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後藤和弘のブログ https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。 反対のご意見やコメントも歓迎しま

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2014/10/30

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  • 「平山郁夫シルクロード美術館」

    平山郁夫シルクロード美術館を囲む八ヶ岳を間近に望む小淵沢・清里エリアの周辺情報をご紹介します。私どもの山の小屋に近いのでよく行きました。美術館はJR小淵沢駅から小海線でひとつめの甲斐小泉駅前、八ヶ岳と富士山を眺望する緑豊かな高原にあります。周囲には文化施設・観光施設も点在し、レジャーにも最適です。「平山郁夫シルクロード美術館」

  • 「心を揺さぶる平山 郁夫のシルクロードの日本画」

    平山郁夫の日本画は私の心を揺さぶります。何度見ても感動します。平山郁夫の日本画を見ると感動を受け、やがて心がシーンと静かになります。今日は平山郁夫の日本画をご紹介致したいと思います。平山郁夫はシルクロードに魅せられ何十回も行きました。シルクロードの画家と言っても過言ではありません。駱駝に乗った胡人が月の砂漠を列になって静かに歩いています。シルクロードの旅です。日本人の憧れの風景です。その風景を何度も何度も描いたのです。1番目の写真は玄奘三蔵法師をテーマにした平山郁夫の『仏教伝来』です。東京藝術大学で助手を務めていた1959年ごろの制作です。平山郁夫はインドへ旅した三蔵法師を尊敬していました。この制作が切っ掛けになり中国とローマを結ぶシルクロードに強い興味を持ちその風景画を沢山描くようになります。2番目の写...「心を揺さぶる平山郁夫のシルクロードの日本画」

  • 「清冽、精神性の深い東山魁夷の絵画」

    早く涼しい秋が待ちどうしい暑さです。そこで見ているだけで涼しい気分になる絵画の写真をお送り致します。涼しい気分になる絵画はいろいろありますが、今日は東山魁夷の絵画の写真をお送り致します。東山魁夷の絵画は綺麗過ぎるほど美しいのです。すぐれて装飾的でもあります。芸術はまず人の心を打つことが肝要です。単に美しいだけでは芸術にはなりません。深い思索と精神性が加味されていなければなりません。東山魁夷の絵画は日本画なのに西洋的な精神性が濃いと思います。その上、日本人の精神性も込められているのです。間違いを恐れずに言えば、彼の精神性にはドイツ的なカトリックの信仰と仏教の禅宗的な静かな信仰心が感じられるのです。彼は風景画を描きながら、「祈り」のようなものを描き込んでいたのです。それは彼のドイツ留学の影響なのでしょう。東京...「清冽、精神性の深い東山魁夷の絵画」

  • 「旧懐の情と東山魁夷の『馬車よ、ゆっくり走れ』」

    これは普通のことでしょうか。年を取ると昔のことがむしょうに懐かしくなるものです。自分が生れた仙台の向山や、少年の頃遊んだ八木山や霊屋下の情景を思い出し胸がかきむしられます。これを旧懐の情と言うのでしょうか?旧懐の情は不思議なもので若い頃留学したドイツの暗い寒い冬のことが人生の折々に思い出されます。そしてドイツの中世の「遍歴徒弟の文化」を想像します。留学は遍歴しながら学問を身につける旅なのです。ドイツ語でシュティデーエン・ライゼと言いますが、その言葉はロマンと修行の厳しさ、そして暗い冬の寒さを連想させます。ドイツは独特な文化を持っています。伝統を大事にし静かな思考を大切にします。街を歩くドイツ人は決してイタリア人のように陽気でありません。フランス人のようにお洒落をしません。何時も真面目で堅い雰囲気を持ってい...「旧懐の情と東山魁夷の『馬車よ、ゆっくり走れ』」

  • 「松江の宍道湖のウナギの蒲焼き」

    松江の宍道湖のウナギの蒲焼きも美味しいものです。詳しくは、https://jimohack.shimane.jp/matsue/222/をご覧ください。松江のうなぎは「宍道湖七珍」の一つにもなっている郷土料理です。その写真をお送り致します。「松江の宍道湖のウナギの蒲焼き」

  • 「夏になるとライン河のウナギの蒲焼きと観光船を思い出す」

    毎年夏になるとライン河の鰻の蒲焼と観光船のパーティのことを思い出します。あれは1969年の夏でした。南ドイツのシュツットガルトにあったマックス・プランク研究所で働いていた頃のことです。ある日、デパートの鮮魚売り場に行ったところ、水槽にマスやドイツ鯉を沢山泳がせて売っています。足元のバケツには太いウナギがうごめいています。パッとひらめきました。鰻の蒲焼を自分で作る決心をしたのです。一番太いウナギを買いながら、何処で獲れたか聞きました。ライン河だそうです。流れのよどんだところに仕掛けを沈めておくと獲れるとそうです。1番目の写真は日本の鰻の写真です。ドイツで買ったウナギと同じでした。写真の出典は、https://www.lettuceclub.net/news/article/191690/です。ドイツではウナ...「夏になるとライン河のウナギの蒲焼きと観光船を思い出す」

  • 「霞ヶ浦の湖岸にある「うなぎの山中」の写真」

    土浦市の霞ヶ浦湖岸で、ハス田のど真ん中にあるうなぎ屋さんです。霞ヶ浦にヨットを23年間していました。その間、よく行ったうなぎ屋さんでした。懐かしいので写真をお送りいたします。「霞ヶ浦の湖岸にある「うなぎの山中」の写真」

  • 「大賀ハスの写真」

    大賀ハスとは昭和26年3月、現在の東京大学検見川総合運動場で、故大賀おおが一郎いちろう博士らにより古代ハスの実(種)が掘り出されました。その後、発芽・開花に成功し、昭和29年に千葉県の天然記念物に決まりました。平成5年に千葉市の花に決定しました。2000年以上前の地層から発見されたハスの実から育てられたハスです。大賀ハスの写真をお送りいたします。「大賀ハスの写真」

  • 「行田の『古代蓮の里公園』の蓮の花」

    古代蓮の里のハスの見頃は、例年6月下旬から8月上旬頃です。古代蓮とは花弁の数が少ない原始的な形態を持つ蓮です。行田蓮とも呼ばれています。約1400〜3000年前の蓮です。写真の出典は、https://iwalkedblog.com/?p=31292です。「行田の『古代蓮の里公園』の蓮の花」

  • 「中国の一面の蓮の花と鵜飼の人々の悠久の人生」

    中国は本当に広いのです。広大な湖沼地には一面の蓮の花が広がっています。そこに住むのは鵜飼の人々です。鵜飼の人々にとっては日中戦争も別世界の出来事です。1000年、2000年と王朝が変わっても日中戦争があっても一切関係なく同じ生活をしています。これこそ悠久の人生ではないでしょうか?私が実際に中国人の鵜飼から聞いた話をご紹介いたします。○河北の湖の鵜飼漁師部落にてあれは1996年のことでした。北京の南、河北省の保定市が技術センターをつくりたいというので、出来るだけの協力をしようと、何度か同地に通ったのです。仕事が休みの日、河北大学の先生が、日帰りの観光旅行へ連れて行ってくれました。その観光地は広大な湖でした。縦横ともに約40Kmもあり、近隣の農民の観光地らしく、湖上遊覧の船がビッシリと並んでいます。客を呼び込...「中国の一面の蓮の花と鵜飼の人々の悠久の人生」

  • 「夏は睡蓮と蓮の花の季節」

    夏になると睡蓮や蓮の花が美しく咲きます。以前にあちこちで撮った写真をお送りいたします。写真をお楽しみいただければ幸いです。「夏は睡蓮と蓮の花の季節」

  • 「霞ヶ浦の蓮田とうなぎの山中の写真」

    以前に霞ヶ浦でヨットをしてました。その頃よく行ったのは蓮田に囲まれた「うなぎの山中」でした。懐かしいので霞ヶ浦の蓮田とうなぎの山中の写真をお送りいたします。「霞ヶ浦の蓮田とうなぎの山中の写真」

  • 「曹洞宗の本山の福井県の永平寺の思い出」

    高齢者になると昔の思い出が懐かしくなります。何十年も前のことが益々鮮明に思い出されるのです。そこで今日は昔訪れた曹洞宗の本山の福井県の永平寺の写真を示します。私の祖父は兵庫県の曹洞宗の正林寺の住職でした。叔父も祖父の後を継ぎ住職を長く務めていました。その曹洞宗の本山は福井県の永平寺なのです。毎年夏のお盆になると一家揃って兵庫へ里帰りするのが習わしでした。蒸気機関車で東北本線で上野まで行き電車の東海道線に乗り換えて大阪駅まで長い汽車の旅でした。大阪・梅田から阪急電車です。能勢口で能勢電鉄へ乗り換え山下駅で降り、あとはタクシーという旅でした。お寺は山合いの内馬場という集落の端にありました。高い石垣を積み、小さな本堂、鐘楼、庫裏、客間の離れ、白壁の蔵が、狭い敷地にまとまって建っています。石垣の上の白壁の塀の上か...「曹洞宗の本山の福井県の永平寺の思い出」

  • 「鎌倉で仏教が庶民のものになり数多くの宗派が出来た」

    日本は仏教国です。私はカトリックの信者ですが、日本に住んでいる以上仏教のことを理解しないと色々困ることが起きます。そんな訳で昔から日本の大乗仏教のことを調べて来ました。今日はいわゆる「鎌倉仏教」のことを書いてみたいと思います。言葉で書く前に鎌倉仏教の質素な7つのお寺の写真をご覧下さい。建長寺と円覚寺は京都のお寺のように立派ですがあとの5つのお寺は規模も小さく、実に質素です。簡素な造りになっています。お寺の雰囲気も侘しいのです。鎌倉のお寺の写真は、http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyamaにあります。ここで1、2、3番目の写真だけを示します。1番目の写真は鎌倉仏教を代表する建長寺の山門です。2番目の写真は円覚寺の方丈です。3番目の写真は浄福寺の山門です。建長寺、円覚寺、寿福...「鎌倉で仏教が庶民のものになり数多くの宗派が出来た」

