死後の世界を何となく思っている人にとって、この世と次の世との狭間で気がかりな、ひとつの疑問があります。それは、生前親しかった人々の再会は望めるのかということです。
僧侶だった頃の経験も合わせて忘備録として書いています。
僧侶だった頃の経験を交えながら、目に見えない世界を通して見えてきたことを中心に書いていきたいと思っています。
死後の世界を何となく思っている人にとって、この世と次の世との狭間で気がかりな、ひとつの疑問があります。それは、生前親しかった人々の再会は望めるのかということです。
煩悩を欲望と混同されることが多いようなですので、今回さらに煩悩についてわたしの解釈を記事にしてみました。
今回は、あの世では、足かせになってしまう、誰でもが持つかもしれない執著について考えてみました。
仏教が宗教化して数千年。わたしたちは、仏教の本質を見通せない現状に気が付いてもいません。如何にこころにお釈迦さまの言葉を認知させることが出来るかで、二世の行く末が左右されます。
漫画・アニメの作品から感じたことを記事にしました。現代の日本は「今」がただ上塗りされていくだけの社会です。そこから見えてくる現状への課題を考えてみました。
タイトルが「元僧侶の独り言」と変更になった経緯とこれからの抱負などを書いています。
現代における日本の仏教は目に見えない世界を肯定していません。その要因をたどるとインド哲学に行き当たります。今回の記事は少し難しくなりますが、お付き合いいただければと思います。
煩悩の滅徐に通じる行としての瞑想について、手順と手法について解説してみました。
はじめに このブログを読み進めていく内に、これから瞑想で行でもはじめてみようかなと思っている方に、前もって知っておいてほしいことがあります。それは、今回取り上げている呼吸についてです。 画像はイメージです。 瞑想と呼吸とは、密接に関係してい
禅定を仏教の修行の観点から考察してみました。修行としての禅定には、そんな意味があるのかをできるだけ簡潔に記事にしてみました。
生老病死は、お釈迦さまも修行の際取り組んだ人の性です。数々の書籍や動画で克服法や思い方の解説がなされています。本当に、その解決法はあるのでしょうか?
「無我」とは、分かり難いこともあってか、お釈迦さまの教えの中でも論考の多い項目です。論述する必要性を感じているわけではありませんが、わたしが感得したことを書いておきたいと思いました。今回で108記事目となり、煩悩の数と掛けているわけではありませんが、当面の終了とさせていただきます。今後も更新などは、行っていこうと思っております。
今年2024年を、ブログの記事と今後の方針と共に振り返ってみました。
縁とは、わたしたちを取り巻いている目に見えない繋がりです。個々からはじまり、さながら血液のように循環しながら人を生かしている不思議な要素です。
はじめに わたしたちは、さながら言葉を発するように文字を書いています。忘れずにメモったり、日々の出来事を日記に残したり、街中を見渡せば装飾された文字で溢れかえっています。 文字に記すという文化は、主流をネットへと移行しつつある今でも、わたし
わたしたちは幸せを求めて生きています。そのカギは、すべてこころを如何に治めていくかにかかっています。
中世日本に発展した日本仏教。中世の時間尺度と合わせて、現代における仏教の問題点を考察していきます。
中高年になると若い頃には思ってもみなかった様々な思いが浮かんできます。中高年が陥りがちな悩みを特集している記事を元に、わたしなりの見解を書いてみました。
経済発展から、現代の情報化社会に至る最大の弊害は、人々の「わたし」における気持ちとこころとの乖離であるとわたしは思っています。その乖離について考察してみました。
このブログにはその趣旨について【ブログについて】を掲載しています。心境・信条の変化から、旧ブログについては忘備録として残し、ここに修正することにいたしました。
カラダの健康を保つには、決まった法則があります。実はこころとカラダには密接な関係があります。にもかかわらず、食や生活環境など目に見えるところばかりが注目されています。カラダとこころの関係について考えてみました。
忙しない現代では、常に結果や効果を求めタイパを求めています。仏教は宇宙やミクロの世界をも表わしている時間の概念を内包しています。そんな現代にあって、時間と仏教の関係を考察してみました。
西洋文化から芋ずる式に入ってきた個人主義。ネット社会を起点にして、今やいかに情報をたくさん持ち発信するかに価値観は変化し情報主義とも言える世界が広がってきています。そんな時代において、なおさら「わたし」に立ち返って行く意義を考えてみました。
