若者の愛情を土台にして、彼らを神のもとへと導いていますか。聖ジャン・バティスト・ド・ラ・サール若者を信仰に導く土台聖ラサール
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若者の愛情を土台にして、彼らを神のもとへと導いていますか。聖ジャン・バティスト・ド・ラ・サール若者を信仰に導く土台聖ラサール
日本刀を買いました。私にとっては、初めての日本刀で、初めての買い物としては、まあ満足しています。銃砲刀剣等登録証もついていますし。受け取りから20日以内に所有者変更の手続きを、登録されている教育委員会にしないといけないそうですので、早急に手続きをしようと思います。この刀は、どうやら昭和39年製、鹿児島県教育委員会が登録先だそうです。どうして教育委員会なのかというと、敗戦後、あらゆる武器の所持が禁止になったところ、日本刀はじめ数種の伝統武具だけは日本人の文化ということで、登録制で例外的に所持が許されたことが背景にあるようです。いわば、文化財・美術品という扱いで、教育委員会なのでしょう。とはいっても、焼き入れも研磨もされていますし、普通に斬ることはできます。伝統的な工法で作った刀のみ、登録制で所持許可なのです...日本刀を購入!
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年3イギリスのピューリタン革命6新しい共和国ピューリタン革命は、チャールズ一世の処刑をもって最高潮に達した。一六四九年三月、議会は君主制廃止にふみきった――「王という職は不必要で、負担が多く、人民の自由、安全および公の利害に有害であり、王の権力ならびに大権は、たいていの場合臣民を抑圧し、貧乏にし、奴隷化するのに利用されてきた。」ひきつづき君主制と不可分の関係にある貴族院が廃止され、五月、イギリスが「共和国にして自由国家」なることが宣言され、イギリス史上はじめて、共和国が出現した。しかしその実際はどうであったろうか。まず水平派の期待は大きかった。共和国の出現によって、人民協約の理想が実現されるのではないかと。ちょうど王が処刑される十日前の一月二十日、第二の人...3-3-6新しい共和国
聖ボニファチオ殉教者St.BonifatiusM.記念日5月5日この聖人はドイツの使徒と呼ばれる聖ボニファチオ大司教殉教者と異なり、四世紀ローマに生きていた人である。最初は聖人どころか、キリスト信者の名を汚すような罪の生活を送っていたが、後勇ましい殉教によってその一切を償い、以て聖なる痛悔者の群れに加えられる栄誉をになうに至った。彼の少年時代については別に知られていない。しかし壮年の頃は財産家アグラエ嬢の会計係を務め、萬に気の利く所から主人の信頼寵愛も殊の外厚かった。その内彼は独身の嬢と越えるべからざる隔ての垣まで乗り越えて、罪を犯すようになり、金に困らぬままに酒池肉林の快楽をほしいままにした。そういうボニファチオのたった一つの取り柄は、生来極めて慈悲深いことで、主人の承諾を得てはその託せられた財産の中か...聖ボニファチオ殉教者St.BonifatiusM.