  • 「鎌倉で仏教が庶民のものになり数多くの宗派が出来た」

    今日はいわゆる「鎌倉仏教」のことを書いてみたいと思います。言葉で書く前に鎌倉仏教の質素なお寺の写真をご覧下さい。1番目の写真は鎌倉仏教を代表する建長寺の山門です。2番目の写真は円覚寺の方丈です。3番目の写真は浄福寺の山門です。建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の5つを鎌倉五山といいます。当時の政治権力者が新しい禅宗の寺院を格付けし管理をする制度で選ばれたお寺です。さて仏教は飛鳥時代や奈良時代に日本に入って来ました。その頃は、仏教は天皇や貴族のための佛教であり、「護国安泰」の目的で保護されました。平安時代には天台宗が上流階級に浸透して来ました。従って一般民衆の救済は重要視されていません。ただ真言宗を開いた空海、すなはち弘法大師だけは天皇、貴族だけでなく民衆の救済のための行脚をしたことで有名です。しかし鎌...「鎌倉で仏教が庶民のものになり数多くの宗派が出来た」

  • 「施餓鬼供養とは何か?」

    夏のお寺では施餓鬼供養という儀式があります。飢饉で悲しくも餓死した農民の供養をするのです。供養をするため近隣のお寺の住職が10人くらい集まり、本堂で、お経を読み、鐘やシンバルを鳴らして輪になって廻るのです。曹洞宗がこのように派手な儀式をするのはその後あまり見たことがありません。1番目の写真は施餓鬼供養の場面です。2番目の写真も施餓鬼供養の場面です。3番目の写真は施餓鬼供養に集まった村人です。本堂の左右の客間には集落の人が合掌して座っています。そして人々は供える野菜や果物を祭壇に溢れるほど持ってくるのです。老境にいたると無性にその正林寺寺のことが懐かしくなります。そして祖父母の暮らしを客観的に考えるようになります。とにかく貧乏なお寺でした。施餓鬼供養養とは何かを書きました。それはそれとして、今日も皆様のご健...「施餓鬼供養とは何か?」

  • 「夏になるとお寺を思い出す」

    私の身近にはいつもお寺がありました。何故か夏になるとお寺を思い出します。父の実家は兵庫県の田舎のお寺でした。そんな関係で私の身近にはいつもお寺があったのです。今日は私の身近にあったお寺の写真をお送りしたいと思います。1番目の写真は父の実家の正林寺です。兵庫県の田舎のお寺で曹洞宗でした。2番目の写真は兵庫県の篠山市にある叔父が住職をしていた法福寺です。ここにも私は何日も泊りました。3番目の写真はよく行った宮城県の宮戸島の大高森にある薬師堂です。松島湾が一望できる所です。4番目の写真は仙台の瑞宝寺です。幼少の頃にこのお寺の幼稚園に通っていました。5番目の写真は現在住んでいる小金井市にある真蔵院です。よく散歩に行く道そいにあるお寺です。6番目の写真は真蔵院の境内です。兵庫県のお寺が懐かしく境内に入って散歩します...「夏になるとお寺を思い出す」

  • 「中世のままのドイツの地方の町」

    1969年にドイツ在住に慣れたころ、フンボルト本部から封書が届く。マイクロバス一台でドイツ全土の観光に連れていってくれるという。シュツットガルトから始まり、アウグスブルグ、ミュンヘン、ロマンテッシェ・シュトラーセ、ベルリン、ハノーバー、ブルーメン、リューベック、ボン、ケルン、モーゼル河を遡って、トリアー、カールスルーエ、シュツットガルトに帰る二週間ほどの長旅である。黒い針葉樹の森と新緑の広葉樹の美しい五月であった。各地の中世の絵画館、近代美術館、教会や修道院、歴史的な町並み。これが伝統的なドイツ文化だというものを徹底的に見せる。音楽ではベートーベンに代表される古典音楽、暗い宗教画の歴史、デユーラーの絵画、カント、ショウペンハウエルに代表される哲学、ゲーテやトーマスマンの文学、それら伝統に関連した記念館や生...「中世のままのドイツの地方の町」

  • 「ドイツの美しい風景」

    ドイツは美しい国です。美しい風景写真をお送りいたします。写真はインターネットからお借りしました。「ドイツの美しい風景」

  • 「ドイツ留学で受けた影響」

    老境に至って自分の人生を振り返ると、外国への留学で深い影響を受けたことをつくずく思います。以前に「若い時のアメリカ留学で私の受けた影響」という記事を書きました。留学のおかげで私はアメリカが大好きになりました。アメリカ留学は24歳から26歳まででしたが、34歳のときドイツに留学し、今度はドイツにも魅了されました。今日はドイツでどのような影響を受けたか二つほど書いてみます。1番目の写真は木造家屋が並ぶ、レグニッツ川沿いの風景です。出典は、https://tabizine.jp/2017/09/25/146378/2/です。ドイツでの生活は1969年夏のにローテンブルグでの3ケ月間のドイツ語研修から始まりました。そしてその後、シュツットガルト市にあるマックス・プランク金属研究所で1年間の研究生活をしました。シュ...「ドイツ留学で受けた影響」

  • 「ドイツ車のオペル・レコルドの思い出」補遺

    ドイツでオペル・レコルドを駆ってあちこち旅行しました。この写真はフランスの東部のストラスブルグという町にあった中世の館の門の前で撮った写真です。たしか1970年の夏の日でした。家族も55年経過すると、まったく別人になります。小生も。55年とは長い年月です。オペル・レコルドの写真を探していましたら、たまたまこの写真を見つけましたので掲載してみました。(終わり)それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)「ドイツ車のオペル・レコルドの思い出」補遺

  • 「ドイツ車のオペル・レコルドの思い出」

    1969年8月にシュツットガルトの研究所に着任しました。そこから、はるか遠方のローテンブルグ・オプ・デア・タウバーという中世の町で3ケ月のドイツ語の集中研修へ参加しました。いずれ家族も呼ぶ予定です。車が必要だ。研究所の機械工場のある職工さんへ中古車の購入と車の登録の一切を頼んだ。ナンバープレートを付けて持ってきてくれた車は空色のオペル・レコルド。値段の割りには見たところが綺麗だ。彼が、「見たところは良いが、エンジンルーム内の部品がかなり老化してるので故障しますよ。まあ故障は私が直してあげますよ」と言う。外国で生活するには現地の人を信用して任せる。損得を度外視すればこの原理で生活が楽しくなる。地図を頼りに暗い曇りの日、昔の曲がりくねった道路を、ローテンブルグ目指してドライブする。8月というのに寒い。周りの牧...「ドイツ車のオペル・レコルドの思い出」

  • 「感動的だったトヨタ・スープラとマツダ・ロードスター」

    長い間私は経済的な小型の実用車ばかりに乗っていました。トヨタのパブリカ、カローラ、ホンダのシビックカントリーなどです。しかし子育ても終わり気持ちに余裕が出てきたころにスポーツカーを買う決心をしました。その頃トヨタはスープラをスポーティセダンと言う言葉を用いて盛んに広告をしていた。あまりにも華麗な姿なので、初代スープラ、1G-EUを1987年に購入しました。スポーツカーのように見えましたが乗り心地は2000ccクラスの乗用車と同じでした。エンジン性能も乗用車と同じでした。排気量1988CC,OHC-自然吸気、出力105馬力、最大トルク、16.0kg-m/4000rpmでした。しかし視界が悪くて取り回しが難しい車です。後部座席の定員は2名でしたが座席が小さすぎて大人2人は無理でした。しかし、ボデーの色が輝くよ...「感動的だったトヨタ・スープラとマツダ・ロードスター」

  • 「自分が初めて買った乗用車」

    1961年春にアメリカで初めて車を買った。1956年型ダッジ・コルネットであった。外国で中古車を買うときは現地の人を信用して判断を任せるのが良い。新婚の妻は色合いを最重要視する。クリーム色と水色のツートンカラーの車を中古車店から借り出して近所の修理専門の職人の裏庭へ持ち込む。噛みタバコをいつも口に入れている老人のピートが自宅で個人経営の修理屋をしている。仰向けになり車の下へもぐり込み、あちこちをハンマーで叩きながら丁寧に見てくれる。「この車は買って良いよ」、結論を一言いう。謝礼を支払おうとしても受け取らない。その後色々小さな故障が起きたがそのつどピートに直して貰った。最初に買った車なので嬉しく、暇さえあればオハイオ州のあちこちへドライブした。車そのものは中古のせいで小さな故障をよくした。しかし大型乗用車な...「自分が初めて買った乗用車」

  • 「1960年代に憧れだった自動車の写真」

    1960年代の日本はまだ貧しくて自動車は貴重な存在でした。トヨタとニッサンは乗用車を販売していましたが高価で高嶺の花でした。その頃活躍したのがマツダやダイハツのオート三輪車や日野がライセンス生産していたルノーでした。フォルクスワーゲンはドイツから輸入されていました。1958年にはスバル360が発売され、マツダクーペも1960年に出ました。そんな時代の町の風景とともに自動車の写真をお送りいたします。1番目の写真は1962年の北海道千歳市の商店街の風景です。自動車が少なくオート三輪車が活躍していました。写真の出典は、http://thegoldexp.blog99.fc2.com/blog-entry-1185.html?spです。2番目の写真は日野自動車の軽三輪トラックです。この写真は日野自動車の記念館で撮...「1960年代に憧れだった自動車の写真」

  • 「戦後のアメリカ占領軍の写真」

    昭和時代の一番大きな出来事は太平洋戦争で日本が徹底的に負け、全国がアメリカに占領されたことです。それは日本の歴史開闢以来の大事件でした。1番目の写真は昭和天皇がマッカーサー総司令官に会いに行った時の写真です。昭和天皇は正装していますがマッカーサーは略装です。2番目の写真は1945年9月にミズリー号での降伏文書の調印式に出た日本側の代表です。先頭の重光外務大臣が調印しました。ここで終戦後の進駐軍の写真を3枚示します。3番目の写真は当時憧れのまとだったジープと少年の姿です4番目の写真はアメリカ兵と仲良くしている2人の女性と少年たちです。5番目の写真は1人の女性と楽しそうに歩いているアメリカの兵士たちです。これらの写真は終戦後の日本の町でよく見られた風景でした。それにしてもマッカ-サーは明治維新以来の日本の富国...「戦後のアメリカ占領軍の写真」

