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2024/02/22

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  • ’80s アメリカの旅54

    48. ダミアン ダミアンは、「よく来たな」と本当に嬉しそうに歓迎してくれた。迷ったけど来てよかったと僕は心の底から思った。僕らはソファーに座りコーヒーを飲みながら色んな話をした。イスラムヘーレスで別れてからたった数日しかたっていないのに随分話がはずんだ。少し話が込み入ってくるとベルタが英語で通訳をしてくれた。ベルタは英国に国費留学したこともある精神科医で、英語が上手だった。 演劇の話になったとき、ベルタが棚からハードカバーの立派な本を取り出して見せてくれた。演劇年鑑のようなものだろうか。そこに数ページを割いてダミアンの写真と紹介文が載っていた。ダミアンはどうやらメキシコではそれなりに名前が売れた俳優のようだ。アカデミックな舞台で活躍しているので貧しいけどねと笑いながら話してくれた。ベルタがダミアンをいかに誇りに思い、愛しているかが伝わってきた。 結局、僕はそのまま家に泊めてもらうことになった。その夜友達に紹介するといわれ近所の居酒屋に3人で出かけた。店に入るとダミアンと同じくらいの年の男性が2人テーブルで既にビールを飲んでいた。俳優仲間だそうだ。彼らの笑顔はダミアン同様人懐こく優しかった。そして僕らはすぐに打ち解けた。 メキシコでの日本の評判はすこぶるよかった。ソニー、日産、シチズン等いくつかの日本企業の名前をあげ日本人は素晴らしい製品を作るとても優秀な人たちだ。我々は日本が大好きだと言ってくれた。嬉しかった。僕も日本に帰ったら一生懸命働こうと思った。この夜僕はしこたま酔った。話がすっかり盛り上がり、気が付くとかなりのペースでビール、ラム、テキーラを飲んだ。皆で飲んだ酒は本当にうまかった。

  • ’80s アメリカの旅53

    47.ハラパ バスは1月2日の正午にダミアンの住むハラパに到着した。正直に言うと僕は最初ダミアンの家へ行くかどうか迷っていた。米国でも何度もうちに泊まりに来いと誘われたことがあった。そのたびに僕は断っていた。彼らは皆裕福そうで確かに人を泊めるぐらいの大きさの家に住んでいそうに見えた。だがゆきずりのよくわからない外国人の家に泊まりに行くのはさすがに危険だと思った。ダミアンはとても裕福には見えない。ただポクナで本当にいい人だと感じていたし、熱心に誘ってくれたので断れなかった。本当に大丈夫なんだろうかいう不安はあったが、とりあえず顔を出して、やばそうだったらすぐ退散しようと決めた。 ダミアンにもらった家の住所をもって街をうろうろいていると、若い女の子が声をかけてきた。知り合いの家を探していると言うと住所を教えろと言う。メモを見せると、近所だから連れて行ってやると言う。彼女の名前はエレナ。大学生で、年は20才ぐらいだろうか。英語がうまい。色白で笑顔が優しい美人だ。控えめな感じで照れ臭そうに話すが歩きながら街のことを親切に話してくれた。 ダミアンの家は歩いて7~8分の坂の途中にあった。大きくはないが小奇麗な平屋の1軒家だった。エレナが玄関で呼びかけるとすぐにダミアンが出てきた。僕を見ると満面の笑みで両手を広げて迎え入れてくれた。家に入ると奥さんのベルタが僕を明るい笑顔で迎えてくれた。美人だ。その瞬間それまでの不安が吹き飛んだ。こんなきれいな奥さんがいる人ならすごい人に違いないと直感的に思えた。げんきんなものだ。きれいな奥さんがいるというのはすごいことだ。 エレナがスペイン語で何か話している。おそらく自己紹介と僕を案内してくれた経緯なのだろう。別れ際僕に連絡先のメモを渡して自分の家はここから近いから是非遊びに来てくれと言った。そして僕の頬にキスをして恥ずかしそうに手を振りながら出て行った。僕はどうしていいかわからずボー然とエレナを見送った。横を見るとベルタが笑っていた。

  • ’80s アメリカの旅52

    47.元旦 8時半のバスまであと1時間。バスターミナルは元旦の夜にも関わらず大変な賑わいで、どのバスも満席の様子。こりゃだめかもしれない。もし空席がなかったらホテルに逆戻り。そして毎夜空席待ちでここに通うことになるのかと思うと憂鬱になる。正月早々きつい展開だ。バス会社の人に、「席がなければ床に座って行っても構わないんだけど」と言ってみたが、「そんなことはできない。危険だ。」とあっさり却下された。この辺は意外ときちんとしている。 バスが来た。満席に見えるがどうだろう。ドキドキしながら待っていると運よく空席が1つあった。これで何とかダミアンとの約束も果たせる。 振り返るとカンペチェにはいい思い出がいっぱいできた。バスの乗換のため訪れた半島の小さな町は僕にとって大切な場所になった。

