アフロ・キューバン・ララバイJ.マーシャル編使用写真撮影者 : 学生時代に安いデジカメで撮影したものですギター : 中出敏彦 MASTER DELUXE 120 1995年製作(松・ハカランダ)弦 : オーガスチン インペリアルRED SETオーディオ・インターフェース : steinberg UR22Cマイク : AKG C214夏になると海を思いながら無性に弾きたくなる曲です。カリブ海の明るい日差しと、アフリカのリフのように繰り返される単調なメロディーが融合したよ...
クラシック音楽を自分の心が感じたそのままに記す事をモットーにしています。 クラシック・ギターのアナリーゼの考察実践の練習風景や、作品演奏動画、自作品をアップしています。 お知らせ下さればフォローいたします。
DAWソフトに詳しい方、是非お友達になってください。 オンラインで一緒にジャンル問わず何でもありのバンド演奏も如何ですか? 私はアコギ、エレキ、ベース、クラシック・ギターは演奏可能です。 自作品への参加も、お手伝いしてくださると助かります。
交響曲 第7番 イ長調 op.92(1)/L.v.ベートーヴェン/トスカニーニ(1936L/51L)
ベートーヴェンの交響曲の中で、そのリズムによって生命が宿るように思える第7番をトスカニーニは2つの盤でそれぞれに思わず別の驚きが発見できる演奏を残してくれました。1936年の第7番が、動きが柔軟でニューヨーク・フィルの音の出方と精度を感じた第7番になっているのに対し、54年盤の最上段から振り下ろすようなソリッドさの中で勢いを増して飛び出て来るフレーズの生命力に押し切られる凄演に圧倒されながらも比べてしまうと...
P.de.ラ・リュー/ミサ曲 Cum iocunditale(喜びて)/モテット/他
ネーデルランド楽派の音楽家達が、多旋律の新しい可能性とそれによる響きを試みていた頃、シンプル故に現在の機能和声とそれから逸脱して行った音楽以上の新しい響きがその頃には次々と生み出されて行ったのではないでしょうか。ラ・リューの工夫して試していったポリフォニーは、多旋律なのに文節を持つように、頻繁に長音で調和を取るように完全と付くハーモニーを響かせると感じます。ミサ曲では、各声部が交差するよりも平行に...
本来なら最初にチッコリーニのもの(キレの良いコンソメの透明感を持つものですが)を示すべきだとは思うのですが、チャウダーの感触で(シチューよりは濃くないと言いたいのですが)アンニュイさを醸したロジェ盤の魅力からと何故か決めてしまいました。それは週末の夜、グラスを片手にクール・ジャズ或いはウエストコースト・ジャズに浸るような落ち着いた贅沢さを約束してくれるものです。実際に会うと印象が変わるのかも知れません...
フランス山人の歌による交響曲 op.25 (セヴァンヌ交響曲)/V.ダンディ
皆さんは音楽を愉しまれる時に最初に細かくその盤に合った音量を探りますでしょうか。私は最小音が微かに感じられる位の音量を基準とするのですが、そこから録音によって音が生命を持つ場所をかなり細かく探ります。何故これを記すかというと、デュトワ盤の「フランス山人の歌による交響曲」はそれらの基準から少し離れて、重低音がズーンとなるくらいで初めてその美しさが香り立つ独特のものだと思うからです。言い換えるならば、...
歌劇「フィガロの結婚」K.492(2)/W.A.モーツァルト/フルトヴェングラー(1953L)
自分でも呆れる程、いつも思い出してしまうフルトヴェングラーの「ドン・ジョバンニ」・・。愛が甘い毒を持って奏でられる時、その劇的な音楽の激流をもってラストを迎える時、モーツァルトの中に様式を越えたとんでもないものを見たように思います。そして、後にも先にもそれを感じるのはフルトヴェングラーだけなのでした。「魔笛」ではファンタジーの世界で意気揚々と音楽をしているような音楽力のようなものを放つのがフルトヴ...
歌劇「フィガロの結婚」K.492(1)/W.A.モーツァルト/カール・ベーム(1968)
「フィガロの結婚」の中でもズボン役で演じられるケルビーノに関する(フィガロの歌う「もう飛ぶまいぞこの蝶々」含む)アリアが印象に残る曲が多いと感じています。男性であるケルビーノが女声によって歌われ、しかも劇中で女装までするので紛らわしいのですが、そのケルビーノが後のドン・ジョバンニという話は
フランス組曲 d'après Claude Gervaise FP80の3つの形/F.プーランク
F.プーランクの「フランス組曲」はC.ジェルヴェーズの作品を最初に管弦楽版として編曲し、それをピアノ用、室内楽用(辞典には記されていない)へとさらに編曲したようです。彼が1963年というかなり最近?まで活動していた事から、その足跡は曖昧さをほぼ残さず記され、編曲も含め全作品が完璧に近い形でBOXとなって発売されるのは嬉しいものです。その作風が現代的であり、普段着のような魅力を持つ事からピアノ作品ではピアニストに...
