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カトリック情報 Catholics in Japan https://blog.goo.ne.jp/catholic_info

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カトリック情報 Catholics in Japan
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2016/07/09

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  • 聖アルフォンソ・ロドリゲス証聖者 St. Alphonsus Rodriguez C

    聖アルフォンソ・ロドリゲス証聖者St.AlphonsusRodriguezC.記念日10月31日旧約の義人ヨブは暫くの間に財産を失い、一朝にして7人の子に死なれるなど、不慮の災禍が打ち続いても、更に天主を怨む心なく「主与え給い、主取り給う、主の聖名は讃むべきかな!」と祈ったという。この感ずべき態度に倣い、不幸のどん底に於いても主を讃美した聖人は決して少なくないが、本日の主人公アルフォンソ・ロドリゲスもその一例とする事が出来よう。この人は1531年7月25日、スペインのセゴヴィアに呱々の声を挙げた。富裕な商人を父に持った彼は、春の夢にも似た美しい少年時代を過ごし、やがてその財産を相続して愛する妻との間に数人の子供を儲け、相も変わらぬ恵まれた生活を続けたが、幾干もなく天主の酷烈な試練の聖手は、人々の羨望の的で...聖アルフォンソ・ロドリゲス証聖者St.AlphonsusRodriguezC

  • 聖マルケルス百人隊長 St. Marcellus the Centurion

    聖マルケルス百人隊長St.MarcellustheCenturion記念日10月30日マクシミアヌス皇帝の誕生日の祝賀において、ローマの軍団によって行われた催し事の時に、そのような催し事を偶像礼拝とみなした百人隊長マルケルスは、自分の軍用ベルトを振り捨てた。「私はただ永遠の王、イエズス・キリストにのみ仕える」と彼は宣言した。タンジール副知事の前に連行されたマルケルスは、地上の指導者に対する忠誠を拒んだ自分の罪を弁解したが、死刑に処せられた。後に、公式の速記者、聖カッシアヌスは処刑に憤慨したために、その処置を報告することを拒み、その結果彼もまた処刑された。これはタンジールにカッシアヌスという名の殉教者がいたことをうかがわせるが、聖マルケルスの真正の記事に対する想像上の付加であるかもしれない。聖マルケルス百人隊長St.MarcellustheCenturion

  • エルサレムの聖ナルチッソ司教

    エルサレムの聖ナルチッソ司教記念日10月29日ギリシャ人であったナルチッソがエルサレムの司教に任命されたのは老年になってからであった。しかし、彼は老齢にもかかわらず教区を厳しく管理したので、敵意を持っていた者から無実の罪で訴えられた。多くのキリスト者たちはこれを信じなかったが、ナルチッソ自身は隠遁して祈りと黙想のうちに過ごしたいとかねてから望んでいたので、これ幸いとエルサレムを去った。数年間誰もナルチッソに会う者はいなかった。ナルチッソの留守の間、代わりに教区を治めるために任命された人物が亡くなってしまったため、他の人物が司教に任命された。ちょうどその時ナルチッソが現れた。長い間彼はエルサレムを離れていたので、人々は彼がよみがえったのかと思った。彼は非常に高齢になっていたので、アレキサンデルという司教が彼...エルサレムの聖ナルチッソ司教

  • 聖シモン、聖ユダ・タデオ両使徒 St. Simon et St. Juda Ap.

    聖シモン、聖ユダ・タデオ両使徒St.SimonetSt.JudaAp.祝日10月28日聖書を見れば、主が公生活に入られて諸所を遍歴、さまざまの奇蹟を行い、世人を驚倒せしめ、ナザレトに帰郷、ここかしこの会堂で教えを宣べ給うた時、人々は感嘆して「あれは職人の子ではないか?あの母親はマリアといい。あの親戚はヤコボ、ヨゼフ、シモン、ユダなどという者ではないか?そういう身分の彼があんな深い智慧や奇蹟を行う力を、一体何処で得て来たのだろう?」と語り合ったとあるが、この言葉から一つの興味ある事実が判明する。それは外でもない、主が使徒と選び給うた12人の中ヤコボ、ユダの二人が主の親戚であったという事である。もちろんこのユダは主を敵の手に引き渡したあのイスカリオテのユダとは別人で、それと区別するためタデオ(勇者)とあだ名さ...聖シモン、聖ユダ・タデオ両使徒St.SimonetSt.JudaAp.

  • 聖フルメンチオ司教 St. Frumentius E.

    聖フルメンチオ司教St.FrumentiusE.記念日10月27日アフリカ北部のアビシニアは、住民いずれもキリスト教を奉じているものの、それは遺憾ながらカトリックでなく、コプトと称する離教である。しかしその地方にはじめてキリスト教を伝えるに最もあずかって力あったのは4世紀のわがカトリック聖人フルメンチオ司教に他ならない。彼は小アジアのチルスに生まれ、少年の頃弟エデシオと共に伯父メロピオに連れられ、海路インドまで行ったが、その帰途食糧ならびに土地の産物を積み込む為舟がアビシニアの某所に寄港した所、土着民の襲撃を受けて、二少年を除く外乗り組みの人々はことごとく殺されてしまった。そしてフルメンチオ兄弟は国王の宮殿へ連れ行かれ、奴隷に売り飛ばされたのである。しかし国王は利口そうな二人を愛し、兄フルメンチオには書記...聖フルメンチオ司教St.FrumentiusE.

