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後藤和弘のブログ https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。 反対のご意見やコメントも歓迎しま

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2014/10/30

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  • 「新撰組の土方歳三と井上源三郎のお墓」

    日野市の石田寺にある新撰組の土方歳三の墓と宝泉寺にある新撰組の井上源三郎のお墓の写真をお送り致します。土方歳三は函館で壮烈な戦死をしましたので今でも函館の人々は彼を尊敬し日野市に在住している歳三の親戚を函館に招いて交流を深めています。1番目の写真は土方家の墓です。2番目の写真は墓前にある歳三の活躍ぶりを紹介している看板です。さらに同じ日野にある宝泉寺にある井上源三郎のお墓にもお参りしました。源三郎は心やさしい隊長だったようで多くの人がその優しさを讃え、追悼文を捧げています。お墓は下の写真の右端に写っている正方形に近い形のものです。3番目の写真は日野の宝泉寺にある井上源三郎のお墓です。4番目の写真は墓の裏刻んである文章です。ちなみに井上家の大きな墓石の隣に2番目に大きな墓石が立っています。先の戦争で戦死した...「新撰組の土方歳三と井上源三郎のお墓」

  • 「甲州街道の日野宿の本陣と新選組のことなど」

    60年くらい以前の昔ですが私は甲州街道の日野宿の妻の実家に短期間だけ住んでいました。古い大きな家でした。先祖は代々地主をしていました。日野宿の本陣の向いにある家でした。妻の実家は日野宿の新選組の土方歳三の遠い親戚でした。今日は甲州街道の日野宿の本陣と新選組のことなどについて書いてみたいと思います。日野宿は甲州街道の5番目の宿場町であり、旧甲州街道は現在の甲州街道と同じ場所にあります。宿場町として整備されたのは1605年(慶長10年)のことで、八王子宿を整備した大久保長安の手によって開かれました。甲州街道は1685年以降、日野橋の開通までは、日野の渡しで多摩川を越えていました。大正15年(1926年)、日野橋の完成に伴い240年余年の多摩川の渡しの歴史が終わったのです。本陣の建物は東京都内で唯一遺された江戸...「甲州街道の日野宿の本陣と新選組のことなど」

  • 「失われた時をもとめて、旧甲州街道を彷徨う」、続き

    甲州街道は徳川幕府が設置した街道の一つで江戸と甲州を結んでいる。関東地方の五街道は甲州街道、奥羽街道、日光街道、中仙道、東海道。全て重要な街道である。江戸から大月までの甲州街道の宿場を順に記せば、新宿、高井戸、布田、府中、日野、八王子、駒木野、小仏、小原、与瀬、吉野、関野、上野原、鶴留川、野田尻、犬目、鳥沢、猿橋、大月となる。車をゆっくり走らせて、旧甲州街道の小原宿、吉野宿、鶴留川宿の3宿を散策して来た。本陣を保存し、歴史展示館のあるのもあるが、何も無く、昔の通りが有るだけのところもある。現在の甲州街道の大垂水峠を越し、相模湖町へ近づくと、右手に大きな「小原の郷」という歴史展示館がある。駐車場は無料で広い。そこから100m位歩いたところに小原宿本陣がある。よく手入れされ、公開している。展示館と本陣の2階部...「失われた時をもとめて、旧甲州街道を彷徨う」、続き

  • 「失われた時をもとめて、旧甲州街道を彷徨う」

    過ぎ去った時代を想像して懐かしく想う。古い街道をさまよって失われた時を探しもとめる。何故か心が静かになり空色の幸せな気分になる。それが老境の私の趣味です。妻籠宿、馬籠宿、奈良井の宿、そして大内の宿は何度も行って静かな幸せな気分で帰って来ました。そこには素晴らしい宿場町が完全に保存されています。でもあまりにも遠方なのです。晴れた日の午後に気楽に出掛けるわけにはいきません。しかし考えてみると近くにも古い街道もあります。日本橋から下諏訪までの江戸五街道の一つの旧甲州街道です。宿場町は中山道の奈良井の宿と異なり完全には保存されていません。しかし街道沿いの家々は軒の長い旅籠風に建てられたものが多いのです。そして江戸時代の本陣も保存、公開してあります。以前に久しぶりに旧甲州街道の鶴川宿と上野原宿まで行ってきました。交...「失われた時をもとめて、旧甲州街道を彷徨う」

  • 「うららかに春の陽光がさす小金井公園の風景」

    午後から小金井公園を散歩しましました。うららかに春の陽光がさして藤の花が綺麗でした。撮ってきた写真をお送り致します。「うららかに春の陽光がさす小金井公園の風景」

  • 「 突然のコメント失礼します。」

    ・コメントが届いた記事「仙台の愛宕中学校の友人たちの思い出」・コメントを書いた人内海範博・コメント突然のコメント失礼します。わたくし、内海範夫の息子の内海範博と申します。本日、私の次女から、これってじぃじの事だよね?とLINEがきました。中身を見てみると、後藤さんのブログで、内海範夫、父の事について書かれたブログでした。次女は自分の田舎の仙台が大好きで、仕事休憩中に、内海範夫でネットサーチをしたみたいです(笑)父の事、想っていただき有難うございます。父も喜んでいるかとおもいます。「突然のコメント失礼します。」

  • 「津和野のカトリック教会の写真」

    今朝はどういう訳か脈絡も無く昔に訪ねて行った津和野のカトリック教会のことを思い出しました。津和野には長崎の大浦天主堂を小さくしたようなカトリック教会があったのです。私は独り、教会を訪ねました。長崎によくあるような畳敷きの教会です。維新後の明治政府による弾圧(浦上4番崩れ)のとき、113名のキリシタンが津和野へ送られ、拷問に遭い、36人が殺されたのです。その殉教者の鎮魂のために、この教会を大浦天主堂に似せて建てたのです。そんなカトリック津和野教会の写真を示します。津和野でのキリシタンの殉教につては「乙女峠友の会」を検索すると詳しく出ています。ついでに観光案内も少し書いておきます。津和野は城下町でした。戦災に合わなかったので江戸時代の街並みが良く残っています。白い壁や家老門の連なる風景は息をのむような美しい風...「津和野のカトリック教会の写真」

  • 「フランス人が建てた函館のカトリック教会の写真」

    私が好きな教会は、北ヨーロッパ風のゴチック建築で、内部が縦長で、祭壇にイエス様やマリア様が美しく飾ってある古臭い教会です。1969年から70年にかけてドイツで通った教会がゴチック様式の造りでした。帰国して洗礼を受けたカトリック立川教会も木造ながらその古い構造でした。カトリックでは常に、入り口の扉が開いていて誰でも歓迎しています。内部に静かに入り、しばしお祈りをします。そして教会の中をゆっくり見物して回るのです。私が好きだと感じ、印象の深かった教会はいろいろあります。長崎の大浦天主堂と浦上天主堂、火事になる前の山口市にあった聖ザビエル記念聖堂、カトリック津和野教会、改築前の東京の聖イグナチオ教会、山形県のカトリック鶴岡教会、そして2度訪問した函館のカトリック元町教会などは私の大好きな教会です。函館には何度か...「フランス人が建てた函館のカトリック教会の写真」

  • 「ドイツのカトリック教会の写真」

    ドイツの教会はカトリックとエバンゲリッシュで多少違います。エバンゲリッシュとはプロテスタント教会のことです。ドイツのカトリック教会の写真を示します。壮大なケルンの教会等が有名ですが村の小さな教会も紹介します。1番目の写真はローテンブルクのカトリック教会です。私が1969年秋に4ケ月間通った教会です。2番目の写真はドイツの都会にある典型的な教会の内部にあるパイプオルガンです。3番目の写真はヴィースの巡礼教会です。南ドイツのどかな田舎の牧場の中にポツリと建つ教会です。南ドイツのコロマン教会です。山並みを背にし草原に立っています。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)「ドイツのカトリック教会の写真」

  • 「フランシスコ教皇の旅立」

    フランシスコ教皇が旅立ました。優しい教皇でした。いろいろな反響があります。今日はこのいろいろな反響をご紹介いたしたいと思います。アルゼンチン出身のフランシスコ教皇は、2013年に中南米出身者として初めて教皇に選ばれ、2019年には、日本を訪れ、被爆地の広島や長崎でスピーチを行い、核兵器の廃絶を訴えました。葬儀にはアメリカのトランプ大統領やフランスのマクロン大統領などが参列する意向を示しているほか、ロイター通信などはウクライナのゼレンスキー大統領も参列する方針だと伝えていて、各国から多くの首脳が集まる見通しです。教皇が亡くなったことを受け、ローマ・カトリック教会の枢機卿の1人、菊地功さんがメッセージを発表しました。菊地さんは、「長崎、広島、東京において多くの方々と出会う中で、世界に向けて核兵器廃絶による平和...「フランシスコ教皇の旅立」

  • 「ライン河での船上パーティの思い出」

    あれは1969年の秋でした。南ドイツのシュツットガルトにあったマックス・プランク研究所で働いていた頃のことです。ライン河の思い出に船上のワインパーティの楽しかったことがあります。まずライン河の風景を見ましょう。1番目の写真はライン河中流の風景です。中世風の古い町並みの後ろの山には一面にブドウ畑が広がっています。個人経営のワイン製造も盛んなところです。水は濁りに濁り、滔々と流れ行きます。2番目の写真はライン河から見える中世の古城です。日当たりの悪い北向きの山の斜面はブドウ畑になっていません。列車は南ドイツと北ドイツを結ぶ鉄道です。何度か乗りましたが車窓から見るライン河も良いものです。3番目の写真は船上パーティに使ったような小型の観光船が手前に写っている写真です。観光船が2隻写っていますが手前の小型の船にご注...「ライン河での船上パーティの思い出」