行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。ヤコブの手紙2章17節行いが伴わない信仰の意味聖書
聖十字架発見の記念FestumInventionisSs.Crucis記念日5月4日主の御死去後ユダヤ人等は、その聖十字架を二人の盗賊の磔刑柱と共に引き抜き、過ぎ越し祭の始まる時刻も近づいたことゆえ、大急ぎで之をゴルゴダの丘の東側にある坑の中に投げ込んだ。そしてその後もあらゆる手段を講じて、イエズスを偲ぶよすがとなるものは何一つ残すまいと努めたから、主の親戚朋友、御弟子達も、始終心にかけながらもその御血に染まった聖十字架を然るべき場所に移し祀ることが出来なかったのである。その内にエルサレムはローマ軍の侵入を蒙って廃墟と化し、続いてローマ帝国全領土にわたる迫害が起こりなどして、いつか聖十字架の所在地すら定かには解らなくなってしまった。もっとも信者達は決してこの尊い主の御記念物を忘れた訳ではない。機会さえあれ...聖十字架発見の記念FestumInventionisSs.Crucis
金銀を買ったりするのに、どうしても勇気が要るという方の為のお手軽な資産防衛法は、明日買う物を今日買うことです。来年や再来年、買う予定の物を、今年買う。それが、誰にでも気軽にできる、ちょっとした資産防衛策です。来年は、今年よりも確実に高値になっているでしょう。どれだけ上がっているかは、わかりませんが。インフレが基調の今の時代において、未来に買う予定の物を今買うことは、確かな節約と価値の保存に繋がります。日本円よりも確かな財に、資産を転換させるからです。似たような方法として、十円玉を集めるのも、ノーリスクでできる資産防衛策と言えましょう。今現在、十円玉には6円分の銅が含まれています。もし、今後もインフレと円安が進んだ場合、確実に十円玉に含まれる銅の価値は、硬貨の額面を超えてしまうでしょう。原価保証されているの...お手軽な資産防衛策
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年3イギリスのピューリタン革命5チャールズ一世の死刑長老派と独立派とが分裂し、軍隊内では独立派の軍幹部と水平派の兵士たちとの対立がはげしくなったとき、幽閉中のチャールズ一世が脱走して、イギリス海峡のワイト島にはしった。一六四七年十一月のことで、王にとっては絶好のチャンスである。王は十二月スコットランドと協定をむすび、長老制の樹立をみとめ、スコットランド軍の援助をすることになった。こうして、長老派と国王派とがむすびつき、ウェールズで反乱がおこり、第二次内乱となった。火の手はケント、エセックスにおよび、ロンドンでは海軍が反乱をおこして国王側についたばかりでなく、スコットランド軍が南下してきた。しかし、第二次内乱は長老派の見こみに反して、軍隊内部の対立を一時的に...9-3-5チャールズ一世の死刑
私はパトリック、罪人であり、最も教養がなく、信心深い者の中でも最も劣り、多くの人の目から軽蔑されている者である。聖パトリック聖パトリックの謙遜な自己紹介
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年3イギリスのピューリタン革命4革命のプログラムネーズビーの決戦によって革命の第一幕がおわった。これとともに、まえから問題をはらんでいた議会派内部の対立が表面化してきた。エセックス伯やマンチェスター伯の指導する長老派とクロンウェルのひきいる独立派との対立である。この両党派の名前はエリザベス朝のピューリタンの宗派に由来するが、政治上の長老派、独立派は、宗教上のそれとぴったり一致するものではない。長老派は革命がこれ以上すすんで、社会秩序が崩壊することをおそれ、長老派の全国的な教会組織による上からの統制を維持して、革命を適当なところで停止させようとした。これに対し独立派は、長老派と分離派との中道を歩むとはいうものの、長老派とはまったく異なった性格をもち、革命をよ...9-3-4革命のプログラム
聖アタナシオ司教教会博士St.AthanasiusE.D.記念日5月2日堅信の秘跡を受けてキリストの兵士となった信者は、己の信仰の為、力を尽くして闘わねばならぬ。ただしこの世の兵士の如く武器を用いるのではない、各自の能力に応じて、或いは学問により、或いは祈りにより、或いは迫害の時にも信仰を宣言する事により闘うのである。聖アタナシオの如きはかかるキリストの兵士として、最も勇ましく、最も世にあらわれた一人であった。この聖人は293年、エジプトのアレクサンドリアに生まれた。両親はギリシャ人ながら聖教を奉じていたので、彼もキリスト教に従って育てられ、また学校教育も十分に授けられた。その上彼は青年の頃折々荒れ野に隠遁者達を訪ね、その立派な模範を見、有益な勧めを聞きなどした為、一層熱烈な信仰の念を養われたのであった。...聖アタナシオ司教教会博士St.AthanasiusE.D.