  • 十一月二日(3)、浦川和三郎 司教『祝祭日の説教集』

    (3)-今日天国の聖人などは皆こういう楽しみをほしいままにしていられる。思えば思えば羨ましい次第ではございますが、しかし必ずしも聖人などの身の上を羨むにも及びません。我々も聖人などの踏み分けなさった道を進んで行きさえすれば、一度は必ず彼の楽しい天国へ辿り着くことができるのであります。「我が父の家に住むところ多し」(ヨハネ十四ノ二)と御主はのたまうた。随って誰でも、またいくらでも天国には昇れる、聖人などに与えられた福楽は、我々にも約束されてある。天主が我々に、罪を犯すな、善を励め、掟を守れ、熱心に務めよ、と命じ給う時は、もとより天地万物の御主、我々の造主にて在ますのですがら、御褒美なんか何一つ下さらずとも、我々は飛び立って御命令に従わなければならぬはずである。しかし天主様は決して善業のために善業を行えとは命...十一月二日(3)、浦川和三郎司教『祝祭日の説教集』

  • 悪魔が最も喜ぶ時 アッシジの聖フランシスコ

    悪魔が最も喜ぶのは、人の心の喜びを奪うときです。悪魔は、私たちの良心のほんのわずかな隙間に投げ込んで、私たちの心の汚れと人生の純粋さを汚すために、粉を持ち歩いているのです。しかし、霊的な喜びが私たちの心を満たすとき、蛇はその猛毒を無駄にするのです。アッシジの聖フランシスコ悪魔が最も喜ぶ時アッシジの聖フランシスコ

  • 聖エヴァリスト教皇殉教者

    聖エヴァリスト教皇殉教者記念日10月26日エヴァリストは救い主イエズス・キリストのようにベトレヘムで生まれた。ギリシャ系のユダヤ人であったがキリスト信者となってローマに行った。そこで97年から100年の間にクレメンス教皇のあとを継いで教皇となった。エヴァリストは発展途上の初代教会の組織造りに大いに貢献して、ローマを小教区に分割して7人の助祭を任命して仕事をさせた。これは使徒達がエルサレムの貧しい人々の世話をするために7人の助祭を任命したことと同様であった。エヴァリストは107年に殉教者として亡くなったと伝えられているが、明らかな証拠はない。しかし、キリスト教の初期においては有力な信者達が信仰のゆえに残酷な死を遂げたことは当然なことであった。聖エヴァリスト教皇殉教者

  • 聖クリスピノと聖クリスピニアノ殉教者

    聖クリスピノと聖クリスピニアノ殉教者記念日10月25日クリスピノとクリスピニアノという兄弟は、ローマに住んでいた熱心なキリスト信者であったが、迫害が始まった時ゴールに逃げてキリスト教の宣教師になった。彼らは貴族であったが全財産を捨ててきたので、靴製造人になって、昼間は教えを宣べ、夜はもっぱら商売に励んだ。しかしわずかばかりの収入に甘んじて、貧しい生活をしていた。彼らの住居は現在ソワソンと呼ばれているノヴィオドヌムにあった。数年間彼らは多数の異教徒を改宗させながら平和に過ごした。しかし、マクシミアヌス皇帝がソワソンを訪問したとき。ある異端者たちがクリスピノたちの宣教活動について訴えたため、二人はリクチオ・ヴァロというキリスト教嫌いの男に引き渡されて残酷な苦しみを受けた。しかし彼らの心は変わらなかった。リクチ...聖クリスピノと聖クリスピニアノ殉教者

  • 「煉獄」浦川和三郎 司教『祝祭日の説教集』

    浦川和三郎司教『祝祭日の説教集』十一月二日(一)煉獄の霊魂の記念(2)-天国とはいかなるところであるかー天国とは苦しみや禍が一つもなく、かえってあらゆる福楽のみち溢れているところであります。どなたも御存じの通り、この世は涙の谷でございまして、寒さや暑さや、餓え渇きや、病の苦しさ、貧の辛さなど涙をこぼさねばならぬことが随分多いものである。しかるに天国には暑さもなければ寒さもない、餓渇きを覚えることもなければ、貧に悩む気遣い、病に苦しむ憂いもない。我々の足が一たび天国の門をくぐりますとすべての涙は綺麗に拭き取られる。もう泣くにも及ばぬ、嘆く必要もない。かえっていわれぬ幸福を楽しみ、喜びに踊るのである。無上の善にして、最高の美、限りもなく愛すべき天主を眼前に仰ぎ見その天主を我が物として、いつまでもいつまでも楽し...「煉獄」浦川和三郎司教『祝祭日の説教集』

