爽やかな新緑の季節。静かに湯に浸かって、うまい酒をちびちびやりたい。そんな気分になったので、鬼怒川温泉の金谷ホテル行った。
27.フェニックス 次の目的地であるラスベガスの経由地としてツーソンのあと更にフェニックスで一泊した。アリゾナ州の州都ということを除いて特に特徴があるとはいえない地方都市だ。スケジュールの都合上一泊することにしたが正直なところ特別な期待はしていなかった。暇を持て余してぶらぶらしているとホテルのフロントの人が今夜広場でクリクマスイベントがあるから時間があれば是非行ったほうがいいよと教えてくれた。どうせ暇だからちょっと見てみるか程度のノリで出かけたのだが思いの外盛大なイベントだった。 広場の中心に電飾で華やかに飾り付けた大きなツリーが立てられており、至る所に飾り付けがされとてもきれいだった。多くの人が集まっていて、楽しそうに話し、食べ、飲んでいる。聖歌隊の歌が始まると皆静かに聞き入り厳かな雰囲気に会場がつつまれた。とても幻想的で美しい光景だった。フェニックスで一泊して正解だった。
26.グランドキャニオン ニューオリンズから一路グランドキャニオンに向かった。グランドキャニオンは曇っていた。雪も積もっていて寒い。穏やかな気候の温暖な地から雪の積もった寒いところまでバスに乗るだけで行ける。同じ国内で時差もある。アメリカは便利で広い。グランドキャニオンは自分の足で歩いてみようと思い雪の残るハイキングコースを2時間歩いた。途中から晴れた為、雄大な景色を堪能できた。有名な観光地だけあって観光客も多く、日本人も何人かいた。 夜9時のバスが遅れたため10時にグランドキャニオンのデポを出発。翌朝9時にツーソンに到着。2時間ほど散歩した。通りかかった広場でクリスマスバザーをやっており、地元の人たちが買い物をしていた。皆が色々なものを持ち寄り販売するフリーマーケットだ。日本ではあまり見ないがこちらでは日常的なことのようだ。特に何もない町だった。よく言うと「アメリカの庶民の日常に触れた」「本当のアメリカの姿を見た」とでもいうのだろうか。たまにはこういうのもいいのかもしれない。今日はここで一泊する予定だ。ホテルはツインルームで広々としている。ゆっくり休もうと思う。
25.ニューオリンズ ワシントンD.C.を夜出発して、ニューオリンズへ着いたのは翌日昼の12時半過ぎだった。南部の街は暖かい。久しぶりに青く晴れ渡った空を見た。のんびりとした雰囲気があり、和やかな気分になる。 ニューオリンズといえば、Jazz、ミシシッピー川が思い浮かぶ。南部ということでは、子供のころ好きだったちびくろサンボだろうか。とりあえず中心街であるフレンチクォーターへ向かう。家々はパステルカラーで塗られていたり,木で造られていたりと凝っていてきれいだ。メインストリートはバーボンストリートという名前だった。 ホテルに荷物を置いて名物の牡蠣を食べようと思い昼食に出た。街を歩くとオイスターバーが何件かあった。ガイドブックに載っていた1軒を選んで入ってみた。こぢんまりとした店構えでいい感じだ。レモンを絞った生ガキにケチャップ?のようなものをつけて食べるのがここのスタイルのようだ。うまかった。ビールのコースターにちびくろサンボのような黒人の子供の影絵が描いてあるのも雰囲気があった。 夜の8時半からプリザベーションホールという市営のイベントホールでデキシーランドJazzの演奏を聴いた。ここはJazz発祥の地であるニューオリンズがその文化を保存する目的で運営しているところで、格安で演奏を聴くことができる。小さな会場の為すぐ近くで聴くことができるのも観光客に人気がある理由だそうだ。この日も多くの客で狭い会場が一杯だった。演奏は4時間に及びとても盛り上がった。 演奏が終わって外に出ると至る所でJazzが流れていた。夜中の12時半だというのに多くの人が歩き回っている。ほとんどの店が窓を開けており、たくさんの人が楽しげにしているのが見えた。街は夜遅くまで賑わっていた。 ニューオリンズはアメリカで最も好きな街のひとつになった。
24.ワシントンD.C. ニューヨークを深夜出発して、アメリカの首都ワシントンD.C.へ朝6時頃到着した。早朝だというのにデポは結構な賑わいだ。ガイドブックにある通りこの街は黒人が多い。住民の約70%が黒人だそうだ。また制服を着た軍人がやたら目につく。その多くが黒人である。休暇で家へ帰る人たちなのだろう。 朝食を食べるためにマクドナルドへ行った。思えばこっちへ来て以来数多くのハンバーガー屋へ行った。マクドナルド、バーガーキング、ウエンディーズをはじめとする大手チェーンから地元の名もない店まで、おそらく一生で食べるハンバーガーのうちの大半をこの旅で食べただろう。 店でエッグマフィンを食べてコーヒーを飲んでいると、びしっとスーツを着込んだ黒人男性がハンバーガーを買っている。おそらく政府機関で働くエリートなのだろう。今まで僕がハンバーガー屋で見てきただらしないかっこの太った黒人たちとはまるで雰囲気が違う。官庁街のマックは同じハンバーガー屋でも高級感があり清潔で、格段に居心地がいい。コーヒーもおいしく感じる。 腹ごしらえを済ませて曇り空の中ホワイトハウスへ向かった。さすがアメリカの首都だ。街はきれいで、歩いていても気持ちがいい。ホワイトハウスはテレビでよく見るそのままの姿だった。とりあえず写真を撮った。周りに何人か観光客がいる。互いにシャッターを押しあった。この寒空の下お互いご苦労様です。 アメリカというと強い経済と軍隊、明るい文化をもつ豊かな国。夢を実現できる自由の国というイメージをもっていたが、旅をしているうちに少し印象が変わってきた。ビバリーヒルズ、サンタモニカなどの高級住宅街に住む大金持ちもいれば、住む家もないホームレスが道にごろごろしている極端な格差がある国だ。金持ちの多くはWASP (White Anglo-Saxon Protestant)とよばれる白人で、貧乏人のほとんどは黒人、ヒスパニックといったマイノリティだ。 格差は固定化しており容易にその垣根は超えられないようだ。貧困層の人たちは楽で儲かりそうな仕事にはなかなかつけない。官庁で働くかっこいい黒人はほんの一握りの人たちで、大半のマイノリティたちは低い賃金できつく危険な仕事に従事している。アメリカの強い軍隊も、その最前線はここで見た黒人兵たちが支えているのだろう。自由に夢を叶えられる人は現実にはかなり限られているのかもしれない。
23.ハーレム 地球の歩き方で、ハーレムツアーの紹介を見つけた。バスでハーレムを巡るというものだ。これまで映画、テレビ等を通して持っていたイメージは、凶悪犯罪が溢れる危険で怖いところ、というものだ。ひとりで行く勇気はないが、ツアーで安全に行けるなら、話のタネに行って見るのもいいか。ここまでで、ニューヨークでやりたかったことは粗方やった。このツアーをニューヨークの締めにしようと思い参加した。 集合場所であるバス乗り場には、それこそ世界中から来たと思われる様々な観光客が好奇心あふれる顔で集まっていた。40人ぐらいだろうか。皆少し緊張気味に見えた。バスはセントラルパーク、コロンビア大学と北上して行った。ハーレム地区に入ると皆窓にはりつき、「ワオ!」、「オー!」、などといかにも外人らしい歓声を上げながら、さかんにシャッターを押している。確かに、バスの窓から見える街は薄汚れた雰囲気であり、道を歩く人も少ない。たまに見える顔も黒人とヒスパニック系ばかり。時折見える細い路地は少しばかり危なそうに見える。 しばらくして一層大きな歓声が起こった。皆一斉にシャッターを押している。見るとドラム缶で焚き火をし、その周りに暖をとる人たちが集まっていた。焚き火は僕にとってそう珍しいものではない。子供のころは冬になると至る所で近所のおじさんが焚き火をしており、寒い日はあたらせてもらったりもした。外国人観光客にとってこれは特別なもので、いかにも貧しいスラムの雰囲気を表す光景に映るのだろうか。だとしたら記念に僕も写真を撮っておこうかと鞄からカメラを取り出した。が、カメラを持って窓の外を見たところで手が止まった。 焚火にあたるうちの1人は僕より若い少年で、何とも言えない悲しそうな眼でこちらを見ていた。結局僕はこのツアーで写真を1枚も撮ることができなかった。この手のツアーには二度と参加するまいと決めた。
22.夜景 「ディプロマットホテル」は立地が良いせいか地球の歩き方を見た日本人が結構泊まっているようだ。今日はホテルで出会った中日新聞のカメラマン、中沢さんとグリニッジビレッジ、ワシントンスクエア界隈へ行った。彼は30代前半、1週間の休暇を利用してジャズを聴きに来たのだそうだ。ニューヨークが好きで何度か来ているとのことで、特にグリニッジビレッジ界隈がお気に入りのようだ。芸術家や若者が多く住み、アトリエ、雑貨屋、古本屋、有名なジャズバーなどが集まるこのエリアは独特の雰囲気がある。 中沢さんは歩きながらいろいろなことを教えてくれた。壁の落書きを指さして、これはものすごく有名なものだから是非写真をとったほうがいいと言って、シャッターを押してくれたりもした。街のいたるところに似たような落書きがある。何で落書きを消さないんだろう・・・と僕はつい、つぶやいてしまった。「これは芸術だよ」「わからないかな~・・・」と、中沢さんは、少し悲しそうに言った。でも、落書きの美しさは、やはり分からなかった。 中沢さんごめんなさい。 グリニッジビレッジからリトルイタリー、チャイナタウンを回った後、有名なニューヨークの夜景を見ようとロックフェラーセンターのRCAビルへ行った。時間は夕方6時頃。辺りはすでに真っ暗だった。展望台から見下ろした景色は、RCAビルをライトアップする真っ白な光に照らされて昼間のように明るい。その中に様々な色の明かりが輝き、まさに宝石箱のような光景だ。ここからの夜景がニューヨークで1番美しいといわれる理由は、エンパイアステートビルとツインタワーが同時に見えるからだそうだ。この夜景は今まで見た中で最も美しい景色の一つだった。
21.ミュージカル ホテルに帰るとロビーに日本人らしき人がいた。どちらからともなく声をかけた。アメリカに来てこんなに自然に日本人と会話に入ったのは初めてだ。彼は京都大学の大学院生で、1年休学してニューヨークに留学しているそうだ。丁度遊びに来た友人が帰国するのをロビーで見送ったところだった。僕が今夜ミュージカルを見るつもりだというと、それじゃあ一緒に見ようということになった。 ミュージカルのチケットを安く買う方法は2つある。ひとつはマチネ(昼公演)のチケットを購入することだ。プログラムにもよるが、水曜日と週末に開演することが多い。スケジュールが合えばお勧めだ。もうひとつは当日の空席を購入する方法だ。目当てのチケットが出ていれば20~50%の大幅割引で購入できる。チケットはタイムズスクエアのTKTSブースで購入できる。 早速佐野君と行ってみた。有名だし面白いからとの理由で佐野君が薦めてくれた「雨に唄えば」をいくつかある作品から選んだ。気になったので聞いてみると、佐野君はこの舞台を見たことがあるそうだ。でも、面白いから何回見てもいいと言ってくれた。僕が喜びそうなプログラムを選んでくれたのだろう。いい奴だなぁ。 歌と踊りの華やかな舞台は楽しかった。特にこの舞台のウリである舞台上で降らせる大量の雨は圧巻だった。セリフはほとんど聞き取れなかったが、佐野君が通訳してくれたのでストーリーはよくわかった。舞台が終わり、ホテルで少し話した後、僕が昼間ですらあれほど緊張して乗った地下鉄で佐野君はアパートへ帰って行った。大した奴だ。 今日は本当にありがとうございました。
⒛セントラルパーク エンパイアステートビルの展望台から広大な緑のエリアが見えた。一体何だろうと案内板を見て、それがセントラルパークだと知った。公園というにはあまりに大きい。まるで森だ。こんなのは見たことがない。ニューヨークという大都会の真ん中に、こんな大きな公園があるなんて驚きだ。正直なところ公園なんて興味なかったのだが、俄然見てみたくなった。早速バスに乗って公園に向かった。 タイムズスクェア、劇場街、プラザホテルを通り公園の端に着いた。バスで通り抜けるだけでも観光気分が味わえるゴールデンルートだ。公園の周りは馬車やジョギングをする人がいて結構賑わっている。中に入ってみた。行けども行けどもきりがない。公園内には湖まである。ちょっと日本では考えられない規模だ。 寒いせいかほとんど人がいない。と、思っていたら前方から誰かやって来た。僕に気付くとこっちに歩いて来た。やせた黒人の中年男だ。すり寄るようにして、「ドラッグどうだ。」「マリワナだよ。」としゃがれ声で言った。薬の売人らしい。かなり危ない感じで目がいっちゃてる。僕は不測の事態に備えてすぐ応戦できる(逃げられる?)態勢で、「ノー。いらない。」といってみた。すると彼は「あ、そう」という感じで、のろのろと歩き去った。意外と淡泊だ。「よかった~」と、ほっとした。寒く天気の悪い平日。セントラルパークの雰囲気は悪い。 もう公園はいいか。出よう。と思い北側に向かって歩いた。出口付近に来ると人が何人か集まっている。観光客のようだ。何だろうと思い行ってみると花が飾ってある。聞いたところジョンレノンの記念碑だそうだ。この一角は、ビートルズの歌のタイトルにちなんでストロベリーフィールズと名付けられているとのことだ。ここからすぐのところに生前ジョンレノンとオノヨーコが住んでいたダコタハウスがある。豪華なマンションだ。ここにも何人かのファンの姿が見える。今でも毎日ファンが訪れる有名な観光スポットだそうだ。やはりジョンレノンはすごい人気だ。
