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後藤和弘のブログ https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。 反対のご意見やコメントも歓迎しま

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2014/10/30

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  • 「今日の武蔵野を流れる小川の風景写真」

    午後から武蔵野公園へ散歩に行ったら小川が滔々と流れていたので写真を撮りました。私は何故か小川が流れている風景が大好きなのです。「今日の武蔵野を流れる小川の風景写真」

  • 「ロシアによるウクライナ侵略とフィンランド」

    以下は元駐フィンランド大使篠田研次の投稿の抜粋です。2022年2月24日、ロシアが隣国ウクライナに軍事侵攻した。それは、如何なる国際法規をもってしても正当化されない、何らの大義も正統性もない、あからさまな侵略行為であった。その日、1300km余りの陸上国境を挟んでロシアと接している隣国フィンランドの多くの人々は身震いし、そして、ウクライナの惨状を、80年余り前の1939年11月30日、突如ソ連軍がカレリア地峡の国境線を越えて侵攻してきた「冬戦争」の勃発というかつて自国に降りかかった惨禍と重ね合わせて見たのではないか。ロシアがまた、隣国に対し自らの意思を通すために武力に訴えるという挙に出ることもあるかもしれないと薄々予想しつつも決して見たくないと思っていた事態が現実のものとなってしまった。フィンランドの人々...「ロシアによるウクライナ侵略とフィンランド」

  • 「青春の冒険、遥かなノルウエイとフィンランドへの独り旅」

    今日は1974年に旅したノルウエイとフィンランドへの旅の思い出を書きたいと思います。私がエケトルプ教授の招待でスウェーデンに滞在している間にノルウエイとフィンランドへも行ったのです。独り旅でした。スエーデンは北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島にある国で、首都はストックホルムです。西にノルウェー、東がフィンランド、南はデンマークと国境を接しております。人口は1045万人で北欧諸国では最大の人口です。住民の大半は北方ゲルマン系のスウェーデン人ですが北部には少数のサーミ人とフィン人が暮らしています。ストックホルムに住んでいる間に私はノルウエイやフィンランドなどの北欧の国々を独りで訪問しました。夏の終わりでしたが人影が無く冬のような冷たい風が吹いていました。それは孤独な淋しい旅でした。しかし訪問先の人々は非常に...「青春の冒険、遥かなノルウエイとフィンランドへの独り旅」

  • 「青春の冒険、遥かなノルウエイとフィンランドへの独り旅」

    今日は1974年に旅したノルウエイとフィンランドへの旅の思い出を書きたいと思います。私がエケトルプ教授の招待でスウェーデンに滞在している間にノルウエイとフィンランドへも行ったのです。独り旅でした。スエーデンは北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島にある国で、首都はストックホルムです。西にノルウェー、東がフィンランド、南はデンマークと国境を接しております。人口は1045万人で北欧諸国では最大の人口です。住民の大半は北方ゲルマン系のスウェーデン人ですが北部には少数のサーミ人とフィン人が暮らしています。ストックホルムに住んでいる間に私はノルウエイやフィンランドなどの北欧の国々を独りで訪問しました。夏の終わりでしたが人影が無く冬のような冷たい風が吹いていました。それは孤独な淋しい旅でした。しかし訪問先の人々は非常に...「青春の冒険、遥かなノルウエイとフィンランドへの独り旅」

  • 「青春の冒険、アメリカへの留学」

    若い時はいろいろな冒険をしたくなります。それが青春と言うものなのでしょう。今日はそんな青春の冒険を書いてみようと思います。アメリカへの留学の冒険です。あの頃は若かった。怖いもの知らずだった。でも貧しく生活は苦しかった。そんな話です。フルブライト留学生として1960年から1962年までオハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。24歳の時太平洋を渡りました。茫々あれから64年です。遥かなオハイオは時々思い出します。私のアメリカはオハイオ州コロンバスの思い出です。アメリカ人はいつも私を励ましてくれ、好意溢れる支援を惜しみなく与えてくれました。そしてもう一つの忘れ得ぬ経験は、指導教官のセント・ピエール教授夫妻が我々の結婚式の仲人をしてくれたことです。私は妻を日本から呼び寄せ、オハイオ州のコロンバスで結婚式を挙げ...「青春の冒険、アメリカへの留学」

  • 「スイスのアルプスの風景」

    スイスのアルプスの風景です。写真はインターンットからお借りしました。「スイスのアルプスの風景」

  • 「日本の北アルプスの風景写真」

    日本の北アルプスの風景写真です。写真はインターンットからお借りしました。「日本の北アルプスの風景写真」

  • 「青春の冒険、北アルプスの縦走」

    苦しい思いをして高い山へ登る人は馬鹿に見えますか?そんなに苦しいのに何故登るのですか?私の場合、答えは簡単です。それが流行だったからです。一番はなやかな登山は北アルプス表銀座を縦走することでした。流行にのって縦走したので、その後、登山が趣味になりませんでした。苦しい、長い縦走は生涯一度だけでした。しかし88歳になった現在、自分の人生を振り返ってみると、「北アルプス表銀座縦走」の思い出が非常に重要だったと思います。仕事や人間関係で壁に突き当たった時に、それを乗り越える場合、必ず苦しかった北アの縦走を思い出して頑張ったのです。それは私の人生のエネルギー源になり続けたのです。ですから若者へ自信を持って言います。「騙されたと思って、一度だけ北アルプス表銀座を縦走せよ!」と。ここで北アルプス表銀座縦走の写真を示しま...「青春の冒険、北アルプスの縦走」

  • 「群馬県の妻が疎開した下仁田の妙義山の紅葉の写真」

    群馬県の下仁田は妻が疎開した町です。そこに近い妙義山の紅葉の写真をお送り致します。写真の出典は、https://imagenavi.jp/search/detail.asp?id=70185296です。 「群馬県の妻が疎開した下仁田の妙義山の紅葉の写真」

  • 「風景写真家 山梨勝弘が撮影した紅葉の風景」

    山梨勝弘はキャンピングカーで全国を行脚し自然風景を撮り続けています。出典は、https://discoverjapan-web.com/article/14098です。1番目の写真は主峰の剣ケ峰、朝日岳、摩利支天岳などからなる乗鞍岳です。2番目の写真は大正池に映る穂高連峰です。3番目の写真は秩父多摩甲斐国立公園きっての渓谷美を誇る西沢渓谷です。4番目の写真は幻想的なドライブウェイ磐梯吾妻レークラインです。「風景写真家山梨勝弘が撮影した紅葉の風景」

  • 「日本全国、紅葉の美のランキングと花貫渓谷の紅葉」

    秋も深まり紅葉が次第に美しくなってまいりました。近所の並木や里山の雑木林や山々の森も間もなく紅葉してきます。今日は日本全の紅葉で有名なところのランキングをご紹介したいと思います。そして茨城県の高萩市の花貫渓谷の紅葉の写真をお送り致します。さて日本の紅葉の名所を調べると何百とあります。みんながネットで検索する回数の多さでランキングを決めると以下の通りになるそうです。日本の紅葉のランキング(https://koyo.walkerplus.com/ranking/など)でランキングを紹介しています。全国約700ヶ所の紅葉情報も掲載しています。以下では北海道、関東地方、全国、の順で10位までのランキングを示します。北海道では、1、定山渓(定山渓温泉)、北海道/札幌市南区2、円山公園、北海道/札幌市中央区、73、定...「日本全国、紅葉の美のランキングと花貫渓谷の紅葉」

  • 「富士山の5合目の紅葉」

    丁度、16年前の10月13日は快晴だったので富士山の紅葉の写真を撮りに行きました。富士山の五合目までは、スバルラインという自動車道路をかなり根気よく登るのです。河口湖町から入りますが、はじめは赤松の大木の森林地帯を登っていきます。そして次第にダケカンバやモミ、ツガ、そしてハイマツへと樹林の種類が変わっていきます。五合目に到達すると広大な無料駐車場があります。富士山の頂上まで登る多くの人が車を停めて登山基地にしています。私はいつもそこから六合目へ続く登山道の途中まで登って引き返します。その道はあまり険しくなく散歩気分で楽しめるのです。丁度16年前も6合目までの道を散歩しながら紅葉の写真を撮ってきました。写真を見ながら、自然の美しさをお楽しみ下さい。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。...「富士山の5合目の紅葉」

  • 「洞爺湖、摩周湖、知床五湖、オンネトー、阿寒湖、支笏湖、屈斜路湖、などの紅葉」

    北海道の7つの湖の紅葉を写真でご紹介したいと思います。訪れた湖は洞爺湖、摩周湖、知床五湖、オンネトー、阿寒湖、支笏湖、屈斜路湖、サロマ湖、網走湖、大沼、風蓮湖、塘路湖などです。北国のこれらの湖は紅葉の頃が魅力的です。そこで以下に紅葉の頃の涼しげな北海道の7つの湖の風景写真をお送り致します。1番目の写真は摩周湖の紅葉です。写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=25488016070です。2番目の写真はオンネトーの紅葉です。写真の出典は、https://hokkaido-koyo.blog.ss-blog.jp/onnetoです。3番目の写真は阿寒湖の紅葉です。写真の出典は、https://www.tabido.jp/ja/arti...「洞爺湖、摩周湖、知床五湖、オンネトー、阿寒湖、支笏湖、屈斜路湖、などの紅葉」