聖フィリポ、聖ヤコブ使徒Sts.PhilippusetJacobusApp.祝日5月3日聖フィリポ及び聖ヤコブ両使徒の記念は、昔から日を同じくして行われる定めになっている。しかし彼等は同じ日に帰天した訳でもなければ、主の御昇天後共に働いた訳でもない、却って別れ別れに異なる国へ、福音を述べ伝えたのである。もっともその遺骨は共に今なおローマに祀られている。聖フィリポは聖ペトロや聖アンドレアと同じく、ゲネサレト湖畔にあるベッサイダの生まれであった。ペトロが主に召された翌日の事である、途で主にお逢いして「我に従え!」という有り難い御言葉を賜ったフィリポは、すぐそのまま御弟子の中に加わることになったが、間もなく彼はナタナエルという友人に逢うと、「私達はモーゼの律法にも預言者達にもかきしるされた人に逢ったよ、ナザレト...聖フィリポ、聖ヤコブ使徒Sts.PhilippusetJacobusApp.
労働者聖ヨゼフ祝日5月1日1955年ピオ12世教皇は、メーデーを聖なるものとするために、”労働者聖ヨゼフ”の祝日を制定された。なぜなら、ナザレトのこの謙遜な、しかも偉大な労働者聖ヨゼフには、すべての労働者の保護者となる資格が備わっているからである。神が人間に労働をお定めになったのは、罪の罰のためではなく、神の創造の御業に協力させるためである。罪が世に入ったからこそ労働は辛くなったものの、もともと、それは人間の偉大さを示すためのものである。聖書もこのことを強調し、第2バチカン公会議も強調した。キリストご自身でさえ、公生活をはじめる前に大工の仕事をなさっておられた。聖ヨゼフは、この労働で聖家族を養い、同時にイエズスのために、そしてイエズスと共にさまざまの困難を乗り越え、この労働の救いの御業に協力されたのであっ...労働者聖ヨゼフ
聖ピオ5世教皇St.PiusV.P.P.記念日4月30日1565年にピオ4世教皇が亡くなった時、最適任者としてそのあとを継いで教皇となったのは、アントニオ・ミカエル・ギスリエリで、彼は1556年に司教に任命されるまで、ドミニコ会の学校で哲学と神学を教えていた。ピオ5世として教皇の座についた時、教皇登位を祝う代わりに、その費用を全部ローマ市内の貧しい人々や、経営困難の修道院に送った。司教や司祭は信者達から遠く離れて住むべきではないとして、司教区と小教区に住まわせ、ローマ市街における闘牛や動物いじめを禁止し、日曜日を聖日として守るように勧め、月に一度、特別な法廷を開いて、不正に扱われている者を招いて、その言い分を聞くようにした。1571年、トルコ軍が東欧のキリスト教国を侵略し、大艦隊を連ねてイタリアへ向かって...聖ピオ5世教皇St.PiusV.P.P.
人々は主の死について、考えもしないし、償いもしないので、滅びてしまいます聖ジャシンタ・マルト人々が地獄に落ちる理由聖ジャシンタ・マルト
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年3イギリスのピューリタン革命3クロンウェル登場一六四二~六〇年にわたるピューリタン革命がはじまったが、あいたたかう国王派と議会派とは、どんな人びとからなっていたか。同時代人の証言によると、国王派に味方したのは貴族、ジェントルマンの大部分とその下の農民などであり、議会派にはしったのは貴族、ジェントルマンの一部とヨーマン、商工業者などであったという。そしてイギリスでは貴族・ジェントルマンが一団となって一方の味方につくということはなく、現実には地方的利害とか、親族関係などが大きな役割を演じ、事態をもっと複雑にしていた。地理的には商工業が発達し、富裕な東部、南部が議会派の、おくれた西部、北部が国王派の地盤となったが、毛織物生産地帯やロンドン、ハル、プリマスなどは...9-3-3クロンウェル登場
単純に判断するとその通りですが、日本円の価値がこのまま下落していったとして、日本が高度成長期のように円安をバネに輸出大国に転じることができるかは、怪しいでしょう。勿論、部分的にはできるでしょうが、時間はかかりますし、かつてより競争率は高く、産業の構図も複雑です。①、日本で進行する産業空洞化かつて、日本は製造業で栄えました。自動車は勿論のこと、半導体から船舶から、多くの工業製品の数割~過半が日本で製造され、輸出され、日本はその利益で潤いました。しかし、長く続いた円高と不況によって、国内の産業は窒息してしまい、工場の多くは経費の安い海外へと出ていってしまいました。円安になれば、構図はかつてと似てきますから、海外移転した工場も、再び国内に戻って来てくれるかもしれません。しかし、それには、多くの課題があります。②...円安は輸出に有利なのか?
