2021年3月から全93回続いたイタリア留学思い出ブログも、前回でとうとう最終回を迎えることができました。これまでお読みいただいた皆様には感謝しかありません。 「忘れてしまわないうちに、大切な思い出を書き残しておかねば!」 と、自己欲求を満たすためにスタートしたブログでしたが、気付けば徐々に読んでくださる方が増え、それが励みになり、こんなに(どんなに?)飽きっぽい私が最後まで書き終えることができました。
舞台は1994年~1996年のイタリア/ミラノ。かなりおっちょこちょいで頼りない当時27歳の筆者が2年半の留学で体験した、個性的な仲間たちとの日常・珍事件・旅を綴った連載的体験記です。
「そろそろ文章に残しておかなければあの宝物のような思い出が薄れて行ってしまう!」そんな危機感からブログを書き始めました。不思議なことに、つい先日のことのように次から次へと思い出が蘇ります。
|
https://www.instagram.com/emarutrading/ |
---|
【あの頃イタリアで その77 スタンドバイミー的卒業旅行の全貌】
ミラノに来て2度目のミラノサローネが終わり、世界中のビジネスマン&ウーマンが帰国すると街は何事もなかったかのように日常を取り戻した。 前回、“1996年の4月はとにかく忙しかった”と書いた。されどここはイタリア。どんなに忙しくても週末にはきっちりしっかり遊んでいたのである。
【あの頃イタリアで その76 おいしいアルバイトには訳がある】
1996年の4月は、とにかく忙しかった。卒業設計に追われながらも、相変わらず貧困状態にあったので設計事務所でのアルバイトを辞めるわけにはいかず、この頃は若さに任せてよく徹夜をしていた。(今は徹夜どころか、11時前に寝てしまうけど。笑)
午後の教室は春先の柔らかい光と食後の気だるさで満たされていた。卒業設計のグループ作業の前日は、割り振られた課題を完了するため、徹夜作業になることが多い。私はその日も明け方に仮眠をとっただけだったので、ついさっきマルコと食べたピアディーナが胃の中で膨れて来るにつれ、耐えきれない眠気に襲われていた。
ミラノにいつも通りの朝が来た。今日は午前中にナビリオ沿いのピエラの設計事務所でアルバイト。午後からは学校で卒業設計のグループ作業をする予定である。 “例の模型作りの一件”以来、いまだ首にならずにアルバイトを続けていられるのは、ピエラが同居人の良美さんの友人だか
【あの頃イタリアで その73 歩いて行くのだポルトフィーノ!〜リグーリアの旅・完結編】
いよいよ今日はポルトフィーノ散策の日。天気は快晴。絶好のお散歩日和である。 マルコお墨付きのバールで、カスタードクリーム入りコルネット(クロワッサン)をたらふく食べた私たち4人は、いったんマルコのマンションに戻って身支度をしてから出発した。 サンタマルゲリータからポルトフィーノまでは約5キロの道のり。交通手段としては通常、船やバスが利用されるのだが、「歩いて行った方が絶対楽しいから!」とマルコが言うので、全員素直に従うことにする。
【あの頃イタリアで その72 イタリアで太ったのには訳がある〜リグーリアの旅②】
こんにちは!先日、近所の幼稚園の園庭で梅の花が咲いているのを見かサンタマルゲリータに到着したその夜はマンションの近くで見つけたアットホームなトラットリア(イタリアの食堂)でパスタやらなにやらをお腹いっぱい食べた。残念ながら、メニューは忘れてしまったが、とにかく4人とも無口になってしまうほど満腹になった。 「さ~て、じゃあ帰ってシャワーして寝るか!」マルコはウェイターにお会計を告げ、カバンから例の共有財布を取り出して支払いをしている。・・・そのときである。その様子をジッと見ていた私は、ふと思ってしまった。“え?これって不公平じゃない?”