⒚エンパイアステートビル バッテリーパークから市の中心部へ向かって北上した。進むにつれてビルが増えてきた。バスは高層ビルの谷間を走る。これぞニューヨークの景色だ。やはりバスにしてよかった。ひどい渋滞には閉口したが・・・。マンハッタンはとにかく車が多くて常に渋滞している。運転も荒い。特にタクシーはひどい。汚い地下鉄を選ぶか、渋滞を我慢してバスにのるか、状況と好みにより選択することになる。 エンパイアステートビル前でバスを降りた。さすがに風格がある。デザインも凝っている。ビルの前に立った時、キングコングを思い出した。キングコングが美女を片手にこのビルを上っていく映像が頭に浮かんだ。僕らの年代はかなりの人が〝エンパイアステートビル・イコール・キングコング〟ではないだろうか。一階で展望台のチケットを買い、エレベーターに乗った。 86階(320m)の屋外展望台からは、窓越しでなく直接ニューヨークの街を360度見渡すことができる。ここからの眺めは絶景だ。ツインタワー、パンナムビル他個性的な摩天楼、ブルックリンブリッジ、マンハッタンブリッジの2つの有名な橋、そして広大なセントラルパーク。天気が良いため川の向こうのエリアも遠くまで見渡せる。次に、いよいよ102階(381m)の第2展望台に上った。エンパイアステートビルの最上階にいると思うと爽快だ。ただ、ここは86階に比べると小さく、またガラスで囲われていて少しつまらない。展望台としては、断然第1展望台のほうが気に入った。
⒙自由の女神 マンハッタン南端にあるバッテリーパークから自由の女神が見える。ここから見る自由の女神でも十分感動した。がここから出るフェリーで女神が立つスタテン島に行けるらしい。聞いたらやはり行きたくなった。チケットを購入するため早速窓口に行った。窓口のおばさんは今改修中のため中に入れないけどいいか、と聞いた。え、ということは普段は中に入れるってこと?このとき初めて観光客が自由の女神の中に入れることを知った。フェリーは思った以上に混んでいた。さすが世界的に有名な観光の目玉だ。近くで見るとなるほど女神は化粧直し中だった。まわりは足場だらけだ。何とも間が悪いが、何故かここにはまた来るような予感がしさほど残念でもなかった。次に来たとき登ればいいや、と思った。 フェリーの中に売店がありプレッツェルを売っていた。ニューヨーク名物だそうだ。試しに買ってみた。細長い固焼きパンとでも言うべきもので、大きな結び目のような独特な形をしている。ザラメの塩がまぶしていて、腎臓に悪いんじゃないかと思うほど塩辛い。日本で売っている真直ぐな形の甘いプレッツェルとは随分違う。そんなにうまいもんじゃないな、と思った。サイズが大きいのでそれなりに食べではあった。 フェリーを降りると市バスに乗ってエンパイアステートビルに向かった。地下鉄には一度乗って満足したし、やはり景色を見ながら移動したい。
⒘地下鉄 遅い朝食というべきか早めの昼食なのか、とにかく腹ごしらえをしようと思い近くのデリへ入った。店は多くの客で賑わっていた。クラムチャウダーとピザ一切れをカウンターで買い、窓際の席でガイドブックを見ながら今日の予定を考えた。まずはホテルを探し、その後自由の女神に行こう。自由の女神はバッテリーパークというマンハッタンの突端にある公園から船に乗るのか。そこまでは、せっかくだから地下鉄で行ってみよう・・・。などとざっと行動計画を立てた。窓の外を見ると多くの人が行き交っている。皆歩くのがとても速い。 ミッドタウンの「ディプロマットホテル」に空き部屋を見つけチェックインした。古くて小さなホテルだが、タイムズスクェアにも近く立地がいい。せっかくニューヨークに来たんだから、便利な場所に泊まって動き回ろうと思いここに決めた。ここなら歩いてミュージカルも見に行ける。荷物を置くと、早速地下鉄の駅に向かった。悪名高いニューヨークの地下鉄である。少し怖い気がしたが、乗ってみたかった。話のタネにもなるし。 駅に着くとトークンという乗車用のコインを購入して改札を抜け、ホームで電車を待った。ホームは暗く、床に新聞紙やごみが散らばっていて汚い。電車を待つ乗客もあまりいない。何となく恐ろしげな雰囲気だ。清潔で明るい日本の駅とは大違いだ。そういえば、駅のトイレは安全の為コンクリートで塗り固めてあるとガイドブックに書いてあった。 びくびくしていると電車が来た。落書きだらけだ。この電車はハーレムを通る電車のようだ。路線により車輛の汚さに差があると聞いたことがある。電車に乗ると内側も落書きだらけだった。電車には数人の乗客がいた。きれいな若い白人の女の人もいる。思ったより普通じゃないか。少し安心した。日本から旅行に来たんだといって、その女の子に記念写真を1枚撮ってもらった。 しかし安心したのも束の間、しばらくするとほとんどの乗客は降りてしまい、薄汚れた感じの黒人のおじさんと2人きりになってしまった。しかもこのおじさん、さっきからぶつぶつ独り言を言い続けている。不安になって、停車予定駅と実際の停車駅をずっとチェックし続けた。すると、止まる筈の駅を電車が通過したのに気付いた。その後電車は次々と駅を通過し、止まる気配がない。どうしたことだろう。電車を乗り間違えたのではないか。自由の女神に行く電車の乗客がこんなに少ないわけはない。僕の頭に以前何かで読んだことの
⒗ニューヨーク到着 手足が痺れる感覚で目が覚めた。見るとフリーウエイの路肩にバスが止まっている。バスが故障したので代わりのバスが来るのを待っていると、隣の席の男性が教えてくれた。暖房も停止しているようで凍える程の寒さだ。手足の痺れは寒さのためだったようだ。時計を見ると、朝の5時。 すっかり目が覚めた僕に、どこから来たのかと隣の男性が話しかけてきた。30代半ばぐらいだろうか、カジュアルではあるがきちんとした身なりの白人だ。日本から来てアメリカ一週旅行をしていると言うと、ボストンには行ったか、ボストンは非常に美しい町なので是非行くべきだ、と薦めてくれた。ボストンの話や旅の話で盛り上がり、僕らはすっかり意気投合した。そして、僕がいかにも貧乏旅行の学生に見えたのであろう(本当にそうなのだが)、「自分はボストンに住んでいる。家には寝室が5つあるので、ボストンに来たら遠慮せず泊まってくれ」と言い連絡先をくれた。 こちらに来て何人ものアメリカ人に、家に泊まりに来いと誘ってもらった。初対面の人間をこうも気安く自宅に招待するなんて、日本ではちょっと考えにくいことだ。よほど親切でオープンなのか。それとも恵まれた住環境の故なのか。日本も住宅事情がもう少しよければこうなるのだろうか・・・ 30分ほどして代わりのバスが来た。乗客はみんな順序良く乗り換え、新しいバスでもそれぞれ全く同じ席に座った。アメリカ人もこういうところはちゃんとしてるんだなと思うと親近感がわいた。 マンハッタンに入るとバスは摩天楼の間を縫うように進んだ。ビルに日の光が遮られて道が薄暗い。思わずバスの窓から巨大なビル群を見上げた。やっぱりニューヨークはすげぇなー。バスは約1時間遅れで朝10時半にミッドタウンのデポに着いた。ロサンゼルス以上に巨大で、沢山のバスが行き来しており、多くの乗客でごった返していた。外は高いビルが建ち並ぶ、映画やテレビで見るまさにあのニューヨークだった。クリスマスシーズンを迎えた街は活気があり、エネルギーに溢れているように見えた。
⒖ナイアガラ シカゴを夜出発して早朝バッファローに着いた。ここはナイアガラの滝へ行くためのアメリカ側の起点となるデポだ。洗面所で顔を洗って歯を磨いた。凍えるような寒さだがお湯が出るので助かる。アメリカで驚くのはどんな田舎の洗面所でも必ずお湯が出ることだ。こんなときアメリカの豊かさを実感する。日本もいつか各家庭や公衆便所の水道の蛇口からお湯がいくらでも出る日が来るのだろうか。 バスは朝6時半に出発して、真っ暗な道を走り出した。ここから国境を越えてカナダへ入る。カナダとの国境の小さな街中を走っていると道沿いの家が皆クリスマスの飾り付けをしていた。シンプルではあるが各家庭それぞれが趣向を凝らした電飾がとてもきれいで、幻想的な光景だった。いつの間にか12月になっていた。 バスのなかで簡単なパスポートチェックを受けて国境を越えた。いよいよカナダに入国だ。途中「ワォー!」という歓声ともどよめきともつかない声が沸き起こった。窓の外を見ると、川が溢れて道が水浸しだ。大丈夫なのだろうか。真っ暗な中、水浸しの道を進むというのは結構恐ろしい光景だ。 7時半にナイアガラのデポに着いた。約1時間かかった。外は猛烈な吹雪だ。真っ白で何も見えない。ナイアガラの滝までは徒歩で10分ぐらいなのだが、恐ろしく長い道のりだった。本当に遭難するんじゃないかと思ったほどだ。雪に覆われた滝はきれいだった。苦労した甲斐があった。吹雪の中で滝を見たあとミノルタタワーに上ってみた。ここは滝を正面から見ることができるビューイングスポットで、滝を見るには最適な場所のひとつだ。吹雪は2時間ほどで止み、先ほどと打って変わった青空の下で見る滝はきれいだった。 滝の周りの遊歩道を歩き回った後、夕方もう一度ミノルタタワーに上った。せっかく日本から来たのだからカクテルライトに照らされた滝を是非見ていくべきだと、土産物屋のおばさんに勧められたからだ。夕方6時半ごろタワーに行くと、おばさんが席に案内してくれた。そこは滝の真正面の特等席だった。ライトに照らされたナイアガラは本当にきれいだった。僕はコーヒーとサラダを食べながら飽きることなく滝を見ていた。 ナイアガラ公園内にあるアメリカ橋という橋を渡って国境を越えることができる。滝を見た後、ここで入国審査を受け、歩いてアメリカへ再入国した。わずか半日のカナダ滞在だった。バッファローのデポへは夜9時に着いた。ここで今夜12時15分発のバス
⒕シカゴ(2) やっとシカゴに着いた。長く寝たおかげで体調は万全だといいたいところだが、やはり何となく体が重い。外に出ると高層ビルが立ち並んでおり、その陰で薄暗いほどだ。シカゴは歴史的な建造物が多く、凝ったデザインのビルが多いことで有名だ。建築好きにはたまらなく魅力的な場所だそうだ。素人の僕が見てもかっこいいと思う建物が多い。しかしここもとにかく寒い。歩いていると、そこかしこでマンホールの蓋から真っ白い湯気が立ち上っている。またビルの至るところから蒸気が立ち上るのが見える。空は灰色でどんよりと曇っている。雪こそ降っていないがソルトレイクシティを上回る寒さだ。 シカゴでは是非行ってみたいところがある。世界一の高層ビル、シアーズタワーだ。なんと120階建だ。早速チケットを買いエレベーターで最上階へ上った。しかし残念なことに最上階の展望ルームからは何も見えなかった。窓の外は真っ白だった。曇り空の為ビルに雲がかかっていたのだ。残念ではあったがビルが雲を突き破っているとはさすがだ。こんなのは日本ではお目にかかれない。これはこれでいい経験ではある。記念に近くにいた観光客にシャッターを押してもらい写真を1枚とった。背景の窓は真っ白だ。 今日の宿は「トーキョーホテル」、1泊20ドル。真っ黒のかなり年季の入った建物だが、街の中心にあり立地がいい。エレベーターは古く、驚いたことにドアが手動だ。オペレーターがいて開け閉めをしてくれる。こんなのに乗ったのは初めてだ。さらに驚いたことには運転も手動だった。行先を告げるとオペレーターがエレベーターの内側に付いたハンドルをぐるぐる回して運転するのである。どういう仕組みなのか分からないがハンドルを回している間は動き、回すのをやめると停止した。ここまで完全マニュアル式のエレベーターに乗ったのは後にも先にもここでだけだった。 部屋は15階の2号室だった。窓からの景色が抜群で、真正面にビッグジョンが見える。長いバス旅の果て、シャワーを浴びて、ビールを飲みながらきれいな夜景を見る。思いがけない贅沢な時間になった。このときの景色は僕の心に長く焼きついた。ぼろぼろだった部屋の記憶はすぐに薄れたが、この夜景の美しさはずっと覚えている。
