chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
カトリック情報 Catholics in Japan https://blog.goo.ne.jp/catholic_info

聖人伝、教会史、格言、みことばなどを掲載します。フェイスブックのカトリックグループにも投稿しています

カトリック情報 Catholics in Japan
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2016/07/09

arrow_drop_down
  • 聖ヒラロ教皇

    聖ヒラロ教皇記念日2月28日449年にエフェソで司教会議があったが、あまりにも荒れたので、教皇レオ1世は盗賊的司教会議と呼んだ。教皇の2人の使節は話すことを禁じられた。コンスタンチノープルの総大司教フラヴィオは押し倒され、蹴られたり打たれたりして殺されたが、教皇使節の一人であったヒラロは逃げ出して無事にローマに帰ることができた。ヒラロは福音史家聖ヨハネの特別な保護によって助けられたことを信じて、ローマの聖ヨハネ・ラテラノ教会の中に感謝のしるしとして礼拝堂を建て、「解放者の福音史家聖ヨハネへ、キリストの僕で教会の司教のヒラロより」という言葉を記した。461年にレオ1世教皇が亡くなったとき、ヒラロが後を継ぎ、教会の自由を守るために全力を尽くし、国の最高権力者をも恐れずに公に非難した。帰天したのは468年であっ...聖ヒラロ教皇

  • 聖ガブリエル・ポセンティ修道者 おん悲しみの聖母のガブリエル

    聖ガブリエル・ポセンティ修道者おん悲しみの聖母のガブリエル記念日2月27日イタリアの小都市アッシジが全世界にその名を知られるに至ったわけは、申すまでもなく13世紀にあの清貧の使徒、修道会の創立者として有名な聖フランシスコがその町から出た為であるが、19世紀に至ってアッシジ市は更に宗教的一偉材を生んで光栄を新たにした。それは聖ガブリエル・ポセンティで、多くの点、殊にその快活な性質、完徳への熱心、突然の改心等において、かれが郷里の先輩フランシスコに酷似しているのは、まことに興味のあることと言わねばならない。聖ガブリエル・ポセンティは1838年3月1日、前述のようにアッシジ市に生まれ、俗名をフランシスコと言った。兄弟は沢山あり、彼は13子中の第11子にあたっていたのである。父はアッシジ市の市長であり、母アグネス...聖ガブリエル・ポセンティ修道者おん悲しみの聖母のガブリエル

  • コルトナの聖女マルガリタ

    コルトナの聖女マルガリタ記念日2月26日「ひとりの罪人が悔い改めれば、悔い改めの必要のない99人の義人より天ではいっそうの喜びがあろう」(ルカ15-7)。神の無限の慈悲によって教会はどんな極悪人にでも本人が望めば救いの門を開く。聖女マルガリタは、若い頃の美しさがあだとなって転落したものの、ひとたび恩恵の光に打たれてからは全く人が変わったように神を愛し、これに仕えて罪を償い、人類社会によい影響を及ぼした。彼女は、1247年、イタリアのコルトナに生まれた。両親は善良な農民だったが一人娘のマルガリタをかわいがるあまり、別に信仰にもとづいて厳しくしつけることもしなかった。そのうえ、彼女は目の覚めるような美人だったので人々にちやほやされるままに衣服を着飾り、浮かれまわった。実母の死後、少女マルガリタは継母に育てられ...コルトナの聖女マルガリタ

  • 聖ワルバーガ修道院長

    聖ワルバーガ修道院長記念日2月25日ワルバーガは、イギリスのデポンシャの領主の娘として生まれ、ドーセットの修道院で教育を受けてそこの修道女になった。8世紀のイギリスは、熱心な宣教の中心地とも言えた。聖ボニファチオは、ドイツの改宗の為にイギリスの修道士や修道女に呼びかけたので、ワルバーガと兄のウィンバルトはそれに答えて2年間ビショスハイムでワルバーガが教理を説くと共に、医術で異教徒を助け、ウィンバルトはハイデンハイムに男性と女性のための修道院を創立して、自分は修道士を指導し、妹を修道女の長上とした。ウィンバルトが亡くなった時、ちょうどアイヒシュテットの司教であったもう一人の兄が、ワルバーガを修道士と修道女の2つの修道院長に任命した。779年にワルバーガは亡くなったが、彼女の名声はたちまちヨーロッパ中に広まっ...聖ワルバーガ修道院長