  • 「ドイツの紅葉の思い出」

    ドイツの紅葉は緯度が高いので、急に真っ赤、真っ黄色になって、冷たい雨が降って、すぐに散ってしまいます。その紅葉の色は鮮烈です。もうすっかり遠い昔になってしまいましたが、1969年の9月に見たローテンブルグの町の紅葉は忘れられません。城壁の外の住宅に下宿していたので、毎日、車で城門をくぐり、ドイツ語学校へ通ったものです。そして日が暮れ行くころには、タウバウ川のほとりから、紅葉に彩られた町を囲む城壁が夕陽に輝くのを毎日見上げたものです。それはいつも独りで見上げていた晩秋の風景でした。異国の秋の夕暮れは何故かもの悲しいものでした。そんなドイツの紅葉を思い出したのでネットに写真が無いか探してみました。そうしたら、「もうすけさん」のブログ(http://mo-suke1122.blog.so-net.ne.jp/2...「ドイツの紅葉の思い出」

  • 「秋深く、その風景写真を見て山里を想う」

    最近はやっと涼しい秋がやって来ました。今朝は秋の風景写真を見て山里を想っています。車の運転が出来なくなり山の紅葉を見に行けなくなりました。しかしインターネットには美しい秋の風景写真がいっぱいあります。そこで今日は美しい紅葉の風景写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.beiz.jp/%E7%B4%A0%E6%9D%90/%E7%A7%8B/などです。お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。</div">それはそれとして、猛暑の今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)「秋深く、その風景写真を見て山里を想う」

  • 「ユーカリの巨木とプラタナスの巨木の写真」

    小金井公園の東端のユーカリの巨木が一本とプラタナスの巨木が二本立っています。少し遠方ですが今日はこれら巨木の写真を撮ってきました。はじめの2枚の写真がユーカリの巨木で、続く2枚の写真がプラタナスの巨木です。「ユーカリの巨木とプラタナスの巨木の写真」

  • 「ノルウェーの漁業」

    ノルウェーはなぜ漁業が盛んなのでしょうか?極寒の海に無数の島々、岩礁、湾、フィヨルドが織りなす長大な海岸線が続く北欧の国ノルウェー。海岸線に沿ってメキシコ湾流の暖水が北極圏の冷たい水域に流れ込むという自然環境に恵まれ、漁業や養殖業が盛んな国です。ノルウェーの漁業で獲れる魚は?ノルウェーの主要魚種はタラ(タイセイヨウダラ)、ニシン(春産卵ニシン、北海ニシン)、シロイトダラ、コダラ、サバ、ブルーホワイティング、カラフトシシャモなどである。ノルウェー漁業ではその半分以上はノルウェーの排他的経済水域(EEZ)の中で漁獲されており、2022年の域内の漁獲量は193.8万トンである。写真はノルウェーの漁船です。「ノルウェーの漁業」

  • 「魚屋の活きの良い魚の姿」

    昭和11年に仙台で生まれ24歳まで仙台に住んでました。仙台は漁港の塩釜に近いのでよく魚をたべました。イワシやニシンです。その頃は肉などありません。魚だけでした。そうした思い出から魚屋を訪れるのがだお好きです。趣味と言ってよいか分かりませんが、私の趣味は魚屋で活きの良い魚の姿を眺めることです。私は活きの良い魚の姿を見ると何故か幸せな気分になるのです。戦前、戦後にイワシやニシンを毎日のように食べたせいです。イワシやニシンは塩着けで活きが悪いものでした。氷が無くて塩着けしか出来なかったのです。ですからこそ活きの良いいろいろな魚の姿を眺めると感動してしまうのです。そんなわけで先日も角上魚類という大型魚店に行って写真を撮って来ました。写真をお送りします。1番目の写真はタイやサバです。2番目の写真はホウボウです。3番...「魚屋の活きの良い魚の姿」

  • 「秋の花々の写真の一覧を作ってみました」

    秋の花々の写真の一覧を作ってみました。彼岸も過ぎ気温も丁度良くなり、日一日と秋が深まってきました。近所の庭のモクセイの花の香が漂ってきます。毎日曇りや雨の日が続いています。しかし秋晴れの日が続き、爽快な風が吹いてきます。やがて紅葉の季節がやってきます。そして紅葉の葉が一枚一枚と散り、雑木林もすっかり明るくなり初冬がやってきます。高齢になると季節がめぐるのが早く感ずるのでしょうか。こんな秋の季節の流れ行く日々に咲く花々の写真の一覧を作ってみました。花の写真を見ていると、このような花々に囲まれた土地に生まれた幸運に感謝したくなります。四季折々に花々の咲く日本に生まれた幸せをしみじみと感じる季節です。秋の花と言えば七草の萩、すすき、葛花、撫子、おみなえし、藤袴、桔梗などなどが昔からあります。不思議なことに必ず秋...「秋の花々の写真の一覧を作ってみました」

  • 「今日は庭の木の枝を切った」

    今日は庭の木の枝を切りました。この写真はこのコンピューター越しに見える庭木です。夏の間に茂って隣りの家も前の家も見えなくなりました。午後から家内と一緒に庭の木の枝を切りました。身軽な家内が活躍しました。写真は木の枝を切った後の風景です。「今日は庭の木の枝を切った」

  • 「カトリック松原教会のミサ」

    今日はインターネットを通うしてカトリック松原教会のミサにあずかります。写真は先週のミサの風景です。ミサの動画配信は下記です。https://matsubara-cath.chu.jp/ja/online-mass/〒156-0043東京都世田谷区松原2丁目28番5号TEL.03-3321-0941FAX.03-3321-0009matsubara-church@gray.plala.or.jp「カトリック松原教会のミサ」

  • 「午後の散歩、武蔵野公園まで」

    午後の散歩は武蔵野公園まででした。広大な武蔵野が広がっています。「午後の散歩、武蔵野公園まで」

  • 「現在の生活に深い影響を与えている国分寺と律令国家」

    私は国分寺跡が何故か好きなのです。旅すれば各地の国分寺跡に行ってはボーと立ち尽くしています。現在住んでいる所の隣には東京都の国分寺市があります。1番目の写真は自分が撮った武蔵国分寺の本堂跡です。石柱に史跡武蔵国分寺跡と書いてあります。国分寺は741年(天平13年)に聖武天皇が仏教布教のためそれぞれの律令国家に建てたお寺です。国分僧寺と国分尼寺が分かれてあります。武蔵国分尼寺は国分寺の西隣にありました。その全国の国分寺はその後、各地の地方文化の発展をうながし日本の社会に深い影響を与えてきました。今日は国分寺と律令国家について振り返ってみたいと思います。律令国家の制定は大化の改新(645年)に始まり、その確定は大宝律令(701年)で完成したといいます。この律令国家は最近では、「令制国」と書くのが普通のようです...「現在の生活に深い影響を与えている国分寺と律令国家」

  • 「旧懐の情にかられて国分寺駅界隈を歩く」

    アメリカ留学から帰国して直後の1961年に国分寺駅の南口を出た住宅街のアパートに住んでいました。1年間ばかりでした。それから小金井に家を作り住んでいます。ある時、旧懐の情にかられて国分寺駅界隈を歩きました。昔住んでいたアパートは消えていました。新しアパートが並んでかつての面影がありませんでした。写真を撮って来ました。1番目の写真は国分寺駅の南口です。2番目の写真は国分寺駅のホームの風景です。ここから本郷の東大に毎日通勤しました。この写真だけはインターネットからお借りしました。3番目の写真は現在の国分寺駅の商店街です。当時は商店が一切無くて貧し気な通路があるだけでした。4番目の写真は国分寺市の郊外にある武蔵国分寺の脇にある水路です。ここだけは昔のままです。「旧懐の情にかられて国分寺駅界隈を歩く」

  • 「旧懐の情にかられて国分寺駅界隈を歩く」

    アメリカ留学から帰国して直後の1961年に国分寺駅の南口を出た住宅街のアパートに住んでいました。1年間ばかりでした。それから小金井に家を作り住んでいます。ある時、旧懐の情にかられて国分寺駅界隈を歩きました。昔住んでいたアパートは消えていました。新しアパートが並んでかつての面影がありませんでした。写真はインターネットからお借りしました。1番目の写真は国分寺駅の南口です。2番目の写真は国分寺駅のホームの風景です。ここから本郷の東大に毎日通勤しました。3番目の写真は現在の国分寺駅の商店街です。当時は商店が一切無くて貧し気な通路があるだけでした。4番目の写真は国分寺市の郊外にある武蔵国分寺の脇にある水路です。ここだけは昔のままです。「旧懐の情にかられて国分寺駅界隈を歩く」

  • 「武蔵国分寺と全国にある国分寺」

    いきなり自分の新婚の頃の話で恐縮ですが、その頃、武蔵国分寺のあった国分寺市に住んでいました。家の近所に国分寺跡と国分尼寺跡の公園がありました。新婚の妻を誘って何度も遊びに行った懐かしい公園です。その写真を示します。1番目の写真は武蔵国分寺の本堂の礎石だけが並んでいます。周囲は広々とした公園になっています。2番目の写真は武蔵国分尼寺の本堂跡の礎石です。武蔵国分尼寺跡です。国分寺跡の西側にあります。これらのお寺の跡地を見ながら昔を偲んで散歩したものです。この武蔵国分寺の本堂の礎石群の北側に新しい武蔵国分寺があります。3番目の写真は現在の国分寺です。この本堂は1725年に再建されたものです。4番目の写真は現在の国分寺本堂の左の小山の上にある薬師堂です。宝暦6年(1756年)頃に薬師堂は再建されています。昔の武蔵...「武蔵国分寺と全国にある国分寺」