⒕シカゴ(1) その日夜8時20分のバスでソルトレイクシティを後にした。この町には13時間滞在した。朝から降り続いた雪はいつのまにか霙に変わっていた。シカゴまで37時間。途中休憩を挟みながらではあるがこんなに長くバスに乗るのは初めてだ。この旅のハイライトのひとつといえるかもしれない。 このルートの大半は、西部劇に出てくるような砂漠の中を延々と走る。アメリカの中部は思った以上に田舎で何もない。途中通ったデポのいくつかはまさにバス停で、無人の待合所だった。こんなところには二度と来る機会がないかもしれないから降りてみたいという誘惑に駆られたりもした。が、ガイドブックにも載ってない、右も左もわからない小さな町で降りたら、帰れなくなるんじゃなかろうか。そもそもホテルもなさそうだしと思い、考え直したりした。通路の向こう側のおじさんに、ここはどんなところなのかと尋ねてみたが、「見た通り。何もないよ。」とそっけない。そりゃそうだろう。窓の外は見渡す限りの砂漠で他には何も見えない。 旅程には3時間おきの休憩が組み込まれている。食事の時間は休憩が長めにとられる。さすがに1日半も座りっぱなしだと体がガチガチになる。腰や背中のストレッチをする人も多い。何回か一緒に食事をしている間に乗客同士仲よくなり会話もはずむ。長い移動であればあるほど貴重な時間だ。長いバス旅の間いろんな人と話をした。途中で降りた人や乗ってきた人もいたが、シカゴに着いた時にはみんな顔見知りになっていた。
⒔ソルトレイクシティ(3) 町中の店が閉まっていたのは感謝祭の為だったようだ。雪の為歩き回ることもできないので、パイプオルガンの演奏を聴いた後、結局デポにもどった。電光掲示板の前でバスの時間をチェックしていたとき、学生風の東洋人がおどおどとこちらの様子を窺っているのに気付いた。何だろうと思っていると、「あの~・・・、日本人ですか・・・」と、おそるおそるという感じの小声で話しかけてきた。そうですと答えた瞬間、打って変って彼の態度はなれなれしいと言っていいほど親しげになった。久しぶりに日本人に会えてよほどうれしいのだろうか。 二言三言ことばを交わした後突然、「ちょっと荷物を見ててもらえない?」と彼は言った。そして自分のスーツケースを僕の前に押し出すが早いかどこかに行ってしまった。トイレにでも行ったのだろうと思っていたのだが、いつまでたっても戻ってこない。僕は、何かあったのかと心配になったがその場を動くわけにもいかず寒いロビーで彼を待ち続けた。結局彼が戻ってきたのは1時間後だった。そして、悪びれる風でもなくごく簡単な礼を言うと、荷物をもってあっという間に消えた。 せめて理由を説明して納得させて欲しかった。何とも言えない空しい思いが後に残った。僕は不快な気持ちを振り払うため、よほどの事情があったのだろうと思うことで自分を納得させようとした。 こんなにひどいのは後にも先にもこの1回きりだったが、旅行中に出会った日本人の中には、こんなところまで来て日本人に会いたくないといわんばかりに露骨に嫌な顔をする者、妙に馴れ馴れしくあつかましい者、が少なからずいた。身内意識が強い故だろうか。それとも旅慣れていないせいなのだろうか。いずれにしても日本人同士とはいえ他人であることに変わりはない。過度な甘えは慎むべきだろう。外国人、日本人を問わず誰に対しても敬意と節度をもって接することを心がけようと強く思った。
⒔ソルトレイクシティ(2) ソルトレイクシティはユタ州の州都で、キリスト教の一派であるモルモン教の本拠地として有名だ。見どころは、その名前の由来となった巨大な塩湖と、モルモン教総本山の大聖堂だ。夏場であれば塩湖も魅力的だったのかもしれない。が、とにかくめちゃくちゃ寒い。とても湖に行こうという気は起こらなかった。よって、もうひとつの見どころである大聖堂に向かった。デポからそう遠くないところにあるとのことなので、歩いて行ってみることにし、雪の中を歩きだした。 ソルテレイクシティはサンフランシスコとはまた違った意味で美しい町だった。清潔で引き締まった感じがある。静謐といった表現が適切かもしれない。雪の中を歩いている人はもちろん誰もいない。がそれにしても静かすぎる。なぜか商店も全て閉まっている。どうしたことなのだろう。 どれくらい歩いただろうか。大聖堂のあるテンプルスクェアについた時には体が冷え切っていた。大聖堂はその名の通り巨大な教会で、威厳を感じさせる佇まいだった。中に入ると丁度パイプオルガンの演奏が始まるという。僕は多くの人たちに交じって教会の椅子に座った。演奏は荘厳で美しく、心が洗われる気がした。感謝祭の特別演奏だそうだ。 ちょっと得した気分だった。
⒔ソルトレイクシティ(1) サンフランシスコを夜9時に出発して翌朝7時40分にソルトレイクシティに到着した。雪が降っている。温暖なカリフォルニアから一転して真冬の雰囲気だ。サンフランシスコ--ソルトレイクシティ間は最短ルートをとれば8時間程度の行程だ。しかしサンフランシスコで懲りたので、おかしな時間に到着しないよう、あえて遠回りであるデンバー経由のルートをとった。 この旅の基本方針として、 ⒈バスはなるべく夜行を使いホテル代を節約する ⒉できるだけ午前中に到着するスケジュールを組む という2つの方針を立てていた。午前中到着は治安と時間を有効に使うという、2つの目的からだ。知らない街で暗い夜間にホテルを探すことは危険だし精神的な負担も大きい。 このような理由から選んだこのルートは幹線道路からはずれた道を多々通り、なかなか見ごたえのある興味深い景色にあふれていた。とくにロッキー山脈を越えるデンバー近辺はいかにも西部劇に出てきそうなアメリカの砂漠を見ることができて面白かった。星空の下で見た景色は美しく、幻想的だった。夜行バスならではの体験だ。ただ、大半寝ていたため見逃した風景もたくさんあっただろうことは残念だが・・・。
⒓サンフランシスコ(2) 幸い寒い季節に朝っぱらから歩き回るワルもいないようだ。7時頃から明るくなり始めたので、とりあえず地図を見ながら安いホテルが集まっているあたりへ向かった。夜が明けるとサンフランシスコは美しい港町だった。瀬戸内で生まれ育ったせいか、僕は海沿いの町が好きだ。 公園でしばらく時間をつぶした後、ダメもとであらかじめ目星をつけておいたホテルへ行ってみた。朝8時頃だった。チェックインは当然無理だろうが、バックパックをフロントに預けて身軽になりたかった。ホテルのフロントは感じのいい中年の女性で、意外なことにあっさりチェックインさせてくれた。6時にバスで着いて歩いて来たというと、親切にも朝食を勧めてくれた。コーヒーとトーストのシンプルなものだったが本当においしかった。冷え切った体が温まった。 部屋を確保するとそのまま観光に出かけた。チェックインした「ウエスタンホテル」はユニオンスクェアに近い便利な場所にあった。まず市バスでゴールデンゲートブリッジに行った。霧でところどころ覆われてはいるが、サンフランシスコのシンボルである赤い橋はきれいだった。次にケーブルカーに乗ってフィッシャーマンズワーフに行った。この頃には霧はすっかり晴れていた。埠頭に座って屋台で買ったクラッカーとクラムチャウダースープを食べ、遅い昼食をとった。今日はサンフランシスコの名物に3つ触れられた。明日はチャイナタウンに行ってみよう。観光気分が俄然盛り上がってきた。 サンフランシスコは坂が多いことで有名だ。しかも勾配が半端じゃない。その為ケーブルカーがこの町になくてはならない交通機関として長い間親しまれてきた。近年効率性から自動車に取って代わられているとのことで残念だ。 坂とケーブルカー以外で印象に残ったのは花屋と大道芸人だ。街の至るところで花屋を目にする。坂道の途中に点々とある小さな花屋が街をいっそう美しく見せている。また、人が集まるところには必ずといっていいほど大道芸人がいる。1人で複数の楽器を演奏する者、人形劇をする者、歌を歌う者、と様々だ。皆楽しそうにやっていて、つられてこちらも明るい気分になる。 サンフランシスコは美しく楽しい町だった。ここには1日半滞在し、翌日の夜グレーハウンドで旅立った。最悪のスタートだったサンフランシスコはアメリカで1番好きな町のひとつになった。
⒓サンフランシスコ(1) 出発まで1時間半。長い待ち時間ではあるが物珍しさできょろきょろしているうちに意外に早く出発時間になった。サンフランシスコ路線は人気のようで乗客は多い。乗り切れなくなったらどうするんだろうと思ったが、乗客が溢れた場合は何便でも増便を出すそうだ。乗れないという事態は決して起こらないとのこと。予約不要でいつでも乗れるのはありがたい。さすがアメリカは豊かだ。 車内は広くて結構きれいだ。座席もゆったりしていて乗り心地は悪くない。いよいよアメリカ一周の旅が始まる。バスはゆっくりとロサンゼルスの街を抜けて行った。バスから見る街は静かできれいだった。フリーウエイをしばらく走るとあたりは真っ暗になった。逆に、街中で真っ黒に見えた空は群青色を濃くした色に変わった。10月下旬の空は澄み渡り一面星に覆われている。バスは真直ぐにどこまでも続く道を延々と走った。 目が覚めるとバスは深い霧の中を走っていた。窓の外は真っ白で何も見えない。しばらくするとサンフランシスコのデポに着いた。ここはロサンゼルスと比べるとかなり小ぶりだ。腕時計を見ると6時少し前だった。あたりは真っ暗だ。途中のバス停で降りたのか乗客は10人程に減っていた。それぞれ行先が決まっているのだろう降車すると皆すぐにいなくなってしまった。 ターミナルの建物は閉まっており中に入れない。僕は真っ暗なダウンタウンのど真ん中に1人取り残されてしまった。最初に頭に浮かんだのは、バスターミナルの周りはどこも治安が悪いという言葉だった。右も左もわからない治安の悪い場所で早朝路頭に迷う。旅の第1歩としては強烈だ。街は静かで、霧に覆われていた。僕はデポのベンチで明るくなるのを待つことにした。おかしな人が通りかからないことを祈りながら・・・。
⒒LAデポ 出発前は危険なエリアを夜歩くと思うと緊張したが、バス停からの距離も思ったほど遠くなく、あっけなくデポについた。時間は6時過ぎだった。グレーハウンドのターミナルはこちらではデポと呼ばれている。ロサンゼルスのデポはニューヨークと並び最大級の規模だ。多くのバス乗り場があり、たくさんの人が待合室で待っていた。日本で購入したアメリパスをカウンターに渡してサンフランシスコまでの乗車券を発行してもらった。アメリパスは外国人向けの期間内乗り放題の周遊券で使用開始から一カ月間有効だ。アメリカ全土とカナダの一部で使用可能だ。このパスをカウンターで見せて乗車券を発行してもらう仕組みになっている。チケット発行時に窓口で“インシュアランスはどうするか?”と聞かれた。はて、どこかで聞いたことがある言葉だが何だっけ?僕はその言葉の意味が分からずしばしのやりとりになった。窓口の人は何度か言い換えながら説明してくれた。アメリカに来て2週間、僕の英語はいまだに“保険”という単語さえ分からないレベルだった。保険は8ドル95セントだった。 ロサンゼルスのデポは規模も最大級だが治安の悪さも最高レベルのようで、この時も銃を持ったガードマンが待合所周辺をガードしていた。待合所はデポの中にある柵で囲まれたエリアで周辺の天井に防犯用監視カメラがいくつか設置されている。ここには乗車券を持っている者しか入れないので一応安全地帯といえる。待合所の椅子に座っていると、柵の外で、ヒスパニック系だろうか、汚い身なりの男が監視カメラの真下の床に横になろうとしていた。何度か体の位置を少しずつずらしながら寝そべった。どうやらいくつかある監視カメラの死角を探して寝るつもりのようだ。暖房が利いて暖かく安全な24時間オープンのデポはダウンタウンのホームレスにとって格好の避難所であるようだ。 当然ながらその男はほどなく現れたガードマンに連れ去られた。
⒑アメリカ一周の旅へ 英語を勉強しながら楽しく気楽な生活をここで満喫することにももちろん意味はある。特定の街に定住し周りの人間と深く付き合うという生活からも学ぶべきことは多い。しかし、それは僕がアメリカに来た目的とは違う。僕は少しでも多くのものを見、多くの人と出会うことにより、広い世界を肌で感じるために旅へ出た。結局僕は、いろいろ理屈をつけて楽な道に逃げようとしているではないか。そう考えると、居ても立っても居られなくなった。今すぐ出発しなければだめだ。ぐずぐずしていては決心が鈍る、と思った。 翌日、ホテルをチェックアウトすると、フロントへ荷物を預けてアダルトスクールへ最後の授業を受けに行った。授業終了後、先生に今までのお礼と今夕グレーハウンドバスで出発すると伝えた。先生は、せっかく授業に馴染んできたところなのに残念だ。でも、すばらしいことだからがんばれ。旅行が終わったらまた学校に戻って来なさいと言った。30代後半ぐらいのちょっときれいな優しい先生だった。クラスメートも口々に応援してくれた。このアダルトスクールに通ったのは1週間強だったが、みんなと別れると思うと少しさびしかった。 その後しばらく街を散歩してから預けた荷物を受け取りにホテルへ戻った。4時頃だった。事前に確認したバスの出発時間は夜8時だ。時間があったのでとりあえずロビーで時間をつぶすことにした。そこへ何度か話したことがある日本人の泊り客がやって来た。30歳前後の痩せ型の男性だ。茶色の革ジャンとサングラスが遊び人っぽい。ロサンゼルスが好きで会社の休暇を利用して遊びに来ているらしい。一週間程度の予定でここに滞在中とのことだ。今夕グレーハウンドでサンフランシスコに出発するというと、バスターミナルの周りは治安が最悪だからタクシーで行ったほうがいいよと教えてくれた。確かにグレーハウンドのターミナルは基本的にダウンタウンの中心にあり、大概そこはその街で最も治安が悪い。ガイドブックにも気をつけようと書いてあった。 とはいっても、この先のことを考えるとできるだけ出費は押さえたい。僕はタクシーを避け、ターミナルの近くを通るローカルバスで行くことにした。安全を考え少し早目の5時半頃ホテルを出た。