ファウスト交響曲(3人の人物描写による)/メフィスト・ワルツ(管弦楽版/ピアノ版)/F.リスト
リストはたちどころに心に焼き付いてしまう旋律や情景を描いてしまう作曲家だと思います。それは交響詩「前奏曲」の金管の煌めきであり、「マゼッパ」の金管の行進の雰囲気、「ハンガリー狂詩曲 第2番」開始のそれなどは誰もが一度は心を騒がせられた部分なのではないでしょうか。ピアノのヴィルトゥオーゾであったリストが、同時に交響詩など管弦楽作品にも多大な影響をもたらした事が分かります。実は、子供の頃はリストの交響詩...
合奏協奏曲 op.2(全曲)/op.3 op.5 op.7(抜粋)/F.S.ジェミニアーニ
ここで示したジェミニアーニのアルバムは、全曲のop.2は6つの協奏曲からなり、抜粋版も1つの協奏曲として完成された形で収録されています。この合奏協奏曲は作品番号の全てを通して聴く大宴会にも、その中から単一の協奏曲として取り出しても、実用音楽(その中には季節や風景に溢れる)の持つ娯楽というものを楽しめるものだと信じます。Francesco Savero Geminiani (1687-1762 伊)A.コレッリ、A.スカルラッティに学び、のちロンド...
F.J.ハイドン : サルヴェ・レジナ/テ・デウム/モテット
古典派様式全体でハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンを3つの巨峰とするならば、モーツァルトやベートーヴェンに比べると活躍期間の長かったハイドンは私の中では後期交響曲から接したせいか老齢の落ち着きを感じたのですが、3人の中で最もエレガントなチャーミングさを音楽から感じるのもハイドンなのでした。それは宗教曲に於いても、例えばサルヴェ・レジナのオルガンの短くピロピロとした刻みに非常に親しみ易さを感じた...
このアルバムは、ハイドンの歌劇とカンタータから美味しい所どりのような楽しさを持つものですが、意外にも私はこの演奏を通してハイドンの別の顔が見えた事が嬉しく、また驚いたものでした。ハイドンの歌劇はあまり聴かれないように思うのですが、ここに聴くそれは何れも非常に明快な(大衆にも分かり易く且つ洒落た)娯楽があり、それは優雅で、ベートーヴェンの「フィデリオ」に見るような強いメッセージを潜ませない事による気軽...
ウインド楽器のみによる小編成で繰り広げられる響きはとても不思議です。それは音の流れが息による自然なしなやかさを持ちながらも、その発音に於いてはタンギングというたった一つの舌が運動性に於いて4本の左指(ヴァイオリン属やギター)には少々不利な事による高速パッセージのしどろもどろさや、楽器の温まり具合やブレスの強弱で音程が変わるものが集まった時の若干の不安定さをかえって魅惑だと感じる事によります。しかし、...
F.J.ハイドン : ミサ曲集(5)/ミサ 第10番 変ロ長調 「テレジア・ミサ」 Hob. XXII:12
静かに静かに浮かび上がるように開始される「テレジア・ミサ」は慈悲と憐れみが同居するような導入部と、その後に待つ大きな喜びを予見するようなキリエが特徴です。ここでもう一度通常文によるミサの構成*を確認すると、この第10番の、そしてハイドンのミサ曲の各典礼文の捉え方が浮かび上がるように思います。作曲家各自のミサ典礼文への微妙に違う捉え方が全体像の違いを生み、
F.J.ハイドン : ミサ曲集(4)/ミサ 第9番 ニ短調 「困苦の時のミサ」(ネルソン・ミサ) Hob. XXII:11
長い校長の演説が、ある日予想外に短く終わった時に巻き起こった歓喜の拍手・・ぁ時代が人々の考え方の変化、生活の変化と共に移り変わって行く中で、ミサもそれまでの複雑なものが一般的ではなくなったとあります。(下記引用参照)それとほぼ同じくして音楽も新しい古典派様式へと変化して行ったのは必然であり、音楽だけ音楽史として別の流れに存在するのではなく、それは歴史と共にある事を知るのでした。ハイドンのミサ 第9番は...
F.J.ハイドン : ミサ曲集(3)/ミサ 第8番 変ロ長調 「オフィダの聖ベルナルドの讃美のミサ」(ハイリッヒ・ミサ) Hob. XXII:10
ハイドンの後期6大ミサの1曲である第8番は辞典によると第7番と同じ年に作曲されています。その創作意欲に驚くばかりで、しかもジャンルの違う作品も同時に進めていた事を思うと(1曲集中型のシングル・スレッド脳の私には・・あぅ)異世界の人のように思えてしまうのでした。それにしてもハイドンのミサ曲には呼び名が多くて迷いそう。~~~~~~~唐突ですが、今日は会社で社長と同僚との気まずい一瞬に遭遇してしまい、居合わせた私に...
