今日の散歩は瑞々しい緑が美しい武蔵野公園でした。撮ってきた写真をお送り致します。「瑞々しい緑が美しい今日の武蔵野公園」
何年も前のことですが、妻が吉野山の桜を見たいと言うので、はるばる訪れたことがあります。遠方の山の中に桜木が程良く散在し、満開になっているのです。険し過ぎない山並みの暗い色の樹々が白や薄紅色の桜の花を浮きたてています。その風景は華麗でもあり、心を雄大な気分にもさせてくれます。それ以来、東京の近隣の奥多摩や高尾山系の山々の桜を注意深く見るようになりました。そうしたら吉野山のように山林の中にソメイヨシノの木を植林して櫻花を楽しんでいる場所を数カ所見つけました。その場所は人の住む集落の傍です。ソメイヨシノは種からは育ちません。ですから野鳥が運んだ種で育った桜木ではないのです。里人が何十年もかけて苗木を植え、周囲の雑草を刈って育てたのです。その上、山の形や雑木林のたたずまいに調和するように配置して植えたのです。山里...「山に咲く桜を探して秘境、檜原村に分け入った思い出」
都立武蔵野公園を根気良く東へ行き、都立野川公園まで行って来ました。野川公園は遠いのでたまにしか行きません。今日は新緑が綺麗なので遠方まで行って来ました。爽快な気持ちになりました。写真は都立野川公園の西口付近の風景です。野川公園の東西を東八道路が横切り、その北側を野川が西から東に流れています。この公園には武蔵野の雑木林が多く残っています。「今日は都立野川公園まで行って来ました」
今年も庭の卯の花の咲く季節になりました。この花を見ると、卯の花の匂う垣根に…という歌を小声で唄います。良い季節です。『夏は来ぬ』卯の花の匂う垣根に時鳥(ホトトギス)早も来鳴きて忍音(しのびね)もらす夏は来ぬさみだれのそそぐ山田に早乙女が裳裾(もすそ)ぬらして玉苗(たまなえ)植うる夏は来ぬ『夏は来ぬ』は、作詞:佐佐木信綱、作曲:小山作之助により1896年に発表されました。「庭の卯の花の写真をお送り致します」
「今日の散歩、隣町の栗山公園と東小金井駅まで行って来ました」
今日は初夏の晴天の日のようでした。隣町まで足をのばし栗山公園と東小金井駅まで行って来ました。栗山公園と東小金井駅の写真です。「今日の散歩、隣町の栗山公園と東小金井駅まで行って来ました」
「今日の復活節第5主日のミサは広島市のカトリック幟町教会からの動画配信であずかりました」
カトリック幟町教会の今日の復活節第5主日のミサにあずかりました。カトリック幟町教会のミサの風景写真をお送り致します。「今日の復活節第5主日のミサは広島市のカトリック幟町教会からの動画配信であずかりました」
2024年4月28日復活節第5主日のミサ動画配信です。広島市のカトリック幟町教会のミサ動画配信,のご案内です。今日のミサの動画配信は、https://www.youtube.com/@noborichoです。第1朗読使徒言行録9章26~31節第2朗読ヨハネの手紙一3章18~24節福音朗読ヨハネによる福音書15章1~8節添付の写真は広島市のカトリック幟町教会です。広島県広島市中区幟町4-42電話082-221-0621FAX082-221-8486「2024年4月28日復活節第5主日のミサ動画配信」
北海道の東部の野付半島の近くにキラクという幻のまちがありました。それを説明した文章をご紹介致します。https://kai-hokkaido.com/feature_vol44_episode1/にあります。「幻のまちキラク」知床半島と根室半島のちょうど中間あたりに、地図上で見ると釣り針のような形をした全長28km、日本最大の砂嘴、野付半島がある。ドドワラ・ナラワラの特異な景観、水と緑と野生鳥獣、湾内に生息するホッカイシマエビの打瀬舟漁などの風景は多くの観光客を魅了している。今でこそ人けのない荒涼としたこの半島に、かつては人々の喧騒が存在したという言い伝えが残っている。昭和39(1964)年に北海道大学探検部が行った調査報告書によると、「地元の人々にキラク町と呼ばれている場所ある。キラクの由来は気が楽にな...「北海道にあった幻のまちキラク」
道東の知床半島は世界遺産に登録されている国立公園です。知床半島周辺の美しい風景は知床五湖、オシンコシンやカムイワッカの滝、夕陽の綺麗なプユニ岬、秘境感満載の羅臼湖などがあります。ここでは、イワウベツ川、知床五湖、オシンコシンの滝、羅臼湖・三の沼の順に写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.pixpot.net/al_lists/dview/117/hokkaido-spです。夏になると知床半島に美しい花々が咲きます。その写真もお送り致します。写真は「知床半島に咲く花々」を検索してインターネットにある写真をお借りしました。「世界遺産の知床半島周辺の美しい風景写真」
「覚えていらっしゃるでしょうか下村湖人の書いた『次郎物語』」
昔、下村湖人の書いた『次郎物語』読んで感動しました。しかし内容の具体的なことは忘れました。小金井市には下村湖人が『次郎物語』を執筆した家があります。市が「浴恩館」と名前をつけて保存し公開しています。その屋敷跡には巨木が茂り大きなツツジが綺麗な花を咲かせています。新宿から開館と同時に移植したツツジです。先程「浴恩館」とツツジと巨木の写真を撮って来ました。その写真をお送り致します。「覚えていらっしゃるでしょうか下村湖人の書いた『次郎物語』」
野付半島のトドワラに咲くハマナスと赤い実の写真をお送り致します。背景に16Km沖にある国後島が写っている写真もあります。写真は「野付半島に咲くハマナス」を検索してインターネットにある写真をお借りしました。「北海道の野付半島に咲くハマナスと赤い実の写真」
小金井公園は広々した芝生だけでなく巨木の森もあります。今日は森の中に入り、美しい新緑の木立の風景の写真を撮りました。「美しい新緑の木立の風景の写真を撮りに行った」
年年歳歳ナンジャモンジャの並木が花を咲かせます。近所の並木道です。今年も見事に咲いたので先程撮って来ました。その写真をお送り致します。「今年もナンジャモンジャの並木が咲きました」
お稲荷さんと親しまれている稲荷神社は全国の津々浦々にあります。庶民が信仰し日本人の日々の心の支えになっています。家々の屋敷の中の小さな祠のお稲荷さんから壮大な稲荷神社までいろいろな規模のものが無数にあります。今日はまず私が撮ったお稲荷さんの写真をご覧下さい。1番目の写真は近所の江戸時代からの大久保家のお稲荷さんです。屋敷稲荷を道路に出して皆がお祈り出来るようにしています。2番目の写真は小金井街道に面した大松の下の稲荷神社です。3番目の写真は小金井市で一番大きな八重垣稲荷神社です。元禄13年に渡辺家の邸内に建てられました。渡辺家は代々神官の家だったので祠ではなく神社のような構造になっています。訪ねてみると樹々が鬱蒼と生い茂り何故か怖いような、そして神秘的なお稲荷さんです。渡辺家の家屋敷は無くなっていて八重垣...「日本人の心の支えとしてのお稲荷さん信仰」
都会に生まれ育った人でも故郷というものに憧れを持っています。そうして農村風景をあたかも自分の故郷の心象風景として心の底に大切に持っています。そうでない人もいますが、多くの日本人は故郷の心象風景を持っているのです。私の農村の風景に憧れています。それは美しい日本の原風景です。今日はそんな故郷の心象風景にピッタリの宮崎県の椎葉村をご紹介いたします。家屋が美しいので国の重要文化財に指定されています。椎葉村は険しい山地で急な斜面に点々と集落が存在しています。椎葉村は壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が落ち延びた場所なのです。1191年(建久2年)、追討のため那須大八郎宗久が襲って来ますが、平氏に再挙の見込み無しと見て追討を取り止め引き揚げます。那須大八郎宗久が椎葉に滞在中に侍女の鶴富が娘を生みます。この娘に後に婿を娶...「日本人の魂を揺さぶる椎葉村の風景」
ライラックの花の写真です。写真の出典は、https://www.accespourtous.org/hanakotoba/h048.htmlです。「ライラックの花の写真」
気温が高くなって花々もいきいきとなってきました。「小金井公園の花々もいきいきと咲いています」
私は50歳の時に趣味として霞ヶ浦でヨットを始めました。今日はそんなヨットの趣味の写真をご紹介いたします。1番目の写真は「あけび号」の姿です。50歳の頃琵琶湖から霞ヶ浦へ陸送して来た中古のYAMAHA19です。10年間乗りました。長い舵とヤマハ5馬力の船外機がついています。2番目の写真はYAMAHA19を陸揚げした姿です。ヨットの構造で一番重要なのは船底から下へ伸びているキールです。厚い鉄製で船体の重さの40%位もあります。これで船は疾走中に横倒しになるのを防いでいます。3番目の写真は60歳の頃買った長さ26フィートのルナ3世です。長さのわりに大きなキャビンがついていて炊事用の2口コンロ、調理台、流しがついていました。霞ヶ浦であるお医者から中古を買いました。このヨットには75歳まで乗りました。4番目の写真は...「霞ヶ浦と私のヨットの写真」
ヨットの趣味は50歳の頃から始めました。大学時代の友人の星野君がすすめてくれたのです。彼は猪苗代湖で大型ヨットのクルーザーに乗っていました。私も中古のクルーザーを買い霞ヶ浦で乗り始めました。その頃、星野君が横浜に係留展示してある帆船日本丸をよく見学して帆走の勉強をしろと言ったのです。以下は今は亡き星野君が教えてくれた帆船日本丸の訪問記です。星野君に感謝しながら書きました。横浜の「みなと未来」に係留し一般公開している大型帆船日本丸は現役の帆船です。今でもたまに東京湾に出て帆走しています。以前何度か訪れて撮った写真でこの帆船をご紹介します。帆船日本丸は、姉妹船海王丸とともに昭和3年の第55帝国議会で予算案が可決し、英国のリース市のラメージ&ファーガソン社へ発注されました。ラメージ&ファーガソン社は設計と鋼材の...「今は亡き星野君が教えてくれた帆船日本丸のこと」