  • 聖エセルバート王

    聖エセルバート王記念日2月24日カンタベリーの聖アウグスチノがイギリスに到着したとき、彼はケントのエセルバート王の助けを非常に望んだ。王はキリスト教徒と結婚していたが、自分はまだ異教徒であった。とはいえ親切な王であった。アウグスチノとその従者たちを、もしかすると魔法使いではないかと恐れたエゼエルバート王は、彼らを室内に入れなかった。万が一、逃げる場合のことを考えたからである。それでタネット島の野外で会見が行われることになった。アウグスチノと従者たちは銀の十字架とイエズスの姿が描かれた板を持って近づき、自分たちとイギリス人の救霊のために祈った。エセルバート王はていねいに言った、「あなた方の言葉と約束は真に立派であるが、私にとっては新しくて異様である。私はそれを受け入れることも出来ないし、全イギリス人が長年信...聖エセルバート王

  • 聖ポリカルポ司教殉教者 St. Polycarpus E. et M.

    聖ポリカルポ司教殉教者St.PolycarpusE.etM.記念日2月23日火に近づけば近づくほど、その熱を受ける事も甚だしい。されば火のような信仰の持ち主であった使徒達の直弟子が、衆に勝れた熱烈な信仰を有していたのも不思議ではあるまい。一昨日の所に記した聖パウロの愛弟子聖テモテオなどもその一例であるが、本日此処に語ろうとする聖ポリカルポも同様に、主の最愛の使徒であった聖ヨハネの弟子で、恩師の名を恥ずかしめぬ信仰の勇士であった。聖ポリカルポの生い立ち、その他年少の頃の事は別に知られていない。知られているのは彼が使徒聖ヨハネの掩祝を受けて、スミルナの司教に挙げられた時からである。その後彼の感ずべき言行の数々は、彼の弟子なる聖イレネオの言葉にも、また彼の親友で107年に殉教したアンチオキアの司教聖イグナチオが...聖ポリカルポ司教殉教者St.PolycarpusE.etM.

  • 聖ペテロの使徒座

    聖ペテロの使徒座祝日2月22日およそ座には三種類のものがある。第一に、王たる尊厳の座である。「ダビデは、座についていた」と書かれている座のことである。第二は、司祭たる尊厳の座である。「そのとき、祭司エリは、座にすわっていた」と書かれている座である。第三は、教師の座である。「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている」と書かれている座のことである。聖ベテロは、これらすべての座をしめていた。第一の座は、彼がこの世のすべての王たちの王であったから、第二の座は、役がすべての司祭たちのうえに立つ牧者であったから、第三の座は、彼が全キリスト教徒の教師であったからしめていたのである。教会は、聖べテロが教座を定めた日を祝日として祝う。なぜなら、記録に残っているように、この日聖ペテロは、非常な栄誉をもってアンティオ...聖ペテロの使徒座

  • 聖ペトロ・ダミアノ司教教会博士 St. Petrus Damiani E. et Doct.Eccl

    聖ペトロ・ダミアノ司教教会博士St.PetrusDamianiE.etDoct.Eccl記念日2月21日主イエズス・キリストの聖言に「汝等は世の光なり。(中略)汝等の光は人の前に輝くべし」(マテオ5-14,16)とあるが、中世紀の有名な教父、聖ペトロ・ダミアノ枢機卿こそは、まことにその熱烈な信仰と博識な知識を以て、冷淡不信の暗黒に迷っていた当時の人々を松明のごとく照らし、これに正しい途を示した「世の光」であったと言えよう。彼は1006年、イタリア、ラヴェンナ市の貧しい日傭取りの息子として生まれた。9歳の頃既に両親を失ったので、最初長兄の手で養育されたが、この人はあいにく冷酷な性質で、彼を邪魔者扱いしたため、司祭の職にあった次兄が見かねてやがて手元に引き取り、愛を以て育てる傍ら自ら初等教育を施した、そのうち...聖ペトロ・ダミアノ司教教会博士St.PetrusDamianiE.etDoct.Eccl