F.J.ハイドン : ミサ曲集(2)/ミサ 第7番 ハ長調 「よき四月斎日のミサ」(戦時のミサ/太鼓ミサ) Hob.XXII:9
キリエの明るさが麗しい第7番はやがてその趣が段々と変わって行き、通奏低音を持ちながらも例えばクレドの途中で劇的に切り替わる物語性にバロック時代とは確かに違ったミサの姿を感じ、同時にそれが大きな魅力となっています。それは、バーンスタインがこの作品に思い入れを持っていた事からも伝わると思われるのですが、ここでもハイドンの音楽がいかに多様性を秘めたものであるかが窺われます。古典派様式という最もフォーマッ...
F.J.ハイドン : ミサ曲集(1)/ミサ曲 第2番 変ホ長調 Hob.22-4「大オルガン・ミサ」
シューベルトのミサ曲を記していた頃、同時に古典派のハイドンの宗教作品も記したいと思っていました。それは、ルネサンスやバロックの膨大な作品で知る多旋律ミサと、それらが色濃く残ったり、和声感が変わったり、モノディの集合体のようになったりと、姿を変えて行った古典派以降の作品たちの葛藤を感じたからなのかも知れません。モーツァルトやベートーヴェン、ブラームスやブルックナーと、ミサは西欧音楽で様式感を変えなが...
標題が付いていてもおかしくないような第6番は*オネゲルと近い感覚を持ちますが、新古典主義に感じる無情さ・無機質なものにロマン派がまだ燻ぶるような情緒も含まれ、これが第4番との趣の似て非なる特徴だと思います。それは続く「南極交響曲」の予兆の様でもあり、ヴォーン=ウィリアムズの交響曲がベートーヴェンに見るような巨大な山ではなく、全体で少し捉えどころのないと感じられる遠景の連峰のように感じています。*今回の...
南フランスに君臨したガストン3世の宮廷音楽集(14世紀後半)
ガストン3世Gaston Fébus(フォワ伯) (1331-1391 仏)オルテスという街を調べてみるとフランスとスペインを隔てるピレネー山脈の大西洋に近い側にあるようです。その地では演奏家たちが競って自分をアピール(フォワ伯の嗜好もおおいに影響を与えたと思われる)していたのだろうと伝わるアルバムです。音楽史に於いて、大きな様式の括りの中に独立するように点在する地方色、それらは現在よりも多彩であり、しかもその独自性は強烈であ...
同じ演奏家が同一作品のピッチを変えて再録音した意味を探る/A.ロボ:「わがハープは悲しみの音に変わり」・他
ピッチが変わると、同じ定旋律、典礼文を持ちながらも、その祈りの意味・状況が違って聴こえる不思議があり、この事によって祈りというものにも個人により、また、時によりその濃淡を変えて行く事があるのだと感じたものでした。同時に、こう言った宗教曲で祈りに優劣がある筈がなく、その真摯で敬虔な祈りのムラこそ人間なのだと思った次第です。[収録作品]・「わがハープは悲しみの音に変わり」 Versa est in luctum (℗1987) (℗1...
ここに演奏されている作品、作曲家はギターを通してまだ1度も接していなかった事を知りました。鍵盤楽器にその座を譲るまで宮廷でもステータスであったリュートが、こうして歌とリュートという現在の弾き語りと似た形式で聴くと、当時の暮らしや世相をありのままに感じられるような錯覚を持ちます。そんな中で、フランスのものに絞られたこのアルバムは、当時の人々の様子や嗜好が歌われ、地方色として感じられる事が魅力なのだと...
テレマン、バッハ、ヘンデル、ビーバーたちお馴染みの音楽家の作品だけでなく、このアルバムで初めて触れる事が出来た作品の作風というものにバロックの別の顔を感じたように思います。トランペットという派手で存在感の強い楽器と、それを活かす組み合わせニ長調とハ長調という当時のフォーマットのような金管が活躍する調で繰り広げられるバロックの雅さはまさにこの時代の響きを感じます。このオムニバス・アルバムは、「水上の...
「REQUIEM(邦題:タリススコラーズ~レクイエムを歌う)」という2枚組のアルバムにはイベリア半島の3人の作曲家によるレクイエム・その他が収録されています。そして、そこには共通するもの、即ちパレストリーナの書法への関連、また、彼ら3人がお互いに影響し合った事が窺えます。私が推測している事は、時の宮廷の要求が極力重なった音に濁りのない明快さを求めたという場所的・時代的風潮があるのではという事です。それは土地柄...