私は昭和11年に生まれ24歳まで仙台の向山に住んでいました。向山には三つのお寺があります。長徳寺、大満寺、大年寺です。懐かしいので長徳寺、大満寺、大年寺の写真を示します。1番目の写真は向山から見下ろした仙台市の中心街です。2番目の写真は長徳寺の門です。3番目の写真は長徳寺の本堂です。4番目の写真は大満寺です。5番目の写真は大満寺の虚空蔵堂です。6番目の写真は大年寺です。「懐かしい仙台市の長徳寺、大満寺、大年寺の写真」
先程、小金井小次郎の墓の写真を撮って来ました。小次郎は我が町、小金井市でただ一人の有名人です。まずお墓のある西念寺の写真です。1番目の写真は小金井市にある西念寺です。小金井市には昔、小金井小次郎という侠客がいました。武蔵と相模にわたる縄張りに数千人の子分を擁していたのです。2番目の写真は小金井次郎の記念碑です。西念寺にあります。3番目の写真は小金井次郎の記念碑の角石に刻まれた組代々の総長の名前です。小金井小次郎(1818~1881年)は幕末・明治の俠客でした。武蔵小金井の名主、関勘右衛門の次男でした。明治に刊行された戯作「落花清風慶応水滸伝」で有名になった俠客です。小次郎は、博打で三宅島流しになり、明治のご赦免で帰還します。しかし三宅島の貧乏な人々に同情し、有志を集め再度三宅島に渡り井戸を掘ったり農業や牧...「我が町でただ一人の有名人の小金井小次郎の墓と俠客の世界」
老境に至って自分の人生を振り返ると、外国への留学で深い影響を受けたことをつくずく思います。以前に「若い時のアメリカ留学で私の受けた影響」という記事を書きました。留学のおかげで私はアメリカが大好きになりました。アメリカ留学は24歳から26歳まででしたが、34歳のときドイツに留学し、今度はドイツにも魅了されました。外国に住むと、その国が好きになってしまうのです。今日はドイツでどのような影響を受けたか二つほど書いてみます。まず初めに私が3ケ月住んでドイツ語を集中的に勉強したローテンブルグの風景写真と隣町のバンベルグのをご紹介しましょう。1番目の写真はローテンブルグの夜の風景です。写真の出典は、https://beautiful-photo.net/medieval-town-of-rothenburg-ob-…...「ドイツ留学で受けた影響」
日本は1945年8月15日に米英連合軍に無条件降伏をしました。日本の津々浦々は米英連合軍に占領されます。日本の歴史開闢以来の出来事です。この破滅を招いたものの一つは日独伊三国同盟でした。今日は日本の破滅へ導いた日独伊三国同盟が結ばれた歴史を簡略に書いてみたいと思います。日独伊三国同盟は、1940年(昭和15年)9月27日にベルリンの総統官邸で調印された日本、ドイツ、イタリアの軍事同盟です。日独伊三国間条約の始まりは1936年(昭和11年)の日独防共協定でした。続いて1937年(昭和12年)には日独伊防共協定が出来ました。三国の協力関係が具体的に明記され、アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにおける独伊の指導的地位の相互確認をしたのです。これで調印国いずれか1か国が他国から攻撃を受けた場合に相互に援...「日本の破滅へ導いた日独伊三国同盟」
「今日の復活節第4主日のミサはイグナチオ教会からの動画配信であずかりました」
イグナチオ教会の今日の復活節第4主日のミサにあずかりました。イグナチオ教会のミサの風景写真をお送り致します。「今日の復活節第4主日のミサはイグナチオ教会からの動画配信であずかりました」
2024年4月21日復活節第4主日のミサ動画配信,のご案内です。今日のミサの動画配信は、https://www.youtube.com/watch?v=Ozkbr1RTngYです。司式はデニ神父です。「2024年4月21日復活節第4主日のミサ動画配信,」
小金井公園には長い藤棚があります。藤の花が咲くと毎年写真を撮りに行く藤棚です。先ほど今年の藤の花の写真を撮って来ました。美しい藤の花をご覧ください。「藤の花が今年も華麗に咲きました」
昨日の記事は、「私の人生の一番大きな出来事はオハイオ留学だった!」というものでした。しかし考えてみると人生での大きな出来事は他にもいろいろあります。今日は、「私の人生の一番大きな出来事は結婚だった!」という記事を書きたいと思います。しかし差し障りがある書きにくい話題です。あまり深刻に考えないで軽い気持ちで書きながします。私は見合い結婚をしました。幸運にもいろいろな点で良い女性と一緒になりました。優しくて賢い女性です。しかし女としてのあまり尊敬出来ない特徴も持っています。このように抽象的に書くと何や何だか分かりません。そこで具体的に書きます。妻は戦前に鎌倉で生まれ鎌倉の幼稚園と小学校に行きました。群馬県の下仁田に疎開しその後は東京に戻り青山短期大学と国学院大学を卒業しました。日本文学をよく知っており特に源氏...「私の人生の一番大きな出来事は結婚だった!」
久しぶりにウグイスの鳴声を聞きながら散歩をしました。以前は自宅の庭木によく来て鳴いていたものです。家々が立て込んでから来なくなりました。本物の春に遭ったような気分になりました。「ウグイスが鳴く武蔵野公園まで散歩」
オハイオ州には通算、4年間住んでいました。懐かしい州なのでその州花の真紅のカーネーションの写真をお送りいたします。他の色のカーネーションの写真も添えました。写真は「カーネーションの花の写真」を検索して、インターネットの写真から綺麗な写真を選びました。「オハイオ州の州花は真紅のカーネーション」
老人ボケになると同じことを繰り返し書きます。今日も同じことを書きます。我が人生の一番大きな出来事を考えてみますとやはりオハイオへの留学だったと思います。若かった私は「青雲の志を抱いて郷関をいづる」の文字通うりアメリカのオハイオ州立大学へ留学したのです。まだ戦後の貧しさのあった1960年でした。オハイオで迎えてくれたのがセント・ピエール教授でした。1番目の写真の右がセント・ピエール教授です。オハイオ州立大学での勉強は想像以上に厳しいものでした。それでも1962年の8月には、DoctorofPhilosophy、博士の学位記を手にすることが出来たのです。「青雲の志を抱いて郷関を出づる」は高校の漢文の時間に習いました。漢文の先生は情熱的にいろいろな漢詩を朗読しながら教えてくれたのです。若い私はこの言葉を人生の道...「私の人生の一番大きな出来事ははオハイオ留学だった!」
今日は曇り日です。午後の散歩として小金井公園まで行って来ました。公園には人陰も無く静かです。良い気分で散策しました。今日の小金井公園の風景写真をお送り致します。「今日の小金井公園の風景」
プロが撮った美しい西伊豆の風景写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.jalan.net/kankou/210000/211400/g1_22/です。1番目の写真は御浜岬です。戸田港口を弓形に海に突き出した半島で、松やイヌマキが繁茂しています。又花は6月スカシユリ、7・8月ハマユウ、10月ツワブキが群生し開花します。2番目の写真は浮島海岸です。砂浜半分・磯半分で波は多少荒いが磯遊びによく、景観に優れています。2018年4月に世界認定された伊豆半島ジオパークならではの自然の造形を見ることがでます。真ん中に穴が開いている海に突き出した岩を三ツ足と呼んでいます。3番目の写真は大浜海水浴場(静岡県西伊豆町)です。西伊豆の中でも、比較的ゆったりと楽しめる海水浴場です。浜辺で混み合うこともなく、約...「美しい西伊豆の風景写真」
「伊豆半島の最南端の「ヒリゾ浜」と西伊豆の「堂ヶ島天窓洞」の絶景」
伊豆半島の2ケ所の絶景写真をお送り致します。1番目の写真は伊豆の最南端にある「ヒリゾ浜」です。南国のリゾート地のような美しい海岸です。あたりは国立公園で手つかずの自然がたくさん残っています。2番目の写真は西伊豆町にある「堂ヶ島天窓洞」です。国の天然記念物に指定されています。「青の洞窟」としても有名で、神秘的な洞窟内を探索できる「洞くつめぐり遊覧船」の体験がおすすめです。「伊豆半島の最南端の「ヒリゾ浜」と西伊豆の「堂ヶ島天窓洞」の絶景」
新緑が美しい季節になりました。遅咲きの桜も競演です。今日の午後小金井公園で撮った写真です。「新緑と遅咲きの桜の競演」
雲の姿がドラマチックなので、空が広く見える小金井公園まで行って雲の写真を撮って来ました。「なにやらドラマチックな雲の姿の写真を撮りに行った」
仙台からよく見える山です。標高1,175メートルcです。これまで何度か爆発を繰り返したと火山です。溢れ出た溶岩流が南側の山腹に三つの段丘を作っています。私も中学時代に登りました。汗をかき苦しい登山でした。しかし頂上からの眺めは雄大で、仙台市街、から仙台湾の海まで見渡せました。「懐かしい仙台の山、泉ケ岳」
名門小金井カントリークラブの写真を撮りに行って来ました。小金井カントリークラブは1937年に高石真五郎氏が初代理事長に就任し開場しました。戦前から東京の上流階級の人がプレイした名門ゴルフ場です。先程行って写真を撮って来ました。広々して気持ちの良い場所です。「名門小金井カントリークラブの写真を撮りに行った」
「大友君や星野君とヨットに乗った懐かしい葉山マリーナの写真」