  • 「戦後の焼野原の風景と現在の全国の花園の風景」

    これは戦後の焼野原をこの目で見た私の感慨です。現在の全国の花園の風景を見て隔世の感です。日本がこんなにも変わったことに驚いています。この驚きは若い人には理解出来ないかも知れませんが書いて置きたいと思います。写真に従って説明いたします。1番目の写真は1945年B29の編隊が焼夷弾で東京を焼きつくしている光景です。当時住んでいた仙台でも同じような光景を私は見ました。1945年7月10日の午前0時から仙台は123機のB29によって焼きつくされました。2番目の写真は空襲があった翌日の東京の風景です。仙台の空襲の翌日、私は鹿落坂をくだって中心街の焼け跡を見に行きました。この写真のような光景が広がり、まだ彼方此方から煙が立ち昇っていたのを鮮明に思い出します。1番目の写真と2番目の写真の光景は全国にあったのです。全国の...「戦後の焼野原の風景と現在の全国の花園の風景」

  • 「馬齢を重ねないで毎日情熱的に生きる」

    お馬さんには失礼ですが、「馬齢を重ねる」という言葉があります。毎日、馬のようにボンヤリ、ただ月日を送る愚かな歳の取り方を言うのでしょう。引退して毎日が休日になるとそのような日々の過ごし方が多くなります。それを格好良く言えば、「悠々自適の生活」とも言います。私は毎日を感動的に過ごし、充実した感じを持続するように心がけています。その秘訣は昔のことを思い出して、現在と比較して日々新しい発見をすることです。10年前と現在を比較する。30年前と現在を比較する。するとその変化に驚いて、現在を実に新鮮に感じます。何故か心の中に喜びが湧き出てきます。最近、JR小金井駅の南口に高層マンションと巨大なイトーヨーカ堂という複合商業施設が出来上がりました。ポイントカードを作ると5階から8階にある広い駐車場が2時間まで無料になりま...「馬齢を重ねないで毎日情熱的に生きる」

  • 「上品で美しく少し悲しい盆踊り『おわら風の盆』」

    お盆とは、ご先祖や亡くなられた方の霊を迎え入れて供養する行事です。日本の地域によって違いますが大体8月の中旬です。都会では7月が多いようです。佛教の教えが結びつき現在まで伝わってきた伝統行事です。お墓を掃除してお参りをし迎え火や送り火をします。お坊さまをお招きしてお経をあげて貰います。日本でお盆と言うのは古代インドの大乗仏教の仏説盂蘭盆経というお経に由来しているからです。733年の7月には聖武天皇が盂蘭盆の供養を執り行い、それ以降は宮中の恒例行事としてお盆の法要が定着しました。一般庶民に広まったのは江戸時代からです。先祖の霊を慰め供養する踊りを盆踊りといい日本各地で夏の間さかんに行われます。そこで今日は上品で美しく少し悲しい雰囲気のある盆踊りとして有名な『おわら風の盆』の写真をご紹介します。5枚の写真の出...「上品で美しく少し悲しい盆踊り『おわら風の盆』」

  • 「秋田県の毛馬内の盆踊りの写真」

    馬内の盆踊りは、情緒豊かで優雅な盆踊り。町内路上に篝火を焚き、その周りに細長い輪となり踊られる。呼び太鼓(高屋、大拍子、七拍子の3曲)の後、笛の囃子の大の坂踊り、唄のみの甚句踊りの順で踊る。この地方は、南部藩時代に軍馬であった南部馬の産地として知られ馬の売買が厳しい管理体制下があり、馬皮製のこの地方特有の大太鼓が作られ、張りのある音色が聞ける。踊り手の衣装は、男は黒紋付きに水色の蹴出し、女は襦袢に鴇色の蹴出し、近年は江戸褄、訪問着、小紋など晴れ着を着て、顔は豆絞りの手拭いで頬被りをするなど、地域的特色に富んだ伝統的な盆踊りである。「秋田県の毛馬内の盆踊りの写真」

  • 「国指定の重要文化財の盆踊りと外国での盆踊り」

    盆踊りは夏の風物詩です。日本全国にいろいろな盆踊りがあります。下記は国指定の重要無形民俗文化財の盆踊りです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%86%E8%B8%8A%E3%82%8A西馬音内の盆踊(秋田県)毛馬内の盆踊(秋田県)大の阪(新潟県)[14]新島の大踊(東京都)[15]新野の盆踊り(長野県)和合の念仏踊(長野県)[16]有東木の盆踊(静岡県)徳山の盆踊(静岡県)綾渡の夜念仏と盆踊(愛知県)[17]郡上踊(岐阜県)十津川の大踊(奈良県)大宮踊(岡山県)[18]白石踊(岡山県)海外にも盆踊りがあります。北米北米のアメリカ合衆国のハワイ州、カリフォルニア州、ニューヨーク州、カナダのブリティッシュ・コロンビア州など日系人が多い地域で、夏にBonDance(盆踊り)...「国指定の重要文化財の盆踊りと外国での盆踊り」

  • 「今日はイグナチオ教会のミサにあずかりました」

    今日はイグナチオ教会のミサにインターネットを通してあずかりました。今日のミサの写真です。「今日はイグナチオ教会のミサにあずかりました」

  • 「ビールの歴史は古く、紀元前1800年までさかのぼる」

    ビールの歴史は古く、ゲルマン人が定住生活に入った紀元前1800年頃には、すでにビールが作られていたことが記録されています。紀元前800年ごろのビールジョッキが、クルムバッハで発見されています。ドイツではビールの品質に関する条例をアウクスブルクで1156年に、エアフルトで1434年、レーゲンスブルクで1447年に公布していました。これらは自治体レベルの条例であったが、1516年4月23日にバイエルン公ヴィルヘルム4世が「ビール純粋令」を公布することによって、不正を働くビール製造業者を国家レベルで取り締まったり、国家レベルでビールの品質向上を目指す世界初の食品条例となったのです。ドイツはまさしくビール王国です。ドイツビールが美味しいわけです。写真はドイツのビールにまつわる写真です。「ビールの歴史は古く、紀元前1800年までさかのぼる」

  • 「冷たいビールが美味しい季節になりました」

    冷たいビールが美味しい季節になりました。それにしてもこいの美味しいビールが日本に入った来たのは何時の時代だったのでししょうか?少し調べてみました。鎖国時代の長崎出島が、日本におけるビールの最初の窓口となりました。オランダ商館長がビール醸造を試みた記録もあります。本格的な醸造:明治時代に入ると、札幌麦酒醸造所(後のサッポロビール)、ジャパン・ブルワリー(後のキリンビール)、大阪麦酒(後のアサヒビール)などが設立され、国産ビールの製造が始まりました。普及:高度経済成長期には、家庭用冷蔵庫の普及により、ビールの消費量が大きく伸びました。日本のビールメーカーの歴史:サッポロビール:明治9年(1876年)に開拓使麦酒醸造所として設立。現存する日本最古のビールブランドであるサッポロラガービールを製造。キリンビ...「冷たいビールが美味しい季節になりました」

  • 「月見草の花の写真」

    月見草の花の写真をお送りいたします。写真の出典は下記にあります。tps://www.gettyimages.co.jp/detail/写真/beautiful-yellow-evening-primrose-flowers-blooming-ロイヤリティフリーイメージ/2223053504?phrase=月見草&adppopup=true「月見草の花の写真」

  • 「夏の花の追加です」

    今朝、「夏の季節の花10種の写真、花名の由来、花言葉」を掲載しましたところ関心ある方が多いようなので追加をお送りいたします。写真と花名や花言葉の出典は今朝と同じ、http://hananokotoba.com/natsu/です。1番目の写真はアザミです。花言葉(全般):「独立」「報復」「厳格」「触れないで」、旬の季節:春~夏、開花時期:5月~8月2番目の写真はアンスリウムです。花言葉(全般):「煩悩」「恋にもだえる心」、旬の季節:夏、開花時期:5月~10月3番目の写真はエゴノキです。花言葉(全般):「壮大」、旬の季節:初夏、開花時期:5月~6月4番目の写真はオダマキです。花言葉(全般):「愚か」、旬の季節:晩春~初夏、開花時期:5月~6月5番目の写真はクチナシです。花言葉(全般):「とても幸せです」「喜び...「夏の花の追加です」

  • 「夏の季節の花10種の写真、花名の由来、花言葉」

    昨日は晴れ上がって真夏のように暑い一日でした。嗚呼、今年も夏が来たと思います。そこで今日は夏の季節の花10種の写真、花名の由来、花言葉をご紹介いたします。夏の野山や花園に咲いている季節の花々です。馴染み深い花を10種選びました。花言葉で自分の気持ちを相手に送ることはロマンチックですが、お互いに意味を知らないと役に立ちません。しかし花言葉を一つ一つ見て行くと、それを始めて見た人間の感じ方が偲ばれて面白いものです。一方、花の名前の由来は花の形や色に由来するものと学名に由来するものがあります。花の咲き方や他のことが由来になっているものもあります。丁寧に見て行くとその花と人間のかかわりが分かり、興味が尽きません。お時間のある方はゆっくりお楽しみ下さい。写真と花名の由来や花言葉の出典は、http://hananok...「夏の季節の花10種の写真、花名の由来、花言葉」

  • 「自動車産業の王国、デトロイトの衰退」

    20世紀初頭にヘンリー・フォードがこの街で築いた自動車産業は、高速道路網の発達とともにアメリカの生活と社会に不可欠な交通手段へ成長したのです。いまでも年間1,750万台の自動車を消費するアメリカは世界最大の自動車王国ですた。ところが、1980年代以降、労賃の高騰のため各メーカーが生産拠点を海外に移転。さらに日本車やドイツ車の台頭による競争激化でデトロイトは一気に衰退しはじめる。人口は現在までで70万人を割るにまで減少した。雇用が減ったおかげで治安も悪化。人口1,000人あたりの暴力犯罪発生率が21.4パーセントと全米第2位、同じく殺人件数344という“最悪級のスラム都市”に転落してしまっ栄枯盛衰の極端な例です。写真は荒れ果てたデトロイトの街の風景です。「自動車産業の王国、デトロイトの衰退」

