庭の花の写真です。10年以上前に潮来から買って来たアヤメが今年も咲きました。他の花の写真も含めてお送り致します。「庭の花の写真」
庭の花の写真です。10年以上前に潮来から買って来たアヤメが今年も咲きました。他の花の写真も含めてお送り致します。「庭の花の写真」
今日の小金井公園の風景です。小金井公園は東西に2kmあります。今日行った場所は西の端の部分です。撮ってきた写真をお送り致します。「今日の小金井公園の風景」
毎年、お盆のころになると日本のあちこちで灯篭流しや精霊流しがあります。この世を去ってしまった家族や友人の魂を弔うのです。あの世で平安に暮らしていることを祈るのです。そして故人があの世から暗い水面をゆらゆら揺れて流れてていく灯を見て慰められるのです。それは日本の夏の美しい風物詩です。そんな光景を下の写真で示します。真は灯篭流しと精霊流しの画像検索によって転載させて頂きました。1番目の写真は長崎と佐賀県の一部で作られる精霊船を町中を引いて海辺に運んでいる様子です。2番目の写真は佐世保市の灯篭流しです。3番目の写真は曹洞宗本山、永平寺の灯篭流しです。4番目の写真は灯篭流しと精霊流しの画像検索によって転載させて頂きました。それはそれとして、毎年、実際に灯篭流しをしている人はそんなに多くありません。テレビや新聞で灯...「灯篭流し、精霊流しは夏の美しい風物詩」
我が故郷、仙台の広瀬川の灯篭流しは江戸時代から引き続き灯ろう流しは行われ、昭和に入ると花火大会も同時に開催されるなど、「夏の終わりを告げるの風物詩」として親しまれるようになりました。仙台市内有数の夏祭りです。その風景写真をお送り致します。「我が故郷、仙台の広瀬川の灯篭流し」
今年も7月になるとお盆が来て各地で精霊流しをします。お盆の期間は、8月13日~16日の4日間(8月盆)が一般的ですが、東京をはじめとする一部地域では、7月13日~16日の4日間(7月盆)で行われます。また、東京の多摩地区では7月31日〜8月2日に行う場合もあります。お盆には、お盆提灯やキュウリ・ナスで作った牛馬など、お盆独自のお飾りをして故人様をおもてなしする風習があります。ご自宅の玄関先・庭先やお墓などの場所で「迎え火」を焚き、ご先祖様の霊をお迎えします。迎え火と同様にお盆が終わると、玄関先・庭先やお墓などの場所で「送り火」を焚き、ご先祖様の霊をお見送りします。そしてお盆の風物詩は「精霊流し」です。有名なのは長崎の江迎千灯籠祭りです。毎年8月23日と24日に行われる祭りです。3000個以上の灯籠で飾られ...「今年もお盆が来て精霊流しをします」
家内の夏の思い出と言えばまず由比ヶ浜での海水浴、親類の若者が大勢泊りに来て砂浜にビーチパラソルを立てて、水浴びしたり海の家で食事やかき氷を食べたり小屋掛けの射的・ボットル落としや楽焼をした楽しい思い出をよく話しています。戦争末期に群馬県の下仁田町に疎開したのですがそこでも楽しい思い出が沢山あるようです。本来楽天的というか人懐こく物おじしない性格なので山あいの生活や小学校にすぐ慣れて、友達とカブラ川へ水浴びに行き、帰りに河原の桑の実を食べるのがとても楽しかったそうです。ママのお土産にしようとポケット一杯摘んで帰ったら白いワンピースのポケットが真っ赤に染まってしまったそうです。川の上流の浅瀬でバチャバチャしていたら流されて大渕という深みまで行って溺れていたら、大岩の上にいた3歳上の姉が飛び込んで救ってくれた。...「家内の夏の思い出」
1945年の7月10日にB29の空襲があり仙台はすっかり焼け野原になってしまいました。そしてB29の焼夷弾空襲によってし全国の200市町村が焼け野原になってしまったのです。まず東京大空襲の写真をお送りいたします。東京大空襲は1945年(昭和20年)3月10日のアメリカ空軍による夜間空襲でした。その7枚の写真をお送り致します。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2です。1番目の写真は東京を空襲しているB-29爆撃機です。多量の焼夷弾を落としています。2番目の写真は1945年1月27日の空襲で数寄屋橋上を逃げ惑う親子です。この日の爆撃の主目標は郊外にあった中島飛行機武蔵製作所でしたが、...「夏の思い出はB29の空襲と焼け野原の光景」
夏の思い出は我が故郷仙台の七夕祭りもあります。仙台の七夕まつりは、江戸時代に仙台藩祖・伊達政宗公が婦女子の文化向上を奨励するために始めたのが由来とされており、以来仙台の伝統行事として民衆に広まり現在に至ります。故郷の仙台の七夕祭りは毎年、8月6日、7日、8日と開催されます。夏が来ると思い出します。毎年、幼少の頃から七夕飾りを見に行った東一番丁や大町通りの光景を思い出すのです。結婚して東京に住むようになってからも毎年、家内や子供連れで仙台の七夕飾りを見に帰りました。父母が健在だったあいだは毎年仙台に帰省していました。ですから七夕飾りは私の故郷の光景として心の中に焼き付いています。それではその七夕飾りが夏風に揺れている写真をお送りいたします。1番目の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co....「夏の思い出は我が故郷仙台の七夕祭り」
何故か知りませんが夏が来るとしきりに思い出すのが幼い頃の光景です。昔の茶の間、花火遊び、夜店、金魚売り、海水浴などの光景です。私の幼い頃は戦前、戦後にまたがっていました。エアコンは勿論、電気冷蔵庫も無い時代でしたので暑かったに違いありませんが、不思議に暑くて困ったという記憶がないのです。当時の茶の間には柱時計、茶箪笥、ちゃぶ台がありました。テレビはありませんでした。夜になると「ちゃぶ台」をかたずけ、蚊帳を吊り、布団を敷いて寝ます。当時は網戸が無いので、寝ていると迷ったセミやハンミョウなどが開け放した廊下から飛び込んで来ます。寝る前には近所の子供たちとよく花火遊びをしたものです。1番目の写真は子供たちの花火遊びの写真です。この写真の出典は、http://www.kobe-np.co.jp/news/shak...「夏の思い出は花火、金魚売、海水浴」
小屋は山梨県の西端の甲斐駒岳の麓にあります。その付近の新緑の写真をお送り致します。写真は2008年の5月に撮りました。なお2枚目の写真には家内と息子と幼い頃の3人の孫がが写っています。左の白服が家内で右端が小学校野球部の一番上の孫です。黒服の男が息子で傍にちいさい二人の下の孫が写っています。17年前は3人の孫も児童でした。一番上の孫は父親になりました。時の流れは早いものです。3番目の写真は山林の中の小屋の前の小川に手作りしたヤマメの魚道です。「山林の中の小屋の近くの新緑の写真」
東京の街街には一種独特な雰囲気がまとわり着いているところが多く有ります。江戸時代の屋台が連なったような浅草の仲見世通り、寅さん映画で有名な柴又の帝釈天の参道、昭和のモダンな雰囲気が漂う日本橋三越界隈、新宿駅東口から中村屋、紀伊国屋書店、伊勢丹へと続くなにか懐かしい雰囲気の通り、そして原宿や竹下通りの気楽な若者の群れる町。それぞれ独特の雰囲気があります。そして新橋駅を出て西側の広場へ出る度に、ああ戦後の雰囲気がまだ残っているなあ、と感じるのです。広場は綺麗に舗装され、向こうに蒸気機関車が飾ってある平凡な広場なのです。何故、終戦後の雰囲気があるのでしょう?そんなことを感じるのは私だけかも知れません。写真を3枚掲載します。ご意見を頂ければ嬉しいです。(終わり)添付の写真は浅草の仲見世通りと戦後の雰囲気が漂う新橋...「戦後の雰囲気が漂う新橋駅前、江戸時代の仲見世通り」
「懐かしい台所、真空管ラジオ、蒸気機関車、市電、小さな連絡船、青函連絡船、など」
人間は老境になると昔のことが非常に懐かしくなるようです。家内が昔のことより現在や将来のことを考えたらとよく言います。しかし昔の懐かしいものについて今日も書きたいと思います。懐かしい台所、真空管ラジオ、蒸気機関車、市電、小さな連絡船、青函連絡船、などです。まずこれらの写真を示しましょう。1番目の写真は昭和時代の台所です。昭和11年に生まれた私の祖父の兵庫県のお寺の台所はこのようでした。懐かしいです。一方、私の自宅は仙台市にありましたので台所は近代的でした。2番目の写真は真空管のラジオの裏側です。高校生の頃の趣味は真空管のラジオを作ることでした。最後に写真のようなスーパーヘテロダインを作りました。大きな電蓄も作ったもです。3番目の写真は私が中年になるまで東北本線を走っていた蒸気機関車に引かれた列車です。新幹線...「懐かしい台所、真空管ラジオ、蒸気機関車、市電、小さな連絡船、青函連絡船、など」
夏になると若い頃の北アルプス縦走を思い出します。若い頃の登山の思い出です。その北アルプス縦走の思い出を写真に従ってお送り致します。しかし私は当時写真機を持っていなかったので、インターネットからお借りしました。さて縦走は大糸線の穂高駅から中房温泉への登高から始まりました。そこに一泊して燕岳、大天井、西岳、槍の肩の小屋で一泊し、南岳、キレット渡り、北穂高、涸沢、横尾と歩いて上高地に降りて来ました。歩いた行程は全部で2泊3日の山歩きでした。毎日10時間ほど歩きました。写真で説明します。1番目の写真は中房温泉から1時間ほど登ると突然見える燕岳です。この地点から槍ヶ岳を遥かに見ながら縦走路を行くのです。2番目の写真は燕岳と大天井岳の間の尾根から見える槍ガ岳です。まだ遠方です。3番目の写真は大天井岳の肩を回りこみ近く...「夏になると思い出す北アルプス縦走」
今日は爽快な白帆漁の写真をお送りいたします。お楽しみ頂ければ大変嬉しく思います。以前の夏、霞ヶ浦で撮影したものです。土浦観光協会で検索し観光のために出漁する日時をお確かめの上、お出かけ下さい。見物は観光船、ホワイトアイリスに乗船して船上から見るのが良いと思います。今日も皆様のご健康と平和を心からお祈り申し上げます。藤山杜人幅の広い大きな網を船の横に入れ、船の長さいっぱいの巨大な白帆で網をゆっくり引いて行きます。数キロメートルも引いて行きます。ワカサギを取っていますが、10月になると透明な白魚をとります。霞ヶ浦に江戸時代からあった伝統的な漁法だそうです。ワカサギは佃煮にします。沖宿でも売っていますが、土浦駅ビル地下食品売り場の小魚佃煮専門店でも売っています。白魚の生の刺身は蓮田の中の「うなぎの山中」(電話0...「夏の風物詩、霞ヶ浦の伝統的な白帆漁」
このところ湿気が多く暑いですね。間も無く本格的な夏が来るのでしょう。。そのせいか美ヶ原高原美術館の涼しさ、爽快さを思い出します。霧が流れる高原のロマンです。今日は美ヶ原高原美術館をご紹介したいと思います。この美術館は遥かに遠い天空の上の美術館なのです。標高は2004mです。4万坪の屋外展示場に350点あまりの現代造形作品を常設展示しています。1981年6月に、「箱根・彫刻の森美術館」の姉妹館として開館しました。長野県の上田市にあります。この彫刻群を楽しむため一番重要なことは天気予報を注意深くしらべ、寒い雪の日、強風の日、猛暑の日は行かないようにします。私達が訪れたのは2008年の8月5日でした。霧が流れ、幻想的な日でした。高原の丘一面に遊歩道がひろがり世界中の作品が展示されています。すべて野外で鑑賞するた...「夏の風物詩、霧が流れる美ヶ原高原美術館のロマン」
蓮の花の咲く景色は夏の風物詩です。お寺の境内、各地の城のお堀や一面に広がる蓮根畑に咲いています。夏の陽に輝く白い花が風に揺れている光景は心に刻み込まれています。私は霞ヶ浦でヨットをしていたので周囲に広がる蓮根畑の白い花が忘れられません。そして同級生の大泉君と一緒に見た小田原城の堀に咲く花は背景の天守閣の風景とともに忘れません。その上家内と一緒に行った行田の蓮の公園に一面に咲いていた蓮の花には感動したものです。そこで今日はこれら3ケ所の蓮の花の写真をお送り致します。1番目の写真は霞ヶ浦の蓮根畑の写真です。2008年の夏に撮ったものです。2番目の写真は小田原城の堀に咲く蓮の花です。観賞用の花なので種々の色の花が咲いています。出典は、https://www.jalan.net/kankou/spt_14206a...「夏の風物詩、あちこちに蓮の花が咲く風景」