大友君や星野君とヨットに乗った懐かしい葉山マリーナの写真をお送り致します。私は38年前の50歳の時、趣味としてヨットを始めました。始めは江の島のヨットスクールと葉山マリーナでデンギィの操船方法を1年間ほど習いました。その後、故人になってしま大友君や星野君とよく葉山の海でヨットに乗ったものです。懐かしい葉山マリーナの写真をお送り致します。「大友君や星野君とヨットに乗った懐かしい葉山マリーナの写真」
親友の大友君が働いていた石川島播磨重工の写真です。1番目の写真は大友君が作っていたジェットエンジンです。2番目の写真は石川島播磨重工の呉造船所の写真です。3番目の写真は石川島播磨重工の本社の写真です。「親友の大友君が働いていた石川島播磨重工の写真」
今日は東京のカトリック松原教会の動画配信であずかりました。カトリック松原教会の動画配信は、https://matsubara-cath.chu.jp/ja/です。カトリック松原教会の住所などは下記の通りです。〒156-0043東京都世田谷区松原2丁目28番5号TEL.03-3321-0941FAX.03-3321-0009京王線・井の頭線「明大前」駅下車徒歩4分です。ミサの式次第、開祭司祭:父と子と聖霊のみ名によって。会衆:アーメン。回心の祈り、栄光の賛歌、ことばの典礼、感謝の典礼、奉献文、感謝の賛歌、閉祭添付の写真はカトリック松原教会の今日のミサの風景です。「東京のカトリック松原教会の今日のミサの動画配信」
小金井公園の一画に「江戸東京たてもの園」があります。そこにある江戸時代の3県軒の農家の写真を撮りに行って来ました。「江戸時代の農家の写真を撮りに行った」
以下はゴルバチョフ元ソ連大統領の死亡記事です。2022年8月31日、ByReuters[モスクワ30日ロイター]-東西冷戦の終結をもたらしたゴルバチョフ元ソ連大統領が30日、死去した。91歳だった。モスクワの病院関係者が明らかにした。ゴルバチョフ氏は1985年に54歳でソ連共産党書記長に就任。「ペレストロイカ(改革)」や「グラスノスチ(情報公開)」政策でソ連の政治、経済の改革を断行した。米国と軍縮合意を結んだほか、第2次世界大戦後に欧州を分断していた「鉄のカーテン」を開放し東西ドイツ統合を実現するため、西側とのパートナーシップを構築。90年にノーベル平和賞を受賞した。ただ、グラスノスチ政策で以前は考えられなかった党や国家に対する批判が可能になったと同時に、ソ連内の民族主義を刺激。ラトビア、リトアニア、エス...「ゴルバチョフ元ソ連大統領は2022年に死す」
春爛漫の日々が続きます。良い季節になりました。しかしウクライナでは悲惨な戦乱が起きています。何故人間は戦争をするのでしょうか。ウクライナでの戦争を考えざるを得ません。少し考えてみました。ウクライナの戦乱を歴史的に考えてみます。ロシアが悪いと非難すべきは明白です。しかし歴史的かつ客観的に考えると別な理解が出てきます。ウクライナの戦乱は旧ソ連の内戦です。旧ソ連の中枢を担ったウクライナとロシア・ベラルーシが対立し戦争になったのです。1991年に旧ソ連が崩壊します。ロシア・ベラルーシは共産主義体制のままですがウクライナは資本主義の国家になってしまったのです。旧ソ連時代にロシアの親友だったウクライナがロシアを裏切ったのです。当然ロシアは怒り心頭です。恥じも外聞のなくウクライナへ軍事侵攻したのです。この経緯を見ると現...「春爛漫の日々に思う悲惨なウクライナの戦乱」
春爛漫の日々が続きます。良い季節になりました。何故か心がうきうきします。こんな朝は花を描いた名画を眺めると良いと思います。花を描い美しい絵の写真をお送りいたします。1番目の写真はルドンの「野の花」です。1840年、フランス出身の象徴主義オディロン・ルドンの作です。2番目の写真はルノワールの「花瓶の花」です。3番目の写真はセザンヌ作の「花と果物のある静物」です。4番目の写真はゴッホの「青い花瓶の花」です。今朝は花を描い美しい絵の写真をお送りいたしました。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)「春爛漫の日々、花を描いた名画を楽しもう」
武蔵野公園へ行く道は野川に沿って下って行きます。その道沿いのシダレザクラが華麗に咲いていました。桜は種類によって満開になる時期が違うので3月中旬から4月中旬まで楽しめます。今日のシダレザクラが今年の最後になるのでしょうか。今日のシダレザクラの写真をお送り致します。「今日は武蔵野公園まで散歩しました」
小屋は山梨県の西端の甲斐駒岳の麓にあります。その付近の新緑の写真をお送り致します。写真は2008年の5月に撮りました。なお4枚目の写真には家内と息子と幼い頃の3人の孫がが写っています。左の白服が家内でその右が長孫です。その隣が下の孫で黒服の男が息子です。もう一人の孫は右端に写っています。16年前は3人の孫も小さな児でした。時の流れは早いものです。「山林の中の小屋の近くの新緑の写真」
今日は巨木の森の中を散歩してきました。森の中にひっそりと花が咲いていました。「今日の小金井公園の午後の散歩」
国立の桜並木を眺めてピエトロで昼食をして来ました。葉桜の並木も良いものです。国立の桜並木を通ってイタリアンレストランのピエトロで昼食です。息子が運転して家内と3人でパスタの食事をしました。息子は孝行息子になりました。「国立の桜並木とピエトロで昼食」
「東京の世田谷城、八王子城、片倉城、渋谷城、江戸城、そして仙台城の石組の写真」
鎌倉時代の後は室町時代と言います。しかし室町幕府の力が弱く、その権力は遠い関東には届きませんでした。関東地方は鎌倉時代の直後からいきなり戦乱の続く戦国時代に突入したのです。その時代に関東地方では数多くの城や砦が作られたのです。現在の東京都にあった城や館は次の通りです。江戸城、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどです。東京都だけでこれだけあるのですから関東地方一円にはもっともっと数多くの城が存在していたのです。今日は世田谷城、八王子城、滝山城、片倉城、渋谷城、江戸城などの石組をご紹介したいと思います。そして我が故郷の仙台城...「東京の世田谷城、八王子城、片倉城、渋谷城、江戸城、そして仙台城の石組の写真」
サレジオ学院の聖堂のミサに通っていた時期がありました。懐かしいので時々散歩に行きます。先ほど行って写真を撮って来ました。「サレジオ学院の風景写真を撮りに行った」
東北地方の六大祭りを書くと次のようになります。青森県(青森ねぶた祭)七夕祭り灯篭流しが変形して出来たと言われる「青森ねぶた祭」。...秋田県(秋田竿燈まつり)真夏の病魔や邪気を取り払う“ねぶり流し行事”として、長い歴史を持つ「秋田竿燈まつり」。...岩手県(盛岡さんさ踊り)...山形県(山形花笠まつり)...宮城県(仙台七夕まつり)...福島県(福島わらじまつり)さて写真は「青森ねぶた祭」です。「東北地方の六大祭り」
昨日久しぶりに旧友、及川源悦郎さんから南部鉄器の会社の紹介のパンフレットが送って頂きました。及川源悦郎さんは大学の同級生でした。東北大学金属工学科を1958年に卒業後、家業である及源(オイゲン)鋳造に入社しました。第四代目社長になり、その後は会長として後進の指導に当たっていました。お子さんが社長を継いでいます。そこで頂いたパンフレットに出ていた「鹿踊り」の写真をお送りいたします。1番目の写真は南部地方の「鹿踊り」の写真です。そして及源(オイゲン)鋳造の鉄の鋳造製品の写真も示します。2番目の写真は鉄瓶です。下の写真は戦前の及源鋳造の店の前の写真です。3番目の写真は源鋳造の店の前の写真です。南部鋳鉄は11世紀に平泉に藤原3代が隆盛をきわめたおりに鋳物職人を近江(現在の滋賀県)から招いたことに始まりました。南部...「及源さんと南部鉄器のことなど」
午後から玉川上水の樹々の新緑の写真を撮り行にました。ついでに和食の店いろりの里の写真も撮りました。いろりの里は人生の節目、節目に使った懐かしい店です。そんな樹々の新緑と懐かしい料亭の写真をお送り致します。玉川上水は江戸初期に江戸へ生活用水を送るため、多摩川上流の羽村から取水し四ツ谷まで43Kmの堀を作ったものです。江戸幕府から委託され、1653年(承応2年)に工事を完成させた玉川兄弟の銅像は羽村の堰の岸辺に立っています。現在も樹々はよく手入れされ大きな樹々が繁っています。江戸時代の自然がそのまま残っているようです。その樹々の新緑がこの季節に美しいので何度も眺めに行きます。今日は近所の範囲の玉川上水の樹々の写真をお送り致します。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人...「玉川上水の樹々の新緑といろりの里」
陽春の季節になりました。いろいろな花々も一斉に咲き出し素晴らしい季節です。そして新緑が萌え出でて明るく輝いています。埼玉県に近い清瀬市の金山緑地公園の新緑です。以前に写真を撮りながら歩いていると、体中が新緑の色に染まるような感じがしました。若い葉の香りもします。爽快でした。写真をお楽しみ頂けたら嬉しいです。「水辺に輝く新緑の風景」
小金井公園で瑞々しい新緑の写真を撮って来ました。去年の4月下旬です。「小金井公園の瑞々しい新緑の写真を撮って来ました」
桜と菜の花の競演です。小金井公園の西の花園で桜と菜の花が競演していました。「桜と菜の花の競演」
今日の小金井公園の中央広場の桜です。もう散り始めました。桜の命は儚いです。こうして春も過ぎ行くのでしょうか。「今日の小金井公園の中央広場の桜」
