イギリス東インド会社は、1600年にエリザベス1世からインド以東の貿易独占権を認められて誕生した貿易会社です。これは当時のヨーロッパで「絶対王政」が広まり、重商主義政策のもと国が積極的に海外貿易を進めていた時代の流れと重なります。 そうした
このブログでは、日本史・世界史の簡単な流れから、事柄を掘り下げた記事を書いています。また、歴史と言う科目を好きになってもらえるように、歴史の小ネタなども取り入れて、大河ドラマを追ったネタも書いています。
イギリス東インド会社は、1600年にエリザベス1世からインド以東の貿易独占権を認められて誕生した貿易会社です。これは当時のヨーロッパで「絶対王政」が広まり、重商主義政策のもと国が積極的に海外貿易を進めていた時代の流れと重なります。 そうした
武田家を滅ぼした三人の決断――木曽義昌・穴山梅雪・小山田信茂の裏切りとその末路
戦国時代という混乱の時代、人々は生き残るためにあらゆる選択を迫られました。中でも「裏切り」は、非難されがちな行動でありながら、戦国武将にとっては珍しいものではありませんでした。 血縁関係であっても、情ではなく利で動く――。 盟約を破棄し、昨
生涯現役のレジェンド!大島光義――戦国時代を駆け抜けた90歳越えの猛者
戦国時代の武将たちは数多くの戦場を駆け抜けましたが、その中でも90歳を超えて戦い続けた武将がいました。その名は、大島光義(おおしま みつよし)。彼のように長年にわたり現役で戦い抜いた人物は非常に珍しく、その生涯はまさに伝説です。 大島光義は
【歴史の裏話】古代ローマ人の意外すぎる暮らしと技術5選+おまけ
古代ローマと聞くと、円形闘技場コロッセオや英雄カエサルが思い浮かびますが、実は当時のローマ人は現代の感覚ではちょっと信じられないような暮らしや技術を持っていました。 今回はそんな思わず二度見してしまう古代ローマの風習やテクノロジーを、筆者の
皇帝ナポレオン・ボナパルトと聞くと、戦争に勝ち続けた天才軍略家という印象が強いかもしれません。でも、そんな偉人にも思わずクスッと笑ってしまうようなエピソードがたくさんあります。 今回は、あまり知られていないナポレオンの素顔に迫るエピソードを
【歴史の裏話】うっかりが歴史を変えた!?凡ミスから始まった世界の大事件
歴史の転換点と聞くと、英雄の活躍や壮大な戦争、大国間の争いが思い浮かびますよね。けれど、実は「たった一つのうっかりミス」が世界の流れを変えてしまったケースもあるんです。 今回はお酒の飲みすぎ、鍵のかけ忘れ、道を間違えたことが引き金となった歴
【田沼意次 再評価】賄賂政治家か?先進的改革者か?その功績と失敗を読み解く
江戸時代中期、田沼意次は老中として幕政を担い、賄賂政治の象徴として語られてきました。しかし近年、その評価は見直されつつあります。田沼の経済政策は、貨幣経済や商業の発展を重視し、明治以降の近代化に先駆けたものだったとする見方が増えています。
インド大反乱(シパーヒーの乱)とは?背景を詳しく<19世紀>
インドではムガル帝国が17世紀後半頃から宗教政策の失敗などで衰退。国内で争いが続く中、イギリスの東インド会社が勢力を拡大していました。 これに反発したインド人傭兵シパーヒーたちが1857年にインド大反乱(シパーヒーの乱)を起こしますが、イギ
インド大反乱(シパーヒーの乱)とは?背景を詳しく<19世紀>
インドではムガル帝国が17世紀後半頃から宗教政策の失敗などで衰退。国内で争いが続く中、イギリスの東インド会社が勢力を拡大していました。 これに反発したインド人傭兵シパーヒーたちが1857年にインド大反乱(シパーヒーの乱)を起こしますが、イギ
18世紀半ばに始まった産業革命は新たな技術の導入として始まりましたが、実際のところ工業生産の6割を占めていたのはアジアのままでした。特に東アジアでは農工業の生産性や成長率はヨーロッパに引けをとらない値となっています。その経済成長を支えたのが
前回はヨーロッパ各国の徐々に起こった大航海時代や重商主義などから始まった変化、イギリスで最も経済的に貢献したインドとの貿易摩擦から自国で綿織物を作り始めていたこと、農業革命などで産業革命の土台が出来上がっていったことをお伝えしました。 ここ
もしも関ヶ原の戦いで西軍が勝っていたら?— 日本の歴史が激変する7つのシナリオ
1600年に石田三成率いる西軍と徳川家康を中心とした東軍が激突した戦い「関ヶ原の戦い」 結果、徳川家康が勝利し石田三成は処断されます。そして、1603年に家康は江戸幕府を開き、260年以上にわたる政権の礎を築きました。 歴史にif(もしも)
イギリスの産業革命①/イギリスで革命が起こった背景を詳しく解説
ここでは第一次~第四次(場合によっては第三次)まであった産業革命のうち、今回は世界で最も古い時代にイギリスで起こった第一次産業革命をまとめていきます。 ちなみに第一次~第四次産業革命は 第一次産業革命(18世紀後半)蒸気機関の開発により軽工
「革命の父」孫文とは?孫文の生涯を追いながら当時の中国の歴史を解説!
孫文 清国を崩壊させ、中華民国を成立させた辛亥革命の精神的支柱となったのが孫文でした。ここでは、そんな孫文がどんな人生を送っていったのかをまとめていきます。 革命以前の孫文 孫文は1866年、同治の中興と呼ばれる国内外の混乱が(清王朝の衰退
戦国時代の大名家に生まれた子供たちには、両親に代わり養育や教育を行う乳母や傅役(もりやく)と呼ばれる人たちがついていました。織田信長も例外ではなく幼い時には乳母や傅役がついています。 その中でも平手政秀は、傅役として信長の幼少期から家督を継
織田信長の登場は後の秀吉や家康にどのような影響を与えたのか??