毎日、毎日が曇り日で気が滅入ります。そこで夏の風物詩、ヒマワリの写真をお送りいたします。写真をお楽しみ下さい。写真の出典は、https://jp.zekkeijapan.com/article/index/19/です。1番目の写真は山梨県北杜市の明野の60万本のヒマワリ畑です。背後の山は八ヶ岳です。2番目の写真も明野のヒマワリ畑です。7月下旬から8月いっぱい楽しめます。3番目の写真は北海道の北海道の美馬牛小学校の塔とヒマワリ畑です。美馬牛小学校は美瑛町にあります。4番目の写真はラベンダーの花で有名な富良野の8月のヒマワリ畑です。5番目の写真は北海道の北竜町の150万本のヒマワリ畑です。北竜町は札幌と旭川市のちょうど中間にあります。「夏の風物詩、ヒマワリの写真をお楽しみ下さい」
カトリック信者にとってはローマ法王は親しい存在です。憧れでもあります。写真はバチカンのサンピエトロ大聖堂でミサを司祭しているローマ法王ベネディクト16世です。「ローマ法王の写真」
今日の聖霊降臨の主日ミサのミサの風景です。広島のカトリック曙町教会のミサの風景をお送り致します。「今日の聖霊降臨の主日ミサのミサの風景」
広島のカトリック曙町教会のミサ動画配信https://www.youtube.com/watch?v=eUiw_1FZ0FM第1朗読使徒言行録2章1~11節第2朗読ローマの信徒への手紙8章8~17節福音朗読ヨハネによる福音書14章15~16、23b~26節住所〒730-0016広島県広島市中区幟町4-42TEL082-221-0621守護聖人、被昇天の聖母神父【主任司祭】瀧井英昭神父【助任司祭】星野倫淳神父シスターシスター木村恭子(援助修道会)「今日の聖霊降臨の主日ミサの動画配信」
梅雨の季節はアジサイの花が美くなります。梅雨の季節は気が晴れません。しかしアジサイの花が美しく咲きます。写真の出典は、https://tenki.jp/rai.../column/usagida/2022/05/22/31138.htmlです。「梅雨の季節はアジサイの花が美い」
「夏になると思い出す壊れた零戦、ナマズ、トマト畑と寝転がる馬」
1945年に仙台がB29の空襲で焼野原になった後で田舎に疎開しました。その農村の生活は都会とは違って面白いものです。その思い出を4つ書きます。(1)河原に不時着した零戦に登って遊ぶ。終戦後一刻も早く故郷に帰りたい零戦の操縦士が郷里の実家の近くの河原に不時着したのです。考えは良かったのですが凸凹の河原で機体が大破しました。我々悪童連は操縦席に入り込み遊んだのです。その上風防のガラスを割り破片を持ち帰りました。そのガラス片はこするとバナナの香りがしました。食糧難の当時ばバナナの香りで幸福になったものです。すべての写真はインターネットからお借りしました。1番目の写真は零戦です。(2)ナマズを泥川で捕って食べる。零戦が不時着したのは泥の川の河川敷でした。その川で我々は竹竿に糸をつけて大きなミミズを餌にしてナマズを...「夏になると思い出す壊れた零戦、ナマズ、トマト畑と寝転がる馬」
生まれ育った仙台は終戦直前の1945年7月10日に焼け野原になってしまいました。100機のB29が焼夷弾をばらまいて焼け尽くしました。その後すぐに私は弟2人と共に宮城県の北の農村に疎開しました。そこでドジョウ汁を初めて食べました。農家の夕飯によく出たのです。夏になるとそんなことを時々思い出します。武蔵野公園の「どじょう池」の傍を通る度に思い出すのです。1番目の写真は武蔵野公園の「どじょう池」です。この付近は湿地帯でや沼が沢山あります。そこにはドジョウが沢山棲んでいます。昔からこの地の人々がそのドジョウを食べていたのです。この「どじょう池」を見る度に私は昔の疎開生活を思い出します。そしてよく食べたドジョウ汁を思い出します。2番目の写真は私が疎開した宮城県の北の農村によく似た農村の風景です。写真はインターネッ...「夏になると思い出す疎開生活とドジョウ汁」
鎌倉は私にとって特別な意味があります。家内が生まれ、そこで終戦の年まで育った場所でした。終戦時は国民学校2年生でした。家内は結婚以来何度も、何度も鎌倉での楽しい思い出を話します。家内の話を聞いてから、私も彼女の昔の家の近所を何度か散歩しました。そして鎌倉の中をいろいろ歩き回りました。家内が鎌倉生まれで小学校まで住んでいた処は長谷寺の近くで現在の鎌倉文学館の下でした。幼稚園は六地蔵の傍にあった聖母幼稚園へ行っていたそうです。その幼稚園を探したら名前は変わっていましたがありました。通っていた小学校は御成小学校です。現在も当時のままの門がありましたので写真を撮りました。1番目の写真は御成小学校の門です。御成小学校は海蔵寺や寿福寺に行く途中にあるので何度も行きました。戦前の校門と講堂が残っています。妻が昔住んでい...「夏になると妻が思い出す鎌倉」
老人は楽しかった思い出で生きているのです。昔はテレビも無く娯楽と言えばハイキングや海水浴だけでした。海水浴の思い出は仙台の近くの荒浜、菖蒲田浜、桂島や宮戸島の思い出です。今日は海水浴の思い出を書いてみようと思います。戦前戦後の貧しかった時代の夏の楽しみは近くの浜で海水浴をすることだったのです。私が育った所は仙台でしたので海水浴と言えば仙台から近い荒浜か菖蒲田浜でした。とにかく夏になると何度も行きました。少し遠方では松島湾の桂島や宮古島へ行ったこともあります。足が焼けるような砂浜を歩いて波打ち際に立つと冷たい透明な海水が足を洗い、心地良いものでした。そんな話をしましたら、家内は自宅から歩いて何度も海水浴に行ったと云います。鎌倉の加賀様の別荘の下に家があったので松林を抜けて由比ヶ浜に出たそうです。夏の日の楽し...「仙台の近くの荒浜、菖蒲田浜、桂島や宮戸島の思い出」
近所の道端にタチアオイの花が綺麗に咲いています。撮ってきた写真をお送り致します。「タチアオイの花の写真」
父の実家は兵庫県の田舎のお寺でした。そんな関係で私の身近にはいつもお寺があったのです。今日は私の身近にあったお寺の写真をお送りしたいと思います。1番目の写真は父の実家の正林寺です。兵庫県の田舎のお寺で曹洞宗でした。2番目の写真は兵庫県の篠山市にある叔父が住職をしていた法福寺です。ここにも私は何日も泊りました。3番目の写真はよく行った宮戸島の大高森にある薬師堂です。松島湾が一望できる所です。4番目の写真は仙台の瑞宝寺です。幼少の頃にこのお寺の幼稚園に通っていました。5番目の写真は現在住んでいる小金井市にある真蔵院です。よく散歩に行く道そいにあるお寺です。6番目の写真は真蔵院の境内です。兵庫県のお寺が懐かしく境内に入って散歩します。この他によく行くお寺は小金井の金蔵院や海岸禅寺があります。今日は私の身近にあっ...「私の身近にあったお寺の写真」
宗教には宗教的義式が必ずあります。例えばお寺ではお盆の時期に施餓鬼供養があります。施餓鬼供養の時は檀家の人々は本堂の両脇にある客間に座って見ます。住職さんに頼んでその席に入れて貰えば良いのです。お寺に行って施餓鬼供養に参加し、一緒に祈るとご先祖様の供養になるのです。この施餓鬼供養は日本のほとんどの宗派の寺で行われています。お寺によって開催日時が違います。さてその一例として愛知県の臨済宗妙心寺派の寺院の永正寺の施餓鬼供養の様子を、そのHPから以下にご紹介いたします。HPは、http://eishojikengaku.blog33.fc2.com/blog-entry-171.htmlです。永正寺では、お施餓鬼を毎年8月17日と9月23日の2日におつとめします。お施餓鬼とは「餓鬼道にいるものに施しをすると、ご...「宗教的義式に馴れる、お寺での施餓鬼供養」
佛教とキリスト教は私の好きなものです。私の考え方に大きな影響を与えています。今日はに日本人と仏教の関係と欧米人とキリスト教の関係を書いてみたいと思います。そして宗教と関係の無い人間性の共通性、同一性を強調したいと思います。さて日本人は無意識のうちに仏教や神道の影響を受けています。日本人の考えかたや感じ方は仏教の無常の教えの影響を下敷きにしています。日本に仏教が伝来したのは日本書記によると552年、欽明天皇の時、百済から伝わったということになっています。それ以来、仏教は日本人の考え方や感性に深い影響を与えてきました。室町時代に明文化され形造られた日本人特有の『侘び寂び』の感じ方は仏教の無常感とつながっています。お釈迦様のすべては空(くう)ですという教えにつながっています。このような感性は欧米人にはありません...「日本人と仏教、欧米人とキリスト教」
「ヨットと山林の小屋の趣味を教えてくれたのはスウェーデンのエケトルプ先生」
ヨットと山林の小屋の趣味を私に教えてくれたのはスウェーデンのエケトルプ先生でした。エケトルプ教授は1974年に私を招待してくれたのです。エケトルプ教授はヨットの趣味と古民家を復元する趣味を持っていたのです。古民家を復元する趣味として中世のスウェーデンの古民家の構造を詳しく調べ、忠実に復元していました。ストックホルムの郊外に、藁葺と白壁の中世風の農家を復元して住んでいたのです。建坪50坪ぐらいで、大きな室内は、寝室、食堂、炊事場、風呂場、トイレを北欧の材木で区切り、ドアもすべて同じ板材です。木製の蝶番(ちょうつがい)と閂(かんぬき)が付いています。窓の外には白夜の牧草地が薄暗く広がっていて、遠くに馬の親子が立っているのがぼんやり見えます。当時はデジカメがありませんでした。写真も撮りませんでした。そこで似てい...「ヨットと山林の小屋の趣味を教えてくれたのはスウェーデンのエケトルプ先生」
もう一つの私の趣味は山林の中に小屋に建て泊りに行くことでした。建てた年から泊って楽しんできました。小屋は山梨県にあります。甲斐駒岳や八ヶ岳が見えます。今日は山林を安く買って小屋を建て心豊かに暮らす方法を書きたいと思います。山林は驚くほど安いのです。まず小屋の近辺の山林の様子を3枚の写真で示します。山梨県北杜市の山林です。写真で示しような山林100坪を、80万円で1974年に買いました。早速、6畳と5畳の小屋を鉄筋コンクリートで建てました。それ以来、毎月2,3回は家内と泊りに行っていたのです。小屋の窓から庭の小川や焚火の煙が林の中を流れる様子が見え楽しいのです。そんな様子の写真をお送り致します。小屋は標高900mの寒冷地にあります。そこで北海道から簡素な薪ストーブを買って来て入れました。7番目の写真のような...「もう一つの趣味は山林の中に建てた小屋」
私は50歳で江の島の小型ヨットスクールへ通い、53歳の時、琵琶湖へ行ってヤマハ19という中古のクルーザーを初めて購入しました。長さが5m90cmの小さなクルーザーで操船が簡単そうでした。そのヨットを水郷汽船(株)経営の霞ヶ浦マリーナへ陸送しました。ヨットをクレーンで吊って水に入れてくれたのがマリーナの佐藤敏郎さんです。それ以来、23年間、2012年の秋にヨットを止めるまで佐藤さんにお世話になったのです。佐藤さんは優しい性格でいつも笑顔を絶やさずヨットの修理の仕方や扱い方を根気よく教えてくれました。ヨットをあけび号と命名し、家内とよくセイリングしたものです。1番目の写真はその時の様子です。1番目の写真は家内と一緒に帆走中のあけび号です。霞ヶ浦で10年間乗った「あけび号」を群馬県のカヤシマさんという方へ売りま...「25年間のヨットの趣味を振り返って」
老境は思い出を楽しむためにあるようです。我が人生には悲しいこともありましたが楽しいことも沢山ありました。特にヨットの趣味で東京湾、相模湾、駿河湾を帆走したことは実に楽しい思い出です。ヨットの趣味は49歳から75歳まででした。今日は東京の真ん中の銀座にあるヨットマリーナをご紹介して海上から見た東京の夜景の写真を掲載しようと思います。さて銀座にあるヨットマリーナは銀座7丁目にあります。銀座7丁目に隣接した運河にあります。そこは浜離宮と築地魚市場の間にある運河で、その端はJR新橋駅の方向に入り込んでいます。築地川という運河です。そこが昔からヨットやモーターボートの静かなマリーナになっていたのです。1番目の写真は銀座7丁目にあるヨットやモーターボートのマリーナの写真です。暗い森は浜離宮の森です。左の奥の方へ出て行...「銀座にあるヨットの港と海上から見た東京の夜景」