円覚寺にはよく行きました。私が好きな鎌倉のお寺は円覚寺です。平和な雰囲気で境内がゆったりとしています。境内を散歩しながら鎌倉仏教のことを考えます。さっそくですが円私が好きな覚寺をご紹介します。円覚寺は鎌倉五山の第2の大きなお寺です。境内には総門、山門、仏殿、選仏場、方丈、国宝の舎利殿、12の塔頭(たっちゅう)など多くの建物があります。しかし今日は禅宗のお寺で重要な坐禅堂の選仏場の写真からご紹介いたします。1番目の写真は坐禅堂の選仏場の写真です。円覚寺は一般向けの座禅会や学生座禅会など毎日のように座禅会を開催していて誰でも気軽に座禅が組めます。2番目の写真は坐禅堂の内部の写真です。この坐禅堂は元禄12年(1699年)建立の茅葺き屋根の建物です。内部には写真にあるように薬師如来立像(南北朝時代)を安置していま...「私が好きな鎌倉の円覚寺の写真」
埼玉県の新座市にある平林寺をご紹介いたします。野火止用水のある平林寺界隈には昔ながらの武蔵野の森があちこちにあります。1番目の写真は平林寺の付近にある武蔵野の森です。農地が広がり、その向こうに森があるのです。2番目の写真は平林寺の表門です。道の左右には巨大なケヤキが繁っています。3番目の写真は平林寺の東側にある南北の道路です。道の両側が森になっています。4番目の写真葉は平林寺の仏堂です。平林寺は埼玉県、新座市の市役所の向かい側にあります。南北朝の時代の1375年に大田備中守によって同じ埼玉県の岩槻に創建されました。そして1663年に松平伊豆守信綱の遺児、輝綱によって現在地へ移築されたお寺です。この平林寺は禅の修業で有名なのです。その境内の雑木林が広大で散策に良いお寺です。正門前の有料駐車場は駐車料500円...「野火止の平林寺」
平林寺には武蔵野が広がっています。四季折々に散策が楽しいのですが紅葉の頃も素晴らしいのです。今は春ですが紅葉の平林寺の写真をお送り致します。私がよく散歩したお寺の一つに平林寺という禅宗の臨済宗のお寺があります。家内が撮ったお墓の写真を示します。5番目の写真は修行なかばにして死んでしまった禅僧のお墓です。このお寺は南北朝の頃に創建され江戸時代には川越城主の松平家のお寺として栄えました。ですから立派な松平家の代々のお墓が並んだ墓地もあります。そしてお寺の右奥には歴代住職のお墓が並んだ墓地もあります。しかしそれとは別にこのお寺で病没した禅僧たちのお墓が丁寧に保存されているのです。彼等の子孫は何処に行ったか分かりせん。無縁墓です。しかし現在でも線香を上げる台が新しく作ってあります。6番目の写真はおもに江戸時代の無...「今は春ですが紅葉の平林寺の写真をお送り致します」
小金井駅の北側の住宅地にある上の原公園の桜も見事に咲きました。「自宅に近い上の原公園の桜も見事です」
本物の春の陽気に誘われて武蔵野公園の桜花の写真を撮りに行って来ました。久しぶりに青空の写真が撮れました。「今日の都立武蔵野公園の桜花の写真」
今日はイグナチオ教会のミサのインターネットの動画配信とともに預かりました。祈りました。イグナチオ教会のミサの風景の写真をお送りいたします。「今日の四谷のイグナチオ教会のミサの風景です」
キリスト教を簡単至極に説明したいと思います。分かり易く説明するためにお釈迦さまの教えと比較しながら話を進めて行きたいと思います。さて、ユダヤ民族だけの民族宗教として旧約聖書が前900年頃に出来ました。それから、長い年代にわたって改正が続きましたが、ユダヤ民族がバビロニアに捕囚されていた時代に大部分が編集されたそうです。この旧約聖書は長い間、ユダヤ教の基本でしたが2000年前にイエス・キリストが改正をして世界の全ての民族に通用するキリスト教を作ってしまったのです。この宗教の特徴は『神はヤハウエ神だけである。偶像崇拝は行わないこと』ということにあります。仏教と比較しますとキリスト教では唯一の神が存在しますが、仏教では神の存在を認めていません。お釈迦さま自身はあくまでも人間であって死んだら空(クウ)になるだけで...「分かりやすい仏教とキリスト教の比較」
イグナチオ教会の今日のミサの動画配信は、https://www.youtube.com/watch?v=LoCtqZEz8y0です。通常のミサの式次第、開祭司祭:父と子と聖霊のみ名によって。会衆:アーメン。回心の祈り、栄光の賛歌、ことばの典礼、感謝の典礼、奉献文、感謝の賛歌、閉祭添付の写真はカトリック小金井教会の先週の復活祭のミサの風景です。「谷のイグナチオ教会の今日のミサの動画配信」
名勝小金井桜の起源は元文2年(1737年)江戸幕府の新田開発の一環として玉川上水の両岸に植樹されたヤマザクラの並木です。奈良県の吉野山と茨城県桜川から取り寄せたとされる由緒ある桜です。このヤマザクラの並木は、江戸時代から地元の農民たちにより守られてきましたが、幕府の代官たちも雑木の伐採や桜の苗木の補植を進めるなど、桜を守る努力を続けてきました。https://koganeizakura.com/4indexkoganeisakura.htmlをご覧下さい。1番目の写真は大正時代の小金井桜の花見です。玉川上水の土手でした。小金井公園は無かったのです。「小金井桜とは?」
小金井桜は江戸時代から有名な名勝でした。昔は小金井村の玉川上水の土手に植えてありました。戦後に小金井公園が都立公園として整備されると中央広場に数十本のソメイヨシノが植えられました。広い場所に数十本の桜花が満開になると多くのお客が来て広場を埋めつくします。先程行ってきましたら満開で、大勢の花見客でした。撮って来た写真をお送り致します。「名勝の小金井桜の数十本が遂に満開になりました」
今日の桜花の写真です。近所の公園に今日の桜花の写真を撮りに行きました。曇り日なので鮮明な写真ではありませんがお送りいたします。「今日の桜花」
吉野山の桜の風景です。写真の出典は、https://weathernews.jp/sakura/spot/346/です。「吉野山の桜の風景」
この写真はインターンットからお借りしました。https://hanami.walkerplus.com/detail/ar0313e60411/全国1300カ所の桜名所・お花見スポット情報を掲載。2024年の桜の見頃時期がわかる!開花情報を毎日更新でお届け。満開の桜を楽しもう「武蔵野公園の桜の開花状況の写真」
小金井公園の現在の桜の開花状況です。先程行ってきました。まだ満開ではなく8分咲きのようでした。あと2,3日で見事に満開になるでしょう。写真は、インターンットからお借りしました。https://weathernews.jp/sakura/spot/109/「小金井公園の現在の桜の開花状況」
パブロ・ルイス・ピカソは、1881年ましに、スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市で生まれました。1973年南仏ニース近くにあるムージャンの自宅で肺水腫により死去。1899年、バルセロナに戻る。バルセロナにある「四匹の猫」というカフェに通い、芸術家たちと交わりながら絵を描く。簡素ではあるが、このときに自身初の個展を開催する。ラ・バングアルディア紙で好意的に批評され、ピカソに注目が集まり始めた。ピカソは非常に多作な作家であり、世界中の多くの美術館がピカソの作品を保有している。ピカソの名を冠する美術館だけでも、まず生まれ育ったスペインではバルセロナに1963年にピカソ美術館(バルセロナ)が開館し、2003年には遺族がピカソの出身地であるスペインのマラガにピカソ美術館(マラガ)を開館した。ピカソは1973年の死...「ピカソの抽象画」
寒い日が続いていますが日本の抽象画の岡本太郎の絵を見て元気になりましょう!写真の出典は、https://www.tokyoartbeat.com/.../exhibition-okamoto-taro...です。「日本の抽象画、岡本太郎の絵」
西洋の絵画に抽象画があります。その抽象画を見て楽しむためには抽象画のちょっとした歴史を知っておいたほうが良いと思います。今日は抽象画にてついて少し書きたいと思います。さて抽象画を最初に描いたのはカンディンスキーと言われています。ワシリー・カンディンスキー(1866年~1944年)は、ロシア出身の画家であり、美術理論家でした。https://www.musey.net/artist/80から抜粋致します。カンディンスキーはモンドリアンやマレーヴィチと共に、純粋抽象絵画の理論の創始者知られております。彼が書いた「芸術における精神的なもの」は代表的著作でした。カンディンスキーは1866年にモスクワで生まれ、オデッサで幼少期を過ごし、グレゴフ・オデッサ美術大学で美術を学びました。卒業後は、モスクワ大学に入学し、法...「抽象絵画を楽しむために知っておくと良いこと」
庭に咲く花の写真をお送り致します。春ですね。小さな庭にもいろいろな花が咲きだしました。「庭に咲く花の写真」
今日は、「甲州街道の日野宿の本陣と新選組のことなど」という記事を書きました。その続きとして新選組の成立のいきさつと明治維新後の日野宿について書きたいと思います。(1)新選組の成立のいきさつまず新選組が作られた様子を示す八坂神社の奉納額をご紹介します。面倒な話は止めて早速写真で説明を致します。1番目の写真は日野市の八坂神社の写真です。本殿は、寛政一二年(1800年)に完成したもので、江戸後期の典型的な社殿建築です。この本殿には、安政五年(1858年)に天然理心流近藤周助の門人達により奉納された額があり、欅板に大小二本の木刀が架けられています。ちなみに近藤周作は新選組の局長の近藤勇の養父であります。2番目の写真は八坂神社に現存している天然理心流の奉納額です。天然理心流近藤周助の門人25名の名前が明記してありま...「新選組の成立のいきさつと明治維新後の日野宿の発展」
今日は曇り日です。曇り日の桜も風情があります。先程散歩しながら撮ってきました。「今年の野川沿いの桜花」