織田信長(1534年~1582年)は、戦国時代期において革新的かつ影響力のある人物でした。信長の行った政治、経済、文化、軍事政策は、後の豊臣秀吉や徳川家康に深い影響を与えます。 信長はこれまでの社会の構造を大きく変え、近代化への道を切り開い
中華民国を成立させるきっかけとなった辛亥革命とは?流れや影響を簡単に解説
中華民国国軍政府成立(WikimediaCommons)より アヘン戦争(1840~42年)、アロー戦争(1856~60年)、清仏戦争(1884~85年)、日清戦争(1894~95年)の敗北などで清の権威が著しく落ち列強諸国の半植民地のよう
国際政治に大きな影響を与えた門戸開放とは?分かりやすく簡単に解説!
門戸開放通牒とは1899年にアメリカの国務長官・ジョン=ヘイが列強による中国分割をいったん止めることになる通牒のことです。 ここでは、門戸開放通牒にはどんな内容が含まれていたのか、宣言が出された背景、影響などを簡単に紹介していきます。 門戸
1894(明治27)年、朝鮮で甲午農民戦争が起こったのをキッカケとして発生した日清戦争。両国ともに軍などの近代化や強力化を進めていましたが(日本→富国強兵/清→洋務運動)、結果は当初の予想を裏切って日本が勝利しました。 以降、清国の領土は列
清末期、三大悪女・西太后って何をした人?西太后の人生を紹介【人物伝】
西太后 出生:1835年10月10日~死去:1908年11月15日配偶者:咸豊帝(在位1850~1861年) 中国では慈禧太后(じきたいこう)とも呼ばれる西太后。背が高く才色兼備の女性で咸豊帝の寵を受けて以降、長年権力の座についています。
1870年代の朝鮮王朝内部では高宗・閔氏と保守派の大院君らの対立が起こっていた他、外交関係では江華島事件(1875年)とその結果締結された日朝修好条規(1876年)から急激な変化に見舞われていました。 優勢に立った開化派の中心であり政権中枢
江華島事件のきっかけ~日朝修好条規が結ばれるまでを簡単に解説
江華島(こうかとう)事件とは、1875年9月20日から始まった日本と(李氏)朝鮮の間で起こった武力衝突事件のことです。 日本の軍艦・雲揚号が、朝鮮の首都・漢城(ソウル)にほど近い江華島付近の海域で「挑発行為を行った」として江華島の砲台から砲
同治帝治世下に行われた洋務運動とは?中国近代化の始まりを詳しく解説
アロー戦争(1856~1860年)、太平天国の乱(1851~64年)と大混乱が起こった清では西欧列強の近代的な文明を導入する必要性を強く感じるようになっていました。 そんな大混乱の真っ最中の1861年に第9代皇帝・咸豊帝(かんぽうてい)が崩
太平天国の乱(1851-64年)について背景や流れまで簡単だけど詳しく解説
清を大きく揺れ動かしたアヘン戦争(1840-42年)とアロー戦争(1856-60年)が起こる前より、清では人口爆発が起こっていました。 漢族移民が流入した広西省の山地ではエリート層と非エリート層の摩擦が大きくなっています。 一方で、広西省の
大航海時代以降、大西洋を西に進む航路とともに見つけた新大陸。ヨーロッパにとって新たな発見となった新大陸はポルトガル領のブラジルを除いてラテンアメリカの大半をスペインが植民地化していました。 が、その後の力関係の変化、ヨーロッパの諸事情でアメ
日清戦争は、政府と政党の関係を大きく変えることになりました。大日本帝国憲法下の最高立法機関・帝国議会も日清戦争の前後で初期議会とそうじゃないものに分けられるほど戦前戦後で雰囲気が大きく変わっています。 初期議会の頃は意見の相違で議会はなかな
日本・清・ロシアの微妙な関係を詳しく解説【朝鮮問題】<明治時代>
上の教科書などで見かける風刺画は、フランス人画家のジョルジュ・ビゴーにより1887年に描かれました。当時の日本・清・ロシア、そして李氏朝鮮との関係をよく表しています。 アヘン戦争(1840-42年)・アロー戦争(1856-60年)で隣国が窮
アヘン戦争(1840-42年)/アロー戦争(1856-60年)後の周辺諸国の情勢を詳しく解説
古くから地域をリードしてきた大国・清がヨーロッパの列強にいとも簡単にやられたのを見た周辺諸国である日本、李氏朝鮮、越南といった国々にも大きな影響を与えました。 ここでは清の敗戦後の日本や属国の中軸をなした李氏朝鮮、越南(ベトナム)を見ていこ
李氏朝鮮を全盛期~中興期の治世や思想など詳しく解説<北朝鮮・韓国各国史>
1392年、李成桂によって建国した李氏朝鮮。約500年もの長期政権を築く中で良い時も悪い時もありました。 前回の朝鮮王朝の記事を書いた時には太宗(テジョン/在位1400-1418年)が王権を強化し、世宗(セジョン/在位1418-1450年)
第二次アヘン戦争/アロー戦争(1856-60年)を詳しく解説
1840年~42年に起こったアヘン戦争と講和条約である南京条約(追加で不平等条約も)の締結で清国内は大きく動揺することになりました。 そのキッカケになったアヘン。この依存性と健康被害の大きな薬物を購入するために清国内の銀の流出が止まらなくな
