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後藤和弘のブログ https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。 反対のご意見やコメントも歓迎しま

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2014/10/30

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  • 「鎌倉時代の仏教改革と鎌倉五山とは?」

    写真は鎌倉の報国寺の竹林です。飛鳥時代や奈良時代に日本に入って来た仏教は天皇や貴族のための佛教であり、「護国安泰」の目的で保護されました。従って一般民衆の救済は重要視されていません。ただ空海、すなはち弘法大師だけは天皇、貴族だけでなく民衆の救済のための行脚をしたことで有名です。しかし鎌倉時代になると仏教は武士や民衆の魂の救済を重視するようになります。教義も非常に簡単になり、例えば南無阿弥陀佛と念仏を唱えるだけで極楽に行けるという宗派も出てきたのです。この新しい仏教への変革を鎌倉時代の仏教改革と言います。このような仏教改革を受けて、鎌倉のお寺は建長寺と円覚寺の二つ以外のお寺は規模が小さくて質素なたたずまいです。天皇や貴族の保護を受けた京都の寺のように華やかでありません。静かな小さいお寺が沢山あるのです。私は...「鎌倉時代の仏教改革と鎌倉五山とは?」

  • 「鎌倉で妻が通った小学校とお寺の写真」

    鎌倉はいろいろな意味で確かに魅力ある町です。観光客が絶えません。しかし私にとって鎌倉は特別な意味があります。家内が生まれ、そこで終戦の年まで育った場所でした。終戦時は国民学校2年生でした。家内は結婚以来何度も、何度も鎌倉での楽しい思い出を話します。家内の話を聞いてから、私も彼女の昔の家の近所を何度か散歩しました。そして鎌倉の中をいろいろ歩き回りました。家内が鎌倉生まれで小学校まで住んでいた処は長谷寺の近くで現在の鎌倉文学館の下でした。幼稚園は六地蔵の傍にあった聖母幼稚園へ行っていたそうです。その幼稚園を探したら名前は変わっていましたがありました。通っていた小学校は御成小学校です。現在も当時のままの門がありましたので写真を撮りました。1番目の写真は御成小学校の門です。御成小学校は海蔵寺や寿福寺に行く途中にあ...「鎌倉で妻が通った小学校とお寺の写真」

  • 「秦の始皇帝陵と兵馬俑を見た時の驚き」

    中国に行って驚くことは古い歴史的なものが昔のままに保存されていることです。例えば古都、西安の近くには紀元前246年に作られ始めた秦の始皇帝陵と兵馬俑があります。私は1982年に西安に泊り郊外の秦の始皇帝陵と兵馬俑を訪れ非常に感動しました。特に兵馬俑坑にある武人像の表情が千差万別で活き活きとしていることに感動したのです。さっそく始皇帝陵と兵馬俑の写真を示します。写真は「秦の始皇帝陵」と「兵馬俑」を検索して出て来た数多くの写真から鮮明な写真を選びました。1番目の写真は西安から約30Kmにある秦の始皇帝陵です。陵の小山にはわけなく登れました。頂上には幾つかの石像が祀られていました。眺めが良かったです。2番目の写真は始皇帝陵から1Kmはなれた兵馬俑坑です。巨大な覆いの屋根がかけてあります。武士俑は等身大の素焼きで...「秦の始皇帝陵と兵馬俑を見た時の驚き」

  • 「淋しい独り旅」3,石垣島からゆく離島めぐり

    離れ島への憧れ、沖縄周辺に散在する離島への旅です。沖縄ぼ周辺には実に数多くの離島が散在しています。ある離島愛好家それらの沖縄の離島を訪問した旅日記の抜粋をご紹介致します。詳しくは、https://okinawa-labo.com/ishigakiisland-isolatedisland-12561をご覧下さい。=========================「石垣島からゆく離島めぐり!9島紹介&体験レポ」沖縄をとことん満喫したいなら、離島トリップが最適です。「これぞ沖縄!琉球!」という町並みや、夢のような美しさの海・緑・星空が楽しめます。石垣島離島ターミナルからは毎日何便もの離島往復船がでていて、手軽に離島めぐりが楽しめます。<目次>【1】3分でわかる離島めぐりの基本【1-1】行けるのは八重山諸島の9...「淋しい独り旅」3,石垣島からゆく離島めぐり

  • 「淋しい独り旅」2,ローテンブルグ、バンベルク、レグニッツ川への旅

    私の独り旅はアメリカ留学からはじまりました。留学は24歳から26歳まででしたが、34歳のときドイツに留学しました。ドイツの文化にも魅了されました。外国に住むと、その国が好きになってしまうのです。今日はドイツのローテンブルグ、バンベルク、レグニッツ川の風景をご紹介いたします。まず初めに私が3ケ月住んでドイツ語を集中的に勉強したローテンブルグの風景写真と隣町のバンベルグのをご紹介しましょう。そしてレグニッツ川もご紹介します。1番目の写真はローテンブルグの夜の風景です。写真の出典は、https://beautiful-photo.net/medieval-town-of-rothenburg-ob-…です。2番目の写真はローテンブルグのルクト広場と市庁舎です。出典は、https://washimo-web.jp...「淋しい独り旅」2,ローテンブルグ、バンベルク、レグニッツ川への旅

  • 「淋しい独り旅」1,蝦夷地、松前藩への旅

    仕事を止めてから私はよく独り旅に出ました。時々は家内も一緒しましたが家内には両親の介護があたったのです。独り旅は寂しいものです。しかし訪問先の町や人々に深い思いが残るものです。印象深い旅になるのです。今日からそんな独り旅の思い出の記事をいくつか書いていきたいと思います。第一回目は蝦夷地、松前藩への旅について書きたいと思います。松前は北海道の南の端の部分です。此処だけへは和人が移住し松前藩を作っていました。残りの北海道はアイヌ民族が栄えていました。従って松前藩の和人はアイヌ人と戦いや和睦をしながら彼等と物々交換の交易をし鮭や昆布を手に入れていました。松前の和人は他民族と交流しながら生活をしていたのです。私は松前に2度行きました。そこで今日は他の藩とは違った松前の歴史をご紹介したいと思います。それは興味深い歴...「淋しい独り旅」1,蝦夷地、松前藩への旅

  • 「カトリック」と「プロテスタント」の違いの明解な説明

    「カトリック」と「プロテスタント」の違いの明解な説明を見つけましました。感動したので転写致します。上馬キリスト教会ツイッター、https://diamond.jp/articles/-/305015よりの転写です。「カトリック」と「プロテスタント」の違い「キリスト教」には、じつに多くの「教派」があります。最も多くの方が知っている教派は、何といっても「プロテスタント」と「カトリック」でしょう(もう一つ、日本ではあまり知られていませんが「正教会」という大きな教派もあります)。「教派」はこうして分かれていった始まりは、イエス様とその弟子たちがつくった「キリスト教」です。後にキリスト教はローマ帝国の国教になりましたが、このローマ帝国が東西に分裂。そのため、教会も東西に分かれることになりました。やがて東西の教会は別...「カトリック」と「プロテスタント」の違いの明解な説明

  • 「ベトナムのカトリック教会の写真」

    ベトナムのサイゴンの町の中心にある聖マリア大聖堂の写真と混雑している町の写真をお送り致します。聖マリア大聖堂はサイゴン大教会とも呼ばれています。詳しくは下記をご覧ください。https://hiroshisj.hatenablog.com/entry/20130624/1372063636「ベトナムのカトリック教会の写真」

  • 「今日の 復活節第5主日のミサの風景の寫眞」

    今日の復活節第5主日のミサの風景の寫眞をお送りいたします。「今日の復活節第5主日のミサの風景の寫眞」

  • 「長崎のカトリック教会の写真」

    長崎にはカトリック教会がたくさんあります。幾つかの教会の写真をお送り致します。1番目の写真は大浦天主堂です。大浦天主堂は、幕末の開国にともなって造成された長崎居留地に、在留外国人のために建設された中世ヨーロッパ建築を代表するゴシック調の教会で、現存するものでは国内最古となります。聖堂内を飾るステンドグラスの中には、約100年前のものもあります。2番目の写真は平戸ザビエル記念聖堂です。禁教が解けて信徒が住むようになり1931年、大天使聖ミカエルに捧げた教会が建てられ、献堂40年にザビエル像を建て、「平戸ザビエル記念聖堂」とよばれるようになった。3番目の写真は出津教会堂です。1879年に潜伏キリシタンが多かった外海の出津・黒崎地区に赴任し生涯を外海に捧げたド・ロ神父が、風の強い斜面の台地に、1882年、私財を...「長崎のカトリック教会の写真」

  • 「今日の 復活節第5主日のミサの動画配信」

    今日のミサの動画配信は下記にあります。https://www.youtube.com/live/ji4DEtlg5nM【本日の聖書朗読箇所】第1朗読使徒たちの宣教(使徒言行録14:21b-27)第2朗読ヨハネの黙示(黙示録21:1-5a)福音朗読ヨハネによる福音(ヨハネ13:31-33a,34-35)カトリック麹町聖イグナチオ教会102-0083〒東京都千代田区麹町6-5-1電話:03-3263-4584「今日の復活節第5主日のミサの動画配信」

  • 「感動的だった旅の思い出」(4)南米、カラカスと闘牛場でのミサ」

    ベネズエラは南米大陸の北の部分を占める国。首都、カラカスに2週間ほど滞在した。1976年の事だった。裕福な人々は平地の街中に住み、貧しい人々は街を囲む山の斜面に手造りの家々を作り密集して住んでいる。熱帯特有の、あくまでも濃いコバルトブルーの空の下、人々は陽気で、明るく生きている。しかし、貧富の差の大きさと、生活の厳しさに、胸が痛くなる。こんな風景は南米以外には無い。ベネズエラへの人々への追憶は何故か悲しさに満ちている。ホテルの受付で、「キリスト教のミサに行きたいが何処かに教会があるか?」と聞いてみた。受付机のボーイが、「それなら裏にある闘牛場へ、朝7時に行け」と言う。翌朝、早起きをして行ってみた。荒れて崩れかかった巨大な闘牛場の観客席を人々が埋め尽くしている。街の背後の山の貧民街から来た人々であるという。...「感動的だった旅の思い出」(4)南米、カラカスと闘牛場でのミサ」