  • 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない 聖書

    天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。ルカによる福音書21章33節天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない聖書

  • 聖アントニオ・マリア・クラレ司教 St. Antonius Maria Claret

    聖アントニオ・マリア・クラレ司教St.AntoniusMariaClaret記念日10月24日彼は1807年にスペインで生まれた織工の息子で、1835年に司祭に叙階された。5年後彼は与えられた教区の布教を開始し、カタロニア中の施設をまわり、1849年にもっと大規模に仕事を進めていくために、現在ではクラレティアン宣教会と呼ばれている団体を創立した。同じ年に、女王イサベル2世の要請で、キューバのサンチアゴの大司教に挙げられた。この司教区の人々は、ひどい状態の中にあり、クラレの厳格な改革の方法は、彼の生涯に幾つかの試練を引き起こした。1857年に、女王は自分の宗教顧問とするために彼を呼び戻した。その地位は、説教と出版による宣教活動を進める時間を彼に与えるものであった。彼はまた、エスコリアルに科学実験所を設立し、...聖アントニオ・マリア・クラレ司教St.AntoniusMariaClaret

  • 浦川和三郎 司教『祝祭日の説教集』煉獄

    『祝祭日の説教集』浦川和三郎(1876~1955)著(仙台教区司教、長崎神学校長歴任)十一月二日(一)煉獄の霊魂の記念(1)煉獄に苦しめる霊魂の憫(あわれ)むべき状態を思いなさい。彼らは善を尽くし、美を尽くし給う天主を一時も早く仰ぎ見、心を傾けて尊び愛したいとやる瀬なき思いに焦がれている。彼らは実に遠島せられた罪人が、故郷の天を恋い慕う以上に、真っ暗な牢屋に繋がれている囚人が、晴天白日をこい願う以上に、最愛の母に別れた孤児(みなしご)がその母にあこがれる以上に主を思い焦がれ、その御国にあこがれているのであるが、しかし少しの汚点でも残っている間は、何うすることもできない。苦しんで苦しんで、その汚点を磨き落すより他はない。なお、彼らは自分の犯した罪、なおざりにして顧みなかった過失を悔しがり、良心の鞭にひどく責...浦川和三郎司教『祝祭日の説教集』煉獄

  • 貧しい人を忘れず、見知らぬ人へは親切に 聖アタナシウス

    貧しい人を忘れず、見知らぬ人への親切を忘れず、何よりも、魂と力を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛するようにしよう。聖アタナシウス貧しい人を忘れず、見知らぬ人へは親切に聖アタナシウス

  • 聖セヴィリノ・ボエチオ殉教者 St. Severinus Boethius

    聖セヴィリノ・ボエチオ殉教者St.SeverinusBoethius記念日10月23日ボエチオは480年、ローマのアニチイ家という有名なキリスト教の家庭に生まれ、早く父を亡くしたため、元老院議員アウレシウス・シマクスに引き取られて、その娘のルスチカナと結婚した。510年ボエチオはローマの執政官となり520年から2年間東ゴート族のテオドリック王の高官として仕えたが、不幸にしてテオドリック王に対する謀叛を起こしたと訴えられた。彼は東のユスチヌス1世皇帝をテオドリック王の代わりに王位につけようとしたと言われ、また魔術師で、正しい秩序を破壊する手紙を書いたと非難されたのであった。ボエチオは9ヶ月間パヴィアの牢獄に入れられ、その間に有名な「哲学の慰め」のほかに三位一体についての論文も書いた。これはエウティケスとネス...聖セヴィリノ・ボエチオ殉教者St.SeverinusBoethius

  • フィエゾレの聖ドナート司教 St. Donatus de Fiesole

    フィエゾレの聖ドナート司教St.DonatusdeFiesole記念日10月22日9世紀の中頃、ドナートというアイルランド人がローマに巡礼に行き、帰りにフィレンツェの近くのフィエゾレに立ち寄った。そこのカテドラルではたくさんの人々が新しい司教選出を前にして祈るために集まっていたが、小柄のドナートが堂内に入った瞬間に教会の鐘が鳴り出し、全部のろうそくに火がともった。人々は大変驚いて、これは神が示されたしるしで、たった今聖堂に入ってきたばかりのこの見知らぬドナートこそ次の司教に選ばれるべき人だと思って彼を任命した。幸いにして彼は非常に信心深い人で、また学者でもあり、詩人でもあった。現在まで残っている彼の墓碑銘によると、彼はすばらしい教師であって、フランク王ロテアとルイ皇帝に仕えたと伝えられている。彼は修道院の...フィエゾレの聖ドナート司教St.DonatusdeFiesole

  • 聖ウルスラおとめ等殉教者 St. Ursula et Soc. Vv.