1969年にドイツ在住に慣れたころ、フンボルト本部から封書が届く。マイクロバス一台でドイツ全土の観光に連れていってくれるという。シュツットガルトから始まり、アウグスブルグ、ミュンヘン、ロマンテッシェ・シュトラーセ、ベルリン、ハノーバー、ブルーメン、リューベック、ボン、ケルン、モーゼル河を遡って、トリアー、カールスルーエ、シュツットガルトに帰る二週間ほどの長旅である。黒い針葉樹の森と新緑の広葉樹の美しい五月であった。各地の中世の絵画館、近代美術館、教会や修道院、歴史的な町並み。これが伝統的なドイツ文化だというものを徹底的に見せる。音楽ではベートーベンに代表される古典音楽、暗い宗教画の歴史、デユーラーの絵画、カント、ショウペンハウエルに代表される哲学、ゲーテやトーマスマンの文学、それら伝統に関連した記念館や生...「中世のままのドイツの地方の町をめぐる旅」
ドイツの冬は日本より寒く暗く厳しい季節です。懐かしいです。ドイツの冬の写真をお送り致します。出典は、https://note.com/haribo_germany/n/n0599c2c7befdなどです。「ドイツの冬景色」
1971年に出版された東山魁夷のドイツ旅行記の「馬車よ、ゆっくり走れ」を読むと彼の若き日のドイツへ対する強い想いが書いてあります。私の心に焼き付いている旅の随筆集です。昔、スケッチをした街角に立って風景を描いているときの気持ちを思い出しているのです。1970年前後に何度か行ったドイツや北欧で馬車に乗ったようです。ゆっくり石畳を走る蹄鉄や車輪の音が若い時のベルリン留学の回想を誘ったのです。ベルリンの冬は毎日雲が低くたれこんで暗く寒いのです。その風景が、そしてそこで学んだ宗教学や哲学が東山魁夷の絵画の精神性を深くしています。1番目の写真は「緑のハイデルベルグ」、1971年です。ライン河の支流ネッカー河のほとりに位置するハイデルベルク。初夏の緑に覆われた山腹の古城はドイツ・ルネサンスの重厚な面影と典雅な趣をあわ...「心に残る東山魁夷の「『馬車よ、ゆっくり走れ』」
旧懐の情とは不思議なもので若い頃留学したドイツの暗い寒い冬のことが人生の折々に思い出されます。そしてドイツの中世の「遍歴徒弟の文化」を想像します。留学は遍歴しながら学問を身につける旅なのです。ドイツ語でシュティデーエン・ライゼと言いますが、その言葉はロマンと修行の厳しさ、そしてドイツの暗い冬の寒さを連想させます。ドイツは独特な文化を持っています。伝統を大事にし静かな思考を大切にします。街を歩くドイツ人は決してイタリア人のように陽気でありません。フランス人のようにお洒落をしません。何時も真面目で堅い雰囲気を持っています。50年前に留学したドイツにはそのような雰囲気が残っていたのです。当時、住んでいたたシュツットガルトやローテンブルグやクラウルシュタールの名前を思い出しただけで旧懐の情で胸が熱くなります。そし...「寒く暗い冬のドイツの思い出」
何度も訪れた上高地です。上高地は神々しい別世界です。険しい山々をバスで根気よく登り、最後の長いトンネルを抜けると、いきなり眼前に穂高の連峰が広がり、大正池と梓川が夢幻のように美し盆地を作っているのです。家内が撮った写真で上高地をご紹介しましょう。1番目の写真は上高地の梓川と河童橋から見た穂高岳です。この河童橋は上高地の中心付近にあります。2番目の写真は上高地の入り口にある大正池です。奥に見えるのは穂高岳です。この写真の左側には焼岳があります。学生の頃の1959年に行ったときは立ち枯れの木が林立していましたがその木々も朽ち果てて、ほんの数本が残っている状態になりました。風景も年を取って変わって行くのです。3番目の写真は田代橋から河童橋の中間にある中の瀬から見た穂高と明神岳です。明神岳は右の色の暗い山です。真...「上高地の夢幻の美」
山梨の甲斐駒の麓に小さな山の家を作りました。1974年に作りました。その小屋を中心としたて上高地や軽井沢や白馬などへ旅行を楽しみました。今日は白馬山麓の白馬東急ホテルと周囲の美しい風景をご紹介いたしたいと思います。我が家の子供達がまだ小さかった頃、信濃大町の奥、木崎湖や青木湖のさらに奥の白馬東急ホテルに数回泊りました。そのホテルはスイスの山岳ホテルのような三角屋根の木造でした。部屋は2階で、縦型の窓がついていました。バルコニーの椅子に座って眺めると、芝生に覆われた広い庭の向こうは森になっています。ヨーロッパの古いホテルのような雰囲気でした。そのホテルから暗い森の中を歩き、崖の道を下るとゴンドラの駅があり八方池まで登れたのです。そ八方池まで登る道からは、八方尾根の向うに広がる白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳、小蓮...「白馬東急ホテルと周囲の美しい風景」
山梨県と長野県の境にある山林の中に小屋を作ったので斐駒岳の写真を長い間撮ってきました。1974年にささやかな小屋を作って以来、そこに行く度に撮り続けています。こんなに長い間写真を撮っていても一向に飽きないのです。それは写真を撮る度に山の様子が違うからなのです。太陽の光の加減、雲の様子、山肌の色合い、周囲の森のたたずまいと、色彩の変化などなどが微妙に違い、毎回写真の様子が異なってくるのです。ここで山の写真を示します。上の写真は大武川をまたいでいる国道20号線の鉄橋の向こう聳える甲斐駒岳です。山の大きさを鉄橋の小ささで強調したつもりです。その上、垂直に見える山の絶壁が麓の建物や鉄橋を押し潰すように立っています。人間の営みの小ささと儚さを感じます。2番目の写真は甲斐駒岳の山頂をズームで撮りました。人間を寄せ付け...「四季おりおりの甲斐駒岳の風景」
山梨の甲斐駒の麓に小さな山の家を作りました。1974年に作りました。もう50余年通った小屋です。色々な出来事が走馬灯のように蘇ります。山小屋のおかげで知り合った人を思い出します。多くの知り合った人が旅立ってしまいました。残ったのは残雪が輝く甲斐駒岳だけです。自然の風景は変わらないのです。今日は山小屋のおかげで出来た友人たちの思い出を少し書いてみたいと思います。山梨県の雑木林の中で一緒に遊んだ人々の思い出です。その雑木林の中で「柳沢清流園管理組合」というものを作りました。、25人くらいのメンバーでした。毎年、夏に懇親会をしていたのです。1番目の写真は甲斐駒岳の写真です。「柳沢清流園管理組合」のある場所は麓の深い森の中です。森が少し平らになっている場所です。木を伐採して別荘地にしたのです。この山林の中ではいろ...「山林の中の友人たちの思い出」
以前に明るい陽光に誘われ湘南の海の写真を撮って来ました。小金井から中央高速で八王子ジャンクションで圏央道に入り茅ケ崎海岸まで約80Kmです。撮って来た茅ケ崎海岸の波の写真をお送りします。湘南海岸は1950年代後半から太陽族が集まって賑わっていました。70歳代、80歳代の人々はご記憶のことと存じます。この太陽族という言葉は石原慎太郎の小説の『太陽の季節』に由来します。この小説に出て来る若者達は葉山で遊びましたが、鎌倉、茅ケ崎、大磯、小田原にかけた湘南海岸を太陽族の海と呼ぶのが普通です。そして湘南海岸は太陽族の海として人気が高まりました。『太陽の季節』は1956年(昭和31年)に、第34回(1955年下半期)芥川賞を受賞しました。この作品は石原の出世作です。ストーリーが倫理性に欠けることで、発表されるや文壇の...「湘南の海の写真」
写真で見る鎌倉の風景をお送り致します。鎌倉は妻が生まれ育った町です。そこで鎌倉の風景を写真でお送り致します。「写真で見る鎌倉の風景」
誰でも自分が生まれた頃の故郷の風景が懐かしいと思います。幼いながら心に焼き付いている光景も沢山あるのが普通です。皆様はそのような昔の故郷の風景をご覧になりたいとお思いではありませんか?幸い最近はインターネットが発達して昔の日本各地の風景が数多く記録されています。ですから根気よく検索して行くと自分が幼少だった昔の風景が見つかるのです。私は昭和11年、1936年に仙台で生まれました。今日は仙台を例にして仙台の戦前、戦後の風景を写真で見たいと思います。昭和という時代は大きな戦争に明け暮れました。そして徹底的な敗戦、続いてアメリカ軍による占領がありました。外国軍による日本全土の占領は歴史上はじめての一大事件です。故郷の仙台に私は昭和11年から昭和35年にアメリカへ留学するまで24年間住んでいました。ですから仙台は...「写真で見る我が故郷、仙台の戦前、戦後の風景」
「写真で比較する130年前と現在の東京、箱根、江の島、そして農村の風景」
130年前の東京、箱根、江の島、そして農村の風景を写真で比較しました。130年前の写真はエドワード・モースが撮影したものです。彼は大森貝塚の発見で有名ですが、それ以上に日本の陶磁器の収集と民具や風景写真の収集でも偉大な功績を上げました。ボストンの近くのセイラムという港町に終生住んでいて、その町にあるピーボディー博物館に収集品を保存し、展示しました。彼の収集品には約130年前の日本の風景写真が数多く含まれています。その風景写真を編集して出版したのが小学館です。それは、「百年前の日本」(1983年11月25日初版発行)という写真集です。撮影時期は1980年(明治13年)から1990年(明治23年)頃と考えられています。1番目の写真は明治時代の都心の遠景です。2番目の写真は現在の都心の遠景です。3番目の写真は芦...「写真で比較する130年前と現在の東京、箱根、江の島、そして農村の風景」
今日のミサの風景の写真です。聖イグナチオ教会のミサの写真をお送り致します。「今日のミサの風景の写真」
聖イグナチオ教会の今日のミサの動画配信は下記にあります。https://ignatius.gr.jp/news/streaming.html〒102-0083東京都千代田区麹町6-5-1中央線(麹町出口)/東京メトロ丸の内線・南北線(赤坂出口)四ツ谷駅下車(徒歩1分上智大学手前)写真は福江島を代表する教会の水ノ浦教会です。鉄川与助による、最大規模の木造教会です。小高い丘の上に建つ荘厳な白亜の聖堂です。「今日のミサの動画配信」
アジア唯一のカトリック教国で、国民の約93%がキリスト教徒であるフィリピンには、スペイン植民地時代に建てられたカトリック教会や大聖堂などが点在しています。1番目の写真はサンアグスチン教会です。マニラで唯一の世界遺産に登録されている歴史的建造物です。1599~1606年に建てられたフィリピン初のスペイン建築様式の教会で、石造りの教会としてはフィリピン最古です2番目の写真はサント・ニーニョ教会です。1565年にスペインの植民者レガスピとウルダネタによって建てられたフィリピン最古の教会です。3番目写真はモロ教会です。モロ教会は、1831年スペイン統治時代に建てられたゴシック様式の美しい教会で、イロイロ市で最も賑わうモロ広場に隣接しています。ピラミッド型をした二つの赤い尖塔がシンボルで、セメントがなかった時代に造...「アジアで唯一のカトリック教国のフィリピン」
「ドイツ原産のドイツスズラン、エーデルワイス、ヤグルマギクなどの写真」
ドイツは多くの美しい花が自生しており、ガーデニングにも人気があります。特に、ドイツスズラン、エーデルワイス、ヤグルマギクなどが有名です。ドイツスズランの南限の自生地は阿蘇市波野です。北海道や本州中部以北の高原にしかないといわれるスズランが自生しているのです。波野の公園には5月中旬頃になると、可憐な5万株のスズランの花が咲き、高原一帯は、甘い香りに包まれるます。4枚の写真にドイツスズラン、エーデルワイス、ヤグルマギク、阿蘇の波野の公園の写真をお送り致します。「ドイツ原産のドイツスズラン、エーデルワイス、ヤグルマギクなどの写真」
