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後藤和弘のブログ https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。 反対のご意見やコメントも歓迎しま

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2014/10/30

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  • 「オハイオ州の風景写真」

    オハイオ州には昔アジアから移住した原住民が住んでいました、オハイオインデアンです。その原住民の墳墓の写真を示します。1番目の写真は先史時代のインディアンの墳墓です。先史時代のインディアンたちは、紀元前からオハイオに巨大な墳墓群を築き、「マウンド・ビルダー」と呼ばれtています。数多くの墳墓遺跡が残っているんのです。現在のオハイオ州には3つの都市があります。エリー湖のそばのクリーブランドと首都のコロンバスと南のシンシナティです。オハイオ州は、エリー湖に面していて、接している各州とは主要高速道路によって接続されています。オハイオ州の南部境界はオハイオ川によって区切られ、北部境界の大部分はエリー湖によって区切られています。東にはペンシルベニア州、北部はエリー湖です。西部はインディアナ州で南部でケンタッキー州です。...「オハイオ州の風景写真」

  • 「オハイオ州の州花は真紅のカーネーション」

    オハイオ州には通算、4年間住んでいました。懐かしい州なのでその州花の真紅のカーネーションの写真をお送りいたします。他の色のカーネーションの写真も添えました。写真は「カーネーションの花の写真」を検索して、インターネットの写真から綺麗な写真を選びました。「オハイオ州の州花は真紅のカーネーション」

  • 「オハイオ州の紅葉の写真と思い出」

    オハイオ州はアメリカ中西部にあり北側にはエリー湖があり南はケンタッキー州です。首都はコロンバス市です。学生数が6万人近い巨大な州立大学があります。私は1960年から1962年までと1988年から1990までの通算4年間この大学に留学したり教えていました。高い建物はコロンバス市の中心街にありました。そのディッシュラー・ヒルトンホテルで1961年に結婚披露宴をしました。コロンバス市にはサイオート河とオレンタンジー河が流れていてケンタッキー州へ流れ下りミシシッピーの大河へ合流します。老人になった私は今更ながら若い時のアメリカ留学の影響の深さを感じています。そんな思い出を懐かしながらオハイオ州の紅葉の写真を4枚お送り致します。写真の出典は下記です。https://ja.traasgpu.com/%E5%8C%97...「オハイオ州の紅葉の写真と思い出」

  • 「私の人生の一番大きな出来事ははオハイオ留学だった!」

    老人ボケになると同じことを繰り返し書きます。今日も同じことを書きます。我が人生の一番大きな出来事を考えてみますとやはりオハイオへの留学だったと思います。若かった私は「青雲の志を抱いて郷関をいづる」の文字通うりアメリカのオハイオ州立大学へ留学したのです。まだ戦後の貧しさのあった1960年でした。オハイオで迎えてくれたのがセント・ピエール教授でした。1番目の写真の右がセント・ピエール教授です。オハイオ州立大学での勉強は想像以上に厳しいものでした。それでも1962年の8月には、DoctorofPhilosophy、博士の学位記を手にすることが出来たのです。「青雲の志を抱いて郷関を出づる」は高校の漢文の時間に習いました。漢文の先生は情熱的にいろいろな漢詩を朗読しながら教えてくれたのです。若い私はこの言葉を人生の道...「私の人生の一番大きな出来事ははオハイオ留学だった!」

  • 「今日の小金井公園の風景」

    今日は曇り日です。午後の散歩として小金井公園まで行って来ました。公園には人陰も無く静かです。良い気分で散策しました。今日の小金井公園の風景写真をお送り致します。「今日の小金井公園の風景」

  • 「美しい西伊豆の風景写真」

    プロが撮った美しい西伊豆の風景写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.jalan.net/kankou/210000/211400/g1_22/です。1番目の写真は御浜岬です。戸田港口を弓形に海に突き出した半島で、松やイヌマキが繁茂しています。又花は6月スカシユリ、7・8月ハマユウ、10月ツワブキが群生し開花します。2番目の写真は浮島海岸です。砂浜半分・磯半分で波は多少荒いが磯遊びによく、景観に優れています。2018年4月に世界認定された伊豆半島ジオパークならではの自然の造形を見ることがでます。真ん中に穴が開いている海に突き出した岩を三ツ足と呼んでいます。3番目の写真は大浜海水浴場(静岡県西伊豆町)です。西伊豆の中でも、比較的ゆったりと楽しめる海水浴場です。浜辺で混み合うこともなく、約...「美しい西伊豆の風景写真」

  • 「伊豆半島の最南端の「ヒリゾ浜」と西伊豆の「堂ヶ島天窓洞」の絶景」

    伊豆半島の2ケ所の絶景写真をお送り致します。1番目の写真は伊豆の最南端にある「ヒリゾ浜」です。南国のリゾート地のような美しい海岸です。あたりは国立公園で手つかずの自然がたくさん残っています。2番目の写真は西伊豆町にある「堂ヶ島天窓洞」です。国の天然記念物に指定されています。「青の洞窟」としても有名で、神秘的な洞窟内を探索できる「洞くつめぐり遊覧船」の体験がおすすめです。「伊豆半島の最南端の「ヒリゾ浜」と西伊豆の「堂ヶ島天窓洞」の絶景」

  • 「大好きな観光地の西伊豆の魅力、三津浜、戸田、土肥、堂ヶ島、松崎」

    人それぞれ好きな観光地があります。風景が良く食べ物が美味しい観光地は魅力があります。そのうえ交通が便利なわりにはお客があまりいなくて静かな所なら最高です。今日は私が大好きな観光地をご紹介したいと思います。西伊豆の三津浜、戸田、土肥、堂ヶ島、松崎をご紹介致します。伊豆半島の西側は鉄道も無く、その上道路が細くて不便です。東京からの観光客もあまり行来ません。おおげさに言えば陸の孤島です。しかし西伊豆は景色も良く温泉も良いのです。そんな訳で私は西伊豆には何度か旅をしました。そこには美津、戸田、土肥、安良里、田子、堂ケ島、松崎、妻良という美しい所が連なっています。西伊豆には沼津から入り海岸沿いに南下します。西伊豆の魅力を私どもが撮った写真でご紹介いたします。1番目の写真は駿河湾に面した美津浜から見た富士山です。西伊...「大好きな観光地の西伊豆の魅力、三津浜、戸田、土肥、堂ヶ島、松崎」

  • 「新緑と遅咲きの桜の競演」

    新緑が美しい季節になりました。遅咲きの桜も競演です。今日の午後小金井公園で撮った写真です。「新緑と遅咲きの桜の競演」

  • 「なにやらドラマチックな雲の姿の写真を撮りに行った」

    雲の姿がドラマチックなので、空が広く見える小金井公園まで行って雲の写真を撮って来ました。「なにやらドラマチックな雲の姿の写真を撮りに行った」

  • 「懐かしい仙台の山、泉ケ岳」

    仙台からよく見える山です。標高1,175メートルcです。これまで何度か爆発を繰り返したと火山です。溢れ出た溶岩流が南側の山腹に三つの段丘を作っています。私も中学時代に登りました。汗をかき苦しい登山でした。しかし頂上からの眺めは雄大で、仙台市街、から仙台湾の海まで見渡せました。「懐かしい仙台の山、泉ケ岳」

  • 「故郷の山、懐かしい蔵王山に咲く花」

    昔何度も登った蔵王山に咲く花をインターネットで調べ幾つかみつけました。その写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=1493です。1番目の写真はハクサンイチゲです。2番目の写真はシラネアオイです。3番目の写真はユキワリコザクラです。4番目の写真はミヤマオダマキです。「故郷の山、懐かしい蔵王山に咲く花」

  • 「老人は思い出だけで生きている、何故国際政治に関心が無いのか」

    毎日ブログに記事を書くのが私の日課です。書く話題は昔の友人の思い出や以前の旅のことが多くなります。老人は思い出だけで生きているのです。すると妻が言います。「思い出ばかり書いていないで日本の社会問題や国際政治のことを書きなさい」と言います。ごもっともです。しかし素人の生半可な知識で社会問題や国際政治のことを書いても誰も読んでくれません。そんな問題を取り上げた日のアクセス数は非常に少なくなります。これに反して季節の花の写真や友人の思い出を掲載するとアクセス数が多くなります。毎日平均1000くらいになります。1000人くらいの方々が毎日この拙いブログを読んでくださるのです。感謝に堪えません。有難うございます。そんな訳で今日の旅の思い出を書きます。四季折々登った蔵王山の思い出です。仙台に住んでいたので私は何度も蔵...「老人は思い出だけで生きている、何故国際政治に関心が無いのか」