    聖ウルスラおとめ等殉教者St.UrsulaetSoc.Vv.記念日10月21日聖ウルスラ童貞を始め、彼女と最後を共にしたこれらの聖女たちについては、いつ誰がどこで生まれたか。どういう生涯を送ったか、また総てで何人であったか、一向に知られていないが、ただその致命の原因が自己の貞操を護る為であったことだけは、歴史に明らかに伝えられている。されば聖会が彼等を聖女の群れに加えたのは、その生涯を聖と認めた為ではなく、その貞操への壮烈な殉死をよみした結果に他ならない。聖会の純潔を尊重することが如何に深いかは、以て察すべきである。聖ウルスラ等が生命を献げたのは、5世紀にかのフン族が欧州に来寇して、都市村落の家々を焼き、人々を殺し、掠奪をほしいままにし、あらん限りの残虐を働きつつライン河に沿うてケルン市に侵入したことであ...聖ウルスラおとめ等殉教者St.UrsulaetSoc.Vv.

  • 信仰とその報酬 聖アウグスティヌス

    信仰とは、見えないものを信じることであり、この信仰の報酬は、信じたものを見ることである。聖アウグスティヌス信仰とその報酬聖アウグスティヌス

  • 聖アッカ司教

    聖アッカ司教記念日10月20日アッカはイギリス北部のノーサンブリアで、ヘクサムのウイルフリド司教に仕え、彼に従ってローマに行ったこともあった。ローマでは。教会の組織について自分の国では到底学ぶことのできない貴重なことを学んだのであった。その後ウイルフリド司教が死去した時、アッカがあとを継いで司教となった。アッカはイギリスの教会にローマの習慣を取り入れる必要性を感じていたが、彼の関心は何よりもローマの典礼の美しさを導入することであった。彼はケントからマバンという有名な聖歌の歌手を招いて、教会で司祭たちに教えさせたが、マバンはグレゴリオ教皇がローマからイギリスに送った修道士たちの指導を受けた音楽家であった。マバンは教会音楽を12年間教えて古い聖歌と共に新しい聖歌も練習させた。アッカも自ら美しく歌って模範を示し...聖アッカ司教

  • アルカンタラの聖ペトロ証聖者 St. Petrus de Alcantara C.

    アルカンタラの聖ペトロ証聖者St.PetrusdeAlcantaraC.記念日10月19日主イエズス・キリストの聖言に「人もし我に従わんと欲せば、己を捨て、己が十字架を取りて我に従うべし」とあるが、アルカンタラの聖ペトロの生涯は、それを文字通り体現したような禁欲克己の一生であった。彼は1499年スペインのアルカンタラ市に、同市の市長を父、貴族の娘を母として生まれた。長じて彼はその町で哲学を研究したが、そのうちに父が死ぬと、息子の立身をこいねがう母は、彼を有名なサマランカ大学に送り、法律を学ばせた。卒業後ペトロは故郷に帰ったが、その学識と家柄を以てすれば、どんな出世も思いのままであったろうに、世間の栄誉や快楽のはかなさを痛感した彼は、出家入道をこいねがい、種々の修道会の会則を調べた結果、アッシジの聖フランシ...アルカンタラの聖ペトロ証聖者St.PetrusdeAlcantaraC.

  • 教皇「イスラエルの作戦は非道徳的」(ロイター/AFP/時事 等)

    ローマ教皇、イスラエルの武力行使「不道徳」2024年9月30日11:18(AFP)【9月30日AFP】ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇(PopeFrancis)は29日、イスラエルによるレバノンおよびパレスチナ自治区ガザ地区(GazaStrip)への攻撃について、度が過ぎており、「不道徳」だと非難した。教皇は訪問先のベルギーからイタリア・ローマに戻る機内で、イスラエル軍の空爆で民間人が死傷していることについて問われると、「どの国であれ、あのようなやり方で武力を行使し、度の過ぎた行動を取れば、不道徳な行為に走るようになる」と指摘。「防衛は常に攻撃と釣り合ったものでなければならない。そうでなければ、道徳を逸脱しがちになる」「たとえ戦争でも守るべき道徳規範はある。戦争はそもそも不道徳なものではあるが、戦...教皇「イスラエルの作戦は非道徳的」(ロイター/AFP/時事等)

  • 祈りと読書の優先順位 セビリアの聖イシドロ

    祈りは私たちを清め、読書は私たちを導く。どちらもできるならば、どちらも善いものである。そうでないときは、祈りは読書に優る。セビリアの聖イシドロ祈りと読書の優先順位セビリアの聖イシドロ

  • 聖ルカ福音史家 St. Lucas Evang.