東アジアが激動の渦に...!アヘン戦争の背景や流れ、結果までを詳しく解説
1840年に起こったイギリスによる対中国の侵略戦争がアヘン戦争です。 当時の王朝・清は建国以来、名君たちによる統治が続いていましたが、 外征による財政の圧迫 ヨーロッパで重商主義政策が取られる中(16~18世紀)、お茶や陶磁器、壁紙などが大
たぐいまれなる名君が続いた清の全盛期〜衰退期までを簡単に解説!<中国各国史>
豊臣秀吉(日本)による朝鮮出兵・文禄/慶長の役の後、隙を見計らって明の東北部でヌルハチが後金を建国。 ニ代目ホンタイジが南西へ勢力を拡大しつつ漢人たちに受け入れやすい国名『清』と名付け、三代目順治帝が万里の長城を超えた領土拡大と漢人に対する
清(1636-1912年)の成立までを詳しく解説<中国各国史>
清国の前王朝・明では交易拡大を希望するも明にとってメリットのあまりない要求だったため拒否したことで、モンゴル系民族オイラトの指導者エセン・ハンが侵攻するようになっていました。 これに対して明朝の第6代皇帝・英宗が親征しますが、野戦で捕虜とな
朝鮮王朝(李朝)とは?成立までの流れを簡単に解説<朝鮮・韓国各国史>
李成桂 1392年、李成桂(イ・ソンゲ)によって始まった518年もの長期政権を築いた王朝が李朝です。かつて日本では李氏朝鮮とも呼ばれていました。 ここでは、李朝を興した李成桂がどんな立場の人物だったのか、どうやって成立していったのかなど詳し
オランダ、イギリス、フランスが重商主義政策により海外に進出。当初優勢だったオランダが時代の変化と共に英仏に後れを取るようになりはじめ、交易戦争は二か国に絞られました。 17世紀のヨーロッパは「17世紀の危機」と呼ばれるほどの時代で、飢饉、疫
交易をめぐってぶつかったアンボイナ事件(1623年)でオランダに東南アジア市場から追い出されたイギリス。 東南アジアから撤退し、次に交易を行う拠点としたのがインドでした。 ここでは主にイギリスが進めたインド経営がどのように行なわれたのか、海
大日本帝国憲法下における法律と予算を審議する最高立法機関・帝国議会では、1890(明治23)年を皮切りに最低でも年に一度、基本的な会期は約1か月(長い時には約3か月)にわたって何度も討論が交わされました。 そのうち、1890年の第1議会から
15世紀半ばに大航海時代が始まり、ヨーロッパ諸国がインド航路を発見。当時は経済的にはアジアの独壇場で中国・インドが二大経済国として存在感を放っていました。 Economic history of the worldより 大航海時代が始まって
帝国議会とは?大日本帝国憲法での議会の立ち位置や議員の選び方を詳しく解説
第一回帝国議会 大日本帝国憲法 には藩閥政治ではなく選挙で選ばれた議員による政治参加が可能な帝国議会に関する条例も盛り込まれていました。日本で最初に作られた議会で、現代でいう国会にあたる機関です。 ここでは帝国議会が大日本帝国憲法のもとで定
『憲法発布略図』1889年(明治22年)楊洲周延画より 1889(明治22)年2月11日に公布され、1890年に施行された大日本帝国憲法は日本が近代的国家体制を確立するうえでの根幹をなした憲法です。 東アジアで初めて定められた近代憲法で、現
大国の思惑で進められたポーランド分割とポーランド国内で起こったコシューシコ蜂起とは?
ロシアやプロイセン、オーストリアといった大国が弱体化したポーランドを三度にわたり分割し、各国の領土に組み込んだ出来事をポーランド分割と呼んでいます。 ポーランド分割が実際にどう行われたのか、分割に抵抗しようとポーランド国内で起こったコシュー
ポーランド分割に至るまでの背景を詳しく解説<ポーランド・ロシア・プロイセン>
ポーランド・リトアニア共和国より『1648年の東欧』 ポーランドは歴史上3度も外国に分割されたことで知られています。 分割された一因に北方戦争の参加と戦争による国土を蹂躙も挙げられますが、実はそれだけでもありません。北方戦争以前から衰退の兆
ロシアの皇帝ピョートル1世は強力な国家体制を築こうと考えますが、そのためには交易が必要です。 オスマン帝国の支配していたアゾフ海に進出し黒海 → 地中海 ルートを確保しようとしましたが、ロシアの海の出口を西のバルト海に求めようという考え方が
明治政府が大日本憲法制定と同時期に行った国家体制の整備について詳しく解説
明治政府はこれまで起こってきた激しい自由民権運動(「藩閥政治するな」「国会開け」という主張の下で行われた政治運動)の取り締まりをしていた裏で、国会の設立や憲法制定は避けられないと考えて自分たち主導での立憲政治の実現を目指します。 https
北方戦争とは1700~1721年に起きたロシアとスウェーデン帝国がバルト海の覇権を争った戦いです。ほかの複数の国も巻き込んだ大規模な戦いとなりました。 ここでは関係国の状況、背景についてまとめていきます。 ロシアがロシアになるまでを簡単に解
民権運動の激化による運動で起きた福島事件・秩父事件など代表的な運動を分かりやすく解説!