地域タグ:イタリア
【あの頃イタリアで その71 卒業設計からの逃避行〜リグーリアの旅】
「これで運転してるのがマルコじゃなかったら最高なんだけどな~!」信号待ちの合間に憎まれ口を叩くも、今日のマルコはベスパのバックミラー越しに寛大に笑っている。 ここで余談ですが・・ ここまで書くと読者の中には「とかなんとか言って実はマルコと付き合ってるんじゃないの~?」と思う方もいらっしゃるかと思うので、念のため解説します。 マルコにはエマというとても可愛い彼女いるのです。
地域タグ:イタリア
マルコと子供のようなケンカ別れをしてから数日後、何度目かのチームミーティングの朝が来た。今度こそ絶対文句は言わせまいと、昨夜は遅くまで根を詰めて作業をしていたせいか、今朝は格別に眠い。 思い身体を引きずりながら身支度をしていると、キッチンにあるFAX機能付きの電話が鳴った。数秒後、キッチンにいた良美さんが私を呼ぶ。 「お~い!マルコから電話だよ~!」
地域タグ:イタリア
【あの頃イタリアで その69 大人顔の子供たちはたまにケンカするのである】
ミラノ市内の病院に行った日から寝込むこと3日間。そして4日目の朝が明けた・・・。「完全復活!」と言いたいところだが、今回の風邪はそう甘くはないようで、咳と喉の痛みがしぶとく残っている。しかし今日は何としてでも卒業設計に取り掛からねば、次のミーティングに間に合わない。 喉を除けば体調はだいぶ良くなった気がするので、取りあえず起き上がってブランデー無しのホットミルクにたっぷりのお砂糖を入れて飲んでみた。荒れた喉の粘膜に痛いほど染み渡る。アルバイト先である設計事務所には良美さんが保護者の如く「しばらく欠勤」の連絡をしてくれていたので、なんとか集中して卒業設計のプラン作りに集中することができた。
地域タグ:イタリア
1996年2月、とある昼下がりの教室。この日も卒業設計チームの4人は腕組みをして図面とにらめっこをしていた。 課題として与えられたその建物は5階建。まずは大まかなデザインコンセプトを決めて、各フロアの用途を決める必要があるのだが、これがなかなか決まらない。どうやら今日もこのまま日が暮れてしまいそうである。そして夕方、案の定その日も何も決まらず、結局それぞれで考えて1週間後にプランを持ち寄ることになった。
地域タグ:イタリア
【あの頃イタリアで その67 卒業設計は嫌でも幕を開けるのだ】
生活費の足しにと、設計事務所でのアルバイトに精を出していた私だが、その間学校に通っていなかったわけではない。授業がある日以外は朝9時半から夕方4時までアルバイトをし、それから学校へ行って卒業設計の作業に取り掛かるという慌ただしい毎日を送っていた。 卒業設計は3、4人で1グループを作り、1つの課題に取り組むことになっていた。課題の選択肢は二つ。まず初めにインテリアデザインか建築デザインのどちらかを選ばねばならない。
地域タグ:イタリア
二度目の電熱線切断という衝撃・・・。深く考えれば考えるほどダッグと向き合う勇気は消え失せて行くので、一度頭を空っぽにしてオフィスに向かう。そしてドアをノックする前に思い切って外から大声で叫んでみた。 「ごめんないさい!また切れた!」 無言でドアを開けたダッグが笑顔であるはずがない。 「また?」それだけ言うとツカツカと作業室に向かい黙って電熱線を張り直す。
地域タグ:イタリア
あっという間に就業時間の午後6時。 結局その日は図面に書かれている等高線を発泡スチロールに書き写す作業で終わってしまった。(もちろんこの時代に3Dレーザーカッターなるものは無い。) 「時間なのでそろそろ帰っていいですか?」廊下からそう呼びかけると、すぐにダッグがオフィスから顔を出した。 「で、どこまでできた?」眉間に皺を寄せてそう尋ねる彼に等高線を書き写した発泡スチロールを差し出す。