娘はドイツの小学校、息子は幼稚園に行っていました。そこでドイツの幼稚園と日本の幼稚園との違いをお送り致します。参考にした資料は下記です。https://www.shinga-farm.com/parenting/germany_kindergarten/さてドイツの教育者フリードリヒ・フレーベル氏は1840年に、最初の「一般的なドイツの幼稚園」をブランケンブルクの緑広がる庭のなかにつくりました。それまでにも「託児」の施設はありましたが、幼児教育を目的とする施設はこれが初めてで、その後現在の幼稚園の形になったのです。フレーベル氏は幼稚園が「子どもの楽園」であるべきとし、「子ども=Kinder」と「庭(楽園)=Garten」を合わせてキンダーガーデンと名付け、その名称は現在も使われています。そして幼稚園の園庭...「幼稚園発祥の国、ドイツの幼稚園と日本との違い」
老境に至って自分の人生を振り返ると、外国への留学で深い影響を受けたことをつくづく思います。6月13日に「遥かなオハイオの思い出、私のアメリカ」という記事を書きました。留学のおかげで私はアメリカが大好きになりました。アメリカ留学は24歳から26歳まででしたが、34歳のとき南ドイツに留学し、今度はドイツにも魅了されました。外国に住むと、その国が好きになってしまうのです。今日は「遥かな南ドイヅの思い出」として二つの思い出を書いてみます。ローテンブルグとシュツットガルトの思い出です。まず初めに私が3ケ月住んでドイツ語を集中的に勉強したローテンブルグの風景写真をご紹介しましょう。1番目の写真はローテンブルグの夜の風景です。写真の出典は、https://beautiful-photo.net/medieval-tow...「遥かな南ドイヅの思い出、私の南ドイツよ!」
仏教は日本文化に深い影響を与えました。その仏教を教えたのはインドの釈迦です。ですから私は長い間インドに強い関心を持っていました。アメリカやドイツで知り合ったインド人は限りなく優しい人でした。私はインド人が好きです。尊敬しています。しかしインドには行ったことがありません。そこで今日はインドの日常風景の写真を見てみたいと思います。写真の出典は、写真家の鈴木圭さんの、「インド人の日常風景が凄すぎる」です。鈴木圭さんはイタリア・ミラノ在住のフリーライターです。彼はインドについて次のように言っています。「ハマる人は何度でも行きたくなる、ダメな人は二度と行きたくないと言う」鈴木圭さんは以下に示す写真には一切の説明をしていません。写真に添えた説明は私自身の勝手な想像です。皆様もご想像しながらご覧ください。1番目の写真は...「仏教を生んだインドの凄すぎる日常風景の写真」
古い都の西安は阿倍仲麻呂が訪問しました。日本人にとっては懐かしい町です。私も行ったことのある懐かしい所です。今日は古都、西安の風景と玄奘三蔵法師にまつわる風景を写真でご紹介いたします。写真は「西安の風景」と「玄奘三蔵法師」を検索して、出て来た数多くの写真から鮮明なものを選びました。1番目の写真は現在の西安に残っている古い城門です。2番目の写真も西安に残っている古い城門の正面です。3番目の写真は西安の旧市街の様子です。4番目の写真は西安の青龍寺にある空海の記念碑です。青龍寺は隋の時代、582年に創建されました。空海は、ここで恵果和尚から密教の教義を学びました。インド、中国、日本と広い地域に流れた悠久の時を考えています。人間の想念は時空を越えるのです。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げ...「写真で見る古都、西安と玄奘三蔵法師」
「中国、韓国、日本の人々が尊敬する玄奘三蔵法師のインドへの旅」
玄奘三蔵法師のことを書いていると元気が出てきます。玄奘三蔵法師はアジア諸国の誇りです。そこで今日もこの三蔵法師のことを書きたいと思います。考えてみると、中国、台湾、韓国そして日本の文化は仏教と儒教の文化です。この佛教をインドから持って来たのが鳩摩羅什(くまらじゅう、344年-413年)と玄奘三蔵法師でした。今日は中国、韓国、日本の人々が共通に尊敬している玄奘三蔵法師の偉業を簡単にご紹介したいと思います。私自身はカトリックですが特に玄奘三蔵法師と弘法大師を敬っています。さて玄奘三蔵法師は唐時代にはるばるインドへ旅をして仏教の全ての教えを持って帰って来たのです。現在、中国、台湾、韓国、日本で読まれているお経のほとんど全ては彼がインドから持ち帰り、漢文に翻訳したものです。そして一部はインドのパーリ語の発音をその...「中国、韓国、日本の人々が尊敬する玄奘三蔵法師のインドへの旅」
仏教のことを書きます。日本人なら誰でも知っていることです。しかし以下に順序だてで書かせて下さい。(1)釈迦の誕生と菩提樹の下で悟りを開いた経緯佛教の開祖は釈迦です。生没年は正確には分かっていません。前565年生まれ、前486年に亡くなったという説と、前465年生まれ、前386年に亡くなったとう説などが有力とされています。釈迦は北インドの一部族の名でした。俗姓をゴータマ、名をシッダルタといい、現在のネパール南部のターライ盆地にあったカピラバスツー城で、シュッドーダナ(浄飯)王を父、マヤ(摩耶)夫人を母として生まれたといいます。国王になるための教育を文武両面で受け、16歳でヤショダラ(耶修陀羅)という女と結婚し、ラーフラという子をもうけましたが、29歳(19歳説も)で出家します。出家した後、11年間にわたって...「インドでの仏教の成立と日本への導入」
マザーテレサは1910年に生まれ、1997年に亡くなりました。日本にも2度来たことがあります。彼女は異なる宗教の壁を超えて、国境を超えて、全ての貧しい人々を慈くしみ、愛したのです。その崇高さは全ての人類に尊敬されています。今日はマザーテレサをヒンズー教のインドが国葬にしたことの意味を考えたいと思います。マザーテレサはカルカッタの路上で死んで行くインド人を死者の家へ連れて来て、大切に世話をして送ったのです。インド人が恩義に思い国葬にしたのです。インドでは国葬は前代未聞で、唯一回だけの国葬でした。葬儀の行列には路上生活者が何十万人と集まって見送ったと言います。そして没後10年目の追悼式ではヒンズー教徒やイスラム教徒、そして路上生活者が同じようにマザーのお墓の周りに集まって心からの感謝の祈りを捧げました。「マザ...「マザーテレサのインドでの国葬」
アジアと西洋の間にインドがあります。行ったことはありませんが、アメリカやドイツで会ったインド人は親切で、私の面倒をよくみてくれました。宗教はヒンズー教が多いようです。日本人の仏教は大ざっぱに言えばヒンズー教の一派となるのか、非常に親しげにいろいろ面倒を見てくれます。長年にわたりインドを植民地として過酷に支配してきた大英帝国へ対して、日本は戦争をしました。その戦争はインドの完全独立に貢献したことは歴史的事実です。第二次大戦後、東京裁判でA級戦犯全員の無罪を主張したのはインド人裁判官ただ独りであった事は忘れられません。その後、ネール首相が愛娘の名をつけたインド象を送ってくれ、敗戦で打ち沈む日本人の心を慰めてくれたのです。インド人のことを教養のあるアメリカ人は尊敬しています。忠誠心や責任感が強く、頭脳明晰な人が...「忘れ得ぬインド人、フェルナンデス君のことなど」
今日の散歩は都立武蔵野公園まででした、写真機を忘れたのでインターネットからお借りした武蔵野公園の風景写真をお送り致します。写真の出典は、https://withbaby.jp/archives/16679です。「今日の散歩は都立武蔵野公園まで」
1980年代は日中友好の時代でした。親しい中国人の友人が出来て何度も中国に行きました。中国は懐かしい国です。いろいろ思い出します。一例として印象深かった頤和園の風景の写真をお送り致します。頤和園は北京都心より北西に約15kmにある万寿山とその南に広がる昆明湖の総称です。12世紀半ばの金代の離宮跡が起源で、荒れ果てたこの地を1750年に、第6代の皇帝乾隆帝(在位1735-1796年)が崇慶皇太后の還暦のお祝いに創建されました。「中国で最も印象深かった頤和園の風景」
「北京の故宮、天壇、大鐘寺、明の13陵、万里の長城などの写真」
北京の故宮は中国を代表する世界遺産です。「故宮」はかつて「紫禁城」と呼ばれていました。世界最大の宮殿です。建設開始は明の時代の1421年に南京から北京へと遷都して作られましました。20世紀の清朝滅亡まで歴代皇帝が暮らす宮殿です。その建築群は「外朝」と「内廷」の2つに分けられます。乾清門を境に南は外朝で北の方は内廷です。太和殿、中和殿、保和殿の3大宮殿を中心にして内廷に乾清宮、交泰殿、坤寧宮などがあります。それでは故宮の写真をお送り致します。写真はインターネット上にある多数の写真から美しい写真を選びました。1番目の写真は北京の中心にある故宮の全体の写真です。2番目の写真は故宮の入口をくぐるとすぐに見える太和門です。太和殿、中和殿、保和殿などは規模壮大で圧倒されます。3番目の写真は故宮の隅櫓です。故宮の中を歩...「北京の故宮、天壇、大鐘寺、明の13陵、万里の長城などの写真」
中国の瀋陽訪問の直後の1981年に、東北工学院の金応培先生を東京の私の研究室へ招んだのです。一年間の研究留学です。金応培先生は中国東北地方に散在している朝鮮族自治区の出身の朝鮮族でした。日本の朝鮮併合のあと、彼の両親が朝鮮を脱出し中国の東北地区へ移住したのです。新しい農村に少し落ち着いたら、今度は満州帝国建国で再び悲劇が起きたのです。日本の武装開拓団が金さん一家の農地を強制的に安く買い上げたのです。戦後は暫くは旧満州の奥地に住んでいましたが、その後は瀋陽に引っ越しました。私が瀋陽の東北工学院を訪問したとき、金さんはその大学で助教授をしていました。私は金応培さんの案内で瀋陽市にあるカトリック教会のミサに出ました。丁度その年にヨハネ・パウロ2世が長崎へ巡礼に来たのです。文化大革命で破壊された教会がまだ復興して...「中国の瀋陽の金応培先生の思い出」
周口店の北京原人遺跡訪問して感動しました。人間は20万年前から火を使って料理していたのです。周口店の北京原人遺跡は北京から南西に50キロほど離れた周口店村の竜骨山の上に、「北京原人遺跡」はあります。1920年代、考古学の世界に激震が走りました。この地で約70万年前から20万年前のものと推定される頭蓋骨が発見されたのです。この発見により、類人猿とは異なる原始人類の存在が明らかとなり、その頭蓋骨は北京原人と名付けられました。また、後に原人の使った石器および火を使った跡も次々と発見されました。北京原人遺跡は人類進化の鍵です。北京原人化石は全部で頭蓋骨6個、骨の砕片12片、下顎骨15個、歯157枚および割れた大腿骨、脛骨、上腕骨などが出土。これらの骨は老若男女約40体のもの。このほか、石器材料10万点、及び火を使...「驚異的な周口店の北京原人遺跡」
中國との付き合いは1981年に始まりました。北京鋼鉄大学の周栄章さんと瀋陽の東北学院大学の金応培さんと親しくなりました。1981年に周栄章さんと2人で一緒に初めて行った北京の北海公園と仿膳飯荘をよく思い出します。今日は海公園と仿膳飯荘をご紹介したいと思います。1981年に周栄章さんと2人だけで北京の北海公園を歩いていました。その先にある仿膳飯荘で北京鋼鉄学院の学長が私の歓迎会をしてくれるというのです。1番目の写真は北京の北海公園の石の回廊です。写真の出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-57.htmです。歓迎会で当時あった「茅台酒(マオタイシュ)」の乾杯の応酬で、私もいささか酔いました。学長さん達に感謝の言葉を述べました。すると学長さんは「あなたは中国を自由に楽...「何故かよく思い出す北海公園の長い回廊と仿膳飯荘」
今日の都立小金井公園の風景です。快晴でした。撮ってきた写真をお送り致します。「今日の都立小金井公園の風景」