「国民の自由と権利を保障するための政治的な取り組みを獲得しよう!」という自由民権運動が激化する社会情勢に対し、明治政府は新聞紙条例や集会条例の改正で言論を封じ込めようとした他、自由民権運動の中心的人物で自由党の党首・板垣退助を日本から遠ざけ
マリア・テレジアはどんな人?彼女の歩んだ波乱の人生とその後のオーストリアを解説
マリア・テレジア <生年>1717~1780年<在位> オーストリア女大公:1740~1780年 ハンガリー女王:同上 ボヘミア女王:1740~1741年、1743~1780年 オーストリア大公マリア・テレジアは長い歴史の中でも女傑の代表と
歴史に名を残した偉人達も一人の人間、必ずどこかで人生の最後をむかえています。ある人は名誉の戦死を遂げ、またある人は病で亡くなるなどその死因も人それぞれ。今回は、その中でも自分ならチョット遠慮したくなるような死をむかえた偉人たちを日本と世界に
歴史に名を残した偉人達も一人の人間、必ずどこかで人生の最後をむかえています。ある人は名誉の戦死を遂げ、またある人は病で亡くなるなどその死因も人それぞれ。今回は、その中でも自分ならチョット遠慮したくなるような死をむかえた偉人たちを日本と世界に
息子の継承が基本のハプスブルク家。スペイン継承戦争の時に一枚かんだレオポルト1世が亡くなった後、神聖ローマ皇帝の地位にはヨーゼフ1世、カール6世が即位しますが、後継者になれそうな人がいませんでした。 ※ヨーゼフ1世は後継者がいなかったため弟
神聖ローマ帝国が三十年戦争で有名無実化し、領邦がほぼ独立国家のような存在に成長した中で力をつけていたのがプロイセンです。 スペイン継承戦争の講和条約ラシュタット条約で大国化したハプスブルク家が治めるオーストリアに次ぐ第二の強国として、神聖ロ
明治時代に移るにあたり、農民にもかつての武士たちにも新たな負担が増えたことで政府に対して不満を持つようになります。 そうした大きな変化を伴ったうえで、特定の藩が優遇される形の藩閥官僚らによる政治体制も不満の声が上がる一因となっていました。
カール5世(カルロス1世)が息子のフェリペ2世にスペインを、弟フェルナンデスに神聖ローマ帝国の皇帝位を継承させたことでハプスブルク家はスペイン=ハプスブルク家とオーストリア=ハプスブルク家に分裂していました。 カルロス2世 そのうち、スペイ
カール5世(カルロス1世)が息子のフェリペ2世にスペインを、弟フェルナンデスに神聖ローマ帝国の皇帝位を継承させたことでハプスブルク家はスペイン=ハプスブルク家とオーストリア=ハプスブルク家に分裂していました。 カルロス2世 そのうち、スペイ
戦国時代には「越後の龍」や「甲斐の虎」、「槍の又左」など、多くの異名を持つ武将たちがいました。中でも「鬼」の異名を持つ武将たちは、武勇に優れ敵から恐れられる存在でした。今回は、そんな「鬼」の異名を持つ戦国武将たちを10人を紹介します。 この
ルイ14世の治世下で変わった軍の変化とは?【フランス各国史】
フランスの絶対王政全盛期を築いたのがルイ14世(在位:1643-1715年)。国際的にも大きくフランスの存在感は増し、その地位を高めていました。 ル・テリエ、ルーヴォア父子を軍の責任者に据えて傭兵に頼らない膨大な常備軍を持つ陸軍大国になるよ
明治時代の宗教政策とは?神仏分離令と廃仏毀釈の意味や制度の背景などを詳しく!
前回の日本史では文明開化の記事を書いてきました。 西洋文化の真似をすることが多かった日本ですが、今回紹介する宗教においてはだいぶ日本独自の方針を貫いています。 ここでは明治時代に行われた宗教政策について迫っていこうと思います。 https:
英語が話せないイギリス王の誕生と責任内閣制の成立<イギリス/各国史>
以前、ジェームズ2世の代の名誉革命を経て、メアリ2世とウィリアム3世が「議会が優位」とする権利の宣言を受け入れたうえで即位したところまでお話ししました。 今回はメアリ2世の妹、アン女王以降のイギリスについてまとめていきます。 https:/
明治維新とそれに伴う激動は政治面だけでなく、文化面にも大きな影響を与えました。 文明開化は西洋の国々に追いつくため、近代西洋の文明を取り入れたり手本としようという動きのことを指しています。 多くの技術者や学者、教師などの外国人を政府が雇い入
天井画のウィリアムとメアリー 名誉革命で議会が優位になるよう宣言して即位したウィリアム3世とメアリー2世。その後、権利の章典として成文化したものを制定した文書を公布したことで立憲君主制の確立に大きな影響を与え、イギリス議会政治の基幹が出来上
明治維新以降、中央集権体制が強化され各種改革が断行されました。版籍奉還で藩を天皇に返上し、廃藩置県ですべての藩を廃止しする改革が行われていきます。 版籍奉還で藩主は統治していた領地を返したことで経済基盤を失いますが、その地の長の地位にそのま
近年では紅茶離れが進んでいるなんて話も出ていますが、紅茶はイギリス文化を語る際になくてはならない存在でしょう。 ボストン茶会事件、アヘン戦争といったイギリスと紅茶にまつわる歴史的なエピソードに加え、第二次世界大戦中の配給品の一つに紅茶の茶葉
『光る君へ』や史実でも美文字だった藤原行成は、道長と天皇を支え続けた名臣だった!
『光る君へ』では物腰が柔らかく美しい文字を書き、藤原道長の良き友人として描かれている藤原行成。一条天皇下では蔵人頭にも抜てきされ、持ち前の人柄と実務能力を発揮して政権を支えました。 行成は日本書道界ではレジェンドとして、平安時代に最も活躍し
以前の記事でクロムウェルを中心とした独立派が派閥争いを制し、議会をないがしろにしていたチャールズ1世を処刑した『イギリス革命(ピューリタン革命/清教徒革命)』を起こしたところまでお話ししました。 独立派は
幕末から明治(1867~1885年)にかけて、王政復古の大号令の際に定められた三職制の採用から始まり、七官制、二官六省制、三院制、内閣制度と次々と中央官制は変化していきました。 ここでは、組織がどう変わっていったのか?どんな仕事があるのか?