  • レオニッサの聖ヨゼフ証聖者 St Josefus a Leonissa

    レオニッサの聖ヨゼフ証聖者StJosefusaLeonissa記念日2月20日西暦1556年北イタリアのミラノ市で聖フランシスコの流れをくむカプチン会修道者フェルノのヨゼフという一司祭が逝去した。この人は欧州に盛んな「四十時間の御聖体訪問」という信心の業をはじめて提唱したので知られているが、それはその名の如く、信者が聖堂を訪問し、四十時間、昼も夜も絶えず祭壇に顕示され給う御聖体に対し、祈りを献げる事をいみするのである。ところが丁度その同じ年、ウンブリアのアッシジにほど近い、レオニッサという町に、後年この「四十時間の御聖体訪問」の信心を盛大ならしめた聖人が呱々の声を挙げたのは一奇と言わざるを得ない。彼はデシデチのヨハネというさして裕福ではない伯爵の家に生まれ、受洗の折りにはオイフラニオという霊名を与えられた...レオニッサの聖ヨゼフ証聖者StJosefusaLeonissa

  • ピアツェンツァの聖コンラド修道者 St. Conradus a Piacenza C.

    ピアツェンツァの聖コンラド修道者St.ConradusaPiacenzaC.記念日2月19日物質的不幸がかえって精神的幸福を招く事はしばしばあるが、聖コンラドの生涯もその一例であるといえよう。彼は北イタリアのロンバルジア州ピアツェンツァ市に生まれ、地位も高く財産も豊かで、何不足ない身であった。別に働かずとも食うに困らぬ彼は道楽として狩猟を殊の外好んでいた。ある日コンラドは例によって山へ狩りに行ったが、その時射損なった一匹の獣が、とある藪の繁みに逃げ込んでしまった。すると彼はそれを追い出したいばかりに、浅はかにもその藪に火を放った。所が折からの晴天続きで、草木がすっかり乾ききっていたからたまらない。火は見る見るうちに燃え広がって、手のつけようもない山火事になってしまった。それと知った近所の人々は、急いで駆け...ピアツェンツァの聖コンラド修道者St.ConradusaPiacenzaC.

  • 聖シメオン司教殉教者 主イエズスの従兄弟である聖人

    聖シメオン司教殉教者主イエズスの従兄弟である聖人記念日2月18日聖福音書に折々「イエズスの兄弟」という言葉が見いだされる。しかし主が聖母の御一人子であった事は周知の事実であるからこの兄弟とは実の兄弟を意味するのではなく、従兄弟と指している事は言うまでもない。例えば小ヤコボ、ユダ・タデオ、カアナンのシモン等三使徒や、ここに語らんとする聖シメオンも主の従兄弟にあたる人々である。このシメオンはイエズスの御降誕の幾年か前に生まれ、父の名はアルフェオといった。シメオンは十二使徒の中には加えられなかったが、直接主から聖教を聞き、又聖霊降臨の時には、かの百二十人の弟子達の中に加わっていたと信ぜられる。エルサレム最初の司教小ヤコボの兄弟であって、紀元62年ヤコボが殉教するや、その後任に選ばれ、麗しい徳行に信徒の多大な尊敬...聖シメオン司教殉教者主イエズスの従兄弟である聖人

  • ”聖母マリアのしもべ会”七聖人創立者Sts.Septem Fundatores Ord.Servorum B.M.V.

    ”聖母マリアのしもべ会”七聖人創立者Sts.SeptemFundatoresOrd.ServorumB.M.V.記念日2月17日古来聖会に於いては七を聖なる数字として尊んできた。なるほどちょっと考えても七つの秘跡、聖霊の七つの賜物、七枝の燭台、主の十字架上の七つの御言葉等七に縁のある聖なる事物は沢山ある。殊に黙示録などを読めば枚挙にいとまないほどその例を発見し得るのである。ここに語らんとする七聖人が協力一致「聖母マリアのしもべ会」を起こし修道に精進したのも、けだし偶然ではあるまい。これら七聖人はいずれも北イタリアなるフロレンス市の豪商で、その名をボンフィリオ・デ・モナルデ、ヨハネ・デ・ボナジュンタ、ベネディクト・デル・アンテラ、バルトロメオ・デリ・アミディ、リコヴェロ・デ・ウグチォネ、ゲラルヂノ・デ・ソス...”聖母マリアのしもべ会”七聖人創立者Sts.SeptemFundatoresOrd.ServorumB.M.V.