シェナの聖カタリナおとめ聖会博士StCatharinaSinensisV.記念日4月29日シェナの聖女カタリナの生涯は、聖パウロが記した「神の愚かなる所は人よりもさとく、神の弱き所は人よりも強し」(コリント前書1-25)という言葉の、良き例証とも言えよう。何となれば、彼女は別に深い学問もないか弱い女の身を以て、当時の紊乱した教会を粛正する上に、他の何人も及ばぬ偉大な影響を与えたからである。彼女は1347年聖母御告げの大祝日に、染物師ベニンカサ家の第二十四子として、イタリアのシェナに生まれた。信仰の厚い父母は生計も豊かであったので、数多い子供たちながら何不自由もなく十分に教育を与えることが出来たが、中でもオイフロシネ(朗らかの意味)と呼ばれたカタリナは他の兄弟姉妹と異なり、早くからイエズスその他の御出現を見...シェナの聖カタリナおとめ聖会博士StCatharinaSinensisV.
2週間ほど前にスズメバチのトラップを仕掛けたところ、何匹かかかっています。一昨年はスズメバチが何度もやってきて怖かったので、以後、毎年春には、罠を張って巣作りを予防することにしました。まだ4月の下旬で確実に女王蜂でしょう。可哀想ではありますが、刺されると最悪の場合、死ぬこともありますので、仕方がありません。製作は簡単で、ペットボトルに、酒、砂糖、酢を3:1:1の重量比で入れれば、いつでも作れます。自分の家や近所でスズメバチをよく見たりする環境にいる方は、作ってみるといいかもしれません。一旦、巣を作られてしまってから、駆除をするとなると、非常に大変です。そういえば、カトリック系のブログで、養蜂を勧める記事がありましたが、それを専業にするくらいの、覚悟、時間、技術がない限りは、お勧めしません。日本では、どこか...スズメバチが飛来!
学生を個々に知り、理解できるようになること聖ジャン・バティスト・ド・ラ・サール学生を個々に知り、理解できるようになること聖ラ・サール
一般的に悪魔の誘惑は、未来の事柄に関して、いつも安全が保証されているかのように思わせる。聖イグナチオ・ロヨラ悪魔の一般的な誘惑聖イグナチオ・ロヨラ
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年8くずれゆくアンジュー王国――アンジュー王家の人々Ⅱ――1ヘンリー王の死(挿絵はリチャード1世とフィリップ2世)ジョンがアイルランドでもたもたしているあいだに、兄ジョフリーが、トーナメントで重傷を負って死んだ。彼にはすでに一女エリナーがあり、死後男子アーサーが生まれたから、ブルターニュ侯領をジョンが継承するというわけにはいかなかった。だが、末っ子のジョンは、ここに、一歩、王冠へ近づいたのである。ヘンリーとリチャードの仲は険悪であった。リチャードの許婚(いいなずけ)、フランス王女アリスは、まだヘンリーの宮廷にいて、ヘンリーとの関係をひそかにうわさされていた。アキテーヌ侯領のジョンヘの分与という問題をめぐるさきの争いの結果、ヘンリーはリチャードを下位継承者に...5-8-2くずれゆくアンジュー王国
それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。ローマの信徒への手紙1章26-27節同性愛はいけない聖書
7エニシダの枝(プランタジネット)の王たち――アンジュー伯家の人々Ⅰ――5兄弟、あい争う「若いヘンリー」王には、ふしぎな人気があった。それと対照的に、リチャードには人気がなかった。「優雅で高貴、愛らしく、言葉なめらか、容貌美しく、典雅なものごし、どこからみても魅力にあふれ、背丈はといえば、天使にわずか劣る――リチャードは、ちょうど、この逆をいっている」と、ある記録はいい、ウォルター・マップは、リチャードを評して、「なみはずれての不信心者、じつにごりっぱな罪の宮殿」といっている。そのじつ、『若いヘンリー』王には、父王の行政手腕も、リチャードの示した軍人としての能力も、いっさい欠けていた。いわば彼は、その弟たちにくらべれば、一見美しくりりしげな五月人形みたいなものだったのである。それだけに、人々は、彼のうちに...5-7-5兄弟、あい争う