主権国家体制が出来上がるまでに起こった出来事まとめ<15~17世紀>
主権国家とは、国境に囲まれた国土を持ち、自分の国を自分達で決定できる権利を持つ国のことです。 近世以前のヨーロッパでは領土を持つ者として国王以外に領主もいましたし、ローマ教皇の権威も強く国家運営に口出ししてくるような重層的な支配が確立してい
戊辰戦争に勝利した新政府は、その戦いの最中から既に新しい政権発足に向けた動きを活発化させていました。五か条の御誓文の公布や五榜の掲示で今後の基本方針を明らかにし、新たな官制を組織したり東京遷都したりと次々に新たな時代に向けた大変革を実行。そ
イギリス(ピューリタン/清教徒)革命とは?背景から流れまで解説!
イギリスでは絶対王政の全盛期を築いたテューダー朝最後の女王エリザベス1世がスコットランド王のジェームズ6世を次期国王に指名。エリザベス1世が亡くなった後はジェームズ1世(1603-25年)として即位し、新たにステュアート朝が開かれました。
五か条の御誓文とは?どんな内容が書かれていたのか詳しく解説!
幕末の混乱を経て1867年には徳川慶喜が政権を朝廷に返上する大政奉還が行われた後、天皇の下で新たな政府が出来上がります。 最初は徳川慶喜中心の政府になりかけたのですが、討幕しようと動いていた者達にとっては面白いはずもなく、徳川家を潰そうと動
近世ヨーロッパ各国ではイタリア戦争や17世紀の危機や三十年戦争を経験し、主権国家体制が本格的に始まりました。 ※イタリア戦争については第一次イタリア戦争に触れた記事とカール5世の人物伝に詳しく乗っています。 主権国家とは自分たちの国のことを
「神聖ローマ帝国の死亡証明書」と言われたウェストファリア条約を結んで終結した三十年戦争後に成長したのは、神聖ローマの辺境にあったプロイセンやロシアでした。 今回は、この東ヨーロッパで台頭し始めた両国についてまとめていきます。 https:/
明治維新とは?戊辰戦争と新政府の発足までをわかりやすく解説!
ペリーの来航を機に日本では幕末の動乱期に移行し、尊攘運動が討幕運動にかわったのは時間の問題でした。そんな中で時代の潮流に乗ったのは江戸幕府ではなく討幕を目指した新政府です。 やがて最後の将軍だった徳川慶喜は大政奉還で政権を朝廷に返上していま
ハプスブルク家の最盛期を作ったカール5世の華麗なる戦歴/フランソワ1世編<人物伝③>
ハプスブルク家の家族関係をまとめた記事と幼少期から神聖ローマ皇帝・スペイン国王の即位までの経緯をまとめた記事を前回まで紹介しました。 カール5世と言えばヨーロッパのサラブレットであったのと同時に、生涯戦いに明け暮れた君主だったこともわりと有
17世紀後半に市民革命を達成し、18世紀後半には綿糸紡績業を中心に産業革命が始まっていたイギリスをはじめヨーロッパ諸国では蒸気を動力とする機会の利用によって工業生産力が飛躍的に高まっていました。 この革命により大量生産大量消費の時代に移行す
清少納言が枕草子で推しまくっていた、中宮(藤原)定子様の才女っぷりと二人の親密な関係とは?
NHK大河ドラマ『光る君へ』では、平安時代中期を舞台に主人公・まひろ【紫式部】を中心に物語が展開します。この時代には、女流作家たちが活躍し清少納言・和泉式部・など多くの才女たちが登場しました。 その一人として、一条天皇の中宮(藤原)定子も負
これまで日本のお札には18人の偉人たちが採用されました。時代を象徴する人物や偉業成し遂げた人物ばかりです。 今回の記事には兌換券(だかんけん)という言葉が出てきます。 正規の通貨との兌換(引き換え)が保障
ハプスブルク家の最盛期を作ったカール5世(カルロス1世)の華麗なる経歴<人物伝②>
1500年2月24日、ブルゴーニュ公フィリップ美公とスペイン王女フアナの長男としてブルゴーニュ公の居城ガンでカール(カルロス)は誕生し、その宮廷で成長します。ところが、その成長の過程で幼少期に父を亡くし、母が病を発症して...と子ども時代か
ハプスブルク家の最盛期を作ったカール5世(カルロス1世)の華麗なる経歴<人物伝①>
ヨーロッパ史でよく名前の出てくるハプスブルク家の最盛期を築いた人物として知られているのが神聖ローマ帝国の皇帝カール5世です。神聖ローマ皇帝だけでなくスペイン国王カルロス1世としても有名です。 カール5世(wikipedia)より 1500年
ヨーロッパの転換期!三十年戦争とは?結末まで詳しく解説<1618-1648年>
大航海時代からの好景気が止まり、間の悪いことに地球規模の寒冷化が到来。寒いために作物が育たず飢饉となり、栄養不足がたたって疫病(ペスト)が流行するという負のループに入っていた17世紀のヨーロッパ。 人々の気持ちも荒れ、治安が悪化。反乱等が増
徳川家康が江戸幕府を開くにあたり織田信長と豊臣秀吉から何を学んで活かしたのか?