  • 「消息不明の高校時代の2人の友人の思い出」

    仙台一高時代の私の2人の友人の思い出です。友人の野田君はフルートを吹いていました。戦後のバラック建ての暗い彼の家の中で何度か美しいフルートの音色を聞かせてくれました。ガランとして貧しそうな家の中に澄んだフルートの音が響き渡ります。母子家庭だった彼の母は働いていたので家にはいつも誰もいませんでした。細く揺れ響くフルートの曲目を聞くとバッハの「トッカータとフーガ」だと言います。野田君は色の白い小柄な少年でした。無口で控え目な性格でした。その野田君とは高校卒業以来二度と会えません。消息不明なのです。どんな人生を送ったのでしょうか。「トッカータとフーガ」のオルガン曲を聞くたびに野田君の事を思い出します。暗いバラック建ての家に響いたフルートの音をありありと思い出すのです。もうひとりの友人は皆川君です。彼はフランスの...「消息不明の高校時代の2人の友人の思い出」

  • 「仙台の愛宕中学校の友人たちの思い出」

    2012年10月に仙台市愛宕中学校の第二回生の同窓会が秋保温泉でありました。私は卒業以来61年目に初めて仙台の同窓会に出席しました。若くして仙台を出てアメリカへ留学した私はそれ以来61年間仙台の中学校の同窓会へは不義理を重ねてきました。今回をもって最後にしますという案内状に誘われて出席しました。61年目に再会した懐かしい友人が皆笑顔で迎えてくれたのです。その折に幹事が配った名簿に物故者の名簿がありました。分かっているだけでも既に76名もの人が旅立っていたのです。2回生は全部で350人でした。その中に一緒に遊んだ友だちが数人もいたのです。亡くなったことも知らなかった私でした。長い間疎遠にしていた私のお詫びとして以下の追悼文をお送りいたします。まず萩生田啓一君へ私の疎遠をお詫びします。君の家にはしょっちゅう遊...「仙台の愛宕中学校の友人たちの思い出」

  • 「旅立ってしまった親友、近藤君の思い出」

    3年前に亡くなった近藤達男君は仙台の大学時代の同級生でした。何事にも情熱的で夢多いロマンチストでした。大学の赤レンガの建物の屋上で私が撮った近藤君の学生服の姿の写真を思い出します。やがて卒業し就職しました。東海村の日本原子力研究所で金属の腐食の研究を始めました。私は何度か東海村の近藤君の所に遊びに行きました。新婚だった彼の家に泊ったこともありました。1番目の写真は東海村の原子力研究所の現在の風景です。原子力研究所は昭和31年6月に発足しました。発足当時は小さな研究所が茨城県の農村にポツンとありました。私は昭和34年に2週間の原子力研究所の研修に参加しいました。原子力発電機の運転を体験したのです。近藤君の実家は千葉県の飯岡にありました。私はそこへも遊びに行きました。2番目の写真は千葉県の飯岡の現在の風景です...「旅立ってしまった親友、近藤君の思い出」

  • 「名門小金井カントリークラブの写真を撮りに行った」

    名門小金井カントリークラブの写真を撮りに行って来ました。小金井カントリークラブは1937年に高石真五郎氏が初代理事長に就任し開場しました。戦前から東京の上流階級の人がプレイした名門ゴルフ場です。先程行って写真を撮って来ました。広々して気持ちの良い場所です。「名門小金井カントリークラブの写真を撮りに行った」

  • 「大友君や星野君とヨットに乗った懐かしい葉山マリーナの写真」

    大友君や星野君とヨットに乗った懐かしい葉山マリーナの写真をお送り致します。私は38年前の50歳の時、趣味としてヨットを始めました。始めは江の島のヨットスクールと葉山マリーナでデンギィの操船方法を1年間ほど習いました。その後、故人になってしま大友君や星野君とよく葉山の海でヨットに乗ったものです。懐かしい葉山マリーナの写真をお送り致します。「大友君や星野君とヨットに乗った懐かしい葉山マリーナの写真」

  • 「親友の大友君が働いていた石川島播磨重工の写真」

    親友の大友君が働いていた石川島播磨重工の写真です。1番目の写真は大友君が作っていたジェットエンジンです。2番目の写真は石川島播磨重工の呉造船所の写真です。3番目の写真は石川島播磨重工の本社の写真です。「親友の大友君が働いていた石川島播磨重工の写真」

  • 「富士山で遭難死した大友君の思い出」

    あれは茫々60年前の1958年に、我々は東北大学工学部金属工学科を卒業しました。その同級生に大友暁君がいました。高校時代と大学時代の親友でした。数年前に富士山に登り下山途中に遭難し死んでしまいました。今日は親友だった大友君の思い出を書きたと思います。まず大友君が写っている写真です。数年前に大学の同級生7名が出席した昼食会の写真です。1番目の写真は数年前に大学の同級生7名が出席した昼食会の写真です。大友君は左から2人目の眼鏡をかけた人です。この元気な大友君は2018年の秋に富士山に登り帰路行方不明になりました。まだ遺体は見つかっていません。大友君と最後に遊んだのは2010年の10月28日でした。当時、私は霞ヶ浦でヨットを係留していました。そのヨットで一緒にセイリングをしたのが最後になりました。その最後のセイ...「富士山で遭難死した大友君の思い出」

  • 「遥かな五島列島の5つの天主堂の写真」

    五島列島は本当に遠い離れ島です。遥かに憧れて数十年、やっと2泊3日の旅で訪れることが出来ました。3日間、観光バスで五島列島の険しい山々を越えて岬と岬の間にある小さな集落を幾つも巡り5つのカトリック教会を訪ねました。五島列島には全部で50ケ所のカトリック教会がありますので、訪問したところはそのほんの一部にすぎません。今日は訪れた5つの教会の家内が撮った写真をお送り致します。1番目の写とは2番目の写真は井持浦天主堂です。3番目の写真と4番目の写真は堂崎天主堂です。5番目の写真と6番目の写真は青砂ケ浦天主堂です、7番目の写真と8番目の写真は頭ケ島天主堂です。9番目の写真と10番目の写真は中ノ浦天主堂です、たった7万人の住民にた対して50もの教会が存在するのです。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り...「遥かな五島列島の5つの天主堂の写真」

  • 「東京のカトリック松原教会の今日のミサの動画配信」

    今日は東京のカトリック松原教会の動画配信であずかりました。カトリック松原教会の動画配信は、https://matsubara-cath.chu.jp/ja/です。カトリック松原教会の住所などは下記の通りです。〒156-0043東京都世田谷区松原2丁目28番5号TEL.03-3321-0941FAX.03-3321-0009京王線・井の頭線「明大前」駅下車徒歩4分です。ミサの式次第、開祭司祭:父と子と聖霊のみ名によって。会衆:アーメン。回心の祈り、栄光の賛歌、ことばの典礼、感謝の典礼、奉献文、感謝の賛歌、閉祭添付の写真はカトリック松原教会の今日のミサの風景です。「東京のカトリック松原教会の今日のミサの動画配信」

  • 「猪苗代湖の湖畔で今は亡き星野君を想う」

    長生きしていると友人が次々に旅立って行きます。88歳までの長生きは悲しいことでもあります。亡くなった友人のことをよく思い出します。今日は今は亡き星野君の思い出と猪苗代湖のことも書きたいと思います。さて美しい猪苗代湖にも毎年、白鳥が北国のシベリアから渡って来ます。ある年に白鳥が青い湖に遊んでいる光景を見ました。その向こうに雪の磐梯山が輝いていました。そんな思い出の風景によく似た猪苗代湖と白鳥の写真をお送り致します。1番目の写真は猪苗代湖と白鳥の写真です。(写真の出典は、http://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=01674000752&GroupCD=0&no=です。)この猪苗代湖では何度もヨットでセイリングしたものです。今は亡き星野君と一緒にセイリン...「猪苗代湖の湖畔で今は亡き星野君を想う」

  • 「江戸時代の農家の写真を撮りに行った」

    小金井公園の一画に「江戸東京たてもの園」があります。そこにある江戸時代の3県軒の農家の写真を撮りに行って来ました。「江戸時代の農家の写真を撮りに行った」

  • 「ゴルバチョフ元ソ連大統領は2022年に死す」

    以下はゴルバチョフ元ソ連大統領の死亡記事です。2022年8月31日、ByReuters[モスクワ30日ロイター]-東西冷戦の終結をもたらしたゴルバチョフ元ソ連大統領が30日、死去した。91歳だった。モスクワの病院関係者が明らかにした。ゴルバチョフ氏は1985年に54歳でソ連共産党書記長に就任。「ペレストロイカ(改革)」や「グラスノスチ(情報公開)」政策でソ連の政治、経済の改革を断行した。米国と軍縮合意を結んだほか、第2次世界大戦後に欧州を分断していた「鉄のカーテン」を開放し東西ドイツ統合を実現するため、西側とのパートナーシップを構築。90年にノーベル平和賞を受賞した。ただ、グラスノスチ政策で以前は考えられなかった党や国家に対する批判が可能になったと同時に、ソ連内の民族主義を刺激。ラトビア、リトアニア、エス...「ゴルバチョフ元ソ連大統領は2022年に死す」