  • 「仙石線の終点、石巻の写真、そして私の思い出」

    仙石線は仙台から石巻までの鉄道です。終点の石巻市のほぼ中央を北上川が南北に縦断して流れています。市街地は主に北上川河口に広がっており、北上川の中州である中瀬地区から石巻駅にかけての地域が中心市街地です。石巻は漁業や石巻湾内での養殖業などが盛んです。石巻漁港の2019年の水揚げ量は約10万トンで日本国内第5位です。石巻の沖には金華山があります。石巻は懐かしい町です。写真を示します。写真はインターネットからお借りしました。1番目の写真は北上川の河口に広がる石巻市の航空写真です。右下が石巻湾に繋がります。24歳で仙台を離れるまで何度か石巻へ遊びに行った曾遊の地です。2番目の写真は石巻の中心街です。左上に石巻駅があります。仙台から石巻までは仙石線の電車があり2時間弱で行けます。3番目の写真は石巻を見下ろす日和山で...「仙石線の終点、石巻の写真、そして私の思い出」

  • 「ヘッセの『車輪の下』の思い出」

    さきの戦争の時、ドイツは日本の同盟国でした。そんなこともあってドイツのヘルマン・ヘッセやトーマス・マンの文学作品は日本人によく読まれました。私も読みました。今日はヘルマン・ヘッセの『車輪の下』の思い出を書いてみたいと思います。ヘルマン・ヘッセはシトー修道士達が作った神学校の生徒でした。このシトー修道士達は別名「白い修道士」とも呼ばれ染料を用いない白い修道服を身に着け、厳しい戒律の中で労働と学習を最も重んじていました。写真でこのシトー修道士達の修道院とマウルブロン村の風景を示します。このマウルブロンの修道院は堀と塀で外界から隔離され、修道院内には農舎から家畜小屋そして立派な水利システムまであります。マウルブロンの修道士達は自給自足をしていました。そんな建築物がまとめて1993年に世界遺産として登録されたので...「ヘッセの『車輪の下』の思い出」

  • 「昔の仙山線の懐かしい思い出」

    仙山線の懐かしい思い出を書きたいと思います。茫々65年前の大学生の頃、山形蔵王のスキー場に何度も通ったものです。その時仙台から仙山線によく乗ったのです。山形蔵王は当時は高湯と言ってました。私は仙台に住んでいたので仙山線で山形まで行き、そこからはバスで高湯まで上ったのです。そしてドッコ沼の小屋に泊まったものです。仙山線は東北本線の支線です。何か粗末な車両でした。それに根気よく乗って山形まで行きました。山形には親しい友人が住んでいました。山形駅からはバスで1時間ほどで高湯という温泉に上がれました。現在、高湯は山形蔵王と呼ばれスキー場は昔のままの風景です。蔵王山は樹氷が美しい有名な所です。その風景と樹氷の写真をお送り致します。写真はインタートからお借りしました。「昔の仙山線の懐かしい思い出」

  • 「昔の東北本線、東海道本線の旅の思い出」

    終戦前後をまたいで私は小学生でした。今日は仙台から兵庫の祖父のお寺への汽車の旅の思い出を書きます。東北本線の蒸気機関車の旅と東海道本線の特急つばめ号の旅です。当時は車が現在のように普及していませんでした。ですから旅はもっぱら汽車の旅でした。蒸気機関車や電気機関車に引っ張られた列車に乗って旅をするのです。写真を示します。1番目の写真は当時よく客車を牽引していたC57という蒸気機関車です。夏に仙台から兵庫の祖父のお寺へ行くとき東北本線で何度も乗った汽車です。とにかく煤煙が酷いのです。夏なので客車の窓は全て開けてあります。冷房装置など一切無い時代でした。仙台から上野に着く頃は顔やシャツが煤煙で真っ黒になるのです。トンネルに近づくと一斉に窓ガラスを下ろします。2番目の写真はD51という機関車に牽引された汽車です。...「昔の東北本線、東海道本線の旅の思い出」

  • 「我が故郷、仙台の七夕、「青葉城恋歌」、「ブラザー軒」の詩など」

    故郷の仙台の七夕は今年も8月6日(日)、7日(月)、8日(火)と開催されます。毎年、夏が来ると、幼少の頃から七夕飾りを見に行った東一番丁や大町通りの光景を思い出します。結婚して東京に住むようになってからも毎年、家内や子供連れで仙台の七夕を見に帰りました。七夕飾りは私の故郷の光景として心の中に焼き付いています。それではその七夕飾りの写真をお送りいたします。1番目の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/35196915.htmlです。2番目の写真の出典は、、http://colocal.jp/news/35321.htmlです。3番目の写真の出典は、http://www.hoso0907.com/blog/archives/2007/08/09-021827...「我が故郷、仙台の七夕、「青葉城恋歌」、「ブラザー軒」の詩など」

  • 「春の日に思い出す故郷の仙台」

    春の日に何故か思い出すのは故郷の仙台のことです、今日は少し仙台のことを書かせてください。昭和11年生れの私は戦前、戦後に仙台市で少年時代を過ごしました。日中戦争が起きやがて真珠湾攻撃があり悲惨な大戦争のあった時代です。さて皆様が子供の頃に釣りをしたり、遊んだ川や沼はまだ現存していますか?皆様の子供の頃には炊事のための燃料や風呂釜の燃料は何だったのでしょうか?昔、釣りをしていた三つの沼と燃料にしていた亜炭という不思議な燃料が跡形も無く消えてしまったのです。完全に消えてしまったのです。これは小さな出来事ですが私にとっては大きなショックでした。それは故郷の仙台市の向山という地区のことです。その向山からは仙台の中心街が見下ろせる景色の良い所なのです。料亭や温泉旅館のあるささやかな観光地だったのです。その高台には東...「春の日に思い出す故郷の仙台」

  • 「春です、花々の写真をお送り致します」

    自宅の庭や近所に春の花々が咲いています。楽しい気分で花々の写真を撮って来ました。藤の花、パンジー、ボタン、ツツジの花の写真をお送り致します。「春です、花々の写真をお送り致します」

  • 「春爛漫!今日の小金井公園の風景」

    春爛漫です!今日の小金井公園の風景の写真をお送り致します。小金井公園は東西に長く2kmもあります。今日は長躯して東の端まで行きました。撮ってきた写真をお送り致します。「春爛漫!今日の小金井公園の風景」

  • 「飛島の観光」

    飛島は山形県酒田市の北西方向に39kmの日本海上に位置する山形県唯一の有人離島です。島全域が国定公園(鳥海国定公園)になっており、島ならではのウォーキングやバードウォッチング、釣りや海水浴が楽しめます。豊かな自然が育まれた島内には天然記念物が10ヶ所存在。港に降り立つと、島独特の空気感があなたを包みます。コンビニやスーパー、信号機はありませんが、ここに魅力を感じて毎年訪れるリピーターも多数おります。https://sakata-kankou.com/feature/tobishima/top「飛島の観光」

  • 「300種類以上の高山植物が咲き乱れる礼文島」

    300種類以上の高山植物が咲き乱れる礼文島の花々の写真を送り致します。写真の出典は、https://tabippo.net/rebun/です。礼文島は日本の北限に位置しており年間を通じて冷涼な気候です。そのせいで通常なら標高2000メートル級の高地で見かける植物が300種類以上も生えています。春から秋にかけて咲き競うように高山植物の花々が島中を埋め尽くしています。礼文町役場が運営するサイト「れぶん花図鑑」や「小野町長の花小部屋」に詳しい情報が出ています。それでは礼文島の花々の写真を送り致します。1番目の写真は高山植物の花々が礼文島を埋め尽くしている様子です。写真は公益社団法人北海道観光振興機構が写したものです。2番目の写真はレブンウスユキソウです。スイスのアルプス地方に咲く白く可憐なエーデルワイスと同じ仲...「300種類以上の高山植物が咲き乱れる礼文島」

  • 「山形の離島、飛島と佐渡ヶ島の2ケ所だけに咲くトビシマカンゾウの花」

    トビシマカンゾウの花は不思議にも飛島と佐渡ヶ島の2ケ所にしか咲きません。ニッコウキスゲの仲間ですが珍しい花です。大変な希少種なので写真をお送りいたしです。1,2番目の写真は飛島のトビシマカンゾウの花です。3番目の写真は飛島です。4番目の写真は佐渡ヶ島のトビシマカンゾウの花です。トビシマカンゾウはウ山形県飛島で発見されたことからその名があリます。ニッコウキスゲの海岸型です。ニッコウキスゲに比べるとやや大型で草丈が高く、少し上向きに咲きます。花期は6月前半と早く、1本の花茎につく花数が多いなどが特徴です。「山形の離島、飛島と佐渡ヶ島の2ケ所だけに咲くトビシマカンゾウの花」