織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食らう徳の川 この歌は江戸時代に作られ、信長・秀吉・家康をうまく表現していると思います。 信長は桶狭間の戦いで勝利したのち、破竹の勢いで天下統一目前まで勢力を伸ばしました。しかし、1582年に本能
平安時代の女性たちは基本的に外出を避け部屋の奥で生活をしていました。 立ち歩くことも良しとせず、座っていることが多かったといいます。 数少ない外出の際には、牛車などのり扇子や袖を使って顔を隠していました。一般庶民はわかりませんが、光る君へで
フランスで1562年から1598年まで宗教内乱・ユグノー戦争が起こったように、神聖ローマ帝国でも宗教を発端とする争い三十年戦争が1618年から始まりました。 もう少し先にイギリスでも同様の動きが現れることになるのですが、神聖ローマ帝国の危機
フランス絶対王政の時代へ【ブルボン朝】<16世紀後半~18世紀>
フランスで起こった宗教戦争・ユグノー戦争を生き残ったアンリ4世が王位を継承したことで始まったブルボン朝。アンリ4世はかなり柔軟に対応しましたが、強硬派のカトリック教徒に殺害されてしまいます。 今回は、そのアンリ4世が亡くなった後のフランスの
フランスの宗教内乱・ユグノー戦争とブルボン朝の始まり<16世紀後半>
シャルル7世が百年戦争に終止符を打ってからのフランスは、国内のイギリス領を一掃し中央集権国家への道を歩んでいました。 ですが、そのシャルル7世の孫・第7代国王のシャルル8世から始まったイタリア戦争で泥沼にはまります。フランスとハプスブルク家
戦国大名たちと宗教勢力の関係を見てみよう<15~17世紀初め>
戦国時代と言えば、全国各地で騒乱が何度も発生していた時代。医療技術も今と比べ物にもなるわけもなく、現在の私たちが考えるよりも『死』がずっと近くにありました。 その『死』と切っても切り離せないのが宗教です。 戦国時代には民衆にも大名にも宗教.
イギリスの海外進出と重商主義政策の開始<16世紀後半~17世紀>
16世紀後半、ヨーロッパではスペインがフェリペ2世の下で全盛期を迎えていました。 この時代は既に宗教改革により新旧対立が起こっていた時期。旧教カトリックを信仰していた彼の治世下でプロテスタントが弾圧され、プロテスタントの多いオランダがスペイ
オランダのスペインからの独立<オランダ独立戦争/八十年戦争>
1517年にドイツで始まったルターによる宗教改革以降、ほかの国や地域でも宗教改革が始まっていたわけですが、今回の主役、オランダでも新たな宗教が広まり始めていました。 オランダでは商業が発達したため、蓄財も良しとするカルヴァン派が多数を占める
簡単で分かりやすいオランダ独立戦争以前までのネーデルラントの歴史
オランダ独立戦争以前の『オランダ』という地域がどんな歴史をたどっていたのかを簡単にまとめていきます。 オランダの地理・特徴を簡単に 下の地図は現在のものですが、日本でいうオランダは地図でいう緑の部分にあたります。ライン川の下流に位置する九州
大河ドラマ『光る君へ』では、平安貴族たちが食事をするシーンが度々あります。 第一回の放送では、三郎(道長)がまひろ(紫式部)にお菓子を渡している描写があります。あの丸いお菓子は【粉熟(ふづく)】と言われるもので、源氏物語では【女二の宮から御
大河ドラマ『光る君へ』では、平安貴族たちが食事をするシーンが度々あります。 第一回の放送では、三郎(道長)がまひろ(紫式部)にお菓子を渡している描写があります。あの丸いお菓子は【粉熟(ふづく)】と言われるもので、源氏物語では【女二の宮から御
ドイツ以外で誕生した新たな宗派とカトリック教会の反撃【1523年以降】
ドイツで起こったルターによる宗教改革は他のヨーロッパ諸国にも伝わっていました。当時のドイツにあった神聖ローマ帝国を治めるハプスブルク家の支配下にあったスイスや海を隔てたイギリス(イングランド)も同様です。 今回は、その二か国で起こった宗教改
近世ヨーロッパは、度重なる戦争で増大する兵員と軍事費の調達に迫られたことから
平安時代の代表的な人物と言えば藤原道長。歴史の教科書に必ず載っている偉人として知らない人は少ないと思います。藤原鎌足を祖
宗教改革とは?ルターとドイツの宗教改革について詳しく解説!【1517年~】
イタリアを中心にルネサンスが始まると、様々な分野で新たに便利な道具が生まれました。実用的な羅針盤や本格的な地図は大航海時
鎖国政策で引きこもり国家のイメージが強い江戸幕府の外交策ですが、徳川家康は幕府開設当初は積極的に諸外国との交易を進める政
戦国三英傑の身長と【どうする家康】で登場した人物も史実と比較!!
歴史上では様々な人物が登場しますが、肖像画だけではその人の体格はイメージできません。特に戦国時代などの戦いが多かった時代
豊臣秀頼は秀吉との親子否定説や生存説など何かと逸話が多い人物だった!?
豊臣秀頼は秀吉と側室の淀殿との子として生まれます。 家康が江戸幕府を開くと、次第に対立し2回の大阪の陣で対決することにな
20世紀後半から世界各国で、地球規模での環境問題が注目されるようになりました。 現在、地球環境問題の代表的なものとして
京を追放された足利義昭は、鞆の浦に逃れ臨時幕府を作っていた!?