    聖ルカ福音史家St.LucasEvang.祝日10月18日聖ルカと言えば読者は読者はすぐに、筆を手に画架に向かって聖母の御姿を描きつつある聖人を思い出すであろう。しかし彼が果たして絵をよくしたか否かは明らかでない。唯古い伝説に聖マリアの聖絵を描いた最初の人は彼であったと言われているのである。聖ルカの職業は医者であって、聖福音書の一つを著した故にあまねくその名を世に知られている。彼の故郷は学校の多いシリア国のアンチオキア市であった。キリスト教がようやく弘布し始めた西暦40年頃、同市にも信者の団体が組織されたが、ルカはその中の熱心な一青年であった。彼は少年時代から勉学を好み、ギリシャ語に通じ、また自己の見聞を広める為にギリシャやエジプトへ旅行したこともあったが、その中に聖パウロや聖バルナバがアンチオキア市に来...聖ルカ福音史家St.LucasEvang.

  • アンチオキアの聖イグナチオ司教殉教者 St. Ignatius E. et M.

    アンチオキアの聖イグナチオ司教殉教者St.IgnatiusE.etM.記念日10月17日古い伝説によれば聖イグナチオは聖ポリカルポや聖パピアスのように、使徒聖ヨハネの弟子であったと言う。そして子供の時既に聖主のお選びを蒙ったと伝えられている。即ち聖福音書に、ある日イエズスが弟子達に謙遜を教え給うた時「人もし第一の者たらんと欲せば一同の後となり、一同の召使いとなるべし」と仰せられ、更に一人の幼子を呼び寄せ、之を抱いて「総てこの幼子の如くへりくだる人は、天国にて大いなる者なり」と宣うたとあるが、この幸いな子供こそ実に幼き日のイグナチオであったと言うのである。彼は紀元24年頃の生まれで、その時は六、七歳位であったと推察される。イグナチオはその主の聖教を清い心に深く深く刻み込んで生涯を忘れなかった。彼がアンチオキ...アンチオキアの聖イグナチオ司教殉教者St.IgnatiusE.etM.

  • 聖マルガリタ・マリア・アラコクおとめ St. Margarita Maria Alacoque V.

    聖マルガリタ・マリア・アラコクおとめSt.MargaritaMariaAlacoqueV.記念日10月16日人にはそれぞれ天主から与えられた使命がある。殊に聖人聖女の使命は重大な意義をもっているものが多い。しかし身分の貴い人には大なる使命が託せられ、身分の賤しい人には小なる使命が委ねられるとは限っていない。却って「智者を辱めんとて天主は世の愚かなる所を召し給い、強き所を辱めんとて天主は世の弱き所を召し給う」という聖パウロの如く、世間から蔑ろにされているような人が、大使命を受けてかくかくたる功績をたてることも少なくない。例えばイエズスの聖心の信心の提唱者で聖女の列に加えられたマルガリタ・マリア・アラコクなども、今こそカトリック界には誰一人知らぬ者もないが、その昔は全く世に隠れた一介の修道女に過ぎなかったのを...聖マルガリタ・マリア・アラコクおとめSt.MargaritaMariaAlacoqueV.

  • パソコンが壊れる

    突然、パソコンが壊れてしまいました。電源を押しても、電源周りを点検しても、動く気配がありません。幸いなことに、数日前に殆ど全データのバックアップを取り、予備のパソコンに移していました。そういうわけで、しばらくは予備のパソコンを使おうと思います。今まで使っていたパソコンは、修理するか、買い替えるか、考えないといけません。予備機もメインPCと同程度の性能はあるのですが、このような緊急時用に、なるべく予備機は温存しておきたいのでパソコンが壊れる

  • 律法を聞く人ではなく律法を守る人 聖書

    神の前に義とされるのは、律法を聞く人ではなく律法を守る人である。ローマ人への手紙2章13節律法を聞く人ではなく律法を守る人聖書

  • イエズスの聖テレジアおとめ教会博士 St. Theresia ab Avila V.

    イエズスの聖テレジアおとめ教会博士St.TheresiaabAvilaV.記念日10月15日アヴィラの聖テレジアは、やはり同名で知られた聖女、イエズスの小さきテレジアと区別するため、時に大テレジアと呼ばれる事があるが、実際彼女はその名に値するほど類稀な大聖女で、聖会の為、また宗教の為、抜群の功績をたてたのであった。大テレジアは1515年3月28日、スペインのアヴィラ市に産声を挙げた。両親は信心深い貴族で、その子女には皆カトリックの教育を授けたが、なかんずく父は甚だ読書を好み、子供にも種々有益な書物を与えるようにしたから、テレジアも7歳頃から4歳年上の兄ロデリコと共に聖人伝に親しみ、殉教者達の壮烈な最期に感動して幼い心に自分も聖教の為に生命を献げたいと思い、父母の反対を恐れて無断で家を飛び出した。しかしその...イエズスの聖テレジアおとめ教会博士St.TheresiaabAvilaV.

  • 時間の短さと永遠の長さを考えなさい。 聖ジェラルド・マイエラ

    時間の短さ、永遠の長さを考え、この世の全てがいかに終わりを迎え、過ぎ去っていくかを考えなさい。支えることのできないものに寄りかかることに何の意味があるのでしょうか。聖ジェラルド・マイエラ時間の短さと永遠の長さを考えなさい。聖ジェラルド・マイエラ

  • 聖カリスト1世教皇殉教者 St. Callistus Pap. M.