弦楽四重奏曲 第6番 ト長調 op.101/D.D.ショスタコーヴィチ
ショスタコーヴィチにとってト長調はもはや真っ当なものではなく、その軽やかで明るいという特性を利用して何かやってやろうとしているとさえ思えます。彼はまるで悪知恵というものが働くように、ただひたすらそれを探し出して来るのだと思うのでした。弦楽四重奏曲 第6番 ト長調 op.101作曲 : 1956年初演 : 1956年 レニングラード(引用:クラシック音楽作品名辞典/三省堂)スコアの自筆楽譜では、第1楽章を1956年8月7日に、第2楽章...
古楽の世界は、多分この数十年(少なくとも2-30年以内)に新しい発見・研究が急速に進んだのではないでしょうか。それは私の持つ辞典には掲載されていない作曲家たちに多く出会うようになり、幸いにも彼らの事は演奏という形で、また、検索すれば(全てではありませんが)誰でも知る事が出来るという凄い時代なのだと感じます。イベリア半島のルネサンスからバロックの作曲家達ではT.L.deヴィクトリア、M.カルドーゾ、A.ロボ、D.ローボ...
仮眠で何とかしのいだ3日間、やっと1日だけとれた今日はゴロゴロと転がる事に決めました。という事で、リフレッシュを兼ねて今日届いたばかりのアルバムを
三善晃さんは、私の中ではギター曲「エピターズ」、「プロターズ」という現代作品の作曲家というイメージがあります。ブローウェルの現代音楽とキューバの風が混ざったような作品達を弾くのが好きな私は、ギターの深い余韻の無機質感が創り上げる世界に魅せられています。そのイメージで最初接した三善晃さんの歌曲は、何と、紗(しゃ・うすぎぬ・さ)の繊細な抒情と日本の暮らしに息づいてきた独特の感性が心に染み込むものであった...
シューマンはピアノ五重奏曲をこの1曲だけ作曲しています。シューマンの音楽が外へと向かった時の華やかさもまた特筆されるべきものではないでしょうか。コンサート用の伸びやかで華々しい感覚は、ブラームスが渋く表したのと好対照の、いえ、ヴィルトゥオーゾがノッタ時の実力+α+α・・の神懸った瞬間を(もしかしてクララの或る日のそれを)彼は知っているのではないかと思うのです。そして、もう一つシューマン独自のものが存在し...
シューマンにとって、ある決まった楽器や同ジャンルで描きたかったものは、彼自身の心が最も反応する固定されたイメージが存在したのではないかと思うようになって来ました。2つの三重奏曲でシューマンが選んだ調はニ短調とヘ長調、裏返せばどちらも同じ響きが移旋によって現れる関係となり、三重奏曲に於いてシューマンが描いた世界が見えて来ると思えました。それは家庭・家族であったと感じます。ピアノ三重奏曲 第1番 ニ短調 o...
アダージョとアレグロ 変イ長調 op.70/ロマンス op.94-1/R.シューマン
9月に入るとあっという間に暮れになると感じるのは私だけでしょうか。もう少しするとブラームスが恋しくなるのもいつもの事なのですが・・、私は少しでも音楽への理解が増したのかというと、ますます混迷するばかりのような気がします。アダージョとアレグロ 変イ長調 op.70編成 : Hrn(またはVc)/P作曲 : 1849年☆原題は「ロマンスとアレグロ」(引用:クラシック音楽作品名辞典/三省堂)ホルンまたはチェロでの演奏のために作曲された...
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アフロ・キューバン・ララバイJ.マーシャル編使用写真撮影者 : 学生時代に安いデジカメで撮影したものですギター : 中出敏彦 MASTER DELUXE 120 1995年製作(松・ハカランダ)弦 : オーガスチン インペリアルRED SETオーディオ・インターフェース : steinberg UR22Cマイク : AKG C214夏になると海を思いながら無性に弾きたくなる曲です。カリブ海の明るい日差しと、アフリカのリフのように繰り返される単調なメロディーが融合したよ...
チャイコフスキーの交響曲は、ドヴォルザークのそれらと同じく、後期の3曲辺りが発売される事が多いように思っています。私はどの作曲家も第1番にそのルーツを見るような気がしていて、それが例えマイナーで入手困難であっても可能な限り揃えるようにしているのですが、そこには大成する前の初々しさ等と共に、彼等独自の感性の根源に必ず出会うようにも思っています。第4番から第6番「悲愴」は本当に録音が多いのですが、初期の標...