  • 聖ユリアナおとめ殉教者 分娩および伝染病の守護の聖人

    聖ユリアナおとめ殉教者分娩および伝染病の守護の聖人記念日2月16日ユリアナは、ニコメデニア市の裁判官エウロギオスと婚約していた。しかし、彼女は、彼がキリスト信仰を受け入れなければ結婚しないと、言い張った。そこで彼女の父は、彼女を裸にしてひどく殴らせたあげくに、その裁判官に引き渡した。裁判官は、彼女に言った。「最愛のユリアナよ、なぜあなたは結婚を拒んで、私に恥をかかせたのですか」ユリアナは答えた。「あなたもわたくしの神をあがめてくださいましたら、よろこんで結婚いたしますは。そうでなければ、けっしてわたくしを思いどおりになさることはできないでしょう」彼は言った、「最愛の人よ、そんなことをしたら、わたしは、皇帝に首をはねられてしまいます。」ユリアナは答えた、「あなたがそれほど地上の皇帝にびくびくなさるのであれば...聖ユリアナおとめ殉教者分娩および伝染病の守護の聖人

  • 聖クロード・ラ・コロンビエール イエズスの聖心の使徒

    聖クロード・ラ・コロンビエールイエズスの聖心の使徒記念日2月15日1641年フランスに生まれたクロードは、1658年にイエズス会に入会し、1669年に司祭に叙階される。1675年、パレール・モニアール市のイエズス会修道院院長に任命され、同市の聖母訪問会の女子修道院の特別聴罪司祭に任命された。ちょうどその時、1674年、主は聖母訪問会の修道女シスター・マルガリタ・マリア・アラコックに出現され、特別なメッセージを伝えようとされた。シスター・マルガリタは主の語りかけに恐れと困惑とを感じていたが、彼女の聴罪司祭となったコロンビエール神父は彼女の良き相談相手、指導者として彼女を励ました。1675年6月、御聖体の祝日に主は「聖心の信心」について、メッセージをマルガリタ・マリアに託された。人類を限りなくお愛しになるご自...聖クロード・ラ・コロンビエールイエズスの聖心の使徒

  • 聖チリロ隠世修道者と聖メトジオ司教

    聖チリロ隠世修道者と聖メトジオ司教記念日2月14日聖書に「良い便りをもたらす者の足は美しい」(ローマ、10-15)とある。この言葉はスラヴ民族の使徒として崇敬される両聖人にもぴったりと当てはまる。両聖人は9世紀現在のチェコスロバキアを中心とする中部ヨーロッパのスラヴ族に福音を述べ伝え、これを多数改宗させたことで有名である。また聖チリロはスラヴ語の文字を創案し、これでもって聖書を翻訳したのでスラヴ文字の創始者としても名高い。この両聖人は兄弟でチリロは802年、メトジオは810年、共にギリシャのテサロニケ市に生まれた。当時ここは東ローマ帝国の重要な貿易港として栄え、さまざまな民族が居住していた。その為チリロとメトジオはスラヴ人と交わる機会を得、スラヴ語を自由に話し、その風俗に親しみ、後年スラヴ族の宣教師となる...聖チリロ隠世修道者と聖メトジオ司教

  • 聖ヴァレンチノ司祭殉教者 St.Valentinus Presbyter et M.