  • 大宮薪能

    大宮の武蔵一宮氷川神社舞殿で行われた薪能を見てきました。 東北・上越新幹線の開業を記念して1982年5月に始まった大宮薪能は、回を重ねて今年で43回目。国内でも指折りの薪能と評されている。

  • 清龍酒造

    埼玉県蓮田市にある清流酒造の蔵元見学ツアーに参加しました。このツアーは見学後の試飲が豪勢なことでも知られており、予約開始日にほぼ埋まってしまうほどの人気ぶりで、私はキャンセル待ちで運よく席をゲットしました。 現地へは、蓮田駅西口からバスかタクシーで約5分。11半ごろバス停に行くとすでに大勢の客がバスを待っている。乗客の大半はツアー参加者で最寄りの下閏戸バス停に着くとほぼ全員が降車。何度も参加しているリピーターが多いため皆の後をついて行くと難なく集合場所に到着します。

  • ’80s アメリカの旅51

    45. ユカタンでの年越し 正月休み前にトラベラーズチェックを現金に換えておこうと銀行に行った。が、カウンターに誰もいない。オラ!と呼びかけると奥から行員らしき人が出てきて、今日は3時で閉店だと言う。時計を見ると3時10分。何とかならないかというと何ともならないという。そりゃそうだろう。いくらメキシコでも銀行だ。そんないいかげんなわけないよな。仕方ないとあきらめて帰ろうとしたところ、こっちに来いとその行員が奥の部屋から手招きする。対応してくれる気になったのかと少し期待して行ってみた。 部屋に入ると真ん中に置かれた大きな会議机に酒と食べ物が山盛りになっている。その周りを14~5人が囲んでいて、これから仕事納めのパーティをするからお前も参加しろとにこにこしながら言う。いいのかな~と思いつつも誘われるままにシャンパンで乾杯し、料理を食べて1時間ぐらい騒いだ。皆でハッピーニューイヤーと言い手を振り合いながら銀行を出たときにはすっかり楽しい気分になっていた。 酔い覚ましのために海岸沿いを歩いた。海風が気持ちいい。岸壁には古い砲台が海に向かって点々と並んでいる。その昔海からの敵を迎え撃つ要塞都市だったころの名残だ。石畳の小さな路地へ入ってみた。家々の壁はピンクや黄色、水色といったパステルカラーで彩られていてとても美しい。1時間程街を歩き回ってホテルへ帰った。 今日この町で出会った人たちは何だか気持ちがよかった。バスのチケットカウンターのおじさんも銀行の人たちも、できないことはできないとはっきり言い、それはそれとして楽しくやろうよというおおらかさや強さのようなものを感じた。自分ではどうにもできないことを気にしても仕方がない、やるだけやったらあとは楽しく過ごすのみ、ということだろうか。気がかりだったバスのチケットのことも小さなことのように思えてきた。 今日は今年の最後を飾るにふさわしい1日だった。本当に色々なことがあったが、終わってみれば素晴らしい1年だった。僕はユカタン半島のホテルの部屋で楽しく希望に満ちた気分で新年を迎えた。

  • ’80s アメリカの旅50

    44. カンペチェ 2晩過ごしたメリダを朝9時半に出発しカンペチェという町に昼の12時半に到着した。ここでバスを乗り換えてダミアンの待つハラパへ向かう予定だ。チケットカウンターで明日のバスのチケットを買いたいと言うと、予約が1月12日まで一杯だとの答えが返ってきた。バスに乗りたければ明日夜8時半にここに来るように言われた。カンペチェは始発ではなく中継地なので空きがあるかどうかはバスが来てみないとわからない。空席がなければ翌日のバスを待つしかないとのこと。 空席って結構あるもんなの?と聞いてみると、「難しいと思うよ。クリスマス休暇中だからね。バスは全部満席だよ。」との答えが返ってきた。バスは1日1本。今日は12月31日だから最悪の場合12日間この田舎町で過ごさなければならない。ダミアンとの約束の1月2日にも到底間に合わない。僕ができるのは明日のバスに偶然空席があるのを祈ることだけだ。 がっかりしてバスターミナルを出ようとしたところ、さっきのチケット売り場のおじさんがちょっと待てと声をかけてきた。ウインクしてにこにこしながら僕に二つ折りのメモを渡した。僕はハラパに行く何かいい方法がみつかったのかと思い期待に胸を高鳴らせながらメモを拡げた。そこには、”ME GUSTAS.”と書かれていた。何のことかわからずおじさんを見ると、「よかったな。彼女お前が気に入ったみたいだよ。」と言った。おじさんの視線の先にはチケットカウンターがあり、中に20才ぐらいの可愛らしい女の子が座っていた。恥ずかしそうにこっちを見てにこにこしている。きれいな女の子だった。予想外の出来事にどうしていいかわからず、照れ臭いのもあって軽く会釈をしてそそくさとターミナルを出た。 僕はとりあえず今日の宿泊先を探そうとガイドブックで近くのホテルをチェックした。ホテルカステルマー、1泊1,900ペソ。少し高いが、正月ぐらいはまともなホテルで迎えたい。部屋の端っこにバスタブがあるヨーロッパテイストのホテルで中々の高級感だ。

