夏の奥多摩の風景の写真をお送りいたします。写真の出典は、https://www.town.okutama.tokyo.jp/1/kankosangyoka/kankojoho/2/705.htmlです。「夏の奥多摩の風景」
鎌倉は家内が生まれ育った町まので以前に何度も遊びに行きました。懐かしい町です。懐かしいので写真をお送りいたします。写真はインターネットからお借りしました。「懐かしい鎌倉の風景」
あれは30年くらい前のことです。京都の郊外にある美しい竹林の中の道を歩いたことがあります。見事な竹林でした。その風景に似た写真をお送りいたします。写真はインターネットからお借りしました。「京都の郊外にある美しい竹林の写真」
鎌倉を代表する古刹の報国寺か竹寺として有名です。その写真をお送り致します。出典は、https://www.trip-kamakura.com/article/18726.htmlです。「鎌倉の報国寺の竹林の写真」
鎌倉は妻が生まれ育った町です。妻が懐かしいと言うで何度も行きました。そのうち私の故郷のように感じるようになりました。今日はそんな鎌倉の古刹の静寂の世界をご紹介致したいと思います。鎌倉の古刹めぐりの静寂の世界力を書きたいと思います。鎌倉のお寺は円覚寺と建長寺の二つ以外のお寺は規模が小さくて質素なたたずまいです。京都の寺のように華やかでありません。静かな小さいお寺が沢山あるのです。古刹の静寂の世界です。私はもう50年くらい前の中年になってからその魅力にとりつかれ何度も訪れました。円覚寺と建長寺をはじめ瑞泉寺、明月院、寿福寺、杉本寺、海蔵寺、報国寺、光明寺、などなど20位のお寺には何度も行きました。ある時は鎌倉や逗子や江の島の宿に泊まり、まだ人のいない朝早くから、読経の声が響く境内を散歩したものでした。そして鎌...「古都、鎌倉の古刹の静寂の世界」
鎌倉へはお寺の散策をしに何度も行きました。懐かしい嘗遊の地です。禅宗を主にした鎌倉佛教の栄えた所で寺院は約130ヶ所もあります。しかし京都の寺院に比べて質素で小さいのです。円覚寺と建長寺は大規模で立派ですが他の寺々はささやかな感じです。今日は美しい自然に囲まれた鎌倉のお寺の雰囲気をご紹介したいと思います。鎌倉のお寺の魅力は周囲の自然に溶け込んでいることです。低い山を背景にし緑が豊かで美しいのです。庭も小さいのですが趣があります。写真の出典は、https://kamakura.press/tera/tera-ranking/です。1番目の写真は建長寺の最奥にある「勝上献展望台」からの眺めです。鎌倉の街と海を一望出来る展望台です。建長寺の山門から本堂を通って裏の坂道を根気良く登ると展望台に上がれます。2番目の...「美しい自然に囲まれた鎌倉の質素なお寺の風景」
ドイツの教会はカトリックとエバンゲリッシュで多少違います。エバンゲリッシュとはプロテスタント教会のことです。ドイツのカトリック教会の写真を示します。壮大なケルンの教会等が有名ですが村の小さな教会も紹介します。1番目の写真はローテンブルクのカトリック教会です。私が1969年秋に4ケ月間通った教会です。2番目の写真はウルムの教会です。ドイツの都会にある典型的な教会です。3番目の写真はドイツの都会にある典型的な教会の内部にあるパイプオルガンです。4番目の写真はヴィースの巡礼教会です。南ドイツのどかな田舎の牧場の中にポツリと建つ教会です。南ドイツのコロマン教会です。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)「ドイツのカトリック教会の写真」
今日の日曜日はインターネットを通してカトリック松原教会のミサにあずかりました。ミサの風景の写真をお送り致します。「今日の日曜日のカトリック松原教会のミサの風景」
カトリックとは、キリスト教の教派の一つで、普遍的という意味を持つ言葉です。ローマ教皇を最高指導者として仰ぎ、世界中に広がるキリスト教の最大宗派です。カトリックとは何かを詳しく説明すると。普遍的な教会:カトリック(catholic)という言葉は、ギリシャ語の「katholikos」に由来し、普遍的、全世界的という意味を持ちます。ローマ教皇を頂点とする組織:ローマ教皇を教会の最高指導者として仰ぎ、全世界に広がる教会組織を指します。使徒の伝統:カトリック教会は、イエスの使徒たちに始まる2000年の伝統を受け継ぐ教会とされています。世界的な広がり:世界中に約12億人の信者がおり、各地域には司教区という単位で教会組織が存在します。活動内容:イエス・キリストの教えを伝え、共に祈り、信仰、希望、愛を持って生き...「カトリックとは?」
バチカンの美しきサン・ピエトロ広場の写真です。「バチカンの美しきサン・ピエトロ広場の写真」
今日は日曜日です。ミサの動画配信は下記にあります。https://www.youtube.com/watch?v=PrfDGlDXO0c&list=PLaWhZknor8aL6F0mi1W-VKSGNBSs_RGz5カトリック松原教会〒156-0043東京都世田谷区松原2丁目28番5号TEL.03-3321-0941FAX.03-3321-0009matsubara-church@gray.plala.or.jp「今日の日曜日のミサの動画配信」
カトリック小金井教会のミサの風景写真です。私どもの教会です。司式はイエズス会の竹内修一神父さまがなさり、福音書の朗読は加藤豊主任司祭さまです。ミサの光景の写真をお送りいたします。1番目の写真は福音書の朗読は加藤豊主任司祭さまです。朗読は「マルコによる福音」の13章の24節から32節まででした。2番目の写真は説教をしているイエズス会の竹内修一神父さまです。竹内神父の説教はいつも知的で、しかも分かり易いのです。3番目の写真はミサで、加藤豊主任司祭さまが祈っている場面です。4番目の写真は加藤豊主任司祭さまがパンと葡萄酒はイエスの体と血に変化するように祈っている場面です。5番目の写真はイエスの体に変化したパン片を信者へ配っている場面です。今日は何故、私がカトリック小金井教会の今日のミサの風景写真をご紹介するのかの...「カトリック小金井教会のミサの風景写真」
日本のカトリック教会は、ローマ・カトリック教会の管轄下にあり、16の教区と1つの軍中枢教区に分かれています。教区はそれぞれ特定の地域を担当し、司教が統括しています。また、教会は病院、学校、社会福祉施設なども運営しています。日本で有名なカトリック教会はいくつかありますが、特に有名なのは、長崎の大浦天主堂、東京の聖イグナチオ教会、東京カテドラル聖マリア大聖堂などです。他にも、崎津教会や黒島天主堂、カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)なども人気があります。日本国内には961のカトリック教会、746の修道院があり、これらが41の医療施設、639の社会福祉施設、833の教育施設があります。活動する主な修道会日本国内には891の修道会・修道院がありますが、その中の一部を示します。男子修道会・イエズス会(上智大学、...「現在の日本のカトリック信仰の組織」
五島列島は雄大な景観、美しい浜辺など手つかずの自然がたくさん残っています。島へは長崎から飛行機で約30分、ジェットホイルでも約1時間30分で行けます。遣唐使時代、日本で最後の寄港地となった福江島もあります。遣唐使たちは五島から唐へと命がけで海を渡りました。島内には遣唐使や空海ゆかりの地が点在し、壱岐・対馬とともに「国境の島壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋~」として三井楽、明星院本堂、白石のともづな石が日本遺産に認定されています。そんな五島列島へは以前に家内と旅をしました。懐かしい嘗遊の地です。1番目の写真は福江の海水浴場「浜田海水浴場」です。福江港や五島つばき空港から車で25分程の魚津ヶ崎公園から遊歩道を通って海岸を500mほど歩いたところにあるビーチです。2番目の写真は福江島の風景です。さて五島列島の...「美しい五島列島とカトリック教会」
芭蕉が訪れた平泉の中尊寺金色堂です。金色堂の写真です。出典は、https://hiraizumi.or.jp/heritage/です。「芭蕉が訪れた平泉の中尊寺金色堂」
春古池や蛙飛び込む水の音行く春や鳥啼き魚の目は泪山里は万歳遅し梅の花山路きて何やらゆかしすみれ草草臥れて宿借るころや藤の花しばらくは花の上なる月夜かなほろほろと山吹散るか滝の音花の雲鐘は上野か浅草か梅が香にのつと日の出る山路哉草の戸も住み替はる代ぞ雛の家夏閑さや岩にしみ入る蝉の声五月雨を集めてはやし最上川夏草や兵どもが夢の跡田一枚植えて立ち去る柳かな暑き日を海にいれたり最上川五月雨を降り残してや光堂あらたふと青葉若葉の日の光おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな暫時は滝に籠るや夏の初木啄も庵はやぶらず夏木立雲の峰いくつ崩れて月の山象潟や雨に西施がねぶの花語られぬ湯殿にぬらす袂かな若葉して御目の雫ぬぐはばや世の人の見付けぬ花や軒の栗野を横に馬牽むけよほととぎす蚤虱馬の尿する枕もと秋名月や池をめぐりて夜もすがら菊の...「松尾芭蕉の50の俳句」
栃木県大田原市の現在の臨済宗、雲巌寺の写真です。元禄4年(1691年)4月5日に芭蕉が泊まりました。「芭蕉が泊まった栃木県大田原市の雲巌寺の写真」
江戸時代を代表する俳人松尾芭蕉(1644~1694)が、2度目の江戸入りの後、1677年から3年間住んだ家が芭蕉庵です。当時、旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、工事現場の水番屋に住んでいました。後に芭蕉を慕う人々により「龍隠庵」という家を建てましたが、これが現在の芭蕉庵につながっています。その後焼失し、現在のものは第2次大戦後の建築です。写真は現在の芭蕉庵です。「関口芭蕉庵の写真」
象潟(きさかた)は、秋田県にかほ市象潟地域にあります。現在は陸地だが、かつては潟湖(入り江)で、潟湖に島々が浮かぶ景勝地でした。「東の松島西の象潟」と謳われ、同じく東北地方の景勝地の松島と並び称されていました。象潟の島々は、鳥海山の大規模な山体崩壊及び、その土砂が日本海に流れ込んだことによって生じたもので、いわゆる流れ山地形です。芭蕉は『おくのほそ道』において「松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し」(松島は笑っているようで、象潟は憂愁に沈んでいるようだ)と評しましました。芭蕉は「象潟や雨に西施が合歓(ねぶ)の花」という句を象潟で詠んでいます。『おくのほそ道』の刊行後は、それに影響を受けた文人が多数、象潟を訪れるようになったのです。現在も60ほどの島々が水田地帯に点々と残されており、当時のまま九十九島...「秋田県の象潟のご紹介」
今朝は何故か芭蕉の『奥の細道』を思い出しました。今日は皆さまご存じの『奥の細道』をもう一度読んでみたいと思います。『奥の細道』は、芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に、門人の河合曾良を伴って江戸を発って、奥州、北陸道を巡った紀行文です。全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って、元禄4年(1691年)に江戸に帰った紀行文です。東北各地に点在する歌枕や古跡を訪ねることが、最大の目的の旅でした。さっそく芭蕉の俳句をご紹介いたします。江戸、旅立ち3月27日[21]明け方、採荼庵さいとあんより舟に乗って出立し、千住大橋付近で船を下りて詠む。矢立の初め「行く春や鳥啼なき魚の目は泪」日光4月1日下野国日光(現、栃木県日光市)「あらたふと青葉若葉の日の光」黒...「芭蕉の『奥の細道』を再読」