  • 「八丈島へ憧れ、訪ねる」

    日本の周囲にある島々へは憧れていました。ロマンを感じるのです。八丈島に住んでいた團伊玖磨の随筆を読んでから強く憧れていました。そこで数年前に独りで訪れました。訪れてみると八丈島は想像以上に大きな島です。10万年前に噴火で出来た三原山が東にあり、西に1万年前に出来た八丈富士があります。そして西の海上には八丈小富士が突き出てた小島があります。これらの3つの山が近過ぎず、遠過ぎず、丁度良い距離でどっしりと座っています。この配置が雄大な景観を作っています。島の周囲は60Kmで東京の千代田区、港区、新宿区、中央区などの合計位の大きさです。八丈富士の中腹に広大な牧場があり、そこまで車が上がれます。写真を撮るには丁度よいので2回登りました。伊豆七島の大島や神津島へは何度か行きましたが、景観の雄大さという点で八丈島は抜群...「八丈島へ憧れ、訪ねる」

  • 「樹木を眺めていると幸福感につつまれる」

    樹木を見ていると幸福感につつまいます。何故か分かりませんが平和な気分になるのです。小金井公園には大きな樹木が並んでいます。今日もゆっくり眺めてきました。撮ってきた写真をお送り致します。「樹木を眺めていると幸福感につつまれる」

  • 「今日の東京のイグナチオ教会のミサの風景」

    今日の東京のイグナチオ教会のミサの風景です今日はインターネットを通して東京のイグナチオ教会のミサにあずかりました。ミサの風景の写真をお送り致します。「今日の東京のイグナチオ教会のミサの風景」

  • 「ワインの製造方法とドイツでワインを飲むときの儀式」

    以前に甲斐駒岳の麓にあるワインを作っている工場を見て来ました。ワインの作り方は簡単です。発酵させるだけです。ブドウを腐らせていくと、ブドウに含まれる糖が酵母菌によってアルコールと二酸化炭素に分解されるのです。酵母菌はもともと葡萄に自然に付着しているのです。工場で大量に作るには次のようにします。まずワインの原料となるブドウを粉砕、圧搾し果汁を酵母菌によってアルコール発酵させます。発酵が終わると、樽やタンクに詰めて熟成させ、ろ過して濁りを除いたワインを瓶詰めすれば完成です。甲斐駒岳の麓にあるシャルマンワインの工場を家内が撮った写真を示します。写真にある大きなステンレス製のタンクは果汁を発酵させるためのタンクです。それから木の樽は発酵した果汁を熟成させている樽です。熟成が終わればビンに詰め出荷します。ワインと言...「ワインの製造方法とドイツでワインを飲むときの儀式」

  • 「奥多摩の酒蔵と地酒のロマン」

    昔はお酒は貴重で毎日晩酌をする人は少なかったのです。冠婚葬祭のような特別な機会に人々が集まって楽しく飲むものでした。そして現在のように全国に流通しているお酒はまれで、地元の小さな酒蔵が手塩にかけて醸造していました。このように全国に流通していないで地元だけで飲まれている日本酒を現在は地酒と呼びます。「地酒」にはその地方の独特な文化や歴史がつまっています。地酒の蔵元は地方の文化の担い手でした。そんな地酒の蔵元が東京にもあります。郊外の多摩地方にもあります。昨日は晴天でしたので奥多摩の元禄15年創業の小澤酒造の写真を撮りに行きました。今日はこの小澤酒造の写真をご紹介し、あわせて小さい酒蔵の中村酒造、田村酒造、そしておまけに山梨県の「山梨銘醸」の写真をご紹介したいと思います。全て自分で撮った写真です。何故か私は地...「奥多摩の酒蔵と地酒のロマン」

  • 「奥多摩の魅力と写真」

    奥多摩は東京都ですが魅力的な自然が広がっています。多摩川上流と支流の秋川に沿った山郷に人々が静かに暮らしています。そして渓谷と山々の絶妙な組み合わせで美しい風景になっています。今日は奥多摩の美しい風景を写真でご紹介致します。1番目の写真はJR御岳駅からほど近い国際鱒釣りセンターのある多摩川です。鱒を沢山多摩川に放流してお客が釣っています。ここは車で河原に降りれる唯一の場所です。奥多摩は自分の家から2時間以内に行けるので何百回も行きました。この写真も昨日家内が撮った写真です。これからご紹介する風景写真4枚の出典は以下の通りです。但し6番目と7番目の写真は以前自分が撮ったものです。https://www.jalan.net/kankou/spt_13228ab2042087037/?screenId=OUW1...「奥多摩の魅力と写真」

  • 「藤の老木と、その花の写真」

    小金井公園で撮ってきました。藤も老木になる痛々しいです。しかし花が咲いていました。そんな写真をお送り致します。「藤の老木と、その花の写真」

  • 「山桜を探して写真を撮りに行く」

    山桜も良いものと思い、写真に撮ろうと韮崎から北杜市にかけての山を探しました。数年前のことです。櫻木が山の斜面に咲いている場所を見つけました。しかしよく見ると、その櫻木は山桜ではなく、ソメイヨシノです。鳥たちが里のソメイヨシノの実を食べて中の種を山に運んだものです。その写真です。山の斜面の部分を拡大すると下のようになります。本物の山櫻の写真と説明文を、http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/1586/yamazakura.htmから下に転載させて頂きました。日本の代表的な桜で、山地に広く自生しています。奈良県の吉野山は昔からヤマザクラの名所として有名です。いわゆる里桜(ソメイヨシノ、ヒガンザクラなど)は、花が咲いた後から葉が出てきますが、山桜(ヤマザクラ、エゾヤ...「山桜を探して写真を撮りに行く」

  • 「山に咲く桜の写真」

    小雨模様の暗い日は山に咲く桜の風情も良いものです。以前に甲州街道の旧街道をゆっくり車で登りながら山に咲いている桜の花の写真を撮りました。山の雑木林に咲いている大部分の桜はソメイヨシノです。それでも一本だけ葉の出ている山桜を見つけました。電車の写っている写真は旧甲州街道沿いに走っているJR中央線の貨物列車です。如何でしょうか。雨もよいの山に咲く桜には何とも言えない風情があるのではないでしょうか。「山に咲く桜の写真」

  • 「細川呉港著、『人伝桜説』の紹介と書評」

    細川呉港さんは「桜旅」という本を2016年に愛育社より出版しました。それから「舞鶴に散る桜」、「草原のラーゲリ」、「桜物語」という本も出版しました。今回頂きました『桜人伝説』で細川呉港さんの桜に関する力作の4部作が揃いました。今回の「桜人伝説」は桜に関する人々の集大成です。力作です。細川呉港さんは広島県出身。集英社に入社後、宣伝部、雑誌編集部を経て、つくば科学万博副館長、学芸編集部長を最後に定年。中国担当として長年中国を取材。現在フリー。著書に『中国旅の大地図帳』、『満ちてくる湖』、『ノモンハンの地平』、『日本人は鰯の群れ』、『紫の花伝書』、その他『台湾万葉集』『バイコフの森』など、編著多数。さて今回の「桜人伝説」の内容をご紹介いたします。「桜人伝説」は、作家の細川呉港が著した、桜と文化人の縁について書か...「細川呉港著、『人伝桜説』の紹介と書評」

  • 「2007年にこのブログを書き始めた経緯」

    皆様はブログを始めた時、どのようないきさつで始めたのでしょうか?私は2007年の10月に下のようなきさつで書き始めました。その時、甲斐駒の眺めを楽しみながら車をゆっくり走らせていました。私の山小屋のそばに住みついている木内正夫さんが歩道の上で挨拶しています。車を止めたら、相談事があるので後で私の小屋へ行くといいます。1番目の写真は熊さんの手になる芸術作品です。先端からワイヤーが下がっていて巨大な鉄球がぶら下がっています。広い公園の中心にあり甲斐駒の景観に負けない迫力があります。小屋の前で焚火をしていたら木内さんが来ました。そして、いきなり、「ブログを始めませんか?」と薦めるのです。ブログという言葉を聞いた事がありません。何かサッパリ分かりません。しかし、手取り、足取り、教えてくれると言うのです。木内さんの...「2007年にこのブログを書き始めた経緯」

  • 「山林の中に独り住む友人との惜別と感謝」

    甲斐駒岳の麓の山林の中で長年親しくしていた木内正夫さんが北杜市の施設に入ってしまいました。もう会うことも難しくなりました。惜別です。以下は木内正夫さんのブログの最後の投稿です。詳しくは、http://sizen068.blog95.fc2.com/にあります。・・・さようなら・・・眼の状態が思わしくなく、ブログの記事さえ満足に読めなくなり皆様のブログにも訪問がむずかしくなりました。本日をもって終わりにします。本を読む、テレビ、DVD等も満足に見えなくなってしまいました。飯を炊くなどの生活視力は少し残っています。2月下旬からの過激な道路工事も原因の一つだと思います。後少しで完成しますので頑張ります。今まで応援していただき感謝しています。コメント欄は開けておきますが返信は出来ません。ブログは人生の記録として残...「山林の中に独り住む友人との惜別と感謝」

  • 「淋しく独り暮らしをしていた友人の思い出」

    私には淋しく独り暮らしをしていた友人がいました。山林の中の一軒家に住んでいました。時々彼のことを懐かしく思い出します。名前は木内正夫さんといいました。1番目の写真は木内正夫の家のまわりの山林です。写真にはは写っていませんが右手に甲斐駒岳が聳え、に地蔵岳のオベリスクが見える場所です。2番目の写真は春の陽光を浴びて広がっている木内山荘の様子です。そして右端に家内が写っています。この山荘も2月の大雪のときは雪に覆われています。3番目の写真は雪に覆われた木内正夫さんの家の周囲です。春が来ると、この雪もすっかり消えてカタクリやスイセンの花々が庭一面に咲き出します。そして春のシイタケも沢山出て来ます。毎日料理に使えるのです。さて独り暮らしの喜びと幸せは何でしょうか?独り暮らしは自由です。自然を楽しめます。鹿やイノシシ...「淋しく独り暮らしをしていた友人の思い出」

