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  • 継体持統⑭:入鹿が目指した未来

    日本書紀の蘇我氏悪役歴史観により悪様に描かれる蘇我入鹿。実際の蘇我入鹿は何を考えて行動していたのか? 極めて有能であった入鹿 日本書紀は蘇我氏を悪役に仕立てているため、入鹿に対しては悪意をもった解釈でしか描かれていない。 本当の入鹿はどんな人物だったのか。 奈良時代の藤原仲麻呂が書いた藤氏家伝では、入鹿は極めて有能であったと描かれている。藤氏家伝は藤原仲麻呂による脚色の多い小説みたいな記録との分析があるが、奈良時代において蘇我入鹿を有能と描いても不自然ではなかったとは解釈できる。 実際、有能でなければ日本書紀も悪様には描けなかったであろう。 入鹿が生きた時代の背景 蘇我氏はもともと朝鮮半島情勢…

  • 継体持統⑬:上宮王家滅亡事件と皇極天皇の関与

    643年に山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた上宮王家滅亡事件。系図を見ると用明天皇後裔一族のほぼ全員が殺されているのがわかる。凄まじい皆殺し事件である。 皇極天皇の関与 皇極天皇は事件に関与していたのであろうか。 皇極天皇の前夫の高向王が泊瀬王の義兄弟との解釈が正しいとすると、628年の政変時に、皇極天皇は舒明天皇+山背大兄王+蘇我蝦夷陣営に対し、相当な恨みを持っていた可能性がある。 593年に聖徳太子は崇峻天皇=泊瀬部天皇の後継の地位を継承したが、この崇峻天皇の資産を継承したのが名前からすると聖徳太子第二皇子の泊瀬王である。 628年推古天皇崩御時、聖徳太子の最有力後継者はおそらく泊瀬王であっ…

  • 継体持統⑫:上宮王家滅亡事件の真相

    643年に山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた事件。641年舒明天皇崩御を契機とした政変である。 事件の経緯 日本書紀による経緯は以下の通り。641年10月 舒明天皇崩御642年1月 皇極天皇即位642年12月 舒明天皇の喪葬の儀643年9月6日 舒明天皇を押坂陵に葬る643年9月11日 吉備嶋皇祖母命薨去643年9月17日 皇祖母命喪葬の儀643年9月19日 皇祖母命を葬る643年10月6日 蘇我蝦夷病気で出仕せず、紫冠を入鹿に授ける。643年10月12日 蘇我入鹿、上宮王家諸王を排し、古人大兄王擁立を謀る643年11月斑鳩宮襲撃。山背大兄王一族集団自決。入鹿の行動に蝦夷が怒り罵る。(なお、上宮…

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