    聖ヴァレンチノ司祭殉教者St.ValentinusPresbyteretM.記念日2月13日(2月14日)本日祝う聖ヴァレンチノ司祭は、同名の聖人数人の中で最もよく知られ、司祭の聖務日課にもその名を載せられている人である。この人は3世紀の中頃ローマ教会に於いて人望篤く、その徳行も衆に勝れていたので、当時聖会を迫害しつつあったクラウディオ皇帝は、早くも彼に目をつけ、これを召して棄教を命じた。しかしもとより熱烈な信仰を持つヴァレンチノである。どうして威嚇に恐れて聖教を棄てるようなことがあろう、決然としてこれを拒んだから、皇帝は然るべき処置をとらしめる為彼をローマ市長の許に送り、市長はまたこれを法官アステリオに渡したのである。ヴァレンチノはアステリオの邸に入ると、讃美歌を歌い声高らかに「主イエズス・キリスト、願...聖ヴァレンチノ司祭殉教者St.ValentinusPresbyteretM.

  • 聖ユリアノ看護人

    聖ユリアノ看護人記念日2月12日旅人と渡し守の守護者とされているユリアノは若いときに、普通の常識で考えたらあり得ないような大罪を犯した。それはある日彼が自分の城に帰り寝室に入った時、二人の人が寝台に寝ていたので侵入者と思ってその場で切りつけて殺してしまったのであった。ところがその二人はユリアノの両親であったのである。彼らは外出先から帰ったときにあまりに疲れていたのでユリアノのベットに入ったが、ベットにかけてあった布が両親の身体を覆っていたのであった。その瞬間ユリアノが抱いたもう一つの疑いは、どこかの男性がユリアノの妻と寝ていたのではないかということであった。しかし彼女は教会に行っていたのである。彼女が帰って来るなり、取り乱した夫が出てきて、自分はもはや立派な人々といっしょに暮らすことはできないから、彼女と...聖ユリアノ看護人

  • 全ての規則より偉大な物 聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ

    慈善(貧者への施しなど)はどんな規則よりも確実に偉大です。そのうえ、すべての規則は慈善に通じていなければいけません。聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ全ての規則より偉大な物聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ

  • ルルドの聖母 (ルルドに於ける聖母マリアの御出現)

    ルルドの聖母(ルルドに於ける聖母マリアの御出現)記念日2月11日ApparitioB.V.ImmaculataeinLourdesルルドにおける聖母マリアの御出現1858年2月11日ー7月16日ルルドはフランスの南境を横走するピレネー山脈の麓に位置する小さな町で、元は殆ど世に知られていなかったのに、1858年2月11日以後十数回に渡って聖母マリアの御出現があってから、一躍天下にその名を知られるようになったところである。その町の郊外、カルワリアという山の裾に沿って、ガヴ河という流れがあり、その中央にシャーレー島と称する島があって河水を二つに分かっているが、その再び相い合する所に一大岸壁が屹立し、中にマッサビエールと呼ぶ洞窟がある。これぞ聖母御出現の聖域なのである。それは教皇ピオ9世が聖母無原罪の御宿りを、新...ルルドの聖母(ルルドに於ける聖母マリアの御出現)

  • 聖スコラスチカおとめ St. Scholastica V.

    聖スコラスチカおとめSt.ScholasticaV.記念日2月10日聖スコラスチカ童貞は、修道会創立者として名高い聖ベネディクトの妹であって、5世紀の末ローマ市に生まれた。母は彼女の生後まだ一年も経たぬ内にこの世を去ったから、彼女は兄と共に父の手一つで育てられ、幼い時から主を畏れ敬う心を養われつつ生い立った。そして兄のベネディクトが世間の喧噪を去って深山の静寂裏に隠れ、厳格な修道生活を始めてからも、彼女だけはなお父の膝下に留まっていたのである。スコラスチカは天成の美貌にかてて加えて、家も甚だ富んでいたから、年頃になると数多のローマ青年貴族達から降るような結婚の申し込みを受けたが、彼女は少しも心を動かされず、それらの縁談を片っ端から断った。というのは、彼女も兄と同じく一生を天主に献げたいと望んでいたからであ...聖スコラスチカおとめSt.ScholasticaV.

  • アレクサンドリアの聖チリロ総主教教会博士 St. Cyrillus ab Alexandria Patriarcha Doctor Eccl.