ヴィヴァルディの良さの一つに、情に深入りせずサラッと聴かせる、それでいて風景や喜怒哀楽の描写には強い共感を覚えるという事もあるのではないでしょうか。必要に迫られて実用音楽・教育(孤児院施設での)に大量生産した彼は、既に作られた自作品を変奏曲のように様々に料理できる才能に恵まれていたと感じたのです。いえ・・、もしかするとその需要こそが彼の素材を多種に展開する腕を磨いたのかも知れませんね。ですから、変奏...
もう使わずベッドの下に眠るだけのBOX・・。希少なものを集めていると自負する私は、誰かに聴かれる方が・・、欲しいと思っている人の手に委ねる方が・・、と思うようになりました。それは最近までこのブログでも単盤で貰い手を募っていたCDたちへの想いと同じです。中にはamazonに現在99,970円というとんでもない値段で並んでいるもの、3-4万のものなども多くあるのですが、オークションには10,000円程で次の日曜まで並んでいま...
当ブログで出会うことの出来ました皆様からの優しさ、記事のないままご訪問くださいます事に申し訳ない気持ちと感謝で胸一杯です。この場を借りてお礼申し上げます。アトリエ・バロック・フランセーズの臼井先生のブログからいつも前に進もうというお力を頂き、助けて頂いていたという事も記させてください。まだ暫くは徹夜に近い仕事に追われる毎日が続きますが、その甲斐あってもう一つの大きなプロジェクトにも参入出来る運びと...
ニ長調のワルツ作曲 : F.ターレガ使用写真撮影者 : ヒロサカ様 https://tomoyan10.blog.ss-blog.jp/ギター : 中出敏彦 MASTER DELUXE 120 1995年製作(松・ハカランダ)弦 : オーガスチン インペリアルRED SETオーディオ・インターフェース : steinberg UR22Cマイク : AKG C214昨年は介護のために爪を伸ばせなくなり録音する事が出来ませんでした。それでも毎日、基本練習だけはサボらずにしていたのですが、それまで染み込ませた感...
鍵盤楽器が独奏楽器として普及する前、それを担ったのが指で直接弾くギター族(仮)であった事は西欧音楽史の最初の方に記されています。ミランやナルバエス・・、スカルラッティたちが活躍する以前のスペイン宮廷で独奏楽器や歌曲の伴奏楽器としてのビウェラを用いて時代の音を響かせた彼らを知る音楽愛好家はまだ少ないのではないでしょうか。今回はビウェラ、リュート、ギターで弾かれるミラン作品を集めてみました。ルイス・デ・...
いみじき時 (歌曲集「灰色の歌」より)詞 : P.ヴェルレーヌ作曲 : 1892年葡萄摘みの3日間詞 : A.ドーデーリラの葉影の夜うぐいす (または「リラに来るうぐいす」)詞 : L.ドーファン恋する乙女詞 : ド・プリヴィユR.アーン Reynaldo Hahn (1874-19447 仏)マスネー風の甘美な旋律性により知られ、歌劇を含む80曲の劇場作品や、協奏曲、室内楽曲もあるが、104曲の歌曲がすぐれている。(引用:クラシック音楽作品名辞典/三省堂)※各アルバ...
フィヨルドの雄大な晩秋を感じる「秋に」は、演奏会用序曲としてのスケールと、グリーグの細やかで繊細な描写を併せ持つ作品ではないでしょうか。この作品でのグリーグの書法は明快であり、描くものが例えば下降音型であれば吹きすさぶ北風であったりと、ノルウェーの自然と密接な繋がりを感じます。それは短い秋に既に冬の厳しさが窺え、彼の家の立つフィヨルドを望む山と海とが一緒になった切り立った崖の壮観さとなるように思い...
ギター作品「セゴヴィア-ナ op.366」に聴く近代パリの街並みを思わせる雰囲気から知る事となったミヨーは、プーランク(ギター作品「ギターのためのサラバンド FP179」)やメシアンたちと同じ時代を生きた作曲家ですが、その作風はより馴染み良い特徴を持つと感じます。同じくギター作品を書いたルーセル(ギター作品「セゴヴィアop.29」)は印象主義からバーバリズム、新古典派へと作風が移り変わって行くように、当時のフランスは様...
この二つは書法的に正反対の作品ですが、驚く事に感覚として伝わるものは共通するのです。調性の持つ色、そこから生まれる音度差の作る情というものが、それを失ってなおベルクの世界を描いて見せる事に驚くのです。ベルク作品の場合は無機質なものとならず原子にまで分解されてもなお本質を残し続ける事に魅せられました。「私の眼を閉じさせて」の第1作は木や土壁、或いは程良く古びた壁紙に柔らかな灯かりの燈るカフェの片隅、...
