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  • 継体持統㉛:斉明朝の軍事力

    白村江の戦いのような最大級の国難に対し、斉明朝の国力として動員可能な最大軍事力はどの程度であったのだろうか。 隋に見る遠征軍動員可能兵力 参考になるのが、隋による高句麗遠征である。 598年に文帝は30万の軍勢を高句麗に送った。そして612年に煬帝は113万の軍勢を高句麗に送り、618年には隋は滅びてしまった。 従って、『隋にとって30万はいいけど113万はやり過ぎ』というのが見て取れる。 当時の隋の人口は約4600万人とされている。 このため、動員可能兵力の人口比として113万/4600万=1/40が国が傾く限界といえる。余裕ある動員可能兵力人口比は30万/4600万=1/150程度となる。…

  • 継体持統㉚:中大兄の奇妙な行動

    661年7月24日斉明天皇崩御後、中大兄皇子は10月7日には博多港の長津宮を離れ倭京に戻ってしまった。結局九州で指揮をとったのはたったの2ヶ月半。以後、九州で中大兄皇子が戦争を指揮した記録は日本書紀にはない。 中大兄皇子何してた? 斉明天皇崩御後の日本書紀の記事について時系列をまとめてみると、7月24日 朝倉宮で斉明天皇崩御7月 中大兄皇子は長津宮に移り、徐々に(稍)、海外軍を指揮する(原文『稍聴水表之軍政』)8月1日 中大兄皇子は斉明天皇の亡骸を磐瀬宮(長津宮)に移送9月 中大兄皇子は長津宮で豊璋に織冠を授与し軍と共に百済に送り出す。10月7日 中大兄皇子は斉明天皇の亡骸とともに出港10月2…

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