    聖カリスト1世教皇殉教者St.CallistusPap.M.記念日10月14日キリスト教の初代に聖会を統治された教皇方は、殆ど皆殉教されたが、217年から222年までペトロの聖座に在ったカリストも、同様の運命を免れることが出来なかった。彼はローマ人に最も蔑視されていた奴隷階級に生まれたが、幸いにも主人はキリスト信者で、自分も聖教を奉じて人となった。その中でユダヤ人に邪宗門の信者と訴えられた為、サルディニア島に流され、そこの鉱山で鞭打たれつつ労役に服したが、過度の労働と日毎の虐待とは、いたく彼の健康を損ね、この分では遠からず生命を落とすであろうと我から覚悟を定めた位であった。所がちょうどその頃キリスト教に好感を持つ皇后マルチアの執り成しにより一同赦されることとなったので、彼も自由の身となってローマに帰ること...聖カリスト1世教皇殉教者St.CallistusPap.M.

  • 聖エドワード2世王証聖者 St. Eduardus II. C.

    聖エドワード2世王証聖者St.EduardusII.C.記念日10月13日エドワードというイングランド国王は数名あって、中にはエドワード6世の如くカトリックを忌み嫌い、これに迫害を加えた者もあったが、またその反対に聖教を熱愛し徳を修め聖人と崇められるようになった英君も二方ある。それはエドワード1世及びその甥に当たるエドワード2世で、本日記念するのは後者の方である。彼は1013年エテルレッド王とその妃エンマの間に生まれた。まだ幼少の折り無法なデンマーク軍が来り寇し,王の一族を追い出し教会修道院等を焼き払い、掠奪を働き、司祭修道者達を虐殺し、国を乗っ取って人民に圧政の限りを加えた。それでエドワードは母と共にその故郷なるフランスのノルマンディー州に逃れたが、信心深い王妃はその間にも王子の心に聖い教えを刻みつけよ...聖エドワード2世王証聖者St.EduardusII.C.

  • 聖ウイルフリド司教

    聖ウイルフリド司教記念日10月12日664年にイギリスのウイットビーで大きな教会会議が開かれた。そこは修道士と修道女両方が住む修道院を聖女ヒルダ院長が管理している所であった。会議の主な問題は復活祭の期日を定めることであった。これについてケルトの教会とローマ教会は異なる意見を持っていた。福者ベーダによると、キリスト教国のイギリスにおけるこの意見の相違を多くのキリスト信者たちが嘆いていた。オスウィ王が教会会議を司会し、唯一の神に奉仕する者は皆一つの規定を守るべきであると言った。リンディスファーンのコルモン司教は、復活祭を守るためのケルトの規定は正しいと主張して、復活祭の日を決定する方法は聖ヨハネから伝わったと言った。これに対して聖ウイルフリドは「聖ヨハネを愚かだと言うつもりはありませんが、ローマ教会の復活祭を...聖ウイルフリド司教

  • 今すぐ始めなさい リジューの聖テレーズ

    今すぐ始めなさい。私を信じて、聖人になるために明日まで待たないでください。リジューの聖テレーズ今すぐ始めなさいリジューの聖テレーズ

  • ケルンの聖ブルーノ司教

    ケルンの聖ブルーノ司教記念日10月11日ブルーノは聖女マチルダとヘンリー皇帝の末子として生まれ、4歳の時ユトレヒトに送られてバルデリコ司教のもとで、当時有名であった教区学校に入学したが、わずか14歳でヘンリー皇帝の弟のオットー1世皇帝の秘書に選ばれた。950年に司祭に叙階され、3年後にケルンの大司教に任命された。彼はそこに聖パンタレオン修道院を創立したが、その美しい聖堂は今日まで残っている。ブルーノの望みは生まれ故郷の市にベネディクト会の修道院を建設することであった。大司教としての彼の功績は司教の基準を高めたことや、学問の奨励、修道院の刷新などであった。しかし彼の宗教的義務は政治家としての世俗の義務を妨げることはなかった。オットー皇帝はブルーノをロレイン公爵に任命し、自分が教皇によって戴冠されるためにロー...ケルンの聖ブルーノ司教

  • ヨークの聖パウリヌス司教 St. Paulinus de York

    ヨークの聖パウリヌス司教St.PaulinusdeYork記念日10月10日625年にケントの王エドバルドの姉妹、王女エテルブルガがノーサンブリアの聖エドウィンと結婚するために北に行ったとき、彼女は自分のチャプレンとしてパウリヌス司教を同伴した。彼は、601年にローマからイングランドに派遣された第二回目の宣教師の一団の一人であり、カンタベリーで聖ユストゥスによってその職に聖別された。627年にヨークで、ベダによって詳しく物語られている状況の中で、エドウィン王や貴族たち、また多くの他の者たちが、復活祭の前夜にパウリヌスによって洗礼を授けられた。パウリヌスは背が高く、肌の黒い男で「堂々としていて畏敬の念を起こさせる」風貌の人物であり、南はリンカーンにまで至り、数多くの者たちを回心させ、洗礼を授け広範囲にわたる...ヨークの聖パウリヌス司教St.PaulinusdeYork