  • 「アメリカの4600万人の貧困層」

    今日はアメリカの驚くべき貧困層の人数をご紹介したいと思います。このアメリカ社会の格差問題は日本の貧困層が急速に増加している問題と関連して非常に重要な問題なのです。アメリカの人口は3億1700万人です。その総人口のうち4600万人が貧困層であるという信頼できる統計結果が米商務省から発表されました。約7分の1に当たります。この統計は2010年のものですが現在はもっと増加していると想定されます。さて細かなことは省略してアメリカのスラム街の写真をご覧ください。1番目の写真は繁華なラスベガスの中心街近くのスラム街の写真です。写真は昔のシカゴやニューヨークのスラム街と様子が違います。昔のものは白人が住まなくなったビルに黒人が棲みつき、スラム化していました。写真をよく見ると南アメリカのスラム街に非常に似ています。ですか...「アメリカの4600万人の貧困層」

  • 「南米の貧民の写真」

    南米は多くの民族が暮らす混沌とした大陸です。南米のもう一つの特徴はあちこちに貧民街があることです。南米の貧民街はファヴェーラと言います。ブラジルにおいてスラムや貧民街を指す言葉です。ブラジルの都市の郊外に不法居住者の建てた小屋の並ぶファヴェーラが必ずあります。この都市の貧民街はブラジルに限らず南米中の都市にあります。今日は私自身が足を踏み入れたベネズエラの首都、カラカスの貧民街についてご報告いたします。ベネズエラは南米大陸の北の部分を占める大きな国です。その南には広大なブラジルが広がっています。あれは随分昔のことですが、私はこのベネズエラに1976年に、2週間ほど滞在しました。その首都のカラカスで胸が痛む光景を見てしまったのです。近代的な中心街を外れた山の斜面に貧しい人々がビッシリと住んでいたのです。それ...「南米の貧民の写真」

  • 「アメリカ最大の日本人街、ロサンゼルスの日本人街」

    アメリカのロサンゼルスにあるリトルトーキョーは、19世紀終わりに日本人が日本食レストランをオープンしたことが始まりとなって誕生しました。当時日本は明治時代であり、その時から発展したここは、現在の日本人からしてみるとレトロな東京の町並みが並んでいるように感じられます。ここは、日系人にとっては生活の場でありながらも、アメリカ人をはじめとする諸外国人にとっては観光地の一つです。ではそんなリトルトーキョーの写真をお送りいたします。写真の出典は、https://rtrp.jp/articles/49417/です。1番目の写真は京都の東本願寺です。東本願寺1976年に建てられた寺院です。ロサンゼルス別院には年始には多くの在住日本人が初詣に訪れる場所です。2番目の写真は「ジャパニーズ・アメリカン・ナショナル・ミュージア...「アメリカ最大の日本人街、ロサンゼルスの日本人街」

  • 「昔の日本人がタイ王国に日本人村を作った」

    昔の日本人は海外でも活躍したものです。一例は山田長政です。タイ王国に日本人村を作ったのです。16世紀初め、御朱印船貿易に携わった日本人たちが日本人村を築き、最盛期には2,000~3,000人以上もの日本人がアユタヤに住んでいました。大将は山田長政でした。日本人の多くは、アユタヤの傭兵としてビルマ軍との戦いにも参戦します。当時の日本人町の町長であった山田長政は22代ソンタム王から官位を与えられるほど大活躍しましたが、1630年に憤死します。日本の鎖国で18世紀初めにはこの町も消滅しました。そして2007年、敷地内に日タイ修交120周年記念館が設立され、記念の石碑には「アユチヤ日本人町の跡」と記されていました。そこはタイと日本の友好の歴史を知ることができる貴重なスポットです。https://www.thail...「昔の日本人がタイ王国に日本人村を作った」

  • 「夏の奥多摩の風景」

    夏の奥多摩の風景の写真をお送りいたします。写真の出典は、https://www.town.okutama.tokyo.jp/1/kankosangyoka/kankojoho/2/705.htmlです。「夏の奥多摩の風景」

  • 「夏の奥多摩の風景」

    以前は夏の奥多摩へ小さな旅に行きました。独りで車を駆って奥多摩の鳩ノ巣までよく小さな旅をしました。多摩川上流域の古刹、海禅寺と梅岩寺を散策し、多摩川の地酒、「嘉泉」の田村酒造と、もう一つの地酒、「沢の井」の小澤酒造の写真を何度も撮りました。54年前に婚約中だった家内と初めて行ったのは鳩ノ巣渓谷でした。茫々、アッという間に時が流れ去ったものです。...何度も多摩川名物の「へそ饅頭」を家内へのお土産に買いました。多摩川の上流域は東京より涼しくて新鮮な川風が吹いていました。写真に鳩ノ巣渓谷の写真と御岳駅のそばの玉川屋という蕎麦屋の写真をお送りします。玉川屋の座敷の大きなガラス窓から多摩川の向側の山の緑が見え、眺望の良い蕎麦屋さんです。「夏の奥多摩の風景」

  • 「夏の風物詩は海水浴の光景」

    夏の風物詩は海水浴の光景です。幼少の頃の楽しかった海水浴の光景を懐かしく思い出します。一番懐かしいのは荒浜や菖蒲田や桂島の、そして野蒜海岸や宮戸島での少年の頃の海水浴の思い出です。インターネットで検索して桂島と宮戸島の風景写真を探しました。1番目の写真は現在の桂島の海水浴場の風景です。2番目の写真は海開き後の宮戸島の海水浴場の風景写真です。3番目の写真は海開き前の茅ケ崎の海水浴場の写真です。4番目の写真は昔から有名な大磯の海水浴場です。海開き後は人で溢れる海水浴場です。5番目の写真は海開き前の茅ケ崎の海水浴場の写真です。夏を待ちきれない若者達がサーフィンを楽しんでいる光景です。こんな光景を海水浴の光景を思い出すと不思議に若かった頃の元気が湧き出して来ます。皆様も暑い夏をお元気でお過ごし下さい。それはそれと...「夏の風物詩は海水浴の光景」

  • 「夏の風物詩、霧が流れる美ヶ原高原美術館」

    夏の風物詩をもう一つは霧が流れる高原美術館のロマンです。美ヶ原高原美術館をご紹介したいと思います。この美術館は遥かに遠い天空の上の美術館なのです。標高は2004mです。4万坪の屋外展示場に350点あまりの現代造形作品を常設展示しています。1981年6月に、「箱根・彫刻の森美術館」の姉妹館として開館しました。長野県の上田市にあります。それでは早速、霧が流れる美ヶ原高原美術館を家内が撮った写真でご紹介します。美ヶ原高原美術館の詳細は、https://www.utsukushi-oam.jp/mp/gaiyouに出ています。そして全ての展示作品のリストは、展示作品一覧、https://www.utsukushi-oam.jp/search/にあります。展示作品の説明は、https://www.utsukushi...「夏の風物詩、霧が流れる美ヶ原高原美術館」

  • 「夏の風物詩は七夕飾り」

    夏の風物詩には七夕飾りもあります。夏になると家々では子供たちが七夕飾りを作ります。また各地の町の通りに大規模な七夕飾りをします。そして有名なのは仙台の七夕まつりです。仙台の七夕まつりは、江戸時代に仙台藩祖・伊達政宗公が始めたのが由来とされており、以来仙台の伝統行事になります。仙台の七夕祭りは毎年、8月6日、7日、8日と開催されます。夏の風物詩です。毎年、幼少の頃から七夕飾りを見に行った東一番丁や大町通りの光景を思い出します。結婚して東京に住むようになってからも毎年、家内や子供連れで仙台の七夕飾りを見に帰りました。七夕飾りが夏風に揺れている写真をお送りいたします。1番目の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/35196915.htmlです。2番目の写真の出...「夏の風物詩は七夕飾り」

  • 「夏の風物詩だった蚊帳と蚊取り線香」

    現在、私の身の回りには蚊帳と蚊取り線香はありません。昔は夏の暮らしで大切なものでした。そして夏の風物詩でした。今日は追憶の中の夏の風物詩だった蚊帳と蚊取り線香のことを書いてみたいと思います。蚊帳は平安時代から日本で使われていました。江戸時代には庶民にも広がり、「夏の風物詩」になりました。夏の季語として俳句に登場していました。1965年ごろまで日本中で使われていたのです。一方、蚊取り線香は現在でも野外作業で使われています。しかし懐かしい「除虫菊の煙のにおい」がしないのです。現在は合成した化学製品なので独特の香りがしないのです。蚊取り線香の形は現在でも昔のままの渦巻きの形をしています。色も昔と同じです。しかし懐かしい「除虫菊の煙の匂い」がしないのです。それではまず、蚊帳(かや)の写真3枚と、蚊取り線香の写真と...「夏の風物詩だった蚊帳と蚊取り線香」

  • 「岩手県の夏の三陸海岸の風景」

    岩手県のリアス式海岸は、三陸海岸の南部に見られる特徴的な地形です。リアス式海岸は、川が山地を浸食し、形成された入り江が連続する地形です。岩手県では、この地形が漁業や観光業に大きく貢献しています。夏の三陸海岸の風景の写真をお送り致します。「岩手県の夏の三陸海岸の風景」

  • 「北上川と石川啄木と宮沢賢治」

    北上川の水源は岩手県岩手町御堂にある「弓弭(ゆはず)の泉」とする説が一般的です。そこから岩手県の中央を南下して宮城県に入り石巻湾の太平洋へ流れ出ています。北上川のように北から南へ流れる川は全国でも珍しい川です。北上山地と奥羽山脈の間を流れているため、それぞれの山地からいくつもの支流が流れ込み、その数は大小合わせて200以上もあります。1番目の写真はライトアップされた北上川沿いの桜並木です。JR北上駅から徒歩7分ほどの距離にある北上川沿いの桜並木です。さて次は宮沢賢治ゆかりの場所を訪れてみましょう。賢治は1896年(明治29年)花巻に生まれ1933年(昭和8年)に亡くなりました。盛岡への旅では賢治の作品を初めて出版した盛岡市の光原社を訪問しました。その後、小岩井牧場に行き、そして花巻市の羅須地人協会や賢治の...「北上川と石川啄木と宮沢賢治」