私達は感覚の罠に決してかからないようにしなければなりません。聖ヨハネ・ボスコ(ドンボスコ)感覚の罠にかからないように聖ヨハネ・ボスコ(ドンボスコ)
7エニシダの枝(プランタジネット)の王たち――アンジュー伯家の人々Ⅰ――4ライオンの子供たちアリエノールは、この夫に満足していたのだろうか。ヘンリーとアリエノールのあいだには、八人の子が生まれた。ヘンリーからジョフリーまでの四人は、一一五五年から五八年まで、毎年生まれた。末子ジョンは一一六七年に生まれ、彼の誕生後すぐ、両親は別居生活にはいっている。別居したアリエノールは、リチャードをつれてボワツーに閉じこもり、ポワチェの彼女の城は、ふたたび、吟遊詩人や、小粋(こいき)で軽薄な若い騎士たちでにぎわった。(挿絵はリチャード1世)放浪の学僧(ゴリアルディ)仲間にとっても、また、アリエノールの名が強い牽引力をもったことは、彼らの作ったラテン詩を集めた詩歌集『力ルミナ・ブラーナ』に収録されている詩句からもわかる。こ...5-7-4ライオンの子供たち
教会は、各自が聖書を勝手に解釈をすることを禁じています。が、明らかに見て字のごとくの場合には、そのままを語っていいのかもしれません。イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」マタイによる福音書19章23-24節このみ言葉では、ラクダとは金持ちです。当時は商人は、商品・資産の運送によくラクダを使っていました。針の穴とは、天国への道です。針の穴は、ラクダには通れません。針ならば通れます。では、針とは何でしょう。貧しい人です。明らかに見て字のごとくでしょう。聖人もこう言っていますしあなた達は自分の金銭を墓の中ではなく、永遠の地獄ではなく、永遠の天国へ持っていくのを望みますか。それなら、貧しい人...金持ちが神の国に入るより、ラクダが針の穴を通る方が易しいの意味
7エニシダの枝(プランタジネット)の王たち――アンジュー伯家の人々Ⅰ――3ヘンリー二世ヘンリーとアリエノールは、一一五四年十二月十七日、ウェストミンスター修道院で戴冠式をあげた。母マティルダのイングランド王位請求権は、内戦のはてに、スティーブン王との協定によってヘンリーに約束され、王の死をまって、ここに実をむすんだのである。ヘンリー二世は、イングランドおよびフランスの西半分に対し王権を行使することになった。エニシダの枝(プランタジネット)の王朝が、ここに開かれたのである。ヘンリーの主要な関心は、諸侯伯のもつ自生的権力を、いかにして王権になじませるかにあった。ウェールズおよびスコットランド辺境の諸侯、また、ブルターニュあるいはアキテーヌの南半分の諸侯伯に対しては手の下しようがなかった。だが、イングランド、ノ...5-7-3ヘンリー二世
7エニシダの枝(プランタジネット)の王たち――アンジュー伯家の人々Ⅰ――2王妃アリエノール・アキテーヌ一一三七年、十五歳の黒い瞳の少女アリエノールは、父のギョーム十世の遺領アキテーヌ候領を相続し、三ヵ月ののち、フランス王太子ルイに嫁した。その一ヵ月後、ルイは王位を継承し、アリエノールは、ここに王妃となった。アリエノール・ダキテーヌの名は、南仏吟遊詩人(トルバドール)王の名とともに語られる。彼女は、現在知られている最古の吟遊詩人、アキテーヌ候ギョーム九世の孫娘であり、ペルナール・ド・バンクドールをはじめ、多くの詩人たちが、彼女の宮廷に集まっていた。当特、詩歌の世界において、洗練された宮廷生活という点において、南フランスは先進地帯だったのである。パリにおけるアリエノールの宮延は、華やかで、いささか淫蕩(いんと...5-7-2王妃アリエノール・アキテーヌ