  • 「感動的だった旅の思い出」(3)ナイアガラの滝の写真

    感動的だった旅の思い出の一つにナイアガラの滝への旅があります。若い頃にオハイオ州立大学に留学していた折りに見に行きました。オハイオから比較的に近いのです。滝の写真をお送りいたします。写真はインターネットからお借りしました。「感動的だった旅の思い出」(3)ナイアガラの滝の写真

  • 「感動的だった旅の思い出」(2)鹿児島の開聞岳と麓に広がる池田湖

    鹿児島の開聞岳の麓に広がる広がる池田湖の風景写真をお送りいたします。池田湖は地質学的に興味深い湖なので少し説明しておきます。1番目の写真は池田湖です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%B9%96です。池田湖は周囲15kmで最大水深は233mもある湖です。九州最大のカルデラ湖です。大鰻が棲んでいることで有名です。池田湖の湖面の標高は66mで深さは233もあり最深部は海底より低く海抜-167mです。湖底には直径約800m湖底からの高さ約150mの湖底火山があることが珍しいのです。約6,400年前に現在の池田湖付近から激しい水蒸気噴火が始まり大規模な火砕流の噴出と続き、現在の池田カルデラが形成されました。池田湖にはコイ、ワカサギ...「感動的だった旅の思い出」(2)鹿児島の開聞岳と麓に広がる池田湖

  • 「感動的だった旅の思い出」(1)海に向かって並ぶ伊根の舟屋への旅

    老境に至って人生を振り返るといろいろな旅の思い出が蘇ってきます。旅は私の人生を豊かにしてくれました。そこで「感動的だった旅の思い出」という連載記事を書いてもようと思います。記事を書いているともう一度旅をしているような気分になります。書きながら昔行った所へ旅するのです。鮮烈に記憶が蘇ります。今日は1990年前後に3度訪れた伊根の舟屋をご紹介致したいと思います。「伊根の舟屋」は本当に美しい風景です。日本三景の天の橋立のすぐそばです。伊根の舟屋は京都府の日本海側の与謝郡、伊根町の海沿い立ち並ぶ家です。1階にある舟の収納場所の上の2階に人が住んでいます。これは独特な伝統的建造物です。舟屋は江戸時代中期頃から作られました。現在、240軒ほどあります。この地区は「伊根町伊根浦伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統...「感動的だった旅の思い出」(1)海に向かって並ぶ伊根の舟屋への旅

  • 「今日の散歩道の風景」

    今日の散歩道の風景の写真をお送り致します。都立武蔵野公園武蔵まで行ってきました。「今日の散歩道の風景」

  • 「ポーランドの聖なる木造教会の写真」

    ポーランドには木造教会がたくさんあります。写真はセンコヴェにある1520年に創建された木造教会です。その他たくさんの木造教会は下記の紹介されています。、https://madamefigaro.jp/.../travel/231003-wooden-church.html外観の特徴は、緩やかなカーブを描くこけら葺きの大きな屋根だ。なんとも美しい!よく見ると、建物の内部の周りをぐるりと囲むように庇の下(軒下)に広い空間が設けられている。これは「土曜日(ソボタ)」と呼ばれている。その理由は、日曜日に遠方からミサへやってくる人々が土曜日の夜に泊まるスペースだったそうで、その名が付けられたという。モミの木を使い、釘を1本も使わずに建てられている。「ポーランドの聖なる木造教会の写真」

  • 「ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの関係史と武力侵攻」その3

    「ウクライナ、べラルーシ、ロシアの関係史と武力侵攻」のその3としてロシアとの関係の歴史を書こうと思っていました。しかしウクライナとロシアの関係での一番重大な事件が最近あったのです。ロシア兵によるウクライナ人の婦女子に対する暴行や虐殺です。規模の広汎な暴行と虐殺です。世界が震かんした歴史上稀な残虐行為です。ウクライナとロシアの将来の関係に最悪の影響が残る歴史的な事件でした。ロシアは過去に輝かしい文化を持っていた国でした。しかし今回のことで全てが無に帰しました。プーチン大統領は自国のロシアを破滅させたのです。以下にこれに関するロイターの報道を転載致します。「ロシアの「戦争犯罪」糾弾、民間人多数殺害で和平交渉困難」https://jp.reuters.com/article/ukraine-crisis-idJ...「ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの関係史と武力侵攻」その3

  • 「ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの関係史と武力侵攻」その2

    ベラルーシという新しい国が出来たのは1991年です。日本人に馴染めのない名前です。ロシアの西部地方です。この地域には白ロシアという国がありまました。しかしウクライナ地域のように独立運動は起きなかったので日本人はロシアの一地方と理解していたのです。現在でもロシアと親密です。ウクライナへ軍事侵攻したロシア軍の一部はベラルーシにある基地からウクライナへ軍事侵攻したくらいです。荒っぽく言うとベラルーシはロシアに隷属した半独立国なのです。この点はウクライナと非常に違う点です。ロシアと一体化していたので1941年からナチス・ドイツに占領されたベラルーシは壊滅的な打撃を受けたのです。これは大きな悲劇です。第2次世界大戦中、ベラルーシは人口の約25%をナチス・ドイツに殺されたのです。ベラルーシの当時の人口900万人でした...「ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの関係史と武力侵攻」その2

  • 「ウクライナ、べラルーシ、ロシアの関係史と武力侵攻」その1

    今回のロシアによるウクライナへの武力侵攻は何故起きたのだろうか。ロシアの暴虐な侵攻は世界に衝撃を与えています。あまりにも理不尽です。そこでこの侵攻の背景を調べて見ました。それにはウクライナ、べラルーシ、ロシアの関係の歴史を調べる必要があります。今日は「ウクライナ、べラルーシ、ロシアの関係史と武力侵攻」のその1としてウクライナの歴史を書きます。まずその前にウクライナ、べラルーシ、ロシアの3国の関係を簡略に書きます。重要なことはこの3国はソ連時代に団結してソ連を支えアメリカ陣営に対抗した歴史です。しかし歴史的にはウクライナでは独立運動が続いたのです。これに対照的にべラルーシは「白ロシア」とも呼ばれロシアと友好関係が強かったのです。まぎらわしいのですが「白ロシア」と「白系ロシア人」とは違います。「白系ロシア人」...「ウクライナ、べラルーシ、ロシアの関係史と武力侵攻」その1

  • 「昭和の仙台の繫華街,東一番町と大町の通りの写真」

    仙台の繫華街は東一番町と大町の通りです。私は昭和11年生まれで戦後の昭和30年前後に繫華街の繫華街,東一番町と大町の通りによく遊びに行ったものです。1番目の写真は懐かしい繫華街,東一番町と大町の通りのです交差点です。左はひらつか菓子で、右手前は森天祐堂、パンと洋菓子の信用堂などが並んでいた。2番目の写真は一番町通りと青葉通りの角です。写真の中のパンのひらつかは青葉通り(平行に見える通り)の北側と一番町通り(上下に通っている狭い方)の西側に位置しています。一番町を挟んだ向かい側には以前は森裕天堂という画材屋さんです。一番町という名称は以前藩政時代からの名称の一番丁(町ではなく)と言いました。正確には東が付いて、東一番丁、東二番丁、東三番丁、となりました。同様に北一番今もその名称は使われていると思います。ちな...「昭和の仙台の繫華街,東一番町と大町の通りの写真」

  • 「アラスカ の絶景、山と水と森が織りなす壮大なパノラマ」

    アラスカはアメリカ最大で日本の4倍の広さがあります。最大の都市アンカレジや第二の都市フェアバンクスを中心におよそ70万人の人々が暮しています。アメリカでもっとも人口密度が低い場所です。森林や氷河、フィヨルドが総面積の95%以上を占めています。アメリカ大陸を代表する“大自然の楽園”として多くの人々に愛されています。(https://ontrip.jal.co.jp/ame/17314360)「アラスカの絶景、山と水と森が織りなす壮大なパノラマ」

  • 「遥かなカムチャッカ半島の咲く花の写真」

    カムチャッカ半島は極寒の地です。標高の低い場所に、日本の高山帯の植物の花が咲いています。日本の高山植物のルーツのようです。写真の出典は、https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=441です。「遥かなカムチャッカ半島の咲く花の写真」

  • 「遥かな北のカムチャッカ半島やアリューシャン列島などの地図」

    この前の記事で日本の北に住んでいたアリュート族などをご紹介しました。その地域の地図を示します。日本の北方の千島列島、樺太、カムチャッカ半島、アリューシャン列島などの地図です。日本の北方には太古にアフリカから移住して来た原住民のアリュート族やイテリメン族やアイヌ民族が住んでいました。千島と樺太には北方アイヌ民族が住んでいました。現在、カムチャッカ半島はロシアの領有地です。アラスカとアリューシャン列島はアメリカ領です。このカムチャッカ半島やアリューシャン列島そしてアラスカの地図をご紹介いたします。1番目の写真は日本の北方地域の地図です。その後、ロシア正教の宣教師が派遣されカムチャッカ半島、アリューシャン列島、そしてアラスカにはロシア正教の教会が建てられたのです。しかし1867年にロシア皇帝はアリューシャン列島...「遥かな北のカムチャッカ半島やアリューシャン列島などの地図」

  • 「遥かなアリューシャン列島とカムチャッカの先住民の文化」

    白崎謙太郎さんが海洋冒険小説の本をごく最近、出版しました。「明治・海・2人」という本です。内容を簡単に言うと、2つの部分に分けられます。一つはアリュート族の青年のニコライがカヌーでアリューシャン列島、カムチャッカ半島、そして千島列島へと単独航海する話です。そして2つ目は横浜在住のイギリス人、スノーがスクーナー帆船で何度も千島列島へラッコ猟に行く話です。どちらも明治維新前後の話です。この本はあくまでも小説ですが、アリューシャン列島とカムチャッカ半島の史実が書いてあるのです。そこで今日はこの地域の文化をご紹介いたしたいと思います。さらにアラスカまでを何故、ロシアが領有したかを説明したいと思います。そしてアリュート族やカムチャッカ半島の先住民について簡単な説明をしたいと思います。さて初代ロシア皇帝、ピョートル1...「遥かなアリューシャン列島とカムチャッカの先住民の文化」