  • 「今日は小雨そして曇天、午後の散歩は小金井公園まで」

    今日は朝から小雨で午後に止み、曇天になりました。午後に小金井公園まで散歩しました。「今日は小雨そして曇天、午後の散歩は小金井公園まで」

  • 嘗遊の地、フィンランドの紅葉の写真」

    フィンランドの紅葉の写真の出典は、https://www.visitfinland.com/.../finland-de-koyo-o.../です。https://www.visitfinland.com/ja/kiji-ichiran/finland-de-koyo-o-mankitsu-suru-hoho/嘗遊の地、フィンランドの紅葉の写真」

  • 「アメリカの紅葉の風景」

    アメリカの紅葉の風景写真をお送りいたします。写真の出典は、https://mikissh.com/diary/us-foliage/です。1番目の写真はロッキー山脈の中にあるコロラド州のスキーリゾートタウン、アスペン周辺です。紅葉の時期に人気のエリアです。2番目の写真はカリフォルニア州の、ネバダ州との境界に聳え立つ、シエラネバダ山脈周辺のヨセミテ国立公園の紅葉です。3番目の写真はニューヨーク州のキャッツキルズの紅葉です。ニューヨークシティから車で2時間程の紅葉スポットのキャッツキルズ(TheCatskills)です。4番目の写真はアメリカの紅葉で有名なバーモント州の人気リゾートタウン、ストウ(Stowe)です。「アメリカの紅葉の風景」

  • 「なぜ私は毎日ブログを書くのか?」

    ブログを書きだしたのは2007年11月からです。それ以来毎日続けて書いてきました。旅行に出た日以外は毎日書いてきました。何故こんなに続くのか自分でも驚いています。今日はなぜ私が毎日ブログを書くのか考えてみました。理由は書くのが楽しいからです。2007年から毎日書き続けていると書きことが無くなります。しかし以前に用いた同じテーマを少し書きなして掲載します。書きなおす部分は冒頭の部分です。日月が流れると私の生活もかわります。考え方も変わります。そんな変化を反映した文章を冒頭部分に書くのです。そして続きの部分は以前に用いた同じテーマを少し書きなして掲載します。以前に用いた同じテーマを書くと楽しかった体験がよみがえって来るのです。楽しかった思い出は何時までも楽しいです。ブログを読んだ家内が、「同じことを書かない方...「なぜ私は毎日ブログを書くのか?」

  • 「山林の中の小屋の紅葉、そして人生が変わった」

    人生にはいろいろなことがあります。でも終りに近づくと、嗚呼、邯鄲の夢だったと思う日々が多くなります。その人生の中で私は自慢出来るたった一つのことがあります。それは山梨県の甲斐駒岳の麓の山林の中に小屋を持っていることです。1974年に作ってから50年間も通っていることです。何故、自慢に思うのか理由は分かりません。春夏秋冬、その小屋の周囲の自然を眺め自然に魅了されてきたのです。しかも高齢になると自然の風景に一層深く感動するようになります。特に2016年には11月の紅葉の美しい時に行きました。周囲の雑木林が晩秋の色になっていました。撮ってきた写真を示します。1番目の写真は紅葉の雑木林の中を登りつめた所にある山林の中の小屋です。6畳間と4畳間の鉄筋コンクリートの小屋です。湿気の多い場所なので腐らないコンクリート製...「山林の中の小屋の紅葉、そして人生が変わった」

  • 「芸術の秋(5)山里の小さい清春白樺美術館の写真」

    山林の中の私の小屋の近所にある美術館をご紹介いたしたいと存じます。山梨県の北杜市にある清春白樺美術館です。清春白樺美術館の南には白い花崗岩が輝く甲斐駒岳が美しく見え、北には八ヶ岳連峰が見える高台にあります。その高台は少しだけ平地になっていて、一歩足を踏み入れると急にパリの芸術的な香りが漂ってくるのです。エッフェルが設計した画家たちの集合アトリエのラ・ルーシュがパリの雰囲気をかもしだしているのです。ラ・ルーシュはパリから移築した本物です。そしてエッフェル塔の階段の一部が庭に展示してあります。その奥にはジョルジュ・ルオーの油彩画や白樺派の作家達の作品を多数展示してある美術館があるのです。谷口吉生設計の小さいけれども美術館らしい雰囲気の漂う清楚な建物です。白樺林の中にはルオー礼拝堂もあります。ステンドグラスは彼...「芸術の秋(5)山里の小さい清春白樺美術館の写真」

  • 「芸術の秋(4)夭折の画家、 中村彝」

    中村彝(なかむらつね)は結核に苦しみながら感動的な油彩画を沢山描いて37歳で亡くなった夭折の画家でした。私は何年も前に水戸の近代美術館で彼の特別展を見た時の強い衝撃を忘れません。そして新宿の中村屋には何度も行って壁に掛かっている中村彝の絵画を見ています。油彩画はどれも暗い色で人間の苦悩と美しさを描いたものです。風景を描いても静物画を描いても何か中村彝の苦悩が滲んでいるのです。深い精神性を感じさせるのです。特に日本の重要文化財に指定されている「エロシェンコ氏の肖像画」はロシアの詩人エロシェンコの盲目の苦しみと強い情熱が描いてある彼の傑作です。そんな絵画を写真でお送りします。1番目の写真は大きさ45.5×42cmの「エロシェンコ氏の肖像画」です。1920年(大正9年)に描かれた油彩画で現在は東京国立近代美術館...「芸術の秋(4)夭折の画家、中村彝」

  • 「芸術の秋(3)茨城県近代美術館の展示絵画のご紹介」

    今日は茨城県近代美術館の展示絵画をご紹介したいと存じます。美しい梅林の偕楽園の下にあります。碧いさざ波の広がる千波湖の岸辺にある美術館です。茨城県近代美術館では茨城ゆかりの作家をはじめ、日本と西洋の近代美術作品を紹介しています。偕楽園の下に広がる千波湖畔にある美術館です。横山大観など茨城県ゆかりの作家を中心に、国内外約4,000点の近現代美術作品を収蔵、展示しています。ロダン作「三つの影」、横山大観作の「流燈」など多数の所蔵作品を鑑賞することができます。また、美術館南側に、水戸市出身の洋画家である中村彝(つね)のアトリエを新築復元し、彝の遺品や資料を公開展示しています。詳しくは、茨城県近代美術館 TheMuseumofModernArt,Ibaraki(ibk.ed.jp)をご覧下さい。展示絵画の写真を示...「芸術の秋(3)茨城県近代美術館の展示絵画のご紹介」

  • 「芸術の秋(2)笠間日動画廊美術館と板谷波山記念館」

    茨城県の水戸には県立美術館があり北茨城には県立天心記念五浦美術館があります。そして笠間市には笠間日動画廊美術館と県立陶芸美術館があります。笠間の西隣りの筑西市には板谷波山記念館があります。私はこれらの美術館を以前に家内と一緒に見てまわりました。水戸の県立美術館での中村彜の特別展は印象深いものでした。今日は笠間日動画廊美術館の展示の絵画と板谷波山記念館の板谷波山の陶芸作品をご紹介したいと思います。まずこれらの写真を示します。1番目の写真は「泉のそばの少女」オーギュスト・ルノワール(1841-1919)です。2番目の写真は「ヴェトゥイユ、水びたしの草原」クロード・モネ(1840-1926)です。3番目の写真は「パリ裏街」佐伯祐三(1898-1928)です。4番目の写真は板谷波山の彩磁藤文花瓶です。5番目の写真...「芸術の秋(2)笠間日動画廊美術館と板谷波山記念館」

  • 「今日の武蔵野の風景」

    東京都は武蔵野の風景を保存しています。都立武蔵野公園です。手つかずの昔の武蔵野です。午後から写真を撮って来ました。「今日の武蔵野の風景」

  • 「私の好きなユトリロのパリの風景画」

    私が先程から見ていたユトリロのパリの風景画の写真をお送りします。モーリス・ユトリロは1883年に生まれ1955年に亡くなりました。生涯アルコール依存症に苦しみ私生活は悲惨なものでした。1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に私生児として生まれモーリスと名付けられました。精神薄弱児だったそうです。母の薦めで絵を描くことに目覚めました。そんなユトリロが多くの人々を感動させる美しい油彩画を沢山描いたのす。私は昔からユトリロの絵が大好きでした。7枚の彼の絵をお送り致します。1番目の写真はサクレクール寺院の見える風景画です。出典は、http://nekoarena.blog31.fc2.com/blog-entry-2628.htmlです。晩年の作品です。ユトリロがモンマルトルに居た期間は短かったそうですが、...「私の好きなユトリロのパリの風景画」

  • 「妻の影響で絵画が楽しめるようになった」

    大学の工学部を卒業した私はコチコチの理系で芸術に関心がありませんでした。芸術に盲目でした。結婚したら妻が私の目を開いてくれました。初めて見た画が『笛を吹く少年』でした。エドゥアール・マネが1866年に描いた油絵です。この写真が『笛を吹く少年』です。写実的でわかりやすい絵です。力強く写実的な画だと感動しました。その後ドイツに住んだので数多くの美術館に行きました。圧倒的の多いのが宗教画の美術館でした。宗教画はあまり芸術的ではないのです。イエス様の復活を信じず、疑いながら脇腹の傷に触れるトマスと哀れみの眼差しを注ぐイエスの画に感動しました。デューラーの作品の美術館や数は少ないのですが印象派などの絵を展示した美術館もありました。宗教画や印象派などの原絵を数多くに見たおかげで西洋の絵画が楽しめるようになりました。「妻の影響で絵画が楽しめるようになった」

