐阜など各地に赴任。海軍少将広瀬勝比古は実兄。 1885年(明治18年)、兄・勝

  • 秋山兄弟の母、秋山貞(山口貞)

    秋山貞(山口貞) 1827年(文政10年)、松山藩士山口正貞の二女として生まれる。 25歳の時に、貞は、 「親のいいつけだったらどこへでも行きますし、若い時の苦労はどんな苦労でも構いませんが、どうか老後だけは安楽に暮らしたいと思っています。

  • 正岡子規の母、正岡八重

    正岡八重 1845年(弘化2年)、伊予松山藩の藩校「明教館」の教授で漢学者の大原観山の長女として生まれる。 33歳の時に、御馬廻加番であった正岡常尚の後妻に入った。 常尚の先妻は、長男を生むとすぐに亡くなり、その長男も天折していた。 正岡家

  • 秋山真之の妻、秋山季子

    日頃より「大抵の人は、妻子を持つと共に片足を棺おけに衝込みて半死し、進取の気象衰へ退歩を治む」(天剣漫録)と結婚を否定し続けていた秋山真之が、ついに年貢を納めた相手とは 秋山季子 愛知県豊田市出身の宮内省御用掛稲生真履(まふみ)の三女として

  • 秋山好古の妻、秋山多美

    結婚生活の35年間、秋山好古はその半分以上家を留守にするが、家政の整理など、軍人の妻として秋山家を守った多美。 秋山多美 秋山夫妻 旧旗本佐久間正辰の長女。 秋山好古が陸軍士官学校を出て下級将校の頃、麹町土手三番町の佐久間正節家の本屋敷の離

  • 正岡子規の妹、正岡律

    正岡律とは 1870年(明治3年)、正岡常尚、八重の長女として生まれる。兄は俳人・正岡子規。 幼少の頃、子規がいじめられると、逆に小石を両手にもち、いじめっ子を追いかけたと云う。 律は子規が学友と難しい話をする輪に入っていこうとしなかったが

  • 小説「坂の上の雲」のあらすじ

    坂の上の雲 1 明治維新をとげ、近代国家の仲間入りをした日本は、息せき切って先進国に追いつこうとしていた。この時期を生きた四国松山出身の三人の男達―日露戦争においてコサック騎兵を破った秋山好古、日本海海戦の参謀秋山真之兄弟と文学の世界に巨大

  • 東郷平八郎の名言・語録

    1. やはり示現流 東郷平八郎が英国留学から帰朝した時に、友人が、英国海軍の模様いかにと尋ねた。 東郷はただ一言、「やはり示現流」と答えた。 この示現流とは、彼が青年時代に薩州で学びたる剣法一派の名であるが、この剣法は大なる長き棒を用いて、

  • 東郷平八郎の人となりが表れる逸話

    山本権兵衛は、東郷平八郎のことを「何事でも一つ目的を立てるとそれを達成するには極めて忠実であり、又意志も鞏固な男である」と評していますが、その性格は東郷平八郎の幼少時代の逸話からも見ることができます。 1. 東郷平八郎、馬に噛まれる 東郷家

  • Z旗:皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ

    毎年5月27日になると、横須賀の記念艦「三笠」をはじめ、日本海海戦に縁のある各処で、恒例の如くZ旗が掲陽されます。今回はこのZ旗についての謂われをご紹介いたします。 Z旗(ゼットキ)とは Z旗 Z旗(ゼットキ)とは、黄・青・赤・黒の四色で染

  • 聖将・東郷平八郎の人物評

    1. 東郷平八郎とは 東郷平八郎 1847年(弘化4年)12月22日、鹿児島藩士の子として生れる。 薩英戦争 初陣となった薩英戦争では、英艦のアームストロング砲の凄まじさを見せ付けられ、「海から来る敵は海にて防ぐべし」と悟る。 戊辰戦争 戊

  • 明治日本一の美人、末弘ヒロ子

    日本で最初に美人コンテストが行われたのは、明治半ばのことです。といっても、出場者を舞台の上に集め、審査を行うというようなものではなく、写真による審査が一般的でした。 1. 日本の美人コンテストの起源 1891年(明治24年)、東京浅草の凌雲

  • 秋山真之と慶應義塾野球部と褌論

    1907年(明治40年)10月31日、初めて布哇(ハワイ)のセントルイス野球団が来日し、早稲田、慶應野球部とそれぞれ対戦することになりました。 初の日米対抗野球試合 セントルイス野球団 大正12年発行『野球歴史写真帖』より しかし、早稲田は

  • 正岡子規、従軍記者となる

    1895年(明治28年)3月3日、正岡子規は日清戦争の従軍記者として東京を出発します。 従軍前に広島で記者仲間と写した写真、後列右が子規 子規の従軍が決定した。(中略)かれが東京を出発したのは、寒気が去った三月三日であった。その出発にあたっ

  • 秋山好古と二六年式拳銃

    秋山好古は戦時でも軍刀を用いず、平時佩用する模造刀身の指揮刀を携行しました。 そして、何よりも自決用のピストルをいつも首にぶら下げていました。 好古の本営は、廟であった。かれはテーブルの上にピストルと水筒をのせている。ピストルのひもが長く、

  • 「三笠艦橋の図」の真実

    有名な日本海海戦における東城鉦太郎作画の「三笠艦橋の図」です。 三笠艦橋の図 ただこの絵、ある点において史実通りに描けていません。 さてそれはどこでしょうか? 正解は、東郷平八郎(中央)の左後ろに構える秋山真之の恰好です。 小説『坂の上の雲

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