南米への日本人移民は、19世紀末から20世紀にかけて、主にブラジルやペルーを中心に展開されました。当初は労働力不足を補うための契約移民として渡航しましたが、その後、開拓移民や定住移民へと変化しました。現在では、南米には多くの日系人が居住しており、それぞれの国で社会や文化に貢献しています。南米における日本人移民の歴史です。1,初期の移民:19世紀末から20世紀初頭にかけて、ブラジルやペルーを中心に、日本人移民が本格的に始まりました。2,契約移民から定住移民へ:当初はプランテーションでの労働力として渡航しましたが、その後、土地を開拓して定住する移民が増加しました。3,二世、三世の誕生:移民たちは家族を呼び寄せ、二世、三世と世代を重ねるにつれて、日系社会が形成されていきました。4,戦後の移民:第二次世界大...「南米への移民の歴史」
ベネズエラは南米大陸の北の部分を占める国。首都、カラカスに2週間ほど滞在した。1976年の事だった。裕福な人々は平地の街中に住み、貧しい人々は街を囲む山の斜面に手造りの家々を作り密集して住んでいる。熱帯特有の、あくまでも濃いコバルトブルーの空の下、人々は陽気で、明るく生きている。しかし、貧富の差の大きさと、生活の厳しさに、胸が痛くなる。こんな風景は南米以外には無い。ベネズエラへの人々への追憶は何故か悲しさに満ちている。ホテルの受付で、「キリスト教のミサに行きたいが何処かに教会があるか?」と聞いてみた。受付机のボーイが、「それなら裏にある闘牛場へ、朝7時に行け」と言う。翌朝、早起きをして行ってみた。荒れて崩れかかった巨大な闘牛場の観客席を人々が埋め尽くしている。街の背後の山の貧民街から来た人々であるという。...「南米、カラカスと闘牛場でのミサの思い出」
南米への日本人移民は、19世紀末から20世紀にかけて、主にブラジルやペルーを中心に展開されました。当初は労働力不足を補うための契約移民として渡航しましたが、その後、開拓移民や定住移民へと変化しました。現在では、南米には多くの日系人が居住しており、それぞれの国で社会や文化に貢献しています。(https://www.google.co.jp/search?q=%E5%8D%97%E7%B1%B3%E7%A7%BB%E6%B0%91&btnK=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&sca_esv=db5813506fc066f9&sca_upv=1&source=hp&ei=jrsoZv6oNerl2roPlv6dyA4&iflsig=ANes7DEAAAAAZijJnuDpi0SX6y75d9...「南米への移民の歴史」
南米は多くの民族が暮らす混沌とした大陸です。その様子は昨日の記事、「多民族で構成される南米のインディオとマヤ民族」で説明しました。南米のもう一つの特徴はあちこちに貧民街があることです。南米の貧民街はファヴェーラと言います。ブラジルにおいてスラムや貧民街を指す言葉です。ブラジルの都市の郊外に不法居住者の建てた小屋の並ぶファヴェーラが必ずあります。この都市の貧民街はブラジルに限らず南米中の都市にあります。今日は私自身が足を踏み入れたベネズエラの首都、カラカスのファヴェーラについてご報告いたします。ベネズエラは南米大陸の北の部分を占める大きな国です。その南には広大なブラジルが広がっています。あれは随分昔のことですが、私はこのベネズエラに1976年に、2週間ほど滞在しました。その首都のカラカスで胸が痛む光景を見て...「南米の貧民街に足を踏み入れ、その光景に胸が痛む」
中学、高校時代に水元君という友人がいました。伊達政宗の霊廟のある山の下の霊屋下という名前の町に住んでいました。父は戦死して母と二人で暮らしていました。色白の優しい中学生でした。何度も彼の家に遊びに行きましたが母は働いていて会ったことはありません。水元君のそばに居ると平和な気分になるのです。中学を卒業すると仙台の繁華街にある相沢眼鏡店で働き始めました。私は高校生になりましたが水元君に会う為に相沢眼鏡店へ何度も遊びに行きました。優しい彼を他の店員も大切にしていたらしく私が遊びに行ってもそれとなく歓迎してくれたのです。ある時何時ものように店に遊びに行った私にへ水元君は母と一緒に南米へ移民することにしたと告げたのです。平静な話しぶりに決心の固さが分かりました。彼は悲しそうにもう会えないが元気でねと言います。翌月、...「南米移民にまつわる悲しい思い出と氷川丸物語」
「南米へ移民してしまった水元君と石川達三の『蒼氓』の思い出」
仙台の愛宕中学校に行っていた頃、一人の友人がいました。霊屋下に住んでいた水元君です。何度も彼の家に遊びに行きました。母子家庭で母親は働いていて家には水元君だけが淋しそうにしていました。白っぽい顔で優しい真面目な少年でした。中学校を卒業するとすぐ働き始めました。繁華街の大町通りにあった相沢メガネ店の店員になったのです。私は高校に行きましが、繁華街に行くたびに相沢メガネ店に寄りました。真面目に働く水元君は店の評判も良かったようです。店の人が私を大切にしてくれます。水元君と店の外で数分立話をします。そんな関係が高校の3年まで続きました。最後に会った時、水元君が言います。「僕、こんど母と南米へ移民することにした。君と仙台とお別れだ。何度も店に寄ってくれてありがとう」と。微笑んでいましたが淋しそうでした。それから暫...「南米へ移民してしまった水元君と石川達三の『蒼氓』の思い出」
日本の夏の風景の写真をお送り致します。写真の出典は、https://portfolio-ai.com/original-landscape-of-summerです。「日本の夏の風景」
今日は夏の北海道の思い出をお送り致します。札幌の大通り公園、北大植物園、ポプラ並木、開拓村などの思い出です。まずロマン溢れる札幌です。中心にある大通り公園が四季を通じて楽しい場所なのです。札幌はその広大な大通り公園の回りに高層ビルが美しく並んでいるのです。そばには北海道大学の植物園があり、明治を偲ばせるレンガ建ての道庁があります。花の咲いている百合が原公園や八紘学園花菖蒲園もあります。北海道大学の有名なポプラ並木もロマンチックです。郊外には手稲山ジャンプ台があり眺望絶佳です。さらに北海道開拓村が北海道の開拓の歴史を展示しています。それではこれらの写真を示しましょう。1番目の写真は札幌の百合が原公園です。写真の出典は、https://uu-hokkaido.jp/flower/summer.shtml、悠悠...「夏の思い出、札幌の大通り公園、北大植物園など」
家内の夏の思い出と言えばまず由比ヶ浜での海水浴、親類の若者が大勢泊りに来て砂浜にビーチパラソルを立てて、水浴びしたり海の家で食事やかき氷を食べたり小屋掛けの射的・ボットル落としや楽焼をした楽しい思い出をよく話しています。戦争末期に群馬県の下仁田町に疎開したのですがそこでも楽しい思い出が沢山あるようです。本来楽天的というか人懐こく物おじしない性格なので山あいの生活や小学校にすぐ慣れて、友達とカブラ川へ水浴びに行き、帰りに河原の桑の実を食べるのがとても楽しかったそうです。ママのお土産にしようとポケット一杯摘んで帰ったら白いワンピースのポケットが真っ赤に染まってしまったそうです。川の上流の浅瀬でバチャバチャしていたら流されて大渕という深みまで行って溺れていたら、大岩の上にいた3歳上の姉が飛び込んで救ってくれた。...「家内の夏の思い出、由比ヶ浜での海水浴、下仁田町への疎開」
1945年の8月15日に終戦になりました。ですから夏が来ると思い出すのは日本の敗戦です。私は当時仙台市に住んでいて向山小学校の3年生でした。先生は軍国主義を批判し民主主義を教え始めました。それは日本の歴史の転換でした。軍国主義が急に民主主義になったのです。民主主義の教育はその後の新制中学でも続きました。添付の写真は終戦直後の宮城前の光景、買い出し列車、ヤミ市の写真です。写真の出典は、https://kirigami.hatenablog.jp/entry/70205741です。夏の思い出の光景です。忘れられない光景です。それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りきたします。後藤和弘(藤山杜人)1番目の写真は終戦直後の宮城前の光景です。人々が自分達の努力が足りなくて戦争に負けたことを昭和天皇へ謝って...「夏の思い出、1945年8月の敗戦」
いよいよ暑い夏です。しかし後期高齢者になると暑い夏は苦手になります。昔は夏の暑さに負けずにこの季節を楽しく過ごしたものです。納涼祭りや夜店、そして盆踴りを楽しんだものです。それらは夏の風物詩です。詩情豊かな夏の文化です。今日はこの夏の風物詩を私が撮った写真とともにお送り致します。まず始めは我が町、小金井の納涼祭りと夜店の写真をお送り致します。1番目の写真は小金井の駅前広場の納涼祭りの様子です。2番目の写真は小金井の納涼祭りに浮かれる子供達の様子です。3番目の写真は夜店の風船吊りに夢中になっている子供達の様子です。毎年、毎年、子共たちが何処からともなく沢山集まって嬉々として楽しんでいます。昔は裏の京王商店街に酒屋があり、肉屋、お茶屋、本屋、電気屋、蕎麦屋、2軒の寿司屋、中華そばや、錠前屋、クリーニング屋があ...「夏の思い出、納涼祭り、夜店、風の盆」
日本には各地に四季を通して祭りがあります。神社やお寺さんに関係した宗教色のあるものから宗教とは関係のないものなど沢山あります。特に夏は盆踊りや納涼祭などが加わり一層数多くの祭りがあります。それこそが日本民族の文化の基盤であり、人々を幸せにしている大切なものです。祭りは家族の愛を強め、地域の人々を美しい絆で結びつけきます。夏の夜に遠くから聞こえて来る太鼓の響きや掛け声を聞くと亡くなった祖父母や両親のことを思い出します。一緒に遊んだ友人たちのことを思い出します。懐かしい故郷の昔の風景がよみがえって来ます。夏祭りの一つの例を示します。能登半島の津々浦々のキリコ祭りをご紹介致します。能登は今年の元日に大地震に見舞われ甚大な被害を受けました。亡くなられた人々の魂の安らぎを祈ります。キリコ祭りは能登地方の住民にとって...「夏の風物詩、能登地方のキリコ祭り」
仙台で生まれ育ったので近くの作並温泉によく行きました。岩松旅館の露天風呂は広瀬川の上流に沿った大きな温泉でした。男女混浴でおおらかな雰囲気でした。広瀬川のせせらぎが美しく響きさわやかな風が吹いています。懐かしい作並温泉の露天風呂の写真をお送り致します。写真はインターネットからお借り致しました。「昔入った作並温泉の露天風呂の写真」
蔵王山は奥羽山脈の中にあって宮城県と山形県の県境にあります。火山活動によって出来た山です。仙台で生まれ育った私は何度も蔵王山の樹氷の間でスキーをしたことがあります。当時は仙山線で山形駅に行き、そこからバスで高湯温泉(現在の蔵王温泉)に上がりました。高湯温泉からはスキーを履いてドッコ沼の山小屋に逗留するのです。ドッコ沼の上の懺悔坂から地蔵岳までが樹氷地帯なのです。地蔵からの帰りは急坂の懺悔坂は怖いので、なだらかな大平コースを下ります。夕日を浴びた茜色の樹氷の光景が今でも私の網膜に焼き付いています。あれから茫々60年以上も経ちました。毎年、今頃になると懺悔坂の怖さと夕日の樹氷の姿を思い出します。今日は皆様に蔵王山の美しい樹氷の写真をお楽しみ頂きたいと思います。お送りする写真は「山形蔵王の樹氷写真集」、http...「我が青春の山、蔵王山の思い出」
老境にいたって遥かに思い出すのは松島の風景です。その松島は生まれ育った仙台のそばなので何度も遊びに行きました。松島は日本三景の一つで風景が美しい海に松が生えている島々が点在しているのです、この松島の海で仙台一高に通っていた頃に、カッターやスライデイングやフィックスを漕いだのです。スライデイングとは座席が前後に動く競走用のボートで、フィックスは座席が動きません。私にとって懐かしい松島の風景の写真をお送り致します。写真は、「松島の風景の写真」を検索してネット上からお借りしました。松島湾は仙台湾の中央にあります。多島海です。このうち松島湾の南西部は塩竈湾です。松島の地形は宮城県の中央部にある松島丘陵の東端が海にまで達し、それが沈水して出来たリアス式海岸です。沈降地形で谷に海水が入り込んで出来たのです。そのうち松...「遥かに思い出すのは松島の風景」