私たちのうち一人しかいないかのように、神は私たち皆を愛す。聖アウグスティヌス神は私達を一人子のように愛す聖アウグスティヌス
うまずたゆまず、祈り続けましょう。信頼は、奇跡をもたらします。それにイエズスさまも「ひとりの義人の霊魂は、私の心を動かすほど大きなカを持っているので、幾千の罪人のゆるしを、私のこの心からから勝ち取ることができる」と福者マルグリット・マリーに、仰ったではありませんか。リジューの聖テレーズ信頼は奇跡をもたらすリジューの聖テレーズ
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年7エニシダの枝(プランタジネット)の王たち――アンジュー伯家の人々Ⅰ――(注、エニシダは欧州の花の咲く木)1アッジュー伯家遠いむかし、さるアンジューの伯は、旅先から連れもどった他国の女をめとった。たしかに気高く、美しい女性だったが、彼女には、どことなくおかしなところがあった。近親のとりまきもなく、友もなく、めったに教会にもうでることもなかった。たまに教会に姿をみせてもなにかしら口実をもうけては、座をはずそうとするのであった。これを不審に思った夫のアンジュー伯は、四人の騎士に命じて彼女を見張らせた。つぎの機会に、騎士たちは、彼女のかたわらにひかえ、その場から立ち去ろうとした彼女の衣の裾をふみつけ、彼女の自由を奪った。司祭が聖体を奉戴した、と、伯妃は悲鳴をあ...5-7-1エニシダの枝(プランタジネット)の王たちアンジュー伯家の人々Ⅰ
自分がみじめで、無きに等しいものであることをまず知るようにならなければ、神に対するまことの信頼をもつことはできません。聖フランシスコ・サレジオ神への信頼を持つ方法聖フランシスコ・サレジオ
竹の花が日本各地で一斉に咲いたようです。竹の花は120年に一度しか咲かないと言われ、花を咲かせた竹は、そのまま枯れ死にしてしまうのだそうです。一生の最後に竹は花を咲かせて、枯れるようです。今年は東京都、神奈川県、愛知県、岐阜県、富山県など、広い範囲で竹の開花が見られるようです。報道を見る限り、昨年にも福井県で開花が見られたそうですが。滅多に咲かず、咲くときは一斉に咲くようで、1960年代にはマダケが一斉に開花し、枯れ死にし、日本のマダケ林の3分の1が失われ、日本は竹不足に陥ったのだそうです。参考“不吉なことがおきる…”120年に1度「竹の花」が咲く岐阜・各務原市4/26(水)19:00日テレNEWS120年に1度だけ咲く…。そんな幻の「竹の花」が見られるというのが、岐阜・各務原市の「各務野自然遺産の森」で...竹の花が日本各地で一斉に咲く。不吉なことの前兆という伝承も(日テレNEWS/朝日新聞/中日新聞など)
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年6十字軍3横にまがった十字軍イスラム側から「十字軍」をみるならば、いわゆる「第四回十字軍」は起こらなかったといってもよい。第四回十字軍は、横にまがって、東ローマ帝国をねらう遠征軍になってしまったからである。一一九九年十一月、シャンパーニュ伯の催した馬上槍仕合(卜ーナメント)終了後のくつろいだ歓談の席上、たまたまもちあがったこの十字軍計画は、いってみれば、はじめから脱線するように状況づけられてにいたのである。第一に、これは、腹の底ではなにを考えているのかわからない大政治家、歴代教皇中の傑物、イノケンティウス三世の唱導した十字軍であった。ベネチアの巧みな術策にのせられてバルカン半島のアドリア海沿岸の都市ザラを攻略した十字軍を破門したかとおもえば、その破門され...5-6-3横にまがった十字軍