  • 「今日の午後の散歩は都立武蔵野公園まで」

    今日も晴れでした。午後の散歩は都立武蔵野公園まででした。「今日の午後の散歩は都立武蔵野公園まで」

  • 「八丈島の魅力」、その3「荒れる冬の海と八丈島」

    写真を撮っている私の顔に冬の烈風が冷たい針のように刺さります。風の音がヒューッと耳もとで鳴っています。荒れ狂う恐ろしい波音が体に響きます。寒さと豪音で骨まで震えます。本人は冬の強風に荒れる海の様子を必死で写しているのです。しかし出来上った写真は沸き立つ波の迫力を描きだしていません。怖がっていないでもっと波のそばへ近寄って撮影すべきだったと反省しています。200い9年2月28日から31日にかけて船の欠航の間に八丈島で写した写真7枚をおおくり致します。(終わり)「八丈島の魅力」、その3「荒れる冬の海と八丈島」

  • 「八丈島の魅力」、その2「 團伊玖磨の『パイプのけむり』」

    私は2009年1月に冬の波荒れる八丈島へ独りで旅をしました。帰りの船が悪天候で欠航したので非常に印象深い旅になりました。芝浦の桟橋から遥か286Kも船に揺られて翌朝辿り着いたのです。着いてみると八丈島は想像以上に大きな島です。島の東に10万年前の噴火山の三原山があり、西に1万年前に出来た八丈富士があり、その間が平野で農村が広がっています。そして西の海上には八丈小富士という急峻な火山が突き出ています。島の周囲は60Kmです。1番目の写真は2009年1月に撮った写真です。東の三原山の中腹から西の八丈富士を撮った写真です。レンタカーを借りて江戸幕府の島役所跡や古い集落や秀吉の家老だった宇喜多秀家のお墓にも行きました。そして八丈島には音楽家として昭和時代に活躍した有名な團伊玖磨(だんいくま)の別荘があるのです。八...「八丈島の魅力」、その2「團伊玖磨の『パイプのけむり』」

  • 「八丈島の魅力」、その1

    八丈島は東京都ですが太平洋のかなたの孤島です。私の憧れの地なので船に乗って訪れました。美しい別世界でした。その八丈島の魅力を連載記事でご紹介したいと思います。まずはじめは八丈島のフリージア祭りです。毎年、3月の下旬に開催されます。八丈島フリージア祭りは春を告げる季節の風物詩です。そこで八丈島のフリージア畑の風景の写真をお送り致します。1番目の写真は八丈富士の麓に広がっているフリージア畑です。2番目の写真はフリージア畑に観光客が自由に入っている様子です。3番目の写真は観光客が自由にフリージアの花を摘み取っている様子です。フリージアの花は無料です。自由に摘み取って持ち帰って良いのです。詳しくは、http://www.infiorata88.com/freesia2016/をご覧ください。この八丈島に私は200...「八丈島の魅力」、その1

  • 「ヘルシンキの美しい風景」

    1972年にストックホルム工科大学のエケトルプ教授に招待されて4ケ月滞在していた折に北欧への旅もしました。ヘルシンキ工科大学のハイキンハイモ先生を訪問しました。寂しい北国への独り旅でした。冷えた私を温かく迎えてくれたのがハイキンハイモ先生でした。先生は私を自宅での夕食にも招待してくれました。思い出すのは、その国の美しい風景です。そこでヘルシンキの美しい風景の写真をお送り致します。夏の快晴の風景です。美しい街ですね。「ヘルシンキの美しい風景」

  • 「「楽しいホテルの思い出(12)諏訪レイクサイドホテル」

    10年前までは時々、車で一泊旅行へ行きました。格調の高いクラシックホテルも安くて良い施設の旅館やホテルもいろいろ調べて行きました。選び方が良いと感動的な所に泊ることができます。以前、家内と泊った諏訪レイクサイドホテルは、2食つき一泊8000円でした。その写真を示します。このホテル部屋からの眺めが良かったのです。建物は新しくはありませんが清潔です。食事は土地の豚肉、サーモン、ワカサギ、野菜などを工夫して調理しています。その上、サービスが感動的でした。もう少し具体的に書きます。従業員の数が多くて皆が家庭的な態度で親切にしてくれます。そのサービスの態度に努力臭さが無くて、のびのびしています。あまり努力されるとこちらまでが窮屈になるのです。このホテルの従業員は皆心がなごやかです。夕食の世話をしてくれたのがウクライ...「「楽しいホテルの思い出(12)諏訪レイクサイドホテル」

  • 「楽しいホテルの思い出(11)白馬東急ホテルと遥かな八方尾根」

    白馬東急ホテルは何度も泊まったことがありました。あれは子供がまだ小さかった60年以上前のことだったでしょうか。そのホテルは信濃大町の奥、木崎湖や青木湖のさらに奥の八方尾根や白馬連峰の下の高原にありました。当時の古いホテルはスイスの山岳ホテルのような三角屋根の木造でした。部屋は屋根裏部屋の感じのような内装で、小さな縦型の窓がついていました。庭には芝生が広がり、その向こうは森になっています。古いヨーロッパのホテルの雰囲気でした。その森を抜けると白馬連峰が見渡せるのです。近くのゴンドラに乗ると八方池まで登れたのです。そこからは八方尾根の向うに広がる白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳、小蓮華岳などがパノラマのように見えたものです。その初めての旅は私ども家族にとっては非常に印象深い旅でした。その思い出があるので、その後も数...「楽しいホテルの思い出(11)白馬東急ホテルと遥かな八方尾根」

  • 「八ヶ岳の清泉寮と若かった妻の思い出」

    八ヶ岳の麓の清春に清泉寮があります。新婚の頃若かった妻が目を輝かせて清泉寮の素晴らしさを話していました。学生時代に泊まって感動したと話していました。そのせいで私も何度も泊りに行きました。八ヶ岳の麓の清泉寮かいわいの写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。1番目の写真は八ヶ岳です。2番目の写真は清里の清泉寮です。清泉寮の売店でジャージー種の牛乳で作ったソフトクリームを販売しています。3番目の写真は清泉寮の前に広がる牧場です。4番目の写真は八ヶ岳の麓を走るJr小海線です。「八ヶ岳の清泉寮と若かった妻の思い出」

  • 「楽しいホテルの思い出(10)日光の金谷ホテルと中禅寺湖、竜頭の滝の紅葉など」

    今日は日光の金谷ホテルをご紹介して、続いて中禅寺湖、竜頭の滝などの紅葉風景を示したいと思います。1番目の写真は日光の金谷ホテルです。このホテルは現存する最古のリゾートホテルで国の登録有形文化財です。3度ほど泊りましたがサービスの質が高いのに驚きました。箱根の宮の下の富士屋ホテルと同じ雰囲気です。階段の手すりに擬宝珠がついていたり、部屋のバスタブは猫足だったりして明治の香りが漂っています。夕食に出た鱒のムニエル等も当時の料理法かクラシックは感じでした。雅楽の「笙」の奏者であった金谷善一郎がアメリカ人のヘボンを自宅に招き入れたのがホテルの始まりでした。ヘボンは医師でありヘボン式ローマ字の考案者としても知られています。明治4年のことでした。写真の出典は、https://www.smbc-card.com/mem...「楽しいホテルの思い出(10)日光の金谷ホテルと中禅寺湖、竜頭の滝の紅葉など」

  • 「楽しいホテルの思い出(9)軽井沢の万平ホテルや三笠ホテルなど」

    明治維新で西洋の文化が日本に入って来ました。ホテルも入って来ました。それは西洋文化の発信基地でした。多くの外国人が日本に来るようになり、ホテルが必要になったのです。以前の日本には旅館や宿屋といった宿泊施設は存在しておりました。現存する世界最古の宿は西暦705年(飛鳥時代)に創業した、山梨県の慶雲館という旅館でギネスにも認定されているそうです。私は昔から西洋文化に憧れていました。ですから旅行に行くとホテルに泊ります。いろいろなホテルの思い出があります。今日は軽井沢の万平ホテルと「ゆとりろ軽井沢ホテル」と三笠ホテルをご紹介致します。何度か行った軽井沢で泊まったり訪問したホテルです。軽井沢には明治27年創業の万平ホテルがあります。そして明治39年創業の三笠ホテルも現在は廃業していますが、その建物は国の重要文化財...「楽しいホテルの思い出(9)軽井沢の万平ホテルや三笠ホテルなど」

  • 「思い出の温泉、秋保温泉、酸ケ湯、乳頭温泉、鳴子温泉、鬼首温泉、裏見ケ滝温泉、」

    今日は懐かしい温泉の写真をお送り致します。少し説明をつけます。昭和11年生まれ、24歳になるまで仙台に住んでいたました。近くには作並温泉や秋保温泉、鳴子温泉などがあります。当時は他にあまり楽しみが無いのでよく温泉へ行ったのです。そして東北地方にある数々の温泉へも行きました。東北の人はよく温泉に行きます。温泉文化の地なのです。東北地方の温泉では農閑期や冬には湯治が普通で、旅館には湯治客専門の部屋と共同炊事場があり調理器具、食器を貸してくれます。他にすることが無いので朝、昼、夜と数回、温泉につかります。これを数日繰り返すと体の疲れがすっかり取れ、爽快な健康体になるのです。温泉は万病に効くとはこのことです。東北地方では温泉はつかるものであり、体は洗わないのです。ですから洗い場が無いのです。自分が入った温泉で印象...「思い出の温泉、秋保温泉、酸ケ湯、乳頭温泉、鳴子温泉、鬼首温泉、裏見ケ滝温泉、」