  • 「春爛漫の日々に思う悲惨なウクライナの戦乱」

    春爛漫の日々が続きます。良い季節になりました。しかしウクライナでは悲惨な戦乱が起きています。何故人間は戦争をするのでしょうか。ウクライナでの戦争を考えざるを得ません。少し考えてみました。ウクライナの戦乱を歴史的に考えてみます。ロシアが悪いと非難すべきは明白です。しかし歴史的かつ客観的に考えると別な理解が出てきます。ウクライナの戦乱は旧ソ連の内戦です。旧ソ連の中枢を担ったウクライナとロシア・ベラルーシが対立し戦争になったのです。1991年に旧ソ連が崩壊します。ロシア・ベラルーシは共産主義体制のままですがウクライナは資本主義の国家になってしまったのです。旧ソ連時代にロシアの親友だったウクライナがロシアを裏切ったのです。当然ロシアは怒り心頭です。恥じも外聞のなくウクライナへ軍事侵攻したのです。この経緯を見ると現...「春爛漫の日々に思う悲惨なウクライナの戦乱」

  • 「春爛漫の日々、花を描いた名画を楽しもう」

    春爛漫の日々が続きます。良い季節になりました。何故か心がうきうきします。こんな朝は花を描いた名画を眺めると良いと思います。花を描い美しい絵の写真をお送りいたします。1番目の写真はルドンの「野の花」です。1840年、フランス出身の象徴主義オディロン・ルドンの作です。2番目の写真はルノワールの「花瓶の花」です。3番目の写真はセザンヌ作の「花と果物のある静物」です。4番目の写真はゴッホの「青い花瓶の花」です。今朝は花を描い美しい絵の写真をお送りいたしました。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)「春爛漫の日々、花を描いた名画を楽しもう」

  • 「今日は武蔵野公園まで散歩しました」

    武蔵野公園へ行く道は野川に沿って下って行きます。その道沿いのシダレザクラが華麗に咲いていました。桜は種類によって満開になる時期が違うので3月中旬から4月中旬まで楽しめます。今日のシダレザクラが今年の最後になるのでしょうか。今日のシダレザクラの写真をお送り致します。「今日は武蔵野公園まで散歩しました」

  • 「山林の中の小屋の近くの新緑の写真」

    小屋は山梨県の西端の甲斐駒岳の麓にあります。その付近の新緑の写真をお送り致します。写真は2008年の5月に撮りました。なお4枚目の写真には家内と息子と幼い頃の3人の孫がが写っています。左の白服が家内でその右が長孫です。その隣が下の孫で黒服の男が息子です。もう一人の孫は右端に写っています。16年前は3人の孫も小さな児でした。時の流れは早いものです。「山林の中の小屋の近くの新緑の写真」

  • 「平和な公園を散歩しながら戦争の時代を思い出す」

    昨日はのどかな小金井公園を散歩しました。四季折々に散歩します。その秋と春の写真を示します。1番目の写真は去年の秋に撮った小金井公園です。空が秋特有のウロコ雲になっています。2番目の写真は昨日撮った森の中です。ショカツサイの花が静かに咲いていました。こんな風景の公園を散歩していながら私は日本の戦争の時代を思い出すのです。少年の頃の戦争の時代です。強烈な思い出です。昭和11年に私は仙台で生まれました。日本の敗戦までは満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続く戦争の時代でした。私が通った小学校の教室には昭和天皇と皇后のお写真が飾ってありました。以下は日本の敗戦までいたる昭和時代に起きた種々の事件をまとめて示したものです。(1)昭和の戦前期1927年(昭和2年)昭和金融恐慌、東方会議、山東出兵、南京事件。1928年(昭...「平和な公園を散歩しながら戦争の時代を思い出す」

  • 「今日の小金井公園の午後の散歩」

    今日は巨木の森の中を散歩してきました。森の中にひっそりと花が咲いていました。「今日の小金井公園の午後の散歩」

  • 「国立の桜並木とピエトロで昼食」

    国立の桜並木を眺めてピエトロで昼食をして来ました。葉桜の並木も良いものです。国立の桜並木を通ってイタリアンレストランのピエトロで昼食です。息子が運転して家内と3人でパスタの食事をしました。息子は孝行息子になりました。「国立の桜並木とピエトロで昼食」

  • 「東京の世田谷城、八王子城、片倉城、渋谷城、江戸城、そして仙台城の石組の写真」

    鎌倉時代の後は室町時代と言います。しかし室町幕府の力が弱く、その権力は遠い関東には届きませんでした。関東地方は鎌倉時代の直後からいきなり戦乱の続く戦国時代に突入したのです。その時代に関東地方では数多くの城や砦が作られたのです。現在の東京都にあった城や館は次の通りです。江戸城、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどです。東京都だけでこれだけあるのですから関東地方一円にはもっともっと数多くの城が存在していたのです。今日は世田谷城、八王子城、滝山城、片倉城、渋谷城、江戸城などの石組をご紹介したいと思います。そして我が故郷の仙台城...「東京の世田谷城、八王子城、片倉城、渋谷城、江戸城、そして仙台城の石組の写真」

  • 「サレジオ学院の風景写真を撮りに行った」

    サレジオ学院の聖堂のミサに通っていた時期がありました。懐かしいので時々散歩に行きます。先ほど行って写真を撮って来ました。「サレジオ学院の風景写真を撮りに行った」

  • 「東北地方の六大祭り」

    東北地方の六大祭りを書くと次のようになります。青森県(青森ねぶた祭)七夕祭り灯篭流しが変形して出来たと言われる「青森ねぶた祭」。...秋田県(秋田竿燈まつり)真夏の病魔や邪気を取り払う“ねぶり流し行事”として、長い歴史を持つ「秋田竿燈まつり」。...岩手県(盛岡さんさ踊り)...山形県(山形花笠まつり)...宮城県(仙台七夕まつり)...福島県(福島わらじまつり)さて写真は「青森ねぶた祭」です。「東北地方の六大祭り」

  • 「及源さんと南部鉄器のことなど」

    昨日久しぶりに旧友、及川源悦郎さんから南部鉄器の会社の紹介のパンフレットが送って頂きました。及川源悦郎さんは大学の同級生でした。東北大学金属工学科を1958年に卒業後、家業である及源(オイゲン)鋳造に入社しました。第四代目社長になり、その後は会長として後進の指導に当たっていました。お子さんが社長を継いでいます。そこで頂いたパンフレットに出ていた「鹿踊り」の写真をお送りいたします。1番目の写真は南部地方の「鹿踊り」の写真です。そして及源(オイゲン)鋳造の鉄の鋳造製品の写真も示します。2番目の写真は鉄瓶です。下の写真は戦前の及源鋳造の店の前の写真です。3番目の写真は源鋳造の店の前の写真です。南部鋳鉄は11世紀に平泉に藤原3代が隆盛をきわめたおりに鋳物職人を近江(現在の滋賀県)から招いたことに始まりました。南部...「及源さんと南部鉄器のことなど」

  • 「戦後の焼野原と現在の全国にある花園の風景」

    これは戦後の焼野原をこの目で見た私の感慨です。現在の全国の花園の風景を見て隔世の感です。日本がこんなにも変わったことに驚いています。この驚きは若い人には理解出来ないかも知れませんが書いて置きたいと思います。写真に従って説明いたします。1番目の写真はB29の編隊が焼夷弾で東京を焼きつくしている光景です。当時住んでいた仙台でも同じような光景を私は見ました。1945年7月10日の午前0時から仙台は123機のB29によって焼きつくされました。当時9歳であった私は、向山の高台から市街地が一面の火の海になっているのを立ち尽くして見ていました。2番目の写真は空襲があった翌日の東京の風景です。仙台の空襲の翌日、私は鹿落坂をくだって中心街の焼け跡を見に行きました。この写真のような光景が広がり、まだ彼方此方から煙が立ち昇って...「戦後の焼野原と現在の全国にある花園の風景」

