【前回までのおさらい】仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』をもとに自説を検証する。その第一弾、仁藤氏も認めている「女帝不可の思想の影響」の争点として、・“女帝不可”の思想はどこまで倭国朝廷内に浸透していたか?・山背大兄は皇極朝においても有力な皇位継承候補であったか?・皇極女帝と蘇我大臣家との関係はどうだったか?をあげた。2つ目の争点では、議論のとっかかりとして、推古天皇没後の皇位継承問題であ...
メインコンテンツは【大化改新の方程式】。「乙巳の変を解くカギは”女帝不可”の思想」、「宝皇女は皇極のときから“興事好き”」、「斉明朝では鎌足は失脚していた」という着想を軸に、大化改新の謎解きに新書レベルの知識と理屈で挑戦
「ブログリーダー」を活用して、れんしさんをフォローしませんか?
【前回までのおさらい】仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』をもとに自説を検証する。その第一弾、仁藤氏も認めている「女帝不可の思想の影響」の争点として、・“女帝不可”の思想はどこまで倭国朝廷内に浸透していたか?・山背大兄は皇極朝においても有力な皇位継承候補であったか?・皇極女帝と蘇我大臣家との関係はどうだったか?をあげた。2つ目の争点では、議論のとっかかりとして、推古天皇没後の皇位継承問題であ...
【前回までのおさらい】仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』をもとに自説を検証する。その第一弾、仁藤氏も認めている「女帝不可の思想の影響」の争点として、・“女帝不可”の思想はどこまで倭国朝廷内に浸透していたか?・山背大兄は皇極朝においても有力な皇位継承候補であったか?・皇極女帝と蘇我大臣家との関係はどうだったか?をあげた。1つ目の争点では、女帝の存在にネガティブなイメージをもつ儒教的エートスに...
【前回までのおさらい】仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』をもとに自説を検証する。その第一弾、仁藤氏も認めている「女帝不可の思想の影響」の争点として、・“女帝不可”の思想はどこまで倭国朝廷内に浸透していたか?・山背大兄は皇極朝においても有力な皇位継承候補であったか?・皇極女帝と蘇我大臣家との関係はどうだったか?をあげた。1つ目の争点に関し、儒教的エートスに染まった唐からの帰朝者たちが皇極女帝...
【前回までのおさらい】仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』をもとに自説を検証する。その第一弾、仁藤氏も認めている「女帝不可の思想の影響」の争点として、・“女帝不可”の思想はどこまで倭国朝廷内に浸透していたか?・山背大兄は皇極朝においても有力な皇位継承候補であったか?・皇極女帝と蘇我大臣家との関係はどうだったか?をあげた。1つ目の争点に関し、女帝の存在にネガティブなイメージをもつ儒教的エートス...
【前回までのおさらい】仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』をもとに自説を検証する。その第一弾、仁藤氏も認めている「女帝不可の思想の影響」の争点として、・“女帝不可”の思想はどこまで倭国朝廷内に浸透していたか?・山背大兄は皇極朝においても有力な皇位継承候補であったか?・皇極女帝と蘇我大臣家との関係はどうだったか?をあげた。1つ目の争点では、皇極朝において唐からの帰朝者たちが重用されていないこと...
【前回までのおさらい】仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』をもとに自説を検証する。その第一弾として、仁藤氏も認めている「女帝不可の思想の影響」の争点として、・“女帝不可”の思想はどこまで倭国朝廷内に浸透していたか?・山背大兄は皇極朝においても有力な皇位継承候補であったか?・皇極女帝と蘇我大臣家との関係はどうだったか?をあげた。【ここでの課題】第一の争点である「“女帝不可”の思想はどこまで倭国朝...
テンプレートを変更してみました・・・仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』(以下、本書)において、自説と照らし合わせていきたい論点は以下の3つだ。・女帝不可の思想の影響・「韓政に因りて」の解釈・孝徳朝における鎌足のスタンスまず、最初の「女帝不可の思想の影響」についてみていこう。繰り返しになるが、「乙巳の変を解くカギは“女帝不可”の思想」というのが自説の根幹の1つだ。仁藤氏も「乙巳の変を解くカギ...
仁藤敦史氏の主張に賛同するかどうかは別として、『東アジアからみた「大化改新」』は、厩戸皇子(聖徳太子)没後から孝徳期までの対外関係を唐および朝鮮3国の動向をからめて理解するには、一般書としては最適な本であると私は評価したい。amazonへのリンクそこで今回は、その概要を解説しておこう。仁藤氏が本書で提起した課題は、なぜ7世紀中葉になって、〔大化改新という〕政治改革が必要となったのかについては、「蘇我氏の専...