夏が来ればいろいろなことを思い出します。その一つに奥松島にある宮戸島のことです。そしてその嵯峨渓の光景です。私の祖父が宮戸島の小学校の校長をしていたご縁で宮戸島に行き来していたのです。70年前のことです。ある夏の日に祖父の教え子が私を小舟に乗せて嵯峨渓を見せてくれたのです。峩々とした白い岸壁が青い波の上に不思議な姿で聳えているのです。少年だった私は何故か不思議な感動をしました。写真を示します。ここに示した写真は「宮戸島の嵯峨渓」を検索してインターネットにある多くの写真から選びました。「嵯峨渓」は日本三大渓の1つとも言われています。さて私の祖父がこの宮戸島の小学校の校長をしていました。その祖父は私が生まれる前に死んだので会ったことの無い祖父でした。祖父が下宿していたのが観音寺というお寺でした。そして観音寺へ...「夏が来れば思い出す宮戸島と嵯峨渓」
奈良にある重要なお寺の風景をお送り致します。1番目の写真は東大寺の大仏(盧舎那仏像)です。国宝である大仏は、世界最大級の銅造の仏像です。高さ約15メートル、顔の幅が3.2メートルあります。巨大さに圧倒されますが、穏やかな表情は癒しを与えてくれます。大仏だけでなく、大仏が安置されている巨大な大仏殿も国宝に指定されています。2番目の写真は薬師寺です。薬師寺は7世紀後半、天武天皇の皇后(後の持統天皇)の病気回復を祈願して発願され、697年に藤原京の地に完成しました。その後、平城京への遷都に伴い、現在の地へ移されました。3番目の写真は金峯山寺(きんぷせんじ)(吉野郡吉野町)です。金峯山寺は、修験道の開祖・役行者によって約1,300年前に開かれました。金峯山修験本宗の総本山として、現在も全国から修験者・山伏が集いま...「奈良にある重要なお寺の風景」
日本にも貴重な文化遺産があります。奈良の唐招提寺や京都の高台寺などなどです。同じように韓国にも素晴らしい世界遺産のお寺があります。韓国の世界遺産の仏国寺や海印寺などのを写真でご紹介いたします。写真の出典は、https://www.travelbook.co.jp/topic/18683です。1番目の写真は韓国の世界遺産の「宗廟」です。お寺です。牌を祀ってあります。朝鮮王朝の歴代王と、そして王妃の位牌を祀っており、神聖な場所として知られています。2番目の写真は世界遺産の「仏国寺」です。仏教芸術の最高傑作かつ国宝の寺院とされている仏国寺は理想的な彼岸の世界観が表現されております。この仏国寺は1982年に家内と訪問したことがあります。3番目の写真は韓国の世界遺産の「慶州歴史地域」です。慶州市周辺の史跡や古墳の総...「韓国にある仏国寺や海印寺などの写真」
お寺と言えば育った仙台の近所にあった長徳寺や大満寺を思い出します。家内も鎌倉の長谷寺の近くで生まれました。そんな関係で鎌倉の海蔵寺や寿福寺や他のお寺へ何度も行きました。その上祖父は兵庫県の田舎の正林寺の住職でした。私の傍にはいつもお寺があったのです。私はお寺に囲まれて育ったのです。そんな訳でお寺の写真を見ると楽しかった昔の日々を思い出し幸せな気分になるのです。今日はお寺の写真をお送り致します。思い出深いお寺の写真です。1番目の写真は仙台の長徳寺です。2番目の写真は仙台の大満寺の写真です。続て鎌倉のお寺の写真をお送り致します。家内が撮った写真です。3番目の写真は鎌倉仏教を代表する建長寺の山門です。4番目の写真は円覚寺の方丈です。5番目の写真は浄福寺の山門です。6番目の写真は浄智寺の本堂です。7番目の写真は浄...「故郷の仙台と鎌倉のお寺の写真」
キリスト教を簡単至極に説明したいと思います。分かり易く説明するためにお釈迦さまの教えと比較しながら話を進めて行きたいと思います。さて、ユダヤ民族だけの民族宗教として旧約聖書が前900年頃に出来ました。それから、長い年代にわたって改正が続きましたが、ユダヤ民族がバビロニアに捕囚されていた時代に大部分が編集されたそうです。この旧約聖書は長い間、ユダヤ教の基本でしたが2000年前にイエス・キリストが改正をして世界の全ての民族に通用するキリスト教を作ってしまったのです。この宗教の特徴は『神はヤハウエ神だけである。偶像崇拝は行わないこと』ということにあります。仏教と比較しますとキリスト教では唯一の神が存在しますが、仏教では神の存在を認めていません。お釈迦さま自身はあくまでも人間であって死んだら空(クウ)になるだけで...「分かりやすい仏教とキリスト教の比較」
今日はインターネットを通して広島のカトリック曙町教会のミサにあずかりました。その風景の写真をお送り致します。「今日の広島のカトリック曙町教会のミサの風景」
以前ドイツに住んでいた頃、デパートの地下でカモやガンなどの野鳥が羽が付いたまま売っていました。野生のシカ肉も売っています。ライン河で捕れたウナギも養殖の鱒もドイツ鯉も活きたまま売っています。私は嬉しくなり野鳥のカモ、活きた鱒、活きウナギ、野生のシカ肉などを買って来て料理をして美味しいドイツビールとともに食べました。ところがバターでムニエルにした活きた鱒以外は美味しくなかったのです。それ以外は酷く不味かったのです。ドイツの食文化としての料理法に無知でそれぞれの料理方法が間違っていたのです。素材を煮たり焼いたりする前の下準備が重要なことを無視していたのです。熟成が大切なのです。以前に北海道で獲れたエゾシカ肉を沢山頂く機会がありました。その鹿肉を送って下さった「でいしゅうさん」という方から鹿肉を美味しく食べる下...「鹿肉を熟成して美味しく食べる方法」
今日の富士山の寫眞です。富士山に限りなく近いまち「富士吉田市」は、市内の至るところから富士山の絶景が望めます。写真の出典は、https://www.yamanashi-kankou.jp/heritage/fujisanwatcher/jp/live/index.htmlです。「今日の富士山の寫眞」
「美しい富士五湖、山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖の写真」
富士五湖は北の外輪山の内側に東西に連なる美しい高原の湖です。東から西へと山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖と5つ並んでいます。いずれも懐かしい曽遊の地です。自分で撮った風景写真に従って皆様を富士五湖めぐりの旅へご案内します。写真は山中湖から順に河口湖、西湖、精進湖、本栖湖へと変わって行きます。1番目の写真は山中湖から見上げた富士山です。あいにくの曇りで五合目以上は厚い雲に覆われていました。2番目の写真は山中湖とその向こうにある筈の富士山です。蒸し暑い東京とは違い爽やかな高原の風が吹いていました。3番目の写真は山中湖から河口湖へ向かう道です。忍野八海に南に広がる大きな森の中の道です。清冽な雪解け水が豊かに湧き出ている忍野八海を思い出しながらこの森の中の道をゆっくり走りました。4番目の写真は河口湖の西岸から...「美しい富士五湖、山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖の写真」
富士山は日本の心。多くの人が東海道新幹線から眺めます。山登りが好きな人は富士山に登る人も少なくありません。その富士山の麓に五つの噴火による堰止め湖があります。東から山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖です。富士山を囲むように清浄な水を静かに湛えています。ある五月晴れの日に富士五湖への小さな旅を致しました。その写真をお送りいたします。高原の湖の静かな風景をお楽しみ下さい。1番目の写真は鳴沢村の役場前から撮った富士山です。富士五湖周辺は何処に行っても富士の峰が大きく迫って見えます。2番目の写真は精進湖から見た富士山です。四季折々、精進湖に来れば必ず車を停め水辺を歩く場所です。車内でコーヒーを飲んだりオニギリなど質素な昼食を食べます。写真に写っているのはニッサン・ノートという私の車です。3番目の写真は河口湖の勝...「富士五湖への小さな旅」
数年前に山梨県の桂川の写真を撮りに行きました。桂川は富士五湖の山中湖から流れ出ている川です。外輪山の内側から流れ出ている唯一つの川です。考えてみるとこの川にには東京に住み始めた1962年以来ずいぶんとお世話になりました。川沿いの景色が良く魅力的な川なので何度も遊びに行きました。今日はこの富士山から流れるの桂川を写真とともにご紹介したいと思います。写真は以前に自分で撮った写真ですが2枚だけ他からお借りしました。さて山梨県の桂川は山中湖村から流れはじめます。山中湖が水源です。富士山北麓の水を集めながらまず北西に流れ富士吉田市で北東に折れ曲がります。都留市を経て大月市で流れる向きを東に変え上野原市で相模湖に流入しています。相模湖から下流は相模川と名前を変えます。そして津久井湖(相模原市)を経てゆるやかに進路を変...「富士山から流れるの桂川ものがたり」
老境になると若い人々が元気に遊んでいる光景を見ると自分も楽しくなります。特に大自然の中で家族連れが幸せそうに遊んでいる風景は実に良いものです。家族連れの幸せそうな光景を見ると、しみじみ嗚呼、平和は良いものだと感じます。数年前にそんな写真を摂りました。場所は多摩川上流のJR御岳駅から2Km位さかのぼった川原です。写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。それはそれとして今日も皆様の幸福と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘「川遊びで幸せそうな人々の写真」
妻が生まれ育った場所は鎌倉でした。昭和12年でした。そんな訳で鎌倉へは何度も遊びに行きました。懐かしい町なので写真をお送り致します。写真は順々に、鎌倉海岸、江ノ電、文学館、御成小学校、長谷寺です。写真はインターネットからお借りしました。「妻が生まれ育った鎌倉の風景」
私は仙台で生まれ育って24歳まで住んでいました。青葉城跡へは何十回も登り眺望を楽しみました。天気の良い時は太平洋まで見えるのです。そして『荒城の月』という歌を口ずさみました。春高楼の花の宴めぐる盃さかずきかげさして千代の松が枝わけいでしむかしの光いまいずこ秋陣営の霜の色鳴きゆく雁かりの数見せて植るつるぎに照りそいしむかしの光いまいずこいま荒城のよわの月替わらぬ光たがためぞ垣に残るはただかづら松に歌うはただあらし天上影は替わらねど栄枯えいこは移る世の姿写さんとてか今もなお嗚呼荒城のよわの月(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)懐かしい青葉城跡にある伊達政宗の写真をお送り致します。「故郷の仙台の青葉城跡と『荒城の月』」
年老いると故郷は懐かしいものです、生まれ育った仙台の風景をよく思い出します。特に鹿落坂(ししおちざか)の風景は印象深いのです。思い出の坂道です。私は鹿落坂の上の向山に24歳迄住んでいました。その鹿落坂の写真を示します。1番目の写真は鹿落坂の遠景です。後ろの山は経ケ峰で伊達政宗の霊廟がある山です。2番目の写真は鹿落坂の上から見た仙台の中心街です。3番目の写真は下から見上げた鹿落坂です。4番目の写真は昭和12年の鹿落坂です。鹿落坂は昔は車道が狭くて、左側に広い歩道がついていて人間が下の広瀬川の景色を見ながら登れたのです。車道にはバスだけがたまにしか通りません。私が5歳の頃、ある月夜の夜にカジカカエルの鳴き声を聞きながら叔父さんに肩車をして貰って登ったことを鮮明に憶えています。昭和16年のある夏の夜でした。その...「故郷、仙台の鹿落坂の思い出」