  • 「玉川上水の樹々の新緑といろりの里」

    午後から玉川上水の樹々の新緑の写真を撮り行にました。ついでに和食の店いろりの里の写真も撮りました。いろりの里は人生の節目、節目に使った懐かしい店です。そんな樹々の新緑と懐かしい料亭の写真をお送り致します。玉川上水は江戸初期に江戸へ生活用水を送るため、多摩川上流の羽村から取水し四ツ谷まで43Kmの堀を作ったものです。江戸幕府から委託され、1653年(承応2年)に工事を完成させた玉川兄弟の銅像は羽村の堰の岸辺に立っています。現在も樹々はよく手入れされ大きな樹々が繁っています。江戸時代の自然がそのまま残っているようです。その樹々の新緑がこの季節に美しいので何度も眺めに行きます。今日は近所の範囲の玉川上水の樹々の写真をお送り致します。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人...「玉川上水の樹々の新緑といろりの里」

  • 「水辺に輝く新緑の風景」

    陽春の季節になりました。いろいろな花々も一斉に咲き出し素晴らしい季節です。そして新緑が萌え出でて明るく輝いています。埼玉県に近い清瀬市の金山緑地公園の新緑です。以前に写真を撮りながら歩いていると、体中が新緑の色に染まるような感じがしました。若い葉の香りもします。爽快でした。写真をお楽しみ頂けたら嬉しいです。「水辺に輝く新緑の風景」

  • 「小金井公園の瑞々しい新緑の写真を撮って来ました」

    小金井公園で瑞々しい新緑の写真を撮って来ました。去年の4月下旬です。「小金井公園の瑞々しい新緑の写真を撮って来ました」

  • 「近くの新緑を見て遥かに軽井沢への小さな旅を思い出す」

    昨日は近くの小金井公園の新緑の写真を撮って来ました。新鮮な気分になります。そんな写真をお送り致します。写真に示したような新緑の中を歩いているといろいなことを思い出します。新緑の頃に旅した北海道のみずみずしい白樺林の風景や八ヶ岳の緑の森を思い出します。そして新緑の軽井沢を思い出しました。今日は新緑の軽井沢をご紹介したいと思います。軽井沢は何度か訪れ散策していました。西洋の情緒と周囲の山々の緑を楽しむため訪れたのです。散策していると、軽井沢の近くの信濃追分に住んでいた堀辰雄の「風立ちぬ」をも思い出します。家内が撮った写真で新緑の頃の軽井沢の魅力をご紹介したいと思います。4番目の写真は旧三笠ホテルです。営業はしていませんが明治期のホテル建造物として公開しています。駐車場が少し離れているのが残念です。5番目の写真...「近くの新緑を見て遥かに軽井沢への小さな旅を思い出す」

  • 「桜と菜の花の競演」

    桜と菜の花の競演です。小金井公園の西の花園で桜と菜の花が競演していました。「桜と菜の花の競演」

  • 「今日の小金井公園の中央広場の桜」

    今日の小金井公園の中央広場の桜です。もう散り始めました。桜の命は儚いです。こうして春も過ぎ行くのでしょうか。「今日の小金井公園の中央広場の桜」

  • 「私が好きな鎌倉の円覚寺の写真」

    円覚寺にはよく行きました。私が好きな鎌倉のお寺は円覚寺です。平和な雰囲気で境内がゆったりとしています。境内を散歩しながら鎌倉仏教のことを考えます。さっそくですが円私が好きな覚寺をご紹介します。円覚寺は鎌倉五山の第2の大きなお寺です。境内には総門、山門、仏殿、選仏場、方丈、国宝の舎利殿、12の塔頭(たっちゅう)など多くの建物があります。しかし今日は禅宗のお寺で重要な坐禅堂の選仏場の写真からご紹介いたします。1番目の写真は坐禅堂の選仏場の写真です。円覚寺は一般向けの座禅会や学生座禅会など毎日のように座禅会を開催していて誰でも気軽に座禅が組めます。2番目の写真は坐禅堂の内部の写真です。この坐禅堂は元禄12年(1699年)建立の茅葺き屋根の建物です。内部には写真にあるように薬師如来立像(南北朝時代)を安置していま...「私が好きな鎌倉の円覚寺の写真」

  • 「祖父が住職だった正林寺と施餓鬼供養の思い出」

    私の祖父は兵庫県の曹洞宗の正林寺の住職でした。叔父も祖父の後を継ぎ住職を長く務めていました。そのお寺は大阪駅から山奥に入った兵庫県にありました。現在の正林寺は少し離れた場所に引っ越し兵庫県川辺郡猪名川町内馬場という所にあります。祖父は和尚でしたが長男の父は仙台の大学に勤めていました。毎年夏のお盆になると一家揃って兵庫へ里帰りするのが習わしでした。大阪・梅田から阪急電車です。能勢口で能勢電鉄へ乗り換え山下駅で降り、あとはタクシーという旅でした。私は昭和11年生まれですが、記憶に残っているのは4,5歳の頃からと思います。里帰りは戦後の昭和26年、中学校3年の夏まで続いたので10年間くらいの記憶であります。1番目の写真は現在の正林寺の写真です。写真の出典は、http://sp.raqmo.com/syorinj...「祖父が住職だった正林寺と施餓鬼供養の思い出」

  • 「野火止の平林寺」

    埼玉県の新座市にある平林寺をご紹介いたします。野火止用水のある平林寺界隈には昔ながらの武蔵野の森があちこちにあります。1番目の写真は平林寺の付近にある武蔵野の森です。農地が広がり、その向こうに森があるのです。2番目の写真は平林寺の表門です。道の左右には巨大なケヤキが繁っています。3番目の写真は平林寺の東側にある南北の道路です。道の両側が森になっています。4番目の写真葉は平林寺の仏堂です。平林寺は埼玉県、新座市の市役所の向かい側にあります。南北朝の時代の1375年に大田備中守によって同じ埼玉県の岩槻に創建されました。そして1663年に松平伊豆守信綱の遺児、輝綱によって現在地へ移築されたお寺です。この平林寺は禅の修業で有名なのです。その境内の雑木林が広大で散策に良いお寺です。正門前の有料駐車場は駐車料500円...「野火止の平林寺」

  • 「今は春ですが紅葉の平林寺の写真をお送り致します」

    平林寺には武蔵野が広がっています。四季折々に散策が楽しいのですが紅葉の頃も素晴らしいのです。今は春ですが紅葉の平林寺の写真をお送り致します。私がよく散歩したお寺の一つに平林寺という禅宗の臨済宗のお寺があります。家内が撮ったお墓の写真を示します。5番目の写真は修行なかばにして死んでしまった禅僧のお墓です。このお寺は南北朝の頃に創建され江戸時代には川越城主の松平家のお寺として栄えました。ですから立派な松平家の代々のお墓が並んだ墓地もあります。そしてお寺の右奥には歴代住職のお墓が並んだ墓地もあります。しかしそれとは別にこのお寺で病没した禅僧たちのお墓が丁寧に保存されているのです。彼等の子孫は何処に行ったか分かりせん。無縁墓です。しかし現在でも線香を上げる台が新しく作ってあります。6番目の写真はおもに江戸時代の無...「今は春ですが紅葉の平林寺の写真をお送り致します」

  • 「私は寺が好きだ!そして東京で最古の寺、深大寺」

    父の実家は兵庫の片田舎にあるお寺でした。毎年夏になると一家でそのお寺に泊まりに行きました。それでお寺に楽しい思い出がいっぱいあります。私にとってお寺は楽しい所です。そんな訳で近所のお寺へよく散歩に行きます。今日は少し有名な深大寺をご紹介します。さて深大寺は733年に創建され、浅草寺と並んで東京では最も古いお寺の一つです。天台宗別格本山の寺です。武蔵国の国分寺は760年代始め頃に完成していますので、それより20年も古いお寺です。以前に撮った門前の店と山門などの写真をお送りします。1番目の写真は山門の左にある店です。門前には名物の「深大寺ソバ」の蕎麦屋や土産物屋が沢山並んでいます。この店だけ特に示した理由は店の右に坂道があり、そこを登ると神代植物公園の東口があるからです。2番目の写真は深大寺の山門です。3番目...「私は寺が好きだ!そして東京で最古の寺、深大寺」

  • 「自宅に近い上の原公園の桜も見事です」

    小金井駅の北側の住宅地にある上の原公園の桜も見事に咲きました。「自宅に近い上の原公園の桜も見事です」

  • 「今日の都立武蔵野公園の桜花の写真」

    本物の春の陽気に誘われて武蔵野公園の桜花の写真を撮りに行って来ました。久しぶりに青空の写真が撮れました。「今日の都立武蔵野公園の桜花の写真」

  • 「今日の四谷のイグナチオ教会のミサの風景です」

    今日はイグナチオ教会のミサのインターネットの動画配信とともに預かりました。祈りました。イグナチオ教会のミサの風景の写真をお送りいたします。「今日の四谷のイグナチオ教会のミサの風景です」