バルビローリが現ワーナーに録音したモーツァルトの交響曲は29番と41番しかないという事に驚きます。そこで数年に渡る批評誌を持つ友人に29番とジュピターの様子を訊ねてみるのですが、そこには彼の録音はどの年度にも挙がっていないようでそれにも驚いたのです。何故って、29番の愉悦感、響きの美しさは私の持つ何れよりも美しく、しかも録音も優秀であった事を示すように目の前に浮かび上がって来る音場のどの角度もまんべんなく...
いきなり文として成り立ちませんが、楷書による一筆書きのような演奏、それがワルターの29番だと思います。それは[端正で明確な意思を持つ]楷書による[その運びにより]一筆書きと感じたからです。演奏速度が私の持つ盤では最も軽やかで爽快、しかし弾き崩さない清潔感を保ったままでそれを成し得る事に驚きます。ワルター盤とコープマン盤はモダンとピリオドでの29番の理想像・・と、わたし自身は勝手に思っているのですが(なんと💦...
ケテルビーの描く世界は、実際はその土地っぽくリズムとメロディーを工夫したイメージ音楽である事に気付きます。それは映画などでも聴く独自のヴァーチャルな世界観を持つもので、その作曲書法はガヴォットを用いたりと、兎に角馴染み易い西欧のフォーマットを基本としたものである事が感じられました。しかし、子供の時に夢の世界へ連れて行ってくれた音の世界は魅力的であり、その楽しみはクラシックの下でも上でもない確固とし...
モーツァルト作品の魅力の一つに心地良い快速性を含めるとすると、29番はまさにそれに当てはまる交響曲だと思うのですが、クレンペラーは優雅に描き、そこに漂うニュアンスが細やかな表情を見せて愛らしいものになっています。これはベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」で触れた近寄り難いクレンペラーとはまるで別人のように思えたのも驚きの一つでした。クレンペラーはベートーヴェンとモーツァルトの違いをハッキリと描き分けた指揮...
私はモーツァルトの第29番を最もチャーミングな交響曲と思っています。彼の交響曲で最も大好きなのは第39番だと言うのは既に記しましたが、劇的な第25番や第40番の印象が強かったモーツァルトが、コープマンによる第29番との最初の出会いにより友人のような近しさを覚える事となりました。イ長調はギターではよく用いられる調で、その派手さと力強い輝きが特徴ですが、同主調のイ短調が組み合わされた時の響き、そのイ短調がハ長調...
オルガンもオーケストラも、その土地の響きを持つとするならば、今回の2組の演奏は見事にそれを表していると思います。録音年だけを見て、タイトルの通りどちらが現代風で、どちらが古風と考えられるでしょうか?実はカントロフ盤の響きというものが、案外バッハ達ドイツの作曲家の作品によって意識下に影響を受けているのではないかと思ったのもフランスの近・現代作品であるプーランク作品だからなのかも知れません。オルガン、弦...
複雑で心を騒ぎ立たせるロマン派の作品を楽しんでいると、たまに聴きたくなるのがただひたすら純粋な中世~ルネサンスの作品、あるいはPOPSやBlues.ROCKやJAZZであったりします。そして思います、遥か昔の世俗歌曲と現代の(広義での)POPSの共通点を。これらはいつの時代も変わらない人々の暮らしの一部として、或いは気軽な友達のようにずっと身近に在りつづけて来たのだと。何より曲によって使い分けられるリュートによるメロディ...
心はロマン派にあり、手法は古典派の先輩方への敬愛を示すシューベルトが残したピアノ三重奏曲は4曲あるそうです。しかし、辞典に記され演奏で聴くのは第1・2番と呼ばれる最晩年の作品2曲となっています。それら第1番・第2番と呼ばれるものは何れも最晩年に書かれていますが、第1番の方が第2番の後に作曲された(?)とも記されており現在でもはっきりとはしていないとあります。第1番が1828だとすると、それはシューベルト没年(1797-...
もしかすると人は愛しいもの(人だけではない)を想う時には美しい旋律を、別れる・離れる時には哀しさを堪えるために無機質(寂しい・虚しい/太陽は昇っているのに温かさを感じない/味がしない/周りが別世界に思える等)と感じるのでしょうか・・。それらと一緒に過ごせた喜びという想い出となった時に「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲のように美しく漂い、同時にそれが過去形である事の切なさも心に固まりとなって存在する事...
チャイコフスキーの交響曲は、ドヴォルザークのそれらと同じく、後期の3曲辺りが発売される事が多いように思っています。私はどの作曲家も第1番にそのルーツを見るような気がしていて、それが例えマイナーで入手困難であっても可能な限り揃えるようにしているのですが、そこには大成する前の初々しさ等と共に、彼等独自の感性の根源に必ず出会うようにも思っています。第4番から第6番「悲愴」は本当に録音が多いのですが、初期の標...