地域タグ:イタリア
【あの頃イタリアで その64 ”ちゃんとした”アルバイトなのですが】
面接の翌日、私は午前の授業を終えるとクラスメートのマルコとミレーナからのランチの誘いを体よく断り、真っすぐにアルバイトに向かった。なんてったって今日からミラノの設計事務所で働くのである。かなり緊張するが、ちょっとだけ誇ら
地域タグ:イタリア
【あの頃イタリアで その63 今度こそ”ちゃんとした”アルバイト】
良美さんから紹介してもらった設計事務所の面接の日、私はミラノの運河沿いにあるとあるビルの前の歩道から4階の窓を見上げていた。住居とオフィスが混在しているらしいそのビルは、良美さんと暮らすアパートメントから徒歩で約15分、週末になるとマーケットが開かれる運河脇の明るい小道に面していて日当たりも良い。半年前に恐る恐るドアを開けた怪しいアルバイト先とは雲泥の差である。
地域タグ:イタリア
【あの頃イタリアで その62 いろいろな意味でのカウントダウン】
良美さんが無事にスウェーデンから帰国し、私が猫たちとの初めてのお留守番任務を終えた頃、ミラノは新年へのカウントダウンムード一色に包まれていた。去年は日本へ帰国したので、今回がミラノで迎える初めての新年である。 良美さんと二人きり(と二匹)で過ごす大晦日ではあるが、その日は朝から大忙しであった。まずは食材の買い出しをしに二人で近所のマーケットに向かう。
地域タグ:イタリア
【あの頃イタリアで その61 猫と分かりあうまでの1週間③】
2匹と1人の同居生活2日目。今日は1995年12月24日、聖なる夜。海外からやって来たクラスメートはみんな家族と過ごすためにそれぞれの国に帰ってしまった。ミラノ残留組の私はなんの予定も無い。今日も淡々と良美さんに言われた通り、朝晩2回サンボとマルにご飯をあげる。晩ご飯は昨晩同様、キャットフードの他に魚の切身を蒸し焼きにしてほぐしたもの。自分のご飯もまともに作れない私にとっては大仕事である。
地域タグ:イタリア
【あの頃イタリアで その60 猫と分かりあうまでの1週間②】
クリスマスを目前に控えた1995年12月23日、良美さんは本当にスウェーデンに旅立ってしまった。私と2匹の愛猫を残して・・・。 「あ~あ、君たちのお母さん本当にスウェーデンに行っちゃったね~」 その夜、足元でジッと私を見上げる2匹に向かって呟いてみた。いつもは2匹揃って私のそばに寄ってくることなんてないのに、やっぱり猫なりに寂しいのかな~と思う。
地域タグ:イタリア
【あの頃イタリアで その59 猫と分かりあうまでの1週間①】
私と良美さんが暮らすミラノのナビリオ地区にあるアパートメントには2匹の猫がいた。というよりも、私が良美さんのところに転がり込むずっと前から、良美さんは猫を飼っていたのである。 小柄なグレーのトラ柄猫「マル 」(推定5歳のメス猫)といかつい黒猫の「サンボ 」(推定4歳のオス猫)。私の薄い記憶によると友人が保護した捨て猫を止む無く引き取ったとのことだったが、良美さんはこの2匹の猫たちを我が子のように可愛がっていた。
地域タグ:イタリア
私はその授業が嫌いであった。別にパソコンが嫌いだったわけではないが、その授業を担当していた教師がとにかく嫌なやつだったのである。年の頃40代前半くらいのイタリア人、パソコンよりも格闘技が似合いそうな無骨な感じの男性。その髭面の教師の本名はあの当時も今も不明であるが、なぜかみんなにピッツィと呼ばれていた。 この教師、人種差別的思考があるのかどうか、イタリア人には優しいのだがなぜか他国からやって来た学生には辛く当たるのである。私もよくそのイライラの標的にされ、授業中に理不尽なことで怒鳴られたものだ。