昔の武蔵野の森の風景は「武蔵野の森公園」にあります。武蔵野の森公園は2000年4月に開園した新しい公園で、調布飛行場を北と南から挟み込む形で出来ています。公園は北側の地域と南側の地域に分れていて、両地域を結ぶプロムナードと呼ぶ細長い散策路が飛行場の西側にあります。北側地域では子供が遊べる遊びの広場や大芝生広場があり、展望の丘や故郷の丘に上ると広々とした飛行場の滑走路が見渡せます。南側地域には、子供のための野球場やサッカー場などがありスポーツを楽しむ事が出来ます。広々とした気持ちの良い公園です。府中市朝日町・調布市西町・三鷹市大沢にあります。「昔の武蔵野の森の風景」
軽井沢から小諸の懐古園を訪れて、八ヶ岳の清春へ向かってドライブしたのは2015年の5月8日のことでした。雄大な八ヶ岳の山麓を走る国道141号線が佐久穂町にさしかかると、「日本一美しい白樺の群落・・・八千穂高原入口」という看板があります。何故かシラカバ林は私の好きな風景です。若い時から憧れていた風景なのです。その佐久穂町は長野県ですが、県境を越えた山梨県側は北杜市になります。実はその北杜市には清春白樺美術館があり、何度も行った所です。西洋のロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンらの芸術を日本に紹介した白樺派の文学者や画家の作品が展示してあります。八千穂高原に上がってみると見事な白樺林が広がっていたのです。林の奥の奥まで白い幹が見通せるのです。奥深い森です。白樺林は北海道でも見ました。富士山の4合目でも沢山見ま...「日本一美しい八千穂高原の白樺林」
昔、シュツットガルト市に住んでいました。郊外に出るとシュバルトバルト(黒い森)が広がっていました。森の中に散歩道がどこまでも続いていました。よく家族とともに歩いたものです。そのシュバルトバルト(黒い森)の写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。「ドイツのシュバルトバルト(黒い森)の写真」
戦前、戦後に仙台の郊外に育った私は山林の中で一人遊びをしていました。雑木林を抜けると亭々と聳える赤松の林があり、何故かいつもトンビが舞っていたのです。その鳴き声が今でも耳に残っています。私は樹木に憧れ、樹木を友にし、樹木を尊敬していたのです。中年になって少し心の余裕が出来たころ、山林の中に小さな小屋を建てました。山梨県北杜市の甲斐駒岳の山麓に広がる深い、深い森の中です。どんなに深い森かを示すために写真にその小屋の窓から撮った森の写真を示します。1番目の写真は私の山小屋の窓の西側の林の風景です。東側には庭があり小川が流れています。西側の窓の外の自然林を眺めながらビールをゆっくり飲みます。夕方から次第に暮れて行く山林の呼吸を感じます。鬱蒼とした自然林の奥には鹿や猪や猿が静かに棲んでいるのです。次の日の朝、小屋...「樹木の美しさに魅了される」
生まれ育った仙台に評定河原という広い場所があります。広瀬川の岸で青葉城跡の下です。私の家があった向山から近いのでよく遊びに行った場所でした。その評定河原は江戸時代に裁判や処刑に使われた河原です。現在は球場と広い陸上競技場になっています。それらの前は、早川智寛(元仙台市長)が作った早川牧場でした。1940年、旧制二高の主催で旧制高校の全国大会が仙台で行われた際には、主要会場になりました。しかし仙台藩の初期には隠れキリシタンも裁判を受け近くの川岸で処刑されました。その後評定所内の処刑場は寛文6年(1666年)に、広瀬河原に近い米ヶ袋的場付近に移り、処刑場は七北田に移りました。現在の七北田橋の南方県道筋の丘の上です。評定河原の写真をお送り致します。1番目の写真は評定河原から見た青葉城跡の山です。左手の山は伊達政...「故郷、仙台の評定河原と隠れキリシタンたち」
東北の雄として勢力伸長めざましい伊達政宗は1610年に江戸屋敷でスペイン人、ルイス・ソテロに会見、ソテロに仙台藩内でのキリスト教布教を認めるとともに、南蛮との通商を計画します。1620年に遣欧使節団として旅に出ていた支倉常長はローマより帰国しますが帰国するなり棄教を命じられます。そしてこの頃より伊達政宗はキリシタンへの寛容政策を改め、領内のキリシタン弾圧を始めます。伊達政宗にも仕え、現在も農業用水として胆沢平野を潤している「寿庵堰」を造った後藤寿庵は転宗を拒み南部藩に身をかくします。同年には秋田城外の久保田刑場にて男性21人、女性11人が火刑に処され、その後も同刑場にて雄勝郡のキリシタン15人を斬首、同じく秋田藩、仙北郡のキリシタン19人(うち子供が4人)を斬首、盛岡では2名が惨殺、1627年には会津藩で...「東北地方で広がるキリスト教」
岩手県奥州市にはクリスチャン武将、後藤寿庵(1577?~1638?)ゆかりの「キリシタンの里」があります。以下にhttps://www.christianpress.jp/sendai-shirayuri-womens-college-christian-pilgrimage-bus-excursion/から後藤寿庵の活躍をご紹介致します。1番目の写真は後藤寿庵ゆかりの里の説明看板です。(写真:仙台白百合女子大学提供)寿庵は洗礼名で、洗礼者ヨハネの意です。長崎でキリシタンとなり、1611年、仙台藩主・伊達政宗の家臣となり、見分村(現岩手県奥州市水沢区福原)に1200石を給されました。開墾するため「寿庵堰」と呼ばれる大規模な用水路を造りました。現在もその跡が残っているそうです。一方、熱心なキリシタン領主であ...「伊達政宗に仕えたクリスチャン武将、後藤寿庵」
午後の散歩は都立武蔵野公園まででした。撮ってきた写真をお送り致します。「今日の都立武蔵野公園の風景」
昔はテレビも無く娯楽と言えばハイキングや海水浴だけでした。そこで海水浴の思い出を書いてみようと思います。戦前戦後の貧しかった時代の夏の楽しみは近くの浜で海水浴をすることだったのです。私の幼い頃は仙台でしたので海水浴と言えば仙台から近い荒浜か菖蒲田浜でした。とにかく夏になると何度も行きました。少し遠方では松島湾の桂島や宮古島へ行ったこともあります。足が焼けるような砂浜を歩いて波打ち際に立つと冷たい透明な海水が足を洗い、心地良いものでした。夏の日の楽しい思い出は人それぞれ沢山あると思います。夏は子供にとっては天国です。夏休みが長いうえに、親たちもお盆のころ休暇をとり、よく家族旅行に行きます。田舎の祖父母の家へ帰省するのが嬉しかったものです。夜になると、現在は無くなりましたが蚊帳というものを吊ります。蚊帳に入っ...「仙台の近くの荒浜、菖蒲田浜、桂島や宮戸島の思い出」
皆様は、無性に故郷のことが懐かしくなることがありませんか?私は時々そうなります。それで我が故郷、仙台の思い出を書きたいと思います。まず仙台の写真を示します。私は仙台で昭和11年に生まれ24歳で離れる迄住んでいました。私が昔よく遊んだ八木山や青葉城跡の写真を示します。懐かしい場所の風景写真です。1番目の写真は青葉城跡の高台から見た現在の仙台です。2番目の写真は仙台の開祖の伊達政宗の騎馬像でしす。青葉城を作り終生そこに住み仙台藩を統治していました。3番目の写真は青葉城の裏にある吊り橋です。仙台の観光名所です。この吊り橋を渡った先は八木山になります。そこにはむ昔、八木山球場がありベーブ・ルースが来てホームランを打った歴史があります。昭和9年11月9日のことです。ベーブ・ルースやルー・ゲーリックをまじえた米大リー...「『青葉城恋い歌』の仙台の懐かしい写真」
老境にいたって遥かに思い出すのは松島の風景です。その松島は生まれ育った仙台のそばなので何度も遊びに行きました。松島は日本三景の一つで風景が美しい海に松が生えている島々が点在しているのです、この松島の海で仙台一高に通っていた頃に、カッターやスライデイングやフィックスを漕いだのです。スライデイングとは座席が前後に動く競走用のボートで、フィックスは座席が動きません。私にとって懐かしい松島の風景の写真をお送り致します。写真は、「松島の風景の写真」を検索してネット上からお借りしました。松島湾は仙台湾の中央にあります。多島海です。このうち松島湾南西部は塩竈湾です。松島の地形は宮城県の中央部にある松島丘陵の東端が海にまで達し、それが沈水して出来たリアス式海岸です。沈降地形で谷に海水が入り込んで出来たのえです。そのうち松...「老境にいたって遥かに思い出すのは松島の風景」
今日はインターネットを通して広島のカトリック曙町教会のミサにあずかりました。ミサの風景写真をお送りいたします。「今日は広島のカトリック曙町教会のミサにあずかりました」
戴渓堂(たいけいどう)には日本に書法・篆刻を伝えた独立性易禅師を祀っています。独立禅師は、隠元隆琦禅師と共に第4代将軍徳川家綱謁見のため、長崎から江戸に随行しました。当時の老中松平信綱は独立禅師を厚遇しました。戴渓堂の写真をお送り致します。「心惹かれる平林寺の中にある戴渓堂の写真」
平林寺は埼玉県の新座市にあります。平林寺は埼玉県、新座市の市役所の向かい側にあります。その付近の風景をご紹介いたします。1番目の写真は平林寺の付近にある武蔵野の森です。農地が広がり、その向こうに森があるのです。野火止用水のある平林寺界隈には昔ながらの武蔵野の森があちこちにあります。2番目の写真は平林寺の表門です。道の左右には巨大なケヤキが繁っています。3番目の写真は平林寺の東側にある南北の道路です。道の両側が森になっています。この通リの右奥に新座市の市役所があります。4番目の写真葉は平林寺の仏堂です。平林寺は南北朝の時代の1375年に大田備中守によって同じ埼玉県の岩槻に創建されました。そして1663年に松平伊豆守信綱の遺児、輝綱によって現在地へ移築されたお寺です。この平林寺は禅の修業で有名なのです。その境...「平林寺がある武蔵野の野火止の風景」
以前に平林寺の新緑の雑木林の中を散歩したことがあります。その折に家内が撮った写真をお送り致します。「平林寺の新緑の雑木林の中を歩く」
祖父は兵庫県のお寺の住職でした。毎年そのお寺へ泊りに行きました。そんな思い出があるので私はお寺の中を散歩するのが大好きです。仏教のお寺が好きなのです。お寺へ行くと必ず山門の前の説明版を丁寧に読みます。その文章を読むと心地良いのです。寺の謂れ因縁が分かります。境内を散歩しながら本堂のご本尊さまへ遠くから合掌します。そして墓地の方を見ます。そのお寺の仏教に対する考え方がそこはかとなく分かるのです。お釈迦様は死んだら遺骨を野に捨てよと言って亡くなりました。お墓を作ってはいけないのです。しかし弱い人間はお墓を作ってしまいます。その墓の作り方や保存の仕方でお寺の仏教に対する精神が判かるのです。有名な権力者のお墓が沢山あるお寺はいけません。無名の人々の無縁仏の墓を大切にしているお寺が大好きです。幸せな気分になります。...「禅僧の無縁仏の墓のあるお寺の風景」
曇りで肌寒い風が吹いていました。撮ってきた写真をお送り致します。「今日の小金井公園の風景」
曇りで肌寒い風が吹いていました。撮ってきた写真をお送り致します。「今日の小金井公園の風景」
都会に住んでいると野生動物には滅多に会いません。しかし山に行くといろいろな野生動物に会います。そして私は山梨の山林の中の小屋に何十年も通っているのでいろいろな野生動物に会っています。キツネ、シカ、サル、カモシカなどに会っています。今日は折にふれて会ったろいろな野生動物たちをご紹介したいと思います。それは日本には豊かな自然がある証です。山々には野生動物がたくさん棲んでいるのです。私の甲斐駒山麓の山林の中の小屋には野生の狐、鹿、猿が時々やって来ます。人を怖がらず少し遊んでから山林の中へ帰っていきます。まずそんな野生の狐、鹿、猿、カモシカの写真をお送り致します。自分で撮った写真です。1番目の写真は山林の中の小屋に遊びに来たキツネです。人間が珍しいのか私のそばに寄って来て私をしげしげ観察して林の中へ帰って行きまし...「山林の中に棲む野生たちに会った時の写真」