一般的に室町幕府は、1573年に足利義昭が織田信長によって追放されたことによって滅亡とされています。そして、信長が本能寺
『現代史の学び直し』冷戦開始からの国際政治の動向と第三世界の台頭
1970年代からヨーロッパを舞台にアメリカが資本主義をソ連が共産主義を提唱して対立しました。この対立は戦争をしたわけでな
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イギリス東インド会社は、1600年にエリザベス1世からインド以東の貿易独占権を認められて誕生した貿易会社です。これは当時のヨーロッパで「絶対王政」が広まり、重商主義政策のもと国が積極的に海外貿易を進めていた時代の流れと重なります。 そうした
戦国時代という混乱の時代、人々は生き残るためにあらゆる選択を迫られました。中でも「裏切り」は、非難されがちな行動でありながら、戦国武将にとっては珍しいものではありませんでした。 血縁関係であっても、情ではなく利で動く――。 盟約を破棄し、昨
戦国時代の武将たちは数多くの戦場を駆け抜けましたが、その中でも90歳を超えて戦い続けた武将がいました。その名は、大島光義(おおしま みつよし)。彼のように長年にわたり現役で戦い抜いた人物は非常に珍しく、その生涯はまさに伝説です。 大島光義は
古代ローマと聞くと、円形闘技場コロッセオや英雄カエサルが思い浮かびますが、実は当時のローマ人は現代の感覚ではちょっと信じられないような暮らしや技術を持っていました。 今回はそんな思わず二度見してしまう古代ローマの風習やテクノロジーを、筆者の
皇帝ナポレオン・ボナパルトと聞くと、戦争に勝ち続けた天才軍略家という印象が強いかもしれません。でも、そんな偉人にも思わずクスッと笑ってしまうようなエピソードがたくさんあります。 今回は、あまり知られていないナポレオンの素顔に迫るエピソードを
歴史の転換点と聞くと、英雄の活躍や壮大な戦争、大国間の争いが思い浮かびますよね。けれど、実は「たった一つのうっかりミス」が世界の流れを変えてしまったケースもあるんです。 今回はお酒の飲みすぎ、鍵のかけ忘れ、道を間違えたことが引き金となった歴
江戸時代中期、田沼意次は老中として幕政を担い、賄賂政治の象徴として語られてきました。しかし近年、その評価は見直されつつあります。田沼の経済政策は、貨幣経済や商業の発展を重視し、明治以降の近代化に先駆けたものだったとする見方が増えています。
インドではムガル帝国が17世紀後半頃から宗教政策の失敗などで衰退。国内で争いが続く中、イギリスの東インド会社が勢力を拡大していました。 これに反発したインド人傭兵シパーヒーたちが1857年にインド大反乱(シパーヒーの乱)を起こしますが、イギ
インドではムガル帝国が17世紀後半頃から宗教政策の失敗などで衰退。国内で争いが続く中、イギリスの東インド会社が勢力を拡大していました。 これに反発したインド人傭兵シパーヒーたちが1857年にインド大反乱(シパーヒーの乱)を起こしますが、イギ
18世紀半ばに始まった産業革命は新たな技術の導入として始まりましたが、実際のところ工業生産の6割を占めていたのはアジアのままでした。特に東アジアでは農工業の生産性や成長率はヨーロッパに引けをとらない値となっています。その経済成長を支えたのが
前回はヨーロッパ各国の徐々に起こった大航海時代や重商主義などから始まった変化、イギリスで最も経済的に貢献したインドとの貿易摩擦から自国で綿織物を作り始めていたこと、農業革命などで産業革命の土台が出来上がっていったことをお伝えしました。 ここ
1600年に石田三成率いる西軍と徳川家康を中心とした東軍が激突した戦い「関ヶ原の戦い」 結果、徳川家康が勝利し石田三成は処断されます。そして、1603年に家康は江戸幕府を開き、260年以上にわたる政権の礎を築きました。 歴史にif(もしも)
ここでは第一次~第四次(場合によっては第三次)まであった産業革命のうち、今回は世界で最も古い時代にイギリスで起こった第一次産業革命をまとめていきます。 ちなみに第一次~第四次産業革命は 第一次産業革命(18世紀後半)蒸気機関の開発により軽工
孫文 清国を崩壊させ、中華民国を成立させた辛亥革命の精神的支柱となったのが孫文でした。ここでは、そんな孫文がどんな人生を送っていったのかをまとめていきます。 革命以前の孫文 孫文は1866年、同治の中興と呼ばれる国内外の混乱が(清王朝の衰退
戦国時代の大名家に生まれた子供たちには、両親に代わり養育や教育を行う乳母や傅役(もりやく)と呼ばれる人たちがついていました。織田信長も例外ではなく幼い時には乳母や傅役がついています。 その中でも平手政秀は、傅役として信長の幼少期から家督を継
織田信長(1534年~1582年)は、戦国時代期において革新的かつ影響力のある人物でした。信長の行った政治、経済、文化、軍事政策は、後の豊臣秀吉や徳川家康に深い影響を与えます。 信長はこれまでの社会の構造を大きく変え、近代化への道を切り開い
中華民国国軍政府成立(WikimediaCommons)より アヘン戦争(1840~42年)、アロー戦争(1856~60年)、清仏戦争(1884~85年)、日清戦争(1894~95年)の敗北などで清の権威が著しく落ち列強諸国の半植民地のよう
門戸開放通牒とは1899年にアメリカの国務長官・ジョン=ヘイが列強による中国分割をいったん止めることになる通牒のことです。 ここでは、門戸開放通牒にはどんな内容が含まれていたのか、宣言が出された背景、影響などを簡単に紹介していきます。 門戸
1894(明治27)年、朝鮮で甲午農民戦争が起こったのをキッカケとして発生した日清戦争。両国ともに軍などの近代化や強力化を進めていましたが(日本→富国強兵/清→洋務運動)、結果は当初の予想を裏切って日本が勝利しました。 以降、清国の領土は列
西太后 出生:1835年10月10日~死去:1908年11月15日配偶者:咸豊帝(在位1850~1861年) 中国では慈禧太后(じきたいこう)とも呼ばれる西太后。背が高く才色兼備の女性で咸豊帝の寵を受けて以降、長年権力の座についています。
幕末から明治(1867~1885年)にかけて、王政復古の大号令の際に定められた三職制の採用から始まり、七官制、二官六省制、三院制、内閣制度と次々と中央官制は変化していきました。 ここでは、組織がどう変わっていったのか?どんな仕事があるのか?