地域タグ:イタリア
【あの頃イタリアで その57 だからストーリーなんて覚えていない】
私がミラノで暮らした1994年から1996年の約3年間で、映画を観に行ったのはたったの3回。別に映画に興味が無いわけではなくむしろ好きなのだが、どうしても言葉の壁が私を映画館から遠ざけてしまっていた。 その当時、イタリアで上映されていた映画は潔いほど字幕無しのイタリア語吹替え版のみであった。トム・クルーズだってハリソン・フォードだって、ペラペラのイタリア語なのである。俳優の地声を聞くことができないのはかなり残念であるが、英語もイタリア語も分からない私にとって、言ってることが理解できないという状況に変わりはない。
地域タグ:イタリア
【あの頃イタリアで その56 バースデーPARTYで地蔵と化す】
こんにちは!あっという間に6月になりました。6月といえば私の誕生月。う~れは1995年のちょうど今頃、その日の授業が終わり、さて帰ろうかなと思っていた私のもとに当時仲良くしていたアンニュイなミラネーゼ、クラスメートのミレーナがやって来た。ブロンズ色のロングヘアに愛嬌のある小顔が相変わらず可愛い。 「ねえねえ、エリコの誕生日って6月だよね?」 「うん、そうだけど。」どこで仕入れたのか私の誕生日を知っているようである。 「実はね、私も6月生まれなの!」 「へ~、そうなんだ~」と言いつつ、そっかじゃあミレーナと私はきっかり7歳違うんだなと思う。 「それでね!一緒にバースデーパーティーしない?!」
地域タグ:イタリア
【あの頃イタリアで その55 イタリア版・番町皿屋敷の恐怖 -その2-】
2軒お隣に住むおばあちゃんから晩ご飯のご招待を受けた私は、手土産用のワインを冷やして準備万端、どんな美味しいイタリア料理にあり付けるのかとワクワクが止まらない。そのとき、玄関のインターホンが鳴った。 「は~い!」ドアを開けるとおばあちゃんが優しそうな笑顔で立っている。あれ?わざわざ私を迎えに来てくれたのかな?・・ハテナ顔で突っ立っている私におばあちゃんは言う。 「では早速 お皿"を持って来てもいいかい?」
地域タグ:イタリア
【あの頃イタリアで その54 イタリア版・番町皿屋敷の恐怖 -その1-】
私がミラノに戻ったのは11月の初めのこと。9月中旬にミラノを発ってから、実に1カ月半もの間日本でのんびりしてしまった。 イタリアを初めヨーロッパではほとんどの学校が10月に新学期を迎えるが、私が通うデザインスクールが始まったのは11月8日。私立とはいえかなりのんびりしたスタートである。そのくせ12月になると鬼のように授業を詰め込むのだから生徒はたまったものじゃない。きっとまた課題に追われて寝不足の毎日がやって来るに違いないのだ。
地域タグ:イタリア
【あの頃イタリアで その53 キツネ目女から赤目女への変貌】
ウスティカの太陽がジリジリと肌を焼いていることすら気に留める余裕も無く、私はしばらく無言のまま甲板に寝転がっていた。海底でパニックになり、体力を消耗してしまったため船に上がるのに手こずり、しばらく海面に浮いていたので波酔いをしてしまったのだ。 遠足気分で浮かれ過ぎ、空気が読めないヌッチョは相変わらず大はしゃぎで、目を閉じたまま横になっている私にちょっかいを出しては笑っている。怒る気力もなく放っておいたのだが、それを見かねたドイツ人夫婦の妻がヌッチョを叱ってくれた。
地域タグ:イタリア
「ブログリーダー」を活用して、erikoさんをフォローしませんか?