わたしは大乗の寺院で出家したものの、過去生において現代の初期仏教に近い修行過程にあることを知りました。相反すると言って良い教義を内包するわたしが、日々感じていることをまとめてみました。
普段改めて考えることない「わたし」について。お釈迦さまの教えの焦点であることは、知る人ぞ知ることです。今回は、この愛おしくもあり、煩わしいこともある「わたし」について改めて考えてみました。
親ガチャなど悲しい言葉がはやる世相から、家族のあり方を考えてみました。
意識と時間という言葉から、解脱についてとりとめのないお話しをしてみました。
インドにおけるヒンズー教のように、広がらなかった日本仏教。その衰退の要因と仏教の今後について考えてみました。
不安な日々にある人々にとって、真の幸せとは何なのか考えてみました。
根本分裂から興った仏教の様々な形態。その中でも大乗仏教と南伝仏教を取り上げ、出家者、在家者における修行の在り方を考えてみました。
解脱とはこころと体の癒着を剥がしていくことです。長い時間がかかる気の遠くなりそうなお話しですが、始めなければ何も変わりません。今回は、過去生を知ったことで解脱についてわかってきたことを記事にいたしました。
昨今の政治の腐敗は目に余るものがあります。それは、他人の幸せを自分の幸せと捉え切れない狭い了見が、人々の間に蔓延している証左です。
昨年2023年の3月、今世と深く結びついた決定的な過去生を思い出してしまいました。今回の記事は、過去生から見えてきた仏教の真実についてご紹介したいと思います。
現在インドでは仏教はヒンズー教に取り込まれ、聖地を含めてその管理下にあります。ヒンズー教と日本の曖昧な宗教観はとても近く、鎌倉時代から続く日本における仏教も、実はインドでのヒンズー教下の仏教と似たような状況下にあるのではないかと思っています。
聖地で瞑想を行う西洋人たち。彼らの目的はわかりませんが、聖地で瞑想しても意味がないことを気付かせる瞑想に早く移行して頂きたいですね。
とてもなじみ深い節分の豆まきの掛け声に、仏教的意味を見出してみました。
インドから帰ってきました。簡単な感想とインドでの印象など記事にしました。また印象に残った出来事を短く動画で紹介しています。
しばらくの間、インドに行ってきます。
一時はコンビニよりも多いとされたお寺も減少が急速に進み、生き残る仏教施設は文化財かきれいな庭園くらいだと思われます。その衰退の問題を出家者のあり方を中心に書いてみました。
注意)以下の記事には、生死に関わるセンシティブな内容が含まれています。 特に気の弱い方や神経質な方、霊感の強い方は、 できるだけ読まないようお願いいたします。 はじめに 目に見えない世界の見え方は僧侶によって様々です。霊感の取り方と
出家前に参加した寺院のワークショップ後に経験した出来事を記事にしました。
仏種(ぶっしゅ)とは、誰でもこころの中にある聖人になるための種です。これを育み大きくしていくことが、人として生まれた理由なのです。そんな仏種を今回取り上げてみました。
「ノアの方舟と三界の火宅」に続いて、キリスト教の概念とともに法華経の罪障という言葉に迫ってみました。
ノアの箱舟と三界の火宅、2つのことなる宗教におけるお話しの簡単な説明からその共通点について記事にしてみました。
お釈迦さまの言葉の中に「塔を建てて供養すべし」とあります。他の大切な教えの中では、見落とされがちな言葉ですが、実は人にとってもっとも基本的な教えでなのです。この塔の意味合いとその歴史について記事にしてみました。
わたしは若い頃に、今にしては少し恥ずかしいある種の価値観をもって生きていました。その価値観のとは人の価値についてです。わたしの若き日の迷走と経緯を記事にしてみました。
どのような成り立ちからかは知れませんが、霊の通り道というのがあります。わたしの家で起こった霊の通り道にまつわる出来事です。
ネット社会は、自由な発言を享受できる一方、こころない発言は人を簡単に傷つけてしまう諸刃の刃です。目に見えない世界から観たネット社会の現状を記事にしてみました。
目に見えない世界では、人生のカギを握る大切なキーワードがあります。そんな言葉について、記事にしてみました。
少し遅くはなりましたが、わたしが出家に至った体験談を記事にしてみました。とても信じられないとは思いますが、脚色も何もない偽りのない事実です。
20年以上前にマトリックスという映画がありました。表面上は、SF娯楽大作ですが、人の世の仕組みについても少し考えさせられる映画です。そんなことを記事にしてみました。
修行によって培われた目には、表に出さない、表に出ない内面が映る様になります。そんな事情を書いてみました。
このブログを始めて半年近くが経ちました。伝えることの難しさを身をもって知ることもできました。一方で、この説教じみた記事に、お付き合い頂き深く感謝申し上げます。