  • パリの聖ディオニジオ司教と同志殉教者

    パリの聖ディオニジオ司教と同志殉教者記念日10月9日フランスの保護の聖人の一人聖ディオニジオはイタリア人で、250年頃6人の宣教師と共にパリへ派遣された。その中には大胆なエレウテリオとルスティコが居た。宣教師達の非常な努力によって多数の市民が改宗した。これを見たローマ総督フェスチェンニヌスは3人を捕らえて牢獄に入れた。彼等は長い間牢獄の中で乏しい生活に苦しめられたが、275年頃、首を斬られ、その遺体はセーヌ川の中に投げ込まれた。モンマルトルの「殉教の丘」は3人の殉教した場所を示している。彼等を記念して建てられたサン・ドニの修道院の教会堂は、575年聖ジェネヴィエーヴによって再建され。この聖人たちを記念するため小修道院を付設した。ダゴベルト1世王はこの教会を改築して、自分の墓をそこに置くように計画した。75...パリの聖ディオニジオ司教と同志殉教者

  • 聖デメトリオ殉教者

    聖デメトリオ殉教者記念日10月8日テサロニケのデメトリオは歴史と伝承の偉大な「軍人の聖人」の一人である。彼は多くの弟子達を信仰の為に必要ならば殉教するように励ました。ある時ネストルという人はガレリアヌス皇帝の率いる剣闘士と戦うために闘技場に投げ込まれた。不幸にして、ガレリアヌス皇帝の選手はネストルに殺されたので、怒った皇帝はネストルばかりでなく、彼の教師デメトリオまで捕らえて死刑にした。これは4世紀の出来事であった。デメトリオ殉教者はたくさんの奇蹟で有名になったが、特に注目されたことは。586年スラブ人たちの攻撃からテサロニケを守ったことであった。スラブの侵入者の数はテサロニケ軍の守備兵よりもずっと多かったが、それにもかかわらず彼等は敗北して逃げ去った。力強い軍隊が来て、その司令官はきらびやかな軍装に身を...聖デメトリオ殉教者

  • 人生の有終の美 聖ジャン・マリー・ヴィアンネ

    聖人たちは皆、うまく始められなかったが、皆、うまく終わった。聖ジャン・マリー・ヴィアンネ人生の有終の美聖ジャン・マリー・ヴィアンネ

  • 菊地大司教様、枢機卿に親任

    最近、長らくブログをお休みしていました。私もしばらく充電期間をと菊地大司教様が枢機卿に親任されたようです。おめでとうございます。FacebookやTwitterなどSNSもまめになさっていらっしゃいますし、しばしばコメントも頂ける方ですので、親しみをお持ちの方も多いと思います。【速報】菊地功大司教、枢機卿に教皇フランシスコは、10月6日正午、バチカン・サンピエトロ広場に集まった巡礼者や訪問者に向けての「お告げの祈り」を祈る際、12月8日の枢機卿会議において、21人の枢機卿...カトリック中央協議会ローマ・カトリック教会新枢機卿に菊地功氏任命日本人7人目 NHK【NHK】ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇は、新たな枢機卿に東京大司教の菊地功氏を任命すると発表しました。枢機卿に日本人が…NHKニュースロ...菊地大司教様、枢機卿に親任

  • ロザリオの聖母

    ロザリオの聖母記念日10月7日全世界のカトリック信者が最もしばしば誦える祈祷の一つはロザリオであろう。それは極く簡単で誰にでもわかる。無学な信者でもその意味を悟り得るが、またロザリオは深い玄義をも蔵しているから、偉い学者でもなかなかその奥底まで究め尽くすことは出来ない。ロザリオには(1)大切な信仰箇条や(2)イエズス御自身の教え給うた祈祷や(3)大天使ガブリエルが聖マリアに語った言葉や(4)聖会がそれに付け添えた短い祈祷などが含まれている。これらの祈祷は天主の讃美と童貞聖マリアに対する祈願とに外ならない。我等はこれから右の各々について簡単に調べてみよう。(1)大切な信仰箇条、聖教の大切な信条は一切ロザリオの使徒信経に含まれている。信ずべき事は公教要理の第一部に説明してあるから。益々信条を語り信仰を堅くする...ロザリオの聖母

  • 聖ブルーノ司祭証聖者 St. Bruno C.