2021年3月から全93回続いたイタリア留学思い出ブログも、前回でとうとう最終回を迎えることができました。これまでお読みいただいた皆様には感謝しかありません。 「忘れてしまわないうちに、大切な思い出を書き残しておかねば!」 と、自己欲求を満たすためにスタートしたブログでしたが、気付けば徐々に読んでくださる方が増え、それが励みになり、こんなに(どんなに?)飽きっぽい私が最後まで書き終えることができました。
トスカーナの旅から帰った私は大忙しだった。なにせたった3日間で、ミラノで暮らした2年分の全てを片付け、4日目には日本からやって来る友人と約2カ月間、“西ヨーロッパ一周バックパッカーの旅”に出ることになっていたからだ。 その後ミラノのアパートメントに帰り、その2日後には日本に帰国するという超過密スケジュールなのである。
マルコからの突然の提案で(その91参照)、今夜が旅の最後の夜になってしまった。私たちは何となく感慨深げにテントを組み立て始めた。作業する傍らで、どこからともなくやって来たブチ柄の痩せた野良犬が尻尾をぶんぶん振り回しながらはしゃいでいる。
「あのさ、少し早いけど、明日ミラノに帰らないか?」 マルコからのいきなりの提案に、私とオスカルは豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていたに違いない。(そんな鳩、見たことも無いが) 今日は旅が始まってから7日目。マルコの旅の計画では10日間の予定だから、あと3日残っている。 「なんで?なんで?!まだ3日もあるのに!」と反論したいところだが、オスカルも私も予想以上に身体的疲労が溜まっていることに気付いていた。それに加え、旅の一番の目的地であった“古都シエナ到達”を果たしてから、3人とも言い知れぬ脱力感に襲われていたのである。 マルコは旅程を切り上げるその理由をはっきりと言わなかったが、私は知っている。
「あのさ、少し早いけど、明日ミラノに帰らないか?」 マルコからのいきなりの提案に、私とオスカルは豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていたに違いない。(そんな鳩、見たことも無いが) 今日は旅が始まってから7日目。マルコの旅の計画では10日間の予定だから、あと3日残っている。 「なんで?なんで?!まだ3日もあるのに!」と反論したいところだが、オスカルも私も予想以上に身体的疲労が溜まっていることに気付いていた。それに加え、旅の一番の目的地であった“古都シエナ到達”を果たしてから、3人とも言い知れぬ脱力感に襲われていたのである。 マルコは旅程を切り上げるその理由をはっきりと言わなかったが、私は知っている。
今日は1996年7月9日、トスカーナ自転車旅行7日目の朝が来た。 昨夜は設備が整ったキャンプ場のシャワールームで、2日分の汚れをきれいさっぱり洗い流したので今朝は気分爽快である。しかも今夜もここに宿泊するので、今までのように朝早くテントを畳んで慌ただしく旅立たないで済む。 この旅始まって以来ののんびりした朝だ。 昨日の雨の名残りか、プールサイドから見上げる空にはまだ雲が多いが、合間から刺す日差しは夏そのもの。 旅が始まってから今日まで、私たちは古都シエナを目指して必死に自転車を漕いできた。そのシエナがとうとう目と鼻の先(ここから30分行ったところ)にある!確実に手が届く!
古城で迎えるトスカーナの夜明け・・・と書くと物凄くかっこいいが、正しくは、古城がある公園に張ったテントで迎える5日目の朝(笑) 私とマルコとオスカルは早起きをして、この旅最大の目的地である古都シエナを目指して出発した。もう迷子になるわけがない。だって目の前にあるのは獣道ではなく、確実にシエナに向かうと太鼓判を押された”ちゃんとした道”(地図に記載がある道路)なのだから。
「マズいことになってしまったかも・・・いや、そうに違いない。」 1996年7月7日。私たち三人はそれぞれがそう思いながらも口に出せず、無言のままペダルを漕ぎ続けていた。 農家の優しいご夫婦に別れを告げてから約2時間、シエナ方面に向かう一本道をひたすら進んで来たのだが、その道が・・・