三連休の初日、行楽地は人でいっぱいなことでしょう。習慣の散歩をしている途中行き当たった古家で、少し思いを巡らせてみました。
煩悩の正体を知ることは、自分を知ることにもなります。一方、煩悩を執著まで拗らせないで、煩悩のまま生きることは生きがいにもつながります。仏教用語である煩悩を再考してみました。
現代は生きづらい世の中です。一旦レールから外れてしまうとなかなか修正できない、難しいかじ取りが要求される時代です。失敗に対して寛容ではない社会のため、余裕のない人々で溢れかえっています。そんな時代だからこそ、自分をもう一度見つめ直してほしいと思っています。
世渡りは難しく、人の世を生き抜くのはとても難しいことです。目に見えない世界を信じている利点を生かした思い換えは、生きていくための智慧のひとつです。
祈祷も行う僧侶として、簡単に祈祷について改めて記事にしてみました。神についても少し触れていますので、参考にしてください。
毎日作っている食事について、わたしの修行時代の経験を交えながら記事にしました。
週末の午後、このブログで大切なことをまとめてみました。たったひとつでも、この記事の中に琴線に触れる言葉があれば、たったひとりでも自分を見直して頂ければ幸甚です。
わたしはひどい近視です。年を取るにつれ、目で見る人はボケていく一方ですが、人を見る目は修行で養うことができます。
本日は母の月命日で、今年は十七回忌にあたります。いつも笑顔で、わたしを育ててくれた母について書いてみました。
僧侶の独り言でもっとも主張したいことを改めて記事にしてみました。あなたのこころは、人類の未来に繋がっていることを気が付いてほしいと願っています。
昔見た映画と叔父が無くなった時のことを合わせて思い出して、つれうれに書いてみました。
因縁・因果は、人と人との間で起こるだけではありません。モノにも宿り、それを解消していく力が働きます。そんな事例を記事にしてみました。
やっと秋っぽくなってきた夜長に。生と死の境界について、いっしょに考えてみませんか。
昨日の記事中、四聖という言葉の補足解説です。
人には、自分の人生を花咲かせるように、持って生まれた「稟」というものがあります。この難しい漢字に秘められた教えを記事にしてみました。
禅定の学術的な観点を少し補足して、禅定に取り組むべき心構えを書いてみました。
誰でも一度は名前を聞いたことはあるが詳しくは知らない。お釈迦さまもそのうちの一人だと思います。なぜ、わたしがお釈迦さまを信奉しているのか、お釈迦さまについて少し触れてみました。
瞑想について今回は禅定と瞑想の違いについてです。混同されがちな二つの言葉について簡単にまとめてみました。
障りについて、少しわかりやすく記事にしてみました。結局、障りの根源は因縁であり、それを起こすものは人のこころなのです。
目に見えない世界を手放しで話せない社会について、止めどもなく書いてみました。結論はありませんが、手探りで進んでいくしかありません。
死を恥と捉え、死を遠ざけていく現代社会。個の時代が進んでいくと、自分の周りには、自分の好みだけを置くように、見る様になっていきます。その行く末が心配される昨今です。
たまには僧侶らしく法話をしてみたいと思います。人の人生にとって、何を目標とすべきか。それを簡潔に記事にしてみました。参考になれば幸甚です。
前回の記事「ポルターガイスト現象」の補足です。逃げて済む問題でないことは、担当した僧侶も同じなのです。そのことについて、少し補足してみました。
結構多くの方々が、体験しているであろう原因不明の物音。ポルターガイストと呼ばれる現象の一例を、寺院の相談例から記事にしてみました。
戒名の意味の2回目は、わたしの法名を元に戒名を説明してみようと思います。少しでも、みなさんの参考になればと思います。
知らずにいると亡くなってから大変かもしれない。そんな僧侶の老婆心から2回にわたって記事にしてみました。お盆のひと時、目を通して頂ければと思います。
位牌の存在する意味について、あまり考えることはないと思います。実は、目に見えない世界の住人にとっては、重要な意味のあるものなのです。今回は、その位牌について記事にしてみました。
お盆の季節になってまいりました。お盆回向ときに経験した、ちょっとした出来事を記事にしました。
登校拒否の娘にどのように対峙してきたか。経験を交えながら、目に見えない世界の視点から記事にしてみました。
わたしの娘の登校拒否について記事にしました。1回目は、そのきっかけとなった出来事と娘にとっての長い試練の始まりを書いています。
地鎮祭は、その土地でつつがなく暮らしていくための重要な神事です。寺院への依頼の絶対数が少ないため、今回は先輩でもある尼法師の事例から紹介したいと思います。
