ブログみるアプリ
日本中の好きなブログをすばやく見られます
無料ダウンロード
ブログ村とはIDが異なります
メインカテゴリーを選択しなおす
フォロー
正岡子規の墓誌銘
1898年(明治31年)7月13日、正岡子規は「正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹の里人・・・」という墓誌銘を、河東銓に宛てて書き送ります。 正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書
2022/05/31 10:58
秋山兄弟の母・貞逝去の訃報に接し、秋山好古がとった行動は?
1905年(明治38年)6月19日、小説「坂の上の雲」の主人公である秋山兄弟の母・貞が、千葉県習志野の秋山好古邸で永眠しました。(享年79歳) 秋山貞 この時、秋山兄弟は日露戦争に出征していましたが、弟の秋山真之は日本海海戦の後で佐世保に帰
2022/05/30 19:14
海外留学を命ぜられた秋山真之の覚悟
1897年(明治30年)6月26日、明治海軍は日清戦争のため中断されていた留学制度を再開し、選抜した5人の海軍大尉を留学生として欧米諸国に派遣します。 この時選ばれたのが、イギリスに財部彪大尉、フランスに村上格一大尉、ドイツに林三子雄大尉、
2022/05/29 20:31
聯合艦隊解散之辞(連合艦隊解散の辞)の原文を現代語訳、英訳で
1903年(明治36年)12月28日に、日本とロシアの開戦に備えて編成された連合艦隊は、1905年(明治38年)5月の日本海海戦に於いて華々しい勝利をあげ、戦いは終結。 同年12月20日、連合艦隊はその戦時編成を解き、東郷平八郎連合艦隊司令
2022/05/28 19:47
サイ・ヤングと同い年!正岡子規が日本野球に残したその功績とは
西暦1867年、後に「サイ・ヤング賞」で有名なアメリカプロ野球にその名を刻むサイ・ヤングが誕生しますが、その年日本にも、後に日本野球の普及に多大な貢献を残す正岡子規が誕生したのでした。 1. ベースボールに熱中する正岡子規 正岡子規は、東京
2022/05/27 10:33
正岡子規、34年余の短き生涯(経歴と出来事)
正岡子規の経歴とその年の出来事 1867年(慶応3年) 9月17日 松山藩士正岡隼太常尚の長男として誕生 生誕の地松山市新玉町1丁目8、9番地、戦災後の街路改正で定かでなく、ほぼその跡に当る花園町筋に記念の標柱が立っている。 1869年(明
2022/05/23 15:32
秋山好古の経歴(官歴)
昭和11年に秋山好古大将伝記刊行会より発行された伝記『秋山好古』より、秋山好古の経歴をまとめました。 秋山好古の経歴 1859年(安政6年) 1月7日 伊予松山藩士・秋山久敬の三男に生まれる 1866年(慶応2年) 藩校・明教
2022/05/22 11:53
秋山真之の経歴(官歴)
大正7年に発行された『秋山眞之七七日忌念写真帖』及び昭和8年に秋山眞之会より発行された伝記『秋山眞之』より、秋山真之の経歴をまとめました。 秋山真之の経歴 1868年(慶応4年・明治元年) 3月20日 父・秋山久敬と母貞の五男として誕生 1
2022/05/21 09:13
正岡子規の肖像写真カラー化10選
正岡子規の肖像写真です。なお、画像はPhotoshopのフィルター機能でカラー化しています。 正岡子規ポートレート(肖像写真) 明治7年の頃(写真下段の右から3番目が正岡子規) 明治18年頃母八重と写した記念写真 明治20年頃第一高等中学校
2022/05/18 19:46
秋山好古のポートレート(肖像写真)9選
昭和11年に秋山好古大将伝記刊行会より発行された『秋山好古』より、秋山好古の肖像写真を掲載しています。なお、画像はPhotoshopのフィルター機能でカラー化しています。 秋山好古ポートレート(肖像写真) 大阪師範学校時代 少尉の時 大尉の
2022/05/16 09:24
秋山真之のポートレート(肖像写真)13選
1918年(大正7年)に発行された『秋山眞之七七日忌念写真帖』より、秋山真之の肖像写真を掲載しています。なお、画像はPhotoshopのフィルター機能でカラー化しています。 秋山真之ポートレート(肖像写真) 両親並に12歳の時 少尉候補生の
2022/05/13 11:58
司馬遼太郎氏が10年の歳月をかけた歴史長編小説『坂の上の雲』
「明治」という新しい時代が誕生してから100年後の1968年(昭和43年)4月22日(月)、「産経新聞」の夕刊に司馬遼太郎氏の連載小説がスタートします。それが、小説『坂の上の雲』です。 産経新聞(夕刊)に1968年(昭和43年)4月22日~
2022/05/06 18:54
魂を打込んだ正岡子規の俳句革新運動
俳句の革新運動は正岡子規一人の運動ではなく、尾崎紅葉の硯友社においても、新しい句作が試みられた。ただ紅葉らにとって俳句は小説の余技でしかなく、俳句を遊戯とみなす伝統的思想から抜けきれないものがあった。 それに反して子規においては全く魂を打込
2022/05/04 19:58
2022年5月 (1件〜100件)
「ブログリーダー」を活用して、sakanouenokumoさんをフォローしませんか?