⒐森田 ホテルへ移ってからも森田はなにかと気にかけてくれた。現地の情報や心得を教えてくれ、ロサンゼルスにいた2週間強のあいだ週末ごとに車で迎えに来て面白そうな場所を案内してくれたりした。最初の土曜日はホテルニューオータニのロビーで落ち合いハリウッドへ向かった。フリーウエイを走ってしばらくすると、「おっ、あれあれ!」と森田が窓の外を見るよう促した。そこには山並みに立てられた〝HOLLYWOOD〟の白い文字看板があった。見たことのある景色だ。Billy Joelのアルバムのジャケットだったか・・・。 本当にアメリカに来たんだなと思った。チャイニーズシアターで有名人の手形を見た後UCLAへ行き、夜はリトルトーキョーでかつ丼を食べた。森田は日本食が恋しくて毎週末リトルトーキョーへ通っているそうだ。 翌週は金曜日と土曜日の2回出かけた。金曜日はアナハイムのディズニーランドへ行った。意外に来園客は少なかった。そのためかどうか多くのアトラクションが中止となっていた。スペースマウンテンが止まっていたのは少し残念だった。 土曜の夜はサンタモニカへ飲みに行った。この辺りは治安が良いみたいで、日本と変わらぬ賑わいようだ。みんな楽しそうに騒いでいた。パブを2軒はしごした後ディスコへ行った。まるで映画サタデーナイトフィーバーのような大変な盛り上がり方だ。超満員でとても長くいられる状態ではない。早々に店を後にした。 夜のビーチに座ってビールを飲んでいると、「おいおい、本当にここはアメリカなんか?日本と全然かわらんがな。皆がおったら今頃焚き火を始めるとるんじゃねえか」と森田が笑いながら言った。海を見ながら飲むビールはうまかった。その夜ホテルに帰ったのは午前2時半だった。
⒏ロサンゼルスでの日常 ロサンゼルスに来てからアダルトスクールをはじめとして多くの知り合いができた。ホテルでの自炊にも慣れてきたし生活は快適だった。こちらは食料品等の生活必需品も安いしホテルも1週間、1ヵ月と長期のディスカウント料金の設定がある。日本人コミュニティもあり、飲食店の店員を中心とする日本人向けのアルバイトも充実している。日本人が長期滞在をするには非常に楽な場所である。事実、なんとなく住み着いている日本人が大勢いた。そのころの僕の平日は大体こんな感じだった。 8時頃 起床、洗顔・歯磨き、テレビのニュースを見ながら朝食 9時~14時半 アダルトスクール 14時半~18時 街をぶらぶら、市場等で買い物、読書 19時~20時 シャワーの後、自炊による夕食 食パン、ビール、ステーキ 20時~24時 テレビ、読書等、たまにホテルのロビーで宿泊客と談笑 24時頃 就寝 自炊の食材は大体市場で買った。こちらは牛肉が驚くほど安いのでほぼ毎日大きなTボーン・ステーキを食べていた。調理器具、食器はホテルが無料で貸してくれた。自炊をしている分には食費はかなり低く抑えられた。生活も安定し、毎日楽しく過ごしているうちに、このまま英語の勉強をしながらここに留まるのもいいかな、などと思い始めた。
⒎アダルトスクール 日米文化会館の英語講習で知り合った現地のおばさんにアダルトスクールというものがあることを教えてもらった。アダルトスクールとは、州や市の税金・援助で運営される政府公認の語学学校で、英語を母国語としない移民のためにESL(ENGLISH AS A SECOND LANGUAGE)クラスを安価(年50セント)で開講しており、読む、書く、聞く、話す、の英語四技能を総合的に学べる。学校自体は月曜日から金曜日の週5日制で、9時から14時半くらいまでの開講らしい。入学は随時認められ、受講時間・期間とも各自の都合に合わせてかなり柔軟に対応してくれる。僕も、行ったその日に簡単なクラス分けテストを受け、そのまま授業を受けた。クラスは基礎から上級まで八段階ぐらいあり、僕は中級クラスに入った。 アダルトスクールは日本人にあまり知られていない為、語学学校と違ってほとんど日本人がいない。僕が行ったところはロサンゼルスのダウンタウンという場所柄か中南米からの移民が大半を占めていた。クラスメートの年齢は10代から60代ぐらいと幅広く、国籍も多様だった。彼らは、とても積極的に授業に参加する。ブロークンイングリッシュを駆使して発言しまくる。そのため授業はにぎやかで活気があった。これだけ積極的に話せば上達は早いだろう。人懐っこい人が多く、ここでもたくさんの人と知り合った。校舎は平屋の簡素な建物で、校庭にあった卓球台が休み時間に生徒の人気を集めていた。 通学の為、アダルトスクールへ歩いていける「ブランドン」というホテルへ移った。ここも地球の歩き方で紹介されていたところだが、加宝と比べると日本人は少なく、部屋にキッチンがついていたこともあり、ロビーに行くこともぐっと少なくなった。ここに来てから人と話す時間は激減した。
⒍治安 こちらに来て数日後の出来事だった。初めてダウンタウンのブロードウェイに行ったとき、前から来たホームレスの黒人が、ギミーアダラーと声をかけてきた。僕は「ノー」と小声で言ってかぶりを振り、通り過ぎた。日本ならまず何も起こらないだろう。しかしこのときはいつもと随分違った。まず背後で大きなブレーキ音がなった。そして、なんだろうと振り返ると、ドラマでよく見たことのある光景が目に飛び込で来た。それは、「急停車したパトカーから警官が2人降りてきて、黒人をホールドアップさせ、壁に押し付ける」 という一連の逮捕劇で、一瞬の早業だった。何が起こっているのかすぐにはわからなかったが、どうやら、その黒人が僕を狙っているのを、たまたまパトロール中の警官が見つけて助けてくれた、ということらしい・・・ やはり、ここは日本ではないのだ。 こちらではよく、ギミーアダラーだとかワンダラープリーズと声をかけられる。このような場合の対処法として”地球の歩き方”には、「相手の目を見て、毅然とした態度で”ノー!”と言おう」と書いてある。しかしこれをすると、恐ろしい目でにらまれたり、きたない言葉を投げつけられたりすることがままある。特に、低い声で威圧的にお金をくれという相手の場合は、そうなることが多かった。やばい雰囲気になって、走って逃げたこともある。日本人同士の会話に置き換えて考えれば分かることだが、同じギミーアダラーにも「お金を恵んでください」と「金をよこせ」には大きな違いがある。両者に同じ対応をすればどうなるかは想像に難くない。相手が外国人だからといって違いはないだろう。やはり何事も常識に照らして考えてみることが大事だ。ちなみに他の多くのガイドブックには、「安全の為、絡まれた時すぐ渡せる少額のお金を用意しておこう」と書かれていることを帰国後知った。 単独行動は同行者がいる場合に比べて犯罪等のターゲットになる確率が圧倒的に高い。これはひとり旅の大きなデメリットだろう。旅行者にとって最も大切なのは安全対策だ。土地勘がないよそ者が正しく判断し対処することはとても難しい。危険の度合いがわからないからだ。地元の人がもつ“どこがどの程度危険か”といった情報や知識がないし、馴染みのない土地では危険を察知する嗅覚が働かない。そのためこのあたりは治安が悪いといわれると、過度に恐れるかたいしたことはないだろうと高を括るか、という極端な反応をしがちだ。前者の場合は行
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爽やかな新緑の季節。静かに湯に浸かって、うまい酒をちびちびやりたい。そんな気分になったので、鬼怒川温泉の金谷ホテル行った。
3月2日(日)に埼玉県越谷市のサンシティホールで開催された万作の会による「狂言の世界」に行ってきました。
趣味で仕舞をしています。熱心に稽古しているとは言えないためあまり上達しないままなので、とても分かった風なことをいえる立場ではないのですが、明るくお目出たいものや酒に関する曲が好きです。 酒に関係する能には、酒そのものや、酔い、宴会をテーマにした曲があるのですが、能の中でも明るくお目出たい雰囲気を持つものが多いと言えます。以下に酒に関する主な
週末の夕方、目黒の庭園美術館の芝庭で行われた庭園能を観ました。少し肌寒くはありましたが天気がよく、澄み渡った清々しい空気のなかで観る能は素晴らしかったです。
10月5日(土)そぼ降る雨のなか府中の大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)で開催された「武蔵の國の酒祭り2024」に行ってきました。 醸造の神様である松尾様に参拝した後、会場の参道脇広場に向かいました。会場はあいにくの雨にもかかわらず既に大勢の人でにぎわい熱気にあふれています。さすが酒好きの祭典。呑兵衛に天気は関係なさそうです。
厳しい暑さが続くなか少しでも涼しい気分を味わいたいと思い、東京湾を周遊するシンフォニーに乗って約2時間のサンセットクルーズに行きました。 シンフォニーは東京湾を巡るクルーズ船サービスの一つで、船にはレストランやラウンジがあるので、食事をしたり飲み物を飲んだりしながら、レインボーブリッジやスカイツリーなどといったランドマークを含む“ザ東京”的な景色を海から楽しめます。
荻窪駅からほど近い「高橋の酒まんじゅう」は、酒まんじゅうのみを取り扱う老舗の和菓子屋で、予約必須の人気店です。
以前から行きたかったホテル清風館のBARサファイアに行ってきました。 広島県の大崎上島は瀬戸内海に浮かぶミカンとレモンで有名な風光明媚な島で、竹原から船で20分。島の高台に立つ清風館からは瀬戸内海の美しい海と島々が見渡せ、穏やかな波音が心地よく響き渡ります。 瀬戸内の島々を見渡せる露天風呂で旅の疲れを癒やした後は、地元瀬戸内の魚を中心とした料理を食べながら竹原の地酒、竹鶴と龍勢に舌鼓を打ちました。新鮮な海の幸を食べながら飲む地酒は最高です。
62.帰国 長旅を終えて日本に帰国した。 帰るところがあるからこそ安心して遠くまで行けるのだと心から思った。 終
61.夢の島ハワイ 森田と会った2日後の2月4日、僕はロサンゼルスを後にした。帰路はハワイ、ソウルの2か所でトランジットの後、帰国というルートにした。格安チケットの悲しさでフライトの時間は早朝に設定されている。僕はエアポートバスに乗るためにダイマルを4時ごろに出た。あたりは真っ暗で誰も歩いていない。バス乗り場のニューオータニまでは歩いて5分程度なのだが、何しろ治安の悪いエリアだとの思いもあり結構緊張した。 バス停でバスを待っているとボロボロのタクシーが目の前に泊まって空港までバスと同じ料金で乗せてやると言った。当然断った。メキシカンの運転手は同じ料金ならタクシーのほうがいいだろう。なんでだ。と食い下がったが。もう一度僕がノーサンキューというと諦めて走り去った。申し訳ないけどここに来てトラブルの可能性はできるだけ避けたい。このドライバーは僕がメキシコで会った人たちとは別人なのだ。 ロサンゼルスを飛び立って7時間後に僕の乗った大韓航空機はホノルルに着いた。空から見るハワイの海はきれいだった。ここが憧れの夢の島、ハワイか。ハワイには1泊する予定だ。 空港からワイキキに向かうバスは観光客で満員だった。アメリカ人が多いように見える。皆目を輝かせて楽しそうに窓の外を見て写真を撮ったり話したりしている。やはりハワイはアメリカ人にとっても特別な場所なのだろう。ホテルはワイキキのはずれにあるアロハサーフホテルに決めた。キッチン付きツインルームで一泊26ドルと値段もまずまずだ。海側の部屋ではないが小さいながらもバルコニーがありそこから運河が見えた。 荷物を置くと水着に着替えてビーチに行った。海で泳いでいると30歳ぐらいの男が声をかけてきた。カナダから来たのだという。しばらく話した後、これから自分の部屋に来ないかと誘ってきた。僕は時間もあまりないし、まだ行ってみたいところもあるため断った。が彼はしつこく誘ってくる。僕はその時やっと、彼がゲイなのだと気付いた。今度は強い口調で断った。 考えてみれば旅の間、何人ものアメリカ人が家に泊まりに来いと声をかけてくれた。僕は貧しい学生をもてなしてやろうという親切心からの誘いだとずっと思っていたのだが、もしかしたらそのうちの何人かは違う目的だったのかもしれないなどとこのときふと思った。 当初、物価の高い観光地であるハワイにはあまり興味をもっていなかった。乗り換えのついでに少し見てみようという程度の思