  • 「風薫る小金井公園の今日の風景」

    いつもは行かない北の方に行ったら一面に花が咲いていました。ショカツサイの花のようでした。撮ってきた写真をお送り致します。「風薫る小金井公園の今日の風景」

  • 「嗚呼、北上川!その写真」

    岩手県を流れる北上川の写真です。岩手町の弓弭の泉(ゆはずのいずみ)に源を発し、盛岡市、花巻市、北上市、奥州市、一関市などを通って北から南へと水量豊かに滔々と流れる大きな川です。石巻市で太平洋へ流れています。この北上川が流れている岩手県は宮沢賢治や石川啄木の故郷です。彼等の関連のある土地の盛岡や花巻も私は何度も訪問しました。小岩井牧場にも行きました。いつも妻が一緒でした。岩手への旅は思い出深い旅でした。あれから随分たちましたが岩手の風景は鮮明に心に残っております。今日は北上川の写真をご紹介致します。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)北上川の写真をインターネットからお借りお送りします。「嗚呼、北上川!その写真」

  • 「北上川と石川啄木と宮沢賢治」

    北上川の水源は岩手県岩手町御堂にある「弓弭(ゆはず)の泉」とする説が一般的です。そこから岩手県の中央を南下して宮城県に入り石巻湾の太平洋へ流れ出ています。北上川のように北から南へ流れる川は全国でも珍しい川です。北上山地と奥羽山脈の間を流れているため、それぞれの山地からいくつもの支流が流れ込み、その数は大小合わせて200以上もあります。1番目の写真はライトアップされた北上川沿いの桜並木です。JR北上駅から徒歩7分ほどの距離にある北上川沿いの桜並木です。さて次は宮沢賢治ゆかりの場所を訪れてみましょう。賢治は1896年(明治29年)花巻に生まれ1933年(昭和8年)に亡くなりました。盛岡への旅では賢治の作品を初めて出版した盛岡市の光原社を訪問しました。その後、小岩井牧場に行き、そして花巻市の羅須地人協会や賢治の...「北上川と石川啄木と宮沢賢治」

  • 「盛岡と北上川、そして小岩井牧場、石川啄木と宮沢賢治」

    岩手は文学者の故郷です。彼等の関連のある盛岡を何度も訪問しました。小岩井牧場にも行きました。盛岡城跡の高い石垣を登ると広い草原になっています。青草の上にあおむけに寝て大空を見ていたら家内が詠います。石川啄木の短歌です。「不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心」盛岡では「石割桜」の巨大な石に手をついて何故か感慨に耽りました。滔々と水量豊かに流れる北上川の岸辺にたたずみ口ずさみました。「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに(石川啄木の短歌です。)岩手は宮沢賢治の故郷です。そこで今日は宮沢賢がよく散歩した盛岡城や石割桜や小岩井農場や北上川などの写真をお送り致します。写真の出典は、https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2396/です。1番目の写真は「盛岡城跡公園...「盛岡と北上川、そして小岩井牧場、石川啄木と宮沢賢治」

  • 「今朝は何故か宮沢賢治を思い出す」

    今朝は何故か宮沢賢治を思い出したのです。宮沢賢治の作品は彼の心象風景や謎めいた表現が沢山書き込んであります。ですから読む人はその心象風景や謎めいた表現を自分なりに想像してしまいます。そうすると宮沢賢治の作品は彼から少し離れて、読んでいる人特有のものになるのです。大げさに言えば宮沢賢治の作品は読者の数だけ違ったものになるのです。ですから、私の「銀河鉄道の夜」も、読む自分の年齢にしたがって違ってきます。賢治の作品を何度も読み返している人が沢山いるのはそのせいもあるのでしょう。そこで筑摩書房の宮沢賢治全集第十巻の中にある「銀河鉄道の夜」をもう一度読んでみました。第十巻には「ポラーノの広場」、「オッペルと象」、「風の又三郎」、「北守将軍と三人兄弟の医者」、「グスコーブドリの伝記」、「銀河鉄道の夜」、そして「セロ弾...「今朝は何故か宮沢賢治を思い出す」

  • 「宮沢賢治の『風の又三郎』」

    あなたにとって「風の又三郎」はどのような人だったのでしょうか?宮沢賢治の「風の又三郎」の原文やあらすじを忠実に紹介しているHPがあります。https://www5a.biglobe.ne.jp/~accent/kazeno/origin.htmです。「風の又三郎」どっどどどどうどどどうどどどう、青いくるみも吹きとばせすっぱいかりんもふきとばせどっどどどどうどどどうどどどう谷川の岸に小さな学校がありました。教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけであとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらいでしたがすぐうしろは栗の木のあるきれいな草の山でしたし運動場の隅にはごぼごぼつめたい水を噴く岩穴もあったのです。以下省略します。続きは、https://www5a.biglobe.ne.jp...「宮沢賢治の『風の又三郎』」

  • 「櫻も散りすっかり静かになった小金井公園の今日の風景」

    櫻も散りすっかり静かになった小金井公園へ行ってきました。この公園はいつも人があまりいなくて静かな公園なのです。撮ってきた写真をお送り致します。「櫻も散りすっかり静かになった小金井公園の今日の風景」

  • 「北海道の鯉のぼりの風景」

    北海道の定山渓温泉は思い出の所です。そこで今日は鯉のぼりの風景の写真をお送り致します。写真の出典は、www.visit-hokkaido.jp/event/detail_11058.htmlです。「北海道の鯉のぼりの風景」

  • 「鯉のぼりと端午の節句は元々は女の節句だった」

    間もなく麗しの皐月がやって来ます。そして青空に鯉のぼりが泳ぐ端午の節句になります。青空に鯉のぼりが舞う写真をお送りし、端午の節句はもともとは女の節句だったというお話しをしたいと思います。昭和の初めころの鯉のぼりは真鯉と緋鯉と吹き流しの三つが普通だったような記憶があります。昭和11年生まれの私の家の庭には太い丸太の棒を立て、真鯉と緋鯉と吹き流しが五月の風に青空を泳いでいました。それは戦前のつかの間の平和な時代でした。その頃は鯉のぼりは男の子のいる家で上げるという風習でした。1番目の写真はそのような時代の吹き流しと鯉のぼりです。写真の出典はhttp://nobrin7.exblog.jp/11057098/です。2番目の写真は長野県阿智村の鯉のぼりです。出典は、https://jp.zekkeijapan.c...「鯉のぼりと端午の節句は元々は女の節句だった」

  • 「季節はめぐり鯉のぼりが空に舞う頃になりました」

    季節はめぐり鯉のぼりが空に舞う頃になりました。日本の皐月の空に鯉のぼりが泳いでいる風景が見られ季節になりました。去年の鯉のぼりの写真をお送り致します。五島列島と富士山の朝霧高原と新潟県の鯉のぼりの風景写真です。それはそれとして、今日は皆様この鯉のぼりのようにお元気にお過ごし下さい。後藤和弘(藤山杜人)1番目の写真は五島列島の鯉のぼりです。出典は、http://yonchiworld.blogspot.com/2016/05/blog-post.htmlです。2番目の写真は富士山の朝霧高原にあるドライブインの鯉のぼりです。出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/akatukinosuzu/3851302.htmlです。3番目の写真は新潟県の鯉のぼりです。出典は、http://shinka...「季節はめぐり鯉のぼりが空に舞う頃になりました」

  • 「シンガポールの植物園に咲く花々の写真」

    シンガポールへは2度、訪問しました。「シンガポール植物」には感動しました。世界遺産に登録されているのです。そこに咲いている花々の写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.kkday.com/ja/blog/38819/asia-singapore-botanical-gardenです。「シンガポールの植物園に咲く花々の写真」

  • 「聖蹟桜ヶ丘の山藤の花の写真」

    ある初夏の日に日野市に行った帰りに聖蹟桜ヶ丘の近くを通りました。そうしたら遠くの山に野生の藤が沢山咲いています。車窓から写真を家内が撮りました。1番目の写真がそれです。良く撮れてないのでインターネットにある山藤の花の写真を3枚追加してお送り致します。「聖蹟桜ヶ丘の山藤の花の写真」

  • 「枝いっぱいに咲く白い花も実も美しいエゴノキ」

    もう初夏のような陽気です。初夏と言えば、うちの裏にあったエゴノキを思い出します。初夏になると枝いっぱいに雪のように白い花を吊り下げます。大変美しいものです。夏には灰白色の実もなります。種子は脂肪分が多いのでヤマガラの大好物です。広く里山に生え雑木林によく見られます。昔住んでいた仙台の家にもありましたし現在住んでいる小金井の家の裏の雑木林の中ありました。懐かしい木です。写真の出典は、http://www.forest-akita.jp/data/2017-jumoku/23-egonoki/ego.htmlです。「枝いっぱいに咲く白い花も実も美しいエゴノキ」