『注文の多い料理店』宮沢賢治二人の若い紳士しんしが、すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲てっぽうをかついで、白熊しろくまのような犬を二疋ひきつれて、だいぶ山奥やまおくの、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことを云いいながら、あるいておりました。「ぜんたい、ここらの山は怪けしからんね。鳥も獣けものも一疋も居やがらん。なんでも構わないから、早くタンタアーンと、やって見たいもんだなあ。」「鹿しかの黄いろな横っ腹なんぞに、二三発お見舞みまいもうしたら、ずいぶん痛快だろうねえ。くるくるまわって、それからどたっと倒たおれるだろうねえ。」それはだいぶの山奥でした。案内してきた専門の鉄砲打ちも、ちょっとまごついて、どこかへ行ってしまったくらいの山奥でした。それに、あんまり山が物凄ものすごいので、その白熊...「宮沢賢治の『注文の多い料理店』」
三陸海岸の絶景の写真は下記に出ています。https://recotripp.com/area/district-23/small-1ここでは1枚だけを示します。「岩手の三陸海岸の絶景の写真」
南部藩は岩手県中部と青森県東部から秋田県北東部にかけての地域を治めた藩でした。藩主が南部氏でした。盛岡藩とも呼ばれます。この地域には独特な文化があります。魅力ある地域です。甲斐国にいた南部氏の始祖の南部光行が、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の青森県八戸市に来て現在の南部町(青森県)に宿をとったのが始まりです。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで覇権を確立した徳川家康から南部藩は所領が安堵されました。10万石の大名として認められたのです。明治維新では奥羽越列藩同盟への参加します。そして南部藩は新政府側へ屈服しました。南部藩は終わったのです。なお遠野南部家は藩の新政府側につき、八戸藩は藩主・南部信順が薩摩藩主・島津重豪からの養子であり新政府側へついたのです。この地域の独特な文化や魅力を写真で示します。1番目...「岩手の南部藩の歴史と写真」
北上川は岩手町の弓弭の泉(ゆはずのいずみ)に源を発し、盛岡市、花巻市、北上市、奥州市、一関市などを通って北から南へと水量豊かに滔々と流れる大きな川です。石巻市で太平洋へ流れています。その写真をインターネットからお借りお送りします。岩手の北上川をご紹介致しました。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)「滔々と流れる北上川」
小金井のあちこちで遂に桜が本格的に咲き出しました。今日の陽気に誘われて小金井公園まで行って来ました。ところが小金井公園の中央広場の数十本のソメイヨシノだけは咲き出していません。あと4,5日はかかるようです。残念。今日撮ったサクラの花の写真をお送り致します。「遂に小金井でも桜が本格的に咲き出しました」
カトリック小金井教会の今日の復活祭のミサの風景の写真をお送り致します。「カトリック小金井教会の今日の復活祭のミサの風景」
キリスト教のことを知れば欧米人の考え方が分かると言います。文学や絵画彫刻や音楽がもっと味わい深くなるとも言います。ですから多くの日本人は教養としてキリスト教を身につけています。今年は3月31日の日曜日で復活祭です。キリスト教の復活祭です。そこで復活祭の意味やその重要性について簡単に書いてみたいと思います。簡単に書いてしまえば復活祭はキリストが十字架にかけられ処刑され、3日後に生き返ったことをお祝いするお祭りです。キリストが生まれた日はクリスマスとして日本でもお祝いの食卓を囲む人が多く、日本の重要な歳時記として定着しています。12月24日のクリスマスはヨーロッパの原始宗教の冬至祭を踏襲しました。その一方で復活祭は日本ではあまり有名ではなく、一部のクリスチャン関係者だけが祝っています。復活祭は春の到来を祝うお...「教養としてのキリスト教、今日の復活祭の意味」
2,3本の桜がやっと咲き出しました。しかし中央広場にある数十本のソメイヨシノは全然咲いていません。その圧巻の風景はあと4,5日後になるようです。今日咲いていた桜と菜の花などの写真をお送り致します。「今日の小金井公園の桜と菜の花などの写真」
若い頃に住んだドイツが懐かしいです。時々ドイツの町の名前をテレビで見ると無性に懐かしく思います。シュツットガルト、ローテンブルグ、ニュルンベルク、バンベルク、ミュンヘン、ブルツブルグ、チュービンゲンなどなど。懐かしさのあまり体中の血がザワザワ騒ぎたてます。少しだけ喋れたドイツ語をテレビのニュースで聞くと、若いころ住んでいたドイツの空気が突然身を包みます。寒い空気です。暗い、暗い冬の日々が蘇ってきます。そうです。ドイツの冬は太陽が見えず、毎日、毎日、暗い、厚い雲が低く空を覆っているのです。零下10度以下の日々が何カ月も続くのです。この長い暗い冬がやっと終わる頃、復活祭が来て、クロッカスが咲き始めます。5月になってやっと木々に若葉がちらちら出始めます。さわやかな、さつきの風が頬をなでます。「麗しき五月」という...「ドイツの冬の暗さ厳しい寒さの思い出」
老境に至って自分の人生を振り返ると、自分が如何に軽薄な人間かとつくづく思います。日本人として確固たる見識も無いので、外国に住むと、その国が好きになってしまうのです34歳のときドイツに留学し、ドイツに魅了されてしまったのです。今日はドイツでどのような影響を受けたか二つほど書いてみます。ドイツでの生活は1969年夏のにローテンブルグでの3ケ月間のドイツ語研修から始まりました。そしてその後、シュツットガルト市にあるマックス・プランク金属研究所で1年間の研究生活をしました。シュツットガルト市に移るとすぐに家内と子供2人を呼びました。ドイツは気候も社会も若い頃留学したアメリカのオハイオ州とは全く違うのです。同じ欧米人なのにアメリカとドイツでは人々の考え方が驚くほど違うのです。「ヨーロッパの階級社会や伝統社会から逃れ...「ドイツ留学で私の受けた影響」
「青雲の心ざしでドイツにも留学、そしてハプスブルグ家のこと」
昨日は「青雲の志を抱いて郷関をいづる」という記事を書きました。私が青雲の志を抱いてオハイオ州立大学へ留学したのです。1960年の夏のことでした。何故か、「青雲の志」という言葉は私の心に長く住み着いてkン度はドイツに留学しました。ドイツには1969年の夏から1970年の秋まで一年4ケ月住んでいました。そして一番吃驚したことはヨーロッパは国々や地域によって文化の非常に違うということでした。日本から眺めると西洋文化という一つの文化があるように見えますが、住んでみると国々や地域によってそれぞれ歴史や文化が非常に違うのです。ドイツも北では「こんにちは」はグーテンターグと言いますが、私共が住んでいた南ドイツではグリュースゴットと言います。言葉だけでなく考え方が違うのです。シュツットガルトでアパートを探しましたらシュバ...「青雲の心ざしでドイツにも留学、そしてハプスブルグ家のこと」
戦後の貧しさが漂っていた頃の仙台の思い出です。主な道路の中央しか舗装されていず、風の日は砂ぼこりが舞っていました。私はその砂埃りの道を自転車で高校に通っていました。その高校は旧制の中学校がそのまま高校なった学校です。旧制中学のドイツ語や漢文の先生が熱心に教えていました。特に漢文の先生は情熱的にいろいろな漢詩を朗読しながら教えてくれたのです。何度も青雲の志を抱いて郷関をいづるという文を教えていたのです。若い私はその教えを文字どおり信じ、人生の道しるべにしました。この「青雲の志」は唐時代の張九齢の次の漢詩の中に出てきます。若い頃の青雲の志を懐かしんでいる漢詩です。この教えに従って私は仙台を飛び出してオハイオ州に留学しました。私が青雲の志を抱いてオハイオ州立大学へ行ったのは1960年の夏のことでした。私は故郷、...「青雲の志を抱いて郷関をいづる」
いろいろな椿の花の写真をお送り致します。椿の花は庭にも咲いている身近かな花です。でも美しい花です。いろいろな椿の花の写真をお送り致します。出典は、https://ameblo.jp/junko-i1021/entry-12845967821.htmlです。「いろいろな椿の花」
幸運にも老境まで健康に生きてきました。長い人生には嬉しいこと、悲しいこと、苦しいことなどいろいろありました。しかし我が人生で一番感動したことは若い頃のアメリカ留学でした。今日は私のアメリカ留学のことを書きたいと思います。私はフルブライト留学生として1960年から1962年まで、オハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。初めての外国体験でした。その時アメリカ人はいつも私を励ましてくれ、好意溢れる支援を惜しみなく与えてくれたのです。今でも感謝しています。例えば博士過程で実験装置を作ったときのことを思い出します。その装置の完成には大学に付属した機械工場のニールさんという職人がひどく親切に協力してくれたのです。1番目の写真はオハイオ州立大学のロードホールという建物ですが、その一階の右の部屋にその実験装置を作りま...「人生で一番感動した若い頃のアメリカ留学」
今日の武蔵野公園の風景です。今日は一日晴天です。午後から散歩しながら武蔵野公園の写真を撮って来ました。「今日の武蔵野公園の風景」