2003年の北海道への旅で水芭蕉が一面に咲いている湿地帯に偶然迷い込みました。それは網走湖の湿地帯で鮮やかな緑の葉の中に真っ白い水芭蕉の花(苞)が一面に開いていていたのです。国道から呼人半島の付け根の方向へ少し入った雑木林の下に広がる湿地帯に一面に咲いていました。家内が喜んで湿地帯に中を歩きながら水芭蕉の白い花を眺めていた姿を思い出します。そんな網走湖の湿地帯と水芭蕉の花の写真をお送り致します。「北海道の水芭蕉の思い出」
「北海道の大通り公園 、ポプラ並木、植物園、開拓村などの写真」
北海道は多くの日本人が憧れている土地です。西洋の文化が少し混じったロマン溢れる所です。そんな北海道に憧れて私は何度も旅しました。今日はロマン溢れる北海道を写真でご紹介いたします。札幌の大通り公園、ポプラ並木、植物園、開拓村などの写真です。札幌もロマン溢れる都市です。まず中心にある大通り公園が四季を通じて楽しい場所なのです。その広大な大通り公園のそばには北海道大学の植物園がありますその近くには明治を偲ばせるレンガ建ての道庁があります。北海道大学の有名なポプラ並木もロマンチックです。郊外には手稲山ジャンプ台があり眺望絶佳です。さらに札幌の郊外には開拓村があります。北海道の開拓の歴史を展示しています。それでは大通り公園、北大ポプラ並木、植物園、開拓村の写真を順に示しましょう。大分部は私どもが撮った写真です。1番...「北海道の大通り公園、ポプラ並木、植物園、開拓村などの写真」
夏の北海道の風景です。北海道は夏が良いと言います。丁度良い気温で快適です。そんな夏の北海道の風景の写真をお送り致します。写真の出典は、https://stock.adobe.com/jp/search?k=%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E3%81%AE%E6%99%AF%E8%89%B2&asset_id=662640311です。「夏の北海道の風景」
北海道は夏でも涼しいのです。北海道へは何度も行きました。ロマン溢れる所です。北海道の魅力はいろいろありますが何と言っても美しい湖があちこちにあることです。今日は北海道の美しい湖をご紹介したいと思います。実際にたずねた摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖、網走湖、能取湖、風蓮湖、シラルトロ湖、塘路湖、達古武湖などをご紹介致します。これらの湖の間には広大な大地が広がり、牧場がえんえんと続いています。遥かに見える牧舎や家々も何故か本州と違い欧州風です。ここには奈良時代の律令国家も鎌倉、室町時代もありませんでした。道南の松前藩以外は江戸文化も存在していませんでした。アイヌ民族の部落が散在していただけでした。明治時代になって欧米風の開拓農業が広がったのです。北海道を巡る旅は何度もしたものです。それでは北海道の湖の写真をご紹介し...「夏でも涼しい北海道、摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖などの風景」
古代蓮の里のハスの見頃は、例年6月下旬から8月上旬頃です。古代蓮とは花弁の数が少ない原始的な形態を持つ蓮です。行田蓮とも呼ばれています。約1400〜3000年前の蓮です。写真の出典は、https://iwalkedblog.com/?p=31292です。「行田の『古代蓮の里公園』の蓮の花」
古代蓮の里のハスの見頃は、例年6月下旬から8月上旬頃です。ここに示す写真は以前の花の写真です。お楽しみ下さい。写真の出典は、https://iwalkedblog.com/?p=31292です。「行田の『古代蓮の里公園』の蓮の花」
今日の東京は本当に暑いです。本格的な夏が来たようです。夏の風物詩と言えば花火、浴衣、かき氷、蝉、風鈴などです。夏の風物詩の写真をお送り致します。(https://www.studyjapan.jp/topics/culture/symbols-of-summer.html)「日本の夏の風物詩、花火、浴衣、かき氷、蝉、風鈴など」
夏から秋にかけローテンブルグに住んだことがありました。ほんの数回だけ晴天の日がありました。そんな日はローテンブルグは美しく耀きます。そんな風景写真です。写真は「夏のローテンブルグの風景」を検索して出て来た数多くの写真から選びました。「夏のローテンブルグの風景」
故郷、仙台では夏に盛大な七夕飾りをします。仙台を出て東京に住むようになってからも七夕飾りの頃は毎年仙台に帰ったものです。今日は我が故郷の仙台をご紹介いたします。仙台は伊達政宗が1600年前後に築いた城下町です。青葉城の大手門から真っ直ぐ東へ伸びる通りは広瀬川の大橋を渡ったところから、東端の現在の仙台駅までを大町通りと言います。その大町通りの途中を直角に奥州街道が横切っていて、その四つ角を「芭蕉の辻」といいます。江戸時代は有名な繁華街で、豪商の店が集まっていました。その奥州街道の部分を国分町といって賑やかな商店街でした。明治維新で仙台藩が解体された後も「芭蕉の辻」や国分町の賑わいは続きました。しかし、大正、昭和と時が流れるに従って、国分町はしだいに寂れ、それと並行して南北に走る「東一番丁」が繁華街となったの...「夏になると思い出す故郷、仙台」
夏になると懐かしいのは最初のアメリカ留学です。1960年の夏に初めてアメリカへ留学しました。オハイオ州立大学に留学したのです。そのアメリカのオハイオの暑さにはびっくりしました。大陸の夏の暑さは尋常でありません。海に囲まれている日本は温暖なのです。アメリカ大陸の暑さに驚愕する体験をしたのです。またオハイオ州立大学の規模があまりにも壮大なので驚き感動しました。大学専用の飛行場を持っているのです。そして学生が格安で使える18ホールのコースを2つ揃えたゴルフ場を持っていることです。示した4枚の写真は、https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyamaに掲載されています。1番目の写真は校地の中央にある芝生の広場とそれを囲む建物群の写真です。このような広い芝生の広場がもう一つありました。2...「夏になると思い出す最初のアメリカ留学」
夏になるとよく行ったのは北海道への旅でした。北海道の夏は涼しくて快適なのです。北海道へ旅では大型リゾート・ホテルのトマムにも泊りました。その雄大な自然に囲まれた高層ホテル棟と重厚ながら洒落たショッピング・レストラン街には、正直言って非常に驚きました。巨大なトマムのホテルをご紹介いたします。トマムは札幌から東へ140Kmの所にあります。北海道勇払郡占冠村です。私どもが泊まった時はトマムは満員でした。修学旅行の学生が大勢泊まっていました。そして地元の若い人々が多数働いています。北海道を出なくても働き口がこんなにあるのです。地域経済にとっても大成功です。しかしトマムには挫折の悲劇があったのです。そして後をついだ会社の血と汗のにじむような営業努力で再生しているのです。トマムは平日でも776部屋もある高層ホテルが満...「夏になると思い出す北海道の旅」
今日は朝から太陽が照りつけて真夏のようです。夏になると思い出すのは上高地とそこから見上げた穂高連峰の風景です。上高地でよく泊ったホテルは上高地帝国ホテルです。その懐かしい上高地帝国ホテルの写真と残雪のある穂高連峰の写真をお送り致します。上高地帝国ホテルは1933年(昭和8年)わが国初の本格的高級山岳リゾートホテルとして開業しました。スイスの山小屋をイメージした赤い三角屋根と吹き抜けのロビーの巨大な暖炉が特徴のクラシックホテルです。残雪のある穂高連峰が眼前に迫る眺望は上高地帝国ホテルの大きな魅力です。上高地は標高1500mで冬期は雪に覆われて通行ができなくなるので毎年4月下旬から11月上旬の約半年間だけ営業しています。上高地帝国ホテルと残雪のある穂高連峰の写真をお送り致します。帝国ホテルの写真は家内が撮りま...「夏になると思い出す上高地と穂高連峰」
6月の花、睡蓮の花の写真をお楽しみ下さい。写真の出典は、「睡蓮の花の写真」を検索して、出て来た多数の写真から美しい写真を選びました。「6月の花、睡蓮の花の写真」
中國の江西省広昌県に連なる蓮池は、緑の葉でぎっしり覆われ、美しく咲いた蓮の花が風に吹かれると、さわやかな香りがほんのり漂い、多くの観光客で賑わっています。その写真をお送り致します。出典は、https://j.people.com.cn/n3/2024/0723/c94475-20196831.htmlです。「中國の江西省広昌県に連なる蓮池」
中国は本当に広いのです。広大な湖沼地には一面の蓮の花が広がっています。そこに住むのは鵜飼の人々です。鵜飼の人々にとっては日中戦争も別世界の出来事です。1000年、2000年と王朝が変わっても日中戦争があっても一切関係なく同じ生活をしています。これこそ悠久の人生ではないでしょうか?私が実際に中国人の鵜飼から聞いた話をご紹介いたします。○河北の湖の鵜飼漁師部落にてあれは1996年のことでした。北京の南、河北省の保定市が技術センターをつくりたいというので、出来るだけの協力をしようと、何度か同地に通ったのです。仕事が休みの日、河北大学の先生が、日帰りの観光旅行へ連れて行ってくれました。その観光地は広大な湖でした。縦横ともに約40Kmもあり、近隣の農民の観光地らしく、湖上遊覧の船がビッシリと並んでいます。客を呼び込...「中国の一面の蓮の花と鵜飼の人々の悠久の人生」
濃厚な色の蓮の花の写真をお送り致します。小金井市、真蔵院の蓮の花です。写真をお楽しみ頂けたら嬉しいです。「濃厚な色の蓮の花の写真」
蓮の花の咲く景色は夏の風物詩です。お寺の境内、各地の城のお堀や一面に広がる蓮根畑に咲いています。夏の陽に輝く白い花が風に揺れている光景は心に刻み込まれています。私は霞ヶ浦でヨットをしていたので周囲に広がる蓮根畑の白い花が忘れられません。そして同級生の大泉君と一緒に見た小田原城の堀に咲く花は背景の天守閣の風景とともに忘れません。その上家内と一緒に行った行田の蓮の公園に一面に咲いていた蓮の花には感動したものです。そこで今日はこれら3ケ所の蓮の花の写真をお送り致します。1番目の写真は霞ヶ浦の蓮根畑の写真です。2008年の夏に撮ったものです。2番目の写真は小田原城の堀に咲く蓮の花です。観賞用の花なので種々の色の花が咲いています。出典は、https://www.jalan.net/kankou/spt_14206a...「霞ヶ浦に、小田原城の堀に、行田の公園に咲く蓮の花」
毎年、毎年、7月になると小金井市の真蔵院の蓮の花が美しく咲きます。ピンクや白い大輪の花が本堂の周りを埋めています。金色の蕊が風に揺れています。もう何十年もここに来て蓮の花の写真を撮り続けています。それでは自分が撮った写真をお送りします。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。毎年、7月に感謝しながら蓮の花の写真を撮っています。このお寺の住職さんとはお会いしたことがありません。しかし、どうぞ花の写真を撮って下さいと歓迎しているようです。山門の前に駐車場も用意し、境内も掃き清めてあり静かな場所です。本堂の裏には小金井公園の見事な雑木林が続き借景になっています。本堂前には、何時も真言宗豊山派の広報誌の「光明」という冊子が置いてあります。毎回持ち帰り読むことにしています。このお寺の住職さんは座禅会などもしていて真面目に、...「美しい蓮の花と施餓鬼供養のはなし」
ライン川はスイスアルプスのトーマ湖が源流です。そこからボーデン湖に入りドイツ・フランスの国境を北に向かい流れ、カールスルーエの少し南からドイツ国内を流れ、ボン、ケルン、デュッセルドルフ、などを通過しオランダ国内へと入ったあとロッテルダム付近で北海に注いでいる大河です。全長1,233キロメートル。そのうちドイツを流れるのは698キロメートルです。ドイツにとっては特に重要な川であり、ライン流域を主軸のひとつとしてドイツ史は展開してきたのです。私どもは1969年、1970年と1年4ケ月間、ライン川の近くのシュツットに住んでいました。ライン川には何度も行き川下りの観光船に乗ったりして遊びました。懐かしいライン川の写真をお送り致します。1番目の写真はスイスのシャッハウゼンにあるライン川の大きな滝です。以前ドイツに住...「旅の思い出(10)ドイツのライン川の懐かしい風景」