主権国家とは、国境に囲まれた国土を持ち、自分の国を自分達で決定できる権利を持つ国のことです。 近世以前のヨーロッパでは領土を持つ者として国王以外に領主もいましたし、ローマ教皇の権威も強く国家運営に口出ししてくるような重層的な支配が確立してい
戊辰戦争に勝利した新政府は、その戦いの最中から既に新しい政権発足に向けた動きを活発化させていました。五か条の御誓文の公布や五榜の掲示で今後の基本方針を明らかにし、新たな官制を組織したり東京遷都したりと次々に新たな時代に向けた大変革を実行。そ
イギリスでは絶対王政の全盛期を築いたテューダー朝最後の女王エリザベス1世がスコットランド王のジェームズ6世を次期国王に指名。エリザベス1世が亡くなった後はジェームズ1世(1603-25年)として即位し、新たにステュアート朝が開かれました。
幕末の混乱を経て1867年には徳川慶喜が政権を朝廷に返上する大政奉還が行われた後、天皇の下で新たな政府が出来上がります。 最初は徳川慶喜中心の政府になりかけたのですが、討幕しようと動いていた者達にとっては面白いはずもなく、徳川家を潰そうと動
近世ヨーロッパ各国ではイタリア戦争や17世紀の危機や三十年戦争を経験し、主権国家体制が本格的に始まりました。 ※イタリア戦争については第一次イタリア戦争に触れた記事とカール5世の人物伝に詳しく乗っています。 主権国家とは自分たちの国のことを
「神聖ローマ帝国の死亡証明書」と言われたウェストファリア条約を結んで終結した三十年戦争後に成長したのは、神聖ローマの辺境にあったプロイセンやロシアでした。 今回は、この東ヨーロッパで台頭し始めた両国についてまとめていきます。 https:/
ペリーの来航を機に日本では幕末の動乱期に移行し、尊攘運動が討幕運動にかわったのは時間の問題でした。そんな中で時代の潮流に乗ったのは江戸幕府ではなく討幕を目指した新政府です。 やがて最後の将軍だった徳川慶喜は大政奉還で政権を朝廷に返上していま
ハプスブルク家の家族関係をまとめた記事と幼少期から神聖ローマ皇帝・スペイン国王の即位までの経緯をまとめた記事を前回まで紹介しました。 カール5世と言えばヨーロッパのサラブレットであったのと同時に、生涯戦いに明け暮れた君主だったこともわりと有
17世紀後半に市民革命を達成し、18世紀後半には綿糸紡績業を中心に産業革命が始まっていたイギリスをはじめヨーロッパ諸国では蒸気を動力とする機会の利用によって工業生産力が飛躍的に高まっていました。 この革命により大量生産大量消費の時代に移行す
NHK大河ドラマ『光る君へ』では、平安時代中期を舞台に主人公・まひろ【紫式部】を中心に物語が展開します。この時代には、女流作家たちが活躍し清少納言・和泉式部・など多くの才女たちが登場しました。 その一人として、一条天皇の中宮(藤原)定子も負
これまで日本のお札には18人の偉人たちが採用されました。時代を象徴する人物や偉業成し遂げた人物ばかりです。 今回の記事には兌換券(だかんけん)という言葉が出てきます。 正規の通貨との兌換(引き換え)が保障
1500年2月24日、ブルゴーニュ公フィリップ美公とスペイン王女フアナの長男としてブルゴーニュ公の居城ガンでカール(カルロス)は誕生し、その宮廷で成長します。ところが、その成長の過程で幼少期に父を亡くし、母が病を発症して...と子ども時代か
ヨーロッパ史でよく名前の出てくるハプスブルク家の最盛期を築いた人物として知られているのが神聖ローマ帝国の皇帝カール5世です。神聖ローマ皇帝だけでなくスペイン国王カルロス1世としても有名です。 カール5世(wikipedia)より 1500年
大航海時代からの好景気が止まり、間の悪いことに地球規模の寒冷化が到来。寒いために作物が育たず飢饉となり、栄養不足がたたって疫病(ペスト)が流行するという負のループに入っていた17世紀のヨーロッパ。 人々の気持ちも荒れ、治安が悪化。反乱等が増
織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食らう徳の川 この歌は江戸時代に作られ、信長・秀吉・家康をうまく表現していると思います。 信長は桶狭間の戦いで勝利したのち、破竹の勢いで天下統一目前まで勢力を伸ばしました。しかし、1582年に本能
平安時代の女性たちは基本的に外出を避け部屋の奥で生活をしていました。 立ち歩くことも良しとせず、座っていることが多かったといいます。 数少ない外出の際には、牛車などのり扇子や袖を使って顔を隠していました。一般庶民はわかりませんが、光る君へで
フランスで1562年から1598年まで宗教内乱・ユグノー戦争が起こったように、神聖ローマ帝国でも宗教を発端とする争い三十年戦争が1618年から始まりました。 もう少し先にイギリスでも同様の動きが現れることになるのですが、神聖ローマ帝国の危機
フランスで起こった宗教戦争・ユグノー戦争を生き残ったアンリ4世が王位を継承したことで始まったブルボン朝。アンリ4世はかなり柔軟に対応しましたが、強硬派のカトリック教徒に殺害されてしまいます。 今回は、そのアンリ4世が亡くなった後のフランスの
シャルル7世が百年戦争に終止符を打ってからのフランスは、国内のイギリス領を一掃し中央集権国家への道を歩んでいました。 ですが、そのシャルル7世の孫・第7代国王のシャルル8世から始まったイタリア戦争で泥沼にはまります。フランスとハプスブルク家