ヴィヴァルディの良さの一つに、情に深入りせずサラッと聴かせる、それでいて風景や喜怒哀楽の描写には強い共感を覚えるという事もあるのではないでしょうか。必要に迫られて実用音楽・教育(孤児院施設での)に大量生産した彼は、既に作られた自作品を変奏曲のように様々に料理できる才能に恵まれていたと感じたのです。いえ・・、もしかするとその需要こそが彼の素材を多種に展開する腕を磨いたのかも知れませんね。ですから、変奏...
もう使わずベッドの下に眠るだけのBOX・・。希少なものを集めていると自負する私は、誰かに聴かれる方が・・、欲しいと思っている人の手に委ねる方が・・、と思うようになりました。それは最近までこのブログでも単盤で貰い手を募っていたCDたちへの想いと同じです。中にはamazonに現在99,970円というとんでもない値段で並んでいるもの、3-4万のものなども多くあるのですが、オークションには10,000円程で次の日曜まで並んでいま...
当ブログで出会うことの出来ました皆様からの優しさ、記事のないままご訪問くださいます事に申し訳ない気持ちと感謝で胸一杯です。この場を借りてお礼申し上げます。アトリエ・バロック・フランセーズの臼井先生のブログからいつも前に進もうというお力を頂き、助けて頂いていたという事も記させてください。まだ暫くは徹夜に近い仕事に追われる毎日が続きますが、その甲斐あってもう一つの大きなプロジェクトにも参入出来る運びと...
ニ長調のワルツ作曲 : F.ターレガ使用写真撮影者 : ヒロサカ様 https://tomoyan10.blog.ss-blog.jp/ギター : 中出敏彦 MASTER DELUXE 120 1995年製作(松・ハカランダ)弦 : オーガスチン インペリアルRED SETオーディオ・インターフェース : steinberg UR22Cマイク : AKG C214昨年は介護のために爪を伸ばせなくなり録音する事が出来ませんでした。それでも毎日、基本練習だけはサボらずにしていたのですが、それまで染み込ませた感...
鍵盤楽器が独奏楽器として普及する前、それを担ったのが指で直接弾くギター族(仮)であった事は西欧音楽史の最初の方に記されています。ミランやナルバエス・・、スカルラッティたちが活躍する以前のスペイン宮廷で独奏楽器や歌曲の伴奏楽器としてのビウェラを用いて時代の音を響かせた彼らを知る音楽愛好家はまだ少ないのではないでしょうか。今回はビウェラ、リュート、ギターで弾かれるミラン作品を集めてみました。ルイス・デ・...
いみじき時 (歌曲集「灰色の歌」より)詞 : P.ヴェルレーヌ作曲 : 1892年葡萄摘みの3日間詞 : A.ドーデーリラの葉影の夜うぐいす (または「リラに来るうぐいす」)詞 : L.ドーファン恋する乙女詞 : ド・プリヴィユR.アーン Reynaldo Hahn (1874-19447 仏)マスネー風の甘美な旋律性により知られ、歌劇を含む80曲の劇場作品や、協奏曲、室内楽曲もあるが、104曲の歌曲がすぐれている。(引用:クラシック音楽作品名辞典/三省堂)※各アルバ...
フィヨルドの雄大な晩秋を感じる「秋に」は、演奏会用序曲としてのスケールと、グリーグの細やかで繊細な描写を併せ持つ作品ではないでしょうか。この作品でのグリーグの書法は明快であり、描くものが例えば下降音型であれば吹きすさぶ北風であったりと、ノルウェーの自然と密接な繋がりを感じます。それは短い秋に既に冬の厳しさが窺え、彼の家の立つフィヨルドを望む山と海とが一緒になった切り立った崖の壮観さとなるように思い...
ギター作品「セゴヴィア-ナ op.366」に聴く近代パリの街並みを思わせる雰囲気から知る事となったミヨーは、プーランク(ギター作品「ギターのためのサラバンド FP179」)やメシアンたちと同じ時代を生きた作曲家ですが、その作風はより馴染み良い特徴を持つと感じます。同じくギター作品を書いたルーセル(ギター作品「セゴヴィアop.29」)は印象主義からバーバリズム、新古典派へと作風が移り変わって行くように、当時のフランスは様...
この二つは書法的に正反対の作品ですが、驚く事に感覚として伝わるものは共通するのです。調性の持つ色、そこから生まれる音度差の作る情というものが、それを失ってなおベルクの世界を描いて見せる事に驚くのです。ベルク作品の場合は無機質なものとならず原子にまで分解されてもなお本質を残し続ける事に魅せられました。「私の眼を閉じさせて」の第1作は木や土壁、或いは程良く古びた壁紙に柔らかな灯かりの燈るカフェの片隅、...