  • 「分かりやすい仏教とキリスト教の比較」

    キリスト教を簡単至極に説明したいと思います。分かり易く説明するためにお釈迦さまの教えと比較しながら話を進めて行きたいと思います。さて、ユダヤ民族だけの民族宗教として旧約聖書が前900年頃に出来ました。それから、長い年代にわたって改正が続きましたが、ユダヤ民族がバビロニアに捕囚されていた時代に大部分が編集されたそうです。この旧約聖書は長い間、ユダヤ教の基本でしたが2000年前にイエス・キリストが改正をして世界の全ての民族に通用するキリスト教を作ってしまったのです。この宗教の特徴は『神はヤハウエ神だけである。偶像崇拝は行わないこと』ということにあります。仏教と比較しますとキリスト教では唯一の神が存在しますが、仏教では神の存在を認めていません。お釈迦さま自身はあくまでも人間であって死んだら空(クウ)になるだけで...「分かりやすい仏教とキリスト教の比較」

  • 「谷のイグナチオ教会の今日のミサの動画配信」

    イグナチオ教会の今日のミサの動画配信は、https://www.youtube.com/watch?v=LoCtqZEz8y0です。通常のミサの式次第、開祭司祭:父と子と聖霊のみ名によって。会衆:アーメン。回心の祈り、栄光の賛歌、ことばの典礼、感謝の典礼、奉献文、感謝の賛歌、閉祭添付の写真はカトリック小金井教会の先週の復活祭のミサの風景です。「谷のイグナチオ教会の今日のミサの動画配信」

  • 「小 金 井 桜 と は?」

    名勝小金井桜の起源は元文2年(1737年)江戸幕府の新田開発の一環として玉川上水の両岸に植樹されたヤマザクラの並木です。奈良県の吉野山と茨城県桜川から取り寄せたとされる由緒ある桜です。このヤマザクラの並木は、江戸時代から地元の農民たちにより守られてきましたが、幕府の代官たちも雑木の伐採や桜の苗木の補植を進めるなど、桜を守る努力を続けてきました。https://koganeizakura.com/4indexkoganeisakura.htmlをご覧下さい。1番目の写真は大正時代の小金井桜の花見です。玉川上水の土手でした。小金井公園は無かったのです。「小金井桜とは?」

  • 「名勝の小金井桜の数十本が遂に満開になりました」

    小金井桜は江戸時代から有名な名勝でした。昔は小金井村の玉川上水の土手に植えてありました。戦後に小金井公園が都立公園として整備されると中央広場に数十本のソメイヨシノが植えられました。広い場所に数十本の桜花が満開になると多くのお客が来て広場を埋めつくします。先程行ってきましたら満開で、大勢の花見客でした。撮って来た写真をお送り致します。「名勝の小金井桜の数十本が遂に満開になりました」

  • 「写真で見る絶滅寸前のヨーロッパの少数民族」

    趣味として私は世界の民族についてあれやこれやと調べています。そんな趣味で集めたヨーロッパに住んでいる少数民族の写真をお送りいたします。今回は北方の少数民族に限ります。1番目の写真はマンシ族の住居の夏の風景です。マンシ族はロシアのハンティ・マンシ自治管区の先住民です。ハントィとは近い親戚の意味で現在、およそ12,000人がロシアで暮らしています。写真の出典は、『マンシ、コリャーク、ンガナサヌィ…ロシアの絶滅しそうな少数民族』http://osoroshian.com/archives/37793045.htmlです。2番目の写真は街に出て来たマンシ族の家族の写真です。3番目の写真は昔のサーミ民族の家と民族衣装を着た家族の写真です。このような家には住んでいましたが現在は近代的な家に住んでいます。テントは夏だけ...「写真で見る絶滅寸前のヨーロッパの少数民族」

  • 「中国の少数民族の美しい伝統文化」

    私は少数民族に対する好奇心を持っています。少数民族は美しい伝統や文化を守っています。ですから私は彼等の心や暮らしぶりに尽きない興味を持っているのです。少数民族のことをいろいろ調べるのが私の趣味です。楽しい趣味です。例えば中国には少数民族が38%もいるのです。1,721万人もの少数民族が住んでいるのです。今日はこの趣味で知った中国の広西チワン族をご紹介致します。写真に広西チワン族の旧正月の正装、観光イベントの御馳走、段々の稲作水田、立派な屋根のついた橋などの写真を示します。さて中国の広西チワン族自治区は中国最大です。西は雲南省、北は貴州省、湖南省、東は広東省と接し、南はトンキン湾に面しています。南西はベトナムと国境を接し、北部には東西に南嶺山脈が走っています。珠江の流域の内陸部の多くを占めています。亜熱帯性...「中国の少数民族の美しい伝統文化」

  • 「荻須高徳の油彩画」

    荻須高徳(1901-1986)は、東京美術学校で学んだ後、1927年に渡仏。ルーヴル美術館の絵画群や、画廊でルオーやヴラマンク、ユトリロなど同時代の画家の作品から刺激を受け、本場の油絵を貪欲に吸収した。荻須は1940年に、前年に勃発した第二次世界大戦のためやむ無く帰国したが、敗戦後、日本人が海外へ渡航することが未だ困難な1948年に、日本人画家としてはじめて再渡仏し、1986年に亡くなるまで、通算して半世紀以上、パリで画家として生きた。「荻須高徳の油彩画」

  • 「今日の桜花」

    今日の桜花の写真です。近所の公園に今日の桜花の写真を撮りに行きました。曇り日なので鮮明な写真ではありませんがお送りいたします。「今日の桜花」

  • 「印象派の巨匠、ルノアールの絵画世界」

    思い出すのはルノアールの絵画世界です。ルノワールの油彩画はフランスやアメリカで何度も見ました。そして2016年06月の東京の新国立美術館での「ルノアール展」は感動的でした。ルノワールの103点の油彩画が一堂に展示してあったのです。この「ルノアール展」は圧巻でした。ここにお送りする絵は私が好きなものです。特に「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」が大好きです。屋外で語り合う家族やダンスを楽しむ人々の明かるい表情と空気感に魅せられます。暗くて長いヨーロッパの冬を想うとこの夏の夜の楽しさがしみじみ分かります。1番目の写真は「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」です。1876年作くでオルセー美術館蔵です。第3回印象派展出品の作品でした。2番目の写真は『ピアノに寄る少女たち』です。(1892年。油彩、オルセー美...「印象派の巨匠、ルノアールの絵画世界」

  • 「30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画」

    佐伯祐三の原画の数十枚をまとめて見たことが一度だけあります。2008年、横浜そごうデパートでの特別展でした。油彩画の原画には絵の具が盛り上がり、画家の熱い息づかいが感じられるのです。30歳で客死した佐伯祐三の情熱が直接伝わって来るのです。彼はパリに魅せられ狂ったように絵を描き続けました。最後は文字通り狂って彼の地の精神病院で息を引き取りました。たった10年間ほどの画歴でした。粛然とした想いで佐伯祐三の油彩画の写真をお送りいたします。1番目の写真は「パリ街景」です。原画の大きさは38.1×45.4cmです。2番目の写真も「パリ街景」です。1927年作で大きさは65×81cmです。3番目の写真は「郵便配達夫」です。1928年の作品です。原寸は80.8×65.0cmです。4番目の写真は「靴屋(コルドヌリ)」です...「30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画」

  • 「カイユボットの『鉋をかける人々』」

    あれは随分以前に見たカイユボットの油彩画、「鉋(カンナ)をかける人々」を忘れられません。時々思い出します。2014年8月13日に国立新美術館でオルセー美術館展で見た絵です。その写真をお送り致します。1番目の写真はカイユボットの油彩画、「鉋をかける人々」です。この絵画は強い印象を与えます。描いている画家の筆使いの勢いを感じます。一気に描き上げたように見えますが、細部まで丁寧に仕上げてあります。すっかり魅了されましたが、私はカイユボットなどいう名前は知りません。帰宅後いろいろ調べてみました。そうしたら彼は富裕なので、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、ドガ、セザンヌらの作品を買い、彼等を経済的に支援したのです。そしてその作品群をフランス政府へ寄贈したのです。ギュスターヴ・カイユボットは(GustaveCail...「カイユボットの『鉋をかける人々』」

  • 「冷たい雨の今日、印象派の絵画を見ながら時を過ごす」

    今日は朝から冷たい雨が降っています。こういう日は印象派の絵画を見ながら時を過ごすことにしました。印象派と言えばやはりエドゥアール・マネの油彩画には心が打たれます。エドゥアール・マネ(1832年1月23日-1883年4月30日)は、19世紀のフランスの画家です。近代化するパリの情景や人物を、伝統的な絵画の約束事にとらわれずに描き出し、絵画の革新の担い手となったそうです。印象派の画家にも影響を与えたことから、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられてい画家です。このマネーの絵から始めて12枚の印象派の油彩画の写真をお送り致します。1番目の写真はマネーの「笛を吹く少年」です。2番目の写真はエドゥアール・マネの「草上の昼食」です。裸の女性は違和感を与えますがマネは裸体の美を描きたかったのでしょぅ。3番目の写...「冷たい雨の今日、印象派の絵画を見ながら時を過ごす」