よく泊った上高地帝国ホテルです。家内が撮った上高地帝国ホテルの写真と残雪のある穂高連峰の写真をお送り致します。上高地帝国ホテルは1933年(昭和8年)わが国初の本格的高級山岳リゾートホテルとして開業しました。スイスの山小屋をイメージした赤い三角屋根と吹き抜けのロビーの巨大な暖炉が特徴のクラシックホテルです。残雪のある穂高連峰が眼前に迫る眺望は上高地帝国ホテルの大きな魅力です。上高地は標高1500mで冬期は雪に覆われて通行ができなくなるので毎年4月下旬から11月上旬の約半年間だけ営業しています。上高地帝国ホテルと残雪のある穂高連峰の写真をお送り致します。帝国ホテルの写真は家内が撮りました。穂高の写真は2010年7月5日午後に大正池から河童橋へ梓川沿いに歩きながら撮りました。青空の見える日でした。「曾遊のリゾートホテル、上高地帝国ホテルと穂高連峰の写真」
小宮公園へは何度も行きました。雑木林の中の道の散策と、その上にある花畑が楽しい公園です。丘陵の頂上の管理棟の展示も面白いのです。雑木林を登りきると頂上のまで行けます。そこは意外にも平地が広がっていて、花畑や子供の遊び場や管理棟があります。花畑には秋にはコスモスがもう咲いています。一本のユーカリの木があり、緑に繁る葉が風に揺れていましす。(上から2枚目の写真)。そんな都立小宮公園の花畑の写真をお送りいたします。「八王子、都立小宮公園の花畑」
なだらかに連なる丘陵の上を雑木林が深々と覆っています。紅葉した樹木が晩秋の陽に輝いています。丘陵の中の道は奥深く、人家が見えず、何処までも続いています。国が作った自転車道路だけが森の中を通っているだけです。子供のためのブランコや遊具が一切ないので静かな公園です。大きなレストランだけが木々に隠れてあります。貸自転車が沢山あります。ある時、家内と一緒に2時間ほど森林の中をひたすら走って来ました。上り下りがあちこちにあって気を抜く暇も無くペダルを漕がないといけないのです。老人にはきついと思いながら周りをみると、若い子供連の家族が自転車を漕いでいます。高齢者は自転車道路でなく森の中の散策道路を歩いています。森林公園という名に恥じない立派な森が濃密に丘陵を覆っています。公園のテーマ通り武蔵野の手つかずの自然林が広が...「埼玉県、東松山の国営武蔵丘陵森林公園の素晴らしさ」
数年前6月のある日、10時に家を出発しました。東京外環道路の西端の大泉から入り東端の南三郷を出て都立水元公園へ行きました。1時間30分のドライブでした。この季節はゴイサギやシラサギやカワウがバードサンクチュアリに集まる季節です。水辺の新緑が美しかったです。駐車場からバードサンクチュアリまでの往復3・0Kmくらい歩きました。家内が撮った写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。「都立水元公園のバードサンクチュアリにて」
冬の風物詩の一つにシベリアから飛来する美しい白鳥の姿があります。全国の湖や川に飛来しますが今日は群馬県の館林市の「多々良沼」の白鳥の写真をお送りいたします。写真の出典は、https://www.tatebayashi-matome.info/entry/tatarahakuchoです。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。冬の風物詩、シベリアから飛来する白鳥の写真をお楽しみ下さい
もうすぐ4月になります。春爛漫の4月です。すると野山も春の草花が満開になります。そんな草花の中から、比較的珍しく美しい野草を四種類紹介します。写真の出典は、森林インストラクターの駄賀恒男さんのブログ、http://0845.boo.jp/shimanami/archives/188です。1番目の写真は一人静です。2番目の写真は紫華鬘です。3番目の写真は十二単です。4番目の写真は野菊です。「春に野山に咲く一人静、紫華鬘、十二単、野菊の花々」
「聖イグナチオ教会の今日の 『受難の主日ミサ』の風景の写真」
今日の『受難の主日(枝の主日)ミサ』はインターネットであずかりました。今日のミサは枝の主日のミサなので、教会の外で棕櫚の枝を手に持って行列を作って教会へ入るところからミサが始まります。そんな『受難の主日ミサ』の風景の写真をお送り致します。聖イグナチオ教会のミサ風景です。「聖イグナチオ教会の今日の『受難の主日ミサ』の風景の写真」
聖イグナチオ教会の10AM『受難の主日(枝の主日)ミサ』の動画配信は、https://www.youtube.com/watch?v=NFXah25vvcsです。写真で示した「聖イグナチオ教会」のこと:イエズス会の創立者であったイグナチオ・デ・ロヨラの名から命名された「聖イグナチオ教会」では、日曜にミサが執り行われ、さまざまな国の人たちが集まります。現在の聖堂は、1999年(平成11年)に建設されました。正式には「カトリック麹町教会」といいます。戦後いち早く新たな教会として聖イグナチオ教会の建設が計画され、1949年(昭和24年)に現在の場所に竣工しました。聖堂の中心には、イエスと弟子たちが囲んだ「最後の晩餐」の食卓である祭壇が置かれ、聖堂を囲む12本の柱はキリストの教会を支える12人の使徒たちを表してい...「聖イグナチオ教会の今日の『受難の主日ミサ』の動画配信」
四季の流れに従って公園や植物園では季節の花が咲き、樹木が美しいたたずまいを見せてくれます。そんな風景が好きで暇さえあれば公園や植物園をめぐり歩いてきました。小金井公園、武蔵野公園、野川公園、小宮公園、光が丘公園、善福寺池公園、石神井公園、昭和記念公園、神代植物公園、郷土の森博物館公園、上野公園、新宿御苑、そして広大な水元公園などなど随分といろいろな公園を散策しました。そしてその都度花々や樹木の写真を撮ってネットの上でご紹介してきました。写真を少しだけトリミングしたり説明文を書いているとそれぞれの公園の楽しさがよみがえって来て再度楽しめるのです。ところで少し趣の変わった小石川植物園をご紹介したいと思います。江戸時代や明治時代の雰囲気が残っている地味で静かな植物園です。明治維新の後で明治政府は、江戸幕府の薬草...「江戸時代や明治時代の雰囲気が漂う小石川植物園」
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今日の散歩は瑞々しい緑が美しい武蔵野公園でした。撮ってきた写真をお送り致します。「瑞々しい緑が美しい今日の武蔵野公園」
老境の私が書くことは思い出だけになりがちです。今回も思い出の写真を掲載します。我が故郷、仙台市の現在の風景写真です。1番目の写真は鹿落坂の上から見た仙台市の中心街です。私が生まれ育った家は鹿落坂の上の向山にありましたので何度も通った所です。何度通っても眺めの良い所なので立ち止まって風景を楽しみました。2番目の写真は現在の仙台駅です。私が生まれ育った頃の駅舎は粗末な木造でした。駅舎がこんなに立派になるとは想像も出来ませんでした。感無量です。3番目の写真は駅前の風景です。当時は建物がすべて木造でみすぼらしいものでした。唯一、丸光というデパートが立派でした。4番目の写真は駅前から西にとおっている青葉通りという大道路です。舗装が悪くて風が吹くと砂埃が舞い上がって目に入ったものです。5番目の写真は伊達家代々の墓があ...「我が故郷、現在の仙台市の風景写真」
皆様は近所を散歩なさいますか?公園を散歩しますか?昔ドイツに住んでいたとき驚きの光景を見ました。ドイツ人は襟の小さい背広にネクタイを締めた姿で森の中を真面目な顔をして歩くのです。これをドイツ語でシュパチーレンと言ってドイツ人が誇りに思っている趣味なのです。郊外の森や葡萄畑の中にシュパチーレン専用の道が続いています。正装した男たちや夫婦が無言で歩くので静かです。今日は平凡な散歩の趣味について書いてみようと思います。さてその前に散歩以外の趣味のいろいろを見回してみましょう。本当に色々あります。海を帆走するヨットの趣味や、登山などの趣味は厳しさがあり克己心を必要とします。猟犬とともに銃を担ぎ人跡まれな山に入り彷徨する趣味もあります。日本ではシュパチーレン専用の道は広い公園の中にあります。その趣味では人生の平凡な...「懐かしいドイツ人のシュパチーレンの趣味」
何事も現地に行ってみないと本当のことは分からないものです。ドイツに住んでヨーロッパの中世の暗黒が分かったのです。中世にヨーロッパ全土を荒廃させた30年戦争の悲惨さが理解できたのです。今日はヨーロッパを荒廃させた30年戦争のことを書きたいと思います。明治維新以来、日本人はヨーロッパ文化に憧れ導入して来ました。確かにフランス革命とイギリスの産業革命以後のヨーロッパは手本にすべきことが多いのです。しかし中世のヨーロッパは暗黒でした。暗黒の原因の一つは30年戦争でした。そしてもう一つはハプスブルグ家の異常な領土欲でした。そこで中世の30年戦争とハプスブルグ家の領土欲について書いてみようと思います。日本ではあまり関心の無いヨーロッパの暗い歴史です。さて30年戦争です。「30年戦争」はドイツから始まり、宗教改革の後の...「いろいろあった私の人生」(7)ドイツ留学とヨーロッパ中世の暗黒
北アルプスの麓、長野県小川村にも春が来ると花々が美しく咲きます。そんな風景の写真をお送りします。写真の出典は、https://rinrincan.com/2015-04-28/です。「春の山里の花々の写真」
群馬県の水上にある『ノルンみなかみ』の春の花園の写真です。群馬県みなかみ町にある「ノルンみなかみフラワーガーデン」は北関東最大級90種100万株の水仙が咲き誇るフラワーガーデンです。水仙の黄色い絨毯の上を観光リフトに乗りながら望む山々の風景は格別です。山頂から望む日本百名山「谷川岳」の絶景をご堪能下さい。写真の出典は、https://lp.p.pia.jp/event/leisure/228212/index.htmlです。「群馬県『ノルンみなかみ』春の花園の写真」