  • 「岩手の南部藩の歴史と写真」

    南部藩は岩手県中部と青森県東部から秋田県北東部にかけての地域を治めた藩でした。藩主が南部氏でした。盛岡藩とも呼ばれます。この地域には独特な文化があります。魅力ある地域です。甲斐国にいた南部氏の始祖の南部光行が、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の青森県八戸市に来て現在の南部町(青森県)に宿をとったのが始まりです。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで覇権を確立した徳川家康から南部藩は所領が安堵されました。10万石の大名として認められたのです。明治維新では奥羽越列藩同盟への参加します。そして南部藩は新政府側へ屈服しました。南部藩は終わったのです。なお遠野南部家は藩の新政府側につき、八戸藩は藩主・南部信順が薩摩藩主・島津重豪からの養子であり新政府側へついたのです。この地域の独特な文化や魅力を写真で示します。1番目...「岩手の南部藩の歴史と写真」

  • 「26歳で夭折した石川啄木の詩の世界」

    石川啄木は1886年(明治19年)岩手県日戸村で住職の長男に生まれ、翌年渋民村へ移った。1912年(明治45年)に結核で没した。享年26歳。まず彼が作ったを短歌を読んでみよう。短歌を三行書きにするという新しい形を産み出した。歌われたのは孤独・望郷・貧困など自己の内面を描き出したものが多い。東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむるたはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまずはたらけどはたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざりぢつと手を見る友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆくかにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくにふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの...「26歳で夭折した石川啄木の詩の世界」

  • 「岩手県と北上川、そして小岩井牧場、石川啄木と宮沢賢治」」

    岩手は文学者の故郷です。彼等の関連のある盛岡を何度も訪問しました。小岩井牧場にも行きました。盛岡城跡の高い石垣を登ると広い草原になっています。青草の上にあおむけに寝て大空を見ていたら石川啄木の短歌を思い出しました。「不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心」盛岡では「石割桜」の巨大な石に手をついて何故か感慨に耽りました。滔々と水量豊かに流れる北上川の岸辺にたたずみ口ずさみました。「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに(石川啄木の短歌です。)岩手は宮沢賢治の故郷です。そこで今日は宮沢賢がよく散歩した盛岡城や石割桜や小岩井農場や北上川などの写真をお送り致します。写真の出典は、https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2396/です。1番目の写真は「盛岡城跡公園」で...「岩手県と北上川、そして小岩井牧場、石川啄木と宮沢賢治」」

  • 「貧乏でも趣味を楽しむ、すると人生が輝き出す」

    自分が貧乏だから持っているお金だけで出来る趣味を楽しむ。これが引退後の人生を輝かしい日々に変える為の鉄則と確信する境地に至りました。創意工夫を重ねて、あるお金だけで賢い生活をすることです。この時、一つや二つの趣味を持ち、その為の最小の出費を惜しんではいけません。別荘地と山林地とは値段も違う上、不動産税が雲泥の差です。しかし豊かな想像力と自然へ対する憧憬が強ければ同じように楽しめます。ロマンチシズムを持っていると、より一層豊かに趣味を楽しめます。1番目の写真は私の山林の中の小屋です。電気釜という文明の利器を山へ持って行って美味しいご飯を炊くのです。友人の鬼家さんを招んで、青空の下で家内と3人で昼食を楽しむ。それだけが楽しいのです。2番目の写真は山林の中の小屋の庭で使った電気釜です。3番目の写真は炊き上がった...「貧乏でも趣味を楽しむ、すると人生が輝き出す」

  • 「山林の中の小屋の趣味を教えてくれたのもスエーデンの エケトルプ先生」

    スエーデンのエケトルプ先生は海岸に質素な別荘を持っていました。それを真似して私も1975年に山梨県の山林に小屋を建てました。小屋を建てた場所を写真で示します。山梨県の甲斐駒岳の麓です。1番目の写真は山梨県の北杜市から見上げた甲斐駒岳連峰の写真です。晩秋に撮った写真です。この山の麓に小屋を建てたのです。場所は山林の中です。2番目の写真は甲斐駒岳の麓の森の奥にある私の山小屋です。晩秋に撮ったので木々が紅葉しています。電気、ガス、水道の無い小屋でした。スウェーデンの学生さん達も来ました。楽しい思い出がたくさんある小屋です。3番目の写真は小屋に登って行く雪道です。こんな森の中の道を2Kmほど登ると小屋があります。写真にポツンと小さく写っている人間はよく一緒に行った家内です。4番目の写真は小屋の窓から見た光景です。...「山林の中の小屋の趣味を教えてくれたのもスエーデンのエケトルプ先生」

  • 「ヨットの趣味を教えてくれたスエーデンの エケトルプ先生の思い出」

    ヨットの趣味を教えてくれたスエーデンのエケトルプ先生でした。1974年に旅したスエーデンへの旅の思い出を書きたいと思います。私を招待してくれたエケトルプ教授の思い出も書きたいと思います。1番目の写真はスエーデンの首都ストックホルムの夜景です。2番目の写真は農村地帯の風景です。森林が多いので木造の農家が多いのです。私は1974年にストックホルムに4ケ月滞在しました。私を招待してくれたのはエケトルプ教授でした。エケトルプ教授が私へヨットの趣味を教えてくれたのです。3番目の写真はスウェーデンの古民家です。4番目の写真は馬を放牧している牧場の風景です。エケトルプ先生の家の裏の風景と似ています。写真の出典は、http://ameblo.jp/rv9084/entry-10717580893.htmlです。エケトルプ...「ヨットの趣味を教えてくれたスエーデンのエケトルプ先生の思い出」

  • 「私のヨットの写真」

    私は50歳で小型ヨットスクールへ通い、53歳の時、琵琶湖へ行ってヤマハ19という中古のクルーザーを初めて購入しました。長さが5m90cmの小さなクルーザーで操船が簡単そうでした。そのヨットを水郷汽船(株)経営の霞ヶ浦マリーナへ陸送しました。ヨットをクレーンで吊って水に入れてくれたのがマリーナの佐藤敏郎さんです。それ以来、23年間、2012年の秋にヨットを止めるまで佐藤さんにお世話になったのです。はじめてのヨットをあけび号と命名しました。家内とよくセイリングしたものです。1番目の写真は家内と一緒に帆走中のあけび号です。霞ヶ浦で元気に活躍していました。2番目の写真も「あけび号」です。「あけび号」を手放してから今度は大きな「ルナ3世」号を買いました。3番目の写真は「ルナ3世」号です。長さ26フィートです。後方に...「私のヨットの写真」

  • 「美しい帆船、シナーラ号の思い出」

    もう体力が無くなって趣味のヨットは75歳の時に止めました。止めてから14年になりますがヨットのことは鮮明に覚えておます。心の中でまだヨットを楽しんでいます。今日は帆船のシナーラ号の思い出を書きたいと思います。私はこの帆船に2度乗ったことがあります。一度はその重い舵輪を握った経験もありました。2000年前後のことでした。しかしその後シナーラ号は消えてしまったのです。ところが”MALU”さんという方のブログにシナーラ号のその後の物語が詳しく書いてあったのです。シナーラ号はヨットの好きな人の憧れのまとだったのです。感心なことに”MALU”さんは憧れるだけでなくシナーラ号のその後を詳しく調べていたのです。その写真を下に示します。1番目の写真はかつてのシナーラ号です。写真の出典は、”MALU”さんのブログ(http...「美しい帆船、シナーラ号の思い出」

  • 「懐かしい鎌倉の風景」

    鎌倉は家内が生まれ育った町まので以前に何度も遊びに行きました。懐かしい町です。懐かしいので写真をお送りいたします。写真はインターネットからお借りしました。「懐かしい鎌倉の風景」

  • 「京都の郊外にある美しい竹林の写真」

    あれは30年くらい前のことです。京都の郊外にある美しい竹林の中の道を歩いたことがあります。見事な竹林でした。その風景に似た写真をお送りいたします。写真はインターネットからお借りしました。「京都の郊外にある美しい竹林の写真」

  • 「鎌倉の報国寺の竹林の写真」

    鎌倉を代表する古刹の報国寺か竹寺として有名です。その写真をお送り致します。出典は、https://www.trip-kamakura.com/article/18726.htmlです。「鎌倉の報国寺の竹林の写真」

  • 「古都、鎌倉の古刹の静寂の世界」

    鎌倉は妻が生まれ育った町です。妻が懐かしいと言うで何度も行きました。そのうち私の故郷のように感じるようになりました。今日はそんな鎌倉の古刹の静寂の世界をご紹介致したいと思います。鎌倉の古刹めぐりの静寂の世界力を書きたいと思います。鎌倉のお寺は円覚寺と建長寺の二つ以外のお寺は規模が小さくて質素なたたずまいです。京都の寺のように華やかでありません。静かな小さいお寺が沢山あるのです。古刹の静寂の世界です。私はもう50年くらい前の中年になってからその魅力にとりつかれ何度も訪れました。円覚寺と建長寺をはじめ瑞泉寺、明月院、寿福寺、杉本寺、海蔵寺、報国寺、光明寺、などなど20位のお寺には何度も行きました。ある時は鎌倉や逗子や江の島の宿に泊まり、まだ人のいない朝早くから、読経の声が響く境内を散歩したものでした。そして鎌...「古都、鎌倉の古刹の静寂の世界」