  • ’80s アメリカの旅49

    43.メリダで会った日本人 ホテルラティーノからカナダのガイドブックで見つけたマルガリータへ移った。1泊1,600ペソ。中々悪くない。外へ出ようとフロントに鍵を預けに行くと、マヤの模様っぽいベストと布の肩掛け鞄を身に着けた30代前半?の東洋人女性がチェックアウトをしていた。目があった瞬間どちらからともなく「こんにちは」と挨拶した。メキシコで初めて日本語を話した。 「どっぷり浸かってる感じですね。メキシコは長いんですか。」と聞くと、「3週間ぐらいかな。私は郷に入りては郷に従えの主義だから。」と彼女は笑いながら応えた。彼女の名前は田中さん。OLをしていたが広く世界を見たいという思いが抑えられなくなり、会社を辞めて1年前に旅に出た。ヨーロッパを南下したあとアルゼンチンに渡り米大陸を北上中とのことだ。女性の1人旅、しかも中南米とは何とも勇敢だ。しばらく話をしたあと彼女のバスの時間が迫ってきた為お互いの無事を祈って別れた。豪快な感じの人だったが、旅を終えたら結婚して子供を産みたい。いろんな事にチャレンジしてみたい。と少し照れ臭そうに言ったのが印象的だった。 メリダはハンモックが有名だそうだ。町のいたるところにハンモック屋がある。家につるして昼寝するのも楽しそうだと思いそのうちの1軒に入ってみた。狭い店内には色とりどりのハンモックが展示されていて見ているだけで楽しい。僕はそのうちの特に色遣いが華やかなひとつを買った。1,100ペソだった。面白い土産物を手に入れることができ少し満足だった。そのハンモックは結局その後一度も使わずじまいでいつのまにかどこかにいってしまった。

  • ’80s アメリカの旅48

    42.メリダ 3時間の滞在後3時過ぎにチチェンイッツァを出、5時半にメリダに着いた。この辺りになるとガイドブックの情報も貧弱でホテルの紹介も1軒のみ。しかも1泊2,600ペソと高い。ガイドブックに街の地図がないのも土地勘のない身にはこたえる。しばし考えているとバスで一緒だった4人組の女の子がどうしたのかと声をかけてくれた。このホテルに行きたいんだけどというと、親切にも連れて行ってあげると言う。彼女たちは地元の幼なじみだそうだ。17~8歳ぐらいだろうか。メキシコの女の子は人懐こく明るい人が多い。そして親切だ。ホテルは歩いて10分ぐらいの場所にあった。けっこう立派な建物だ。4人にお礼を言いチェックインした。高いだけあって部屋もまずまずだ。 夕方街をうろついているとカナダ人のバックパッカーに話しかけられた。彼はリュックを背負ってアメリカ大陸を南下中。旅に出て1か月とのこと。僕が街の情報があまりなくて困っていると言うと、カナダのガイドブックを見せてくれた。地球の歩き方のカナダ版といった感じだ。小さな田舎町の情報も豊富でメリダについても安くてうまそうなレストランやホテル、土産物屋などが紹介されている。海外の一人旅に関する情報やノウハウでは欧米に一日の長がある。ひとしきり情報交換をしたあと、目星をつけたホテルを2軒ほど見た。値段を考えるとまずまずだ。明日どちらかに移ることにしよう。 旅をしていると色んな人と知り合う。特に一人旅同士は仲間意識のようなものを感じ、相手が感じのいい奴の場合、お互いひとりの気楽さも手伝ってつい話し込んでしまったりする。その一方でおかしな奴もたまにいる。1番個性的だったのは、ホテルポクナで会ったドイツ人だ。いつも鉄カブトを被っていた。ぎょろっとした目をして常時意味不明のことを口走っていた。ダミアンはありゃなんだとあきれ顔だったし、アメリカ人のトムは、だから俺はドイツ人が嫌いなんだ、と笑いながら言った。そのドイツ人は一瞬にして場の雰囲気を変える強烈なインパクトを持っていた。いつの間にか現れていつの間にかいなくなった。

  • ’80s アメリカの旅47

    41. チチェンイッツァ 翌朝7時半の船で島を出た。チチェンイッツァ行のバスはカンクンを9時に出発した。バスは大変な混雑で到着までの3時間強の時間ずっと立ちっぱなしだった。網棚も一杯でリュックを置く場所もない。大きなリュックを背負って混んだバスに乗った僕はさぞかし迷惑だっただろうに、皆オーケー。オーケー。問題ない。などと言いながら親しげに話しかけてくれ、道中は本当に楽しかった。 チチェンイッツァはメキシコで最も有名な遺跡のひとつで、ユカタン州の州都であるメリダの東120キロの森の奥にある。遺跡は密林を突然切り拓いたかのような場所にいくつかの建造物が整然と立ち並ぶ。中心には神殿があり、急勾配の石段を上ると石造りの変わった形の像のような椅子(椅子のような像?)がある。近くには泉もありこの遺跡が神聖な場所で、偉い人が住んでいたのだろうことがうかがい知れる。