    アレクサンドリアの聖チリロ総主教教会博士記念日2月9日St.CyrillusabAlexandriaPatriarchaDoctorEccl.紀元313年、コンスタンチノ大帝がローマ帝国内にキリスト教信仰の自由許可してから、聖教のひろまりは目覚ましいものがあり、聖会は日に日に隆盛を加えたが、一方種々の異端を唱える者も出たので、これに対し真理擁護の為に力を尽くした宗教学者が幾人かあった。その中の一人がここに語る聖チリロ総主教である。チリロは北部アフリカの大都会のアレクサンドリアに生まれ、青年の頃から聖職者になる志を立てた。それでまず故郷の町で哲学と神学を修め、その後修養の為暫くエジプトの修道士等と共に生活し、更にエルサレムの司教ヨハネの許に行ってその教えを受けた。412年、アレクサンドリアの総主教テオフィロ...アレクサンドリアの聖チリロ総主教教会博士St.CyrillusabAlexandriaPatriarchaDoctorEccl.

  • 聖ヒエロニモ・エミリアニ

    聖ヒエロニモ・エミリアニ記念日2月8日孤児や捨て子の守護の聖人のヒエロニモ・エミリアニは、1486年ヴェニスの貴族の子として生まれた彼は15歳の時、軍隊に入った。そして25歳にしてカステル・ヌオヴォの砦の主となったそれはちょうどヴェニスとフランスの戦争の時で、敵軍の激しい攻撃に持ちこたえられず、砦は占領され、彼も地下の牢獄で鉄の鎖につながれて囚われの身となる。不運な牢獄の生活は、ひどい屈辱的な日々で、遂に彼も悩みのあまりに反省せざるを得なかった。「もし神の恵みで自由が与えられるなら、これまでの悪い生活から、きっぱりと足を洗おう」と、心にかたく誓い、聖母マリアに祈りを捧げたのであった。こうしたある日、それは7月26日であったが、まったくありえないことが彼の身の上に起こった。彼はぜんぜんその姿を見られないで、...聖ヒエロニモ・エミリアニ

  • 聖ヨセフィーナ・バキタ

    聖ヨセフィーナ・バキタ記念日2月8日バキタは1869年ころ、アフリカのスーダン西部、ダルフール地方のアジレレ山の近くにに生まれた。7歳くらいの時に奴隷商人にさらわれ、その後、奴隷としての人生を歩むこととなる。奴隷の印である刺青を身体中に施され、何度も人から人へ売られた。刺青はカミソリで切れ目をつけそこに墨を入れ、傷口を広げておくために塩をすりこんでおくという過酷なものであった。そして彼女はイタリアに渡った後に自由になるとベネチアでカノッサ会のシスター達にと出会い、そこで洗礼を受けキリストと出会うこととなる。自分の意志でシスターへの道を選び、カノッサ修道受会のシスターとなり、イタリア北部のビエチェンツァに近い町スキオで50年の長きにわたって人々から愛されるシスターとして働き、また自分に危害を加えてきた全ての...聖ヨセフィーナ・バキタ

  • 聖コレタおとめ

    聖コレタおとめフランシスコ会固有記念日2月7日1381年-1447年1381年フランスの信心深い両親から生まれたコレタは、小さいときからよく祈り、イエズスのご受難を黙想していた。両親がなくなった18歳の時、彼女は遺産を貧しい人々に与え、フランシスコ女子会つまり聖クララ会に入会した。当時の修道会は、創立当時の規律がひどくゆるんでいたので、コレタは、当時の教皇の励ましを受けて、その刷新を促進した。大離教に悩んでいた教会内の一致の為にも、彼女は聖ヴィンセンシオ・フェレリとカペストロの聖ヨハネと力を合わせて、大いに活躍した。多くの奇跡を行うなど、神秘的な賜物に恵まれ、教会に素晴らしい影響を与えた。1447年に帰天。聖コレタおとめ

  • 聖テオドロ殉教者

    聖テオドロ殉教者記念日2月7日聖テオドロは小アジアのヘラクリアの住民で、リシニウス皇帝の軍隊の司令官であった。彼は政治的な手腕もあり、リシニウスの領土の一部を統治していた。ある時、テオドロが偶像を礼拝することを拒絶したことによって、部下の兵士達は、彼がキリスト教徒になったことに気づいた。その為にテオドロは投獄されて責め苦を受けた後、一時釈放された。ところが異教の女神に奉献されていた寺院に放火したので、再び捕らえられて火あぶりにされた。しかし息を引き取る前に天国のまぼろしを見て慰められた。彼は軍人の保護の聖人として東方教会で崇敬されている。聖テオドロ殉教者

  • 聖アガタおとめ殉教者 St. Agatha V. et M.