甲斐駒岳の麓の山林の中に独りで何十年も住んでいる友人がいました。木内正夫さんという方です。視力が弱くなる眼病になってインターネットへの書き込みが出来なくなりました。そのせいで10年以上毎日のように更新してきたブログを止めることにしました。彼の最後の記事です。・・・「さようなら」眼の状態が思わしくなく、ブログの記事さえ満足に読めなくなり皆様のブログにも訪問がむずかしくなりました。本日をもって終わりにします。・・・今まで応援していただき感謝しています。コメント欄は開けておきますが返信は出来ません。ブログは人生の記録として残しておきます。さようなら。・・・・詳しくは、http://sizen068.blog95.fc2.com/にあります。このブログは今でも見ることが出来ます。1番目の写真は木内正夫さんです。今...「モリアオガエルと木内正夫さんの思い出」
曇り日で写真は鮮明ではありませんが撮ってきた写真をお送り致します。「今日の都立小金井公園の風景です」
日常生活から完全に離れた世界に遊ぶ趣味の一つにヨットの趣味があります。この趣味の世界に入った場所が三浦半島の相模湾沿いにある葉山マリーナでした。懐かしくなりそのマリーナを訪れてヨットの写真を撮りました。それが下にある2枚の写真です。この写真はヨットの舵を下から見上げたものです。この形を見て私の胸が早鐘を打つように鳴るのです。この舵をグイと切ってヨットが急旋回している時の体感を思い出して興奮するのです。大きな舵は海の中に深く伸びています。少しでも重心を低くして、ヨットの姿勢を良く保つために考え抜いた形になっています。機能美です。これはヨットの船尾から見上げた写真です。船尾からマストの天辺に張ったバック・ステイの傾きに合わせて船尾を切っています。ですから美しく見えます。ついでに船体の右舷からマストの天辺に張ら...「ヨットの趣味を楽しく思い出す」
2009年の5月2日のセイリングです。東京ベイヨットクラブのハンスクリスチャン43、Bambino号でHoota船長指揮のもと、若い女性2名を含めた総勢6人で4時間程、烈風の中を豪快なセイリングを楽しんで来ました。その時の写真です。「烈風の駿河湾での豪快なセイリングの写真」
2011年の10月29日にTadnobleという方へ愛艇を譲りわたし、いさぎよくヨットを止めました。26年間にわたりヨットの趣味を楽しみました。その間、本当にいろいろな方々にお世話になり、助けられ、なんとか海に落ちることも無く終える事が出来たのです。ヨットを通しての友人達と、もうお会いすることもありません。お別れの手紙を送りたいと思いますが、今日はある一人の方への手紙を書きました。Hootaさんという方です。3年ほど前に彼の艇を訪問し、一晩ビールを飲みました。それから駿河湾で素晴らしい帆走に誘ってくれた方です。Hootaさんは、北欧風の大型艇、Bambinoで東京湾や伊豆七島周辺を帆走している方です。そのBambino号は千葉県の保田港を母港にしていました。遠路を車で行き、やっとたどり着きました。春の暖か...「ヨットの友人へ送る惜別の手紙」
私は50歳で江の島の小型ヨットスクールへ通い、53歳の時、琵琶湖へ行ってヤマハ19という中古のクルーザーを初めて購入しました。長さが5m90cmの小さなクルーザーで操船が簡単そうでした。そのヨットを水郷汽船(株)経営の霞ヶ浦マリーナへ陸送しました。ヨットをクレーンで吊って水に入れてくれたのがマリーナの佐藤敏郎さんです。それ以来、23年間、2012年の秋にヨットを止めるまで佐藤さんにお世話になったのです。優しい性格でいつも笑顔を絶やさずヨットの修理の仕方や扱い方を根気よく教えてくれました。ヨットをあけび号と命名し、家内とよくセイリングしたものです。1番目の写真はその時霞ヶ浦に浮かべたヤマハ19という中古のクルーザーの様子です。2番目の写真は陸揚げした「あけび号」です。この「あけび号」は霞ヶ浦で10年間乗りま...「25年間のヨットの趣味を振り返って」
私の人生はかなり貧乏でした。しかしたった一つだけ少し贅沢な趣味を持っていました。それは山林の中に小屋を作り泊りに行く趣味でした。山林の中には人がいません。雑念がわきません。あるのは林をかける風の音だけです。気持ちが純粋になるのです。素晴らしい趣味でした。車の運転免許を返上したのでもう行けません。時々懐かしく思い出すだけです。今日も思い出したので山林の中の小屋の写真をお送り致します。「生涯の良い思い出は山林の中の小屋のこと」
スーパーマーケットを始めて見たのは1960年のアメリカででした。当時の日本ではスーパーマーケットが無かったのです。貧しげな小売店しか無かったのです。1960年にオハイオに留学したら近所にビッグ・ベアという大きなスーパーマーケットがあったのす。美しい商品がところ狭しと豪華に並んでいるのです。店内は広々として美しいのです。写真はアメリカのスーパーマーケットの一例です。ビッグ・ベアの豪華さを見て考えこみました。こんな豊かな国と戦争をして」勝てるわけがありません。真珠湾攻撃は無謀でした。負けるために戦争をしたようなものです。当時の日本の指導者達は無謀でした。留学さきのオハイオの大学の教育にも驚きました。高度なことでなく金属工学の必要不可欠のことを徹底的に教えるのです。その為に数多くの宿題と試験があるのです。数多く...「はじめてアメリカでスーパーを見た時の驚きと感動」
紀伊國屋には楽しい思い出が沢山あります。何度も行ったのが新宿の書籍専門店や小金井と国立の食品スーパーなどです。商品がしゃれていて店の雰囲気がチョット高級なのです。良い商店は文化です。その国の文化を高く支えているのです。日本のスーパーを観察すると日本の文化レベルが分かります。終戦直後の店に比べると日本の店が清潔で綺麗になったことに感動します。写真はスーパーの紀伊國屋の一例です。「楽しい思い出のある紀伊國屋」
「時代はドンドン変わる、年を取ると年月の流れが一層早くなる」
年を取ると年月の流れが一層早くなります。そして時代はドンドン変って行きます。いろいろな変化で実感します。昨日はスーパーマーケットへ行って買い物をしました。その規模が大きいのです。品物が美しく並んでいます。床がピカピカ輝いています。思い返すとこんなスーパーは昔ありませんでした。1962年に仙台を出て留学するまではスーパーマーケットというものは知りませんでした。アメリカで初めてスーパーマーケットを見て驚いたことを思い出しました。アメリカの豊さを実感しました。これでは戦争に負けるとつくずく思いました。こんな国と戦争をする愚かさに心が暗くなりました。昨日撮ったスーパーマーケットの写真をお送り致します。昨日は日本のスーパーマーケットに感動しました。そこでスーパーマーケットの歴史を調べました。日本へは何時頃出来たかを...「時代はドンドン変わる、年を取ると年月の流れが一層早くなる」
「クラーク博士とBoys, be ambitious like this old man」
「この老いた私のように、あなたたち若い人も野心的であれ」という意味です。札幌農学校におけるクラークの立場は教頭で、名目上は別に校長がいたが、クラークの職名は英語で「President(校長)」と表記することが開拓使によって許可され、実質的にはクラークが校内の全てを取り仕切っていた。クラークは自ら模範となり、学生を鼓舞、激励するだけでなく、マサチューセッツ農科大学の教え子から生え抜きを後継者に据えて規律及び諸活動に厳格かつ高度な標準を作り出し、学生の自律的学習を促した。9ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。写真はさっぽろ羊ヶ丘展望台のクラーク像です。「クラーク博士とBoys,beambitiouslikethisoldman」
北海道の魅力は本州に無い広々とした平原の風景です。緑の牧場です。そこで今日はそんな風景をご紹介したいと思います。まず写真をお送り致します。1番目の写真は長万部町の静狩の牧草地の平原の風景です。丸加高原を入り口付近から見た風景です。ここの平原には「牛」「馬」「羊」が放牧されているそうです。写真の出典は、http://15.pro.tok2.com/~satoubin/index.htmです。2番目の写真は北海道の稲作地の平原です。北海道は現在日本一の米の産地です。水田の背景に平原が美しく広がっています。写真の出典は、http://15.pro.tok2.com/~satoubin/index.htmです。3番目の写真は北海道の牧場です。ホルシュタイン種の牛がのんびりと草を食んでいます。4番目の写真は平原に咲...「北海道の広い平原と緑の牧場」
昔から私は鮭が川を遡上する光景に憧れていました。その光景を想像するとロマンティックな気になります。鮭の遡上の光景を見たいという夢は北海道への旅でかないました。北海道の東部の中標津町の「サーモン科学館」で鮭の遡上を見たのです。今日は北海道のサーモン科学館をご紹介したいと思います。北海道の東の中標津空港から国道を真っ直ぐ東へ走って、太平洋に抜けたところに標津町という町があります。その町に流れる標津川は毎年30万匹の鮭や鱒が遡上することで有名です。その量は日本一とも言われています。標津町は鮭漁からの収入で立派な「サーモン科学館」を作り、遡上する鮭や鱒を観光客へそのまま見せる魚道を作りました。標津川から魚道を「サーモン科学館」の中へ導き、そしてその側面をガラスにした施設です。お客はその日に海から標津川へ遡上してし...「北海道の標津川の鮭の遡上」
仕事をしていた間は外国に憧れて、住んでいたこともありました。しかし引退してからは外国へ行かなくなりました。そして国内のいろいろな所へ行きました。その中から特に印象深かった辺境の地への旅日記をお送り致したいと思います。今日は北海道の東の端の野付湾を囲む細い半島への旅日記です。その細い半島の内側にトドマツやナラの木々が立ち枯れになっている風景があるのです。あまり観光客も行かない辺境の地です。北海道東部の川湯に連泊しながら、レンタカーを根気良く運転しての2012年9月に行きました。その川湯から50kmくらい東へ行くと、多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)があります。その南30kmくらいの所に幅が数十メートルから数百メートルしか無い砂洲で出来た野付半島が、湾曲しながら26kmも伸び野付湾を囲んでいます。そ...「はるか遠くへのトドワラやナラワラを辿る旅」
最近は毎日太陽が明るく輝いています。春なのです。以前は鎌倉へもよく行きました。今日は鎌倉の海岸に出てのんびりと海を眺めて過ごしたことを思い出しました。鎌倉は家内が生まれ育った地です。砂浜は由比ヶ浜と材木座の浜が続いていて相模湾へ向かって大きく広がっています。春の鎌倉です。波が陽の光に輝いています。時折、沖の方をウインド・サーフィンを楽しむ若者がゆっくり横切って行きます。陽光が射す昼間は鎌倉の海は意外に暖かいのです。時間がゆっくり流れ、老境の静かな一日が過ごせます。その浜辺の風景を撮った写真を示します。もう一枚の写真に砂浜を眺めをお送り致します。後ろ姿は走っている家内です。昔は鎌倉から江の島までは文字通り白砂青松だけの砂浜が続いていたそうです。そんなことを思い出しながら今日も老境の一日が静かに流れて行きます...「春の鎌倉の海と砂浜の輝き」
写真は鎌倉の報国寺の竹林です。飛鳥時代や奈良時代に日本に入って来た仏教は天皇や貴族のための佛教であり、「護国安泰」の目的で保護されました。従って一般民衆の救済は重要視されていません。ただ空海、すなはち弘法大師だけは天皇、貴族だけでなく民衆の救済のための行脚をしたことで有名です。しかし鎌倉時代になると仏教は武士や民衆の魂の救済を重視するようになります。教義も非常に簡単になり、例えば南無阿弥陀佛と念仏を唱えるだけで極楽に行けるという宗派も出てきたのです。この新しい仏教への変革を鎌倉時代の仏教改革と言います。このような仏教改革を受けて、鎌倉のお寺は建長寺と円覚寺の二つ以外のお寺は規模が小さくて質素なたたずまいです。天皇や貴族の保護を受けた京都の寺のように華やかでありません。静かな小さいお寺が沢山あるのです。私は...「鎌倉時代の仏教改革と鎌倉五山とは?」