  • 「芸術の秋(1)山梨県立美術館をご紹介致します」

    秋の青空が広がる今日この頃です。芸術の秋という言葉を思い出します。何処か美術館をたずねたくなります。そう言えば以前は随分と美術館を見て回ったものです。日本各地の県立美術館も幾つも見ました。印象深かったのは山梨県立美術館と文学館でした。そこで今日は山梨県立美術館と文学館をご紹介したいと存じます。山国の甲府に堂々たる県立美術館と文学館が並んであるのです。内容が充実し、敷地や建物が広大で芸術的に設計、配置されています。野外にはロダンやザッキンや岡本太郎の大作も展示してあります。南アルプスを望むロケーションが素晴らしいのです。感動したので数回訪れました。1番目の写真は大きな彫刻が並んでいる美術館の前庭です。この美術館は特に絵画の蒐集方針が立派なのです。ジャンフランソワ・ミレーとバルビゾン派にこだわり、根気よく収集...「芸術の秋(1)山梨県立美術館をご紹介致します」

  • 「杜の都、仙台の風景」

    杜の都、仙台の風景です。写真の出典は、「杜の都、仙台の街並み編1」、https://yamatsutsuji.hatenablog.com/entry/2016/06/13/083000などその他です。「杜の都、仙台の風景」

  • 「我が故郷、仙台の戦前の風景を懐かしむ」

    誰でも自分が生まれた頃の故郷の風景が懐かしいと思います。幼いながら心に焼き付いている光景も沢山あるのが普通です。幸い最近はインターネットが発達して昔の日本各地の風景が数多く記録されています。ですから根気よく検索して行くと自分が幼少だった昔の風景が見つかるのです。私は昭和11年、1936年に仙台で生まれました。その仙台を例にして昔の故郷の風景を幾つか見つけましたのご紹介したいと存じます。仙台には昭和11年から昭和35年にアメリカへ留学するまで24年間住んでいました。私の追憶にある仙台の風景写真をいろいろ探して、皆様へご紹介したいと思います。上が戦前の仙台駅で、ここから父の実家のあった兵庫へ何回も里帰りしました。人力車に乗って駅まで行ったのです。下は戦後、新しく建てた仙台駅です。市電がその前を走っています。下...「我が故郷、仙台の戦前の風景を懐かしむ」

  • 「仙台の向山小学校と往年のプロ野球で活躍した若林忠志選手の思い出」

    仙台の向山小学校へ私は昭和18年に入学しました。その向山小学校は昭和9年仙台市立向山尋常小学校として開校しましたが,昭和16年4月1日には仙台市立向山国民学校と改称され,現在の名前になったのは昭和22年4月1日のことです。以来卒業生は約9,000名を越えています。その学校でやよく野球をして遊んでいました。当時は戦後の貧乏な時代でグローブは布でした。1番目の写真は仙台市立向山国民学校の当時の玄関です。2番目の写真は向山国民学校の当時の校庭です。この校庭では運動会をしたり野球をして遊んでいました。その校庭に、当時の阪神の若林忠志選手が現れたのです。若林選手は「七色の変化球」(ストレート、カーブ、シュート、スライダー、シンカー、ドロップ、ナックル)で有名でした。1936年に阪神に入団したハワイ生まれの日系二世で...「仙台の向山小学校と往年のプロ野球で活躍した若林忠志選手の思い出」

  • 「北海道の十勝平野に咲くルピナスの写真」

    北海道の十勝平野に咲くルピナスの写真をお送り致します。写真は、「十勝平野に咲くルピナス」を検索してインターネットにある写真をお借り致しました。「北海道の十勝平野に咲くルピナスの写真」

  • 「北海道の十勝平野に咲くルピナスの写真」

    北海道の十勝平野に咲くルピナスの写真をお送り致します。写真は、「十勝平野に咲くルピナス」を検索してインターネットにある写真をお借り致しました。「北海道の十勝平野に咲くルピナスの写真」

  • 「故郷の仙台の青葉城跡と『荒城の月』」

     私は仙台で生まれ育って24歳まで住んでいました。青葉城跡へは何十回も登り眺望を楽しみました。天気の良い時は太平洋まで見えるのです。そして『荒城の月』という歌を口ずさみました。春高楼の花の宴めぐる盃さかずきかげさして千代の松が枝わけいでしむかしの光いまいずこ秋陣営の霜の色鳴きゆく雁かりの数見せて植るつるぎに照りそいしむかしの光いまいずこいま荒城のよわの月替わらぬ光たがためぞ垣に残るはただかづら松に歌うはただあらし天上影は替わらねど栄枯えいこは移る世の姿写さんとてか今もなお嗚呼荒城のよわの月(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)懐かしい青葉城跡の風景の写真をお送り致します。「故郷の仙台の青葉城跡と『荒城の月』」

  • 「ドイツの荒廃したハイデルベルク城の写真」

    ドイツの荒廃したハイデルベルク城の写真です。写真は三十年戦争の爪痕が残っているハイデルベルク城です。写真の出典は、(http://gensun.org/?img=tabidachi%2Eana%2Eco%2Ejp%2Fstorage%2Fphoto%2F978%2F179901_2%2Ejpg)です。その戦争は宗教改革の後の1618年から30年続いた戦争です。当時のドイツ人の総人口1800万人が700万人に減少し、国土を荒廃させた大戦争だったのです。「ドイツの荒廃したハイデルベルク城の写真」

  • 「秀吉軍に落城された滝の城の写真」

    北条氏康の三男として生まれた北条氏照は埼玉県の所沢に滝の城や、八王子の滝山城や、八王子城など数多くの城を作り関東の南部を支配していました。しかし天正18年(1590年)に秀吉に負け切腹しました。豊臣秀吉の小田原征伐の際には徹底抗戦を主張し居城である八王子城には重臣を置いて守らせ、自身は小田原城に籠もっていました。しかし八王子城は上杉景勝、前田利家に攻略され、小田原開城後、秀吉から主戦派と見なされ、兄の氏政と共に切腹を命じられ果てました。今日は所沢市の南東部にある滝の城の写真を撮って来ましたのでお送りいたします。高台の上にある城跡から見下ろした風景や城跡にある石碑や神社の写真です。もう少し詳しく書きます。天正18年(1590年)豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして隠居北条氏政と当主氏直が指揮する北条氏と開戦し、...「秀吉軍に落城された滝の城の写真」

  • 「東京の人々が忘れてしまった世田谷城、八王子城,、渋谷城と片倉城」

    東京の人々は忘れてしまったようですが、昔の東京には世田谷城、八王子城,、渋谷城と片倉城などお城がいろいろあったのです。div>鎌倉時代の後は室町時代です。しかし室町幕府の力が弱く、その権力は遠い関東には届きませんでした。関東地方は鎌倉時代の直後からいきなり戦乱の続く戦国時代に突入したのです。その時代に関東地方では数多くの城や砦が作られたのです。現在の東京都にあった城や館は次の通りです。江戸城、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどです。東京都だけでこれだけあるのですから関東地方一円にはもっともっと数多くの城が存在していたの...「東京の人々が忘れてしまった世田谷城、八王子城,、渋谷城と片倉城」

  • 「ドイツの教会の写真」

    ドイツの教会はカトリックとエバンゲリッシュで多少違います。エバンゲリッシュとはプロテスタント教会のことです。イツの教会の写真を示します。壮大なケルンの教会等が有名ですが村の小さな教会も紹介します。1番目の写真はローテンブルクのカトリック教会です。私が1969年秋に4ケ月間通った教会です。2番目の写真はウルムの教会です。ドイツの都会にある典型的な教会です。3番目の写真はドイツの都会にある典型的な教会の内部にあるパイプオルガンです。4番目の写真はヴィースの巡礼教会です。南ドイツのどかな田舎の牧場の中にポツリと建つ教会です。5番目の写真はヴィースの巡礼教会の内部です。世界遺産に認定されています。6番目の写真は南ドイツの田舎でよく見かける村の教会です。7番目の写真も南ドイツのコロマン教会です。山並みを背にし草原に...「ドイツの教会の写真」

  • 「ヘルナンデス君とローテンブルグの教会の思い出」

    随分と昔のことです。1969年の晩夏から晩秋にかけて3ケ月間、ローテンブルグに逗留していました。ゲーテインスティテュートという学校でドイツ語の講習を毎日受けていたのです。その折、インド人のヘルナンデス君がカトリック教会へ連れて行ってくれました。カトリック聖ヤコブ教会でした。その外観と内部の写真を示します。この3枚の写真の出典は、https://plaza.rakuten.co.jp/laurier/diary/201001100001/、です。ミサはドイツ語ですが以前に行っていた日本のカトリック教会のミサと同じ内容なので大体の意味が分かったのです。そのミサのはじめに「あわれみの賛歌」を会衆が歌います。その意味を説明します。自分は神様の教えに従うつもりでしたが、意志が弱くて度々悪いことをしてしまいました。神...「ヘルナンデス君とローテンブルグの教会の思い出」

  • 「日曜日になると思い出す塚本金明神父さまとヨゼフ・ムニ神父さま」

    日曜日はインターネットを通してミサにあずかります。そして塚本金明神父さまとヨゼフ・ムニ神父さまを思い出します。府中市にあるカトリック墓地にある2人のお墓を思い出します。私ども夫婦は1971年に塚本神父様から洗礼を受けたのです。1954年から1976年までカトリック立川教会の初代主任司祭をされた方です。1番目の写真は1954年頃のカトリック立川教会幼稚園児に囲まれた塚本金明神父さまです。一方、ムニ神父さまは1975年から1993年までカトリック小金井教会の初代主任司祭をされた方で、私どもは1975年から1988年までの13年間大変お世話になった神父さまでした。お世話になった2人の神父さまのお墓の写真を示します。2番目の写真は塚本神父様のお墓です。府中市にあるカトリック東京大司教区の神父様たちのお墓です。数十...「日曜日になると思い出す塚本金明神父さまとヨゼフ・ムニ神父さま」