  • 「懐かしい木苺の花と実の写真」

    山の雑木林に行くと木苺が群生している所に遭遇することがあります。少年の頃住んでいた一軒家の裏の山に登るとそこは誰もいない雑木林でした。雑木林の中を探し回ると木苺を見つけます。胸が踊ります。興奮しながら赤い木苺をつまんで食べました。カッコーの鳴き声だけが静かな山に木霊しています。遥かな昔の懐かしい仙台の家の思い出です。そんな木苺の花と実の写真をお送り致します。「懐かしい木苺の花と実の写真」

  • 「庄野英二の「星の牧場」に感動して山林に小屋を作る」

    「星の牧場」は庄野英二の代表作で1963年に出版されました。その粗筋です。・・・復員兵イシザワ・モミイチはインドネシアで戦ってきたが、愛馬ツキスミを失い、記憶を失っている。彼が山中の牧場に辿りついて、音楽を演奏するジプシーたちと出会い、そこで心の癒しを得るかに見えるが、舞台は幻想的な世界へと展開する。・・・これを読んだ私はとても感動し、「星の牧場」のような所を探して山小屋を作る決心をしました。1974年のことでした。そして山梨県の甲斐駒岳の麓の山林の中に小屋を作ったのです。隣は乳牛が草を食んでる牧場です。「星の牧場」のような星空の綺麗な場所です。それ以来50年間ほど通ってきました。去年に運転免許証を返納したのでもう行くこともありません。時々懐かしく思い出すだけになりました。思い出すのは春夏秋冬、その小屋の...「庄野英二の「星の牧場」に感動して山林に小屋を作る」

  • 「新緑が美しい季節になりました」

    櫻も散って新緑が美しい季節になりました。季節は確実にめぐります。今日は小金井公園まで散歩して美しい新緑の写真を撮って来ました。撮ってきた写真をお送り致します。「新緑が美しい季節になりました」

  • 「北米への人類の移住とアパッチ、チェロキーなどのインディアン部族の現状」

    南北アメリカへはベーリング海峡が陸えあった時代にモンゴロイド人が移住しまそた。そして多数のインディアン部族に分かれたのです。今日は北米への人類の移住とインディアン部族の現状を簡略に書きたいと思います。地球の氷河期の最盛期には多量の海水が氷になり海水の量が減少して陸地が広くなりました。海面が現在より約150m程度下がっていたと考えられています。そのためアジアと北アメリカの間のベーリング海峡は陸続きにになっていたのです、4~1.5万年前頃のことです。1.4~0.85万年前にはアジアからの移住があったのです。そしていろいろなインディアンの部族に分かれたのです。ベーリングの回廊地帯を通って人類だけでなく大型哺乳類のマンモスや野牛までが北米の南方に移動したのです。1番目の写真はベーリングの回廊地帯を通って人類の移住...「北米への人類の移住とインディアン部族の現状」

  • 「南の島々に住む少数民族、バドゥイ族、バタック族、トラジャ族などの暮らし方」

    比較文化人類学に私は興味があります。いろいろな民族の珍しい文化や風習を調べ独りで面白がっています。自分で面白がってばかりいるのでなくブログへも掲載します。そんな訳で今日は南の島々に住む少数民族、バドゥイ族、バタック族などの暮らし方をお送り致します。南の島々とはインドネシアの島々です。インドネシアの民族の構成は、ジャワ人45パーセント、スンダ人14パーセントなどが中心ですが、350あまりもの島々の民族で構成されています。日本と非常に違うことは国民を文化的に統一しようとしないことです。ですから350あまりの民族がそれぞれの伝統的文化を保持しています。インドネシアの特徴は多くの島や農村地帯に多様な文化が並列して存在していることです。この状態は日本と非常に違います。都会には高層ビルが並んで車が溢れていますが、ちょ...「南の島々に住む少数民族、バドゥイ族、バタック族、トラジャ族などの暮らし方」

  • 「ヨーロッパ・ロシアの少数民族、マンシ族、サーミ族、コリャーク族、ドルガヌィ族など」

    趣味として私は世界の民族についてあれやこれやと調べています。特に絶滅しそうな少数民族は現代社会の考えるべき諸問題を提起しています。そんな趣味で集めたヨーロッパからロシアにかけて住んでいる少数民族をご紹介致します。今回は北方のヨーロッパとロシアの少数民族に限ります。まず写真をお送りいたします。1番目の写真はマンシ族の住居の夏の風景です。マンシ族はロシアのハンティ・マンシ自治管区の先住民です。ハンティとは近い親戚の意味で現在、およそ12,000人がロシアで暮らしています。写真の出典は、『マンシ、コリャーク、ンガナサヌィ…ロシアの絶滅しそうな少数民族』http://osoroshian.com/archives/37793045.htmlです。2番目の写真は街に出て来たマンシ族の家族の写真です。3番目の写真は昔...「ヨーロッパ・ロシアの少数民族、マンシ族、サーミ族、コリャーク族、ドルガヌィ族など」

  • 「多数の台湾の少数民族、アミ族、パイワン族、 タイヤル族など」

    台湾にはもともと高砂族という原住民が住んでいました。そこへ南の島々の少数民族が長期にわたり移り住みます。そして1949年の国共内戦で敗れた国民党の中国人が多数台湾に逃れて来ました。ですから現在の台湾には高砂族系の人、中国大陸系の人、南の島々からの少数民族が仲良く暮らしています。今日は南の島々から台湾へ来た少数民族をご紹介したいと思います。現在の台湾政府は少数民族を保護し、専用のテレビ局があるのです。台湾には16位もの異なる民族が住んでいる興味深い国です。台湾の中華民国政府が少数民族を保護した結果、その人口は増加しています。1929年に14万人余りでしたが現在は49万人まで増えています。それでは台湾の少数民族の写真を示します。1番目の写真は台湾のアミ族です。2番目の写真は台湾の少数民族の祭の踊りの写真です。...「多数の台湾の少数民族、アミ族、パイワン族、タイヤル族など」

  • 「中国に住んでいる53の少数民族ーウイグル族、チワン族、イー族、オロチョン族など」

    かつて北米大陸と南米大陸にはいろいろな原住民が住んでいました。彼等は少数民族として、独特な民族文化を持っていました。しかしヨーロッパ人の進出によって殆んど全ての少数民族が滅んでしまったのです。日本でも北海道に住んでいたアイヌ民族も事実上滅んでしまったのです。一方共産党独裁の中国には53の少数民族が住んでいます。中国政府は彼等を保護するためにそれ中国には53の小数民族ぞれの自治県を設定しています。中国の少数民族は、チワン族が人口1,600万人と最も多い。次ぎに人口1,000万人前後の満州族と回族が続いています。少数民族といっても11億人以上いる漢族と比べて少数であるだけで、チワン族はチリやオランダと同程度の人口であるし、満州族、回族はハンガリー、スウェーデンと同程度の人口とかなりの人口規模です。チベット族は...「中国の53の少数民族、ウイグル族、チワン族、イー族、オロチョン族など」

  • 「カトリックのミサとはどういうものでしょうか?」

    キリスト教では日曜日に教会に集まり神に祈ります。イエス・キリストへも祈ります。プロテスタントでは礼拝と言いカトリックではミサと言います。カトリックのミサは全世界の教会で同じ式次第で内容も同じです。皆さまキリスト教をご存知と思います。しかし礼拝やミサの式次第や内容はあまりご存知ないかも知れません。そこで今日はカトリックのミサの様子をお送りいたします。写真はミサの始めの場面です。写真はタルチシオ菊地功大司教です。ミサの式次第は、https://ubecat.jp/misにあります。キリスト教のカトリックでは日曜日だけでなく毎日、朝か夕にミサがあります。プロテスタント諸派の礼拝は日曜日だけの宗派が多いです。皆さまは教養としてキリスト教をお存知と思います。しかし信仰の実態を知るには礼拝やミサの内容を理解するのが良...「カトリックのミサとはどういうものでしょうか?」

  • 「今日のミサの動画配信」

    今日は受難の主日です。その麹町聖イグナチオ教会の動画配信は下記にあります。https://www.youtube.com/live/k1sG8tsu2Zo現在の教皇はアルゼンチン出身のフランシスコ(在位:2013年-)である。史上初のアメリカ大陸出身の教皇でありイエズス会出身の教皇である。先代の教皇のベネディクト16世(在位:2005年-2013年)はドイツ出身であり、先々代の教皇ヨハネ・パウロ2世(在位:1978年-2005年)はポーランド出身とイタリア人・イタリア以外の地域の出身の教皇が3代続いている。カトリック麹町聖イグナチオ教会〒102-0083東京都千代田区麹町6-5-1添付の写真は現在の教皇のフランシスコ法王です。「今日のミサの動画配信」

  • 「櫻が散り始めた小金井公園の今日の風景」

    櫻が散り始めた公園の風景です。季節はゆっくり確実に巡ります。櫻が散ればしばらくして梅雨の季節になります。ここ2,3週間は本当に快適な季節です。撮ってきた写真をお送り致します。「櫻が散り始めた小金井公園の今日の風景」

  • 「新緑の風景の写真」

    今頃は山梨の山々は新緑が綺麗になります。運転免許を返上したのでもう気軽には行けません。そこをで自分のブログから山梨の山々の新緑の風景写真をお送り致します。2008年の新緑の頃に写した写真です。写っている子供達は孫です。現在は大きな大人になりなした。「新緑の風景の写真」