社会に出て人と接していくと、軋轢が起こりがちです。そんな時、ちょっとした気持ちの切り替えで楽になったりします。人生とは、気持ちの切り替えの繰り返しで、良く生きることもできます。
人生を支配しているかのようにも見える運命論。実は、自分の人生は自分でコントロールするものなのです。運命と宿命について考察しながら、人生をより良く生きる術を見出していきます。
目に見えない世界が見えることにも仕組みが存在します。その仕組みについて記事にしてみました。
日本に仏教が伝来したのは6世紀半ばだと言われています。それ以前に亡くなり、残存している意識存在もあります。また、意識存在は仏教徒ばかりではありません。そんな事例を記事にしてみました。
わたしには二人の兄がいます。相対する兄の人生について考察してみました。皆さんにとって何か得るものがあれば幸いです。
目に見えない世界を入っていくということはどういうことなのか簡潔にまとめてみました。
妻の仕事先の同僚から家祓いの依頼のあった事案です。かなり強い因縁のある場所だったようでした。
出家したての頃、はじめて経験した家祓いでの様子です。これを機に、様々な因縁のある家や場所を体験しました。
施餓鬼供養の準備中は、修行僧が霊感を取る修行を兼ねています。先祖や亡くなった方々に、本当に供養が届いているか卒塔婆を書き込みながら確認していきます。
世間で少し誤解を以て認識されている家祓いについて、その内容と意味について改めて記事にしてみました。
煉獄が餓鬼界ではないかと思った信徒さんの経験談を出来事を記事にしてみました。
転生とは、主に人間界を渡り歩くことです。わたしたちは、こころを成長させて転生を終わらせる道中にあります。そのことに気付くか否かは、今世の人生ばかりか、来世に大きく影響してきます。
輪廻の最後の世界として、餓鬼界を取り上げてみました。施餓鬼供養という最大の供養行事があります。その行事の中で、密かに目に見えない世界で繰り広げられている餓鬼さんたちの様子から、供養の大切さ、こころの持ち方の大切さを記事にしてみました。
人間界以外にも、目に見えない世界には様々な世界が存在します。輪廻とは、それらの世界を行ったり来たりすることです。それは、人にとって苦しみであり、人間界にずっといられるとも限りません。この記事では、輪廻で赴く世界について、わかる範囲でお伝えしようと思います
輪廻と転生とは、目に見えない世界ではとても有名な概念でもあり難しいテーマです。 それは、ほとんどの人には転生の記憶が残されていないからです。 そこで、この難しいテーマについて記事にしていきたいと思います。
最近、神社と寺院の違いがよくわからない人々が増えているようです。 そこで、僧侶の視点から、その違いについて続いて記事にしました。 その1では神社について、そしてその2では寺院について記事にしてみました。
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死後の世界を何となく思っている人にとって、この世と次の世との狭間で気がかりな、ひとつの疑問があります。それは、生前親しかった人々の再会は望めるのかということです。
煩悩を欲望と混同されることが多いようなですので、今回さらに煩悩についてわたしの解釈を記事にしてみました。
今回は、あの世では、足かせになってしまう、誰でもが持つかもしれない執著について考えてみました。
仏教が宗教化して数千年。わたしたちは、仏教の本質を見通せない現状に気が付いてもいません。如何にこころにお釈迦さまの言葉を認知させることが出来るかで、二世の行く末が左右されます。
漫画・アニメの作品から感じたことを記事にしました。現代の日本は「今」がただ上塗りされていくだけの社会です。そこから見えてくる現状への課題を考えてみました。
タイトルが「元僧侶の独り言」と変更になった経緯とこれからの抱負などを書いています。
現代における日本の仏教は目に見えない世界を肯定していません。その要因をたどるとインド哲学に行き当たります。今回の記事は少し難しくなりますが、お付き合いいただければと思います。
煩悩の滅徐に通じる行としての瞑想について、手順と手法について解説してみました。
はじめに このブログを読み進めていく内に、これから瞑想で行でもはじめてみようかなと思っている方に、前もって知っておいてほしいことがあります。それは、今回取り上げている呼吸についてです。 画像はイメージです。 瞑想と呼吸とは、密接に関係してい
禅定を仏教の修行の観点から考察してみました。修行としての禅定には、そんな意味があるのかをできるだけ簡潔に記事にしてみました。
生老病死は、お釈迦さまも修行の際取り組んだ人の性です。数々の書籍や動画で克服法や思い方の解説がなされています。本当に、その解決法はあるのでしょうか?