    聖ブルーノ司祭証聖者St.BrunoC.記念日10月6日シャルトルーズ会は数ある修道会の中でも、最も厳格な教団であるが、聖ブルーノは即ちその創立者である。彼は1032年ドイツのケルン市に生まれた。両親は貴族で、我が子を司祭達の経営にかかるクニベルト学校に学ばせ、後レンスに送った。ブルーノはなおそこからツールに移り、またケルンに帰って勉学を終え、司祭となり、やがて大司教座付き付属の学校で教鞭を取ったが、その教え子の中には、後年名を成した人が少なくない。例えば教皇ウルバノ2世の如きもそうである。それらの名士達は常に師の恩を忘れず、ブルーノの名も彼等によって天下に知られるに至ったのである。しかしブルーノは相変わらず謙遜で、忠実に天主に仕え、そして益々深く天主を愛す事にのみ力を注いだ。彼に学んだ人々は彼の事を次の...聖ブルーノ司祭証聖者St.BrunoC.

  • アッシジの聖フランシスコ証聖者 St. Franciscus Assis. C.

    アッシジの聖フランシスコ証聖者St.FranciscusAssis.C.記念日10月4日聖書に記されている聖人方は別として、カトリック界のみならず一般世間に知られている諸聖人の中でも、アッシジの聖フランシスコほど有名な方はまたとあるまい。彼は1182年イタリアのアッシジに呱々の声を挙げた。父はペトロ・ベルナルドと言い、フランスにまでも支店を持っている豪商で、その妻ピカが未来の聖者を儲けた時もフランスへ旅行中であった。子供は洗礼の際ヨハネという霊名を授けられたが、父は帰国後これにフランシスコと命名したのである。若いフランシスコは身分相応の教育を受け、さまざまの知識と共に、ラテン語やフランス語なども学んだ。彼は陽気な性質で遊び事や大盤振る舞いや青年らしい放縦が大好きであった。それで彼はいつでも町の青年達から首...アッシジの聖フランシスコ証聖者St.FranciscusAssis.C.

  • 聖フランシスコ・ボルジア司祭証聖者 St. Franciscus Borgias C.

    聖フランシスコ・ボルジア司祭証聖者St.FranciscusBorgiasC.記念日10月3日ボルジアの聖フランシスコは始め国家の重臣として国王に忠勤をぬきんで、後には修道者となって一身を天主に献げ、聖会に対しても数々の功労をたてた聖人である。彼は1510年、スペインのガンヂア市にその地方の領主を父、皇帝の近い縁戚を母として生まれ、幼時より敬虔な性質で、かりそめの遊びにも戦争ごっこよりミサ聖祭の真似事を好むという風であった。19の年齢召し出されて宮中に近待の役を勤めることとなったが、その忠実な働きぶりは当時欧州の半分を領していた皇帝カルロ5世やその皇帝イサベラの信任を博し、ついにはイサベラの御意でその寵愛する侍女エレオノレ・デ・カストロを妻とし、侯爵の称号を授けられたほどであった。このエレオノレも夫に劣ら...聖フランシスコ・ボルジア司祭証聖者St.FranciscusBorgiasC.

  • 守護の天使 Fest. Sts. Angelorum Custodum

    守護の天使Fest.Sts.AngelorumCustodum記念日10月2日守護の天使の祝日を迎えるに当たり、我等は天主の広大な御慈悲の程を、つくづくと感ぜずにはいられない。即ち天主はその御憐れみから、聖い天使を我等の友とし案内者とし守護者として与え給うた。それで我等は天主並びに天使方に感謝を献げる為、10月2日に守護の天使の記念を行うのである。天主が人間を守護せしめる為聖天使を遣わし給うたことは、既に旧約聖書の中に記してある。トビアがその旅行中一位の天使に導かれ護られたなどはその一例で、なおかような話はヤコボ、ユディト、ダニエル、エリアその他多くの人々の場合にも見出されるのである。更に転じて新約聖書を見ると、使徒聖ペトロが天使に獄中から救い出された話がある。聖ヨゼフが天使に先ずエジプトへ逃れよとの告げ...守護の天使Fest.Sts.AngelorumCustodum

  • 幼きイエズスの聖テレジアおとめ教会博士 St. Theresia ab Inf. Jesus V.

    幼きイエズスの聖テレジアおとめ教会博士St.TheresiaabInf.JesusV.記念日10月1日幼きイエズスのテレジアほど一朝にして世人の驚嘆感動を巻き起こした聖女は珍しい。彼女はフランスで生まれフランスで死んだ。しかし彼女に対する崇敬は幾ばくもなく全世界に広まった。彼女は僅か24歳というまだうら若い年齢で世を去ったが、彼女はその死後短時間で列聖された聖人は滅多にない。この聖女は1873年の1月2日に生まれて、1897年の9月30日に死んだから、先ず現代の聖人と言えよう。その生誕地は北フランスのアランソンである。彼女の父母は甚だ信心深く、その間に儲けた9人の子供を天からの授かり物として、そのことごとくを生まれぬ前から天主に献げた位であった。テレジアはこの9人の末子で、幼少から至って敬虔の念に篤かった...幼きイエズスの聖テレジアおとめ教会博士St.TheresiaabInf.JesusV.

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