  • 「楽しいホテルの思い出(8)ホテル「KKRかわゆ」に3泊し荒涼たるトドワラ、ナラワラ、野付湾へ」

    長い人生でいろいろな所へ旅をしました。印象深い旅もありました。感動的だった旅は北海道の東の端にある荒涼たるトドワラ、ナラワラ、野付湾への旅です。それは北海道の東部を巡る旅でした。川湯のホテルの「KKRかわゆ」に3泊し、トドワラ、ナラワラ、野付湾、摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖などを訪れました。「KKRかわゆ」は国家公務員共済組合連合会の川湯保養で質素な宿でした。1番目の写真は3泊した「KKRかわゆ」です。トドワラや摩周湖やサーモンセンターをそれぞれ訪問しました。道東には広大な大地が広がり、牧場がえんえんと続いています。その先にトドワラ、ナラワラ、野付湾、があるのです。2012年9月17日から20日のことでした。野付半島は巨大な砂州で出来た半島です。下の写真のように野付湾を囲んでいるのです。2番目の写真は野付湾の...「楽しいホテルの思い出(8)ホテル「KKRかわゆ」に3泊し荒涼たるトドワラ、ナラワラ、野付湾へ」

  • 「楽しいホテルの思い出(7)北海道のホテル・ピアノ」

    感動したホテルをご紹介致します。大規模で贅沢なリゾートホテルの北海道のキロロのホテル・ピアノです。日本が高度成長していた頃に設計され建設された驚異的な施設です。2010年の6月に行き、感動しましたので、何度かホテル・ピアノに泊りました。キロロはアイヌ語で「心」を意味するそうです。小樽から毛無山峠を越して、深い山に入った北海道余市郡赤井川村にあります。ホテルの部屋も広く、インテリアも落ち着いています。食事も美味しかったです。ホテルから続くレストラン街も良い雰囲気でした。そんな風景を写真で示します。まず2010年の6月の新緑の頃に撮った2枚の写真を示し、その下に晩秋の風景写真を2枚示します。季節によって風景が変化している様子をお楽しみ下さい。アクセスや宿泊料など詳しくは、http://www.kiroro.c...「楽しいホテルの思い出(7)北海道のホテル・ピアノ」

  • 「楽しいホテルの思い出(6)上高地帝国ホテルと穂高連峰」

    よく泊った上高地帝国ホテルです。家内が撮った上高地帝国ホテルの写真と残雪のある穂高連峰の写真をお送り致します。上高地帝国ホテルは1933年(昭和8年)わが国初の本格的高級山岳リゾートホテルとして開業しました。スイスの山小屋をイメージした赤い三角屋根と吹き抜けのロビーの巨大な暖炉が特徴のクラシックホテルです。残雪のある穂高連峰が眼前に迫る眺望は上高地帝国ホテルの大きな魅力です。上高地は標高1500mで冬期は雪に覆われて通行ができなくなるので毎年4月下旬から11月上旬の約半年間だけ営業しています。上高地帝国ホテルと残雪のある穂高連峰の写真をお送り致します。帝国ホテルの写真は家内が撮りました。穂高の写真は2010年7月5日午後に大正池から河童橋へ梓川沿いに歩きながら撮りました。青空の見える日でした。「楽しいホテルの思い出(6)上高地帝国ホテルと穂高連峰」

  • 「イギリスの中世を再現したブリティッシュヒルズ」

    福島の山の中にあるブリティッシュヒルズの写真をお送り致します。建築様式からインテリアまでこだわり抜いた「本物」です。その理念の元、建築資材は全てを英国から取り寄せ建築様式からインテリアに至るまで時代考証に基づいて作りました。海抜1,000メートルの森の中にあるブリティッシュヒルズ。7万3,000坪の広大な敷地内は外界から遮断された非日常空間です。夏は涼しく、冬は白銀の世界です。朝・晩に出る霧も、英国の雰囲気を演出します。詳しくは、https://www.british-hills.co.jp/をご覧下さい。「イギリスの中世を再現したブリティッシュヒルズ」

  • 「楽しいホテルの思い出(5)北海道の定山渓のホテル」

    札幌の郊外にある定山渓(定山渓温泉)へは2004年の春の新緑の頃に家族旅行で初めて行きました。大都会の札幌から少しだけ離れた温泉地ですが、山奥の温泉地で谷地のあちこちから湯気を上げて温泉が湧き出しています。その近辺の峡谷の紅葉が綺麗だと聞いたので秋にも2度ほど行きました。温泉街から温泉が湧き出している峡谷まで遊歩道があります。ゆっくり登って行くと山々のカエデ、ヤマブドウ、ナナカマドなどが真っ赤に色ずいています。温泉が湧き出している裸の岩肌の回りを紅葉が飾っています。立ち上る湯気が紅葉を一層美しくしています。定山渓温泉は紅葉の頃が一番美しいのです。例年、10月中旬が見頃で、定山渓の紅葉ビュースポットをめぐるバスも運行されています。この温泉は東京からのお客も多いので旅館やホテルも良いです。料理も洗練されていま...「楽しいホテルの思い出(5)北海道の定山渓のホテル」

  • 「楽しいホテルの思い出(4)横浜のホテル ニューグランドと中華街」

    はじめに横濱、ホテルニューグランドの写真をお送りします。ホテルは文化です。ロマンがあります。私の若い時からの憧れでした。上高地の帝国ホテル、箱根の富士屋ホテル、日光の金谷ホテル、軽井沢の万平ホテル、河口湖の富士ビューホテル、などなどです。日本の古き良き時代の香りが漂っています。そして横浜のホテルニューグランドです。窓の外には白い大きな船が見えます。1960年代まで山中湖にニューグランドが経営する夏だけの山中湖ニューグランドがありました。家族とともに泊りました。その後、山中湖の夏のホテルは廃業してしまいました。そんな思い出もあるので、横濱のホテルニューグランドに泊ってみたり、お茶だけを飲みに寄ったりします。写真をご覧になって古き良き時代を偲んで頂ければ嬉しく思います。すべての写真は以前に私たちが撮った写真で...「楽しいホテルの思い出(4)横浜のホテルニューグランドと中華街」

  • 「小金井公園までの散歩道の風景」

    先ほど小金井公園まで散歩して来ました。その道の風景の写真をお送り致します。ここでは沿道の家々が写っていない写真だけを選びました。撮ってきた写真をお送り致します。「小金井公園までの散歩道の風景」

  • 「遥かに遠い国、ノルウェーの風景」

    もう何十年も前にトロンハイムにノルウェー工科大学を訪ねたことがあります。ノルウェーは人がいなくて寂しい国です。そんなことを思い出しながらノルウェーの風景と紅葉の写真をお送り致します。写真はインターネットからお借りしました。「遥かに遠い国、ノルウェーの風景」

  • 「楽しいホテルの思い出(3)北海道のトマム」

    北海道へ旅では大型リゾート・ホテルのトマムにも泊りました。その雄大な自然に囲まれた高層ホテル棟と重厚ながら洒落たショッピング・レストラン街には、正直言って非常に驚きました。巨大なトマムのホテルをご紹介いたします。トマムは札幌から東へ140Kmの所にあります。北海道勇払郡占冠村です。私どもが泊まった時はトマムは満員でした。修学旅行の学生が大勢泊まっていました。そして地元の若い人々が多数働いています。北海道を出なくても働き口がこんなにあるのです。地域経済にとっても大成功です。しかしトマムには挫折の悲劇があったのです。そして後をついだ会社の血と汗のにじむような営業努力で再生しているのです。トマムは平日でも776部屋もある高層ホテルが満員でした。北海道の大型リゾートは過疎化の激しい村がデベロッパーと組んだ第三セク...「楽しいホテルの思い出(3)北海道のトマム」

  • 「楽しいホテルの思い出(2)北海道のグランドパーク小樽」

    2014年の12月3日に小樽で泊まったホテルはグランドパーク小樽という華やかな雰囲気のホテルでした。以前はヒルトン小樽というホテルで外装、内装ともに一流のホテルでした。そのホテルの1番目の写真はHPからお借りしました。その他の3枚の写真は2014年12月3日に撮ったものです。ホテルのメイン・ダイニングの眼前に広がる華やかなヨットハーバーの風景写真と北一ガラス店の内部の美しいガラス工芸品の写真などもお送り致します。今日は北海道のグランドパーク小樽ご紹介いたしました。感動的なホテルでした。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)「楽しいホテルの思い出(2)北海道のグランドパーク小樽」

  • 「楽しいホテルの思い出(1)箱根の山のホテル」

    思い出ばかり書いて恐縮です。しかし老境にいる私にとっては思い出を書くことが楽しいのです。今日も書きますが勘弁してください。自分の結婚のことです。私共は1963年に留学さきのオハイオ・コロンバスで結婚しました。1964年に帰国して新婚旅行のように箱根への旅をして「山のホテル」に泊まりました。そんな訳「山のホテル」は印象深いホテルなのです。おれから茫々60年余です。妻は随分老いましたが、相変わらず素直で優しい心です。それはさておき、今日は昔泊った箱根の「山のホテル」をご紹介いたします。「山のホテル」は芦ノ湖の岸にあり見下ろすと碧い湖が見え、目を転ずると美しいツツジの庭の向こうに雪を頂いた富士山が見えるのです。まさに絶景の場所に建っているのです。この「山のホテル」へは其の後何度も行きました。箱根に行くたびに昼食...「楽しいホテルの思い出(1)箱根の山のホテル」

  • 「北京倣膳飯荘の現在の写真」

    「北京倣膳飯荘」は北京有名な北海公園内にある伝統宮廷料理の店です。1925年、清朝の宮廷の台所「御膳房」で腕をふるっていたベテラン料理人たちが集まって店を開いたのが始まりです。当時は茶館だったが、1956年正式に改名し、「倣膳飯荘」となったそうです。「北京倣膳飯荘の現在の写真」

  • 「中國の北海公園と仿膳飯荘と北京ダックの写真」

    1981年に周栄章さんと2人で一緒に初めて行った北京の北海公園と仿膳飯荘をご紹介したいと思います。中国人は権力者に表向きは従いますが、心の中では個人的な信義を一番大切にしている民族なのです。周栄章さんと2人だけで北海公園を歩いていました。その先にある仿膳飯荘で北京鋼鉄学院の学長が私の歓迎会をしてくれるというのです。1番目の写真は北京の北海公園の石の回廊です。写真の出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-57.htmです。歓迎会で当時あった「茅台酒(マオタイシュ)」の乾杯の応酬で、私もいささか酔いました。2番目の写真は仿膳飯荘の入り口です。写真の出典は、http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htmです。出された料理は女性...「中國の北海公園と仿膳飯荘と北京ダックの写真」