まもなく迎える来年は「乙巳」の年。中大兄と中臣鎌子によるクーデターで蘇我本宗家が滅亡したとされる年から24度目の「乙巳」である。2年前になるが、当ブログで「大化改新」をテーマに自説を展開してから10年になるのを機に、刊行されたばかりの仁藤敦史氏の『東アジアからみた「大化改新」』を片手に、自説の振り返りを行うと宣言した(自説を振り返る 大化改新の方程式(235))。ただその前段として、自説の根幹たる以下の3点...
前回の最後に、不比等落胤説をとるなら不比等の母は「鏡王女が妥当だ」としれっと書き加えたが、ここで不比等の母について触れておこう。■車持与志古娘これまでたびたび引用している『尊卑分脈』が記す不比等の母で、長男・真人(出家して定恵)の母でもあり、これが通説のようだ。車持氏は天武13年(684年)の「八色の姓」において「朝臣」姓を賜った上毛野氏などの東国6氏のうちの1氏族だが、与志古娘の父・君子の詳細は不明。...
前回、不比等の蘇我娼子との婚姻を根拠として、鸕野讚良皇女(後の持統天皇)はかなり早い段階から不比等が異母弟であると信じていたのではないか、とした。ただ、それだけでは不比等落胤説自体を支持するには力不足だ。出仕したばかりとはいえ、愛息・草壁皇子の大舎人に任じられた(と推測される)不比等の器量に鸕野讚良が惚れたという解釈もできなくはないからだ。不比等の天智天皇落胤説にはより強力なサポート材料が必要だろ...
前回の続きで、不比等の天智天皇落胤説の話。くだんの「避くる所の事」というフレーズだが、意美麻呂は不比等よりも「かなり年長だった」とみる高島正人氏は以下のように解釈する──不比等の出生について、どのような「避くる所の事」があったのかは不明であるが、おそらく不比等が生まれた時は、父鎌足が不比等の従父弟意美麻呂を猶子として鎌足家に迎えて間もなくの時であったため、相続その他のことを考え、意美麻呂に配慮したの...
これまでトンデモの類だと思っていた不比等の天智天皇落胤説だが、前回までの記事を書いているうちに、どうにも気になった事柄が発端となって、不比等が落胤だった可能性も否定できないと思うようになった。結果的にトンデモかもしれないが、後日あらためて検討するかもしれないので、以下にその思考実験の顛末を書き記しておこう──不比等の落胤伝説は、かなり時代が下った『大鏡』や『帝王編年記』などにみえるもので、『日本書紀...
いよいよこのテーマの最終回。前回、「藤原」は天武13年の八色の姓直後の改姓で初めて登場した姓と考えるのが妥当とした。では、それが事実として、「藤原」が鎌足の死に際して賜姓されたというでっち上げは、なぜ必要だったのであろうか。前回の議論からまず思い浮かぶ理由が、「葛原」から「藤原」に戻すために必要な“前史”だった、ということだ。もし「藤原」が鎌足にまで遡る姓であったなら、「葛原」への再改姓を強要されるよ...
引き続き、「藤原の姓はいつ誕生したか」の話。前回、藤原姓の起源については以下の2つの説がありうるとした。A: 『日本書紀』が描くとおり、中臣鎌足が死に際して賜姓され、それを中臣大嶋らが拝借した。B: 鎌足は中臣姓のままで死去し、藤原姓は八色の姓直後の改姓にて初めて創出された。そして、『日本書紀』の記事をもとに、この謎を解くヒントとして以下の2つをあげた。1.意美麻呂(臣麻呂)が改姓したのは、大嶋や不...
前回に続き、「藤原の姓はいつ誕生したか」について語りたい。前回確認したことは・・・・天武13年(684年)の八色の姓では「中臣」として朝臣を賜姓されていることから、当時、藤原氏を称する者はひとりもいなかった・天武13年から14年にかけて、中臣から藤原への改姓を願い出て勅許を得たであろう・この改姓は中臣氏の氏上と思われる大嶋の主導のもとで行われたはず以上を踏まえれば、「藤原」誕生の謎解きは、2つの説に分かれ...