  • 「吉野山の桜の風景」

    吉野山の桜の風景です。写真の出典は、https://weathernews.jp/sakura/spot/346/です。「吉野山の桜の風景」

  • 「武蔵野公園の桜の開花状況の写真」

    この写真はインターンットからお借りしました。https://hanami.walkerplus.com/detail/ar0313e60411/全国1300カ所の桜名所・お花見スポット情報を掲載。2024年の桜の見頃時期がわかる!開花情報を毎日更新でお届け。満開の桜を楽しもう「武蔵野公園の桜の開花状況の写真」

  • 「小金井公園の現在の桜の開花状況」

    小金井公園の現在の桜の開花状況です。先程行ってきました。まだ満開ではなく8分咲きのようでした。あと2,3日で見事に満開になるでしょう。写真は、インターンットからお借りしました。https://weathernews.jp/sakura/spot/109/「小金井公園の現在の桜の開花状況」

  • 「ピカソの抽象画」

    パブロ・ルイス・ピカソは、1881年ましに、スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市で生まれました。1973年南仏ニース近くにあるムージャンの自宅で肺水腫により死去。1899年、バルセロナに戻る。バルセロナにある「四匹の猫」というカフェに通い、芸術家たちと交わりながら絵を描く。簡素ではあるが、このときに自身初の個展を開催する。ラ・バングアルディア紙で好意的に批評され、ピカソに注目が集まり始めた。ピカソは非常に多作な作家であり、世界中の多くの美術館がピカソの作品を保有している。ピカソの名を冠する美術館だけでも、まず生まれ育ったスペインではバルセロナに1963年にピカソ美術館(バルセロナ)が開館し、2003年には遺族がピカソの出身地であるスペインのマラガにピカソ美術館(マラガ)を開館した。ピカソは1973年の死...「ピカソの抽象画」

  • 「モンドリアンの抽象画」

    抽象画を好きな人は多くはいません。何を描いてあるか分からないからから面白くないのです。しかし私はそんな抽象画を楽しむ方法を身につけています。抽象画の色彩とその配置だけを虚心に楽しむのです。何も考えずに感覚的に楽しむのです。上手に描いた抽象画は美しいものです。今日は抽象画を初めて描いたピート・モンドリアン画伯と彼の作品をご紹介したいと思います。ピート・モンドリアンという画家は近代の抽象絵画を描いた画家の一人です。キュビズムから影響を受け、独自の美術理論を追求し抽象絵画を完成させた人物としてよく知られています。資料、https://media.thisisgallery.com/20222068を参考にしてご紹介します。ピート・モンドリアンは19世紀末から20世紀に活躍したオランダの画家です。1920年ごろに...「モンドリアンの抽象画」

  • 「日本の抽象画、岡本太郎の絵」

    寒い日が続いていますが日本の抽象画の岡本太郎の絵を見て元気になりましょう!写真の出典は、https://www.tokyoartbeat.com/.../exhibition-okamoto-taro...です。「日本の抽象画、岡本太郎の絵」

  • 「抽象絵画を楽しむために知っておくと良いこと」

    西洋の絵画に抽象画があります。その抽象画を見て楽しむためには抽象画のちょっとした歴史を知っておいたほうが良いと思います。今日は抽象画にてついて少し書きたいと思います。さて抽象画を最初に描いたのはカンディンスキーと言われています。ワシリー・カンディンスキー(1866年~1944年)は、ロシア出身の画家であり、美術理論家でした。https://www.musey.net/artist/80から抜粋致します。カンディンスキーはモンドリアンやマレーヴィチと共に、純粋抽象絵画の理論の創始者知られております。彼が書いた「芸術における精神的なもの」は代表的著作でした。カンディンスキーは1866年にモスクワで生まれ、オデッサで幼少期を過ごし、グレゴフ・オデッサ美術大学で美術を学びました。卒業後は、モスクワ大学に入学し、法...「抽象絵画を楽しむために知っておくと良いこと」

  • 「庭に咲く花の写真」

    庭に咲く花の写真をお送り致します。春ですね。小さな庭にもいろいろな花が咲きだしました。「庭に咲く花の写真」

  • 「新選組の成立のいきさつと明治維新後の日野宿の発展」

    今日は、「甲州街道の日野宿の本陣と新選組のことなど」という記事を書きました。その続きとして新選組の成立のいきさつと明治維新後の日野宿について書きたいと思います。(1)新選組の成立のいきさつまず新選組が作られた様子を示す八坂神社の奉納額をご紹介します。面倒な話は止めて早速写真で説明を致します。1番目の写真は日野市の八坂神社の写真です。本殿は、寛政一二年(1800年)に完成したもので、江戸後期の典型的な社殿建築です。この本殿には、安政五年(1858年)に天然理心流近藤周助の門人達により奉納された額があり、欅板に大小二本の木刀が架けられています。ちなみに近藤周作は新選組の局長の近藤勇の養父であります。2番目の写真は八坂神社に現存している天然理心流の奉納額です。天然理心流近藤周助の門人25名の名前が明記してありま...「新選組の成立のいきさつと明治維新後の日野宿の発展」

  • 「今年の野川沿いの桜花」

    今日は曇り日です。曇り日の桜も風情があります。先程散歩しながら撮ってきました。「今年の野川沿いの桜花」

  • 「甲州街道の日野宿の本陣と新選組のことなど」

    60年くらい以前の昔ですが私は甲州街道の日野宿の妻の実家に短期間だけ住んでいました。古い大きな家でした。先祖は代々地主をしていました。日野宿の本陣の向いにある家でした。妻の実家は日野宿の新選組の土方歳三の遠い親戚でした。今日は甲州街道の日野宿の本陣と新選組のことなどについて書いてみたいと思います。日野宿は甲州街道の5番目の宿場町であり、旧甲州街道は現在の甲州街道と同じ場所にあります。宿場町として整備されたのは1605年(慶長10年)のことで、八王子宿を整備した大久保長安の手によって開かれました。甲州街道は1685年以降、日野橋の開通までは、日野の渡しで多摩川を越えていました。大正15年(1926年)、日野橋の完成に伴い240年余年の多摩川の渡しの歴史が終わったのです。本陣の建物は東京都内で唯一遺された江戸...「甲州街道の日野宿の本陣と新選組のことなど」

  • 「宮沢賢治の『注文の多い料理店』」

    『注文の多い料理店』宮沢賢治二人の若い紳士しんしが、すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲てっぽうをかついで、白熊しろくまのような犬を二疋ひきつれて、だいぶ山奥やまおくの、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことを云いいながら、あるいておりました。「ぜんたい、ここらの山は怪けしからんね。鳥も獣けものも一疋も居やがらん。なんでも構わないから、早くタンタアーンと、やって見たいもんだなあ。」「鹿しかの黄いろな横っ腹なんぞに、二三発お見舞みまいもうしたら、ずいぶん痛快だろうねえ。くるくるまわって、それからどたっと倒たおれるだろうねえ。」それはだいぶの山奥でした。案内してきた専門の鉄砲打ちも、ちょっとまごついて、どこかへ行ってしまったくらいの山奥でした。それに、あんまり山が物凄ものすごいので、その白熊...「宮沢賢治の『注文の多い料理店』」

  • 「宮沢賢治の『風の又三郎』」

    あなたにとって「風の又三郎」はどのような人だったのでしょうか?宮沢賢治の「風の又三郎」の原文やあらすじを忠実に紹介しているHPがあります。https://www5a.biglobe.ne.jp/~accent/kazeno/origin.htmです。「風の又三郎」どっどどどどうどどどうどどどう、青いくるみも吹きとばせすっぱいかりんもふきとばせどっどどどどうどどどうどどどう谷川の岸に小さな学校がありました。教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけであとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたがすぐうしろは栗の木のあるきれいな草の山でしたし運動場の隅にはごぼごぼつめたい水を噴く岩穴もあったのです。以下省略します。続きは、https://www5a.biglobe.ne.jp...「宮沢賢治の『風の又三郎』」