「五月雨を集めてはやし最上川」は有名な芭蕉の句です。この俳句に誘われて私は2度の最上川を見に行きました。最上川は水量が多く滔々と流れていました。水量が多い急流です。・・・はやし最上川・・・ということを実感しました。最上川の写真をお送り致します。「五月雨を集めてはやし最上川」
今日はインターネットを通うしてカトリック高円寺教会のミサにあずかりました。そのミサの風景をお送り致します。「カトリック高円寺教会の今日のミサの風景」
梅雨の時期は長雨が続いて、晴れた青空と太陽がなかなか見られません。憂鬱な季節になりました。そこで少しでも明るい気持ちになるように美しい詩を5つほどお送り致します。気持ちをさっぱりとさせ、心にしっとりと寄り添うような作品です。以下は、https://mahoblog.com/tsuyu/から引用致しました。茨木のり子「六月」どこかに美しい街はないか食べられる実をつけた街路樹がどこまでも続きすみれいろした夕暮は若者のやさしいさざめきで満ち満ちる中原中也「六月の雨」またひとしきり午前の雨が菖蒲のいろのみどりいろ眼うるめる面長き女たちあらはれて消えてゆく谷川俊太郎「生きる」生かす六月の百合の花が私を生かす死んだ魚が生かす雨に濡れた仔犬がその日の夕焼が私を生かす萩原朔太郎「こころ」こころをばなににたとへんこころはあ...「梅雨の季節の詩、5編」
今日は印象派の油彩画を見ております。印象派の画家は何人かいますがクロード・モネから始めたいと思います。何度見ても感動するクロード・モネの油絵から始めたいと思います。ClaudeMonet,は1840年11月14日に生まれ、1926年12月5日に亡くなりました。彼の絵を見ると私はしみじみと旧懐の情が湧いてきます。100年前のフランスの風景に強く魅了されるのです。昔の風景に魅了されるのです。そんな7枚の風景画をお送りいたします。出典は、https://ja.wikipedia.org/.../%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC...です。1番目の写真は『サン=ラザール駅』1877年です。(油彩、キャンバス、75×104)2番目の写真は『かささぎ(英語版)』1868-69年です。(油彩、キャ...「何度見ても感動するクロード・モネの油絵」
今日は印象派の油彩画を見ております。印象派の画家は何人かいますがクロード・モネから始めたいと思います。何度見ても感動するクロード・モネの油絵から始めたいと思います。ClaudeMonet,は1840年11月14日に生まれ、1926年12月5日に亡くなりました。彼の絵を見ると私はしみじみと旧懐の情が湧いてきます。100年前のフランスの風景に強く魅了されるのです。昔の風景に魅了されるのです。そんな7枚の風景画をお送りいたします。出典は、https://ja.wikipedia.org/.../%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC...です。1番目の写真は『サン=ラザール駅』1877年です。(油彩、キャンバス、75×104)2番目の写真は『かささぎ(英語版)』1868-69年です。(油彩、キャ...「何度見ても感動するクロード・モネの油絵」
岡鹿之助の『雪の発電所』は私の好きな絵なのでお送り致します。堅固な建造物が纏うはだら雪の柔らかさが静謐な雰囲気を醸し出しています。またパンジーの思索深い表情は画家の精神性の高さや穏やかな人柄を表しているように思えるのです。岡鹿之助は1898年(明治31年)に生まれ1978年(昭和53年)に没しました。昭和時代に活躍した洋画家で文化勲章受章者です。1956年には『雪の発電所』が現代美術日本展最優秀賞を受けます。また1957年には毎日美術賞も受けました。なお小松裕文さんの感想文を読むとこの絵が描かれた場所が分かります。https://www.danube4seasons.com/search/013/01.htmlそれにパンジーの絵を3枚つけます。「岡鹿之助の『雪の発電所』と『パンジーの花』の絵」
大原美術館は、倉敷で幅広く活躍した事業家大原孫三郎が画家児島虎次郎を記念して1930(昭和5)年に設立しました。日本で最初の西洋美術の私立美術館です。孫三郎は、友人の児島虎次郎の才能を高く評価し、三度にわたる渡欧を支援しました。そこで児島虎次郎はヨーロッパの美術作品を選び取るという作業をしました。彼は、エル・グレコ、ゴーギャン、モネ、マティス等、今も大原美術館の中核をなす作品を丁寧に選び、倉敷にもたらします。大原美術館は、その後も、倉敷の地にあって活発な活動を続け、西洋の近代から現代の美術作家たちの仕事等にコレクションを広げ民間総合美術館として大原美術館を作ったのです。私どもも大原美術館を訪れ、その絵画の数の多さと美しさに感動しました。はるばる倉敷まで行ったかいがありました。それでは写真で大原美術館をご紹...「日本で最初の西洋美術館の大原美術館」
エミール・ガレ(1846-1904)やドーム兄弟の独創的なガラス器の作品を700点も収蔵、展示してあるのが諏訪湖のほとりにある北澤美術館です。その展示品はフランスのアール・ヌーヴォー期のガラス工芸品です。芸術的な工芸品です。バルブ製造会社で財をなした北澤利男氏が設立し、1983年に開館したのです。隣にはやはり北澤利男氏が設立したサンリツ服部美術館があります。エミール・ガレやドーム兄弟はガラス工芸の新しい技法を次々と創作していったことが素晴らしいと思うのです。深い芸術性を感じるのです。今日は北澤美術館に展示してあるエミール・ガレやドーム兄弟の作品をご紹介いたします。1番目の写真は一夜茸というキノコを模した作品です。高さ83cmの大きなものです。北澤美術館で非常に大切にしていて、貸し出し厳禁の展示品です。北澤...「諏訪湖の湖畔の北澤美術館とエミール・ガレの作品」
この美術館は伊豆半島の山の中、美しい一碧湖の畔にあります。車で行くと道中が風光明媚で楽しいのです。さて池田20世紀美術館をご紹介したいと存じます。この美術館は本格的現代美術館です。1975年5月伊豆の一碧湖の岸辺にできました。この美術館の土地、建物と約1400点の所蔵作品の大半は、ニチレキ(株)の創立者池田英一氏が寄付したものです。建物は彫刻家井上武吉氏の設計で、展示館外壁は日本ではじめてのステンレススチール張りです。入口から出口まで連なる展示作品が大へん観賞しやすい美術館です。所蔵作品は20世紀に制作された絵画・彫刻で《人間》をテーマとするものを中心に約1400点収蔵しています。館内には、ルノワールをはじめ、ボナール、ピカソ、マティス、レジェ、シャガール、アンディ・ウォーホール、ミロ、ダリ、デ・クーニン...「伊豆半島の一碧湖の畔にある池田20世紀美術館」
鬱蒼とした樹々の写真を撮ってきました。近所の学芸大学の構内です。撮ってきた写真をお送り致します。「鬱蒼と生えている樹木の写真」
日本4大アヤメ園とは、広大な敷地に多数の品種が植えられ、特に大規模なあやめ園として知られる4つの場所を指します。具体的には、山形県長井あやめ公園、茨城県水郷潮来あやめ園、千葉県水郷佐原あやめパーク、そして新潟県新発田市五十公野公園あやめ園です。1,長井あやめ公園(山形県長井市):120種以上のあやめが植えられ、毎年6月には「長井あやめまつり」が開催されます。2,水郷潮来あやめ園(茨城県潮来市):150種類以上のあやめが咲き誇り、6月には「水郷潮来あやめまつり」が開催され、花菖蒲にちなんだイベントも行われます。3,水郷佐原あやめパーク(千葉県香取市):300品種以上のあやめが植えられ、見頃には一面の花菖蒲が広がります。4,五十公野公園あやめ園(新潟県新発田市):300品種、60万本のあやめが咲き競う...「日本の4大アヤメ園」
一面にアヤメが咲いている場所はもう一つ東村山市にもあります。北山公園のアヤメです。撮ってきた写真をお送り致します。撮影は2013年6月6日でした。「東村山市北山公園のアヤメの花々」
毎年、茨城県の潮来では『潮来あやめ祭り』を開催しています。それは色とりどりのアヤメが一面に咲く華やかな花まつりです。今年も潮来のあやめ祭りの季節になりました。この『潮来あやめ祭り』は以前から関東地方では有名でした。そして昭和30年に美空ひばりさんの「娘船頭さん」のロケが水郷潮来で行われたのがきっかけとなり、その名は全国的にも知られるようになったのです。美しい娘さんが船頭になった小さな船に観光客が乗り、水郷を巡りながらアヤメの花を楽しむのです。何かロマンチックで美しい風景です。私も長い間、潮来につながる霞ヶ浦でヨットをしていたので一度行って見たいと思っていました。そこでついに2008年の6月17日に行ったのです。それでは写真に従ってお話を進めて行きたいと思います。1番目の写真は妻をヨットに乗せ、霞ヶ浦の沖に...「今年も潮来のあやめ祭りの季節になりました」
庭の花の写真です。10年以上前に潮来から買って来たアヤメが今年も咲きました。他の花の写真も含めてお送り致します。「庭の花の写真」
今日の小金井公園の風景です。小金井公園は東西に2kmあります。今日行った場所は西の端の部分です。撮ってきた写真をお送り致します。「今日の小金井公園の風景」
毎年、お盆のころになると日本のあちこちで灯篭流しや精霊流しがあります。この世を去ってしまった家族や友人の魂を弔うのです。あの世で平安に暮らしていることを祈るのです。そして故人があの世から暗い水面をゆらゆら揺れて流れてていく灯を見て慰められるのです。それは日本の夏の美しい風物詩です。そんな光景を下の写真で示します。真は灯篭流しと精霊流しの画像検索によって転載させて頂きました。1番目の写真は長崎と佐賀県の一部で作られる精霊船を町中を引いて海辺に運んでいる様子です。2番目の写真は佐世保市の灯篭流しです。3番目の写真は曹洞宗本山、永平寺の灯篭流しです。4番目の写真は灯篭流しと精霊流しの画像検索によって転載させて頂きました。それはそれとして、毎年、実際に灯篭流しをしている人はそんなに多くありません。テレビや新聞で灯...「灯篭流し、精霊流しは夏の美しい風物詩」
我が故郷、仙台の広瀬川の灯篭流しは江戸時代から引き続き灯ろう流しは行われ、昭和に入ると花火大会も同時に開催されるなど、「夏の終わりを告げるの風物詩」として親しまれるようになりました。仙台市内有数の夏祭りです。その風景写真をお送り致します。「我が故郷、仙台の広瀬川の灯篭流し」
今年も7月になるとお盆が来て各地で精霊流しをします。お盆の期間は、8月13日~16日の4日間(8月盆)が一般的ですが、東京をはじめとする一部地域では、7月13日~16日の4日間(7月盆)で行われます。また、東京の多摩地区では7月31日〜8月2日に行う場合もあります。お盆には、お盆提灯やキュウリ・ナスで作った牛馬など、お盆独自のお飾りをして故人様をおもてなしする風習があります。ご自宅の玄関先・庭先やお墓などの場所で「迎え火」を焚き、ご先祖様の霊をお迎えします。迎え火と同様にお盆が終わると、玄関先・庭先やお墓などの場所で「送り火」を焚き、ご先祖様の霊をお見送りします。そしてお盆の風物詩は「精霊流し」です。有名なのは長崎の江迎千灯籠祭りです。毎年8月23日と24日に行われる祭りです。3000個以上の灯籠で飾られ...「今年もお盆が来て精霊流しをします」
1945年の7月10日にB29の空襲があり仙台はすっかり焼け野原になってしまいました。そしてB29の焼夷弾空襲によってし全国の200市町村が焼け野原になってしまったのです。まず東京大空襲の写真をお送りいたします。東京大空襲は1945年(昭和20年)3月10日のアメリカ空軍による夜間空襲でした。その7枚の写真をお送り致します。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2です。1番目の写真は東京を空襲しているB-29爆撃機です。多量の焼夷弾を落としています。2番目の写真は1945年1月27日の空襲で数寄屋橋上を逃げ惑う親子です。この日の爆撃の主目標は郊外にあった中島飛行機武蔵製作所でしたが、...「夏の思い出はB29の空襲と焼け野原の光景」