鎌倉はいろいろな意味で確かに魅力ある町です。観光客が絶えません。しかし私にとって鎌倉は特別な意味があります。家内が生まれ、そこで終戦の年まで育った場所でした。終戦時は国民学校2年生でした。家内は結婚以来何度も、何度も鎌倉での楽しい思い出を話します。家内の話を聞いてから、私も彼女の昔の家の近所を何度か散歩しました。そして鎌倉の中をいろいろ歩き回りました。家内が鎌倉生まれで小学校まで住んでいた処は長谷寺の近くで現在の鎌倉文学館の下でした。幼稚園は六地蔵の傍にあった聖母幼稚園へ行っていたそうです。その幼稚園を探したら名前は変わっていましたがありました。通っていた小学校は御成小学校です。現在も当時のままの門がありましたので写真を撮りました。1番目の写真は御成小学校の門です。御成小学校は海蔵寺や寿福寺に行く途中にあ...「鎌倉で妻が通った小学校とお寺の写真」
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庭の花の写真です。10年以上前に潮来から買って来たアヤメが今年も咲きました。他の花の写真も含めてお送り致します。「庭の花の写真」
今日の小金井公園の風景です。小金井公園は東西に2kmあります。今日行った場所は西の端の部分です。撮ってきた写真をお送り致します。「今日の小金井公園の風景」
毎年、お盆のころになると日本のあちこちで灯篭流しや精霊流しがあります。この世を去ってしまった家族や友人の魂を弔うのです。あの世で平安に暮らしていることを祈るのです。そして故人があの世から暗い水面をゆらゆら揺れて流れてていく灯を見て慰められるのです。それは日本の夏の美しい風物詩です。そんな光景を下の写真で示します。真は灯篭流しと精霊流しの画像検索によって転載させて頂きました。1番目の写真は長崎と佐賀県の一部で作られる精霊船を町中を引いて海辺に運んでいる様子です。2番目の写真は佐世保市の灯篭流しです。3番目の写真は曹洞宗本山、永平寺の灯篭流しです。4番目の写真は灯篭流しと精霊流しの画像検索によって転載させて頂きました。それはそれとして、毎年、実際に灯篭流しをしている人はそんなに多くありません。テレビや新聞で灯...「灯篭流し、精霊流しは夏の美しい風物詩」
我が故郷、仙台の広瀬川の灯篭流しは江戸時代から引き続き灯ろう流しは行われ、昭和に入ると花火大会も同時に開催されるなど、「夏の終わりを告げるの風物詩」として親しまれるようになりました。仙台市内有数の夏祭りです。その風景写真をお送り致します。「我が故郷、仙台の広瀬川の灯篭流し」
今年も7月になるとお盆が来て各地で精霊流しをします。お盆の期間は、8月13日~16日の4日間(8月盆)が一般的ですが、東京をはじめとする一部地域では、7月13日~16日の4日間(7月盆)で行われます。また、東京の多摩地区では7月31日〜8月2日に行う場合もあります。お盆には、お盆提灯やキュウリ・ナスで作った牛馬など、お盆独自のお飾りをして故人様をおもてなしする風習があります。ご自宅の玄関先・庭先やお墓などの場所で「迎え火」を焚き、ご先祖様の霊をお迎えします。迎え火と同様にお盆が終わると、玄関先・庭先やお墓などの場所で「送り火」を焚き、ご先祖様の霊をお見送りします。そしてお盆の風物詩は「精霊流し」です。有名なのは長崎の江迎千灯籠祭りです。毎年8月23日と24日に行われる祭りです。3000個以上の灯籠で飾られ...「今年もお盆が来て精霊流しをします」
家内の夏の思い出と言えばまず由比ヶ浜での海水浴、親類の若者が大勢泊りに来て砂浜にビーチパラソルを立てて、水浴びしたり海の家で食事やかき氷を食べたり小屋掛けの射的・ボットル落としや楽焼をした楽しい思い出をよく話しています。戦争末期に群馬県の下仁田町に疎開したのですがそこでも楽しい思い出が沢山あるようです。本来楽天的というか人懐こく物おじしない性格なので山あいの生活や小学校にすぐ慣れて、友達とカブラ川へ水浴びに行き、帰りに河原の桑の実を食べるのがとても楽しかったそうです。ママのお土産にしようとポケット一杯摘んで帰ったら白いワンピースのポケットが真っ赤に染まってしまったそうです。川の上流の浅瀬でバチャバチャしていたら流されて大渕という深みまで行って溺れていたら、大岩の上にいた3歳上の姉が飛び込んで救ってくれた。...「家内の夏の思い出」
1945年の7月10日にB29の空襲があり仙台はすっかり焼け野原になってしまいました。そしてB29の焼夷弾空襲によってし全国の200市町村が焼け野原になってしまったのです。まず東京大空襲の写真をお送りいたします。東京大空襲は1945年(昭和20年)3月10日のアメリカ空軍による夜間空襲でした。その7枚の写真をお送り致します。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2です。1番目の写真は東京を空襲しているB-29爆撃機です。多量の焼夷弾を落としています。2番目の写真は1945年1月27日の空襲で数寄屋橋上を逃げ惑う親子です。この日の爆撃の主目標は郊外にあった中島飛行機武蔵製作所でしたが、...「夏の思い出はB29の空襲と焼け野原の光景」
夏の思い出は我が故郷仙台の七夕祭りもあります。仙台の七夕まつりは、江戸時代に仙台藩祖・伊達政宗公が婦女子の文化向上を奨励するために始めたのが由来とされており、以来仙台の伝統行事として民衆に広まり現在に至ります。故郷の仙台の七夕祭りは毎年、8月6日、7日、8日と開催されます。夏が来ると思い出します。毎年、幼少の頃から七夕飾りを見に行った東一番丁や大町通りの光景を思い出すのです。結婚して東京に住むようになってからも毎年、家内や子供連れで仙台の七夕飾りを見に帰りました。父母が健在だったあいだは毎年仙台に帰省していました。ですから七夕飾りは私の故郷の光景として心の中に焼き付いています。それではその七夕飾りが夏風に揺れている写真をお送りいたします。1番目の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co....「夏の思い出は我が故郷仙台の七夕祭り」
何故か知りませんが夏が来るとしきりに思い出すのが幼い頃の光景です。昔の茶の間、花火遊び、夜店、金魚売り、海水浴などの光景です。私の幼い頃は戦前、戦後にまたがっていました。エアコンは勿論、電気冷蔵庫も無い時代でしたので暑かったに違いありませんが、不思議に暑くて困ったという記憶がないのです。当時の茶の間には柱時計、茶箪笥、ちゃぶ台がありました。テレビはありませんでした。夜になると「ちゃぶ台」をかたずけ、蚊帳を吊り、布団を敷いて寝ます。当時は網戸が無いので、寝ていると迷ったセミやハンミョウなどが開け放した廊下から飛び込んで来ます。寝る前には近所の子供たちとよく花火遊びをしたものです。1番目の写真は子供たちの花火遊びの写真です。この写真の出典は、http://www.kobe-np.co.jp/news/shak...「夏の思い出は花火、金魚売、海水浴」
小屋は山梨県の西端の甲斐駒岳の麓にあります。その付近の新緑の写真をお送り致します。写真は2008年の5月に撮りました。なお2枚目の写真には家内と息子と幼い頃の3人の孫がが写っています。左の白服が家内で右端が小学校野球部の一番上の孫です。黒服の男が息子で傍にちいさい二人の下の孫が写っています。17年前は3人の孫も児童でした。一番上の孫は父親になりました。時の流れは早いものです。3番目の写真は山林の中の小屋の前の小川に手作りしたヤマメの魚道です。「山林の中の小屋の近くの新緑の写真」
東京の街街には一種独特な雰囲気がまとわり着いているところが多く有ります。江戸時代の屋台が連なったような浅草の仲見世通り、寅さん映画で有名な柴又の帝釈天の参道、昭和のモダンな雰囲気が漂う日本橋三越界隈、新宿駅東口から中村屋、紀伊国屋書店、伊勢丹へと続くなにか懐かしい雰囲気の通り、そして原宿や竹下通りの気楽な若者の群れる町。それぞれ独特の雰囲気があります。そして新橋駅を出て西側の広場へ出る度に、ああ戦後の雰囲気がまだ残っているなあ、と感じるのです。広場は綺麗に舗装され、向こうに蒸気機関車が飾ってある平凡な広場なのです。何故、終戦後の雰囲気があるのでしょう?そんなことを感じるのは私だけかも知れません。写真を3枚掲載します。ご意見を頂ければ嬉しいです。(終わり)添付の写真は浅草の仲見世通りと戦後の雰囲気が漂う新橋...「戦後の雰囲気が漂う新橋駅前、江戸時代の仲見世通り」
人間は老境になると昔のことが非常に懐かしくなるようです。家内が昔のことより現在や将来のことを考えたらとよく言います。しかし昔の懐かしいものについて今日も書きたいと思います。懐かしい台所、真空管ラジオ、蒸気機関車、市電、小さな連絡船、青函連絡船、などです。まずこれらの写真を示しましょう。1番目の写真は昭和時代の台所です。昭和11年に生まれた私の祖父の兵庫県のお寺の台所はこのようでした。懐かしいです。一方、私の自宅は仙台市にありましたので台所は近代的でした。2番目の写真は真空管のラジオの裏側です。高校生の頃の趣味は真空管のラジオを作ることでした。最後に写真のようなスーパーヘテロダインを作りました。大きな電蓄も作ったもです。3番目の写真は私が中年になるまで東北本線を走っていた蒸気機関車に引かれた列車です。新幹線...「懐かしい台所、真空管ラジオ、蒸気機関車、市電、小さな連絡船、青函連絡船、など」
夏になると若い頃の北アルプス縦走を思い出します。若い頃の登山の思い出です。その北アルプス縦走の思い出を写真に従ってお送り致します。しかし私は当時写真機を持っていなかったので、インターネットからお借りしました。さて縦走は大糸線の穂高駅から中房温泉への登高から始まりました。そこに一泊して燕岳、大天井、西岳、槍の肩の小屋で一泊し、南岳、キレット渡り、北穂高、涸沢、横尾と歩いて上高地に降りて来ました。歩いた行程は全部で2泊3日の山歩きでした。毎日10時間ほど歩きました。写真で説明します。1番目の写真は中房温泉から1時間ほど登ると突然見える燕岳です。この地点から槍ヶ岳を遥かに見ながら縦走路を行くのです。2番目の写真は燕岳と大天井岳の間の尾根から見える槍ガ岳です。まだ遠方です。3番目の写真は大天井岳の肩を回りこみ近く...「夏になると思い出す北アルプス縦走」
今日は爽快な白帆漁の写真をお送りいたします。お楽しみ頂ければ大変嬉しく思います。以前の夏、霞ヶ浦で撮影したものです。土浦観光協会で検索し観光のために出漁する日時をお確かめの上、お出かけ下さい。見物は観光船、ホワイトアイリスに乗船して船上から見るのが良いと思います。今日も皆様のご健康と平和を心からお祈り申し上げます。藤山杜人幅の広い大きな網を船の横に入れ、船の長さいっぱいの巨大な白帆で網をゆっくり引いて行きます。数キロメートルも引いて行きます。ワカサギを取っていますが、10月になると透明な白魚をとります。霞ヶ浦に江戸時代からあった伝統的な漁法だそうです。ワカサギは佃煮にします。沖宿でも売っていますが、土浦駅ビル地下食品売り場の小魚佃煮専門店でも売っています。白魚の生の刺身は蓮田の中の「うなぎの山中」(電話0...「夏の風物詩、霞ヶ浦の伝統的な白帆漁」
このところ湿気が多く暑いですね。間も無く本格的な夏が来るのでしょう。。そのせいか美ヶ原高原美術館の涼しさ、爽快さを思い出します。霧が流れる高原のロマンです。今日は美ヶ原高原美術館をご紹介したいと思います。この美術館は遥かに遠い天空の上の美術館なのです。標高は2004mです。4万坪の屋外展示場に350点あまりの現代造形作品を常設展示しています。1981年6月に、「箱根・彫刻の森美術館」の姉妹館として開館しました。長野県の上田市にあります。この彫刻群を楽しむため一番重要なことは天気予報を注意深くしらべ、寒い雪の日、強風の日、猛暑の日は行かないようにします。私達が訪れたのは2008年の8月5日でした。霧が流れ、幻想的な日でした。高原の丘一面に遊歩道がひろがり世界中の作品が展示されています。すべて野外で鑑賞するた...「夏の風物詩、霧が流れる美ヶ原高原美術館のロマン」