  • 「花々が咲く季節、日本人が好きな花のランキング」

    花々が咲く季節になりました。良い季節です。うちの狭い庭にも10種以上の花が咲いています。花の好きな家内が植えた草花や木です。そこで日本人が好きな花は何か考えてみました。日本人が好きな花のランキングを調べてみました。そしたらNHKの放送文化研究所の調査を見つけました。2007年に全国300地点、16歳以上の国民3,600人を対象に今の日本人が好きだと感じているものの調査です。好きな花ベスト20のランクです。ランクの高い順に示します。桜、チューリップ、ばら、コスモス、ひまわり、梅、らん、すずらん、ゆり、あじさい、カーネーション、すみれ、朝顔、菊、シクラメン、つつじ、すいせん、菜の花、ふじ、桃でした。こういう統計では桜が必ず1位になるのが特徴です。前の1983年と比較すると順位の変化もさることながら、桜以外の花...「花々が咲く季節、日本人が好きな花のランキング」

  • 「ミャンマー、タイ、韓国、中国、日本は仏教共同体」

    佛教は紀元前6世紀の中葉にお釈迦様によって作られた世界宗教です。それがスリランカに渡り、現在のようにミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムなどに普及しています。一方、1世紀以後に中央アジアから中国、朝鮮、台湾、日本へと伝承されました。従ってこれらのアジアの国々は仏教国として共通の価値観を持っている佛教文明共同体なのです。それはさて置き仏教国のタイにおける托鉢風景の写真を見ましょう。これらの写真の出典は「タイ仏教修行」で、そのURLは以下の通りです。https://www.bing.com/images/search?q=%E3%82%BF%E3%82%A4+%E4%BB%8F%E6%95%99+%E4%BF%AE%E8%A1%8C&go=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&qs=ds&form=...「ミャンマー、タイ、韓国、中国、日本は仏教共同体」

  • 「私の身近にあったお寺の写真」

    父の実家は兵庫県の田舎のお寺でした。そんな関係で私の身近にはいつもお寺があったのです。今日は私の身近にあったお寺の写真をお送りしたいと思います。1番目の写真は父の実家の正林寺です。兵庫県の田舎のお寺で曹洞宗でした。2番目の写真は正林寺での施餓鬼供養の光景です。毎夏見た光景です。3番目の写真は兵庫県の篠山市にある叔父が住職をしていた法福寺です。ここにも私は何日も泊りました。4番目の写真はよく行った宮戸島の大高森にある薬師堂です。松島湾が一望できる所です。5番目の写真は仙台の瑞宝寺です。幼少の頃にこのお寺の幼稚園に通っていました。6番目の写真は現在住んでいる小金井市にある真蔵院です。よく散歩に行く道そいにあるお寺です。7番目の写真は真蔵院の境内です。兵庫県のお寺が懐かしく境内に入って散歩します。この他によく行...「私の身近にあったお寺の写真」

  • 「仏教の教えを分かりやすく書く」

    仏教の教えを分かりやすく書いてみます。仏教の教義のエッセンスは般若心経に書いてあります。そこで般若心経にはどのような意味があるのか、般若心経の現代語訳と共に、流れなどをご紹介いたします。以下は、http://www.osohshiki.jp/column/article/138/からの抜粋です。以下は4つの文節に分けた般若心経です。それぞれの文節毎に意味を確認してみましょう。4つのブロックの説明を下に示します。1のブロックは般若心経の要約です。②のブロックは「弟子への呼びかけ」です。第2ブロックでは、10人の弟子の一人である舎利子(シャーリプトラ)に呼びかけています。1行目には、「この世の形あるもの全てに実体がなく、実体がないからこそあらゆる形を得ることができる。これは人間の感覚についても同じである」と書...「仏教の教えを分かりやすく書く」

  • 「日本の仏教を考える」

    幼い頃から私は仏教に馴染んできました。祖父がお寺の住職でした。大阪から阪急電鉄と能勢電車に乗ると祖父が住職をしていたお寺に行けます。正林寺というお寺でした。そんな関係もあり私は昔から宗教が好きでした。趣味のようにして仏教や神道、そしてキリスト教と親しんできました。私は宗教のことを書くと心が安らかになり楽しいのです。何度同じことを書いても楽しいのです。そんな訳で今日も仏教のことを書きます。日本人なら誰でも知っていることです。しかし以下に順序だてで書かせて下さい。(1)釈迦の誕生と菩提樹の下で悟りを開いた経緯佛教の開祖は釈迦です。生没年は正確には分かっていません。前565年生まれ、前486年に亡くなったという説と、前465年生まれ、前386年に亡くなったとう説などが有力とされています。釈迦は北インドの一部族の...「日本の仏教を考える」

  • 「感動的な新緑のみずみずしい美しさ」

    新緑が美しい季節になりました。みずみずしい美しさです。さきほど小金井公園で感動しながら写真を撮って来ました。撮ってきた写真をお送り致します。「感動的な新緑のみずみずしい美しさ」

  • 「モンドリアンの抽象画」

    抽象画を好きな人は多くはいません。何を描いてあるか分からないからから面白くないのです。しかし私はそんな抽象画を楽しむ方法を身につけています。抽象画の色彩とその配置だけを虚心に楽しむのです。何も考えずに感覚的に楽しむのです。上手に描いた抽象画は美しいものです。今日は抽象画を初めて描いたピート・モンドリアン画伯と彼の作品をご紹介したいと思います。ピート・モンドリアンという画家は近代の抽象絵画を描いた画家の一人です。キュビズムから影響を受け、独自の美術理論を追求し抽象絵画を完成させた人物としてよく知られています。資料、https://media.thisisgallery.com/20222068を参考にしてご紹介します。ピート・モンドリアンは19世紀末から20世紀に活躍したオランダの画家です。1920年ごろに...「モンドリアンの抽象画」

  • 「パリに魅せられた荻須高徳の美しい油彩画」

    荻須高徳はパリに魅せられました。そして美しい油彩画を描きました。荻須高徳(1901-1986)は、東京美術学校で学んだ後、1927年に渡仏。ルーヴル美術館の絵画群や、画廊でルオーやヴラマンク、ユトリロなど同時代の画家の作品から刺激を受け、本場の油絵を貪欲に吸収した。荻須は1940年に、前年に勃発した第二次世界大戦のためやむ無く帰国したが、敗戦後、日本人が海外へ渡航することが未だ困難な1948年に、日本人画家としてはじめて再渡仏し、1986年に亡くなるまで、通算して半世紀以上、パリで画家として生きた。「パリに魅せられた荻須高徳の美しい油彩画」

  • 「30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画」

    佐伯祐三の原画の数十枚をまとめて見たことが一度だけあります。2008年、横浜そごうデパートでの特別展でした。油彩画の原画には絵の具が盛り上がり、画家の熱い息づかいが感じられるのです。30歳で客死した佐伯祐三の情熱が直接伝わって来るのです。彼はパリに魅せられ狂ったように絵を描き続けました。最後は文字通り狂って彼の地の精神病院で息を引き取りました。たった10年間ほどの画歴でした。粛然とした想いで佐伯祐三の油彩画の写真をお送りいたします。1番目の写真は「パリ街景」です。原画の大きさは38.1×45.4cmです。2番目の写真も「パリ街景」です。1927年作で大きさは65×81cmです。3番目の写真は「郵便配達夫」です。1928年の作品です。原寸は80.8×65.0cmです。4番目の写真は「靴屋(コルドヌリ)」です...「30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画」

  • 「印象派の巨匠、ルノアールの絵画世界」

    思い出すのはルノアールの絵画世界です。ルノワールの油彩画はフランスやアメリカで何度も見ました。そして2016年06月の東京の新国立美術館での「ルノアール展」は感動的でした。ルノワールの103点の油彩画が一堂に展示してあったのです。この「ルノアール展」は圧巻でした。ここにお送りする絵は私が好きなものです。特に「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」が大好きです。屋外で語り合う家族やダンスを楽しむ人々の明かるい表情と空気感に魅せられます。暗くて長いヨーロッパの冬を想うとこの夏の夜の楽しさがしみじみ分かります。1番目の写真は「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」です。1876年作くでオルセー美術館蔵です。第3回印象派展出品の作品でした。2番目の写真は『ピアノに寄る少女たち』です。(1892年。油彩、オルセー美...「印象派の巨匠、ルノアールの絵画世界」

  • 「カイユボットの『鉋をかける人々』」

    あれは随分以前に見たカイユボットの油彩画、「鉋(カンナ)をかける人々」を忘れられません。時々思い出します。2014年8月13日に国立新美術館でオルセー美術館展で見た絵です。その写真をお送り致します。1番目の写真はカイユボットの油彩画、「鉋をかける人々」です。この絵画は強い印象を与えます。描いている画家の筆使いの勢いを感じます。一気に描き上げたように見えますが、細部まで丁寧に仕上げてあります。すっかり魅了されましたが、私はカイユボットなどいう名前は知りません。帰宅後いろいろ調べてみました。そうしたら彼は富裕なので、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、ドガ、セザンヌらの作品を買い、彼等を経済的に支援したのです。そしてその作品群をフランス政府へ寄贈したのです。ギュスターヴ・カイユボットは(GustaveCail...「カイユボットの『鉋をかける人々』」