何故か知りませんが夏が来るとしきりに思い出すのが幼い頃の光景です。昔の茶の間、花火遊び、夜店、金魚売り、海水浴などの光景です。私の幼い頃は戦前、戦後にまたがっていました。エアコンは勿論、電気冷蔵庫も無い時代でしたので暑かったに違いありませんが、不思議に暑くて困ったという記憶がないのです。当時の茶の間には柱時計、茶箪笥、ちゃぶ台がありました。テレビはありませんでした。夜になると「ちゃぶ台」をかたずけ、蚊帳を吊り、布団を敷いて寝ます。当時は網戸が無いので、寝ていると迷ったセミやハンミョウなどが開け放した廊下から飛び込んで来ます。寝る前には近所の子供たちとよく花火遊びをしたものです。1番目の写真は子供たちの花火遊びの写真です。この写真の出典は、http://www.kobe-np.co.jp/news/shak...「夏の思い出は花火、金魚売、海水浴」
小屋は山梨県の西端の甲斐駒岳の麓にあります。その付近の新緑の写真をお送り致します。写真は2008年の5月に撮りました。なお2枚目の写真には家内と息子と幼い頃の3人の孫がが写っています。左の白服が家内で右端が小学校野球部の一番上の孫です。黒服の男が息子で傍にちいさい二人の下の孫が写っています。17年前は3人の孫も児童でした。一番上の孫は父親になりました。時の流れは早いものです。3番目の写真は山林の中の小屋の前の小川に手作りしたヤマメの魚道です。「山林の中の小屋の近くの新緑の写真」
東京の街街には一種独特な雰囲気がまとわり着いているところが多く有ります。江戸時代の屋台が連なったような浅草の仲見世通り、寅さん映画で有名な柴又の帝釈天の参道、昭和のモダンな雰囲気が漂う日本橋三越界隈、新宿駅東口から中村屋、紀伊国屋書店、伊勢丹へと続くなにか懐かしい雰囲気の通り、そして原宿や竹下通りの気楽な若者の群れる町。それぞれ独特の雰囲気があります。そして新橋駅を出て西側の広場へ出る度に、ああ戦後の雰囲気がまだ残っているなあ、と感じるのです。広場は綺麗に舗装され、向こうに蒸気機関車が飾ってある平凡な広場なのです。何故、終戦後の雰囲気があるのでしょう?そんなことを感じるのは私だけかも知れません。写真を3枚掲載します。ご意見を頂ければ嬉しいです。(終わり)添付の写真は浅草の仲見世通りと戦後の雰囲気が漂う新橋...「戦後の雰囲気が漂う新橋駅前、江戸時代の仲見世通り」
「懐かしい台所、真空管ラジオ、蒸気機関車、市電、小さな連絡船、青函連絡船、など」
人間は老境になると昔のことが非常に懐かしくなるようです。家内が昔のことより現在や将来のことを考えたらとよく言います。しかし昔の懐かしいものについて今日も書きたいと思います。懐かしい台所、真空管ラジオ、蒸気機関車、市電、小さな連絡船、青函連絡船、などです。まずこれらの写真を示しましょう。1番目の写真は昭和時代の台所です。昭和11年に生まれた私の祖父の兵庫県のお寺の台所はこのようでした。懐かしいです。一方、私の自宅は仙台市にありましたので台所は近代的でした。2番目の写真は真空管のラジオの裏側です。高校生の頃の趣味は真空管のラジオを作ることでした。最後に写真のようなスーパーヘテロダインを作りました。大きな電蓄も作ったもです。3番目の写真は私が中年になるまで東北本線を走っていた蒸気機関車に引かれた列車です。新幹線...「懐かしい台所、真空管ラジオ、蒸気機関車、市電、小さな連絡船、青函連絡船、など」
夏になると若い頃の北アルプス縦走を思い出します。若い頃の登山の思い出です。その北アルプス縦走の思い出を写真に従ってお送り致します。しかし私は当時写真機を持っていなかったので、インターネットからお借りしました。さて縦走は大糸線の穂高駅から中房温泉への登高から始まりました。そこに一泊して燕岳、大天井、西岳、槍の肩の小屋で一泊し、南岳、キレット渡り、北穂高、涸沢、横尾と歩いて上高地に降りて来ました。歩いた行程は全部で2泊3日の山歩きでした。毎日10時間ほど歩きました。写真で説明します。1番目の写真は中房温泉から1時間ほど登ると突然見える燕岳です。この地点から槍ヶ岳を遥かに見ながら縦走路を行くのです。2番目の写真は燕岳と大天井岳の間の尾根から見える槍ガ岳です。まだ遠方です。3番目の写真は大天井岳の肩を回りこみ近く...「夏になると思い出す北アルプス縦走」
今日は爽快な白帆漁の写真をお送りいたします。お楽しみ頂ければ大変嬉しく思います。以前の夏、霞ヶ浦で撮影したものです。土浦観光協会で検索し観光のために出漁する日時をお確かめの上、お出かけ下さい。見物は観光船、ホワイトアイリスに乗船して船上から見るのが良いと思います。今日も皆様のご健康と平和を心からお祈り申し上げます。藤山杜人幅の広い大きな網を船の横に入れ、船の長さいっぱいの巨大な白帆で網をゆっくり引いて行きます。数キロメートルも引いて行きます。ワカサギを取っていますが、10月になると透明な白魚をとります。霞ヶ浦に江戸時代からあった伝統的な漁法だそうです。ワカサギは佃煮にします。沖宿でも売っていますが、土浦駅ビル地下食品売り場の小魚佃煮専門店でも売っています。白魚の生の刺身は蓮田の中の「うなぎの山中」(電話0...「夏の風物詩、霞ヶ浦の伝統的な白帆漁」
毎日、毎日が曇り日で気が滅入ります。そこで夏の風物詩、ヒマワリの写真をお送りいたします。写真をお楽しみ下さい。写真の出典は、https://jp.zekkeijapan.com/article/index/19/です。1番目の写真は山梨県北杜市の明野の60万本のヒマワリ畑です。背後の山は八ヶ岳です。2番目の写真も明野のヒマワリ畑です。7月下旬から8月いっぱい楽しめます。3番目の写真は北海道の北海道の美馬牛小学校の塔とヒマワリ畑です。美馬牛小学校は美瑛町にあります。4番目の写真はラベンダーの花で有名な富良野の8月のヒマワリ畑です。5番目の写真は北海道の北竜町の150万本のヒマワリ畑です。北竜町は札幌と旭川市のちょうど中間にあります。「夏の風物詩、ヒマワリの写真をお楽しみ下さい」
カトリック信者にとってはローマ法王は親しい存在です。憧れでもあります。写真はバチカンのサンピエトロ大聖堂でミサを司祭しているローマ法王ベネディクト16世です。「ローマ法王の写真」
今日の聖霊降臨の主日ミサのミサの風景です。広島のカトリック曙町教会のミサの風景をお送り致します。「今日の聖霊降臨の主日ミサのミサの風景」
広島のカトリック曙町教会のミサ動画配信https://www.youtube.com/watch?v=eUiw_1FZ0FM第1朗読使徒言行録2章1~11節第2朗読ローマの信徒への手紙8章8~17節福音朗読ヨハネによる福音書14章15~16、23b~26節住所〒730-0016広島県広島市中区幟町4-42TEL082-221-0621守護聖人、被昇天の聖母神父【主任司祭】瀧井英昭神父【助任司祭】星野倫淳神父シスターシスター木村恭子(援助修道会)「今日の聖霊降臨の主日ミサの動画配信」
梅雨の季節はアジサイの花が美くなります。梅雨の季節は気が晴れません。しかしアジサイの花が美しく咲きます。写真の出典は、https://tenki.jp/rai.../column/usagida/2022/05/22/31138.htmlです。「梅雨の季節はアジサイの花が美い」
「夏になると思い出す壊れた零戦、ナマズ、トマト畑と寝転がる馬」
1945年に仙台がB29の空襲で焼野原になった後で田舎に疎開しました。その農村の生活は都会とは違って面白いものです。その思い出を4つ書きます。(1)河原に不時着した零戦に登って遊ぶ。終戦後一刻も早く故郷に帰りたい零戦の操縦士が郷里の実家の近くの河原に不時着したのです。考えは良かったのですが凸凹の河原で機体が大破しました。我々悪童連は操縦席に入り込み遊んだのです。その上風防のガラスを割り破片を持ち帰りました。そのガラス片はこするとバナナの香りがしました。食糧難の当時ばバナナの香りで幸福になったものです。すべての写真はインターネットからお借りしました。1番目の写真は零戦です。(2)ナマズを泥川で捕って食べる。零戦が不時着したのは泥の川の河川敷でした。その川で我々は竹竿に糸をつけて大きなミミズを餌にしてナマズを...「夏になると思い出す壊れた零戦、ナマズ、トマト畑と寝転がる馬」
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夏の奥多摩の風景の写真をお送りいたします。写真の出典は、https://www.town.okutama.tokyo.jp/1/kankosangyoka/kankojoho/2/705.htmlです。「夏の奥多摩の風景」
以前は夏の奥多摩へ小さな旅に行きました。独りで車を駆って奥多摩の鳩ノ巣までよく小さな旅をしました。多摩川上流域の古刹、海禅寺と梅岩寺を散策し、多摩川の地酒、「嘉泉」の田村酒造と、もう一つの地酒、「沢の井」の小澤酒造の写真を何度も撮りました。54年前に婚約中だった家内と初めて行ったのは鳩ノ巣渓谷でした。茫々、アッという間に時が流れ去ったものです。...何度も多摩川名物の「へそ饅頭」を家内へのお土産に買いました。多摩川の上流域は東京より涼しくて新鮮な川風が吹いていました。写真に鳩ノ巣渓谷の写真と御岳駅のそばの玉川屋という蕎麦屋の写真をお送りします。玉川屋の座敷の大きなガラス窓から多摩川の向側の山の緑が見え、眺望の良い蕎麦屋さんです。「夏の奥多摩の風景」
夏の風物詩は海水浴の光景です。幼少の頃の楽しかった海水浴の光景を懐かしく思い出します。一番懐かしいのは荒浜や菖蒲田や桂島の、そして野蒜海岸や宮戸島での少年の頃の海水浴の思い出です。インターネットで検索して桂島と宮戸島の風景写真を探しました。1番目の写真は現在の桂島の海水浴場の風景です。2番目の写真は海開き後の宮戸島の海水浴場の風景写真です。3番目の写真は海開き前の茅ケ崎の海水浴場の写真です。4番目の写真は昔から有名な大磯の海水浴場です。海開き後は人で溢れる海水浴場です。5番目の写真は海開き前の茅ケ崎の海水浴場の写真です。夏を待ちきれない若者達がサーフィンを楽しんでいる光景です。こんな光景を海水浴の光景を思い出すと不思議に若かった頃の元気が湧き出して来ます。皆様も暑い夏をお元気でお過ごし下さい。それはそれと...「夏の風物詩は海水浴の光景」
夏の風物詩をもう一つは霧が流れる高原美術館のロマンです。美ヶ原高原美術館をご紹介したいと思います。この美術館は遥かに遠い天空の上の美術館なのです。標高は2004mです。4万坪の屋外展示場に350点あまりの現代造形作品を常設展示しています。1981年6月に、「箱根・彫刻の森美術館」の姉妹館として開館しました。長野県の上田市にあります。それでは早速、霧が流れる美ヶ原高原美術館を家内が撮った写真でご紹介します。美ヶ原高原美術館の詳細は、https://www.utsukushi-oam.jp/mp/gaiyouに出ています。そして全ての展示作品のリストは、展示作品一覧、https://www.utsukushi-oam.jp/search/にあります。展示作品の説明は、https://www.utsukushi...「夏の風物詩、霧が流れる美ヶ原高原美術館」
夏の風物詩には七夕飾りもあります。夏になると家々では子供たちが七夕飾りを作ります。また各地の町の通りに大規模な七夕飾りをします。そして有名なのは仙台の七夕まつりです。仙台の七夕まつりは、江戸時代に仙台藩祖・伊達政宗公が始めたのが由来とされており、以来仙台の伝統行事になります。仙台の七夕祭りは毎年、8月6日、7日、8日と開催されます。夏の風物詩です。毎年、幼少の頃から七夕飾りを見に行った東一番丁や大町通りの光景を思い出します。結婚して東京に住むようになってからも毎年、家内や子供連れで仙台の七夕飾りを見に帰りました。七夕飾りが夏風に揺れている写真をお送りいたします。1番目の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/35196915.htmlです。2番目の写真の出...「夏の風物詩は七夕飾り」