「おーい!おまえたちー!早く起きろー!カメが!カメが卵産んでるぞー!」 “は?カメ・・・それって亀?” 手探りで掴んだ枕元の腕時計はまだ5時を過ぎたばかり。 “ここはどこ?ナゼに亀?そして・・・マルコでもオスカルでもないこの声の主は一体誰?” 頭の中も髪の毛もグチャグチャなまま、取りあえずテントのファスナーを開けて外を覗いてみる・・・が、やはり全く状況が呑み込めない。 「ほら!カメラ持って早くこっちにおいで!」 見知らぬおじさんが私に向かって一生懸命に手招きをしている。
3日目の朝が来た。アグリツーリズモを営む農家の庭先に設置した大小のテントが二つ。その小さいほうから這い出した私の視界一杯に、朝のまばゆい光に照らされた緑の絶景が飛び込んできた。 “そうだ・・ここはトスカーナだった!” と、毎朝驚く私。 そしてここはモンテプルチャーノを見上げる広大な畑の中に建つ一軒家・・の庭先。昨夜到着した時は既に日が暮れていたので、遠くにポツポツと灯る灯りしか見えなかったが、今は澄んだ空気の中にそびえ立つ丘の上のモンテプルチャーノがはっきりと見える。
2日目の朝早く、テントを張った謎の空地を後にした私たち三人は、第一目的地であるモンテプルチャーノの手前の、名も知れぬ小さな村でようやく食事にありついた。バール(カフェバー的なお店)はここ一件しかないのではないかと思われるほど辺鄙な村の小さなバール。そこでピザかサンドウィッチでも食べたのだろうか?とにかく自転車を漕ぐので精一杯だったので、残念ながらこの旅での食事の記憶は全般的に薄い。
1996年7月4日。私たちは一つ目の目的地であるモンテプルチャーノを目指して自転車を漕いでいた。 出発地点の“トッリータ・ディ・シエナ”からは直線距離で約12㎞。スタートしたのは昼過ぎであったが、夕方前には余裕で到着すると思っていた・・・が、されどここはトスカーナ・・・そんなに甘くは無い。私たちは1日目にしてトスカーナの厳しい洗礼を受けることになる。
出発の朝が来た。 荷物は最低限にしたのだが、用意したサイドバック(自転車の荷台の横に下げるバック)はパンパンだ。それに寝袋とテントを入れると全部で20㎏くらいになるだろうか。 「あなたホントに大丈夫?こんなに荷物積んで自転車漕げるの?しかもトスカーナの丘陵地帯でしょ?」 同居人の良美さんが心配そうに見つめるも、今更どうにもならない。
その日は晴天だった。学校側の粋な計らいの下、卒業式は太陽が降り注ぐ校舎の中庭で行われることになった。狭い庭内に建築からグラフィック、ファッション、インダストリアルetc…全てのコースの卒業生と教師が集まるのだから結構なすし詰め状態だ。
卒業設計の結果発表の翌日、私たちは約半年間続いた苦行(?)の打上げと称し、料理上手なシェフ(その75参照)がいるダニエラの家で、しこたま食べてしこたま飲んでお互いの健闘を称え合った。この楽しい時が永遠に続いて欲しいと、そこにいるみんなが願っていたと思う。その日はうっすらと空が明るくなるまで誰一人帰ろうとしなかった。
卒業設計が大詰めを迎えていた1996年6月の始め、私は半年間お世話になった設計事務所でのアルバイトを辞めた。ここで働かせてもらったお陰で生活が安定し、何とか無事に卒業できそうである。どこの馬の骨とも分からない私を迎え入れてくれたピエラとダッグには感謝しかない。
“訳”あって、(前回参照) 卒業旅行の日程をズラしてもらってから一週間後のことである。 卒業設計のグループ作業をしている教室に、マルコが珍しく遅れて入って来た。いつも穏やかな丸い目が心なしか横に潰れた楕円形に見える。 明らかにいつもと比べて口数が少ないマルコ。しかしそのことには触れないまま黙々と作業をすること数時間。
卒業旅行計画が発表された翌日の土曜。私たち4人は早速マルコの車で郊外の大型ホームセンターへテントと寝袋を物色しに出掛けた。まだ2カ月以上先のことではあるが、私たちの意識は既に卒論を軽く飛び越え、新緑きらめくトスカーナの地にあった。 しかしそんな中、私は一人、ある問題を抱えて悶々と悩んでいたのである。
ミラノに来て2度目のミラノサローネが終わり、世界中のビジネスマン&ウーマンが帰国すると街は何事もなかったかのように日常を取り戻した。 前回、“1996年の4月はとにかく忙しかった”と書いた。されどここはイタリア。どんなに忙しくても週末にはきっちりしっかり遊んでいたのである。
1996年の4月は、とにかく忙しかった。卒業設計に追われながらも、相変わらず貧困状態にあったので設計事務所でのアルバイトを辞めるわけにはいかず、この頃は若さに任せてよく徹夜をしていた。(今は徹夜どころか、11時前に寝てしまうけど。笑)