  • ’80s アメリカの旅46

    40.島での4日間 毎日ビーチに行き、同じ場所で寝転がっているうちに、アメリカ、カナダ、ヨーロッパと様々な地域から来た人たちと顔なじみになった。ビジネスマン、医者、大学教授と職業もいろいろ。みんな毎日ただビーチで体を焼いている。この暑い中本を読んでいる人もいる。 アメリカの大学教授であるボブの発案で昼食にタコスを作ったことがある。島のスーパーにアボカド、レモン、トルティーヤ、サルサ、ハラペーニョなどを買い出しに行き、ボブのホテルで料理(?)した。僕は勝手が解らないので雑用係だった。見た目はイマイチだったが、食べると意外にうまかった。ちなみにハラペーニョは恐ろしく辛いメキシコの青唐辛子だ。 島には、バレーボールとバスケットボールのコートが1面ずつある。夕方になるとビールを賭けた国別対抗戦が毎日行われた。僕はいつもバレーボールの混合チームに入った。大体、アメリカ対各国選抜チームの戦いだ。一杯飲んで酔っ払っている人も多いため、いつもぐだぐだのゲームだった。夕食は商店街に何軒かある食堂で食べた。店に入ると誰かしら知り合いがビールを飲んでいる。それに合流して毎夜騒いだ。ホテルに帰るとロビーでダミアンとチェスをしたり、話したりで時間を過ごした。辞書を使ってスペイン語と日本語を教え合ったりもした。ダミアンとはいつも一緒だった。 ダミアンは4日目の朝ホテルを発った。僕はこれからどうするのかと聞かれたので、ここであと一泊した後マヤの遺跡であるチチェンイッツァに寄ってシティに帰るつもりだと答えた。すると彼はハラパの自宅の住所を書いたメモをくれて、途中で泊まり来いと言ってくれた。悪いからいいよと僕が言うと、俺たちは友達だろ、と言っていつもの人懐こい笑顔で笑った。 ひとりになった僕は、レンタルバイクを借りて島を一周してみた。小さな島なので30分ぐらいで一周できるそうだ。島の突端に小さな遺跡があった。見渡す限りの海を背景にした遺跡に何か神々しいものを感じた。色々なところを見ながら1時間ほどかけて島を周った。車はほとんど走ってない。本当にのどかな島だ。

  • ’80s アメリカの旅45

    39.ホテルポクノ 船着き場からダウンタウンを抜けて15分ぐらい歩くとホテルポクノに着いた。このホテルは立地がよく、ダウンタウン、ココビーチに歩いて行ける。バックパッカーに人気の安宿だ。チェックインを済ませるとホテルの従業員がベッドに案内してくれた。宿泊場所は広いフロアーが一つ。そこに無数の二段ベッドが置いてある。ベッドはカーテンで覆われている。寝台車のようなイメージだろうか。宿泊客はそのベッドを1晩1,300ペソで借りる。シャワー、トイレは共同だ。リゾート地であることを考えるとまずまずの価格だろう。 案内されたベッドにいくと丁度上の段を借りたという人が現れた。よれよれのTシャツにジーパンを着たメキシコ人の男性だ。年は僕より少し上だろうか。人懐こい笑顔で、上と下とどっちがいいと聞いてきた。「僕は下だとフロントで言われたんだけど」と言うと、「そんなのかまわないよ。自分はどっちでもいいからもし上段がいいなら変わってあげるよ」とくりくりした目を子供のように輝かせて言った。僕は親切に甘えて上段に寝させてもらうことにした。 僕らは片言の英語で簡単な自己紹介をした。彼の名前はダミアン。クリスマスの休暇を利用してひとりでここに来たのだという。イスラムヘーレスが好きでここには何度か泊まっているのだという。自己紹介のあとビーチに行こうということになり2人でココビーチに出かけた。ここは島でもっとも人気のあるビーチで、遠浅の美しい海と白い砂浜が特長だ。ココビーチという名前もいい。ダミアンは人懐こい笑顔と気さくな性格で誰とでもすぐに仲よくなる。あっという間に人気者になってしまった。おかげで僕にもたくさんの友達ができた。

  • ’80s アメリカの旅44

    38.カリブの船旅 船着き場では30人ぐらいが出発を待っていた。カンクンからの日帰り客か軽装の人も多い。船が岸から離れてしばらくすると波が立ち始め、デッキに座る乗客にしぶきがかかった。そのたびに〝オー〟〝ゥワオゥ〟などと大げさな歓声が上がり皆大騒ぎだった。僕は荷物を濡らしたくないのもあり早めに船室に入った。デッキに残っているのはほとんどアメリカ人のみだった。彼らは沖にでるに従い大きくなる波を被っては喜んでいる。僕はアメリカ人ってほんとにタフで陽気だなあと感心して見ていた。 波を被り続けて10分ほど経っただろうか。この頃には波は頭から被るほどに大きくなっていた。既に船室は満員で、デッキから動くに動けないアメリカ人たちは無表情でお通夜のようシーンと静まり返っていた。やっぱりアメリカ人もこんなになったら陽気じゃあいられないんだと妙に納得した。 島の船着き場の正面に小さな食堂があったので遅めの昼食をとった。新鮮な魚介類が売りとのことなので、ロブスターを注文してみた。しばらくすると塩茹での巨大なロブスターが皿に乗って出てきた。1匹まるごとで、殻をむいているにもかかわらず皿からはみだすほどの大きさだ。それにレモンを絞ってマヨネーズをつけて食べた。うまかった。これだけでもこの島に来たかいがあった。