  • 「共産党独裁の中国における宗教の驚くほどの隆盛」

    神の存在や宗教を否定するのが本来の共産主義です。ところが中国共産党は宗教の自由を保障し、経済は資本主義の市場経済主義をとっています。ですから中国は共産主義を捨てているのです。共産党という名前と独裁政治だけが残りました。中国の宗教は共産党独裁に反対しないかぎり全く自由です。もっとも全ての宗教組織は当局に届けなければなりませんが、届けてない組織も多いと言われています。元来、宗教というものは政治には関心があってはいけないものなのです。カトリックのミサでの説教では政治の話題は禁物です。したがって中国の全ての宗教組織は共産党と仲良く出来るのです。例外は法輪功だけです。中国の宗教には仏教、道教、回教(イスラム教)、カトリック、プロテスタント系キリスト教、その他の原始宗教があります。中国には宗教を信じている人が数千万人...「共産党独裁の中国における宗教の驚くほどの隆盛」

  • 「共産党独裁の中国の現在活動中のカトリック教会の写真」

    1番目の写真は中国の東北部の瀋陽にあるカトリック教会です。瀋陽南関天主堂です。2番目の写真は北京の王府井にある王府井カトリック教会です。3番目の写真は北京の西安門のそばにあるカトリック教会です。天主教西什庫教堂です。4番目の写真は上海にあるカトリック教会です。徐家匯天主教堂です。徐家匯聖イグナチオ大聖堂とも言います。「共産党独裁の中国の現在活動中のカトリック教会の写真」

  • 「新ローマ法王レオ14世と日本に来たヨハネ・パウロ2世、そして瀋陽での思い出」

    新しいローマ法王にレオ14世が就任しました、それで思い出すのは日本に来たローマ教皇は、ヨハネ・パウロ2世とフランシスコ教皇の2人です。ヨハネ・パウロ2世は1981年に初来日し、フランシスコ教皇は2019年に来日しました。ヨハネ・パウロ2世:1981年2月23日から26日にかけて、東京、広島、長崎を訪問しました。広島では平和記念資料館を訪れ、被爆者と交流し、核兵器の廃絶を訴えました。フランシスコ教皇:2019年11月23日から26日にかけて、東京、広島、長崎を訪問しました。広島と長崎では、被爆者と交流し、核兵器の廃絶を訴えました。1981年2月ヨハネ・パウロ2世が日本に来た次の年、私は中国の瀋陽市の天主堂で現地の人々のミサへ出席したのです。外側は煉瓦作りの立派な教会だが、内側には大きな落書きや、破壊の...「新ローマ法王レオ14世と日本に来たヨハネ・パウロ2世、そして瀋陽での思い出」

  • 「今日の午後の散歩は都立武蔵野公園まで」

    今日の午後の散歩は都立武蔵野公園立武蔵野公園まででした。武蔵野公園の広い園内には雑木林・草原・植木畑等、武蔵野の野趣をとどめる公園です。約80種、約7,000本にも及ぶ植木畑の樹々は都心の街路樹や各地の庭園に移植するため栽培されているのです。「今日の午後の散歩は都立武蔵野公園まで」

  • 「私のアイヌの友人への追憶」

    北海道に旅をすると、あちこちにあるアイヌ民族の博物館を見ます。1番目の写真は丸木舟に乗り魚を釣るアイヌ人です。2番目の写真は戦前のアイヌ人です。写真にあるようなアイヌ独特の着物は鎌倉時代以降にアイヌ文化が成立していくうちに出来たアイヌの正装です。この服装はアイヌ部落が消滅して行く終戦後まで北海道で見られたのです。しかし1945年の終戦になると、北海道のアイヌ人たちはより良い生活環境を求めて東北地方の開拓地などに移住して来たのです。その結果、私は一人のアイヌ人と友人になったのです。私は仙台市に生まれ育ちました。その仙台へもアイヌ人一家が移住して来たのです。私の家の近所の雑木林を切り開いて生活をしようとしていたのです。私はそのアイヌ人の一家の少年と仲良くなります。仲良くなったのですが、ある時フッと消えてしまい...「私のアイヌの友人への追憶」

  • 「アイヌ民族の文化と生活の様子」

    北海道にはアイヌ民族が縄文時代より以前の大昔から住んでいました。北海道の先住民です。第二次大戦の直後までアイヌ民族だけの村落が北海道に散在していたのです。それが現在は忘れられています。そこで今日はアイヌ民族の文化と生活の様子をご紹介したいと思います。さて私がアイヌ民族に興味を持つきっかけになったのはモースが撮ったアイヌ人の1枚の集合写真です。エドワード・モースは大森貝塚の発見で有名ですが、それ以上に日本の陶磁器の収集と民具や風景写真の収集でも偉大な功績を上げました。その中に次の写真があったのです。1番目の写真はモースが明治20年代(1890年頃)に撮った北海道のアイヌの集合写真です。写真の出典は、小学館の「百年前の日本」(1983年11月25日初版発行)という写真集です。明治時代のアイヌは伝統的な服装と家...「アイヌ民族の文化と生活の様子」

  • 「札幌の大通り公園 、北大植物園など、そしてアイヌ民族の悲劇」

    今日は北海道の思い出をお送り致します。札幌の大通り公園、北大植物園、ポプラ並木、開拓村などの思い出です。まずロマン溢れる札幌です。中心にある大通り公園が四季を通じて楽しい場所なのです。札幌はその広大な大通り公園の回りに高層ビルが美しく並んでいるのです。そばには北海道大学の植物園があり、明治を偲ばせるレンガ建ての道庁があります。花の咲いている百合が原公園や八紘学園花菖蒲園もあります。北海道大学の有名なポプラ並木もロマンチックです。郊外には手稲山ジャンプ台があり眺望絶佳です。さらに北海道開拓村が北海道の開拓の歴史を展示しています。それではこれらの写真を示しましょう。1番目の写真は札幌の百合が原公園です。写真の出典は、https://uu-hokkaido.jp/flower/summer.shtml、悠悠北海...「札幌の大通り公園、北大植物園など、そしてアイヌ民族の悲劇」

  • 「人がいなくて静かな今日の小金井公園の風景」

    小金井公園はいつもは人がいなくて静かな公園です。今日はそんな公園をゆっくり歩いてきました。撮ってきた写真をお送り致します。「人がいなくて静かな今日の小金井公園の風景」

  • 「奥多摩の魅力と写真」

    奥多摩は東京都ですが魅力的な自然が広がっています。多摩川上流と支流の秋川に沿った山郷に人々が静かに暮らしています。そして渓谷と山々の絶妙な組み合わせで美しい風景になっています。今日は奥多摩の美しい風景を写真でご紹介致します。1番目の写真はJR御岳駅からほど近い国際鱒釣りセンターのある多摩川です。鱒を沢山多摩川に放流してお客が釣っています。ここは車で河原に降りれる唯一の場所です。奥多摩は自分の家から2時間以内に行けるので何百回も行きました。この写真も昨日家内が撮った写真です。これからご紹介する風景写真4枚の出典は以下の通りです。但し6番目と7番目の写真は以前自分が撮ったものです。https://www.jalan.net/kankou/spt_13228ab2042087037/?screenId=OUW1...「奥多摩の魅力と写真」

  • 「豊かな自然がある「都民の森」」

    檜原都民の森は、奥多摩三山の最高峰である三頭山(みとうさん、標高1531メートル)とその麓に広がる地帯で、広さは197ヘクタール。実に東京ドーム42個分と広大だ。山頂付近には希少なブナ林が広がり、季節ごとにさまざまな野鳥が見られる。登山者をはじめ、サイクリングやツーリングを楽しむ人々が訪れており、2022年5月には来訪者が700万人を突破した。詳しい情報は下記にあります。https://www.my.metro.tokyo.lg.jp/w/001-20220725-00005674「豊かな自然がある「都民の森」」

  • 「奥多摩の温泉、 もえぎの湯」

    奥多摩の温泉の「もえぎの湯」、日帰り入浴施設「奥多摩温泉もえぎの湯」。地下深くの奥多摩温泉源泉から引いた源泉100%の天然温泉を堪能できます。多摩川の清流と山なみを大きな窓から楽しめる内風呂、自然を肌で感じられる露天風呂のほか、手軽に利用できる足湯もあります。奥多摩駅から徒歩約10分とアクセス良好です。「奥多摩の温泉、もえぎの湯」

  • 「思い出多い多摩川と妻のスケートの趣味」

    今日は思い出の多い多摩川について書いてみたいと思います。多摩川のお世話になったのは、1962年に東京に住むようになって現在までの60年間です。東京の西郊の小金井市に住み始めたので、週末は必ずのように娘と息子を連れて多摩川上流に行き、川遊びや焚火や釣りを楽しんだのです。当時は川原で焚火をするのが普通で、子供たちに枯れ木にマッチ一本で火をつける方法を教えたものです。一番、足しげく通った場所は御岳駅のそばにある国際マス釣り場の川原でした。川原が広がっていて流れも浅く子供の水遊び適していたからです。3歳の息子が浮き輪に乗って流れてしまい、家内が必死に追いかけた光景が忘れられません。そして御岳駅のそばの玉川屋というソバ屋にもよく行ったものです。高い場所にある茅葺の昔風の家です。近くには多摩川に沿って幾度も訪れた玉堂...「思い出多い多摩川と妻のスケートの趣味」

  • 「山梨県の山林の中の小屋」

    水の流れる風景に誘われて、1975年に山梨県の山林に小屋を建てました。早速その小屋を建てた場所を写真で示します。山梨県の甲斐駒岳の麓です。1番目の写真は山梨県の北杜市から見上げた甲斐駒岳連峰の写真です。晩秋に撮った写真です。右手の山が甲斐駒岳で中央の雪のある所が朝日尾根です。山から流れて来るのは石空川(イシウトロガワ)です。景色だけを眺めていれば良かったのですが、無謀にも小屋を建ててしまったのです。場所は写真の中央部の山林の中です。2番目の写真は甲斐駒岳の麓の森の奥にある私の山小屋です。晩秋に撮ったので木々が紅葉しています。電気、ガス、水道の無い小屋でした。スウェーデンの学生さん達も来ました。楽しい思い出がたくさんある小屋です。3番目の写真は小屋に登って行く雪道です。こんな森の中の道を2Kmほど登ると小屋...「山梨県の山林の中の小屋」