  • 「美しい自然に囲まれた鎌倉の質素なお寺の風景」

    鎌倉へはお寺の散策をしに何度も行きました。懐かしい嘗遊の地です。禅宗を主にした鎌倉佛教の栄えた所で寺院は約130ヶ所もあります。しかし京都の寺院に比べて質素で小さいのです。円覚寺と建長寺は大規模で立派ですが他の寺々はささやかな感じです。今日は美しい自然に囲まれた鎌倉のお寺の雰囲気をご紹介したいと思います。鎌倉のお寺の魅力は周囲の自然に溶け込んでいることです。低い山を背景にし緑が豊かで美しいのです。庭も小さいのですが趣があります。写真の出典は、https://kamakura.press/tera/tera-ranking/です。1番目の写真は建長寺の最奥にある「勝上献展望台」からの眺めです。鎌倉の街と海を一望出来る展望台です。建長寺の山門から本堂を通って裏の坂道を根気良く登ると展望台に上がれます。2番目の...「美しい自然に囲まれた鎌倉の質素なお寺の風景」

  • 「ドイツのカトリック教会の写真」

    ドイツの教会はカトリックとエバンゲリッシュで多少違います。エバンゲリッシュとはプロテスタント教会のことです。ドイツのカトリック教会の写真を示します。壮大なケルンの教会等が有名ですが村の小さな教会も紹介します。1番目の写真はローテンブルクのカトリック教会です。私が1969年秋に4ケ月間通った教会です。2番目の写真はウルムの教会です。ドイツの都会にある典型的な教会です。3番目の写真はドイツの都会にある典型的な教会の内部にあるパイプオルガンです。4番目の写真はヴィースの巡礼教会です。南ドイツのどかな田舎の牧場の中にポツリと建つ教会です。南ドイツのコロマン教会です。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)「ドイツのカトリック教会の写真」

  • 「今日の日曜日のカトリック松原教会のミサの風景」

    今日の日曜日はインターネットを通してカトリック松原教会のミサにあずかりました。ミサの風景の写真をお送り致します。「今日の日曜日のカトリック松原教会のミサの風景」

  • 「カトリックとは?」

    カトリックとは、キリスト教の教派の一つで、普遍的という意味を持つ言葉です。ローマ教皇を最高指導者として仰ぎ、世界中に広がるキリスト教の最大宗派です。カトリックとは何かを詳しく説明すると。普遍的な教会:カトリック(catholic)という言葉は、ギリシャ語の「katholikos」に由来し、普遍的、全世界的という意味を持ちます。ローマ教皇を頂点とする組織:ローマ教皇を教会の最高指導者として仰ぎ、全世界に広がる教会組織を指します。使徒の伝統:カトリック教会は、イエスの使徒たちに始まる2000年の伝統を受け継ぐ教会とされています。世界的な広がり:世界中に約12億人の信者がおり、各地域には司教区という単位で教会組織が存在します。活動内容:イエス・キリストの教えを伝え、共に祈り、信仰、希望、愛を持って生き...「カトリックとは?」

  • 「バチカンの美しきサン・ピエトロ広場の写真」

    バチカンの美しきサン・ピエトロ広場の写真です。「バチカンの美しきサン・ピエトロ広場の写真」

  • 「今日の日曜日のミサの動画配信」

    今日は日曜日です。ミサの動画配信は下記にあります。https://www.youtube.com/watch?v=PrfDGlDXO0c&list=PLaWhZknor8aL6F0mi1W-VKSGNBSs_RGz5カトリック松原教会〒156-0043東京都世田谷区松原2丁目28番5号TEL.03-3321-0941FAX.03-3321-0009matsubara-church@gray.plala.or.jp「今日の日曜日のミサの動画配信」

  • 「カトリック小金井教会のミサの風景写真」

    カトリック小金井教会のミサの風景写真です。私どもの教会です。司式はイエズス会の竹内修一神父さまがなさり、福音書の朗読は加藤豊主任司祭さまです。ミサの光景の写真をお送りいたします。1番目の写真は福音書の朗読は加藤豊主任司祭さまです。朗読は「マルコによる福音」の13章の24節から32節まででした。2番目の写真は説教をしているイエズス会の竹内修一神父さまです。竹内神父の説教はいつも知的で、しかも分かり易いのです。3番目の写真はミサで、加藤豊主任司祭さまが祈っている場面です。4番目の写真は加藤豊主任司祭さまがパンと葡萄酒はイエスの体と血に変化するように祈っている場面です。5番目の写真はイエスの体に変化したパン片を信者へ配っている場面です。今日は何故、私がカトリック小金井教会の今日のミサの風景写真をご紹介するのかの...「カトリック小金井教会のミサの風景写真」

  • 「現在の日本のカトリック信仰の組織」

    日本のカトリック教会は、ローマ・カトリック教会の管轄下にあり、16の教区と1つの軍中枢教区に分かれています。教区はそれぞれ特定の地域を担当し、司教が統括しています。また、教会は病院、学校、社会福祉施設なども運営しています。日本で有名なカトリック教会はいくつかありますが、特に有名なのは、長崎の大浦天主堂、東京の聖イグナチオ教会、東京カテドラル聖マリア大聖堂などです。他にも、崎津教会や黒島天主堂、カトリック碑文谷教会(サレジオ教会)なども人気があります。日本国内には961のカトリック教会、746の修道院があり、これらが41の医療施設、639の社会福祉施設、833の教育施設があります。活動する主な修道会日本国内には891の修道会・修道院がありますが、その中の一部を示します。男子修道会・イエズス会(上智大学、...「現在の日本のカトリック信仰の組織」

  • 「美しい五島列島とカトリック教会」

    五島列島は雄大な景観、美しい浜辺など手つかずの自然がたくさん残っています。島へは長崎から飛行機で約30分、ジェットホイルでも約1時間30分で行けます。遣唐使時代、日本で最後の寄港地となった福江島もあります。遣唐使たちは五島から唐へと命がけで海を渡りました。島内には遣唐使や空海ゆかりの地が点在し、壱岐・対馬とともに「国境の島壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋~」として三井楽、明星院本堂、白石のともづな石が日本遺産に認定されています。そんな五島列島へは以前に家内と旅をしました。懐かしい嘗遊の地です。1番目の写真は福江の海水浴場「浜田海水浴場」です。福江港や五島つばき空港から車で25分程の魚津ヶ崎公園から遊歩道を通って海岸を500mほど歩いたところにあるビーチです。2番目の写真は福江島の風景です。さて五島列島の...「美しい五島列島とカトリック教会」

  • 「芭蕉が訪れた平泉の中尊寺金色堂」

    芭蕉が訪れた平泉の中尊寺金色堂です。金色堂の写真です。出典は、https://hiraizumi.or.jp/heritage/です。「芭蕉が訪れた平泉の中尊寺金色堂」

  • 「松尾芭蕉の50の俳句」

    春古池や蛙飛び込む水の音行く春や鳥啼き魚の目は泪山里は万歳遅し梅の花山路きて何やらゆかしすみれ草草臥れて宿借るころや藤の花しばらくは花の上なる月夜かなほろほろと山吹散るか滝の音花の雲鐘は上野か浅草か梅が香にのつと日の出る山路哉草の戸も住み替はる代ぞ雛の家夏閑さや岩にしみ入る蝉の声五月雨を集めてはやし最上川夏草や兵どもが夢の跡田一枚植えて立ち去る柳かな暑き日を海にいれたり最上川五月雨を降り残してや光堂あらたふと青葉若葉の日の光おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな暫時は滝に籠るや夏の初木啄も庵はやぶらず夏木立雲の峰いくつ崩れて月の山象潟や雨に西施がねぶの花語られぬ湯殿にぬらす袂かな若葉して御目の雫ぬぐはばや世の人の見付けぬ花や軒の栗野を横に馬牽むけよほととぎす蚤虱馬の尿する枕もと秋名月や池をめぐりて夜もすがら菊の...「松尾芭蕉の50の俳句」

  • 「芭蕉が泊まった栃木県大田原市の雲巌寺の写真」

    栃木県大田原市の現在の臨済宗、雲巌寺の写真です。元禄4年(1691年)4月5日に芭蕉が泊まりました。「芭蕉が泊まった栃木県大田原市の雲巌寺の写真」

  • 「関口芭蕉庵の写真」

    江戸時代を代表する俳人松尾芭蕉(1644~1694)が、2度目の江戸入りの後、1677年から3年間住んだ家が芭蕉庵です。当時、旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、工事現場の水番屋に住んでいました。後に芭蕉を慕う人々により「龍隠庵」という家を建てましたが、これが現在の芭蕉庵につながっています。その後焼失し、現在のものは第2次大戦後の建築です。写真は現在の芭蕉庵です。「関口芭蕉庵の写真」

  • 「秋田県の象潟のご紹介」

    象潟(きさかた)は、秋田県にかほ市象潟地域にあります。現在は陸地だが、かつては潟湖(入り江)で、潟湖に島々が浮かぶ景勝地でした。「東の松島西の象潟」と謳われ、同じく東北地方の景勝地の松島と並び称されていました。象潟の島々は、鳥海山の大規模な山体崩壊及び、その土砂が日本海に流れ込んだことによって生じたもので、いわゆる流れ山地形です。芭蕉は『おくのほそ道』において「松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し」(松島は笑っているようで、象潟は憂愁に沈んでいるようだ)と評しましました。芭蕉は「象潟や雨に西施が合歓(ねぶ)の花」という句を象潟で詠んでいます。『おくのほそ道』の刊行後は、それに影響を受けた文人が多数、象潟を訪れるようになったのです。現在も60ほどの島々が水田地帯に点々と残されており、当時のまま九十九島...「秋田県の象潟のご紹介」

  • 「芭蕉の『奥の細道』を再読」

    今朝は何故か芭蕉の『奥の細道』を思い出しました。今日は皆さまご存じの『奥の細道』をもう一度読んでみたいと思います。『奥の細道』は、芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に、門人の河合曾良を伴って江戸を発って、奥州、北陸道を巡った紀行文です。全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って、元禄4年(1691年)に江戸に帰った紀行文です。東北各地に点在する歌枕や古跡を訪ねることが、最大の目的の旅でした。さっそく芭蕉の俳句をご紹介いたします。江戸、旅立ち3月27日[21]明け方、採荼庵さいとあんより舟に乗って出立し、千住大橋付近で船を下りて詠む。矢立の初め「行く春や鳥啼なき魚の目は泪」日光4月1日下野国日光(現、栃木県日光市)「あらたふと青葉若葉の日の光」黒...「芭蕉の『奥の細道』を再読」