  • ’80s アメリカの旅43

    37.イスラムヘーレス カンクンはメキシコが誇る世界有数の高級リゾートだ。バスはクリスマスの正午にカンクンに到着した。26時間の旅ですっかり仲良くなった乗客たちはコスメル島など途中のリゾート地で別れを惜しみながら降りていき、わずかな人数のみがこの終点まで残っていた。高地にあるシティーと異なりカリブの太陽は眩しく真夏のように暑い。昨日まで肌寒かったぐらいなのに。とても同じ国だとは思えない。僕は皆に別れの挨拶をして船着き場に向かった。 僕の目的地はここから船で30分程度の距離にある小島だ。ガイドブックによると、大規模開発されたカンクンと異なり素朴でアットホームな雰囲気があるという。物価もカンクンより随分安いらしい。島の名前「イスラムヘーレス」が日本語に訳すと「女護が島」であることにも魅かれた。さぞかし美人が多いのだろうと期待してしまう。一般にあまり知られていないこの島は知る人ぞ知る存在であり、多くの旅行者が訪れるらしい。 地球の歩き方によると、美人の吸引力は侮どれないらしい。中南米に3Cと呼ばれる美人の産地がある。コロンビア、チリ、コスタリカだ。これらはどれもゲリラがうようよいる政情不安な地域にある。それにも関わらず訪れる旅行者は後を絶たないそうだ。美人に会いたいから、それだけの理由で皆危険を冒してこの国を目指すのだという。ハードな旅行を続けていると、桃源郷で一休みしたいと思う気持ちがわかるような気がしてくる。

  • ’80s アメリカの旅42

    36.クリスマスイブ 夜8時ごろだっただろうか、運転手が突然何か言ったかと思うと、乗客が歓声を上げた。そしてすぐにわいわい言いながら帽子のようなものを回し始めた。事情がわからずにいると隣席の女性(かなりの美人)が、「今日はクリスマスイブだからワインで乾杯することになったの。賛同してくれるなら運転手の帽子に好きなだけの金額でいいのでカンパしてね。」といった。僕が帽子にお金を入れたときには既にかなりの金額が集まっていた。 バスは幹線道路からはずれて住宅のすきまの細い路地を縫うようにしてゆっくり走っている。路線から外れて走るバスなんて日本ではまずお目にかかれないだろう。やがて小さな店の前で停まった。運転手が店に入って行く。店の人となにやら楽しげに話しているのが見える。暖かそうな店の明かりをぼんやり見ていると、運転手が脇に大きな紙袋を抱えて帰ってきた。そして何人かの乗客と協力して紙コップにワインをそそぎ、客席に次々に廻した。まるで映画をひとコマひとコマ見ているような幻想的な光景だ。なんだか夢を見ているようだ。 全員にコップがゆきわたると運転手が笑顔で何か言った。するとみんな僕のほうを向いた。にこにこしながらじっと僕を見ている。何が起こったかわからずにいると、隣の美人が、今夜は日本からの友人がバスに載ってくれている。彼に乾杯の発声をしてもらおう。と運転手が言い、みんな乾杯を待っているのだと教えてくれた。「乾杯ってメキシコでは何て言うの」と僕は聞いた。「サルーよ」と彼女が応えた。 僕は照れ臭かったけど、大きな声で「サルー」と言って紙コップを頭上に掲げた。バスの全員が「サルー」と唱和した。みんな笑顔だった。最高のクリスマスイブだった。忘れられない夜になった。

  • ’80s アメリカの旅41

    35.ユカタン半島へ 乗客で満車のバスは朝9時45分に東ターミナルを出発した。目的地のカンクンには26時間後の明日正午に到着予定だ。バスは満席でわいわいと騒がしい。みんな陽気で明るい。いい感じだ。 アメリカ人も社交的で隣に座ると話しかけてきたものだが、どことなくドライな雰囲気があった。そこにいくと、メキシコ人はウエットで温かみを感じる。挨拶の言葉も「オラ!」で「ハロー」や「ハイ」と比べてなんか愛嬌がある。まわりの人たちはとにかく人懐っこい。僕がスペイン語を話せないと知ると片言の英語で話しかけてくる。日本から来たというと皆一様に驚き、そんな遠くから来てくれてうれしいと喜んでくれる。休憩時間も皆なにかと世話を焼いてくれ、遠方からの客に対するもてなしの心を感じる。子供たちも遠巻きに恥ずかしそうにこっちを見ていたりする。バスで会った人たちは、シティーで会った観光客慣れしたメキシコ人とはまるで違う接し方をしてくれた。 メキシコの道路はアメリカとは随分雰囲気が異なる。まるで昨日まで人や動物用だった道の真ん中にある日突然アスファルトを乗せて車が通れるようにした感じだ。したがって歩道は土のまんまだ。アスファルトが傷んだところも多いし、よほどの中心街を除いて街灯もほとんどない。市街地の道路には一定間隔でハンプとよばれるこぶ状の突起が設けられており、いやでも減速せざるをえない仕組みになっている。ドライバーの良心に頼るだけでなく、安全確保の工夫をインフラに加えている。意外ときちんとしているというべきなのか。それとも放っておけば人は悪事を働くという性悪説の故なのか。性善説で社会の仕組みを構築できている日本は恵まれているのかもしれない。