  • 「嗚呼、過ぎ去りし日々よ、甲斐駒の麓の思い出」

    過ぎ去りし日々を振り返って人生のいろいろを思い出しています。老境にある人は皆同じように自分の人生を時々思い返していると思います。我が人生で最大の思い出は良き妻を得たことです。68年間一緒に幸せに暮らしてきました。妻の自慢話を書いたら長くなります。そこで今日は私が建てた山林の中の小さな小屋の話を書こうと思います。我が人生に深い影響を与えた体験です。その小屋は八ヶ岳の見える甲斐駒岳の麓の山林のなかにあります。甲斐駒岳を見上げると夏に学生君たちと登ったことを思い出します。息子と2人だけで登ったことも思い出します。そしてスウェーデンやドイツから来た学生のことも思い出すのです。この山を見る度に登高の情熱と山頂に立った時の高揚感を思い出します。熱い血潮が老境にある私の体にも流れるように感じるのです。甲斐駒岳を見上げな...「嗚呼、過ぎ去りし日々よ、甲斐駒の麓の思い出」

  • 「誰もいなくなった老境の悲しみ、そして山林の友人たちの思い出」

    老境の悲しみは親兄弟、親戚、恩人、友人が一人、また一人と旅立って行くことです。89歳になってある日気が付いたら私の周りに誰もいなっくなっていました。親兄弟や恩人、仕事仲間など我が人生を大きく支えてくれた人々との惜別は悲しみも深く、そして感謝の気持ちが豊かに湧いてきます。高校時代の友人も次々と亡くなりました。そして大学時代の友人もです。茫々70年前の1958年に、我々は東北大学工学部金属工学科を卒業しました。2018年の4月に東北大学の同級生と昼食を共にしました。同級生は30名いましたが東京近辺の7名だけが集まりました。この昼食会は20年くらい前から年間2、3回開催していました。人生の余暇に一緒に遊んだ中学校、高校、大学の友人たちのたちとの別れには悲しみを感じるものです。このような学校での友人の他に趣味の山...「誰もいなくなった老境の悲しみ、そして山林の友人たちの思い出」

  • 「アメリカ社会の奥深さを体験する」

    アメリカは自由の国と言いますが、日本と比べてどのくらい自由なのでしょうか?アメリカ合衆国には州によって多少する違いはありますが、いろいろな幅広い自由があるのです。国家が教育に干渉しないで自由に教科書を作れる自由、同性婚の自由、銃を持つ自由、狩猟趣味の自由、などなど州によって違いがありますが、国家による規制が一切ありません。そして外国の宗教や新興宗教の布教活動も自由です。創価学会や統一教会もアメリリカで盛んに布教活動をしています。唯一の国民の義務は徴兵に応ずる義務でがあります。それも絶対平和主義の人は期間を長めにして後方勤務をして良い自由があったのです。これらの多種多様な自由がアメリカの社会に深い奥行を作り、それがアメリカの強さの根源になっているのです。今日はその一つの実例としてアーミッシュ派という極端に禁...「アメリカ社会の奥深さを体験する」

  • 「オハイオでの質素な結婚式とレセプションの写真」

    私どものオハイオでの結婚式とレセプションの写真をお送りいたします。64年前の1961年、私共はオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。とても簡素な結婚式と質素なレセプションでした。しかしオハイオ州立大学の先生ません。先生方や同級生が一生懸命世話をしてくれました。結婚式とレセプションの写真を掲載します。1番目の写真は我々の結婚を報ずるオハイオの新聞記事です。2番目の写真はオハイオ州立大学の中にある結婚式場へ牧師さんが来て式をあげている場面です。私の左後ろはケン・ローリイという同級生で私の付添人をしてくれました。右端の半身だけ映っているのがケン・ローリイの奥さんのゲイルです。3番目の写真は結婚式に出席してくれたはオハイオ州立大学の金属工学科の先生方と同級生です。4番目の写真は結婚式の後のレセプションの写真です...「オハイオでの質素な結婚式とレセプションの写真」

  • 「オハイオの巨大な鍾乳洞の写真」

    オハイオ州の洞窟の中でもっとも美しくて大きい"OhioCaverns"(オハイオ洞窟)の写真をお送りいたします。私もオハイオに住んでいた頃何度も遊びに行きました。このオハイオ洞窟では、美しい色をした鍾乳石(天井からツララのように成長した石灰岩)と石筍(せきじゅん、天井から落ちたしずくが落ち再結晶化された石炭岩が盛り上がって竹の子のように成長したもの)をたくさん見ることが出来ます。その写真をお送り致します。詳しい説明は、https://ameblo.jp/ohiokitty/entry-11050485546.htmlにあります。「オハイオの巨大な鍾乳洞の写真」

  • 「オハイオ州の州花は真紅のカーネーション」

    オハイオ州には通算、4年間住んでいました。懐かしい州なのでその州花の真紅のカーネーションの写真をお送りいたします。他の色のカーネーションの写真も添えました。写真は「カーネーションの花の写真」を検索して、インターネットの写真から綺麗な写真を選びました。「オハイオ州の州花は真紅のカーネーション」

  • 「はじめて留学したオハイオ州の風景写真」

    はじめて留学したのはオハイオ州立大学でした。コロンバス市にある大学でした。オハイオ州には3つの都市があります。エリー湖のそばのクリーブランドと首都のコロンバスと南のシンシナティです。オハイオ州は、エリー湖に面していて、接している各州とは主要高速道路によって接続されています。オハイオ州の南部境界はオハイオ川によって区切られ、北部境界の大部分はエリー湖によって区切られています。東にはペンシルベニア州、北部はエリー湖です。西部はインディアナ州で南部はケンタッキー州です。留学したオハイオ州の風景写真をお送り致します。1番目の写真はコロンバス市にある州政府です。2番目の写真はオハイオ河です。3番目の写真はエリー湖のそばのクリーブランドです。4場目の写真は南のシンシナティです。オハイオとは、インディアンのイロコイ族の...「はじめて留学したオハイオ州の風景写真」

  • 「老境になって一番懐かしいのは最初のアメリカ留学」

    老境になると一番懐かしいのは最初のアメリカ留学です。私の人生で一番大きな出来事でした。今日はその思い出を書きたいと思います。1960年に初めてアメリカへ留学しました。オハイオ州立大学に留学したのです。その時アメリカの豊かさに驚愕する体験をしたのです。戦争で負けてひどく貧しい生活をしていた日本から豊かなアメリカに行って驚きました。それは人生で一番大きいな驚きでした。感動でした。これでは戦争に負けるとしみじみ思いました。真珠湾攻撃をした日本の愚かさに失望しました。まずオハイオ州立大学の規模があまりにも壮大なので驚き感動しました。大学専用の飛行場を持っているのです。そして学生が格安で使える18ホールのコースを2つ揃えたゴルフ場を持っていることです。その広さは日本の大学と比べようもありません。アメリカ全土には、同...「老境になって一番懐かしいのは最初のアメリカ留学」

  • 「午後の散歩は都立小金井公園までの往復」

    今日の午後の散歩は都立小金井公園までの往復でした。小金井公園の面積は約80haあり、その広大な敷地は都立公園の中でも最大規模で、日比谷公園の4.8倍、上野公園の1.4倍に相当します。なお、東京都にはさらに広い国営昭和記念公園があり、その面積は小金井公園の2倍近いのです。公園西側には南北に小金井街道(東京都道15号府中清瀬線)が、南側には東西に五日市街道(東京都道7号杉並あきる野線)が通っています。また、五日市街道に沿って玉川上水が流れて、公園の北側には隣接してゴルフ場小金井カントリー倶楽部が広がっています。東京緑地計画を元に紀元二千六百年記念事業として計画された「小金井大緑地」が原形で、1954年(昭和29年)1月に「小金井公園」として開園しました。園内には雑木林と芝生が広がり、1,800本の桜が植えられ...「午後の散歩は都立小金井公園までの往復」

  • 「幼少時に見たような花々の思い出」

    誰でも仕事を止めて老境に入ると、それまで仕事の忙しさで忘れていた幼少時の思い出がよみがえって来ます。それは喜びと悲しみの入り混じった懐かしさです。切ない思い出です。われわれ年代の高齢者の幼少時は戦前、戦後の苦しい時代でした。貧しさ故の悲しみが入り混じった懐かしい思い出です。さて自分が撮って来た山郷の花々の写真をお送りいたします。甲斐駒岳の東に広がる北杜市の武川町の花々です。これらの花々の写真をしみじみと眺めながら想ったことがあります。現在、働き盛りの若い人々は老境になってどのような思い出を持つのでしょうか?時代が違いますから思い出の具体的な内容は違います。想像して書いてみました。楽しかった海外旅行、スマホ、ゲーム、ドライブ、ショッピング、旅先で食べたソフトクリームの味、おとぎの国のようなディズニーランドの...「幼少時に見たような花々の思い出」

  • 「春も過ぎ、時々思い出すはるかな尾瀬 遠い空」

    初夏の季節なのでしょうか。こんな季節には遥かな尾瀬の風景を思い出します。一時流行った尾瀬の歌を思い出します。『夏の思い出』という歌でした。1949年発表の日本の歌曲です。NHKにて放送されるや否や、瞬く間に多くの日本人の心をとらえたものです。この歌のおかげで尾瀬(おぜ)の人気が高まり訪れる人が非常に多くなったのです。私は1951年に高校に入学し、1954年に大学に入学したのでこの曲をNHKのラジオで何度も聞き、自分でもよく歌ったものです。当時は仙台に住んでいて、復興もまだまだで苦しい生活でした。はるかかなたの尾瀬などへ行くことは出来ません。ですから尾瀬とか水芭蕉という言葉は憧れの夢だったのです。写真雑誌で尾瀬の風景や水芭蕉の群落の光景を見てますます憧れが強くなったものでした。『夏の思い出』の作曲は、『ちい...「春も過ぎ、時々思い出すはるかな尾瀬遠い空」