現在、私の身の回りには蚊帳と蚊取り線香はありません。昔は夏の暮らしで大切なものでした。そして夏の風物詩でした。今日は追憶の中の夏の風物詩だった蚊帳と蚊取り線香のことを書いてみたいと思います。蚊帳は平安時代から日本で使われていました。江戸時代には庶民にも広がり、「夏の風物詩」になりました。夏の季語として俳句に登場していました。1965年ごろまで日本中で使われていたのです。一方、蚊取り線香は現在でも野外作業で使われています。しかし懐かしい「除虫菊の煙のにおい」がしないのです。現在は合成した化学製品なので独特の香りがしないのです。蚊取り線香の形は現在でも昔のままの渦巻きの形をしています。色も昔と同じです。しかし懐かしい「除虫菊の煙の匂い」がしないのです。それではまず、蚊帳(かや)の写真3枚と、蚊取り線香の写真と...「夏の風物詩だった蚊帳と蚊取り線香」
岩手県のリアス式海岸は、三陸海岸の南部に見られる特徴的な地形です。リアス式海岸は、川が山地を浸食し、形成された入り江が連続する地形です。岩手県では、この地形が漁業や観光業に大きく貢献しています。夏の三陸海岸の風景の写真をお送り致します。「岩手県の夏の三陸海岸の風景」
北上川の水源は岩手県岩手町御堂にある「弓弭(ゆはず)の泉」とする説が一般的です。そこから岩手県の中央を南下して宮城県に入り石巻湾の太平洋へ流れ出ています。北上川のように北から南へ流れる川は全国でも珍しい川です。北上山地と奥羽山脈の間を流れているため、それぞれの山地からいくつもの支流が流れ込み、その数は大小合わせて200以上もあります。1番目の写真はライトアップされた北上川沿いの桜並木です。JR北上駅から徒歩7分ほどの距離にある北上川沿いの桜並木です。さて次は宮沢賢治ゆかりの場所を訪れてみましょう。賢治は1896年(明治29年)花巻に生まれ1933年(昭和8年)に亡くなりました。盛岡への旅では賢治の作品を初めて出版した盛岡市の光原社を訪問しました。その後、小岩井牧場に行き、そして花巻市の羅須地人協会や賢治の...「北上川と石川啄木と宮沢賢治」
南部藩は岩手県中部と青森県東部から秋田県北東部にかけての地域を治めた藩でした。藩主が南部氏でした。盛岡藩とも呼ばれます。この地域には独特な文化があります。魅力ある地域です。甲斐国にいた南部氏の始祖の南部光行が、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の青森県八戸市に来て現在の南部町(青森県)に宿をとったのが始まりです。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで覇権を確立した徳川家康から南部藩は所領が安堵されました。10万石の大名として認められたのです。明治維新では奥羽越列藩同盟への参加します。そして南部藩は新政府側へ屈服しました。南部藩は終わったのです。なお遠野南部家は藩の新政府側につき、八戸藩は藩主・南部信順が薩摩藩主・島津重豪からの養子であり新政府側へついたのです。この地域の独特な文化や魅力を写真で示します。1番目...「岩手の南部藩の歴史と写真」
石川啄木は1886年(明治19年)岩手県日戸村で住職の長男に生まれ、翌年渋民村へ移った。1912年(明治45年)に結核で没した。享年26歳。まず彼が作ったを短歌を読んでみよう。短歌を三行書きにするという新しい形を産み出した。歌われたのは孤独・望郷・貧困など自己の内面を描き出したものが多い。東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむるたはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまずはたらけどはたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざりぢつと手を見る友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆくかにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくにふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの...「26歳で夭折した石川啄木の詩の世界」
岩手は文学者の故郷です。彼等の関連のある盛岡を何度も訪問しました。小岩井牧場にも行きました。盛岡城跡の高い石垣を登ると広い草原になっています。青草の上にあおむけに寝て大空を見ていたら石川啄木の短歌を思い出しました。「不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心」盛岡では「石割桜」の巨大な石に手をついて何故か感慨に耽りました。滔々と水量豊かに流れる北上川の岸辺にたたずみ口ずさみました。「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに(石川啄木の短歌です。)岩手は宮沢賢治の故郷です。そこで今日は宮沢賢がよく散歩した盛岡城や石割桜や小岩井農場や北上川などの写真をお送り致します。写真の出典は、https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2396/です。1番目の写真は「盛岡城跡公園」で...「岩手県と北上川、そして小岩井牧場、石川啄木と宮沢賢治」」
自分が貧乏だから持っているお金だけで出来る趣味を楽しむ。これが引退後の人生を輝かしい日々に変える為の鉄則と確信する境地に至りました。創意工夫を重ねて、あるお金だけで賢い生活をすることです。この時、一つや二つの趣味を持ち、その為の最小の出費を惜しんではいけません。別荘地と山林地とは値段も違う上、不動産税が雲泥の差です。しかし豊かな想像力と自然へ対する憧憬が強ければ同じように楽しめます。ロマンチシズムを持っていると、より一層豊かに趣味を楽しめます。1番目の写真は私の山林の中の小屋です。電気釜という文明の利器を山へ持って行って美味しいご飯を炊くのです。友人の鬼家さんを招んで、青空の下で家内と3人で昼食を楽しむ。それだけが楽しいのです。2番目の写真は山林の中の小屋の庭で使った電気釜です。3番目の写真は炊き上がった...「貧乏でも趣味を楽しむ、すると人生が輝き出す」
スエーデンのエケトルプ先生は海岸に質素な別荘を持っていました。それを真似して私も1975年に山梨県の山林に小屋を建てました。小屋を建てた場所を写真で示します。山梨県の甲斐駒岳の麓です。1番目の写真は山梨県の北杜市から見上げた甲斐駒岳連峰の写真です。晩秋に撮った写真です。この山の麓に小屋を建てたのです。場所は山林の中です。2番目の写真は甲斐駒岳の麓の森の奥にある私の山小屋です。晩秋に撮ったので木々が紅葉しています。電気、ガス、水道の無い小屋でした。スウェーデンの学生さん達も来ました。楽しい思い出がたくさんある小屋です。3番目の写真は小屋に登って行く雪道です。こんな森の中の道を2Kmほど登ると小屋があります。写真にポツンと小さく写っている人間はよく一緒に行った家内です。4番目の写真は小屋の窓から見た光景です。...「山林の中の小屋の趣味を教えてくれたのもスエーデンのエケトルプ先生」
ヨットの趣味を教えてくれたスエーデンのエケトルプ先生でした。1974年に旅したスエーデンへの旅の思い出を書きたいと思います。私を招待してくれたエケトルプ教授の思い出も書きたいと思います。1番目の写真はスエーデンの首都ストックホルムの夜景です。2番目の写真は農村地帯の風景です。森林が多いので木造の農家が多いのです。私は1974年にストックホルムに4ケ月滞在しました。私を招待してくれたのはエケトルプ教授でした。エケトルプ教授が私へヨットの趣味を教えてくれたのです。3番目の写真はスウェーデンの古民家です。4番目の写真は馬を放牧している牧場の風景です。エケトルプ先生の家の裏の風景と似ています。写真の出典は、http://ameblo.jp/rv9084/entry-10717580893.htmlです。エケトルプ...「ヨットの趣味を教えてくれたスエーデンのエケトルプ先生の思い出」
私は50歳で小型ヨットスクールへ通い、53歳の時、琵琶湖へ行ってヤマハ19という中古のクルーザーを初めて購入しました。長さが5m90cmの小さなクルーザーで操船が簡単そうでした。そのヨットを水郷汽船(株)経営の霞ヶ浦マリーナへ陸送しました。ヨットをクレーンで吊って水に入れてくれたのがマリーナの佐藤敏郎さんです。それ以来、23年間、2012年の秋にヨットを止めるまで佐藤さんにお世話になったのです。はじめてのヨットをあけび号と命名しました。家内とよくセイリングしたものです。1番目の写真は家内と一緒に帆走中のあけび号です。霞ヶ浦で元気に活躍していました。2番目の写真も「あけび号」です。「あけび号」を手放してから今度は大きな「ルナ3世」号を買いました。3番目の写真は「ルナ3世」号です。長さ26フィートです。後方に...「私のヨットの写真」
もう体力が無くなって趣味のヨットは75歳の時に止めました。止めてから14年になりますがヨットのことは鮮明に覚えておます。心の中でまだヨットを楽しんでいます。今日は帆船のシナーラ号の思い出を書きたいと思います。私はこの帆船に2度乗ったことがあります。一度はその重い舵輪を握った経験もありました。2000年前後のことでした。しかしその後シナーラ号は消えてしまったのです。ところが”MALU”さんという方のブログにシナーラ号のその後の物語が詳しく書いてあったのです。シナーラ号はヨットの好きな人の憧れのまとだったのです。感心なことに”MALU”さんは憧れるだけでなくシナーラ号のその後を詳しく調べていたのです。その写真を下に示します。1番目の写真はかつてのシナーラ号です。写真の出典は、”MALU”さんのブログ(http...「美しい帆船、シナーラ号の思い出」
鎌倉は家内が生まれ育った町まので以前に何度も遊びに行きました。懐かしい町です。懐かしいので写真をお送りいたします。写真はインターネットからお借りしました。「懐かしい鎌倉の風景」
あれは30年くらい前のことです。京都の郊外にある美しい竹林の中の道を歩いたことがあります。見事な竹林でした。その風景に似た写真をお送りいたします。写真はインターネットからお借りしました。「京都の郊外にある美しい竹林の写真」
鎌倉を代表する古刹の報国寺か竹寺として有名です。その写真をお送り致します。出典は、https://www.trip-kamakura.com/article/18726.htmlです。「鎌倉の報国寺の竹林の写真」
鎌倉は妻が生まれ育った町です。妻が懐かしいと言うで何度も行きました。そのうち私の故郷のように感じるようになりました。今日はそんな鎌倉の古刹の静寂の世界をご紹介致したいと思います。鎌倉の古刹めぐりの静寂の世界力を書きたいと思います。鎌倉のお寺は円覚寺と建長寺の二つ以外のお寺は規模が小さくて質素なたたずまいです。京都の寺のように華やかでありません。静かな小さいお寺が沢山あるのです。古刹の静寂の世界です。私はもう50年くらい前の中年になってからその魅力にとりつかれ何度も訪れました。円覚寺と建長寺をはじめ瑞泉寺、明月院、寿福寺、杉本寺、海蔵寺、報国寺、光明寺、などなど20位のお寺には何度も行きました。ある時は鎌倉や逗子や江の島の宿に泊まり、まだ人のいない朝早くから、読経の声が響く境内を散歩したものでした。そして鎌...「古都、鎌倉の古刹の静寂の世界」