  • 「何度見ても感動する印象派の絵画」

    今日は朝から曇り暗い日です。こういう日は印象派の絵を見ながら元気に過ごそうとにしました。印象派の絵画は何度見ても感動します。印象派と言えばやはりエドゥアール・マネの油彩画には心が打たれます。エドゥアール・マネ(1832年1月23日-1883年4月30日)は、19世紀のフランスの画家です。近代化するパリの情景や人物を、伝統的な絵画の約束事にとらわれずに描き出し、絵画の革新の担い手となったそうです。印象派の画家にも影響を与えたことから、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられてい画家です。このマネーの絵から始めて12枚の印象派の油彩画の写真をお送り致します。1番目の写真はマネーの「笛を吹く少年」です。2番目の写真はエドゥアール・マネの「草上の昼食」です。裸の女性は違和感を与えますがマネは裸体の美を描きた...「何度見ても感動する印象派の絵画」

  • 「今日の武蔵野公園の櫻の写真」

    春らしい陽気です。武蔵野公園まで散歩しながら櫻の写真を撮って来ました。撮ってきた写真をお送り致します。「今日の武蔵野公園の櫻の写真」

  • 「 堀辰雄の「風立ちぬ 」の簡単な紹介」

    『風立ちぬ』(かぜたちぬ)は、堀辰雄の中編小説です。秋近い夏、出会ったばかりの「私」とお前(節子)は、白樺の木蔭で画架に立てかけているお前の描きかけの絵のそば、2人で休んでいた。そのとき不意に風が立った。「風立ちぬ、いざ生きめやも」。ふと私の口を衝いて出たそんな詩句を、私はお前の肩に手をかけながら、口の裡で繰り返していた。それから2、3日後、お前は迎えに来た父親と帰京した。それらの夏の日々、一面に薄すすきの生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜色あかねいろを帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆わ...「堀辰雄の「風立ちぬ」の簡単な紹介」

  • 「軽井沢聖パウロカトリック教会の写真」

    以前に撮って来た軽井沢聖パウロカトリック教会の写真を送りいたします。カトリック横浜司教区、軽井沢聖パウロカトリック教会は、1935年(昭和10年)に英国人のワード神父により設立されました。米国建築学会賞を受賞したアントニン・レーモンドが設計を担当しました。軽井沢の歴史的建造物の一つですが、丸太を沢山使った素朴な木造の教会です。中に入って祈っていると心が豊かになります。堀辰雄の小説「木の十字架」に、「聖パウロ教会で結婚すると多くの人たちから祝福される」という文章があるそうです。今でもそのお陰で結婚式を挙げる人々も多いようです。裏の広い駐車場の奥からは教会の全体像がよく見えます。司祭館も裏にあります。撮って来た写真をお送りします。この教会では毎日、ミサがあります。ミサの時間は以下の通りです。主日ミサ9:001...「軽井沢聖パウロカトリック教会の写真」

  • 「嗚呼、懐かしい旧軽井沢の面影」

    軽井沢は若い頃から憧れの高原の町でした。多くの随筆や小説に書かれていました。結婚した妻も文学が好きで軽井沢を訪ねていました。行ったことも無いのに懐かしい感じがする所でした。1961年に結婚し忙しい新婚生活が続きます。それが過ぎやっと気持ちにゆとりが出来たのは1970年頃からでした。それ以来、軽井沢を何度か訪問して散策しました。今日は高原にある軽井沢のあれこれをご紹介したいと思います。軽井沢で毎回、よく行ったところは雲上池、旧三笠ホテル、カトトリック教会、万平ホテル、そして軽井沢タリアセンなどでした。木造の教会、テニスコート近辺や別荘地付近を何度も散歩しました。旧軽井沢の面影を求めて、静かな時を過しました。万平ホテルの天井の高い古風なダイニングで昼食を食べました。昭和初期に帰ったような気がします。それから軽...「嗚呼、懐かしい旧軽井沢の面影」

  • 「遥かに軽井沢への小さな旅の思い出」

    新緑の季節になりました。小金井公園の新緑の林の中を歩いているといろいなことを思い出します。新緑の頃に旅した北海道のみずみずしい白樺林の風景や八ヶ岳の緑の森を思い出します。そして新緑の軽井沢を思い出しました。今日は新緑の軽井沢をご紹介したいと思います。軽井沢は何度か訪れ散策していました。西洋の情緒と周囲の山々の緑を楽しむため訪れたのです。散策していると、軽井沢の近くの信濃追分に住んでいた堀辰雄の「風立ちぬ」をも思い出します。家内が撮った写真で新緑の頃の軽井沢の魅力をご紹介したいと思います。1番目の写真は旧三笠ホテルです。営業はしていませんが明治期のホテル建造物として公開しています。駐車場が少し離れているのが残念です。2番目の写真は万平ホテルです。泊まったこともありますが、昼食のためにもよく行ったところです。...「遥かに軽井沢への小さな旅の思い出」

  • 「春の里山に凛として咲く一本桜の写真」

    この4ケ所は何度も訪れた懐かしい場所です。いろいろなことを思い出しながら写真を眺めました。一本桜の写真をお楽しみ頂いたら嬉しく存じます。4枚の写真の出典は、https://travel.rakuten.co.jp/mytrip/trend/ippon-sakuraです。1番目の写真は岩手県雫石町の小岩井農場の一本桜です。美しく雪化粧をした岩手山を背景に、小岩井農場の緑の大地に根を張る一本桜です。小岩井農場は初夏もカッコー鳴いて良いものです。2番目の写真は福島県三春町の三春滝桜です。三春町をはじめ福島には桜の名所が数多くありますがその中でも有名なのが三春滝桜です。「日本三大桜」で国の天然記念物です。行って見ると周囲に遊歩道があり、いろいろな角度から滝桜を眺めることができました。3番目の写真は山梨県北杜市の山...「春の里山に凛として咲く一本桜の写真」

  • 「春の房総半島の海の青さと菜の花畑」

    房総半島の南岸には黒潮ラインという自動車道路があります。信号のある普通道路なので青い海と花畑の景観を楽しみながら走れます。フラワーラインは館山から和田まで46キロメートル続いています。車窓から見ているとカラフルな花畑の間に懐かしい菜の花畑が点在しています。ゆっくり写真を撮ろうと考えて、「ちくら潮風王国」(http://shiokaze-oukoku.jp/)の周囲の畑の中を散歩しました。そして、道の駅「ローズマリー公園」(http://www.rosemary-park.jp/)の外側にも菜の花畑が広がっていました。撮った写真をお送りします。お楽しみ下さい。まず道の駅ちくら潮風王国の前の海の写真です。1番目の写真は道の駅ちくら潮風王国の前の海の写真です。そして下の2枚は千倉の花畑の中で撮った菜の花です。2...「春の房総半島の海の青さと菜の花畑」

  • 「春の真鶴半島の原生林の新緑」

    真鶴半島は近いので何度も遊びに行きました。ある時行ったときは晴天で海が紺青色に輝いていました。湯河原へ行く途中に、あちこちに寄って遊びながら行きました。真鶴半島の原生林は特に好きで長い間、何度も訪問しました。原生林はいつも緑豊かに茂っていました。そんな真鶴半島の原生林の新緑の写真をお送り致します。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。「春の真鶴半島の原生林の新緑」

  • 「春の三浦半島への小さな旅、佐島、油壺、三崎港、城ヶ島」

    三浦半島は風光明媚な半島です。葉山、剣崎、佐島、油壺、三崎港、城ヶ島などの海が綺麗なのです。数年前の丁度今頃、三浦半島への小さな旅をしました。その折に撮ってきた写真をお送りします。旅路は圏央道で茅ケ崎海岸に出て、海沿いに江の島、鎌倉と抜けて鐙摺港(葉山港)に寄り、そこから三浦半島の西海岸道路を走りました。森戸神社に車を停め、海と富士山の写真をゆっくり撮りました。それから剣ケ崎を経て佐島付近で漁船や漁港の長閑な風景を写しました。佐島からさらに南下して油壺や三崎港を経て三浦半島の突端の城ヶ島に行きます。この時期の三浦半島はタブノキやクスノキや野生の椿類の新緑が匂うように美しいのです。帰路は横須賀から横浜・横須賀高速道路に入り、狩場インターで第三京浜道路に乗り換えて帰って来ました。それでは写真をお楽しみ下さい。...「春の三浦半島への小さな旅、佐島、油壺、三崎港、城ヶ島」

  • 「花壇の写真」

    あまりにも人工的な花壇なので家内は嫌います。でも私は好きです。小金井公園の花壇の写真をお送り致します。「花壇の写真」

  • 「花吹雪の中、散り行く櫻の写真を撮る」

    もう小金井公園の櫻も終わりでしょうか。花吹雪の中、散り行く櫻の写真を撮ってきました。「花吹雪の中、散り行く櫻の写真を撮る」

  • 「残雪光る甲斐の山々の写真」

    甲斐の国はどちらを向いても山ばかりです。山に囲まれた甲府盆地に立つと残雪に輝く山稜がぐるりと囲んでいます。北の奥秩父の山稜から東を見れば富士山とその外輪山が見えます。さらに目を転じて南を向けば南アルプスの主峰、農取、間ノ岳、北岳が聳えています。その西は薬師、観音、地蔵の鳳凰三山です。右端にひときわ高い甲斐駒岳が残雪に光っています。さらに北西には壮大な八ヶ岳が堂々と座っています。ある時、甲斐の国へ小さな旅をして甲斐の山々の写真を撮って来ました。写真をお楽しみ下さい。1番目の写真は大月市の初狩から見た富士山です。強い西風に吹かれ山頂の雪が舞いあがり白い雲のようになっています。里には春が来ましたが富士山は厳しい冬なのでしょう。2番目の写真は中央高速道路の甲府南IC付近から見た南アルプスの主峰、農取、間ノ岳、北岳...「残雪光る甲斐の山々の写真」