60.大元ホテル ダイマルには5泊した。ここも長期滞在者が多かったが、加宝と比べると住み着いている感じの人が多かった。初日にロビーで見たおばさんの他にも何人か日系の老人がいたし、リトルトーキョーで不法就労をしているらしき若者も何人かいた。決して治安が良いとは言えないこのあたりで1人暮らしをすることを考えると、アパートより安ホテルのほうが安全だし孤独を感じなくて済むのかもしれない。日系人もあまりいい思いをしていないのかもしれないと思うと少し辛かった。 とはいえひとりで生きている人たちは強い。ホテルに住む老人たちはお互いの噂話をしたり(結構辛辣なのもあった)、励ましたりしながら支えあって毎日を過ごしているように見える。長い間こうしてきたのだろうか。 不法就労の若者の中に1人強烈な奴がいた。迷彩服のようなものを着ており、そもそも目が危ない。経緯は忘れたが、日系人のおばさんにあんたもう日本に帰ったほうが良いよと諭され、ブチ切れたのをロビーで目撃したことがある。そのとき彼は、「絶対帰らんからね。こっちで銃を買って皆打ち殺すんだから」「それまで帰らんからね」と血走った眼で叫んで自分の部屋に駆け込んだ。おばさんたちは困りきった顔で「ありゃ本当に危ないね」と言った。見ていて気の毒になった。あんなのが同じホテルに住んでると思うとさぞかし迷惑だろう。人んちに来ていったい何してくれるんだ、といった気持だろう。彼は何のためにここに来たんだろう。どこの店かわからないけどよく雇ったものだ。 夕方、森田が訪ねてきた。日本食屋でかつ丼を食べた後ヤオハンに隣接するボーリング場に行き3ゲーム投げて部屋に帰った。ベッドに座って地図を見ながら僕の冒険談を話した。森田は楽しそうに聞いていた。ビールを飲みながら2人で明け方まで馬鹿話をした。森田は鑑定士のコースを卒業したら更に後1年宝石デザインの勉強をするつもりだと言う。日本に帰るのは少し先になりそうだ。
59.再びロサンゼルス リトルトーキョーに泊まりたかったので今度は大元(ダイマル)ホテルに部屋をとった。ホテルはリトルトーキョーの中心にありニューオータニにも近い。通りに面した小さな入口を入り、狭い階段を上ったところがフロントだ。公衆電話がひとつと椅子がいくつかある小さなロビーになっている。椅子には泊り客らしい日系人の60前後だろうかのおばさんが座ってホテルの人としゃべっていた。年の割には派手な化粧だ。こっちで見かける日系人はたいがいこんな感じだ。 チェックアウトを済ませると荷物を部屋に置いて外へ出た。通りには日本人がたくさん歩いていた。何だかうれしかった。日本の土産物屋の前に日の丸の旗が掲げてあった。妙に懐かしい気分になりその前で記念写真を撮った。シャッターは丁度通りかかった観光客らしい日本人の母娘が押してくれた。お礼に2人のカメラのシャッターを押してあげると女の子がとても喜んでくれた。10歳くらいだろうか。家族4人で旅行に来ておりすごく楽しいと言った。お父さんと弟は土産物屋で買い物中だそうだ。 しばらくリトルトーキョーを歩き回ったあと食べ物を買って部屋に帰った。シャワーを浴びてパンとバナナを食べたあとロビーの公衆電話から森田に電話してみた。下宿のおばさんが電話にでて、森田は引っ越したと言った。おばさんに教えてもらった番号に電話をすると今度は森田が出た。僕が戻ってきたと伝えると、「もう日本に帰ったと思うとったわー。無事帰って来れてよかったなー」と言い、ものすごく喜んでくれた。そして、「ロサンゼルスにしばらくおるんならうちに泊まりゃーええが。今、下宿を出てクラスメートのトムと一緒にアパートを借りとるけん、遠慮せんでええでー」と言ってくれた。せっかくの申し出ではあったが、車の無い身で郊外のアパートに住むと動きにくいと思い断った。「トムはええ奴じゃけん遠慮せんでええのに」と森田は残念そうに言ってくれた。本当にいい奴だ。親切を無にするようで少し心苦しかったが、残されたアメリカでの時間を気ままに過ごしたいとの思いもあった。旅行を続けるうちにひとりでいることの楽しさを知ったような気がする。ひとりでいることに馴染んでしまったのかもしれない。
58.サンディエゴ 1月25日朝。歩いて国境の橋を渡りサンディエゴへ入った。38日間のメキシコの旅を終え再びアメリカへ帰った。橋の上でメキシコをバックに写真を1枚撮ろうと思い、通りかかった男性にシャッターを押してくれと頼んだ。すると、すかさず「ワンダラー」との答が返ってきた。そうか、ここはもうアメリカなんだ。アメリカのメキシコ人はなかなかしぶい。僕は「ノーサンキュー」と言い、手を一杯に伸ばして自分の顔を撮った。 サンディエゴは整然とした街並みが美しく、豊かな雰囲気が漂っている。国境を越えただけですごい差だ。この町には米軍基地がある。そこで戦艦に乗船できるとガイドブックに紹介されていたので行って見た。このアトラクションは人気があるようで土曜日の今日は大勢の観光客が訪れている。その中に混ざって見学した。実物はさすがに迫力がある。テレビで見るのとは大違いだ。その後アムトラックの駅で翌日のチケットを購入しYMCAへ宿をとった。1泊15ドル。風呂付だ。以前YMCAでドアのない共同シャワールームだと言われて泊まるのをやめたことがある。それ以来YMCAにはあまり泊まらないようにしているが、ここは立地もいいし快適だ。 翌朝のアムトラックでロスアンゼルスへ向かった。バスのほうが速いのだがこれを逃すとアメリカで鉄道に乗る機会はなかなかないと思い電車にした。アムトラックの座席はゆったりとしており快適だった。スピードがゆっくりで、のんびりと大陸を旅している風情が最高だ。 ロサンゼルスに帰ってきたのは暖かい日曜日の正午だった。
57.ティファナ 翌1月22日の朝エンセナーダを発ち国境の町、ティファナへ向かった。エンセナーダからはバスで2時間の距離だ。いよいよメキシコ最後の町だ。まずホテルを探そうと何軒か訪ねた。がどこも満室だ。この町は気軽にメキシコ観光ができることで人気がありいつも観光客で一杯だ。仕方なくチェックインしたホテルグアダラハラは1泊3,500ペソ。あまりきれいとはいえない部屋だ。 ティファナは安い物価を目的に観光客が買い物に来る町で特に興味を引くものはない。この町で人気があるのはショーパブだ。水着姿の女性のポールダンスを見ながらビールを飲む。メインストリートを挟んで店が何件か並んでいる。中はアメリカ人観光客で賑わっていた。女性客もいる。ダンサーはメキシコ人だろうか。モデルみたいにきれいな人もいる。何しろ初めての経験で物珍しかったので他の店にも行ってみたが、2軒目で2杯目のビールを飲んだところで飽きてしまった。 結局ティファナでは、物価が高いアメリカへ行く前に床屋で髪を切ったことを除けば、屋台でタコスやシュリンプカクテルを食べるというメキシコでいつもやっていたことをしただけだった。ただメキシコもこれが最後だと思うとついぐずぐずと出発を遅らせて、結局3泊してしまった。因みにホテルグアダラハラには1泊だけして翌日から2,500ペソのホテルサンフランシスコに移った。
56.バハカリフォルニア半島 カボサンルカスから再びラパスへ帰った。バスの都合でここに2泊する予定だ。ホテルは前回と同じサンカルロス。1泊1,590ペソ。この町はメキシコ最大の商港都市で海岸沿いにはホテルが立ち並ぶリゾートエリアもあるのだが、季節外れの今は対岸のマサトランからのフェリー利用者が通過するのみ。滞在する者はあまりいないようだ。寂しげな雰囲気だ。 ここからいよいよカリフォルニアへ向かい半島を北上する。バスはラパスを夕方4時に出発し次の町エンセナーダには翌朝10時に到着の予定だ。二つの町には時差があり1時間エンセナーダのほうが遅い。19時間半に及ぶ長旅だ。バスはサボテンが点在する砂漠を抜けたり断崖絶壁の山道を走ったりと変化に富んでいる。乗客は僕を入れて10人ぐらいだったと思う。いよいよメキシコの旅も終わりに近づいてきたと思うと、走るバスの窓から見える何気ない沿道の景色ひとつひとつが貴重で特別なもののように思えてくる。 バスは予定より30分遅れて10時半に目的地に着いた。エンセナーダは美しいビーチがある半島最大の港町でアメリカからの観光客が多く、レストランやレジャー施設が充実している。その分物価も高く、質素なホテルでも一1泊2,500ペソだ。アメリカからの観光客を意識した施設が多いためか、今まで訪れたメキシコの町と比べるとやや物足りなさも感じる。ここには2泊して、港町を歩き回ったり露店でタコスを食べたりとメキシコっぽいことをして過ごした。 2日目の夜、近くのバーへ行って見た。2~30人の観光客で満員の賑わいだ。皆楽しそうに飲んでいる。店には3人組みのバンドがいて顧客のリクエストに応えて歌っていた。なごやかなムードの中、店の客たちは皆すぐに打ち解けた。そのうち誰かが日本の歌を歌おうと言い出した。そんなの無理だろうと思っていると聞き覚えのある曲が流れてきた。「上を向いて歩こう」だ。皆口々に“スキヤキ”、“スキヤキ”と嬉しそうに言っている。そして僕に唄ってくれと言う。僕が歌い始めると全員で大合唱になった。 遠く離れた名前も知らなかった町で名前も知らない人たちと一緒に日本の歌を歌っているなんて、何だか不思議な気分だった。歌っていると、旅の間中持ち続けていた「今自分は日本人が誰もいない遠い町にいるんだ」という孤独感のようなものが消えていき、まるで日本で友達に囲まれているような気持になった。歌には人を元気づける力がある
55.カボサンルカス メキシコ第2の都市グアダラハラに着いたのは12日の午後3時だった。大きな町で聖堂などもあり観光地としての見どころも多い。だがこれといった特徴もないといえばない。僕は翌朝10時にこの町を発った。 マサトランについたのは約20時間のバス旅を経た13日の朝6時だった。ここで夕方フェリーに乗って対岸のバハカリフォルニア半島にあるラパスへ渡るつもりだ。乗船までの時間つぶしにノルテビーチとセントロへ行って見た。海を渡るといよいよメキシコの旅も終盤だとの思いがよぎる。夕方フェリーポートへ行きラパスまでのチケットを買った。サロンクラス300ペソ。フェリーは午後5時に港を出発した。 椅子に座って海でも見ようと思いサロンに入ると、ここで問題が発覚した。僕のチケットに記載された座席番号は144なのだが座席が135番までしかない。何度探してもない。船員に尋ねると首をひねるのみで頼りにならない。空席は沢山あるから適当なところに座れと言う。じゃあどれが空席なのかと尋ねると、「分らない」という答えだ。いかにもメキシコらしい対応に、まあいいかと適当な場所に座った。ただいつ「この席俺のだぞ。」という人が現れるかもしれないと思いながら指定席に座っているのはやはりあまりいい気分ではない。 船が出てしばらくすると水平線に夕日が沈んでいった。船の横をトビウオだろうかジャンプしながら泳いでいるのが見える。初めて見たがいかにも船旅の風情があって楽しい。海は穏やかで月夜を進んで行く船は何か幻想的だ。この夜のことはいい思い出として長く僕の記憶に残った。 船は翌朝8時半にラパスに着いた。約16時間の船旅だ。ここで1泊し翌朝9時のバスでカボサンルカスへ行った。2時間後の11時過ぎに到着。この町はバハカリフォルニア半島の南端にあるリゾート地だ。黄色い砂浜が美しい。今日はここで一泊するつもりだ。いつものようにまずホテルを確保しようと探したのだがあまりよさそうなホテルが見当たらない。ガイドブックに載っているのはカサブランカホテル1軒のみだ。しかたなく行って見たが、なんと1泊4,200ペソ。背に腹は代えられない。たまには高級ホテルでリゾート気分を満喫してみよう。1泊だけだしここに泊まるってみるかと思いチェックインした。さぞかし高級感あふれる部屋なのだろうと期待して部屋に行って見ると、狭いし高級感も全くない。驚くべき観光地価格だ。 ビーチは確かにきれいだ
54.モレーリア、パツクアロ バスは午後3時過ぎにモレーリアに到着した。この町はメキシコ国内からも多くの観光客が訪れる人気の観光地だ。スペイン統治時代から残る広場や庭園、碁盤の目状に整備された街並みはアメリカ大陸で最も美しい植民都市の一つといわれているそうだ。 翌朝そこから西へ60キロほどの小さな町、パツクアロへ向かった。バスで1時間足らずのその小さな町はのどかで静かなところだった。とりあえずガイドブックで紹介されていたツィンツンツァン遺跡と民芸品で有名なキローガという町へ行った。ここでいくつかの土産品を家族や友達に買った。特に冶金技術で有名ツィンツンツァンには面白い小物が沢山あって見るだけでも楽しい。 ポサダ・デラ・サルドというホテルに一泊し、翌朝ハニッツィオ島に行った。この島は町の真ん中にあるパツクアロ湖に浮かぶ形のいい小山のような島だ。そこに小舟で渡った。島の丘の頂上にはメキシコ独立運動の英雄であるモレロスの像が建っている。そこに上っていく道の両脇には土産物を売る店が軒を連ねている。温泉街の階段のような風情で楽しい。湖では白魚がとれる。漁に蝶々のような独特の形の網を使用することが名物の一つとなっており、これを食べさせる店も多い。味も結構おいしいらしい。 この日は天気もよく多くの観光客が島を訪れていた。ここはメキシコで僕の好きな町の一つだ。