  • 「南米への移民の歴史」

    南米への日本人移民は、19世紀末から20世紀にかけて、主にブラジルやペルーを中心に展開されました。当初は労働力不足を補うための契約移民として渡航しましたが、その後、開拓移民や定住移民へと変化しました。現在では、南米には多くの日系人が居住しており、それぞれの国で社会や文化に貢献しています。南米における日本人移民の歴史です。1,初期の移民:19世紀末から20世紀初頭にかけて、ブラジルやペルーを中心に、日本人移民が本格的に始まりました。2,契約移民から定住移民へ:当初はプランテーションでの労働力として渡航しましたが、その後、土地を開拓して定住する移民が増加しました。3,二世、三世の誕生:移民たちは家族を呼び寄せ、二世、三世と世代を重ねるにつれて、日系社会が形成されていきました。4,戦後の移民:第二次世界大...「南米への移民の歴史」

  • 「南米、カラカスと闘牛場でのミサの思い出」

    ベネズエラは南米大陸の北の部分を占める国。首都、カラカスに2週間ほど滞在した。1976年の事だった。裕福な人々は平地の街中に住み、貧しい人々は街を囲む山の斜面に手造りの家々を作り密集して住んでいる。熱帯特有の、あくまでも濃いコバルトブルーの空の下、人々は陽気で、明るく生きている。しかし、貧富の差の大きさと、生活の厳しさに、胸が痛くなる。こんな風景は南米以外には無い。ベネズエラへの人々への追憶は何故か悲しさに満ちている。ホテルの受付で、「キリスト教のミサに行きたいが何処かに教会があるか?」と聞いてみた。受付机のボーイが、「それなら裏にある闘牛場へ、朝7時に行け」と言う。翌朝、早起きをして行ってみた。荒れて崩れかかった巨大な闘牛場の観客席を人々が埋め尽くしている。街の背後の山の貧民街から来た人々であるという。...「南米、カラカスと闘牛場でのミサの思い出」

  • 「南米への移民の歴史」

    南米への日本人移民は、19世紀末から20世紀にかけて、主にブラジルやペルーを中心に展開されました。当初は労働力不足を補うための契約移民として渡航しましたが、その後、開拓移民や定住移民へと変化しました。現在では、南米には多くの日系人が居住しており、それぞれの国で社会や文化に貢献しています。(https://www.google.co.jp/search?q=%E5%8D%97%E7%B1%B3%E7%A7%BB%E6%B0%91&btnK=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&sca_esv=db5813506fc066f9&sca_upv=1&source=hp&ei=jrsoZv6oNerl2roPlv6dyA4&iflsig=ANes7DEAAAAAZijJnuDpi0SX6y75d9...「南米への移民の歴史」

  • 「南米移民にまつわる悲しい思い出と氷川丸物語」

    中学、高校時代に水元君という友人がいました。伊達政宗の霊廟のある山の下の霊屋下という名前の町に住んでいました。父は戦死して母と二人で暮らしていました。色白の優しい中学生でした。何度も彼の家に遊びに行きましたが母は働いていて会ったことはありません。水元君のそばに居ると平和な気分になるのです。中学を卒業すると仙台の繁華街にある相沢眼鏡店で働き始めました。私は高校生になりましたが水元君に会う為に相沢眼鏡店へ何度も遊びに行きました。優しい彼を他の店員も大切にしていたらしく私が遊びに行ってもそれとなく歓迎してくれたのです。ある時何時ものように店に遊びに行った私にへ水元君は母と一緒に南米へ移民することにしたと告げたのです。平静な話しぶりに決心の固さが分かりました。彼は悲しそうにもう会えないが元気でねと言います。翌月、...「南米移民にまつわる悲しい思い出と氷川丸物語」

  • 「南米へ移民してしまった水元君と石川達三の『蒼氓』の思い出」

    仙台の愛宕中学校に行っていた頃、一人の友人がいました。霊屋下に住んでいた水元君です。何度も彼の家に遊びに行きました。母子家庭で母親は働いていて家には水元君だけが淋しそうにしていました。白っぽい顔で優しい真面目な少年でした。中学校を卒業するとすぐ働き始めました。繁華街の大町通りにあった相沢メガネ店の店員になったのです。私は高校に行きましが、繁華街に行くたびに相沢メガネ店に寄りました。真面目に働く水元君は店の評判も良かったようです。店の人が私を大切にしてくれます。水元君と店の外で数分立話をします。そんな関係が高校の3年まで続きました。最後に会った時、水元君が言います。「僕、こんど母と南米へ移民することにした。君と仙台とお別れだ。何度も店に寄ってくれてありがとう」と。微笑んでいましたが淋しそうでした。それから暫...「南米へ移民してしまった水元君と石川達三の『蒼氓』の思い出」

  • 「日本の夏の風景」

    日本の夏の風景の写真をお送り致します。写真の出典は、https://portfolio-ai.com/original-landscape-of-summerです。「日本の夏の風景」

  • 「夏の思い出、札幌の大通り公園 、北大植物園など」

    今日は夏の北海道の思い出をお送り致します。札幌の大通り公園、北大植物園、ポプラ並木、開拓村などの思い出です。まずロマン溢れる札幌です。中心にある大通り公園が四季を通じて楽しい場所なのです。札幌はその広大な大通り公園の回りに高層ビルが美しく並んでいるのです。そばには北海道大学の植物園があり、明治を偲ばせるレンガ建ての道庁があります。花の咲いている百合が原公園や八紘学園花菖蒲園もあります。北海道大学の有名なポプラ並木もロマンチックです。郊外には手稲山ジャンプ台があり眺望絶佳です。さらに北海道開拓村が北海道の開拓の歴史を展示しています。それではこれらの写真を示しましょう。1番目の写真は札幌の百合が原公園です。写真の出典は、https://uu-hokkaido.jp/flower/summer.shtml、悠悠...「夏の思い出、札幌の大通り公園、北大植物園など」

  • 「家内の夏の思い出、由比ヶ浜での海水浴、下仁田町への疎開」

    家内の夏の思い出と言えばまず由比ヶ浜での海水浴、親類の若者が大勢泊りに来て砂浜にビーチパラソルを立てて、水浴びしたり海の家で食事やかき氷を食べたり小屋掛けの射的・ボットル落としや楽焼をした楽しい思い出をよく話しています。戦争末期に群馬県の下仁田町に疎開したのですがそこでも楽しい思い出が沢山あるようです。本来楽天的というか人懐こく物おじしない性格なので山あいの生活や小学校にすぐ慣れて、友達とカブラ川へ水浴びに行き、帰りに河原の桑の実を食べるのがとても楽しかったそうです。ママのお土産にしようとポケット一杯摘んで帰ったら白いワンピースのポケットが真っ赤に染まってしまったそうです。川の上流の浅瀬でバチャバチャしていたら流されて大渕という深みまで行って溺れていたら、大岩の上にいた3歳上の姉が飛び込んで救ってくれた。...「家内の夏の思い出、由比ヶ浜での海水浴、下仁田町への疎開」

  • 「夏の思い出、1945年8月の敗戦」

    1945年の8月15日に終戦になりました。ですから夏が来ると思い出すのは日本の敗戦です。私は当時仙台市に住んでいて向山小学校の3年生でした。先生は軍国主義を批判し民主主義を教え始めました。それは日本の歴史の転換でした。軍国主義が急に民主主義になったのです。民主主義の教育はその後の新制中学でも続きました。添付の写真は終戦直後の宮城前の光景、買い出し列車、ヤミ市の写真です。写真の出典は、https://kirigami.hatenablog.jp/entry/70205741です。夏の思い出の光景です。忘れられない光景です。それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りきたします。後藤和弘(藤山杜人)1番目の写真は終戦直後の宮城前の光景です。人々が自分達の努力が足りなくて戦争に負けたことを昭和天皇へ謝って...「夏の思い出、1945年8月の敗戦」

  • 「夏の思い出、納涼祭り、夜店、風の盆」

    いよいよ暑い夏です。しかし後期高齢者になると暑い夏は苦手になります。昔は夏の暑さに負けずにこの季節を楽しく過ごしたものです。納涼祭りや夜店、そして盆踴りを楽しんだものです。それらは夏の風物詩です。詩情豊かな夏の文化です。今日はこの夏の風物詩を私が撮った写真とともにお送り致します。まず始めは我が町、小金井の納涼祭りと夜店の写真をお送り致します。1番目の写真は小金井の駅前広場の納涼祭りの様子です。2番目の写真は小金井の納涼祭りに浮かれる子供達の様子です。3番目の写真は夜店の風船吊りに夢中になっている子供達の様子です。毎年、毎年、子共たちが何処からともなく沢山集まって嬉々として楽しんでいます。昔は裏の京王商店街に酒屋があり、肉屋、お茶屋、本屋、電気屋、蕎麦屋、2軒の寿司屋、中華そばや、錠前屋、クリーニング屋があ...「夏の思い出、納涼祭り、夜店、風の盆」

  • 「夏の風物詩、能登地方のキリコ祭り」

    日本には各地に四季を通して祭りがあります。神社やお寺さんに関係した宗教色のあるものから宗教とは関係のないものなど沢山あります。特に夏は盆踊りや納涼祭などが加わり一層数多くの祭りがあります。それこそが日本民族の文化の基盤であり、人々を幸せにしている大切なものです。祭りは家族の愛を強め、地域の人々を美しい絆で結びつけきます。夏の夜に遠くから聞こえて来る太鼓の響きや掛け声を聞くと亡くなった祖父母や両親のことを思い出します。一緒に遊んだ友人たちのことを思い出します。懐かしい故郷の昔の風景がよみがえって来ます。夏祭りの一つの例を示します。能登半島の津々浦々のキリコ祭りをご紹介致します。能登は今年の元日に大地震に見舞われ甚大な被害を受けました。亡くなられた人々の魂の安らぎを祈ります。キリコ祭りは能登地方の住民にとって...「夏の風物詩、能登地方のキリコ祭り」