  • 「カトリック松原教会の今日のミサ」

    今日はインターンットを通うしてカトリック松原教会のミサにあずかります。写真は今日のミサの風景です。今日のミサの動画配信は下記です。https://matsubara-cath.chu.jp/ja/online-mass/〒156-0043東京都世田谷区松原2丁目28番5号TEL.03-3321-0941FAX.03-3321-0009matsubara-church@gray.plala.or.jp「カトリック松原教会の今日のミサ」

  • 「中秋の名月の写真」

    2024年の中秋の名月は、9月17日です。「中秋の名月」とは、太陰太陽歴の8月15日の夜に見える月のことです。中秋の名月をめでる習慣は、平安時代に中国から伝わったと言われています。写真はインターンットからお借りしました。「中秋の名月の写真」

  • 「紅葉は私の心を震わせる」

    毎年秋になり樹々が紅葉すると私の心が震えます。紅葉の風景に感動するのです。まだ近くの小金井公園の樹々は紅葉していません。しかし見事に紅葉した風景を思い出して感動するのです。それで思い出すのは昔、仙台に住んでいた頃に見た蔵王山の紅葉です。今日は蔵王山の紅葉をご紹介いたします。山形県の蔵王温泉から登った蔵王の中腹にドッコ沼という神秘的な沼があります。昔、沼の前の山小屋に何度も泊まり、その上の懺悔坂でスキーをしたのです。懺悔坂の頂上が地蔵岳です。懺悔坂は急坂で狭い雪道です。その上雪が無くて氷になっているのです。スキーで滑り降りるのは恐怖の連続です。こういう時は人間は自然と悪行を懺悔しながら滑り下ります。もう60年以上も前のことですが懺悔坂をスキーで下りた時の恐怖を忘れません。怖いから面白いのです。地蔵まで登って...「紅葉は私の心を震わせる」

  • 「世界一美しいと言われるカナダの紅葉風景」

    世界一美しいと言われるカナダの紅葉風景の写真をお送り致します。昔からカナダの紅葉風景は世界一美しいと聞いていました。しかし見に行けませんでいた。せめて写真をお送り致します。写真はインターネットからお借りしました。「世界一美しいと言われるカナダの紅葉風景」

  • 「写真で巡る東北地方の秘湯の紅葉」

    日本は火山列島です。全国各地に温泉が湧いています。そして山奥には秘湯の一軒宿もあります。温泉につかるのは日本人の楽しみでした。私も東北の人間だったので幼少の頃からいろいろな温泉に行きました。仙台を中心にして作並温泉、秋保温泉、鳴子温泉、青根温泉、峩々温泉、遠刈田温泉、飯坂温泉、山形県の高湯温泉、上山温泉などに何度も行きました。戦前、戦後の温泉宿は質素でした。ただし湯舟には各地独特の泉質の湯が溢れ流れてました。そんな昔の温泉の湯舟の光景が懐かしいです。そこでインターネットでいろいろ調べましたら昔の侘しい温泉宿や湯が溢れ流れる湯舟の写真を見つけました。それは「日本秘湯を守る会」のHP(https://www.hitou.or.jp/)です。秘湯の宿は昔の東北の温泉のように質素です。分かり易く言えば貧乏臭い旅館...「写真で巡る東北地方の秘湯の紅葉」

  • 「日本の美しい紅葉」

    世界中に紅葉が美しい所があります。しかし日本の紅葉は優しい風景です。カナダやヨーロッパの紅葉と色合いが微妙に違います。ここでは日本の紅葉の写真をお送り致します。写真の出典は、https://allabout.co.jp/gm/gc/447887/です。1番目の写真は上高地の大正池です。2番目の写真は旧白山スーパー林道の姥ヶ滝です。3番目の写真は広島県庄原市の帝釈峡です。4番目の写真は北海道えりも町の豊似湖です。「日本の美しい紅葉」

  • 「ビワコオオナマズの写真」

    ビワコオオナマズの写真をお送り致します。写真の出典は、https://monsterkiss.co.jp/tsuji_report_202209/です。「ビワコオオナマズの写真」

  • 「松江の宍道湖のウナギの蒲焼き」

    松江の宍道湖のウナギの蒲焼きも美味しいものです。詳しくは、https://jimohack.shimane.jp/matsue/222/をご覧ください。松江のうなぎは「宍道湖七珍」の一つにもなっている郷土料理です。「松江の宍道湖のウナギの蒲焼き」

  • 「鮎料理で有名だった坂東梁の閉店」

    利根川の中流にある坂東梁から以前は毎年手紙が来ていました。今年も7月1日から9月30日まで営業を致しますのでお越しくださいと書いてあります。1番目の写真は坂東梁です。関越道路の渋川インターを出て、前橋方向に戻り利根川を渡るとすぐにこの坂東簗があります。2番目の写真は鮎を焼いている様子です。店の玄関を入ると直ぐに左手に広い焼き場があり、菅笠をかぶった職人たちが汗を流して熱心に数多くの鮎を焼いています。鮎料理はこの塩焼きだけでなく、味噌焼き、鮎の甘露煮、鮎のフライ、鮎のうるか、鮎のお澄まし、鮎ごはんなどが出ます。3番目の写真は客席からの風景です。客席に座ると上の写真のように木を組んだ簗が見え、その向こうに利根川と榛名山が広がっています。4番目の写真は鮎を捕る梁です。鮎料理を注文すると、料理が来るまでしばらく時...「鮎料理で有名だった坂東梁の閉店」

  • 「松江の宍道湖のウナギの蒲焼き」

    松江の宍道湖のウナギの蒲焼きも美味しいものです。詳しくは、https://jimohack.shimane.jp/matsue/222/をご覧ください。松江のうなぎは「宍道湖七珍」の一つにもなっている郷土料理です。「松江の宍道湖のウナギの蒲焼き」

  • 「美味しいものはウナギの蒲焼」

    美味しいものはウナギの蒲焼です。ウナギの蒲焼の美味しさは結婚してから家内に教わりました。家内は魚は好きではありませんがウナギの蒲焼は大好きです。そのせいで利根川そいの坂東梁へウナギの蒲焼を食べに何度も行ったものです。坂東梁は廃業しましたが懐かしい場所です。「美味しいものはウナギの蒲焼」

  • 「霞ヶ浦に棲んでいる巨大なアメリカ鯰」

    加藤英明さんのブログから転載します。http://shizuokakameken.seesaa.net/article/486281948.html霞ヶ浦で巨大なナマズ類が捕獲されています。その正体は、アメリカ原産の外来種、アメリカナマズIctaluruspunctatusです。最大130cmを超える大型の肉食魚です。アメリカナマズは、1971年にカリフォルニアから持ち込まれ、その後、各地に放されて拡散しました。霞ヶ浦では、1981年頃に野外で捕獲されるようになり、その後増殖しました。加藤英明さんとナマズの写真をお送り致します。「霞ヶ浦に棲んでいる巨大なアメリカ鯰」

  • 「ドイツ人のニシンとウナギと鯉の食べ方」

    ドイツに住んでいた1969から1970年、魚をよく食べた。ニシンやマスは小麦粉をまぶしてムニエルにする。ところが魚売り場を良く見ると平べったい鯉も売っている。うろこがほとんどないドイツの鯉である。溶いた小麦粉をつけて煮え立つ油でカラリと揚げるて食べる。タラの切り身はムニエルやポアレ。ノルウエー産サケの切り身は高級な塩引きになる。ニシンは香草とともに酢づけにしてガラス瓶に密閉して売っている。1番目の写真は香草とともに酢づけにしてガラス瓶に入れたニシンです。ウナギは燻製にするか、生のままぶつ切にしてアールズッペというスープにする。ある時、ライン河の生きたウナギが市場でうごめいていた。購入し、苦労して三枚におろして蒸し上げ、醤油、砂糖、日本酒で作ったタレをかけ、オーブンで焼き上げた。香ばしい匂いが家中に漂う。大...「ドイツ人のニシンとウナギと鯉の食べ方」

  • 「人間の不思議な絆、ド・ロさまそうめんと揖保の糸」

    楽しい人間の絆のいろいろを書いていきたいと思います。まずそうめんの話です。私はソーメンが好きで一生懸命たべます。毎日でも飽きません。家内が何故そんなにお好きなのですかと不思議がります。ソーメンが好きなので揖保の糸そうめんは勿論、三輪ソーメン、小豆島ソーメン、氷見ソーメン、などなどいろいろ買ってきて食べています。ですから九州にはド・ロさまそうめんがあることを以前から知っていました。しかしそのそうめんが作られたのは明治時代の話なので、ド・ロさまそうめんは消えて無くなっていると思っていました。五島列島に旅をしましたらそのド・ロさまそうめんが現在でも製造している会社があるというのです。その会社のことは、http://www.sunflead.co.jp/doro.htmlにございます。下にド・ロさまそうめんの写真...「人間の不思議な絆、ド・ロさまそうめんと揖保の糸」

  • 「韓国のコスモスの花の写真をお送り致します」

    首都、ソウルから近い九里漢江市民公園のコスモスの花の写真をお送り致します。出典は、「満開のコスモス畑で韓国の秋を感じる/九里漢江市民公園」OnemoreKorea(onemore-korea.site)です。「韓国のコスモスの花の写真をお送り致します」