私はフルブライト留学生として1960年から1962年まで、オハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。その時アメリカ人は日本人の私を励ましてくれ、好意溢れる支援を惜しみなく与えてくれたのです。私はアメリカに留学した影響で強い愛国心を持つようになったのです。日本に生まれた幸運に感謝しました。祖国日本を懐かしみ大切に思うようになりました。どこの国より愛しています。そのような愛国心を終生持つようになった原因は多数の民族が混じって国を作っているアメリカ合衆国に住んでみて、その中で体験した強烈な人種差別の影響を受けたことにあります。1960年に留学したアメリカでは強烈な黒人差別をしていました。オハイオ州の州都、コロンバスに留学した大学がありました。その町でも白人と黒人の住む地域がはっきり別れています。バスに乗ると前...「いろいろあった私の人生」(6)アメリカ留学で愛国心を持ってしまった」
2012年に井の頭公園のそばのLaforteというレストランで仙台第一高等学校の同期会がありました。1954年卒業のかつての少年達が58年後に会って談笑したのです。いろいろな思い出が走馬灯のように廻ります。この同期会は東京近辺に住んでいる新制高校6回生の会なので六高会と言い、毎年春に開催します。今回は日本の旧制中学校の教育内容と雰囲気と新制高校について教育論的な視点から一文を記述したいと思います。まず始めに明治政府が旧制中学校を全国に配置した頃のことを書きます。維新後の廃藩置県で、明治政府は各県に県令(県知事)を派遣し、そしてすぐに数多くの尋常小学校を全国に作りました。暫くたって明治20年代になって全国の各県に4年間あるいは5年間の尋常中学校(旧制の中学校)を作りました。仙台第一高等学校は明治25年に出来...「いろいろあった私の人生」(5)懐かしい仙台第一高等学校
2012年に井の頭公園のそばのLaforteというレストランで仙台第一高等学校の同期会がありました。1954年卒業のかつての少年達が58年後に会って談笑したのです。いろいろな思い出が走馬灯のように廻ります。この同期会は東京近辺に住んでいる新制高校6回生の会なので六高会と言い、毎年春に開催します。今回は日本の旧制中学校の教育内容と雰囲気と新制高校について教育論的な視点から一文を記述したいと思います。まず始めに明治政府が旧制中学校を全国に配置した頃のことを書きます。維新後の廃藩置県で、明治政府は各県に県令(県知事)を派遣し、そしてすぐに数多くの尋常小学校を全国に作りました。暫くたって明治20年代になって全国の各県に4年間あるいは5年間の尋常中学校(旧制の中学校)を作りました。仙台第一高等学校は明治25年に出来...「いろいろあった私の人生」(5)懐かしい仙台第一高等学校
老境になると懐かしいのは仙台の愛宕中学と高橋貞明先生のことなどです。仙台市には新制中学校が幾つも出来、私共が入学した第十中学校(後に愛宕中学校と改称)は昭和22年に発足し、我々はその二期生として昭和23年に入学しました。その頃の小学校や中学校、そして全ての学校の先生は本当に生徒や学生を愛していたのです。情熱的でした。自分の家に子供たちを招んでくれました。昭和23年から26年まで通った新制中学校の愛宕中学校先生方も情熱を傾けて生徒の面倒を見ました。特に忘れられないのが高橋貞明先生です。仙台の愛宕中学で担任をしていた先生です。この高橋先生は熱心に数学の授業をしていました。でも何を習ったかすっかり忘れてしまいました。忘れられないのは部活で一緒に泉岳に登ったときの励ましの声です。喉がカラカラになったとき頒けてくれ...「いろいろあった私の人生」(4)懐かしいのは仙台の愛宕中学
気分爽快に散歩して来ました。撮ってきた写真をお送り致します。「暖かい春の午後の小金井公園の風景」
今日はインターネットを通してカトリック高円寺教会のミサにあずかりました。その風景の写真をお送り致します。「今日のカトリック高円寺教会のミサの風景」
「写真で振り返る、ローマ教皇フランシスコの人生」の写真は下記にあります。https://www.elle.com/.../pope-francis-life-photos-250422.../「写真で振り返る、ローマ教皇フランシスコの人生」
復活節第2主日、https://www.youtube.com/watch?v=Zb4zIowoccoカトリック幟町教会〒730-0016広島県広島市中区幟町4-42TEL082-221-0621、FAX082-221-8486「今日のミサの動画配信」
私は昭和11年、1936年に仙台で生まれました。仙台には昭和11年から昭和35年にアメリカへ留学するまで24年間住んでいました。私の追憶にある仙台の風景写真を皆様へご紹介したいと思います。1番目の写真は戦前の仙台駅で、ここから父の実家のあった兵庫へ何回も里帰りしました。人力車に乗って駅まで行ったのです。2番目の写真は昭和30年ころの市電です。市内のあちこちへ行くときよく乗ったものです。3番目の写真は真は戦災で焼ける前の伊達正宗の霊廟の瑞鳳殿です。4番目の写真は戦災で焼けてしまった青葉城の大手門と隅櫓です。5番目の写真は国分町と大町通りの交差点にあった高札場跡の芭蕉の辻です。6番目の写真は繁華街の国分町の風景です。軍人が歩いていますが、仙台には第二師団という大きな師団がおかれていて町には何時も軍人が歩いてい...「いろいろあった私の人生」(3)幼少の頃の故郷、仙台の風景」
これから新緑の山々に真っ白な花(苞なのですが)を咲かせるヤマボウシの写真をお送り致します。写真の出典は、https://lovegreen.net/gardentree/p253788/です。「山々に咲くヤマボウシの花の写真」
高齢者になると幼少の頃の思い出が懐かしくなります。何十年も前のことが益々鮮明に思い出されるのです。そこで今日は幼少のころによく行った父の実家のお寺の思い出を書きたいと思います。遥か兵庫県の田舎のお寺の思い出です。私の祖父は兵庫県の曹洞宗の正林寺の住職でした。叔父も祖父の後を継ぎ住職を長く務めていました。祖父は和尚でしたが父は仙台の大学に勤めていました。毎年夏のお盆になると一家揃って兵庫へ里帰りするのが習わしでした。蒸気機関車で東北本線で上野まで行き電車の東海道線に乗り換えて大阪駅まで長い汽車の旅でした。大阪・梅田から阪急電車です。能勢口で能勢電鉄へ乗り換え山下駅で降り、あとはタクシーという旅でした。お寺は山合いの内馬場という集落の端にありました。高い石垣を積み、小さな本堂、鐘楼、庫裏、客間の離れ、白壁の蔵...「いろいろあった私の人生」(2)幼少の頃の正林寺の思い出
老境にいたると長かった自分の人生をいろいろと思い出します。印象深ったのは少年の頃の疎開の経験でした。都会の仙台から農村へ疎開したのです。1945年7月10日、故郷の仙台へB29が100機来襲し市街地を完全に焼き尽くしました。それから1週間して小学校3年生だった私は、宮城県の北部の伊豆沼近辺の水田地帯の農家へ弟2人と疎開しました。田舎の国民学校へ転校してすぐに玉音放送で敗戦。でも仙台へもどるまで、写真のような農家に3ケ月程、生活しました。両親は仕事があるので仙台に残り、子供達だけ他人のなかで暮らす日々は悲しい体験でした。最近。羽村市立郷土博物館の裏に展示してある江戸時代末の農家を見て、疎開先の農家の造りにあまりにも似ているので愕然としました。東京などの大都会では集団疎開が行われ悲劇的な体験談の本をよく読みま...「いろいろあった私の人生」(1)農村への疎開
武蔵野公園には遊具が一切無く武蔵野が広がっているだけです。公園を作った人の見識が素晴らしです。行くたびに悠然とした気分になります。撮ってきた写真をお送り致します。「午後の散歩は都立武蔵野公園まで」
日野市の石田寺にある新撰組の土方歳三の墓と宝泉寺にある新撰組の井上源三郎のお墓の写真をお送り致します。土方歳三は函館で壮烈な戦死をしましたので今でも函館の人々は彼を尊敬し日野市に在住している歳三の親戚を函館に招いて交流を深めています。1番目の写真は土方家の墓です。2番目の写真は墓前にある歳三の活躍ぶりを紹介している看板です。さらに同じ日野にある宝泉寺にある井上源三郎のお墓にもお参りしました。源三郎は心やさしい隊長だったようで多くの人がその優しさを讃え、追悼文を捧げています。お墓は下の写真の右端に写っている正方形に近い形のものです。3番目の写真は日野の宝泉寺にある井上源三郎のお墓です。4番目の写真は墓の裏刻んである文章です。ちなみに井上家の大きな墓石の隣に2番目に大きな墓石が立っています。先の戦争で戦死した...「新撰組の土方歳三と井上源三郎のお墓」
何年も前のことですが、妻が吉野山の桜を見たいと言うので、はるばる訪れたことがあります。遠方の山の中に桜木が程良く散在し、満開になっているのです。険し過ぎない山並みの暗い色の樹々が白や薄紅色の桜の花を浮きたてています。その風景は華麗でもあり、心を雄大な気分にもさせてくれます。それ以来、東京の近隣の奥多摩や高尾山系の山々の桜を注意深く見るようになりました。そうしたら吉野山のように山林の中にソメイヨシノの木を植林して櫻花を楽しんでいる場所を数カ所見つけました。その場所は人の住む集落の傍です。ソメイヨシノは種からは育ちません。ですから野鳥が運んだ種で育った桜木ではないのです。里人が何十年もかけて苗木を植え、周囲の雑草を刈って育てたのです。その上、山の形や雑木林のたたずまいに調和するように配置して植えたのです。山里...「山に咲く桜を探して秘境、檜原村に分け入った思い出」
都立武蔵野公園を根気良く東へ行き、都立野川公園まで行って来ました。野川公園は遠いのでたまにしか行きません。今日は新緑が綺麗なので遠方まで行って来ました。爽快な気持ちになりました。写真は都立野川公園の西口付近の風景です。野川公園の東西を東八道路が横切り、その北側を野川が西から東に流れています。この公園には武蔵野の雑木林が多く残っています。「今日は都立野川公園まで行って来ました」