前回、中臣鎌足がその死に際して「大織冠」を授与されたのは、長く「内臣」という枢要な地位にありながら、その出自ゆえに大臣職にあがれなかった鎌足に破格の冠位を与えることで、「内臣としての大臣」=「内大臣」に任じることが目的であったことを示した。それでは、「藤原」の賜姓は、同じタイミングでなされたのであろうか。『日本書紀』によれば、鎌足の死後、「藤原」姓が登場するのは、天武紀〔下〕冒頭で「藤原大臣」の娘...
前回、藤原不比等の父として、百済王子・扶余豊璋でもない、近江朝の右大臣・中臣金でもない、「中臣鎌足」なる人物が実在し、確かに「大織冠」を授けられた事実があったと想定できることを示した。以下はそれを前提とした推論なので、「大織冠はまったくの虚構」と考える方にとっては意味のない話になることを先に断っておきたい。それでは、「内大臣」についてはどうであろうか。『日本書紀』によれば、孝徳天皇による大化政権発...
相当インターバルがあいてしまいました。申し訳ございません。この春から夏にかけて、毎年大きく携わっていた2つの業務が他社へ移管され、その引継ぎやら後始末やらで、心身ともに余裕のない状態でした。これを機会に第一線を退く旨は会社には伝えており、今後はこのブログに割く時間が増えるものと期待しています。今後ともよろしくお願いいたします。前回の記事にて、死期を悟った不比等が恥を忍んで『日本書紀』に最後の改竄を...
前回に続き、「鎌足=金」説について論じたい。トンデモ級の説なのかもしれないが、「鎌足=豊璋」説よりはリアリティがあると思う。少なくとも、中臣氏との接点がまるでみえない後者に比べて、前者にはその心配はない。この説の可能性については、飯田眞理氏が『古代日本の探求 第一巻』にて多方面から語り尽くしているので、今回は、この説の論点を私なりに整理しておこうと思う。(1)同時代人にみえみえの改竄をあえてするか...
前回に続き、「鎌足=金」説について論じたい。トンデモ級の説なのかもしれないが、「鎌足=豊璋」説よりはリアリティがあると思う。少なくとも、中臣氏との接点がまるでみえない後者に比べて、前者にはその心配はない。この説の可能性については、飯田眞理氏が『古代日本の探求 第一巻』にて多方面から語り尽くしているので、今回は、この説の論点を私なりに整理しておこうと思う。(1)同時代人にみえみえの改竄をあえてするか...
自説の根幹としてあげた3つの命題のうち、3つ目の「斉明朝では鎌足は失脚していた」を展開してきた。すでに検証したように、関裕二氏が唱える「鎌足=豊璋」説には根拠がないことは明白だが、実は、はじめて関裕二氏の著作を読んだとき、豊璋がありなら、他の人物でもよいのではないかと考えたことがある。で、思いついたのが、中臣金──理由は至極単純で、鎌足=「金」を「兼」ねる男。隠蔽目的にしてはあまりにネタバレすぎる、...
【前回までのおさらい】自説の根幹としてあげた3つの命題のうち、最後の「斉明朝では鎌足は失脚していた」の話。・それを語るうえで避けては通れない、関裕二氏が唱える「鎌足=豊璋」説を検証した結果、この説には、『日本書紀』や中国史書の記述を覆すだけの根拠が足りないことを示した。・鎌足がずっと中大兄とコンビでやってきたという先入観を排除すれば、乙巳の変から孝徳崩御まで、鎌足が軽皇子(孝徳天皇)の忠実なる僕(...
【前回までのおさらい】自説の根幹としてあげた3つの命題のうち、最後の「斉明朝では鎌足は失脚していた」の話。・それを語るうえで避けては通れない、関裕二氏が唱える「鎌足=豊璋」説を検証した結果、この説には、『日本書紀』や中国史書の記述を覆すだけの根拠が足りないことを示した。・鎌足がずっと中大兄とコンビでやってきたという先入観を排除すれば、乙巳の変から孝徳崩御まで、鎌足が軽皇子(孝徳天皇)の忠実なる僕(...
【前回までのおさらい】自説の根幹としてあげた3つの命題のうち、最後の「斉明朝では鎌足は失脚していた」の話。・それを語るうえで避けては通れない、関裕二氏が唱える「鎌足=豊璋」説を検証した結果、この説には、『日本書紀』や中国史書の記述を覆すだけの根拠が足りないことを示した。・鎌足がずっと中大兄とコンビでやってきたという先入観を排除すれば、乙巳の変から孝徳崩御まで、鎌足が軽皇子(孝徳天皇)の忠実なる僕(...