「無我」とは、分かり難いこともあってか、お釈迦さまの教えの中でも論考の多い項目です。論述する必要性を感じているわけではありませんが、わたしが感得したことを書いておきたいと思いました。今回で108記事目となり、煩悩の数と掛けているわけではありませんが、当面の終了とさせていただきます。今後も更新などは、行っていこうと思っております。
今年2024年を、ブログの記事と今後の方針と共に振り返ってみました。
縁とは、わたしたちを取り巻いている目に見えない繋がりです。個々からはじまり、さながら血液のように循環しながら人を生かしている不思議な要素です。
はじめに わたしたちは、さながら言葉を発するように文字を書いています。忘れずにメモったり、日々の出来事を日記に残したり、街中を見渡せば装飾された文字で溢れかえっています。 文字に記すという文化は、主流をネットへと移行しつつある今でも、わたし
わたしたちは幸せを求めて生きています。そのカギは、すべてこころを如何に治めていくかにかかっています。
中世日本に発展した日本仏教。中世の時間尺度と合わせて、現代における仏教の問題点を考察していきます。
中高年になると若い頃には思ってもみなかった様々な思いが浮かんできます。中高年が陥りがちな悩みを特集している記事を元に、わたしなりの見解を書いてみました。
経済発展から、現代の情報化社会に至る最大の弊害は、人々の「わたし」における気持ちとこころとの乖離であるとわたしは思っています。その乖離について考察してみました。
このブログにはその趣旨について【ブログについて】を掲載しています。心境・信条の変化から、旧ブログについては忘備録として残し、ここに修正することにいたしました。
昨今の政治の腐敗は目に余るものがあります。それは、他人の幸せを自分の幸せと捉え切れない狭い了見が、人々の間に蔓延している証左です。
昨年2023年の3月、今世と深く結びついた決定的な過去生を思い出してしまいました。今回の記事は、過去生から見えてきた仏教の真実についてご紹介したいと思います。
現在インドでは仏教はヒンズー教に取り込まれ、聖地を含めてその管理下にあります。ヒンズー教と日本の曖昧な宗教観はとても近く、鎌倉時代から続く日本における仏教も、実はインドでのヒンズー教下の仏教と似たような状況下にあるのではないかと思っています。
聖地で瞑想を行う西洋人たち。彼らの目的はわかりませんが、聖地で瞑想しても意味がないことを気付かせる瞑想に早く移行して頂きたいですね。
とてもなじみ深い節分の豆まきの掛け声に、仏教的意味を見出してみました。
インドから帰ってきました。簡単な感想とインドでの印象など記事にしました。また印象に残った出来事を短く動画で紹介しています。
しばらくの間、インドに行ってきます。
一時はコンビニよりも多いとされたお寺も減少が急速に進み、生き残る仏教施設は文化財かきれいな庭園くらいだと思われます。その衰退の問題を出家者のあり方を中心に書いてみました。
注意)以下の記事には、生死に関わるセンシティブな内容が含まれています。 特に気の弱い方や神経質な方、霊感の強い方は、 できるだけ読まないようお願いいたします。 はじめに 目に見えない世界の見え方は僧侶によって様々です。霊感の取り方と
出家前に参加した寺院のワークショップ後に経験した出来事を記事にしました。
仏種(ぶっしゅ)とは、誰でもこころの中にある聖人になるための種です。これを育み大きくしていくことが、人として生まれた理由なのです。そんな仏種を今回取り上げてみました。
「ノアの方舟と三界の火宅」に続いて、キリスト教の概念とともに法華経の罪障という言葉に迫ってみました。
ノアの箱舟と三界の火宅、2つのことなる宗教におけるお話しの簡単な説明からその共通点について記事にしてみました。
お釈迦さまの言葉の中に「塔を建てて供養すべし」とあります。他の大切な教えの中では、見落とされがちな言葉ですが、実は人にとってもっとも基本的な教えでなのです。この塔の意味合いとその歴史について記事にしてみました。
わたしは若い頃に、今にしては少し恥ずかしいある種の価値観をもって生きていました。その価値観のとは人の価値についてです。わたしの若き日の迷走と経緯を記事にしてみました。
どのような成り立ちからかは知れませんが、霊の通り道というのがあります。わたしの家で起こった霊の通り道にまつわる出来事です。
ネット社会は、自由な発言を享受できる一方、こころない発言は人を簡単に傷つけてしまう諸刃の刃です。目に見えない世界から観たネット社会の現状を記事にしてみました。
目に見えない世界では、人生のカギを握る大切なキーワードがあります。そんな言葉について、記事にしてみました。
少し遅くはなりましたが、わたしが出家に至った体験談を記事にしてみました。とても信じられないとは思いますが、脚色も何もない偽りのない事実です。