  • 「昔入った作並温泉の露天風呂の写真」

    仙台で生まれ育ったので近くの作並温泉によく行きました。岩松旅館の露天風呂は広瀬川の上流に沿った大きな温泉でした。男女混浴でおおらかな雰囲気でした。広瀬川のせせらぎが美しく響きさわやかな風が吹いています。懐かしい作並温泉の露天風呂の写真をお送り致します。写真はインターネットからお借り致しました。「昔入った作並温泉の露天風呂の写真」

  • 「我が青春の山、蔵王山の思い出」

    蔵王山は奥羽山脈の中にあって宮城県と山形県の県境にあります。火山活動によって出来た山です。仙台で生まれ育った私は何度も蔵王山の樹氷の間でスキーをしたことがあります。当時は仙山線で山形駅に行き、そこからバスで高湯温泉(現在の蔵王温泉)に上がりました。高湯温泉からはスキーを履いてドッコ沼の山小屋に逗留するのです。ドッコ沼の上の懺悔坂から地蔵岳までが樹氷地帯なのです。地蔵からの帰りは急坂の懺悔坂は怖いので、なだらかな大平コースを下ります。夕日を浴びた茜色の樹氷の光景が今でも私の網膜に焼き付いています。あれから茫々60年以上も経ちました。毎年、今頃になると懺悔坂の怖さと夕日の樹氷の姿を思い出します。今日は皆様に蔵王山の美しい樹氷の写真をお楽しみ頂きたいと思います。お送りする写真は「山形蔵王の樹氷写真集」、http...「我が青春の山、蔵王山の思い出」

  • 「遥かに思い出すのは松島の風景」

    老境にいたって遥かに思い出すのは松島の風景です。その松島は生まれ育った仙台のそばなので何度も遊びに行きました。松島は日本三景の一つで風景が美しい海に松が生えている島々が点在しているのです、この松島の海で仙台一高に通っていた頃に、カッターやスライデイングやフィックスを漕いだのです。スライデイングとは座席が前後に動く競走用のボートで、フィックスは座席が動きません。私にとって懐かしい松島の風景の写真をお送り致します。写真は、「松島の風景の写真」を検索してネット上からお借りしました。松島湾は仙台湾の中央にあります。多島海です。このうち松島湾の南西部は塩竈湾です。松島の地形は宮城県の中央部にある松島丘陵の東端が海にまで達し、それが沈水して出来たリアス式海岸です。沈降地形で谷に海水が入り込んで出来たのです。そのうち松...「遥かに思い出すのは松島の風景」

  • 「夏が来れば思い出す宮戸島と嵯峨渓」

    夏が来ればいろいろなことを思い出します。その一つに奥松島にある宮戸島のことです。そしてその嵯峨渓の光景です。私の祖父が宮戸島の小学校の校長をしていたご縁で宮戸島に行き来していたのです。70年前のことです。ある夏の日に祖父の教え子が私を小舟に乗せて嵯峨渓を見せてくれたのです。峩々とした白い岸壁が青い波の上に不思議な姿で聳えているのです。少年だった私は何故か不思議な感動をしました。写真を示します。ここに示した写真は「宮戸島の嵯峨渓」を検索してインターネットにある多くの写真から選びました。「嵯峨渓」は日本三大渓の1つとも言われています。さて私の祖父がこの宮戸島の小学校の校長をしていました。その祖父は私が生まれる前に死んだので会ったことの無い祖父でした。祖父が下宿していたのが観音寺というお寺でした。そして観音寺へ...「夏が来れば思い出す宮戸島と嵯峨渓」

  • 「奈良にある重要なお寺の風景」

    奈良にある重要なお寺の風景をお送り致します。1番目の写真は東大寺の大仏(盧舎那仏像)です。国宝である大仏は、世界最大級の銅造の仏像です。高さ約15メートル、顔の幅が3.2メートルあります。巨大さに圧倒されますが、穏やかな表情は癒しを与えてくれます。大仏だけでなく、大仏が安置されている巨大な大仏殿も国宝に指定されています。2番目の写真は薬師寺です。薬師寺は7世紀後半、天武天皇の皇后(後の持統天皇)の病気回復を祈願して発願され、697年に藤原京の地に完成しました。その後、平城京への遷都に伴い、現在の地へ移されました。3番目の写真は金峯山寺(きんぷせんじ)(吉野郡吉野町)です。金峯山寺は、修験道の開祖・役行者によって約1,300年前に開かれました。金峯山修験本宗の総本山として、現在も全国から修験者・山伏が集いま...「奈良にある重要なお寺の風景」

  • 「韓国にある仏国寺や海印寺などの写真」

    日本にも貴重な文化遺産があります。奈良の唐招提寺や京都の高台寺などなどです。同じように韓国にも素晴らしい世界遺産のお寺があります。韓国の世界遺産の仏国寺や海印寺などのを写真でご紹介いたします。写真の出典は、https://www.travelbook.co.jp/topic/18683です。1番目の写真は韓国の世界遺産の「宗廟」です。お寺です。牌を祀ってあります。朝鮮王朝の歴代王と、そして王妃の位牌を祀っており、神聖な場所として知られています。2番目の写真は世界遺産の「仏国寺」です。仏教芸術の最高傑作かつ国宝の寺院とされている仏国寺は理想的な彼岸の世界観が表現されております。この仏国寺は1982年に家内と訪問したことがあります。3番目の写真は韓国の世界遺産の「慶州歴史地域」です。慶州市周辺の史跡や古墳の総...「韓国にある仏国寺や海印寺などの写真」

  • 「故郷の仙台と鎌倉のお寺の写真」

    お寺と言えば育った仙台の近所にあった長徳寺や大満寺を思い出します。家内も鎌倉の長谷寺の近くで生まれました。そんな関係で鎌倉の海蔵寺や寿福寺や他のお寺へ何度も行きました。その上祖父は兵庫県の田舎の正林寺の住職でした。私の傍にはいつもお寺があったのです。私はお寺に囲まれて育ったのです。そんな訳でお寺の写真を見ると楽しかった昔の日々を思い出し幸せな気分になるのです。今日はお寺の写真をお送り致します。思い出深いお寺の写真です。1番目の写真は仙台の長徳寺です。2番目の写真は仙台の大満寺の写真です。続て鎌倉のお寺の写真をお送り致します。家内が撮った写真です。3番目の写真は鎌倉仏教を代表する建長寺の山門です。4番目の写真は円覚寺の方丈です。5番目の写真は浄福寺の山門です。6番目の写真は浄智寺の本堂です。7番目の写真は浄...「故郷の仙台と鎌倉のお寺の写真」

  • 「分かりやすい仏教とキリスト教の比較」

    キリスト教を簡単至極に説明したいと思います。分かり易く説明するためにお釈迦さまの教えと比較しながら話を進めて行きたいと思います。さて、ユダヤ民族だけの民族宗教として旧約聖書が前900年頃に出来ました。それから、長い年代にわたって改正が続きましたが、ユダヤ民族がバビロニアに捕囚されていた時代に大部分が編集されたそうです。この旧約聖書は長い間、ユダヤ教の基本でしたが2000年前にイエス・キリストが改正をして世界の全ての民族に通用するキリスト教を作ってしまったのです。この宗教の特徴は『神はヤハウエ神だけである。偶像崇拝は行わないこと』ということにあります。仏教と比較しますとキリスト教では唯一の神が存在しますが、仏教では神の存在を認めていません。お釈迦さま自身はあくまでも人間であって死んだら空(クウ)になるだけで...「分かりやすい仏教とキリスト教の比較」

  • 「今日の広島のカトリック曙町教会のミサの風景」

    今日はインターネットを通して広島のカトリック曙町教会のミサにあずかりました。その風景の写真をお送り致します。「今日の広島のカトリック曙町教会のミサの風景」

  • 「鹿肉を熟成して美味しく食べる方法」

    以前ドイツに住んでいた頃、デパートの地下でカモやガンなどの野鳥が羽が付いたまま売っていました。野生のシカ肉も売っています。ライン河で捕れたウナギも養殖の鱒もドイツ鯉も活きたまま売っています。私は嬉しくなり野鳥のカモ、活きた鱒、活きウナギ、野生のシカ肉などを買って来て料理をして美味しいドイツビールとともに食べました。ところがバターでムニエルにした活きた鱒以外は美味しくなかったのです。それ以外は酷く不味かったのです。ドイツの食文化としての料理法に無知でそれぞれの料理方法が間違っていたのです。素材を煮たり焼いたりする前の下準備が重要なことを無視していたのです。熟成が大切なのです。以前に北海道で獲れたエゾシカ肉を沢山頂く機会がありました。その鹿肉を送って下さった「でいしゅうさん」という方から鹿肉を美味しく食べる下...「鹿肉を熟成して美味しく食べる方法」

  • 「今日の富士山の寫眞」

    今日の富士山の寫眞です。富士山に限りなく近いまち「富士吉田市」は、市内の至るところから富士山の絶景が望めます。写真の出典は、https://www.yamanashi-kankou.jp/heritage/fujisanwatcher/jp/live/index.htmlです。「今日の富士山の寫眞」

  • 「美しい富士五湖、山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖の写真」

    富士五湖は北の外輪山の内側に東西に連なる美しい高原の湖です。東から西へと山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖と5つ並んでいます。いずれも懐かしい曽遊の地です。自分で撮った風景写真に従って皆様を富士五湖めぐりの旅へご案内します。写真は山中湖から順に河口湖、西湖、精進湖、本栖湖へと変わって行きます。1番目の写真は山中湖から見上げた富士山です。あいにくの曇りで五合目以上は厚い雲に覆われていました。2番目の写真は山中湖とその向こうにある筈の富士山です。蒸し暑い東京とは違い爽やかな高原の風が吹いていました。3番目の写真は山中湖から河口湖へ向かう道です。忍野八海に南に広がる大きな森の中の道です。清冽な雪解け水が豊かに湧き出ている忍野八海を思い出しながらこの森の中の道をゆっくり走りました。4番目の写真は河口湖の西岸から...「美しい富士五湖、山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖の写真」

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