53.再び一人旅 2人と別れた後僕はひとりバスでベラクルスへ戻った。そこで夜行バスに乗り換えて再びシティーへ向かった。 メキシコではダミアンやベルタのように優秀な人達でさえ海外旅行をすることが困難だと言う。自分で作ったコーヒーを飲むことすらできない。メキシコ人は貧しい人が多いのかもしれないが、国内では皆それなりにおいしいものを食べ楽しく笑って暮らしている。アメリカの食べ物が特に高級な訳でも美味しいわけでもない。アメリカにも裕福な人もいれば貧しい人もいる。だがアメリカ人がメキシコに行けば、強いドルで色んなものが買える。メキシコ人がアメリカでペソを使って買い物をしようとすると、国内では裕福な暮らしをしていた人でも、自由に買いたいものが買えるというわけにはいかない。何故なんだろう。 バスは翌7日朝6時半にシティに到着した。そのままホテルモネダに直行し7時半にチェックイン。一眠りして起きると午後1時半になっていた。もそもそとベッドを起き出しソナロサへ出かけた。両替をすると随分ペソが上がっている。そして明朝9時半出発予定のモレーリア行きのバスチケットを買った。
52.トラコタルパン パレードを見た後僕らはベラクルスの南、車で2時間程度のコロニアル風の小さな古い町であるトラコタルパンへ行った。ナワトル語で「水に囲まれた土地」を意味する水と森に囲まれた小さな町だ。村といった方が正しいだろうか。今夜はこの町のホテルで一泊する予定だ。“リフォーマ”というホテルだ。チェックインの時、ベルタが僕はダミアン、ベルタと同室でいいかと聞いた。僕が「いいの?」と聞くと、お前さえよければだけどね、とダミアンが笑って応えた。 僕らの部屋は4号室。部屋に荷物を置いて皆で散歩に出た。町の中心部は30分も歩けば全て見て周れるというぐらいの広さだ。何もないところだ。僕らは町の食堂で魚料理を食べた。港町であるこの辺りは魚料理が名物だ。白身魚のムニエルを食べながらビールを飲んであれこれ話した。楽しい夕食だった。 部屋に帰り順番にシャワーを浴びた後、ダミアンとベルタが明日から自分たちはこのままアカプルコへ1週間程度旅行する予定だ。とてもいいところだから一緒に行かないか。こんな風に同室に泊まって過ごそうよと言ってくれた。僕は本当にうれしかったけど、さすがにこれ以上家族の旅行に割り込むのは申し訳ないと思った。そして「ビザの期限も迫っているので僕はここで別れてシティへ行くよ」と言った。2人は本当に残念そうに「それならしかたない」と言った。その夜は遅くまで3人で色々なことを話した。 「もし2人かその知り合いが日本に来ることがあったら必ず連絡してほしい。できる限りのもてなしをするから」と僕がいうと、ベルタが「その時は是非よろしく」と言った。続けて「メキシコ経済の状況はとても悪い。ペソはどんどん下がっている。私たちが日本に行くのは難しいと思う」と言った。ダミアンを見ると寂しそうに頷いた。それから、自分たちはずっと友達だ。2人は引っ越すことがあるかもしれないがベルタの両親はずっとハラパの家にいる。連絡を取るときは両親の住所に連絡してくれと言い、住所を書いたメモを渡してくれた。そしてベルタが、「あそこはもうあなたの家でもある」と言ってくれた。 翌朝荷造りを済ませてホテルの駐車場へ行った。弟家族が車の前で待っていた。僕らはお互いの旅の安全を祈り別れの挨拶を交わした。僕は車が見えなくなるまで手を振った。皆も車の中からずっと手を振ってくれた。
51.ベラクルス 犬と一緒に旅行しないか、とダミアンが言った。ベルタの弟家族と旅行するから是非一緒に行こうという誘いだった。弟さんは犬を飼っているらしい。ベラクルスで有名な祭りがあるのだという。翌朝僕らは弟さんのトラックの荷台に乗って出発した。今度は犬も一緒だ。ベラクルスに着くとダミアンと僕はダミアンが所属する演劇アカデミーに行くためにベルタ達と別れた。僕らは今夜アカデミーに一泊して翌朝親戚の家に泊まるベルタ達と合流する予定だ。 ダミアンと僕はアカデミーに行き、ダミアンの長年の友人である校長に挨拶をした。そして荷物を置かせてもらい通りに出た。町はメキシコ中から祭りを見に集まった観光客で大変なにぎわいだ。コーヒーを飲もうと言ってダミアンがカフェに入って行った。広いフロアーに丸いテーブルがいくつも置かれたとても大きなカフェだ。ここはメキシコのカフェラテである「カフェ・コン・レーチェ」がおいしいことで評判の有名店なのだそうだ。この店ではまずコーヒーを半分ぐらい入れたカップを顧客に配る。そしてそこにやかんを持ったウエイトレスが回ってきて熱い牛乳を注いでくれるという独特の入れ方をする。牛乳がまだ入っていないカップを持つ顧客はスプーンでカップをたたいて合図をする。そのためそこら中でチンチンと音が鳴っている。熱い牛乳を注ぎたてのカフェ・コン・レーチェはおいしかった。 夕方アカデミーに行くと皆がダミアンを取り囲んで楽しそうに話し始めた。皆古くからの仲間なのだろう。ダミアンが僕を皆に紹介してくれた。皆でアカデミーの食堂へ行き、サンドイッチを食べ、ビールを飲みながら盛り上がった。残念ながらスペイン語での彼らの会話は全く分からなかったが楽しかった。その夜はアカデミーの稽古場にマットを敷いて寝た。ダミアンが、自分は修業時代アカデミーに寝泊まりしていたんだと言った。 翌日の昼前に校長に別れを告げて僕らは大通りに出た。祭りのハイライトであるパレードがこの通りを練り歩く。歩道を歩いているとベルタ達が手を振っている。場所取りをしてくれていたようだ。僕らはそこに並んで腰を下ろしてパレードを見た。ほどなくパレードが始まりすぐ目の前を通り過ぎた。華やかで迫力のあるすばらしいパレードだった。
62.帰国 長旅を終えて日本に帰国した。 帰るところがあるからこそ安心して遠くまで行けるのだと心から思った。 終
61.夢の島ハワイ 森田と会った2日後の2月4日、僕はロサンゼルスを後にした。帰路はハワイ、ソウルの2か所でトランジットの後、帰国というルートにした。格安チケットの悲しさでフライトの時間は早朝に設定されている。僕はエアポートバスに乗るためにダイマルを4時ごろに出た。あたりは真っ暗で誰も歩いていない。バス乗り場のニューオータニまでは歩いて5分程度なのだが、何しろ治安の悪いエリアだとの思いもあり結構緊張した。 バス停でバスを待っているとボロボロのタクシーが目の前に泊まって空港までバスと同じ料金で乗せてやると言った。当然断った。メキシカンの運転手は同じ料金ならタクシーのほうがいいだろう。なんでだ。と食い下がったが。もう一度僕がノーサンキューというと諦めて走り去った。申し訳ないけどここに来てトラブルの可能性はできるだけ避けたい。このドライバーは僕がメキシコで会った人たちとは別人なのだ。 ロサンゼルスを飛び立って7時間後に僕の乗った大韓航空機はホノルルに着いた。空から見るハワイの海はきれいだった。ここが憧れの夢の島、ハワイか。ハワイには1泊する予定だ。 空港からワイキキに向かうバスは観光客で満員だった。アメリカ人が多いように見える。皆目を輝かせて楽しそうに窓の外を見て写真を撮ったり話したりしている。やはりハワイはアメリカ人にとっても特別な場所なのだろう。ホテルはワイキキのはずれにあるアロハサーフホテルに決めた。キッチン付きツインルームで一泊26ドルと値段もまずまずだ。海側の部屋ではないが小さいながらもバルコニーがありそこから運河が見えた。 荷物を置くと水着に着替えてビーチに行った。海で泳いでいると30歳ぐらいの男が声をかけてきた。カナダから来たのだという。しばらく話した後、これから自分の部屋に来ないかと誘ってきた。僕は時間もあまりないし、まだ行ってみたいところもあるため断った。が彼はしつこく誘ってくる。僕はその時やっと、彼がゲイなのだと気付いた。今度は強い口調で断った。 考えてみれば旅の間、何人ものアメリカ人が家に泊まりに来いと声をかけてくれた。僕は貧しい学生をもてなしてやろうという親切心からの誘いだとずっと思っていたのだが、もしかしたらそのうちの何人かは違う目的だったのかもしれないなどとこのときふと思った。 当初、物価の高い観光地であるハワイにはあまり興味をもっていなかった。乗り換えのついでに少し見てみようという程度の思
60.大元ホテル ダイマルには5泊した。ここも長期滞在者が多かったが、加宝と比べると住み着いている感じの人が多かった。初日にロビーで見たおばさんの他にも何人か日系の老人がいたし、リトルトーキョーで不法就労をしているらしき若者も何人かいた。決して治安が良いとは言えないこのあたりで1人暮らしをすることを考えると、アパートより安ホテルのほうが安全だし孤独を感じなくて済むのかもしれない。日系人もあまりいい思いをしていないのかもしれないと思うと少し辛かった。 とはいえひとりで生きている人たちは強い。ホテルに住む老人たちはお互いの噂話をしたり(結構辛辣なのもあった)、励ましたりしながら支えあって毎日を過ごしているように見える。長い間こうしてきたのだろうか。 不法就労の若者の中に1人強烈な奴がいた。迷彩服のようなものを着ており、そもそも目が危ない。経緯は忘れたが、日系人のおばさんにあんたもう日本に帰ったほうが良いよと諭され、ブチ切れたのをロビーで目撃したことがある。そのとき彼は、「絶対帰らんからね。こっちで銃を買って皆打ち殺すんだから」「それまで帰らんからね」と血走った眼で叫んで自分の部屋に駆け込んだ。おばさんたちは困りきった顔で「ありゃ本当に危ないね」と言った。見ていて気の毒になった。あんなのが同じホテルに住んでると思うとさぞかし迷惑だろう。人んちに来ていったい何してくれるんだ、といった気持だろう。彼は何のためにここに来たんだろう。どこの店かわからないけどよく雇ったものだ。 夕方、森田が訪ねてきた。日本食屋でかつ丼を食べた後ヤオハンに隣接するボーリング場に行き3ゲーム投げて部屋に帰った。ベッドに座って地図を見ながら僕の冒険談を話した。森田は楽しそうに聞いていた。ビールを飲みながら2人で明け方まで馬鹿話をした。森田は鑑定士のコースを卒業したら更に後1年宝石デザインの勉強をするつもりだと言う。日本に帰るのは少し先になりそうだ。
59.再びロサンゼルス リトルトーキョーに泊まりたかったので今度は大元(ダイマル)ホテルに部屋をとった。ホテルはリトルトーキョーの中心にありニューオータニにも近い。通りに面した小さな入口を入り、狭い階段を上ったところがフロントだ。公衆電話がひとつと椅子がいくつかある小さなロビーになっている。椅子には泊り客らしい日系人の60前後だろうかのおばさんが座ってホテルの人としゃべっていた。年の割には派手な化粧だ。こっちで見かける日系人はたいがいこんな感じだ。 チェックアウトを済ませると荷物を部屋に置いて外へ出た。通りには日本人がたくさん歩いていた。何だかうれしかった。日本の土産物屋の前に日の丸の旗が掲げてあった。妙に懐かしい気分になりその前で記念写真を撮った。シャッターは丁度通りかかった観光客らしい日本人の母娘が押してくれた。お礼に2人のカメラのシャッターを押してあげると女の子がとても喜んでくれた。10歳くらいだろうか。家族4人で旅行に来ておりすごく楽しいと言った。お父さんと弟は土産物屋で買い物中だそうだ。 しばらくリトルトーキョーを歩き回ったあと食べ物を買って部屋に帰った。シャワーを浴びてパンとバナナを食べたあとロビーの公衆電話から森田に電話してみた。下宿のおばさんが電話にでて、森田は引っ越したと言った。おばさんに教えてもらった番号に電話をすると今度は森田が出た。僕が戻ってきたと伝えると、「もう日本に帰ったと思うとったわー。無事帰って来れてよかったなー」と言い、ものすごく喜んでくれた。そして、「ロサンゼルスにしばらくおるんならうちに泊まりゃーええが。今、下宿を出てクラスメートのトムと一緒にアパートを借りとるけん、遠慮せんでええでー」と言ってくれた。せっかくの申し出ではあったが、車の無い身で郊外のアパートに住むと動きにくいと思い断った。「トムはええ奴じゃけん遠慮せんでええのに」と森田は残念そうに言ってくれた。本当にいい奴だ。親切を無にするようで少し心苦しかったが、残されたアメリカでの時間を気ままに過ごしたいとの思いもあった。旅行を続けるうちにひとりでいることの楽しさを知ったような気がする。ひとりでいることに馴染んでしまったのかもしれない。