    聖アガタおとめ殉教者St.AgathaV.etM.記念日2月6日(2月5日)シチリア島の火山エトナの山麓にあるカタニア市は、聖女アガタの生まれ故郷と言われ、同火山に爆発噴火の兆しがあると、その市民は同聖女に保護を願うのを常としているが、そればかりでなくアガタは世界一般にも火災防護の聖女と仰がれている。かのように彼女がいつも火に関連して考えられるのは何故故かと言えば、それはその伝記をひもとけば知られるのである。彼女は3世紀の半ば、デチオ皇帝がローマ帝国を治めていた頃の人で、天成の美貌は花をもあざむくばかり、その上貴族の家柄で教養も高く、優雅にして淑やかな少女であったから、早くより人の注目の的になっていたが、シチリア島の知事クインチアノも彼女に想いをかけ、自分の権力を笠に着て妾に召し出そうとした。しかし敬虔篤...聖アガタおとめ殉教者St.AgathaV.etM.

  • 日本26聖人殉教者 Sts. 26 Martyers Japonenses

    日本26聖人殉教者Sts.26MartyersJaponenses記念日2月5日聖フランシスコ・ザビエルが始めて我が日本に聖教の種子を播いて以来、熱心な宣教師の血と汗を流してこの地を耕す者多く、降り注ぐ聖寵の慈雨も豊かに、布教わずか六十年にして聖教の種子は見上げるような大木に成長し、その木陰に憩い真の神なる天主を礼拝讃美するキリシタンは、大友、有馬、大村、高山、小西、内藤、黒田等歴々の諸大名を始めとし、殆ど百万を算するという盛況であった。フランシスコ・ザビエルが鹿児島の浜辺に第一歩を印した西暦1549年(天文18年)から、日本に於ける聖会中絶の年とされている1630年(寛永17年)までの受洗者数を調べて、教勢発展の跡をたどれば次の通りである。1549年から1598年まで500,000人1598年から161...日本26聖人殉教者Sts.26MartyersJaponenses

  • 聖アンドレア・コルシニ司教 St. Andreas Corsini F.

    聖アンドレア・コルシニ司教St.AndreasCorsiniF.記念日2月4日コルシニ家はイタリアのフロレンスに於ける最高の貴族であって、1282年以来将軍や大使、司教や枢機卿などの要職の人物を多数世に出している。が、その中でも最も有名なのは聖アンドレア・コルシニであろう。彼の父はニコラオ、母はペレグリナといったが、二人は結婚後長い間子宝に恵まれなかったので、それを悲しみ絶えず祈り、聖母の御絵の前で誓願を立てた事さえあった。その誠が天に通じたのであろう、遂に聖アンドレアの祝日に玉のような男の子が生まれた。それで霊名もアンドレアと命名したのである。出産の前夜、母は狼を生み落とした夢を見た。しかしいよいよ生まれて見ると、至極丈夫そうな美しい子であったから、心配しただけに彼女の安堵と喜びは大きかった。この子は数...聖アンドレア・コルシニ司教St.AndreasCorsiniF.

  • 神の恵みは、あらゆる障害や困難を乗り越える 聖エリザベス・アン・シートン

    私たちは、神が聖なる生活を求めておられることを確かに知っています。私たちは、神が私たちにあらゆる恵み、あらゆる豊かな恵みを与えてくださることも知っています。そして、私たち自身はとても弱いのですが、この恵みは、あらゆる障害や困難を乗り越えることができるのです。聖エリザベス・アン・シートン神の恵みは、あらゆる障害や困難を乗り越える聖エリザベス・アン・シートン