  • ’80s アメリカの旅40

    34.マリアッチ広場 今日も空が灰色に霞んでいる。スモッグのせいとのことだ。これもシティー名物のひとつらしい。とにかくここには名物が目白押しだ。今日はユカタン半島のビーチリゾートであるカンクン行のバスチケットを買うために東ターミナルに来た。クリスマスシーズンのせいで大変な混雑だ。運よくチケットを手に入れたものの3時間もかかった。バスの切符を買うのにこんなに並んだのは初めてだ。エアコン付のバス片道9,110ペソ。3,600円ほどだ。 チケットを無事購入したあとソナロッソに行き、明日からの旅に備えて100ドルを両替した。料率をみると妙に円が高い。日本で両替したときは1ドル204円だったのが180円になっている。日本円はメキシコでは人気があるのだろうか。両替のあと郵便局に行き日本にはがきを出した。よく考えたら日本を出て以来ずっと両親に連絡していなかった。少しは安心してもらえるだろうか。思えば随分遠くへ来たものだ。 ホテルへの帰り道マリアッチ広場を通りかかると多くのマリアッチが演奏していた。マリアッチは日本でいう流しのようなもので、幾人かで構成された楽団がリクエストに応じて演奏してくれる。メンバー構成はグループ毎で様々だ。クリスマスイブを間近に控えたこの夜はカップルの客が多く、ロマンチックな曲が至るところから聞こえてきた。 しばらく演奏を聴いた後ホテルへ帰った。9時ごろだった。ホテルの前の路地で、小学校の3~4年生ぐらいだろうか、男の子3人がサッカーをしていた。この寒空の下裸足だ。足が冷たくないのかと気になったが、顔を見るととても楽しそうだった。メキシコではサッカーが随分人気のようだ。 ホテルでシャワーを浴びた。今日も水は冷たい。その後、市場で買った500ペソのハーフサイズチキンとテカテでシティー最後の晩餐を飾った。そして明日からのユカタンの旅に胸を躍らせながらベッドに入った。

  • ’80s アメリカの旅39

    33.闘牛 今日はメキシコ名物の一つである闘牛を見に行くつもりだ。朝10時にホテルを出て11時頃プラザ・デ・メヒコに着いた。プラザ・デ・メヒコは世界最大の闘牛場で6万4000人収容できるそうだ。メキシコ人がこれほど闘牛好きとは知らなかった。チケットは、2種類あり、日陰900ペソ、日なた500ペソと倍近く値段が違う。もちろん安い日なたの席を買った。チケットを購入したあと昼食がてら辺りをうろついて時間をつぶした。プラザ近くのカフェで食べたランチはサンドイッチとミルクセーキで925ペソ。観光地の物価が高いのは世界共通だ。 開始時間の午後4時に合わせて会場に入った。僕の席は中段の5列目だった。幸運なことに曇り空のため日なたも日陰も関係なく快適だった。その日は5、6頭の闘牛が行われた。観客は大変な盛り上がりだったのだが、正直あまり面白いとは思えなかった。何人かの闘牛士が1頭の牛をよってたかってなぶり殺しにする。見ていて決して気持ちいいものではない。想像していた闘牛士と闘牛の華麗な一騎打ちとは随分異なった。そもそもこの牛たちは闘牛という通常とは違う牛なのだろうかなどと考えたりもした。どうも闘牛は僕にはあまり向かないようだ。 闘牛は6時に終わった。バスでインスルヘンテスのメトロ駅へ行き、ソカロに着いたのは7時15分だった。しばらくソカロの辺りをぶらぶらした。周辺はクリスマスで大変な盛り上がりだ。8時過ぎにホテルの部屋へ帰るとシーツがなく枕カバーもタオルも変えていない。ホテルのフロントに文句を言うと、シーツがないのでそのまま寝ろ。明日の朝替えてやる。と言われた。それなら隣の部屋のシーツをとってくるぞと言うと、少し待ってくれと慌てて洗濯屋へ電話した。しばらくしてホテルの従業員がシーツと枕カバーとタオルを取り替えて行った。9時過ぎていた。