58.サンディエゴ 1月25日朝。歩いて国境の橋を渡りサンディエゴへ入った。38日間のメキシコの旅を終え再びアメリカへ帰った。橋の上でメキシコをバックに写真を1枚撮ろうと思い、通りかかった男性にシャッターを押してくれと頼んだ。すると、すかさず「ワンダラー」との答が返ってきた。そうか、ここはもうアメリカなんだ。アメリカのメキシコ人はなかなかしぶい。僕は「ノーサンキュー」と言い、手を一杯に伸ばして自分の顔を撮った。 サンディエゴは整然とした街並みが美しく、豊かな雰囲気が漂っている。国境を越えただけですごい差だ。この町には米軍基地がある。そこで戦艦に乗船できるとガイドブックに紹介されていたので行って見た。このアトラクションは人気があるようで土曜日の今日は大勢の観光客が訪れている。その中に混ざって見学した。実物はさすがに迫力がある。テレビで見るのとは大違いだ。その後アムトラックの駅で翌日のチケットを購入しYMCAへ宿をとった。1泊15ドル。風呂付だ。以前YMCAでドアのない共同シャワールームだと言われて泊まるのをやめたことがある。それ以来YMCAにはあまり泊まらないようにしているが、ここは立地もいいし快適だ。 翌朝のアムトラックでロスアンゼルスへ向かった。バスのほうが速いのだがこれを逃すとアメリカで鉄道に乗る機会はなかなかないと思い電車にした。アムトラックの座席はゆったりとしており快適だった。スピードがゆっくりで、のんびりと大陸を旅している風情が最高だ。 ロサンゼルスに帰ってきたのは暖かい日曜日の正午だった。
57.ティファナ 翌1月22日の朝エンセナーダを発ち国境の町、ティファナへ向かった。エンセナーダからはバスで2時間の距離だ。いよいよメキシコ最後の町だ。まずホテルを探そうと何軒か訪ねた。がどこも満室だ。この町は気軽にメキシコ観光ができることで人気がありいつも観光客で一杯だ。仕方なくチェックインしたホテルグアダラハラは1泊3,500ペソ。あまりきれいとはいえない部屋だ。 ティファナは安い物価を目的に観光客が買い物に来る町で特に興味を引くものはない。この町で人気があるのはショーパブだ。水着姿の女性のポールダンスを見ながらビールを飲む。メインストリートを挟んで店が何件か並んでいる。中はアメリカ人観光客で賑わっていた。女性客もいる。ダンサーはメキシコ人だろうか。モデルみたいにきれいな人もいる。何しろ初めての経験で物珍しかったので他の店にも行ってみたが、2軒目で2杯目のビールを飲んだところで飽きてしまった。 結局ティファナでは、物価が高いアメリカへ行く前に床屋で髪を切ったことを除けば、屋台でタコスやシュリンプカクテルを食べるというメキシコでいつもやっていたことをしただけだった。ただメキシコもこれが最後だと思うとついぐずぐずと出発を遅らせて、結局3泊してしまった。因みにホテルグアダラハラには1泊だけして翌日から2,500ペソのホテルサンフランシスコに移った。
56.バハカリフォルニア半島 カボサンルカスから再びラパスへ帰った。バスの都合でここに2泊する予定だ。ホテルは前回と同じサンカルロス。1泊1,590ペソ。この町はメキシコ最大の商港都市で海岸沿いにはホテルが立ち並ぶリゾートエリアもあるのだが、季節外れの今は対岸のマサトランからのフェリー利用者が通過するのみ。滞在する者はあまりいないようだ。寂しげな雰囲気だ。 ここからいよいよカリフォルニアへ向かい半島を北上する。バスはラパスを夕方4時に出発し次の町エンセナーダには翌朝10時に到着の予定だ。二つの町には時差があり1時間エンセナーダのほうが遅い。19時間半に及ぶ長旅だ。バスはサボテンが点在する砂漠を抜けたり断崖絶壁の山道を走ったりと変化に富んでいる。乗客は僕を入れて10人ぐらいだったと思う。いよいよメキシコの旅も終わりに近づいてきたと思うと、走るバスの窓から見える何気ない沿道の景色ひとつひとつが貴重で特別なもののように思えてくる。 バスは予定より30分遅れて10時半に目的地に着いた。エンセナーダは美しいビーチがある半島最大の港町でアメリカからの観光客が多く、レストランやレジャー施設が充実している。その分物価も高く、質素なホテルでも一1泊2,500ペソだ。アメリカからの観光客を意識した施設が多いためか、今まで訪れたメキシコの町と比べるとやや物足りなさも感じる。ここには2泊して、港町を歩き回ったり露店でタコスを食べたりとメキシコっぽいことをして過ごした。 2日目の夜、近くのバーへ行って見た。2~30人の観光客で満員の賑わいだ。皆楽しそうに飲んでいる。店には3人組みのバンドがいて顧客のリクエストに応えて歌っていた。なごやかなムードの中、店の客たちは皆すぐに打ち解けた。そのうち誰かが日本の歌を歌おうと言い出した。そんなの無理だろうと思っていると聞き覚えのある曲が流れてきた。「上を向いて歩こう」だ。皆口々に“スキヤキ”、“スキヤキ”と嬉しそうに言っている。そして僕に唄ってくれと言う。僕が歌い始めると全員で大合唱になった。 遠く離れた名前も知らなかった町で名前も知らない人たちと一緒に日本の歌を歌っているなんて、何だか不思議な気分だった。歌っていると、旅の間中持ち続けていた「今自分は日本人が誰もいない遠い町にいるんだ」という孤独感のようなものが消えていき、まるで日本で友達に囲まれているような気持になった。歌には人を元気づける力がある
55.カボサンルカス メキシコ第2の都市グアダラハラに着いたのは12日の午後3時だった。大きな町で聖堂などもあり観光地としての見どころも多い。だがこれといった特徴もないといえばない。僕は翌朝10時にこの町を発った。 マサトランについたのは約20時間のバス旅を経た13日の朝6時だった。ここで夕方フェリーに乗って対岸のバハカリフォルニア半島にあるラパスへ渡るつもりだ。乗船までの時間つぶしにノルテビーチとセントロへ行って見た。海を渡るといよいよメキシコの旅も終盤だとの思いがよぎる。夕方フェリーポートへ行きラパスまでのチケットを買った。サロンクラス300ペソ。フェリーは午後5時に港を出発した。 椅子に座って海でも見ようと思いサロンに入ると、ここで問題が発覚した。僕のチケットに記載された座席番号は144なのだが座席が135番までしかない。何度探してもない。船員に尋ねると首をひねるのみで頼りにならない。空席は沢山あるから適当なところに座れと言う。じゃあどれが空席なのかと尋ねると、「分らない」という答えだ。いかにもメキシコらしい対応に、まあいいかと適当な場所に座った。ただいつ「この席俺のだぞ。」という人が現れるかもしれないと思いながら指定席に座っているのはやはりあまりいい気分ではない。 船が出てしばらくすると水平線に夕日が沈んでいった。船の横をトビウオだろうかジャンプしながら泳いでいるのが見える。初めて見たがいかにも船旅の風情があって楽しい。海は穏やかで月夜を進んで行く船は何か幻想的だ。この夜のことはいい思い出として長く僕の記憶に残った。 船は翌朝8時半にラパスに着いた。約16時間の船旅だ。ここで1泊し翌朝9時のバスでカボサンルカスへ行った。2時間後の11時過ぎに到着。この町はバハカリフォルニア半島の南端にあるリゾート地だ。黄色い砂浜が美しい。今日はここで一泊するつもりだ。いつものようにまずホテルを確保しようと探したのだがあまりよさそうなホテルが見当たらない。ガイドブックに載っているのはカサブランカホテル1軒のみだ。しかたなく行って見たが、なんと1泊4,200ペソ。背に腹は代えられない。たまには高級ホテルでリゾート気分を満喫してみよう。1泊だけだしここに泊まるってみるかと思いチェックインした。さぞかし高級感あふれる部屋なのだろうと期待して部屋に行って見ると、狭いし高級感も全くない。驚くべき観光地価格だ。 ビーチは確かにきれいだ
54.モレーリア、パツクアロ バスは午後3時過ぎにモレーリアに到着した。この町はメキシコ国内からも多くの観光客が訪れる人気の観光地だ。スペイン統治時代から残る広場や庭園、碁盤の目状に整備された街並みはアメリカ大陸で最も美しい植民都市の一つといわれているそうだ。 翌朝そこから西へ60キロほどの小さな町、パツクアロへ向かった。バスで1時間足らずのその小さな町はのどかで静かなところだった。とりあえずガイドブックで紹介されていたツィンツンツァン遺跡と民芸品で有名なキローガという町へ行った。ここでいくつかの土産品を家族や友達に買った。特に冶金技術で有名ツィンツンツァンには面白い小物が沢山あって見るだけでも楽しい。 ポサダ・デラ・サルドというホテルに一泊し、翌朝ハニッツィオ島に行った。この島は町の真ん中にあるパツクアロ湖に浮かぶ形のいい小山のような島だ。そこに小舟で渡った。島の丘の頂上にはメキシコ独立運動の英雄であるモレロスの像が建っている。そこに上っていく道の両脇には土産物を売る店が軒を連ねている。温泉街の階段のような風情で楽しい。湖では白魚がとれる。漁に蝶々のような独特の形の網を使用することが名物の一つとなっており、これを食べさせる店も多い。味も結構おいしいらしい。 この日は天気もよく多くの観光客が島を訪れていた。ここはメキシコで僕の好きな町の一つだ。
53.再び一人旅 2人と別れた後僕はひとりバスでベラクルスへ戻った。そこで夜行バスに乗り換えて再びシティーへ向かった。 メキシコではダミアンやベルタのように優秀な人達でさえ海外旅行をすることが困難だと言う。自分で作ったコーヒーを飲むことすらできない。メキシコ人は貧しい人が多いのかもしれないが、国内では皆それなりにおいしいものを食べ楽しく笑って暮らしている。アメリカの食べ物が特に高級な訳でも美味しいわけでもない。アメリカにも裕福な人もいれば貧しい人もいる。だがアメリカ人がメキシコに行けば、強いドルで色んなものが買える。メキシコ人がアメリカでペソを使って買い物をしようとすると、国内では裕福な暮らしをしていた人でも、自由に買いたいものが買えるというわけにはいかない。何故なんだろう。 バスは翌7日朝6時半にシティに到着した。そのままホテルモネダに直行し7時半にチェックイン。一眠りして起きると午後1時半になっていた。もそもそとベッドを起き出しソナロサへ出かけた。両替をすると随分ペソが上がっている。そして明朝9時半出発予定のモレーリア行きのバスチケットを買った。
52.トラコタルパン パレードを見た後僕らはベラクルスの南、車で2時間程度のコロニアル風の小さな古い町であるトラコタルパンへ行った。ナワトル語で「水に囲まれた土地」を意味する水と森に囲まれた小さな町だ。村といった方が正しいだろうか。今夜はこの町のホテルで一泊する予定だ。“リフォーマ”というホテルだ。チェックインの時、ベルタが僕はダミアン、ベルタと同室でいいかと聞いた。僕が「いいの?」と聞くと、お前さえよければだけどね、とダミアンが笑って応えた。 僕らの部屋は4号室。部屋に荷物を置いて皆で散歩に出た。町の中心部は30分も歩けば全て見て周れるというぐらいの広さだ。何もないところだ。僕らは町の食堂で魚料理を食べた。港町であるこの辺りは魚料理が名物だ。白身魚のムニエルを食べながらビールを飲んであれこれ話した。楽しい夕食だった。 部屋に帰り順番にシャワーを浴びた後、ダミアンとベルタが明日から自分たちはこのままアカプルコへ1週間程度旅行する予定だ。とてもいいところだから一緒に行かないか。こんな風に同室に泊まって過ごそうよと言ってくれた。僕は本当にうれしかったけど、さすがにこれ以上家族の旅行に割り込むのは申し訳ないと思った。そして「ビザの期限も迫っているので僕はここで別れてシティへ行くよ」と言った。2人は本当に残念そうに「それならしかたない」と言った。その夜は遅くまで3人で色々なことを話した。 「もし2人かその知り合いが日本に来ることがあったら必ず連絡してほしい。できる限りのもてなしをするから」と僕がいうと、ベルタが「その時は是非よろしく」と言った。続けて「メキシコ経済の状況はとても悪い。ペソはどんどん下がっている。私たちが日本に行くのは難しいと思う」と言った。ダミアンを見ると寂しそうに頷いた。それから、自分たちはずっと友達だ。2人は引っ越すことがあるかもしれないがベルタの両親はずっとハラパの家にいる。連絡を取るときは両親の住所に連絡してくれと言い、住所を書いたメモを渡してくれた。そしてベルタが、「あそこはもうあなたの家でもある」と言ってくれた。 翌朝荷造りを済ませてホテルの駐車場へ行った。弟家族が車の前で待っていた。僕らはお互いの旅の安全を祈り別れの挨拶を交わした。僕は車が見えなくなるまで手を振った。皆も車の中からずっと手を振ってくれた。