  • 聖ブラジオ司教殉教者 St. Blasius E. et M. のどの病気を癒す聖人

    聖ブラジオ司教殉教者St.BlasiusE.etM.のどの病気を癒す聖人記念日2月3日聖ブラジオはアルメニアのセバステに生まれた。医学を研究し近隣に名医として謳われたが、また高徳の聞こえも高く、とくに謙遜、貞潔、隣人愛、事に貧しき者への愛に勝れて、衆人の尊敬を集めていた。司祭になると間もなく、故郷の司教が死んだ。するとすべての司祭達も信者達も、彼が司教になることをこいねがった。それは彼がただ徳に秀でているばかりでなく、恐るべき迫害の行われていた当時において、教会を指導する最適任者であると信じたからである。その迫害の主はガリレオ皇帝であった。が、ブラジオが司教になった2年後、皇帝は重病に罹って命が危なくなった。こうなると死後が不安になるのであろう、彼は勅令を出して迫害を中止させた。間もなくコンスタンチノ大帝...聖ブラジオ司教殉教者St.BlasiusE.etM.のどの病気を癒す聖人

  • 主の奉献 (聖母の御清め)の祝日

    主の奉献(聖母の御清め)の祝日祝日2月2日旧約時代、モーゼの律法によれば、男の子を産んだ婦人は誰でもその40日目に、神殿に参詣して感謝の犠牲が義務になっていた。その捧げる物としては子羊一匹と雛鳩一羽が普通で、もし貧乏人であれば鳩2羽でよい定めであった。もっとも産んだ男の子が初子である場合には、その他にも多少の献金をせねばならなかった。すべての掟をいつも厳守される聖母はこの定めをも忠実に果たされた。しかし実を言えばそれは聖マリアにとって是非守らねばならぬ義務では決してなかったのである。というのは母は母でも、聖母は世の母達とはまったくその選を異にし、大天使聖ガブリエルの御告げを受けて懐胎されてからベトレヘムでの御出産まで母であると同時にいささかの汚れもない清浄そのものの童貞女であらせられた上に、その御子は人間...主の奉献(聖母の御清め)の祝日

  • 聖カタリナ・リッチおとめ

    聖カタリナ・リッチおとめ記念日2月1日カタリナ・リッチは、生涯の大部分をイタリアのトスカーナのドミニコ会修道院で過ごし、主イエズスから与えられた様々のヴィジョン(まぼろし)で有名になった。1542年の四旬節にイエズスの十字架刑について深く黙想した時、重病にかかり、聖土曜日に、復活されたイエズスがマリア・マグダレナに話しかけられるまぼろしを見るまで回復しなかった。12年間、毎木曜日にカタリナは脱魂状態になって、イエズスがゲッセマネの園で捕らわれるところから、むち打ち、裁判、ゴルゴダへの苦しい道行きと十字架刑まで全部を自分の体で表し、次の日には意識を取り戻した。こういうことは多くの人々にとって異様で信じ難いように思われたであろうが、カタリナは自制心の強い常識的な修道女であったために、院長に選ばれて、修道院をよ...聖カタリナ・リッチおとめ

  • 聖ブリジッタおとめ アイルランドの守護の聖女

    聖ブリジッタおとめアイルランドの守護の聖女記念日2月1日5世紀の中頃、ブリジッタはアイルランドの族長の娘として生まれた。幼い時から修道女になることを志望して、18歳の時、7人の仲間と共にクロガン・ヒルというところで神に奉仕する生活を始めたが、470年頃、アイルランドにおける最初の修道院をキルダラ(樫の木の教会)として知られている場所に創立して、修道士と修道女の修道院長となった。ブリジッタは子供の頃から貧しい人々を大切にして、施すことが好きであった。大人になってからの話であるが、彼女がのどの渇いた見知らぬ人に飲み水を与えると、それがミルクに変わったと伝えられている。ブリジッタは、体と精神が必要とするものは、両方とも与えられなければならないことをよく悟っていたので、自分の周囲の人々の霊的・物質的生活を向上させ...聖ブリジッタおとめアイルランドの守護の聖女

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、カトリック情報 Catholics in Japanさんをフォローしませんか?

ハンドル名
カトリック情報 Catholics in Japanさん
ブログタイトル
カトリック情報 Catholics in Japan
フォロー
カトリック情報 Catholics in Japan

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用