  • ’80s アメリカの旅38

    32.世界一高いビル 目が覚めると日が高い。もう12時だ。のそのそと部屋を出て。ソカロへ行ってみた。土曜日で家族連れも多く、賑わっている。ガイドブックによると、このソカロはマリアッチ広場という名前で、夜になると楽器をもったマリアッチがそこここで演奏をする観光の名所なのだそうだ。広場の正面にはメキシコ人が世界一高いビルだと胸を張るラテンアメリカタワーがある。建物自体は44階建てでそれほど高いわけではないのだが、シティーが海抜2,230メートルと高地にあるため世界一というオチらしい。 明日プラザ・デ・メヒコへ行くつもりなので、その下見を兼ねて昼食をソナロッサで食べようと思い、広場からメトロに乗った。ソナロッサはメキシコ一の繁華街といわれるだけあって大変な賑わいで、色んな店がある。思ったよりも近代的でしゃれた雰囲気の街だ。歩いていると日本料理店があった。メキシコの日本料理ってどんなんだろうと興味がわいたので入ってみた。この店で味噌ラーメンと煎茶を注文する。日本円で約300円。日本のものと少し味が違うが久しぶりのラーメンと日本茶はうまかった。 夕方ソカロに戻りラテンアメリカタワーに上って夜景を見た。まずまずといった景色だろうか。夜景を見ながら、クリスマスシーズンのバス、ホテルの確保は大変らしいがユカタン方面にも行ってみたい、などとぼんやり考えた。

  • ’80s アメリカの旅37

    31.メキシコシティ 午後1時。バスは1時間遅れでシティーの北ターミナルに到着。皆スペイン語を話している。全く分からない。バスには英語が話せる人が何人かいて助かった。そのうちのひとりのおばさんが食事休憩で、シティーではBe most carefulだよ!といった。とてもあぶないところで、知らない人には細心の注意をしろという。1人旅だというと、バスで知り合った人みんながメキシコに知り合いはいないのかと聞く。いないというとみんな心配してくれた。ありがたいが不安になった。 デポからソカロと呼ばれる街の中心の広場まではメトロで行った。ニューヨークの地下鉄とは比較にならないほどきれいで安全だった。夜はどうなのだろう。ガイドブックで探したシティーでの宿泊先と決めていたモンテカルロホテルに行ってみると地震でぶっ壊れていた。初日からこれとは。メキシコもなかなか手強そうだ。 結局フロントのおじさんが紹介してくれたホテルモネダに泊まった。バス、トイレ付1泊600円。メキシコは物価が安い(半年前に行ったインドほどではないが)。シャワーは水しか出ないがソカロに近く立地もいい。この値段なら悪くない部屋だ。日本人旅行者が少ないせいかアメリカ、ヨーロッパに比べてガイドブックの情報も圧倒的に不足している。これからは現地での情報収集が更に重要だ。 荷物を置いてソカロへ行ってみた。黄色やオレンジ色といったきれいなツートンカラーのワーゲンがたくさん走っている。メキシコのタクシーは全てフォルクスワーゲンのビートルで、色でグレードを分けている。結局旅の間一度も乗ることはなかったが、ちょっと乗ってみたくなった。 ソカロの向こうに市場があった。ケースの中でゆっくり回しながら沢山のローストチキンを焼く店、でっかいデコレーションケーキを店先に何個も並べている店と、市場はクリスマスシーズンの活気で溢れかえっていた。大きなローストチキン1羽980ペソ、2段重ねのでかいデコレーションケーキ1,000ペソ。1ペソ0.4円程度だからいずれも4,100円程度で買える。その夜は市場で買ったタコスをホテルの部屋で食べた。うまかった。メキシコのビール「テカテ」とタコスでメキシコの第1夜を祝いながら、料理もうまいし物価も安い。メキシコ結構いいじゃないかと、ひとり盛り上がった。

  • ’80s アメリカの旅36

    30.メキシコへ 朝7時半にユースを出てリオグランデ川に架かる橋を徒歩で渡って国境を越えた。入国審査は簡単だった。メキシコに入ると時間は1時間進んだ。メキシコ側の町はファレス。12月19日。今日からいよいよ三つ目の国メキシコでの旅が始まった。そのままバスのデポへ向かった。ここからはグレーハウンドのパスは使えない。 窓口で料金を払ってメキシコシティーまでのチケットを購入した。バスは10時に出発し翌日正午にメキシコシティーに到着の予定。26時間の長旅だ。チワワで一泊しようか迷ったが、バスの窓口がクリスマスシーズンでチワワは大混雑しており予約なしでチケットを入手するのは困難と教えてくれたので諦めた。グレーハウンドと異なりバスが一杯になったら乗せてくれない。これからはできるだけ事前予約をしなければならない。現在朝9時。出発まであと1時間だ。