今年も庭の卯の花の咲く季節になりました。この花を見ると、卯の花の匂う垣根に…という歌を小声で唄います。良い季節です。『夏は来ぬ』卯の花の匂う垣根に時鳥(ホトトギス)早も来鳴きて忍音(しのびね)もらす夏は来ぬさみだれのそそぐ山田に早乙女が裳裾(もすそ)ぬらして玉苗(たまなえ)植うる夏は来ぬ『夏は来ぬ』は、作詞:佐佐木信綱、作曲:小山作之助により1896年に発表されました。「庭の卯の花の写真をお送り致します」
今日は初夏の晴天の日のようでした。隣町まで足をのばし栗山公園と東小金井駅まで行って来ました。栗山公園と東小金井駅の写真です。「今日の散歩、隣町の栗山公園と東小金井駅まで行って来ました」
カトリック幟町教会の今日の復活節第5主日のミサにあずかりました。カトリック幟町教会のミサの風景写真をお送り致します。「今日の復活節第5主日のミサは広島市のカトリック幟町教会からの動画配信であずかりました」
2024年4月28日復活節第5主日のミサ動画配信です。広島市のカトリック幟町教会のミサ動画配信,のご案内です。今日のミサの動画配信は、https://www.youtube.com/@noborichoです。第1朗読使徒言行録9章26~31節第2朗読ヨハネの手紙一3章18~24節福音朗読ヨハネによる福音書15章1~8節添付の写真は広島市のカトリック幟町教会です。広島県広島市中区幟町4-42電話082-221-0621FAX082-221-8486「2024年4月28日復活節第5主日のミサ動画配信」
北海道の東部の野付半島の近くにキラクという幻のまちがありました。それを説明した文章をご紹介致します。https://kai-hokkaido.com/feature_vol44_episode1/にあります。「幻のまちキラク」知床半島と根室半島のちょうど中間あたりに、地図上で見ると釣り針のような形をした全長28km、日本最大の砂嘴、野付半島がある。ドドワラ・ナラワラの特異な景観、水と緑と野生鳥獣、湾内に生息するホッカイシマエビの打瀬舟漁などの風景は多くの観光客を魅了している。今でこそ人けのない荒涼としたこの半島に、かつては人々の喧騒が存在したという言い伝えが残っている。昭和39(1964)年に北海道大学探検部が行った調査報告書によると、「地元の人々にキラク町と呼ばれている場所ある。キラクの由来は気が楽にな...「北海道にあった幻のまちキラク」
道東の知床半島は世界遺産に登録されている国立公園です。知床半島周辺の美しい風景は知床五湖、オシンコシンやカムイワッカの滝、夕陽の綺麗なプユニ岬、秘境感満載の羅臼湖などがあります。ここでは、イワウベツ川、知床五湖、オシンコシンの滝、羅臼湖・三の沼の順に写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.pixpot.net/al_lists/dview/117/hokkaido-spです。夏になると知床半島に美しい花々が咲きます。その写真もお送り致します。写真は「知床半島に咲く花々」を検索してインターネットにある写真をお借りしました。「世界遺産の知床半島周辺の美しい風景写真」
昔、下村湖人の書いた『次郎物語』読んで感動しました。しかし内容の具体的なことは忘れました。小金井市には下村湖人が『次郎物語』を執筆した家があります。市が「浴恩館」と名前をつけて保存し公開しています。その屋敷跡には巨木が茂り大きなツツジが綺麗な花を咲かせています。新宿から開館と同時に移植したツツジです。先程「浴恩館」とツツジと巨木の写真を撮って来ました。その写真をお送り致します。「覚えていらっしゃるでしょうか下村湖人の書いた『次郎物語』」
野付半島のトドワラに咲くハマナスと赤い実の写真をお送り致します。背景に16Km沖にある国後島が写っている写真もあります。写真は「野付半島に咲くハマナス」を検索してインターネットにある写真をお借りしました。「北海道の野付半島に咲くハマナスと赤い実の写真」
小金井公園は広々した芝生だけでなく巨木の森もあります。今日は森の中に入り、美しい新緑の木立の風景の写真を撮りました。「美しい新緑の木立の風景の写真を撮りに行った」
年年歳歳ナンジャモンジャの並木が花を咲かせます。近所の並木道です。今年も見事に咲いたので先程撮って来ました。その写真をお送り致します。「今年もナンジャモンジャの並木が咲きました」
お稲荷さんと親しまれている稲荷神社は全国の津々浦々にあります。庶民が信仰し日本人の日々の心の支えになっています。家々の屋敷の中の小さな祠のお稲荷さんから壮大な稲荷神社までいろいろな規模のものが無数にあります。今日はまず私が撮ったお稲荷さんの写真をご覧下さい。1番目の写真は近所の江戸時代からの大久保家のお稲荷さんです。屋敷稲荷を道路に出して皆がお祈り出来るようにしています。2番目の写真は小金井街道に面した大松の下の稲荷神社です。3番目の写真は小金井市で一番大きな八重垣稲荷神社です。元禄13年に渡辺家の邸内に建てられました。渡辺家は代々神官の家だったので祠ではなく神社のような構造になっています。訪ねてみると樹々が鬱蒼と生い茂り何故か怖いような、そして神秘的なお稲荷さんです。渡辺家の家屋敷は無くなっていて八重垣...「日本人の心の支えとしてのお稲荷さん信仰」
都会に生まれ育った人でも故郷というものに憧れを持っています。そうして農村風景をあたかも自分の故郷の心象風景として心の底に大切に持っています。そうでない人もいますが、多くの日本人は故郷の心象風景を持っているのです。私の農村の風景に憧れています。それは美しい日本の原風景です。今日はそんな故郷の心象風景にピッタリの宮崎県の椎葉村をご紹介いたします。家屋が美しいので国の重要文化財に指定されています。椎葉村は険しい山地で急な斜面に点々と集落が存在しています。椎葉村は壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が落ち延びた場所なのです。1191年(建久2年)、追討のため那須大八郎宗久が襲って来ますが、平氏に再挙の見込み無しと見て追討を取り止め引き揚げます。那須大八郎宗久が椎葉に滞在中に侍女の鶴富が娘を生みます。この娘に後に婿を娶...「日本人の魂を揺さぶる椎葉村の風景」
ライラックの花の写真です。写真の出典は、https://www.accespourtous.org/hanakotoba/h048.htmlです。「ライラックの花の写真」
気温が高くなって花々もいきいきとなってきました。「小金井公園の花々もいきいきと咲いています」
私は50歳の時に趣味として霞ヶ浦でヨットを始めました。今日はそんなヨットの趣味の写真をご紹介いたします。1番目の写真は「あけび号」の姿です。50歳の頃琵琶湖から霞ヶ浦へ陸送して来た中古のYAMAHA19です。10年間乗りました。長い舵とヤマハ5馬力の船外機がついています。2番目の写真はYAMAHA19を陸揚げした姿です。ヨットの構造で一番重要なのは船底から下へ伸びているキールです。厚い鉄製で船体の重さの40%位もあります。これで船は疾走中に横倒しになるのを防いでいます。3番目の写真は60歳の頃買った長さ26フィートのルナ3世です。長さのわりに大きなキャビンがついていて炊事用の2口コンロ、調理台、流しがついていました。霞ヶ浦であるお医者から中古を買いました。このヨットには75歳まで乗りました。4番目の写真は...「霞ヶ浦と私のヨットの写真」
ヨットの趣味は50歳の頃から始めました。大学時代の友人の星野君がすすめてくれたのです。彼は猪苗代湖で大型ヨットのクルーザーに乗っていました。私も中古のクルーザーを買い霞ヶ浦で乗り始めました。その頃、星野君が横浜に係留展示してある帆船日本丸をよく見学して帆走の勉強をしろと言ったのです。以下は今は亡き星野君が教えてくれた帆船日本丸の訪問記です。星野君に感謝しながら書きました。横浜の「みなと未来」に係留し一般公開している大型帆船日本丸は現役の帆船です。今でもたまに東京湾に出て帆走しています。以前何度か訪れて撮った写真でこの帆船をご紹介します。帆船日本丸は、姉妹船海王丸とともに昭和3年の第55帝国議会で予算案が可決し、英国のリース市のラメージ&ファーガソン社へ発注されました。ラメージ&ファーガソン社は設計と鋼材の...「今は亡き星野君が教えてくれた帆船日本丸のこと」
私は昭和11年に生まれ24歳まで仙台の向山に住んでいました。向山には三つのお寺があります。長徳寺、大満寺、大年寺です。懐かしいので長徳寺、大満寺、大年寺の写真を示します。1番目の写真は向山から見下ろした仙台市の中心街です。2番目の写真は長徳寺の門です。3番目の写真は長徳寺の本堂です。4番目の写真は大満寺です。5番目の写真は大満寺の虚空蔵堂です。6番目の写真は大年寺です。「懐かしい仙台市の長徳寺、大満寺、大年寺の写真」
先程、小金井小次郎の墓の写真を撮って来ました。小次郎は我が町、小金井市でただ一人の有名人です。まずお墓のある西念寺の写真です。1番目の写真は小金井市にある西念寺です。小金井市には昔、小金井小次郎という侠客がいました。武蔵と相模にわたる縄張りに数千人の子分を擁していたのです。2番目の写真は小金井次郎の記念碑です。西念寺にあります。3番目の写真は小金井次郎の記念碑の角石に刻まれた組代々の総長の名前です。小金井小次郎(1818~1881年)は幕末・明治の俠客でした。武蔵小金井の名主、関勘右衛門の次男でした。明治に刊行された戯作「落花清風慶応水滸伝」で有名になった俠客です。小次郎は、博打で三宅島流しになり、明治のご赦免で帰還します。しかし三宅島の貧乏な人々に同情し、有志を集め再度三宅島に渡り井戸を掘ったり農業や牧...「我が町でただ一人の有名人の小金井小次郎の墓と俠客の世界」