完全な貞潔は、キリスト者側からは、主への完全な奉献のまえに、自由な選択を要求しますが、神の側からは、あるたまものと恵みを要求します。聖なる救い主ご自身が、すでに、それについて語っておられるのです。「みなにこのことばがわかるとはかぎらない。ただ、それを理解できる恵みを受けた人だけがわかる。これが理解できる人は理解せよ」。教皇ピオ12世回勅「サクラ・ヴィルジニタス」完全な貞潔教皇ピオ12世回勅「サクラ・ヴィルジニタス」
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年6十字軍2イスラムの反撃イスラム側の反撃は、イラク北部に王朝を興したザンギーと、その子ヌール・エッディンによって開始された。ザンギーは、ティグリス川上流のモスールからアレッポにいたる地域に勢力をひろげ、一一四四年にはエデッサを占領し、エデッサ他領を解体させた。ザンキーの死後、一時、エデッサは、旧エデッサ伯にとりかえされたが、ヌール・エッディンは、再度、これを奪取し、アレッポに都して、ダマスクス方面にまでその勢力をのばし、フランク人たちをうしろから圧迫する態勢をとった。ここに起こされたのが、聖ベルナールのすすめによって、ドイツ王コンラート三世とフランス王ルイ七世を頭にいただいた第二回十字軍である。シトー教団の事実上の建設者ベルナールのイスラム観は、たいそう...5-6-2イスラムの反撃
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年6十字軍1イェルサレム占領一〇九九年六月初旬、「フランク軍」がイェルサレムを攻囲した。「フランク軍」は、イスラム側での十字軍の呼称である。当時、イェルサレムは、エジプトのファミティマ朝の総督によって守備されていた。フランク軍の攻囲陣は、北側のへロデ門付近にノルマンディー候ロベールの軍勢、ダマスクス門付近にフランドル伯ロベールの手勢、その西からヤッファ門にかけてロレーヌ候ゴドフロワと南イタリアのノルマン騎士タンクレードのひきいる一隊、南のシオン門付近にツールーズ侯レーモンの隊、総勢、歩兵一万二千、騎士千二百あまりであったと推定される。前年のアンティオキア攻防戦が半年以上の時日をついやしたのにくらべると、イェルサレムの陥落は早かった。総督は、長期の籠城(ろう...5-6-1十字軍
熱意が激しく、精神がはやり、愛が豊かであればあるほど、熱意に規律を与え、はやる精神を制御し、愛を方向付けるために、知識(学問)の監督が急務となる。聖アンブロシウス熱心な人に必要なもの聖アンブロシウス
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年5ドイツ国王のカノッサの屈辱3カノッサ以後破門はとかれた。トリプールの決議は効力を失った。諸侯は教皇を裏切らなかったが、教皇は諸候を裏切った。ハインリッヒはただちにドイツに帰り、教皇の来訪か阻止した。いまや、ふたたび聖職諸候の支持は彼の側にあり、くわえて、ライン流域の諸都市が王権を支持していた。反国王派諸侯は、三月、フランケンのフォルヒハイムに集まり、シュバーペン候ルドルフを対立国王にたて、あくまで抗戦の構えにでた。ハインリヒ四世は、これを国王に対する反逆として、教皇に対し反逆者の破門を要求した。教皇は自繩自縛(じじょうじばく)におちいった。破門をといた以上、ハインリヒはドイツの正当な国王であった。ハインリヒの要求は正しい。だが、グレゴリウスは、じつに正...5-5-3カノッサ以後