ミラノに来て2度目のミラノサローネが終わり、世界中のビジネスマン&ウーマンが帰国すると街は何事もなかったかのように日常を取り戻した。 前回、“1996年の4月はとにかく忙しかった”と書いた。されどここはイタリア。どんなに忙しくても週末にはきっちりしっかり遊んでいたのである。
1996年の4月は、とにかく忙しかった。卒業設計に追われながらも、相変わらず貧困状態にあったので設計事務所でのアルバイトを辞めるわけにはいかず、この頃は若さに任せてよく徹夜をしていた。(今は徹夜どころか、11時前に寝てしまうけど。笑)
午後の教室は春先の柔らかい光と食後の気だるさで満たされていた。卒業設計のグループ作業の前日は、割り振られた課題を完了するため、徹夜作業になることが多い。私はその日も明け方に仮眠をとっただけだったので、ついさっきマルコと食べたピアディーナが胃の中で膨れて来るにつれ、耐えきれない眠気に襲われていた。
ミラノにいつも通りの朝が来た。今日は午前中にナビリオ沿いのピエラの設計事務所でアルバイト。午後からは学校で卒業設計のグループ作業をする予定である。 “例の模型作りの一件”以来、いまだ首にならずにアルバイトを続けていられるのは、ピエラが同居人の良美さんの友人だか
いよいよ今日はポルトフィーノ散策の日。天気は快晴。絶好のお散歩日和である。 マルコお墨付きのバールで、カスタードクリーム入りコルネット(クロワッサン)をたらふく食べた私たち4人は、いったんマルコのマンションに戻って身支度をしてから出発した。 サンタマルゲリータからポルトフィーノまでは約5キロの道のり。交通手段としては通常、船やバスが利用されるのだが、「歩いて行った方が絶対楽しいから!」とマルコが言うので、全員素直に従うことにする。
こんにちは!先日、近所の幼稚園の園庭で梅の花が咲いているのを見かサンタマルゲリータに到着したその夜はマンションの近くで見つけたアットホームなトラットリア(イタリアの食堂)でパスタやらなにやらをお腹いっぱい食べた。残念ながら、メニューは忘れてしまったが、とにかく4人とも無口になってしまうほど満腹になった。 「さ~て、じゃあ帰ってシャワーして寝るか!」マルコはウェイターにお会計を告げ、カバンから例の共有財布を取り出して支払いをしている。・・・そのときである。その様子をジッと見ていた私は、ふと思ってしまった。“え?これって不公平じゃない?”
「これで運転してるのがマルコじゃなかったら最高なんだけどな~!」信号待ちの合間に憎まれ口を叩くも、今日のマルコはベスパのバックミラー越しに寛大に笑っている。 ここで余談ですが・・ ここまで書くと読者の中には「とかなんとか言って実はマルコと付き合ってるんじゃないの~?」と思う方もいらっしゃるかと思うので、念のため解説します。 マルコにはエマというとても可愛い彼女いるのです。
マルコと子供のようなケンカ別れをしてから数日後、何度目かのチームミーティングの朝が来た。今度こそ絶対文句は言わせまいと、昨夜は遅くまで根を詰めて作業をしていたせいか、今朝は格別に眠い。 思い身体を引きずりながら身支度をしていると、キッチンにあるFAX機能付きの電話が鳴った。数秒後、キッチンにいた良美さんが私を呼ぶ。 「お~い!マルコから電話だよ~!」
ミラノ市内の病院に行った日から寝込むこと3日間。そして4日目の朝が明けた・・・。「完全復活!」と言いたいところだが、今回の風邪はそう甘くはないようで、咳と喉の痛みがしぶとく残っている。しかし今日は何としてでも卒業設計に取り掛からねば、次のミーティングに間に合わない。 喉を除けば体調はだいぶ良くなった気がするので、取りあえず起き上がってブランデー無しのホットミルクにたっぷりのお砂糖を入れて飲んでみた。荒れた喉の粘膜に痛いほど染み渡る。アルバイト先である設計事務所には良美さんが保護者の如く「しばらく欠勤」の連絡をしてくれていたので、なんとか集中して卒業設計のプラン作りに集中することができた。
1996年2月、とある昼下がりの教室。この日も卒業設計チームの4人は腕組みをして図面とにらめっこをしていた。 課題として与えられたその建物は5階建。まずは大まかなデザインコンセプトを決めて、各フロアの用途を決める必要があるのだが、これがなかなか決まらない。どうやら今日もこのまま日が暮れてしまいそうである。そして夕方、案の定その日も何も決まらず、結局それぞれで考えて1週間後にプランを持ち寄ることになった。