  • 「風薫る五月に 、 "Im wunderschönen Monat Mai"」

    風薫る五月になるとシェーネン・モナート・マイという言葉をつぶやくようになります。家内が何か本で読んで覚え、新婚のころ私に教えてくれた言葉です。この言葉はハイネの詩から出ているようです。後にシューマンが曲を付けて有名な歌曲になりました。ハイネの詩はこうです。ImwunderschönenMonatMai,風薫る五月にalsalleKnospensprangen,蕾たち弾けるころdaistinmeinemHerzen僕の心の奥にdieLiebeaufgegangen.咲いた恋心・・・以下省略します。(訳文は、https://sfukuhara.web.fc2.com/lyrics/1/analyze/im_wunderschoenen_monat_mai.htmlからです)日本でも皐月はすがすがしい季節で俳句...「風薫る五月に、"ImwunderschönenMonatMai"」

  • 「小金井公園の今日の新緑の風景」

    小金井公園の有名な桜も散って季節はめぐり新緑が美しい候になりました。午後から散歩に行きました。撮ってきた写真をお送り致します。「小金井公園の今日の新緑の風景」

  • 「今日は東京のカトリック聖イグナチオ教会のミサにあずかりました」

    今日はインターネットを通して東京のカトリック聖イグナチオ教会のミサにあずかりました。その動画配信は下記にあります。「今日は東京のカトリック聖イグナチオ教会のミサにあずかりました」

  • 「花言葉一覧表、花言葉の使い方、そして花々の 民族誌」

    一般的に女性は花言葉が好きなようです。男性に使って貰いたいようです。しかし男性は面倒がって使いません。花言葉はそれぞれの花に対応した言葉を決めて、言葉の代わりにその花を女性に贈り、男性の気持ちを伝えるのです。勿論、その逆もあります。女性は美しい花を貰った上で男性の気持ちが分かるのです。女性にとって花言葉は楽しい、そしてロマンチックな言葉なのです。しかしこれは一種の暗号なので花言葉の解読には暗号の意味を示す暗号表を双方で持っていないと大変な誤解が生じます。私は新婚当時家内の誕生日に黄色いバラを10本贈って怒られたことがあります。「黄色いバラは愛の薄らぎ」だと言うのです。その後は赤かピンクのバラにしました。花言葉を知っていることも重要ですが、その使い方も大変重要なのです。(1)花言葉の一覧表と使い方例えば日本...「花言葉一覧表、花言葉の使い方、そして花々の民族誌」

  • 「老いの華やぎと道端に花々のある風景」

    人にもよりますが、ほぼ70歳以上になると老いというものを意識するようになります。もう20年以上前から私は老いということを考えています。老いには良いこともあります。人生の全ての束縛から解き放されて、毎日が実に明るく、楽しくなるものです。これを老いの華やぎと言うのです。しかし同時に老いの悲しみや淋しさが時々、湧き上がって来ます。老いの淋しさにはいろいろな原因があります。その原因の一つに親、兄弟、や恩人や友人がみんな、みんな亡くなってしまうことがあります。自分独りだけがこの世に取り残されているのです。亡くなって淋しさを感じるのは親や恩人だけではありません。戦後、読みふけった数多くの本の作家もみんな亡くなってしまいました。思い出すままに書くと、遠藤周作、堀田善衛、北杜夫、井上靖、三島由紀夫、内田百閒、船橋聖一、山...「老いの華やぎと道端に花々のある風景」

  • 「美しい緑の草原の写真を撮りに行く」

    緑が美しい季節です。今日は都立武蔵野公園の緑の草原の写真を撮りに行きました。撮ってきました写真をお送り致します。「美しい緑の草原の写真を撮りに行く」

  • 「ヨットの風景の写真」

    ヨットの見える風景は何故か心が熱くなります。ヨットをしていた頃の情熱が思い出すのです。インターネットのヨットの写真をお送りいたします。「ヨットの風景の写真」

  • 「ヨットの風景の写真」

    ヨットの見える風景は何故か心が熱くなります。ヨットをしていた頃の情熱が思い出すのです。インターネットのヨットの写真をお送りいたします。「ヨットの風景の写真」

  • 「日本丸のことを教えてくれた星野君の思い出」

    横浜港に展示してある日本丸のことを教えてくれたのは友人の星野君でした。ヨットを共に楽しんだ星野君の思い出を書きたいと思います。星野君は仙台の大学の同級生でした。彼とはいろいろな所で一緒にヨットに乗りました。例えば猪苗湖で彼の大きなヨットで花春カップレースに3回参加したこともあります。そして会津城やその城下町を観光しました。1番目の写真は猪苗代湖と磐梯山の写真です。出典は、http://www.yae-mottoshiritai.jp/seishin/inawashiroko.htmlです。2番目の写真は夏の猪苗代湖を帆走するヨットの写真です。出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/theearth99/17541627.htmlです。星野君とこの写真のような彼のヨットに乗り湖を何度も帆...「日本丸のことを教えてくれた星野君の思い出」

  • 「25年間のヨットの趣味と帆船・日本丸」

    25年もヨットに乗っていると、風や波が帆や船体の何処にどの様に当たっているか実際に目に見えるような錯覚に捉われます。そこである疑問が湧いて来ました。「大型タンカーやコンテナ船、そして豪華客船の船長は帆船操作の経験をしているのだろうか?」、「していれば荒天のとき落ち着いて操船出来るに違いない!」、「まてよ、横浜の日本丸は昔、商船学校の練習船だったそうだ」、「そうだ、そこを訪ねて関係者に聞いてみよう!」、と。早速、車を駆って首都高速を駆け抜け、横浜、みなとみらいの日本丸の係留してある岸壁に行きました。2008年4月のことでした。そして1930年にイギリスのラメージ&ファーガソン会社によって製造された帆船・日本丸に乗船することになったのです。乗船切符を買う窓口で少し専門的な説明をお願いしました。「それなら今日は...「25年間のヨットの趣味と帆船・日本丸」

  • 「少年の頃の海洋少年団の夢をはたす大形帆船シナーラ号」

    戦前生まれの私は少年の頃に海洋少年団に入っていました。しかし戦争が激しくなって実際に海上での訓練はできませんでした。それ以来、大海原を大型帆船で走るのが終生の夢になりました。自分の人生が落ちついてやっと中年になってこの夢が実現そたのです。今日は大形帆船シナーラ号での帆走について書きたいと思います。さて日本には大型帆船が幾つかあります。乗船料を払えば大形帆船のセイリング体験が出来ます。その例は三浦半島のシーボニア・マリーナのシナーラ号、沼津市の帆船Ami号、神戸の帆船「みらいへ」号です。これれら3隻の帆船は一般の人も乗れました。舵輪を握ってセイリング体験が出来るのです。青い海原を大形帆船でセイリングをすると気持ちが壮大になります。爽快になります。特にディンギーヨットの経験があると舵輪を握っていきなり帆走でき...「少年の頃の海洋少年団の夢をはたす大形帆船シナーラ号」

  • 「写真で見る絶滅寸前の北欧とロシアの少数民族」

    趣味として私は世界の民族についてあれやこれやと調べています。そんな趣味で集めたヨーロッパに住んでいる少数民族の写真をお送りいたします。今回は北方の少数民族に限ります。1番目の写真はマンシ族の住居の夏の風景です。マンシ族はロシアのハンティ・マンシ自治管区の先住民です。ハントィとは近い親戚の意味で現在、およそ12,000人がロシアで暮らしています。写真の出典は、『マンシ、コリャーク、ンガナサヌィ…ロシアの絶滅しそうな少数民族』http://osoroshian.com/archives/37793045.htmlです。2番目の写真は街に出て来たマンシ族の家族の写真です。3番目の写真は昔のサーミ民族の家と民族衣装を着た家族の写真です。このような家には住んでいましたが現在は近代的な家に住んでいます。テントは夏だけ...「写真で見る絶滅寸前の北欧とロシアの少数民族」

  • 「アフリカの多数の民族とマサイ族」

    アフリカには3000もの民族がいて2000種類以上の言語が使われています。その多様性は他の大陸とは較べられない多様性です。例えばアフリカの民族を示せば次のようになります。ヌバ族アンコレ族トゥンブカ族グロ族...アングロアフリカンイラク族アルシャ族...レンディーレ族イッサ族ムーア人...ゴンベ族アムハラ人ドゥル族...アンガス族コファ族バントゥー系民族...イガラ族トングェ族クナマ族...ガモ人ショナ人ドゴン族...ネグリロンゴニ族キッシ族、などなどです。以上のようにあまりにも多数なのでそれぞれの民族の詳細は省略いたします。そこで日本でも有名なマサイ族だけ一例としてご紹介します。マサイ族はケニア南部からタンザニア北部一帯の先住民で、人口は推定20-30万人程度と推測されています。垂直ジャンプを繰り返す独特...「アフリカの多数の民族とマサイ族」

  • 「世界の僻地、マチュピチュに暮らし異国の土になった日本人」

    世界の果ての僻地へ行って、幸せそうに暮らしている日本人が沢山います。個人の自由と幸福とは何かということに信念がある国際人なのです。「人間至る処青山あり」を実践しているのです。私は狭量なので東京にしがみついて故郷の仙台だけを懐かしんで生きているのです。ですから私にとっては世界の僻地に住んでいる日本人に感動し尊敬しています。今日は一例として南米のペルーのマチュピチュ遺跡の麓に村を作ってマチュピチチュ遺跡を世界遺産にした日本人の話をご紹介します。正確に書くと福島県安達郡玉井村の野内与吉さんが1917年ペルーに移民し、1923年にマチュピチュの麓の部落に定住したのです。そしてその部落にホテルなどを作りマチュピチュ遺跡への観光拠点として発展させ、マチュピチュ村の初代の村長になったのです。野内与吉の次男のホセは198...「世界の僻地、マチュピチュに暮らし異国の土になった日本人」