51.ベラクルス 犬と一緒に旅行しないか、とダミアンが言った。ベルタの弟家族と旅行するから是非一緒に行こうという誘いだった。弟さんは犬を飼っているらしい。ベラクルスで有名な祭りがあるのだという。翌朝僕らは弟さんのトラックの荷台に乗って出発した。今度は犬も一緒だ。ベラクルスに着くとダミアンと僕はダミアンが所属する演劇アカデミーに行くためにベルタ達と別れた。僕らは今夜アカデミーに一泊して翌朝親戚の家に泊まるベルタ達と合流する予定だ。 ダミアンと僕はアカデミーに行き、ダミアンの長年の友人である校長に挨拶をした。そして荷物を置かせてもらい通りに出た。町はメキシコ中から祭りを見に集まった観光客で大変なにぎわいだ。コーヒーを飲もうと言ってダミアンがカフェに入って行った。広いフロアーに丸いテーブルがいくつも置かれたとても大きなカフェだ。ここはメキシコのカフェラテである「カフェ・コン・レーチェ」がおいしいことで評判の有名店なのだそうだ。この店ではまずコーヒーを半分ぐらい入れたカップを顧客に配る。そしてそこにやかんを持ったウエイトレスが回ってきて熱い牛乳を注いでくれるという独特の入れ方をする。牛乳がまだ入っていないカップを持つ顧客はスプーンでカップをたたいて合図をする。そのためそこら中でチンチンと音が鳴っている。熱い牛乳を注ぎたてのカフェ・コン・レーチェはおいしかった。 夕方アカデミーに行くと皆がダミアンを取り囲んで楽しそうに話し始めた。皆古くからの仲間なのだろう。ダミアンが僕を皆に紹介してくれた。皆でアカデミーの食堂へ行き、サンドイッチを食べ、ビールを飲みながら盛り上がった。残念ながらスペイン語での彼らの会話は全く分からなかったが楽しかった。その夜はアカデミーの稽古場にマットを敷いて寝た。ダミアンが、自分は修業時代アカデミーに寝泊まりしていたんだと言った。 翌日の昼前に校長に別れを告げて僕らは大通りに出た。祭りのハイライトであるパレードがこの通りを練り歩く。歩道を歩いているとベルタ達が手を振っている。場所取りをしてくれていたようだ。僕らはそこに並んで腰を下ろしてパレードを見た。ほどなくパレードが始まりすぐ目の前を通り過ぎた。華やかで迫力のあるすばらしいパレードだった。
50. 結婚記念日 夕方ベルタの弟一家がやって来た。彼は背が高くてハンサムだった。奥さんもモデルのような美人で、2人ともとても気さくでいい人達だった。2人には人形のように美しい娘がいた。11歳でまだ子供だが、今までこんなきれいな女の子を見たことがない。彼女は恥ずかしそうに挨拶をした。 これからベルタの両親の家に行くから乗れといわれ皆で彼のピックアップトラックに乗り込んだ。ダミアン、ベルタ、僕の3人は荷台に乗った。結婚記念日のお祝いがあるそうだ。十数分ほど走っただろうか、車が大きな門を抜けて停まった。ダミアンが家を案内してあげるというので2人で荷台を降りた。2階建てのその屋敷には廊下を挟んでいくつか部屋が並んでいた。そのうちの1つに入ってみた。ホテル並みの豪華さだと思って見ていると、この建物は召使いの宿泊施設だよ。とダミアンが言った。え、と聞き返すと。これは召使いが宿泊するための建物で、来客用の寝室としても使っていると言った。すごいねというと、ベルタのお父さんは金持ちなんだとさらりと言った。 母屋は映画やドラマに出てくるような豪邸だった。まさにお屋敷といった感じだ。玄関を入ると吹き抜けの広い玄関ホールがあり階段が二階に通じている。何部屋あるのか見当がつかない。ホールを抜けると奥が広間になっており大勢の客が集まっていた。親戚の人たちだそうだ。ベルタがご両親に僕を紹介してくれると2人とも優しそうに微笑んで、「来てくれてありがとう」と言った。料理は豪華で、とてもおいしかった。何人かの使用人が優雅に飲み物を注いでくれてまるでホテルのレストランのようだ。 驚いたことには楽団が2人のために演奏をしていた。パーティのために呼んだのだそうだ。ベルタの親戚は皆僕を友人として大切に扱ってくれ、同時にとてもフレンドリーに接してくれた。とても楽しかった。そのうちの1人が何かリクエストをしろといってくれた。といってもメキシコの曲はベサメ・ムーチョぐらいしか知らないと言うと、すぐに演奏が始まった。皆僕のほうを見て微笑んでいる。いい曲だと思った。 帰る時ベルタのお父さんが僕を抱きしめて言った。「今日はありがとう。ここはお前の家だ。いつでも好きな時に帰っておいで」
49. コーヒー園 翌朝起きるとベルタが朝食を出してくれた。コーンフレークとオレンジジュースだ。ダミアンはポクナでも毎朝コーンフレークにバナナを入れて食べていた。ベルタのはドライフルーツが入っており見た目もとてもきれいだしおいしい。ダミアンは本当にコーンフレークが好きなのだろう。ほぼ毎朝食べているようだ。 食べながらダミアンがコーヒー園を見たことがあるかと言った。ないというと、きれいだから一度見たほうがいい。近くにあるから行こう。と誘ってくれた。ベルタも是非行ったほうがいいと勧めてくれた。歩いて少し行ったところに広大なコーヒー園があった。緑の葉が太陽で輝き、赤い実とのコントラストがとてもきれいだ。歩きながら、ダミアンが、「ここは大好きな場所だ。よくここを散歩するんだ。」と言った。風が気持ちよかった。 コーヒー園の端にあった石に2人で腰を下ろした。座るにはちょうどいい大きさだ。ここのコーヒーは最高水準のものだ。かじってみろといってダミアンがコーヒーの実をちぎった。すこし酸っぱかった。こんないいコーヒーが近くで穫れるなんていいね。と僕が言うと、この豆のほとんどはアメリカとヨーロッパに出荷される。メキシコ人はもっと安いコーヒーを飲んでいるんだと言った。自分で作ったものを自分で飲めない人がいることを僕はこのとき初めて知った。 3日目の朝、有名なパレードを是非見せたいからベラクルスへ行こうとダミアンが誘ってくれた。
48. ダミアン ダミアンは、「よく来たな」と本当に嬉しそうに歓迎してくれた。迷ったけど来てよかったと僕は心の底から思った。僕らはソファーに座りコーヒーを飲みながら色んな話をした。イスラムヘーレスで別れてからたった数日しかたっていないのに随分話がはずんだ。少し話が込み入ってくるとベルタが英語で通訳をしてくれた。ベルタは英国に国費留学したこともある精神科医で、英語が上手だった。 演劇の話になったとき、ベルタが棚からハードカバーの立派な本を取り出して見せてくれた。演劇年鑑のようなものだろうか。そこに数ページを割いてダミアンの写真と紹介文が載っていた。ダミアンはどうやらメキシコではそれなりに名前が売れた俳優のようだ。アカデミックな舞台で活躍しているので貧しいけどねと笑いながら話してくれた。ベルタがダミアンをいかに誇りに思い、愛しているかが伝わってきた。 結局、僕はそのまま家に泊めてもらうことになった。その夜友達に紹介するといわれ近所の居酒屋に3人で出かけた。店に入るとダミアンと同じくらいの年の男性が2人テーブルで既にビールを飲んでいた。俳優仲間だそうだ。彼らの笑顔はダミアン同様人懐こく優しかった。そして僕らはすぐに打ち解けた。 メキシコでの日本の評判はすこぶるよかった。ソニー、日産、シチズン等いくつかの日本企業の名前をあげ日本人は素晴らしい製品を作るとても優秀な人たちだ。我々は日本が大好きだと言ってくれた。嬉しかった。僕も日本に帰ったら一生懸命働こうと思った。この夜僕はしこたま酔った。話がすっかり盛り上がり、気が付くとかなりのペースでビール、ラム、テキーラを飲んだ。皆で飲んだ酒は本当にうまかった。
47.ハラパ バスは1月2日の正午にダミアンの住むハラパに到着した。正直に言うと僕は最初ダミアンの家へ行くかどうか迷っていた。米国でも何度もうちに泊まりに来いと誘われたことがあった。そのたびに僕は断っていた。彼らは皆裕福そうで確かに人を泊めるぐらいの大きさの家に住んでいそうに見えた。だがゆきずりのよくわからない外国人の家に泊まりに行くのはさすがに危険だと思った。ダミアンはとても裕福には見えない。ただポクナで本当にいい人だと感じていたし、熱心に誘ってくれたので断れなかった。本当に大丈夫なんだろうかいう不安はあったが、とりあえず顔を出して、やばそうだったらすぐ退散しようと決めた。 ダミアンにもらった家の住所をもって街をうろうろいていると、若い女の子が声をかけてきた。知り合いの家を探していると言うと住所を教えろと言う。メモを見せると、近所だから連れて行ってやると言う。彼女の名前はエレナ。大学生で、年は20才ぐらいだろうか。英語がうまい。色白で笑顔が優しい美人だ。控えめな感じで照れ臭そうに話すが歩きながら街のことを親切に話してくれた。 ダミアンの家は歩いて7~8分の坂の途中にあった。大きくはないが小奇麗な平屋の1軒家だった。エレナが玄関で呼びかけるとすぐにダミアンが出てきた。僕を見ると満面の笑みで両手を広げて迎え入れてくれた。家に入ると奥さんのベルタが僕を明るい笑顔で迎えてくれた。美人だ。その瞬間それまでの不安が吹き飛んだ。こんなきれいな奥さんがいる人ならすごい人に違いないと直感的に思えた。げんきんなものだ。きれいな奥さんがいるというのはすごいことだ。 エレナがスペイン語で何か話している。おそらく自己紹介と僕を案内してくれた経緯なのだろう。別れ際僕に連絡先のメモを渡して自分の家はここから近いから是非遊びに来てくれと言った。そして僕の頬にキスをして恥ずかしそうに手を振りながら出て行った。僕はどうしていいかわからずボー然とエレナを見送った。横を見るとベルタが笑っていた。
47.元旦 8時半のバスまであと1時間。バスターミナルは元旦の夜にも関わらず大変な賑わいで、どのバスも満席の様子。こりゃだめかもしれない。もし空席がなかったらホテルに逆戻り。そして毎夜空席待ちでここに通うことになるのかと思うと憂鬱になる。正月早々きつい展開だ。バス会社の人に、「席がなければ床に座って行っても構わないんだけど」と言ってみたが、「そんなことはできない。危険だ。」とあっさり却下された。この辺は意外ときちんとしている。 バスが来た。満席に見えるがどうだろう。ドキドキしながら待っていると運よく空席が1つあった。これで何とかダミアンとの約束も果たせる。 振り返るとカンペチェにはいい思い出がいっぱいできた。バスの乗換のため訪れた半島の小さな町は僕にとって大切な場所になった。
大宮の武蔵一宮氷川神社舞殿で行われた薪能を見てきました。 東北・上越新幹線の開業を記念して1982年5月に始まった大宮薪能は、回を重ねて今年で43回目。国内でも指折りの薪能と評されている。
埼玉県蓮田市にある清流酒造の蔵元見学ツアーに参加しました。このツアーは見学後の試飲が豪勢なことでも知られており、予約開始日にほぼ埋まってしまうほどの人気ぶりで、私はキャンセル待ちで運よく席をゲットしました。 現地へは、蓮田駅西口からバスかタクシーで約5分。11半ごろバス停に行くとすでに大勢の客がバスを待っている。乗客の大半はツアー参加者で最寄りの下閏戸バス停に着くとほぼ全員が降車。何度も参加しているリピーターが多いため皆の後をついて行くと難なく集合場所に到着します。
45. ユカタンでの年越し 正月休み前にトラベラーズチェックを現金に換えておこうと銀行に行った。が、カウンターに誰もいない。オラ!と呼びかけると奥から行員らしき人が出てきて、今日は3時で閉店だと言う。時計を見ると3時10分。何とかならないかというと何ともならないという。そりゃそうだろう。いくらメキシコでも銀行だ。そんないいかげんなわけないよな。仕方ないとあきらめて帰ろうとしたところ、こっちに来いとその行員が奥の部屋から手招きする。対応してくれる気になったのかと少し期待して行ってみた。 部屋に入ると真ん中に置かれた大きな会議机に酒と食べ物が山盛りになっている。その周りを14~5人が囲んでいて、これから仕事納めのパーティをするからお前も参加しろとにこにこしながら言う。いいのかな~と思いつつも誘われるままにシャンパンで乾杯し、料理を食べて1時間ぐらい騒いだ。皆でハッピーニューイヤーと言い手を振り合いながら銀行を出たときにはすっかり楽しい気分になっていた。 酔い覚ましのために海岸沿いを歩いた。海風が気持ちいい。岸壁には古い砲台が海に向かって点々と並んでいる。その昔海からの敵を迎え撃つ要塞都市だったころの名残だ。石畳の小さな路地へ入ってみた。家々の壁はピンクや黄色、水色といったパステルカラーで彩られていてとても美しい。1時間程街を歩き回ってホテルへ帰った。 今日この町で出会った人たちは何だか気持ちがよかった。バスのチケットカウンターのおじさんも銀行の人たちも、できないことはできないとはっきり言い、それはそれとして楽しくやろうよというおおらかさや強さのようなものを感じた。自分ではどうにもできないことを気にしても仕方がない、やるだけやったらあとは楽しく過ごすのみ、ということだろうか。気がかりだったバスのチケットのことも小さなことのように思えてきた。 今日は今年の最後を飾るにふさわしい1日だった。本当に色々なことがあったが、終わってみれば素晴らしい1年だった。僕はユカタン半島のホテルの部屋で楽しく希望に満ちた気分で新年を迎えた。