  • 「岩手の誇り、宮沢賢治」

    岩手の誇りはなんといっても宮沢賢治です。賢治の作品は現在読んでも胸が熱くなります。随分と昔に亡くなった人ですが、彼の作品は時代を越えて現在の日本人の心に澄んだ美しい鐘の音を打ち鳴らし続けています。賢治は悲しい美しい物語を沢山書きました。物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」というものでした。38歳で亡くなるまでの短い人生を苦しんだのです。今日は「銀河鉄道の夜」を皆さまと一緒に読んでみようと思います。出典は筑摩書房の宮沢賢治全集第十巻です。なお第十巻には「ポラーノの広場」、「オッペルと象」、「風の又三郎」、「北守将軍と三人兄弟の医者」、「グスコーブドリの伝記」、「銀河鉄道の夜」、そして「セロ弾きのゴーシュ」が編纂されています。さて「銀河鉄道の夜」の物語は、星祭りの夜のカンパネルラの水死から始まります...「岩手の誇り、宮沢賢治」

  • 「岩手の三陸海岸の絶景の写真」

    三陸海岸の絶景の写真は下記に出ています。https://recotripp.com/area/district-23/small-1ここでは1枚だけを示します。「岩手の三陸海岸の絶景の写真」

  • 「岩手の南部藩の歴史と写真」

    南部藩は岩手県中部と青森県東部から秋田県北東部にかけての地域を治めた藩でした。藩主が南部氏でした。盛岡藩とも呼ばれます。この地域には独特な文化があります。魅力ある地域です。甲斐国にいた南部氏の始祖の南部光行が、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の青森県八戸市に来て現在の南部町(青森県)に宿をとったのが始まりです。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで覇権を確立した徳川家康から南部藩は所領が安堵されました。10万石の大名として認められたのです。明治維新では奥羽越列藩同盟への参加します。そして南部藩は新政府側へ屈服しました。南部藩は終わったのです。なお遠野南部家は藩の新政府側につき、八戸藩は藩主・南部信順が薩摩藩主・島津重豪からの養子であり新政府側へついたのです。この地域の独特な文化や魅力を写真で示します。1番目...「岩手の南部藩の歴史と写真」

  • 「滔々と流れる北上川」

    北上川は岩手町の弓弭の泉(ゆはずのいずみ)に源を発し、盛岡市、花巻市、北上市、奥州市、一関市などを通って北から南へと水量豊かに滔々と流れる大きな川です。石巻市で太平洋へ流れています。その写真をインターネットからお借りお送りします。岩手の北上川をご紹介致しました。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)「滔々と流れる北上川」

  • 「空に吸はれし十五の心」

    岩手は宮沢賢や石川啄木の故郷です。彼等の関連のある土地の花巻や盛岡を何度も訪問しました。小岩井牧場にも行きました。盛岡城跡の高い石垣を登ると広い草原になっています。青草の上にあおむけに寝て大空を見ていたら家内が詠います。「不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心」『いいえ、四十五の心!』あれは40年以上昔のことでした。盛岡では「石割桜」の巨大な石に手をついて何故か感慨に耽りました。滔々と水量豊かに流れる北上川の岸辺にたたずみ口づみました。「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」そんなことを思い出しながら、岩手の桜のある風景の写真をお送り致します。写真の出典は、https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2396/です。1番目の写真は「盛岡城跡公園」です。盛岡城は...「空に吸はれし十五の心」

  • 「遂に小金井でも桜が本格的に咲き出しました」

    小金井のあちこちで遂に桜が本格的に咲き出しました。今日の陽気に誘われて小金井公園まで行って来ました。ところが小金井公園の中央広場の数十本のソメイヨシノだけは咲き出していません。あと4,5日はかかるようです。残念。今日撮ったサクラの花の写真をお送り致します。「遂に小金井でも桜が本格的に咲き出しました」

  • 「カトリック小金井教会の今日の復活祭のミサの風景」

    カトリック小金井教会の今日の復活祭のミサの風景の写真をお送り致します。「カトリック小金井教会の今日の復活祭のミサの風景」

  • 「教養としてのキリスト教、今日の復活祭の意味」

    キリスト教のことを知れば欧米人の考え方が分かると言います。文学や絵画彫刻や音楽がもっと味わい深くなるとも言います。ですから多くの日本人は教養としてキリスト教を身につけています。今年は3月31日の日曜日で復活祭です。キリスト教の復活祭です。そこで復活祭の意味やその重要性について簡単に書いてみたいと思います。簡単に書いてしまえば復活祭はキリストが十字架にかけられ処刑され、3日後に生き返ったことをお祝いするお祭りです。キリストが生まれた日はクリスマスとして日本でもお祝いの食卓を囲む人が多く、日本の重要な歳時記として定着しています。12月24日のクリスマスはヨーロッパの原始宗教の冬至祭を踏襲しました。その一方で復活祭は日本ではあまり有名ではなく、一部のクリスチャン関係者だけが祝っています。復活祭は春の到来を祝うお...「教養としてのキリスト教、今日の復活祭の意味」

  • 「あるドイツの友人の旅立を悲しむ」

    人間は後期高齢者になると友人たちが一人一人と旅立って行きます。自分と同じ位の年齢の友人が先に逝ってしまうのは淋しいものです。悲しいものです。ドイツ人のグーデナウさんが今週の火曜日に亡くなりした。今日は彼との交友の思い出を書きます。冥福を祈りつつ書きます。彼と最初に会ったのは1970年にドイツ西部のアーヘン工科大学を訪ねた折でした。アーヘン工科大学には鉄冶金の研究で有名なシェンク教授がいたので憧れていたのです。しかしシェンク教授は引退してしまって会えませんでした。その代わり私を暖かく歓迎してくれたのがグーデナウさんだったのです。彼は私と同じくらいの年齢でしたので自然と友情が生れたのです。1974年に再びアーヘンを訪問したときは彼は自分のスポツカー、ポルシュに私を乗せあちこちに連れて行ってくれたのです。まずア...「あるドイツの友人の旅立を悲しむ」

  • 「今日の小金井公園の桜と菜の花などの写真」

    2,3本の桜がやっと咲き出しました。しかし中央広場にある数十本のソメイヨシノは全然咲いていません。その圧巻の風景はあと4,5日後になるようです。今日咲いていた桜と菜の花などの写真をお送り致します。「今日の小金井公園の桜と菜の花などの写真」

  • 「ドイツの紅葉の思い出」

    ドイツの紅葉は緯度が高いので、急に真っ赤、真っ黄色になって、冷たい雨が降って、すぐに散ってしまいます。その紅葉の色は鮮烈です。もうすっかり遠い昔になってしまいましたが、1969年の9月に見たローテンブルグの町の紅葉は忘れられません。城壁の外の住宅に下宿していたので、毎日、車で城門をくぐり、ドイツ語学校へ通ったものです。そして日が暮れ行くころには、タウバウ川のほとりから、紅葉に彩られた町を囲む城壁が夕陽に輝くのを毎日見上げたものです。それはいつも独りで見上げていた晩秋の風景でした。異国の秋の夕暮れは何故かもの悲しいものでした。そんなドイツの紅葉を思い出したのでネットに写真が無いか探してみました。そうしたら、「もうすけさん」のブログ(http://mo-suke1122.blog.so-net.ne.jp/2...「ドイツの紅葉の思い出」

  • 「曾遊の地、スイスの風景の写真」

    南ドイツに住んでいた頃にスイスは近いのでよく行きました。懐かしいです。スイスの風景の写真をお送り致します。写真は順に、グリンデルワルト、インターラーケン、ルツェルン、マッターホルンです。昔、旅した懐かしい曾遊の地です。写真の出典は、https://www.nta.co.jp/media/tripa/articles/sLyW0です。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)「曾遊の地、スイスの風景の写真」

  • 「ドイツの冬の暗さ厳しい寒さの思い出」

    若い頃に住んだドイツが懐かしいです。時々ドイツの町の名前をテレビで見ると無性に懐かしく思います。シュツットガルト、ローテンブルグ、ニュルンベルク、バンベルク、ミュンヘン、ブルツブルグ、チュービンゲンなどなど。懐かしさのあまり体中の血がザワザワ騒ぎたてます。少しだけ喋れたドイツ語をテレビのニュースで聞くと、若いころ住んでいたドイツの空気が突然身を包みます。寒い空気です。暗い、暗い冬の日々が蘇ってきます。そうです。ドイツの冬は太陽が見えず、毎日、毎日、暗い、厚い雲が低く空を覆っているのです。零下10度以下の日々が何カ月も続くのです。この長い暗い冬がやっと終わる頃、復活祭が来て、クロッカスが咲き始めます。5月になってやっと木々に若葉がちらちら出始めます。さわやかな、さつきの風が頬をなでます。「麗しき五月」という...「ドイツの冬の暗さ厳しい寒さの思い出」