  • ’80s アメリカの旅35

    29.エルパソ 昨朝8時50分にラスベガスを出て、フェニックスで乗り換え今朝6時半に21時間半のバス旅を経てアメリカ最後の町エルパソに着いた。明日ここからリオグランデ川を渡ってメキシコに入国するつもりだ。ここではユースに泊まってみた。4人部屋で、バス・トイレは二部屋にひとつ。町のはずれではあるがユースにしては比較的立地が良い。 この日は空いていて同室客は他にー人のみ。フロントが気を利かせてくれたのか日本人だった。彼は結構長くここにいるとのことで、ロサンゼルスから入国してラスベガス、エルパソと来たそうだ。このユースで帰国までの時間を過ごし、またロサンゼルス経由で帰国するとのことだ。 僕がメキシコに行くと言うと、俺もメキシコに行ってみたいと言った。本当に行きたそうに見えたので、近いんだし行けばいいよ。ここからなら歩いてでも行けるんじゃないか。と言うと、「いいよ別に。俺は一か所に滞在して現地の生活に触れる旅をしたいからさ。」とのこと。肩透かしを食った気分だ。 それから彼はベッドに座り水筒に入れたジャックダニエルを蓋に移してちびちびとうまそうに飲みながら、問わず語りに話し始めた。大半はYMCAで知り合った幾人かの日本人たちから聞いた旅の体験談だった。そんなふうにちびちび飲みながら話して1日過ごすのがここでの日課なのだそうだ。

  • ’80s アメリカの旅34

    28.ラスベガス(2) 中心街は通りの両脇にカジノが立ち並び、制服を着た呼び込みの若い女の人が各店の入口に立っていて活気があり、華やかで楽しい雰囲気だった。この辺りは中小のカジノが立ち並ぶエリアだ。試しにそのうちの1軒に入ってみた。入口で成人であることを証明する為にパスポートを提示。ラスベガスはカジノ入場の際、飲酒の際に必ず年齢を確認する。このあたりはかなり厳格な運営になっているようだ。 中はライトがキラキラと輝く映画などで見た通りのゴージャスな世界だ。ポーカー、ブラックジャック、ルーレット、スロットマシーンなどいろいろ試してみた。ポーカーはルールもよくわからず全然勝てない。スロットマシーン、ルーレットは単純でつまらない。1番気に入ったのはブラックジャックだ。カジノでギャンブルをやっている感も味わえ、ルールも分りやすい。初心者にはお勧めだ。 1番レートの低い掛け金2ドルの卓でプレーした。レートが低いせいかまわりの顧客、ディーラーともに張りつめた雰囲気は全くない。このなかで貧乏旅行の僕だけが異様に真剣に勝負に臨んでいた。そのせいか2時間程粘った後、10ドル勝つことができた。その間一応バニーガールの持ってきたカクテルを受け取り、チップを渡し、とカジノの気分を一通り味わうこともできて満足した。 わずか10ドルではあるが(しかもディーラーがテキトーに力を抜いていたのだが)、本場のカジノで勝てたと素直にうれしかった。だが後で考えてみると、皆がいいかげんにやっているなかひとり真剣にやったのだから、勝って当たり前だったのではなかろうか。誰よりも真剣にやれば案外1番になれるものなのかもしれない、と学べた気がした貴重な体験だった。 大通りにある有名な高級カジノ サーカス・サーカスにも行ってみた。ゴージャスなこのカジノでも低いレートのブラックジャックをやった。ここでも少額勝った。そしてこのあたりで、ギャンブルには少し飽きてきた。 振り返ってみると、僕にとってラスベガスの最大の魅力は、安くてうまいご飯と居心地の良いホテル、ゴージャスな雰囲気の中で飲む安い酒だったように思う。それにつられてか、結局ここに2泊した。ここでも楽しい思い出がたくさんできた。カジノで買ったトランプは大切なお土産だ。

  • ’80s アメリカの旅33

    28.ラスベガス(1) 朝6時半にラスベガスのデポに着いた。バス乗り場にもちゃんとスロットマシンがある。さすがだ。朝食は7時ごろから食べられるらしいのでとりあえずガイドブックを見て近所のホテルへ行って見た。ラスベガスでは安くておいしいビュッフェ形式の食べ放題の食事がウリらしい。1.34ドル、273円でこの値段とボリュームとはすごい。デザートも種類と量が豊富だ。セルフ方式のソフトクリームメーカーまである。バニラ、ストロベリーとフレーバーのバラエティも用意されている。ここで初めて自分でソフトクリームを作った。うまくウズを巻くのはなかなか大変だ。 いままで貧しい食生活を送ってきたせいかとても食べきれない量の食べ物をつい皿にとってしまう。食べ過ぎてお腹がパンパンになった。普段は食べられる量しかお皿にとらないのに、お腹が減っていると食べられないとわかっていてもとってしまう。 腹ごしらえを終えると街外れの「ネバダホテル」というモーテルにチェックインした。ツインルームでかなり広い。この街は食事とホテルが安い。できるだけ快適な環境を提供して長く滞在してもらい、カジノでがっぽり儲けようという作戦らしい。 ホテルでシャワーを浴び、少し仮眠をとった後、いよいよカジノに繰り出した。モーテルのフロントには食事・ショーの割引、近くのアトラクション等様々なクーポンが置いてあった。ディナービュッフェ1ドル引き(3.74ドルが2.74ドル)などめぼしいものを一通りサブザックに詰めて外に出た。

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