  • 「春の野山に咲くヤマブキの花」

    ヤマブキの季節です。庭にも咲いてます。白いのや黄色のがあちこちに咲いています。本当の春になったのです。その写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.uekipedia.jp/.../%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%96.../です。道灌の山吹伝説、【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】(http://youzantei.la.coocan.jp/mitisi.../yamabukidensetu.html)太田道灌は扇谷上杉家の家宰でした。ある日の事、道灌は鷹狩りにでかけて俄雨にあってしまい、みすぼらしい家にかけこみました。道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか。」と声をかけると、思いもよらず年端もいかぬ少女が出てきたのです。そし...「春の野山に咲くヤマブキの花」

  • 「春の花々が一斉に、八重桜、菜の花、チューリップ、シャガ、山吹」

    昨日、小金井公園を散歩しました。うららかな春の日です。春の花々が一斉に咲き出していました。樹々も新緑です。良い季節になりました。八重桜、菜の花、チューリップ、シャガ、山吹の写真をお送り致します。「春の花々が一斉に、八重桜、菜の花、チューリップ、シャガ、山吹」

  • 「私が好きな日本の仏教の話」

    私は仏教が好きです。祖父や叔父がお寺の住職をしていたので幼少の頃から仏教になじんでいました。そんなわけで今日は日本の仏教についてあれこれ書いてみたいと思います。日本には75、000のお寺があると言われています。どんな山里に行ってもお寺があります。江戸時代、明治、大正、そして昭和時代、そして現在に至るまで、人々はお寺と絆(きずな)があります。仏教を信じていなくてもお墓詣りをする人は多いものです。お葬式があると仏式で執り行い、僧侶の読経を根気よく聞いています。その上、日本にある仏像の数は世界一とも言います。地方に行くと巨大な観音像があちこちに立っています。仙台の大観音、高崎の大観音、大船の大仏、韮崎の観音像、牛久の大仏などなど巨大な像が青空に中に聳え立っています。1番目の写真は仙台市にある大きな観音像です。最...「私が好きな日本の仏教の話」

  • 「今日はイグナチオ教会のミサにあずかりました」

    今日はインターネットを通してイグナチオ教会のミサにあずかりました。今日のミサの写真をお送り致します。「今日はイグナチオ教会のミサにあずかりました」

  • 「世界遺産の五島列島の教会の写真」

    以前に訪れた五島列島の教会の写真をお送り致します。懐かしい風景です。五島列島の教会は2018年7月に世界遺産に登録された長崎県の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の教会群の一部です。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)「世界遺産の五島列島の教会の写真」

  • 「今日は四旬節第5主日です」

    今日は四旬節第5主日です。今日のミサの動画配信は下記にあります。https://www.youtube.com/live/atn26SiVPg8東京のイグナチオ教会のミサです。イグナチオ教会の住所、〒102-0083東京都千代田区麹町6丁目5−1「今日は四旬節第5主日です」

  • 「今日の小金井公園の櫻、菜の花、パンジーの花の写真」

    今日の小金井公園の櫻、菜の花、パンジーの花の写真です。風は冷たいのですが春らしい陽光です。撮ってきた写真をお送り致します。「今日の小金井公園の櫻、菜の花、パンジーの花の写真」

  • 「これからの季節、山に咲く珍しい朴ノ木の花の写真」

    これからの季節、山に咲く珍しい朴ノ木の花の写真をお送り致します。珍しい大きな花です。朴ノ木は深い山奥に生えている大木です。大きな純白の花が高い梢に咲きます。高い梢に咲くので写真を撮るのが難しいのです。今日は山梨県の上野原市の山奥で私が撮っ朴ノ木の花の写真をお楽しみ下さい。傾斜地だったので大木の梢が私の胸の高さにあったのです。1番目の写真は6年前の5月に山梨県の上野原市の山奥で私が撮った朴ノ木の花です。2番目の写真の出典は、https://minhana.net/wiki/ホオノキです。3番目の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/san_tarimo/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.s...「これからの季節、山に咲く珍しい朴ノ木の花の写真」

  • 「中世の暗黒を打ち破ったフランス革命」

    ヨーロッパの中世は暗黒でした。魔女狩りと魔女裁判や30年戦争やハプスブルグ家の横暴や騎士道の暴力の横行がありました。権力者が一般庶民を厳しく支配していました。個人の人権なぞ全く無かったのです。そんな中世の暗黒社会を打ち破ったがフランス革命でした。今日は人類の歴史を大きく変えたフランス革命について書いてみたいと思います。(1)フランス革命は何時起きたか?フランス革命は1789年から1799年の10年間に起きました。ナポレオンがフランスを統治する直前に起きました。フランス革命で市民がバスチーユ牢獄を襲撃した7月14日は現在、「革命記念日」としてフランスの祝日です。封建制度の廃止や人権宣言がなされ人類の歴史に大きな影響を及ぼした世界の大事件でした。(2)「自由、平等、博愛」のスローガン中世のヨーロッパは国王が統...「中世の暗黒を打ち破ったフランス革命」

  • 「フランス革命の直前にアメリカが独立宣言をした」

    現在の日本は個人を尊厳する民主主義の国です。幸せです。しかしその成立には2つの先駆的な事件があったのです。アメリカの独立宣言とフランス革命です。今日はこの2つの事件をもう一度振り返ってみたいと思います。アメリカの独立宣言は1776年7月4日に発せられました。アメリカ独立戦争の二年目にあたる1776年7月の第2回大陸会議総会でアメリカの13の州の植民地の全会一致で決議されたのです。アメリカ独立宣言はそれまでのイギリスの圧政、悪政を告発し、平等、自由、幸福の追求などの基本的人権と圧政に対する革命権を認めました。アメリカ独立宣言に盛り込まれた人民主権の理念は、独立後に制定されたアメリカ合衆国憲法に継承されました。アメリカ独立宣言は1789年のフランス革命の直前です。アメリカ独立宣言はフランス革命を誘発したのです...「フランス革命の直前にアメリカが独立宣言をした」

  • 「櫻、櫻、櫻、今日の小金井公園」

    まだ冷たい風が吹いている小金井公園でした。でも櫻は満開でした。撮ってきた写真をお送り致します。「櫻、櫻、櫻、今日の小金井公園」

  • 「はじめて箱根で泊まったホテルは山のホテル」

    はじめて箱根で泊まったホテルは山のホテルでした。アメリカ留学から帰国した直後の1962年のことでした。山のホテルは戦前に岩崎小彌太男爵の建てた別邸の跡地に建っています。岩崎男爵はなだらかな起伏のある庭園にツツジを植えました。その庭園のツツジは現在でも皐月になると満開になります。「山のホテル」は1948年に開業しました。留学から帰ってきたばかりの1962年でした。まだ木造で昔のヨーロッパ風の小さなホテルでした。その後、小田急の経営になり建物も立派になります。私共の泊まった頃も庭園には色とりどりのツツジが咲いていました。まだ妻も若々しい新婚時代に泊まったホテルが懐かしく、その後も山のホテルに行き、ツツジを楽しんだものです。箱根に行く度に寄ってはランチを食べたりコーヒーを飲みました。山のホテルとその庭園から見え...「はじめて箱根で泊まったホテルは山のホテル」

  • 「春の遅い箱根は櫻とツツジが一緒に満開になります」

    春の遅い箱根は櫻とツツジが一緒に満開になります。以前に箱根の芦ノ湖畔に一泊し、強羅や仙石原を散策したことがありました。箱根の山は寒いので新緑も出ていませんでした。そして東京ではとっくに散ってしまった桜が丁度満開です。ツツジも満開でした。その写真をお送り致します。下の写真は泊まった箱根ホテルの部屋から見た芦ノ湖で、遠方に富士山が見えました。右手に近代的な観光船が見え、左手には海賊船を模した観光船が静かに舫っていました。春の遅い箱根の風景をご紹介いたしました。「春の遅い箱根は櫻とツツジが一緒に満開になります」

  • 「春の箱根、彫刻の森、湿生植物花園、富士屋ホテルの思い出」

    春が来ました。今日は久しぶりに晴れあがりました。野山が陽光を浴びて美しく輝いてます。小さな旅に出たくなります。そんな折には箱根がお薦めです。箱根には首都圏から小田急のロマンスカーで湯本に入ります。登山電車で強羅、そこからケーブルカーで芦ノ湖の桃源台へ行けます。船で芦ノ湖を渡って箱根町に行きます。箱根には幾つかの美術館、レストランやホテルが沢山あります。今日は何度も旅した箱根の強羅の彫刻の森美術館、仙石原の湿生植物花園、宮ノ下の富士屋ホテルの3ヶ所を選んでご紹介したいと思います。写真は全て家内が撮ったものです。(1)強羅の彫刻の森美術館強羅の彫刻の森美術館は広い芝生の上に大きな彫刻が飾ってあります。その光景は感動的です。この彫刻の森美術館は長野県の美が原にある美ケ原高原美術館と姉妹館です。さて箱根の彫刻の森...「春の箱根、彫刻の森、湿生植物花園、富士屋ホテルの思い出」

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