  • 「ドイツのライン川の風景」

    ライン川はスイスアルプスのトーマ湖が源流です。そこからボーデン湖に入りドイツ・フランスの国境を北に向かい流れ、カールスルーエの少し南からドイツ国内を流れ、ボン、ケルン、デュッセルドルフ、などを通過しオランダ国内へと入ったあとロッテルダム付近で北海に注いでいる大河です。全長1,233キロメートル。そのうちドイツを流れるのは698キロメートルです。ドイツにとっては特に重要な川であり、ライン流域を主軸のひとつとしてドイツ史は展開してきたのです。ライン川の写真を示します。1番目の写真はスイスのシャッハウゼンにあるライン川の大きな滝です。以前ドイツに住んでいた頃に何度も家内と見に行った懐かしい大滝です。2番目の写真はドイツのコブレンツ付近を流れるライン川です。コブレンツからは観光船が出ます。3番目の写真は中世の古城...「ドイツのライン川の風景」

  • 「ドイツ留学で私の受けた影響」

    老境に至って自分の人生を振り返ると、自分が如何に軽薄な人間かとつくづく思います。日本人として確固たる見識も無いので、外国に住むと、その国が好きになってしまうのです34歳のときドイツに留学し、ドイツに魅了されてしまったのです。今日はドイツでどのような影響を受けたか二つほど書いてみます。ドイツでの生活は1969年夏のにローテンブルグでの3ケ月間のドイツ語研修から始まりました。そしてその後、シュツットガルト市にあるマックス・プランク金属研究所で1年間の研究生活をしました。シュツットガルト市に移るとすぐに家内と子供2人を呼びました。ドイツは気候も社会も若い頃留学したアメリカのオハイオ州とは全く違うのです。同じ欧米人なのにアメリカとドイツでは人々の考え方が驚くほど違うのです。「ヨーロッパの階級社会や伝統社会から逃れ...「ドイツ留学で私の受けた影響」

  • 「青雲の心ざしでドイツにも留学、そしてハプスブルグ家のこと」

    昨日は「青雲の志を抱いて郷関をいづる」という記事を書きました。私が青雲の志を抱いてオハイオ州立大学へ留学したのです。1960年の夏のことでした。何故か、「青雲の志」という言葉は私の心に長く住み着いてkン度はドイツに留学しました。ドイツには1969年の夏から1970年の秋まで一年4ケ月住んでいました。そして一番吃驚したことはヨーロッパは国々や地域によって文化の非常に違うということでした。日本から眺めると西洋文化という一つの文化があるように見えますが、住んでみると国々や地域によってそれぞれ歴史や文化が非常に違うのです。ドイツも北では「こんにちは」はグーテンターグと言いますが、私共が住んでいた南ドイツではグリュースゴットと言います。言葉だけでなく考え方が違うのです。シュツットガルトでアパートを探しましたらシュバ...「青雲の心ざしでドイツにも留学、そしてハプスブルグ家のこと」

  • 「青雲の志を抱いて郷関をいづる」

    戦後の貧しさが漂っていた頃の仙台の思い出です。主な道路の中央しか舗装されていず、風の日は砂ぼこりが舞っていました。私はその砂埃りの道を自転車で高校に通っていました。その高校は旧制の中学校がそのまま高校なった学校です。旧制中学のドイツ語や漢文の先生が熱心に教えていました。特に漢文の先生は情熱的にいろいろな漢詩を朗読しながら教えてくれたのです。何度も青雲の志を抱いて郷関をいづるという文を教えていたのです。若い私はその教えを文字どおり信じ、人生の道しるべにしました。この「青雲の志」は唐時代の張九齢の次の漢詩の中に出てきます。若い頃の青雲の志を懐かしんでいる漢詩です。この教えに従って私は仙台を飛び出してオハイオ州に留学しました。私が青雲の志を抱いてオハイオ州立大学へ行ったのは1960年の夏のことでした。私は故郷、...「青雲の志を抱いて郷関をいづる」

  • 「いろいろな椿の花」

    いろいろな椿の花の写真をお送り致します。椿の花は庭にも咲いている身近かな花です。でも美しい花です。いろいろな椿の花の写真をお送り致します。出典は、https://ameblo.jp/junko-i1021/entry-12845967821.htmlです。「いろいろな椿の花」

  • 「アメリカでの質素な結婚式とレセプションの写真」

    結婚は人生の重大なことです。私は67年間幸福な結婚生活を続けています。今日は私どもの結婚に関する写真です。67年前の1961年、私共はオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。とても簡素な結婚式と質素なレセプションでした。しかしオハイオ州立大学の先生方や同級生が一生懸命世話をしてくれました。感謝の気持ちは今でも忘れません。もう67年にもなるので写真に写っている自分は容姿も完全に変わり、全くの他人のようになりました。結婚式とレセプションの写真を掲載します。1番目の写真は我々の結婚を報ずるオハイオの新聞記事です。2番目の写真はオハイオ州立大学の中にある結婚式場へ牧師さんが来て式をあげている場面です。私の左後ろはケン・ローリイという同級生で私の付添人をしてくれました。右端の半身だけ映っているのがケン・ローリイの奥...「アメリカでの質素な結婚式とレセプションの写真」

  • 「人生で一番感動した若い頃のアメリカ留学」

    幸運にも老境まで健康に生きてきました。長い人生には嬉しいこと、悲しいこと、苦しいことなどいろいろありました。しかし我が人生で一番感動したことは若い頃のアメリカ留学でした。今日は私のアメリカ留学のことを書きたいと思います。私はフルブライト留学生として1960年から1962年まで、オハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。初めての外国体験でした。その時アメリカ人はいつも私を励ましてくれ、好意溢れる支援を惜しみなく与えてくれたのです。今でも感謝しています。例えば博士過程で実験装置を作ったときのことを思い出します。その装置の完成には大学に付属した機械工場のニールさんという職人がひどく親切に協力してくれたのです。1番目の写真はオハイオ州立大学のロードホールという建物ですが、その一階の右の部屋にその実験装置を作りま...「人生で一番感動した若い頃のアメリカ留学」

  • 「今日の武蔵野公園の風景」

    今日の武蔵野公園の風景です。今日は一日晴天です。午後から散歩しながら武蔵野公園の写真を撮って来ました。「今日の武蔵野公園の風景」

  • 「曾遊のリゾートホテル、北海道のグランドパーク小樽」

    2014年の12月3日に小樽で泊まったホテルはグランドパーク小樽という華やかな雰囲気のホテルでした。以前はヒルトン小樽というホテルで外装、内装ともに一流のホテルでした。そのホテルの写真をHPからお借りしました。その他の3枚の写真は12月3日に撮ったものです。ホテルのメイン・ダイニングの眼前に広がる華やかなヨットハーバーの風景写真と北一ガラス店の内部の美しいガラス工芸品の写真などをお送り致します。「曾遊のリゾートホテル、北海道のグランドパーク小樽」

  • 「曾遊のリゾートホテル、北海道のトマム」

    以前の海道旅ででは大型リゾート・ホテルのトマムもも泊りました。その雄大な自然に囲まれた高層ホテル棟と重厚ながら洒落たショッピング・レストラン街には、正直言って非常に驚きました。巨大なトマムのホテルをご紹介いたします。トマムは満員でした。そして地元の若い人々が多数働いています。北海道を出なくても働き口がこんなにあるのです。地域経済にとっても大成功です。しかしトマムには挫折の悲劇があったのです。そして後をついだ会社の血と汗のにじむような営業努力で再生しているのです。トマムは平日でも776部屋もある高層ホテルが満員でした。北海道の大型リゾートは過疎化の激しい村がデベロッパーと組んだ第三セクターとして出発するケースが大部分のようです。しかし悲惨な倒産の運命を経験します。そして経営者交代で再生しています。トマムも地...「曾遊のリゾートホテル、北海道のトマム」

  • 「曾遊のリゾートホテル、北海道のキロロとホテル・ピアノ」

    今日は大規模で贅沢なリゾートホテルの北海道のキロロのホテル・ピアノをご紹介いたします。日本が高度成長していた頃に設計され建設された驚異的な施設です。2010年の6月に行き、感動しましたので、何度かキロロのホテル・ピアノに泊りました。キロロはアイヌ語で「心」を意味するそうです。小樽から毛無山峠を越して、深い山に入った北海道余市郡赤井川村にあります。今回も一泊だけでしたが静かな環境で、紅葉が美しいことに感激しました。ホテルの部屋も広く、インテリアも落ち着いています。食事も美味しかったです。ホテルから続くレストラン街も良い雰囲気でした。そんな風景を下に写真で示します。まず2010年の6月の新緑の頃に撮った5枚の写真を示し、その下に晩秋の風景写真を4枚示します。季節によって風景が変化している様子をお楽しみ下さい。...「曾遊のリゾートホテル、北海道のキロロとホテル・ピアノ」

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