バルビローリが現ワーナーに録音したモーツァルトの交響曲は29番と41番しかないという事に驚きます。そこで数年に渡る批評誌を持つ友人に29番とジュピターの様子を訊ねてみるのですが、そこには彼の録音はどの年度にも挙がっていないようでそれにも驚いたのです。何故って、29番の愉悦感、響きの美しさは私の持つ何れよりも美しく、しかも録音も優秀であった事を示すように目の前に浮かび上がって来る音場のどの角度もまんべんなく...
いきなり文として成り立ちませんが、楷書による一筆書きのような演奏、それがワルターの29番だと思います。それは[端正で明確な意思を持つ]楷書による[その運びにより]一筆書きと感じたからです。演奏速度が私の持つ盤では最も軽やかで爽快、しかし弾き崩さない清潔感を保ったままでそれを成し得る事に驚きます。ワルター盤とコープマン盤はモダンとピリオドでの29番の理想像・・と、わたし自身は勝手に思っているのですが(なんと💦...
ケテルビーの描く世界は、実際はその土地っぽくリズムとメロディーを工夫したイメージ音楽である事に気付きます。それは映画などでも聴く独自のヴァーチャルな世界観を持つもので、その作曲書法はガヴォットを用いたりと、兎に角馴染み易い西欧のフォーマットを基本としたものである事が感じられました。しかし、子供の時に夢の世界へ連れて行ってくれた音の世界は魅力的であり、その楽しみはクラシックの下でも上でもない確固とし...
モーツァルト作品の魅力の一つに心地良い快速性を含めるとすると、29番はまさにそれに当てはまる交響曲だと思うのですが、クレンペラーは優雅に描き、そこに漂うニュアンスが細やかな表情を見せて愛らしいものになっています。これはベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」で触れた近寄り難いクレンペラーとはまるで別人のように思えたのも驚きの一つでした。クレンペラーはベートーヴェンとモーツァルトの違いをハッキリと描き分けた指揮...
私はモーツァルトの第29番を最もチャーミングな交響曲と思っています。彼の交響曲で最も大好きなのは第39番だと言うのは既に記しましたが、劇的な第25番や第40番の印象が強かったモーツァルトが、コープマンによる第29番との最初の出会いにより友人のような近しさを覚える事となりました。イ長調はギターではよく用いられる調で、その派手さと力強い輝きが特徴ですが、同主調のイ短調が組み合わされた時の響き、そのイ短調がハ長調...
オルガンもオーケストラも、その土地の響きを持つとするならば、今回の2組の演奏は見事にそれを表していると思います。録音年だけを見て、タイトルの通りどちらが現代風で、どちらが古風と考えられるでしょうか?実はカントロフ盤の響きというものが、案外バッハ達ドイツの作曲家の作品によって意識下に影響を受けているのではないかと思ったのもフランスの近・現代作品であるプーランク作品だからなのかも知れません。オルガン、弦...
複雑で心を騒ぎ立たせるロマン派の作品を楽しんでいると、たまに聴きたくなるのがただひたすら純粋な中世~ルネサンスの作品、あるいはPOPSやBlues.ROCKやJAZZであったりします。そして思います、遥か昔の世俗歌曲と現代の(広義での)POPSの共通点を。これらはいつの時代も変わらない人々の暮らしの一部として、或いは気軽な友達のようにずっと身近に在りつづけて来たのだと。何より曲によって使い分けられるリュートによるメロディ...
心はロマン派にあり、手法は古典派の先輩方への敬愛を示すシューベルトが残したピアノ三重奏曲は4曲あるそうです。しかし、辞典に記され演奏で聴くのは第1・2番と呼ばれる最晩年の作品2曲となっています。それら第1番・第2番と呼ばれるものは何れも最晩年に書かれていますが、第1番の方が第2番の後に作曲された(?)とも記されており現在でもはっきりとはしていないとあります。第1番が1828だとすると、それはシューベルト没年(1797-...
もしかすると人は愛しいもの(人だけではない)を想う時には美しい旋律を、別れる・離れる時には哀しさを堪えるために無機質(寂しい・虚しい/太陽は昇っているのに温かさを感じない/味がしない/周りが別世界に思える等)と感じるのでしょうか・・。それらと一緒に過ごせた喜びという想い出となった時に「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲のように美しく漂い、同時にそれが過去形である事の切なさも心に固まりとなって存在する事...
前回記したメシアンの無調性による[美しい定旋律]を持たない世界のまさに逆、膨らんだ機能和声の極致[トリスタン和声]と濃厚な情念が湧き上がるワーグナー(特にトリスタンとイゾルデ)の固定観念を持つ旋律・・。そのどちらにも深い陶酔の世界がある事を知ってしまいました。「トリスタンとイゾルデ」第3幕開始のコーラングレと共に吹き過ぎる心が荒涼とした冷たく寂しい情景はワーグナーの世界の中でも特に好きな部分です。その習...