  • 「懐かしいある友人とオハイオの思い出」

    1960年に留学した時非常にお世話になったのが黒田さんでした。オハイオ州のコロンバスにある州立大学に私が留学した時です。大学の留学生受け入れ事務所に黒田さんは車で私を迎えに来てくれたのです。黒田さんはそのまま彼が住んでいた家に私を連れて行き2階の一室を私に与えてくれました。その家にはアメリカ人の学生3人と日本人の留学生3人が住むことになったのです。部屋は別々でしたが料理場と食堂は6人一緒です。黒田さんは男っ気の九州男児でした。6人の同居人の親分のような人でした。弱気なアメリカ人の学生を勇気づけていました。隣の家のアメリカ人一家と仲良くしていました。私は大らかな九州男児の黒田さんと同じ家に1年間住んでいたのです。日本から呼び寄せた婚約者とオハイオで結婚した時も披露宴などの写真を沢山撮ってくれました。オハイオ...「懐かしいある友人とオハイオの思い出」

  • 「不思議な人間の絆、忘れ得ぬ人々」続き

    「不思議な人間の絆、忘れ得ぬ人々」の続きとして私のアメリカで出来た人間の絆を書きたいと思います。さて私どもは1961年にオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。その時、親身になってお世話をしてくれた大学の先生たち、そしてアメリカの友たちでした。茫々60年です。その思い出は一朝邯鄲の夢の一場面だったのです。昔、お世話になったアメリカ人たちの写真を掲載します。1番目の写真はオハイオ州立大学の学生会館のオハイオ・ユニオンの礼拝室での結婚式に出席してくれた先生方と同級生の友人たちです。2番目の写真は司式してくれた牧師さんです。中央は代父役をしてくれたケン・ローリイです。その奥さんのゲイルで、この2人は我々の送り迎えをしてくれ、家にも招待してくれました。3番目の写真は結婚式に続いてダウンタウンにあるディッシュラー・...「不思議な人間の絆、忘れ得ぬ人々」続き

  • 「不思議な人間の絆、忘れ得ぬ人々」続き

    「不思議な人間の絆、忘れ得ぬ人々」の続きとして私のアメリカで出来た人間の絆を書きたいと思います。さて私どもは1961年にオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。その時、親身になってお世話をしてくれた大学の先生たち、そしてアメリカの友たちでした。茫々60年です。その思い出は一朝邯鄲の夢の一場面だったのです。昔、お世話になったアメリカ人たちの写真を掲載します。1番目の写真はオハイオ州立大学の学生会館のオハイオ・ユニオンの礼拝室での結婚式に出席してくれた先生方と同級生の友人たちです。2番目の写真は司式してくれた牧師さんです。中央は代父役をしてくれたケン・ローリイです。その奥さんのゲイルで、この2人は我々の送り迎えをしてくれ、家にも招待してくれました。3番目の写真は結婚式に続いてダウンタウンにあるディッシュラー・...「不思議な人間の絆、忘れ得ぬ人々」続き

  • 「不思議な人間の絆、忘れ得ぬ人々」

    後期高齢者になると人生のあれこれを思い出して楽しんでいます。この頃は私の人生で出来た不思議な人間の絆を思い出し考えています。そして忘れ得ぬ人々の顔や姿を懐かしく思い浮かべています。今日はそんな不思議な人間の絆と忘れ得ぬ人々のことを書いてみようと思います。人間は此の世に生きていると人々といろいろな絆が出来ます。その絆は考えてみると不思議です。あるものは神秘的で不可思議です。これらの絆の5つの例を考えてみたいと思います。(1)ヨットのご縁で出来た忘れ得ぬ人との絆ヨットの趣味を50歳頃から75歳まで25年間していました。約25年間にわたり、多くの方々にお世話になり、助けられ、なんとか海に落ちることも無くヨットの趣味を卒業することが出来たのです。ヨットを通して多くの友人が出来ました。皆忘れられない友人です。しかし...「不思議な人間の絆、忘れ得ぬ人々」

  • 「満州の建国と滅亡後の苦難」

    日本民族は江戸幕府末期からいくつもの外国との戦争をくりかえしました。開国を決めて以降の明治政府も「富国強兵」を国是とし、1945年の敗戦までの77年間は戦争の連続で、まさに戦争の時代でした。その詳細な一覧は、「日本の戦争歴史年表」、http://www.yuseiunionkyusyu.jp/sennsounorekisinennhyou2.pdfに示してあります。この資料を見ると特に昭和時代の満州の建国と滅亡は1945年の日本の敗戦に直接つながる原因になっています。そんな理由で「昭和時代の悲劇」という連載を始めるにあたって始めに「満州の建国と滅亡後の苦難」を取り上げたいと思います。昭和6年の柳条湖事件を発端にし満州事変が起きます。そして短期間に満州を占領した日本軍によって満州国が建国されたのです。しかし...「満州の建国と滅亡後の苦難」

  • 「中国の都会と農村の美しい風景写真」

    昔の中国を知っている人々が吃驚するような経済成長をしている中国です。1980年以後の鄧小平の時代からです。今日はその中国の都会と農村の美しい風景写真をお送りいたします。1番目の写真は夜の香港の美しい風景です。香港は英領の頃も高層ビルがありましたが中国領になってからさらに高層ビルが増えてのです。{https://publicdomainq.net/hong-kong-cityscape-night-0013280/)2番目の写真は上海です。(https://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/page/0000017093.html)3番目の写真は蘇州のそばの銭江新城です。(https://crea.bunshun.jp/articles/-/11485)4番目の写真は蘇...「中国の都会と農村の美しい風景写真」

  • 「紫禁城(故宮)、頤和園、万里の長城、北京原人の周口店など」

    私は1981年に北京と瀋陽に行きました。周栄章さんと金応培さんは約束通り私を紫禁城(故宮)、頤和園、明の13陵、万里の長城、天壇、北京原人の周口店、瀋陽の清朝の発祥の宮殿、そして文化大革命で荒らされたキリスト教の教会(天主堂)などなど何処でも案内してくれたのです。その上、西安の大雁塔や玄奘法師の墓のある慈恩寺まで案内してくれました。特に印象深かったのは紫禁城(故宮)と頤和園でした。1番目の写真は紫禁城、故宮です。2番目の写真は故宮の中にある主殿です。故宮は3度ほど訪問し内部の部屋の奥まで丁寧に見て回りました。3番目の写真は故宮の奥にさる玉座です。玉座や後宮は興味深く見学しました。この故宮は多くの日本人も観覧していますので説明は省略します。しかし一言だけ書けば、確かにベルサイユ宮殿より大規模で素晴らしいと感...「紫禁城(故宮)、頤和園、万里の長城、北京原人の周口店など」

  • 「ホテルの思い出(15)北京のホテル前門飯店と中国人」

    1981年に中国に初めて行きましいた。ホテルは大きな前門飯店でした。夜に周栄章さんが来て案内したい所があると言います。ついてい行くと北京鋼鉄学院の地下室でした。彼等の秘密の地下室でした。初対面の私を深く信用して秘密の地下室へ案内してくれたのです。そしてそこで見たことから、中国人は恩義を絶対に忘れない民族なのだと確信したのです。頭が下がりました。尊敬せざるを得ません。その経緯を以下に書きます。1969年以前の私はアメリカ在住の影響もあり、共産党の中国は嫌いでした。また、第二次大戦中の中国を「支那」と蔑視する文化の中で育ちましたので、中国に対しては内心深く軽蔑していました。しかし1969年にドイツのマックス・プランク研究所で会ったドイツ人に中国を軽蔑してはいけないと言われたのです。そのドイツ人はプルシュケル氏...「ホテルの思い出(15)北京のホテル前門飯店と中国人」

  • 「ホテルの思い出(14)北海道のグランドパーク小樽」

    2014年の12月3日に小樽で泊まったホテルはグランドパーク小樽という華やかな雰囲気のホテルでした。以前はヒルトン小樽というホテルで外装、内装ともに一流のホテルでした。そのホテルの1番目の写真はHPからお借りしました。その他の3枚の写真は2014年12月3日に撮ったものです。ホテルのメイン・ダイニングの眼前に広がる華やかなヨットハーバーの風景写真と北一ガラス店の内部の美しいガラス工芸品の写真などもお送り致します。「ホテルの思い出(14)北海道のグランドパーク小樽」

  • 「ホテルの思い出(13)北海道のトマム」

    以前の海道旅ででは大型リゾート・ホテルのトマムもも泊りました。その雄大な自然に囲まれた高層ホテル棟と重厚ながら洒落たショッピング・レストラン街には、正直言って非常に驚きました。巨大なトマムのホテルをご紹介いたします。トマムは満員でした。そして地元の若い人々が多数働いています。北海道を出なくても働き口がこんなにあるのです。地域経済にとっても大成功です。しかしトマムには挫折の悲劇があったのです。そして後をついだ会社の血と汗のにじむような営業努力で再生しているのです。トマムは平日でも776部屋もある高層ホテルが満員でした。北海道の大型リゾートは過疎化の激しい村がデベロッパーと組んだ第三セクターとして出発するケースが大部分のようです。しかし悲惨な倒産の運命を経験します。そして経営者交代で再生しています。トマムも地...「ホテルの思い出(13)北海道のトマム」