蓮の花の咲く景色は夏の風物詩です。お寺の境内、各地の城のお堀や一面に広がる蓮根畑に咲いています。夏の陽に輝く白い花が風に揺れている光景は心に刻み込まれています。私は霞ヶ浦でヨットをしていたので周囲に広がる蓮根畑の白い花が忘れられません。そして同級生の大泉君と一緒に見た小田原城の堀に咲く花は背景の天守閣の風景とともに忘れません。その上家内と一緒に行った行田の蓮の公園に一面に咲いていた蓮の花には感動したものです。そこで今日はこれら3ケ所の蓮の花の写真をお送り致します。1番目の写真は霞ヶ浦の蓮根畑の写真です。2008年の夏に撮ったものです。2番目の写真は小田原城の堀に咲く蓮の花です。観賞用の花なので種々の色の花が咲いています。出典は、https://www.jalan.net/kankou/spt_14206a...「夏の風物詩、あちこちに蓮の花が咲く風景」
毎日、毎日が曇り日で気が滅入ります。そこで夏の風物詩、ヒマワリの写真をお送りいたします。写真をお楽しみ下さい。写真の出典は、https://jp.zekkeijapan.com/article/index/19/です。1番目の写真は山梨県北杜市の明野の60万本のヒマワリ畑です。背後の山は八ヶ岳です。2番目の写真も明野のヒマワリ畑です。7月下旬から8月いっぱい楽しめます。3番目の写真は北海道の北海道の美馬牛小学校の塔とヒマワリ畑です。美馬牛小学校は美瑛町にあります。4番目の写真はラベンダーの花で有名な富良野の8月のヒマワリ畑です。5番目の写真は北海道の北竜町の150万本のヒマワリ畑です。北竜町は札幌と旭川市のちょうど中間にあります。「夏の風物詩、ヒマワリの写真をお楽しみ下さい」
カトリック信者にとってはローマ法王は親しい存在です。憧れでもあります。写真はバチカンのサンピエトロ大聖堂でミサを司祭しているローマ法王ベネディクト16世です。「ローマ法王の写真」
今日の聖霊降臨の主日ミサのミサの風景です。広島のカトリック曙町教会のミサの風景をお送り致します。「今日の聖霊降臨の主日ミサのミサの風景」
広島のカトリック曙町教会のミサ動画配信https://www.youtube.com/watch?v=eUiw_1FZ0FM第1朗読使徒言行録2章1~11節第2朗読ローマの信徒への手紙8章8~17節福音朗読ヨハネによる福音書14章15~16、23b~26節住所〒730-0016広島県広島市中区幟町4-42TEL082-221-0621守護聖人、被昇天の聖母神父【主任司祭】瀧井英昭神父【助任司祭】星野倫淳神父シスターシスター木村恭子(援助修道会)「今日の聖霊降臨の主日ミサの動画配信」
武蔵野公園までの道すがら撮った写真です。順に真蔵院、小金井市立美術館、昔風の農家の写真です。「今日の散歩道の風景」
初夏の陽に輝く草原の風景です。今日は初夏の碧い空が広がっています。先程、その写真を撮って来ました。「初夏の陽に輝く草原の風景」
牡丹は花びらを何枚も重ね大輪の花を咲かせます。牡丹の花言葉は「王者の風格」「富貴」「恥じらい」です。原産国の中国では、観賞用の花として牡丹が大人気です。唐代の詩人・白居易は牡丹の人気を「街中の人が狂ったようだ」と記しています。その大きく鮮やかな花姿から、牡丹は「花王」「花神」とも呼ばれ、中国でもっとも格式の高い花とされました。その牡丹の花の写真をお送り致します。写真の出典は、https://news.biglobe.ne.jp/trend/0222/mwk_230222_4045486843.htmlです。「中国人が大好きな牡丹の花」
皆様ご存知のように中国は共産党独裁の国です。ですから民主主義の日本の仮想敵国でしょうか?しかし私はその中国の数人の人と親しく付き合っていました。今日は中国の周恩来、鄧小平、胡耀邦、温家宝などの思い出を書いてみたいと思います。私は1981年に北京と瀋陽に行きました。私を紫禁城(故宮)、頤和園、明の13陵、万里の長城、天壇、北京原人の周口店、瀋陽の清朝の発祥の宮殿、そして文化大革命で荒らされたキリスト教の教会(天主堂)などなどに行きました。西安の大雁塔や玄奘法師の墓のある慈恩寺も行ました。1番目の写真は紫禁城、故宮です。この故宮は多くの日本人も観覧していますので説明は省略します。そして頤和園のいかにも離宮らしいロマンチックな雰囲気に圧倒されました。湖も山上の楼閣も素晴らしいのですが、特に美しい左右の風景を見な...「周恩来、鄧小平、胡耀邦、温家宝などの思い出」
昔の武蔵野にあった農家はそれぞれ屋敷森に囲まれていました。そんな屋敷森に囲れている家が現在の小金井市に数軒あります。今日は北はずれにある屋敷森の写真を撮ってきました。家は森に隠れて写真には写っていません。「昔の武蔵野の屋敷森の写真を撮って来た」
ある時代に繫栄していたが現在はすっかり忘れられている町が沢山あります。時代の変化についていけず寂れてしまうのです。私はそんな町を訪れて繁栄していた頃の様子を偲ぶのが好きです。現在住んでいる人の静かな息づかいが感じられ、しみじみと旅愁を憶えます。そんな町の一例に北海道の松前藩の松前町があります。北海道の南端にあります。以前に独りで旅をした曾遊の地です。今日はこの松前藩の歴史と独り旅の思い出を書いてみたいと思います。松前藩は徳川幕府に正式に認められた北海道唯一の藩でした。慶長九年(1604年)に徳川家康から安堵状が与えられ、蝦夷地の領地権、蝦夷地の交易の独占権を得ます。こうして日本最北の藩、松前藩が成立しました。(town.matsumae.hokkaido.jp)しかし領内に米の生産がないので、幕府の『武鑑...「北海道の魅力(2)松前藩の盛衰と現在の寂しい町の風景」
北海道は魅力溢れる旅先です。特に夏の北海道は暑くなく旅行が快適です。私も何度も旅を楽しみました。北海道には美しい湖や原野が広がっています。今日は美しい洞爺湖と隣接する新しい昭和新山をご紹介します。そして洞爺湖を見下ろすザ・ウインザー・ホテル洞爺をご紹介します。この地は千歳空港から近いので何度も訪れました。さて洞爺湖ですが、この湖は北海道の虻田郡の洞爺湖町にあります。周辺は支笏洞爺国立公園に指定されています。また、「日本百景」や「美しい日本の歩きたくなるみち500選」にも選ばれている美しい湖です。1番目の写真は洞爺湖の全景です。湖の中心に島のある大きなカルデラ湖です。2番目の写真は湖の中心の中島の近景です。島にはエゾシカが棲んでいます。洞爺湖には在来種のアメマス、ウグイ、ヨシノボリ、ハナカジカ等が棲んでいま...「北海道の魅力(1)洞爺湖、昭和新山、ザ・ウインザー・ホテル」
近所の道沿いに咲いているムクゲの花です。道沿いに沢山咲いています。素晴らしい7眺めです。「近所の道沿いに咲いているムクゲの花」
狭い庭にも花々が今年も綺麗に咲きました。家内が世話をしている花々です。「庭に綺麗に咲いた花々」
カトリック松原教会の今日のミサの動画配信は、https://www.youtube.com/watch?v=NQfCUMTgGW8にあります。「カトリック松原教会の今日のミサの動画配信」
今日は広島の教会も東京の教会も動画配信が遅れましたので、先週のイグナチオ教会のミサにあずかりました。その風景の写真をお送り致します。「今日はイグナチオ教会のミサにあずかりました」
旅に出ると時々教会に寄ります。その地方の人々の気持ちが分かるようで楽しいのです。今日は懐かしいカトリック韮崎教会の思い出を書いてみたいと思います。2012年のことでした。山梨県の甲斐駒の麓の小屋へ行く途中にあるカトリク韮崎教会の思い出です。その教会の庭で神父さんらしい若い人が花壇の手入れをしていました。ちょっとお祈りさせて下さいと挨拶をしました。どうぞ、どうぞ。何処からいらっしゃいましたか?東京です。旅先では時々教会による習慣があるものですから。どうぞごゆっくり。下に御堂の中の写真と、信者さん達の集合写真を示します。1番目の写真はカトリック韮崎教会の内部です。中は立派な教会です。机の下のお祈りの冊子を手にとって、主の祈りを唱えました。ついでに信仰宣言も。2番目の写真は窓と窓の間にはイエス様の道行きの彫刻が...「懐かしいカトリック韮崎教会の思い出」
広島のカトリック幟町教会の今日のミの動画配信です。6月9日広島のカトリック幟町教会の今日のミの動画配信です。https://www.youtube.com/watch?v=zSTtJ21fqp4第広島のカトリック幟町教会の住所、広島市中区幟町4番42号原爆犠牲者を追悼し、世界平和の実現を祈念する教会堂です。「広島のカトリック幟町教会の今日のミの動画配信」
我が散歩道は野川沿いの道です。その先に武蔵野公園があるのです。先程撮った写真をお送り致します。「我が散歩道に咲く花々の写真」
武蔵野の面影を保全した都立武蔵野公園で写真を撮って来ました。気分が爽快になりました。「広々とした武蔵野の風景を撮りに行く」
昭和18年10月の神宮外苑での学徒出陣の写真を見る度に涙が出てきます。当時はまだ幼かったので、その映像は戦後の映画やテレビで見ました。何度も見て心に焼き付いてしまったのです。暗い秋雨の降る日です。関東地方の旧制専門学校と大学の文化系の学生が卒業を繰り上げて、死を覚悟で出征するのです。25000人の学生が三八式小銃をかついで行進をします。女子学生を前列に5万人の観衆が学生の出征を送ります。壇上には東条英機首相が前の行進を暗い顔で見降ろしています。行進した25000人の学生のうち何人が無事故郷へ帰ることが出来たのでしょう。1番目の写真は昭和18年10月の神宮外苑での学徒出陣の壮行会です。手前の壇上に立っているのが東条英機首相です。敗戦後、東条英機首相はアメリカによって絞首刑にされました。2番目の写真は出陣する...「夏が来ると思い出す戦争(4)学徒出陣の悲劇」
100年に一度だけ咲くアガベ・ベネズエラの花の写真です。写真の出典は、https://blog.goo.ne.jp/.../f0ef4569be3ef2dd95fe7828385c9e49です。「100年に一度だけ咲くアガベ・ベネズエラの花」
小金井市は北半分がちょっとした高台で南半分が坂下で野川が流れています。今日の散歩は坂を下り野川まで行って来ました。いつもは行かないコースでした。「今日の散歩、坂下の野川まで行って来ました」
戦争というものの無駄と悲劇の大きさを客観的に深く理解するためには敵、味方、双方の立場に立って考えなければなりません。満州事変と満州建国、敗戦、シベリア抑留、引揚にまつわる悲劇を中国と日本の双方の立場にたって考えて見ようと思います。今日は中国人の立場に立ったら満州事変や満州建国をどのように見えるかを書いてみます。勿論、私は日本人ですから、完全に中国人の立場になることは不可能です。しかしその立場になったらどう感じるか想像は出来ます。1931年(昭和6年)満州の瀋陽市郊外で関東軍が起こした鉄道爆破事件、すなわち柳条湖(溝)事件が満州事変の発端になりました。関東軍は短期間で満州全土を占領します。しかし一般には1933年の停戦条約までを満州事変としています。この柳条湖事件を中国人は九一八事変と呼んで学校の教科書で現...「夏が来ると思い出す戦争(3)満州での中国人の悲劇」
フィリピンではキリスト教が全体の90パーセント以上です。そのうちカトリックが約80%、10%がプロテスタントを占めています。そんな国はアジアでは唯一です。フィリピンには、スペイン植民地時代に建てられたカトリック教会や大聖堂などが点在しています。それではフィリピンのカトリック教会の写真をお送り致します。1番目の写真はサンタマリア教会です。1993年に「バロック様式教会群」のひとつとして世界遺産に登録されました。教会全体を包む巨大な赤レンガが印象的で厳かな雰囲気です。2番目の写真はサントニーニョ教会です。1565年にスペインの植民者レガスピとウルダネタによって建てられたフィリピン最古の教会です。3番目の写真はサンアウグスチン教会の内部です。マニラで唯一の世界遺産に登録されている歴史的建造物です。1599~16...「フィリピンのカトリック教会の写真」