  • 「世界の片隅に住む日本の女の幸せ」

    つくづく女性は優しくて強いと感動します。世界の片隅に住んで幸せな家庭を持って悠々と人生を過ごしています。自然体で現地に溶け込んで、異国の生活に何も不自由なく夫を愛し、子供を育て周囲の村人を助けています。今日は北インドの僻地のラダックに住んで家庭を持っている日本人の女性をご紹介したいと思います。彼女はヒマラヤの麓の北インドのラダック地方のストック村に住んでいます。彼女の名前は池田悦子さんといいます。夫とともに農業をしながら旅行代理店をしてインドのチベットと言われる秘境に観光客を呼び込んでいます。その上、自分達で改装した自宅の古民家でホームステイを運営しながら子育てをして暮らしています。まずその地方の風景や彼女の子供達の写真を示します。1番目の写真は彼女の家の裏の風景です。ヒマラヤの麓です。桃の花が満開になて...「世界の片隅に住む日本の女の幸せ」

  • 「道の風景に何故かロマンを感じる」

    何所までも続く細い道に何故かロマンを感じます。そんな細い道を探して散歩します。今日も武蔵野公園へ続く細い道を歩いてきました。撮ってきた写真をお送り致します。「道の風景に何故かロマンを感じる」

  • 「今日の都立武蔵野公園の風景」

    今日の都立武蔵野公園の風景の寫眞をお送り致します。晴天でしたが南風が強く吹いていました。「今日の都立武蔵野公園の風景」

  • 「忘れ得ぬ仙台の中学校の亡くなった同窓生」

    2012年10月に、仙台市愛宕中学校の第二回生の同窓会が秋保温泉でありました。今回をもって最後にしますという案内状に誘われて出席しました。61年目に再会した懐かしい友人が皆笑顔で迎えてくれたのです。その折に幹事が配った名簿に物故者の名簿がありました。分かっているだけでも既に76名もの人が旅立っていたのです。2回生は全部で350人でした。その中に一緒に遊んだ友だちが数人もいたのです。長い間疎遠にしていた私のお詫びとして以下の追悼文をお送りいたします。まず萩生田啓一君へ私の疎遠をお詫びします。君の家にはしょっちゅう遊びに行き優しい母上に随分とお世話になりました。北海道炭鉱に勤めていた父上にも親切にして貰いました。お霊屋下の奥の方に家があり近所に住んでいた宮内量君ともよく一緒に遊んだものです。君が大学卒後、七十...「忘れ得ぬ仙台の中学校の亡くなった同窓生」

  • 「不思議な人間の絆、忘れ得ぬ人々」

    後期高齢者になると人生のあれこれを思い出して楽しんでいます。この頃は私の人生で出来た不思議な人間の絆を思い出し考えています。そして忘れ得ぬ人々の顔や姿を懐かしく思い浮かべています。そんな不思議な人間の絆と忘れ得ぬ人々のことを書いてみようと思います。人間は此の世に生きていると人々といろいろな絆が出来ます。その絆は考えてみると不思議です。あるものは神秘的で不可思議です。これらの絆の5つの例を考えてみたいと思います。(1)ヨットのご縁で出来た忘れ得ぬ人との絆ヨットの趣味を50歳頃から75歳まで25年間していました。約25年間にわたり、多くの方々にお世話になり、助けられ、なんとか海に落ちることも無くヨットの趣味を卒業することが出来たのです。ヨットを通して多くの友人が出来ました。皆忘れられない友人です。しかし一番深...「不思議な人間の絆、忘れ得ぬ人々」

  • 「忘れ得ぬ人、若き日のアメリカ留学で出来た親友、ジョージ」

    今日の「忘れ得ぬ人々(2)」は若き日のアメリカ留学出来た親友、ジョージの思い出です。私は1960年から1962年までオハイオ州立大学に留学しました。そのPh.Dコースでは戦場のような激しい勉強が続きました。セント・ピエール教授、フォンタナ教授、ラドルフ・スパイサー教授、ゴードン・パウエル教授、スプレットネク教授の講義は厳しくて、それについて行くためにはアメリカ人の同級生からノートを見せてもらったり毎週行われる試験の予想問題を丁寧に教えてもらったのです。激しく攻めるのが5人の教授で、隊列を組んで防戦するのが14、5人の同級生です。同級生は戦友のような感じでした。その中でジョージ・オートン夫妻とは生涯の友人としてお付き合いをしました。ジョージ・オートンさんは14歳年上の空軍大佐でした。大柄なふくよかな体格の持...「忘れ得ぬ人、若き日のアメリカ留学で出来た親友、ジョージ」

  • 「初夏のような陽光の射す小金井公園の今日の風景」

    初夏のような日です。小金井公園の今日の風景の写真をお送り致します。「初夏のような陽光の射す小金井公園の今日の風景」

  • 「北海道の圧倒的な釧路湿原のシラルトロ湖、塘路湖、達古武湖などの湖」

    何が圧倒的かといえば、その広さと、湿地故に人間を寄せ付けない大自然そのままの景観が他に無いのです。少なくとも日本には無いのです。北にある屈斜路湖から流れ出した釧路川が釧路に近い大平野でシラルトロ湖、塘路湖、達古武湖に注ぎ、その湖沼群一帯が巨大な湿原になっています。人間が入れない湿地なので高い展望台から景観を眺めます。カヌーで湖沼を渡ったり釧路川を下ったりします。少しだけの距離の木道を歩きます。あるいは釧路・網走間の釧網本線の観光列車「ノロッコ号」に乗って車窓から湿原の景観を楽しみます。ここは10年ほど前に2回訪れた曾遊の地です。川湯から釧路川に沿って、車で行きました。北からシラルトロ湖、塘路湖、達古武湖の順番でご紹介いたします。川湯から弟子屈町、標茶町と国道を南下するとまず広大なシラルトロ湖が右側に見えて...「北海道の圧倒的な釧路湿原のシラルトロ湖、塘路湖、達古武湖などの湖」

  • 「北海道のロマンとアイヌ少女の詩」

    北海道に行くたびに新しい感動を受けます。ヨーロッパのようです。氷河にけずられた丘がなだらかな曲面を見せ、かなたに白樺林が光っています。四季が巡るにしたがって風景も華やかに変わって行きます。この北海道には昔からアイヌ民族が住みつて豊かな文化を花咲かせました。今日はアイヌ民族の文学作品の中から『アイヌ神謡集』と『若きウタリ』をご紹介したいと思います。尚、アイヌ民族の文学、北海道にまつわる文学作品などの詳細は、http://www.h-bungaku.or.jp/exhibition/pdf/list.pdfに集大成されています。さて『アイヌ神謡集』は知里幸恵さんの翻訳による叙事詩です。彼女は、東京の金田一京助氏の自宅へ招ばれ、翻訳、編集作業中に19歳で病死したアイヌの少女です。アイヌ語から日本語へ翻訳した数多...「北海道のロマンとアイヌ少女の詩」

  • 「瑞々しい緑が美しい今日の武蔵野公園」

    今日の散歩は瑞々しい緑が美しい武蔵野公園でした。撮ってきた写真をお送り致します。「瑞々しい緑が美しい今日の武蔵野公園」

  • 「我が故郷、現在の仙台市の風景写真」

    老境の私が書くことは思い出だけになりがちです。今回も思い出の写真を掲載します。我が故郷、仙台市の現在の風景写真です。1番目の写真は鹿落坂の上から見た仙台市の中心街です。私が生まれ育った家は鹿落坂の上の向山にありましたので何度も通った所です。何度通っても眺めの良い所なので立ち止まって風景を楽しみました。2番目の写真は現在の仙台駅です。私が生まれ育った頃の駅舎は粗末な木造でした。駅舎がこんなに立派になるとは想像も出来ませんでした。感無量です。3番目の写真は駅前の風景です。当時は建物がすべて木造でみすぼらしいものでした。唯一、丸光というデパートが立派でした。4番目の写真は駅前から西にとおっている青葉通りという大道路です。舗装が悪くて風が吹くと砂埃が舞い上がって目に入ったものです。5番目の写真は伊達家代々の墓があ...「我が故郷、現在の仙台市の風景写真」

  • 「懐かしいドイツ人のシュパチーレンの趣味」

    皆様は近所を散歩なさいますか?公園を散歩しますか?昔ドイツに住んでいたとき驚きの光景を見ました。ドイツ人は襟の小さい背広にネクタイを締めた姿で森の中を真面目な顔をして歩くのです。これをドイツ語でシュパチーレンと言ってドイツ人が誇りに思っている趣味なのです。郊外の森や葡萄畑の中にシュパチーレン専用の道が続いています。正装した男たちや夫婦が無言で歩くので静かです。今日は平凡な散歩の趣味について書いてみようと思います。さてその前に散歩以外の趣味のいろいろを見回してみましょう。本当に色々あります。海を帆走するヨットの趣味や、登山などの趣味は厳しさがあり克己心を必要とします。猟犬とともに銃を担ぎ人跡まれな山に入り彷徨する趣味もあります。日本ではシュパチーレン専用の道は広い公園の中にあります。その趣味では人生の平凡な...「懐かしいドイツ人のシュパチーレンの趣味」

  • 「いろいろあった私の人生」(7)ドイツ留学とヨーロッパ中世の暗黒

    何事も現地に行ってみないと本当のことは分からないものです。ドイツに住んでヨーロッパの中世の暗黒が分かったのです。中世にヨーロッパ全土を荒廃させた30年戦争の悲惨さが理解できたのです。今日はヨーロッパを荒廃させた30年戦争のことを書きたいと思います。明治維新以来、日本人はヨーロッパ文化に憧れ導入して来ました。確かにフランス革命とイギリスの産業革命以後のヨーロッパは手本にすべきことが多いのです。しかし中世のヨーロッパは暗黒でした。暗黒の原因の一つは30年戦争でした。そしてもう一つはハプスブルグ家の異常な領土欲でした。そこで中世の30年戦争とハプスブルグ家の領土欲について書いてみようと思います。日本ではあまり関心の無いヨーロッパの暗い歴史です。さて30年戦争です。「30年戦争」はドイツから始まり、宗教改革の後の...「いろいろあった私の人生」(7)ドイツ留学とヨーロッパ中世の暗黒

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