  • 「ホテルの思い出(12)北海道のキロロのホテル・ピアノ」

    今日は大規模で贅沢なリゾートホテルの北海道のキロロのホテル・ピアノをご紹介いたします。日本が高度成長していた頃に設計され建設された驚異的な施設です。2010年の6月に行き、感動しましたので、何度かキロロのホテル・ピアノに泊りました。キロロはアイヌ語で「心」を意味するそうです。小樽から毛無山峠を越して、深い山に入った北海道余市郡赤井川村にあります。ホテルの部屋も広く、インテリアも落ち着いています。食事も美味しかったです。ホテルから続くレストラン街も良い雰囲気でした。そんな風景を下に写真で示します。まず2010年の6月の新緑の頃に撮った2枚の写真を示し、その下に晩秋の風景写真を3枚示します。季節によって風景が変化している様子をお楽しみ下さい。アクセスや宿泊料など詳しくは、http://www.kiroro.c...「ホテルの思い出(12)北海道のキロロのホテル・ピアノ」

  • 「ホテルの思い出(11)ザ・ウインザーホテル洞爺の有為転変」

    今日は北海道のザ・ウインザーホテル洞爺をご紹介したいと思います。このホテルは洞爺湖を見下ろす山の上に建っています。周囲の風景が良く、その上内装が華麗で美しいホテルです。2014年12月10日に泊りました。ウインザーホテル洞爺は絨毯が厚く、その模様が落ち着いた美しい柄で感動的でした。その上ホテル内の壁紙や装飾が実に華やかです。ケバケバしくない品の良い華やかさです。そこでホテルの外観と内装の写真をお送りします。華麗な内装の美しさもお楽しみ下さい。外観の写真以外は家内が撮った写真です。最後の写真は私どもが食べた朝食です。窓の下に洞爺湖が広がっています。さてウインザーホテル洞爺の内装は華麗です。しかしそのかげには経営の破たんによる有為転変があったのです。そんな苦難の歴史があったような気配を感じさせない従業員の態度...「ホテルの思い出(11)ザ・ウインザーホテル洞爺の有為転変」

  • 「チベット仏教の風景の写真」

    何故かチベット仏教に心が惹かれます。神秘的です。チベット仏教は7世紀初めに伝来した仏教がチベット土着の民間信仰ボン教と融合したものです。別名ラマ教ともいいます。ラマとは仏僧の意味です。7世紀に中国から仏教が伝播します。そして8世紀半ば,インド系仏教が中心となってボン教と融合して成立のがチベット仏教です。そんなチベット仏教の風景の写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。「チベット仏教の風景の写真」

  • 「思い出の穂高連峰の写真」

    茫々何十年も前に登った穂高連峰の風景が忘れられません。懐かしいのでインターネットで写真を探しました。写真の出典は、https://stock.adobe.com/jp/search...です。「思い出の穂高連峰の写真」

  • 「多くの日本人が憧れる上高地、その物語」

    上高地は神々しい別世界です。険しい山々をバスで根気よく登り、最後の長いトンネルを抜けると、いきなり眼前に穂高の連峰が広がり、梓川と大正池が夢幻のような盆地を作っているのです。昔は神垣内と書いたり、神河内と呼んでいたそうですが、とにかく神々しい景観なのです。日本のどこにでもある谷川の風景とは全く違う神秘的で、そしてロマンチックな景観なのです。以前は梓川沿いのバス道も無く、神河内に入るには北アルプスの徳合峠を越えて、この別世界へ降り立ったのです。苦しい山越えの後で見たこの夢幻的な景観に人々は桃源郷を連想したのです。極楽浄土を連想したのです。明治の始めころ、イギリス人のウエストン卿も徳合峠を越えて、神河内に降り立ったのです。そのときの感動を記した彼の著作を読むと私の胸も躍ります。ウェストンは感動のあまり何度も徳...「多くの日本人が憧れる上高地、その物語」

  • 「ホテルの思い出(10)山岳リゾートホテルの上高地帝国ホテル」

    上高地帝国ホテルは、日本初の本格的山岳リゾートホテルとして昭和8(1933)年開業。現在の建物は、昭和52(1977)年に建て替えられたものだが、スイス・アルプスの山小屋を思わせる赤い三角屋根と、丸太小屋風の外観は創業当時の趣そのままに、今なお変わらないおもてなしの心でお客様をお迎えしている。館内ロビーは上高地の自然と調和した木の温もりを大切にした空間。中央に設けられたホテルのシンボルともいえるマントルピースが、ここで過ごす優雅なひとときを演出している。夏場以外、日中の気温が15℃以下となる寒い時期、夕方5時からベルマンによる火入れ式が行われる。ゆっくりとディナーを堪能した後は、マントルピースを囲んでコーヒーやカクテルと共に静かな山の夜を満喫できる。宿泊以外にも、昼はカフェやランチで利用できる。ロビーラウ...「ホテルの思い出(10)山岳リゾートホテルの上高地帝国ホテル」

  • 「白馬東急ホテルに泊まって栂池高原の花畑で遊ぶ」

    以前に白馬東急ホテルに泊まった時に近くの栂池高原の花畑で遊んだ思い出があります。栂池高原は小谷村に広がる高原で綺麗な花畑が広がっています。高原上部には高層湿原の栂池自然園があります。冬にはスキー場になります。花畑の写真をお送り致します。出典は、https://www.jalan.net/kankou/spt_20486ca3470058188/です。「白馬東急ホテルに泊まって栂池高原の花畑で遊ぶ」

  • 「白馬東急ホテルに近い大雪渓の写真」

    白馬東急ホテルに近いところに白馬の大雪渓があります。その写真をお送り致します。写真の出典は、https://stock.adobe.com/jp/search...です。「白馬東急ホテルに近い大雪渓の写真」

  • 「秋はコスモスの花!霧島連山のコスモス畑の写真」

    秋と言えばコスモスの花です!霧島連山のコスモス畑の写真をお送りいたします。写真の出典は、https://www.lotascard.jp/column/travel/kyushu/16174/です。「秋はコスモスの花!霧島連山のコスモス畑の写真」

  • 「聖イグナチオ教会の今日のミサの風景」

    今日はインターンットを通うして聖イグナチオ教会のミサにあずかりました。聖イグナチオ教会の今日のミサの動画配信は下記です。https://www.youtube.com/live/zqzRfZBaEH8写真は聖イグナチオ教会の今日のミサの風景です。「聖イグナチオ教会の今日のミサの風景」

  • 「ホテルの思い出(9)白馬東急ホテルと周囲の美しい風景」

    今日は白馬東急ホテルと周囲の美しい風景をご紹介いたしたいと思います。あれは我が家の子供達がまだ小さかった頃のことでした。信濃大町の奥、木崎湖や青木湖のさらに奥の白馬東急ホテルに数回泊ったことがありました。そのホテルはスイスの山岳ホテルのような三角屋根の木造でした。部屋は屋根裏部屋で、小さな縦型の窓がついていました。バルコニーの椅子に座って眺めると、芝生に覆われた広い庭の向こうは森になっています。ヨーロッパの古いホテルのような雰囲気でした。そのホテルから暗い森の中を歩き、崖の道を下るとゴンドラの駅があり八方池まで登れたのです。そ八方池まで登る道からは、八方尾根の向うに広がる白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳、小蓮華岳などがパノラマのように見えたものです。それは私どもにとっては印象深い旅でした。写真でこのホテルの様子...「ホテルの思い出(9)白馬東急ホテルと周囲の美しい風景」

  • 「ノルウェーの美しい風景」

    ノルウェーの美しい風景写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。https://jp.123rf.com/photo_64786734_%E7%BE%8E%E3%81%97%E3...「ノルウェーの美しい風景」

  • 「北極圏にあるヘルシンキに行く」

    1972年にストックホルム工科大学のエケトルプ教授に招待されて4ケ月滞在して講義をしました。その折に北極圏の北欧への旅もしました。北極圏にあるヘルシンキの工科大学のハイキンハイモ先生を訪問しました。寂しい北国への独り旅でした。冷えた私を温かく迎えてくれたのがハイキンハイモ先生でした。先生は私を自宅での夕食にも招待してくれました。フィランドが辺境の地にあり外国と隔絶した国です。思えば遠くに来たものです。ハイキンハイモ先生は自宅に招待してくれただけでなく大学のサウナへも案内してくれたのです。フィンランドは北欧のスカンジナビア半島の北端の北極圏にある国です。国土の約80%が森林や湖沼、河川に覆われています。「湖沼の国」という意味が転じてフィンランドという国名になったといわれています。人口は554万人ほどの小さな...「北極圏にあるヘルシンキに行く」

  • 「スウェーデンとドイツの野原に咲く花」

    スウェーデンとドイツの野原に咲く花々をご紹介します。その後で草原の花々にまつわる思い出を書いてみたいと思います。まず写真をお送りします。写真は「スウェーデンの野原に咲く花々の写真」と「ドイツの野原に咲く花々の写真」を検索してインターネットにある写真からお借りしました。はじめの3枚はスウェーデンの野原で後の2枚はドイツの野原の写真です。さて野原の花々にまつわる思い出を書いてみたいと思います。私は長い生涯で花々が一面に咲いている光景を3度だけ見たことがあります。1度目は北アルプスの大天井岳の斜面でした。そうして2度目は夏の白夜のスウェーデンの野原でした。3度目はドイツの野原でした。1度目は23歳の夏でした。北アルプス表銀座に登り縦走したのです。その時、大天井岳の下の広い斜面に一面に咲いていた花畑があったのです...「スウェーデンとドイツの野原に咲く花」