ウエストン卿は日本の山々を愛し数多くの山に登ったのです。私は忘れるべきでないと思い彼の登山歴をお送り致します。1861年12月25日-イギリスのダービー市に生まれる。1890年(明治23年)-イギリス時代から持っていた趣味として国内での登山活動を開始。富士山、阿蘇山、霧島山、桜島、日光白根山などに登頂。1891年(明治24年)-軽井沢を出発し浅間山を経て松本から日本アルプスの一角、槍ヶ岳に初登頂。その後翌年にかけて飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈などを巡った。また、富士山にも複数回登頂した[2]。1893年(明治26年)-前穂高岳に登頂。このときの案内役で地元猟師の上條嘉門次との友情関係は、多く語り継がれている。またこの年の5月11日に、前宮ルートより恵那山に登頂した。同年8月には、立山登山を長野県側から立山...「日本の数多くの山に登ったイギリス人のウエストン卿の偉業」
ヒマラヤの山々と麓を歩く人々の写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=162です。「ヒマラヤの山々の写真」
夏の大雪山には高山植物の花が咲き素晴らしい眺めです。その写真をお送り致します。出典は、https://yuyupippu.com/?p=1073です。「夏の北海道の大雪山の写真」
上高地に関する記事を書いていたら、浦松佐美太郎著、「たった一人の山」を思い出しました。第二次大戦直前にスイスにてアルプスをひたすら制覇していた日本人の随筆集です。瑞々しい文章です。私も昔読んで感動しました。アルプスの山々での話を始め、帰国後は、穂高や富士山に登頂した話まで20編ほどの小編が収録されて7います。日本では1958年に出版されました。KotokoSatoさんの感想文です。https://bookmeter.com/books/323065第二次大戦直前にスイスにてアルプスをひたすら制覇していた日本人がいたことに驚き、そしてその当時に書かれたとは思えない程瑞々しい、鮮度が高い文章にさらに驚いた。アルプスの山々での話を始め、帰国後は、穂高や富士山に登頂した話まで20編ほどの小編から溢れるのは、山と真...「浦松佐美太郎著、「たった一人の山」を思い出す」
上高地の明神池、河童橋、田代池、大正池、そして奥穂高岳の紅葉風景の写真をお送りいたします。写真の出典は、「上高地の紅葉、2020年」https://yamahack.com/2178です。1番目の写真は明神池の紅葉です。明神池は上高地の中心の河童橋から歩いて60分ほどの上流にあります。一の池と二の池の大小2つの池です。池の入り口には穂高見命が祭られた穂高神社があり明神池は神域です。澄んだ池面に映る青空と木々の紅葉が神秘的な美しさを見せています。2番目の写真は田代池と周囲の紅葉です。田代池は上高地バスターミナルから河童橋の下流方向に歩いて40分ほどの所にあります。焼岳の噴火で出来た浅い池です。透明な田代池に岩魚が見えます。紅葉を池面に映し幻想的です。湿原なので穏やかな雰囲気を感じられる池です。3番目の写真は...「上高地の明神池、河童橋、田代池、大正池などの紅葉の美」
茫々64年前の夏に私オハイオ州立大学に留学しました。22歳の暑い夏でした。懐かしいのでオハイオの夏の写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。1番目の写真はオハイオ州立大学の建物です。残りの写真はオハイオの夏の風景です。「懐かしいオハイオの夏の写真」
明治の文明開化以来、日本人は西洋文化をこの国に取り込むことに努力して来ました。明治政府は優れた西洋人も雇い、日本の学問や文化を西洋風に発展させました。日本からも各分野の優秀な人材を西洋に派遣し留学させました。森鴎外や夏目漱石も留学しました。東洋と西洋の文化を比較しながら楽しむのが私の趣味です。ですから函館、横浜、神戸、長崎などに興味があり何度も訪れました。そして明治期に西洋人が避暑地として開いた八ヶ岳の清里、上高地等や軽井沢にも強く惹かれます。今日は軽井沢を選びご紹介したいと思います。軽井沢は中山道の宿場町でしたが明治19年に宣教師のショーが別荘を作ってからいろいろな外人宣教師が避暑に訪れ有名な別荘地となりました。そのような経緯があるので軽井沢には西洋文化の香りが現在でもそこはかとなく漂っています。私は軽...「夏の軽井沢を巡る旅」
神秘的な森の写真をお送り致します。写真の出典は、https://jp.freepik.com/photos/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E6%A3%AEです。「神秘的な森の写真」
上の写真は甲斐駒岳の麓にある小さな小屋のまわりに生きている樹木たちの写真です。もうすでに40年間も通いました。周囲の樹木を飽かずに眺めて過ごしています。小屋を作る10年前くらいから樹木が好きでした。ですから樹木にあこがれ、眺める趣味をほぼ60年くらい続けていたことになります。何故、樹木が好きなのかは分かりません。ヨーロッパへ旅しても森の中の散歩道を探して歩きます。特にドイツの黒い森は、近くに住んでいたので何度も歩きました。針葉樹の大木の森の中には幾筋も散歩のための道がついていました。小川沿いの少し巾の広い道は中世から続く古い道です。何処へ行っても樹木に憧れ、探し回ります。仕事でシンガポールへ行ったときは植物園をさがして訪ねました。その植物園には巨大な熱帯の樹木が亭々と青空に聳えています。あまりにも感動した...「樹木にあこがれ、眺める趣味60年」
以前に秋田県にある世界遺産の白神山地のブナ林を訪ねたことがあります。美しいブナの林でした。今日はこの白神山地のブナ林をご紹介致したいと思います。早速ですが白神山地の写真をお送り致します。インターンットからお借りしました。最後の写真は白神山地の西にある白神十二湖の一つの湖です。白神山地は、秋田県北西部と青森県南西部にまたがる約13万haに及ぶ広大な山地帯の総称です。ここには人の影響をほとんど受けていない世界最大級の原生的なブナ林が分布しています。1993年(平成5年)12月に世界遺産(自然遺産)になりました。ホテルや土産物店などが一切無くてただブナ林だけが延々と広がっています。車道が無く細い小道が林の中に続いているだけです。観光客が来ないので静かです。人間と言えば隣に家内がいるだけです。私は人気の無い原生林...「世界遺産の白神山地のブナの樹木に感動」
インドの西海岸のゴアはポルトガル領(1510〜1961年)の首府でした。ここはポルトガルのアジア交易の拠点となります。ポルトガルの首都リスボンと定期航路が結ばれていました。1534年にローマ・カトリック教会の大司教座が置かれると、多くの宣教師が訪れ、その中にはイエズス会の創設メンバーの一人、フランシスコ・ザビエルもいて、日本を訪れた宣教師もこの地を経由していました。聖堂や修道院が多く建造され、キリスト教関連施設が世界遺産に登録されています。詳しくは、https://worldheritage-mania.com/heritage-churches-convents-goa/をご覧下さい。「インドの世界遺産「ゴアの教会群と修道院群」」
インド人は日本人に好意を持っているようです。非常に親しげにします。そして多くので日本人の面倒を見てくれるのです。その優しさの原因には長年にわたり植民地として過酷に支配してきた大英帝国と戦争をして、インドの独立に貢献した日本人への恩義もあるのかもしれません。第二次大戦後、東京裁判でA級戦犯全員の無罪を主張したのはインド人裁判官ただ独りであったのです。その後、ネール首相が愛娘の名をつけたインド象を送ってくれ、敗戦で打ち沈む日本人の心を慰めてくれたのです。一方、アメリカ人もインド人は尊敬しているようです。アメリカにいるインド人は忠誠心や責任感が強く、頭脳明晰な人が多いからです。1990年前後に働いていたオハイオ州立大学の同じ学科には、2人のインド人教授がいました。私が指導していた学生にも一人のインド人がいました...「インドは日本の友好国」
南インドの海辺の風景の写真をお送り致します。写真は「南インドの海辺の風景」を検索してインターンットからお借りしました。「南インドの海辺の風景」
インドに行ったことはないが、アメリカやドイツで会ったインド人は皆例外なく親切で、私の面倒をよくみてくれた。宗教はヒンズー教が多い。日本人の仏教は大ざっぱに言えばヒンズー教の一派となるのか、非常に親しげにいろいろ面倒を見てくれる。1969年秋、ドイツのローテンブルグでのこと。私は34歳。カトリック教会へ連れて行ってくれたインド人フェルナンデス君は22歳。中世風のカトリック教会で3ケ月間、毎日曜日ミサへ連れて行ってくれた。ミサの後は決まって傍のレストランでチキンの空揚げの昼食をとり別れた。宗教談義はしない。ただ「ヨーロッパを車で観光するときには、村々の教会へ入り、お祈りしなさい。ヨーロッパ人の宗教が理解できますよ」と言った。彼はカトリック教徒であった。ローテンブルグを離れた私はシュツッツガルト市へ引っ越しまし...「インド人のフェルナンデス君の思い出」
インドの風景写真をお送り致します。写真は、「インドの風景写真」を検索してインターンットからお借りしました。「インドの風景写真」
世界遺産条約は1972年にユネスコで採択され,2023年10月現在,195か国が締結しています。日本も1992年にこの条約を締結し国際的な協力・援助体制の構築に貢献してきました。2023年10月現在,世界遺産は文化遺産933件,自然遺産227件,複合遺産39件を含む1,199件に上り,そのうち日本からは文化遺産20件,自然遺産5件の計25件の世界遺産が登録されています。さて今日はお釈迦様が生まれたインド世界遺産をご紹介致します。インドは歴史が古い国です。40件もの世界遺産があり、その数は世界一位です。40の世界遺産の一覧表は、https://whc.unesco.org/ja/list/?iso=in&search=&に掲載されています。今日は8件の世界遺産を選んでそれぞれの写真を示します。1番目の写真は...「お釈迦様が生まれたインドの40もの世界遺産」
小金井の滄浪泉園は近所なので何度も散歩しました。懐かしい場所です。中を散策するために風景の写真をお送り致します。写真の出典は、https://blog.goo.ne.jp/musashinosanpo180/e/93ea0e5bdb215b565d7ccf4a2d1b624fです。小金井の滄浪泉園の中の風景」
先程撮って来た写真です。この庭園は、明治・大正期に三井銀行の役員、外交官、衆議院議員などを歴任し、活躍した波多野承五郎(雅号・古溪)氏の別荘の庭園で、小金井市の歴史と共に歩んできた「はけと湧水」をたくみに生かした由緒ある緑地です。滄浪泉園の門標文字は犬養毅元首相自筆によるものです。園内は武蔵野の面影を十分とどめ、野鳥の鳴き声が一年中絶えることなく、こんこんと湧く清水をたたえた池にはカモ等も飛来します。「小金井の滄浪泉園の森と坂道の写真」
小金井市内は東西に走る国分寺崖線(ハケ)という10mを越える崖で坂上と坂下に大きく二分されています。この崖にはこれまでに「小金井の坂」としてアップした30近い坂道があります。坂下はハケからの湧水や、それを集めて流れる野川の水で古くから稲作が行われ、昔から人々が住んでいました。一方坂上は関東ロームと呼ばれる厚い火山灰層で農作には適していませんでしたが、江戸時代前半の玉川上水の開通に伴い、そこからの分水によって次第に開墾が進んでいきます。坂上、坂下にそれぞれ人々が多く住むようになって、その間の交流はこの崖の坂道を通して活発に行われるようになります。そして沢山の坂道がこの崖に出来たものと思われます。(https://koganei-kanko.jp/maron/archives/2956)「小金井の坂」として3...「江戸時代を想わせる小金井の坂道の名前」
カトリック葛西教会の今日の10時のミサの風景の写真をお送り致します。今日はインターンットをとうしてカトリック葛西教会のミサにあずかりました。「カトリック葛西教会の今日の10時のミサの風景」