  • 「ホテルの思い出(8)箱根、宮ノ下の富士屋ホテル」

    ご紹介したいホテルは箱根の宮ノ下の富士屋ホテルです。明治11年創業です。の箱根、宮ノ下の富士屋ホテルのこと。訪問した2008年5月16日は曇天で写真映りが悪かったです。でも、明治期の木造洋風建築のシェルエットが浮かび上がります。誰も実物を見たことの無い、「竜宮城」を連想させます。これを作った明治の人々も設計・建築の過程を楽しんだ夢多い人々でした。中へ入れば薄暗い。蛍光灯を使わないで昔風の暗い照明。以前に泊まった時と何も変わっていない。ロビーのフロントの机が高くて首近くまである。西洋人の身長にあわせた家具調度です。天井は格天井で、とくにメインダイニングの格天井には一枚一枚、花の絵が描いてあるのです。泊まった時の、夕食のコースは昔の通りに丁寧に料理した西洋料理でした。。定石通り、スープ、パン、フィッシュ、サラ...「ホテルの思い出(8)箱根、宮ノ下の富士屋ホテル」

  • 「ホテルの思い出(7)美しい伊根の舟屋の旅館」

    今日は心に残る美しい海の風景の写真をお送りいたします。伊根の舟屋の風景です。伊根の舟屋は1991年頃、神戸に居たとき何度も訪ねた美しいところです。「伊根の舟屋」の美しい風景をご紹介したいと思います。なお日本三景の天の橋立はこの伊根のすぐそばです。伊根の舟屋は京都府の日本海側の与謝郡、伊根町の海沿い立ち並ぶ家です。1階にある舟の収納場所の上の2階に人が住んでいます。これは独特な伝統的建造物です。舟屋は江戸時代中期頃から作られました。現在、240軒ほどあります。この地区は「伊根町伊根浦伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区になっています。この舟屋の多くは民宿をしています。民宿では舟屋の2階がお客の寝室になっているのです。私が泊った時には夕食に生け簀に泳いでいた地魚の塩焼きが出ました。ゆっ...「ホテルの思い出(7)美しい伊根の舟屋の旅館」

  • 「ホテルの思い出(6)スイスの恐怖の民宿」

    ドイツでの生活は1969年の夏から始まりました。シュツットガルト市にあるマックス・プランク金属研究所で1年3ケ月の研究生活をしました。シュツットガルトはスイスとフランス南東に近い所です。ですから週末にはスイスのアイガー山麓やレマン湖によく行きました。インターラーケン、ボーデンゼー、シャッハハウゼンなどスイスへ何度も訪ねました。フランス南東部のストラスブルグ市にも旅しました。すべてオペル・レコルトという車で家族旅行をしました。住んでいたシュツットガルト市からここまで車で4時間弱かかりました。1番目の写真はアイガーの麓の町のグリンデルヴァルトです。ここに泊りました。ケーブルカーで更に高台に登りアイガーやアルプスの山稜の眺望を楽しみました。グリンデルヴァルトへは下のインターラーケンから登山電車で行ったこともあり...「ホテルの思い出(6)スイスの恐怖の民宿」

  • 「ホテルの思い出(5)志賀高原の熊の湯ホテル」

    長野県の志賀高原に初めて行ったのは1962年の冬にスキーに行った時でした。スキーコースが上級向けや中級用や初心者用と沢山あって規模雄大なことに驚きました。そしてその後、家内と一緒に何度か行きました。春、夏、秋と何時行っても自然豊かな山々と澄んだ水を湛える天然の池が美しい所なのです。志賀高原で熊の湯温泉の熊の湯ホテルに泊ったことがありました。熊の湯温泉は、昔小熊が傷をいやしているところを発見した為、熊の湯温泉と名づけられました。ホテルの裏には日本最大のスキー場があり、ホテルを出て1分というスキーヤーには好条件の場所です。熊の湯ホテルは大正年間創業と歴史ある温泉で、湯小屋などは昔の湯治場を思わせる雰囲気です。元々熊の湯温泉と呼ばれるところは熊の湯ホテルのみでした。写真を示します。1番目の写真は現在の熊の湯ホテ...「ホテルの思い出(5)志賀高原の熊の湯ホテル」

  • 「ホテルの思い出(4)箱根、山のホテル」

    山のホテルは戦前に岩崎小彌太男爵の建てた別邸の跡地に建っています。岩崎男爵はなだらかな起伏のある庭園にツツジを植えました。その庭園のツツジは現在でも皐月になると満開になります。「山のホテル」は1948年に開業しました。あれは留学から帰ってきたばかりの1962年の翌年だったでしょうか。箱根で泊まったホテルが山のホテルでした。まだ木造で昔のヨーロッパ風の小さなホテルでした。その後、小田急の経営になり建物も立派になります。私共の泊まった頃も庭園には色とりどりのツツジが咲いていました。まだ妻も若々しい新婚時代に泊まったホテルが懐かしく山のホテルに行き、ツツジを楽しんだものです。その他の季節でも箱根に行く度に寄ってはランチを食べたりコーヒーを飲みます。山のホテルとその庭園から見える芦ノ湖の写真に続いて庭園に咲いてい...「ホテルの思い出(4)箱根、山のホテル」

  • 「美しい洞爺湖の風景」

    美しい洞爺湖の風景写真です。ここに示した写真は、「洞爺湖の風景写真」を検索してインターネットからお借りいたしました。 「美しい洞爺湖の風景」

  • 「ホテルの思い出(3)洞爺湖観光ホテルと驚異的な昭和新山」

    洞爺観光ホテルは北海道の洞爺湖温泉街の中心にあり洞爺湖畔に面しています。洞爺湖と中島を一望できる絶景の湖畔のホテルです。2014年に泊りました。特に感動したのはホテルの窓の直前で上がる花火です。その洞爺観光ホテルと花火大会の写真を示します。1番目の写真は洞爺観光ホテルです。目の前が洞爺湖です。2番目の写真は洞湖上で打ち上げられた花火です。3番目の写真は花火を打ち上げる遊覧船です。このホテルの近くに昭和新山と有珠山があります。有珠山は洞爺湖の南にある標高737mの活火山です。山頂は有珠郡壮瞥町にあり、山体は虻田郡洞爺湖町、伊達市にまたがっています。一方、昭和新山は第二次世界大戦中に出来た山です。戦争中の昭和18年12月28日から激しい地震が続発し、昭和19年6月23日に突然噴火を始めて1年余で麦畑に標高39...「ホテルの思い出(3)洞爺湖観光ホテルと驚異的な昭和新山」

  • 「ホテルの思い出(2)諏訪レイクサイドホテルを絶賛する」

    10年前までは時々、車で一泊旅行へ行きました。格調の高いクラシックホテルよりも安くて良い施設の旅館やホテルをいろいろ調べて行きました。選び方が良いと感動的な所に泊ることができます。以前、家内と泊った諏訪レイクサイドホテルは、2食つき一泊8000円でした。その写真に示します。写真で示したように部屋からの眺めが良かったのです。建物は新しくはありませんが清潔です。食事は土地の豚肉、サーモン、ワカサギ、野菜などを工夫して調理しています。その上、サービスが感動的でした。もう少し具体的に書きます。従業員の数が多くて皆が家庭的な態度で親切にしてくれます。そのサービスの態度に努力臭さが無くて、のびのびしています。あまり努力されるとこちらまでが窮屈になるのです。このホテルの従業員は皆心がなごやかです。夕食の世話をしてくれた...「ホテルの思い出(2)諏訪レイクサイドホテルを絶賛する」

  • 「ホテルの思い出(1)軽井沢の万平ホテルなど」

    明治維新で西洋の文化が日本に入って来ました。西洋のホテルも入って来ました。それは西洋文化の発信基地でした。多くの外国人が日本に来るようになり、ホテルが必要になったのです。以前の日本には旅館や宿屋といった宿泊施設は存在しておりました。現存する世界最古の宿は西暦705年(飛鳥時代)に創業した、山梨県の慶雲館という旅館でギネスにも認定されているそうです。私は昔から西洋文化に憧れていました。ですから旅行に行くとホテルに泊ります。いろいろなホテルの思い出があります。そこで今日から連載で「ホテルの思い出」をお送りいたします。第一回の今日は軽井沢の万平ホテルと、ゆとりろ軽井沢ホテルをご紹介致します。ついでに三笠ホテルも紹介します。軽井沢には明治27年創業の万平ホテルがあります。そして明治39年創業の三笠ホテルも現在は廃...「ホテルの思い出(1)軽井沢の万平ホテルなど」

  • 「八ヶ岳と清里の八ヶ岳ロイヤルホテルの思い出」

    老境の幸せは時間が自由なことです。数年前の3月に思い立って、甲斐駒の麓にある山小屋に遊び、その足を伸ばして八ヶ岳の麓を巡る旅に出ました。夜は以前にも泊まった八ヶ岳ロイヤルホテルに投宿しました。一泊する小さな旅です。甲斐駒岳と八ヶ岳の写真を撮りながら清里まで行きました。清里では清泉寮に遊びました。撮った風景写真をお送り致します。。1番目の写真は甲斐駒岳の写真です。中央高速道路の須玉インターを出て日野春の駅を越えると武川町が見下ろせる公園があります。その公園から撮った写真です。釜無川が眼下に流れ、その向こうに甲斐駒岳が聳えている場所です。2番目の写真は甲斐大泉の展望台から見た八ヶ岳です。ここから清里へ行きました。甲斐大泉は標高1200m位の素晴らしい高原でホテルやペンションや洒落た別荘が散在しています。3番目...「八ヶ岳と清里の八ヶ岳ロイヤルホテルの思い出」

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