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「ユーカリの巨木とプラタナスの巨木の写真」
小金井公園の東端のユーカリの巨木が一本とプラタナスの巨木が二本立っています。少し遠方ですが今日はこれら巨木の写真を撮ってきました。はじめの2枚の写真がユーカリの巨木で、続く2枚の写真がプラタナスの巨木です。「ユーカリの巨木とプラタナスの巨木の写真」
2024/09/30 15:46
「ノルウェーの漁業」
ノルウェーはなぜ漁業が盛んなのでしょうか?極寒の海に無数の島々、岩礁、湾、フィヨルドが織りなす長大な海岸線が続く北欧の国ノルウェー。海岸線に沿ってメキシコ湾流の暖水が北極圏の冷たい水域に流れ込むという自然環境に恵まれ、漁業や養殖業が盛んな国です。ノルウェーの漁業で獲れる魚は?ノルウェーの主要魚種はタラ(タイセイヨウダラ)、ニシン(春産卵ニシン、北海ニシン)、シロイトダラ、コダラ、サバ、ブルーホワイティング、カラフトシシャモなどである。ノルウェー漁業ではその半分以上はノルウェーの排他的経済水域(EEZ)の中で漁獲されており、2022年の域内の漁獲量は193.8万トンである。写真はノルウェーの漁船です。「ノルウェーの漁業」
2024/09/30 10:24
「魚屋の活きの良い魚の姿」
昭和11年に仙台で生まれ24歳まで仙台に住んでました。仙台は漁港の塩釜に近いのでよく魚をたべました。イワシやニシンです。その頃は肉などありません。魚だけでした。そうした思い出から魚屋を訪れるのがだお好きです。趣味と言ってよいか分かりませんが、私の趣味は魚屋で活きの良い魚の姿を眺めることです。私は活きの良い魚の姿を見ると何故か幸せな気分になるのです。戦前、戦後にイワシやニシンを毎日のように食べたせいです。イワシやニシンは塩着けで活きが悪いものでした。氷が無くて塩着けしか出来なかったのです。ですからこそ活きの良いいろいろな魚の姿を眺めると感動してしまうのです。そんなわけで先日も角上魚類という大型魚店に行って写真を撮って来ました。写真をお送りします。1番目の写真はタイやサバです。2番目の写真はホウボウです。3番...「魚屋の活きの良い魚の姿」
2024/09/30 09:34
「秋の花々の写真の一覧を作ってみました」
秋の花々の写真の一覧を作ってみました。彼岸も過ぎ気温も丁度良くなり、日一日と秋が深まってきました。近所の庭のモクセイの花の香が漂ってきます。毎日曇りや雨の日が続いています。しかし秋晴れの日が続き、爽快な風が吹いてきます。やがて紅葉の季節がやってきます。そして紅葉の葉が一枚一枚と散り、雑木林もすっかり明るくなり初冬がやってきます。高齢になると季節がめぐるのが早く感ずるのでしょうか。こんな秋の季節の流れ行く日々に咲く花々の写真の一覧を作ってみました。花の写真を見ていると、このような花々に囲まれた土地に生まれた幸運に感謝したくなります。四季折々に花々の咲く日本に生まれた幸せをしみじみと感じる季節です。秋の花と言えば七草の萩、すすき、葛花、撫子、おみなえし、藤袴、桔梗などなどが昔からあります。不思議なことに必ず秋...「秋の花々の写真の一覧を作ってみました」
2024/09/29 16:30
「今日は庭の木の枝を切った」
今日は庭の木の枝を切りました。この写真はこのコンピューター越しに見える庭木です。夏の間に茂って隣りの家も前の家も見えなくなりました。午後から家内と一緒に庭の木の枝を切りました。身軽な家内が活躍しました。写真は木の枝を切った後の風景です。「今日は庭の木の枝を切った」
2024/09/29 16:22
「午後の散歩、武蔵野公園まで」
午後の散歩は武蔵野公園まででした。広大な武蔵野が広がっています。「午後の散歩、武蔵野公園まで」
2024/09/28 19:10
「現在の生活に深い影響を与えている国分寺と律令国家」
私は国分寺跡が何故か好きなのです。旅すれば各地の国分寺跡に行ってはボーと立ち尽くしています。現在住んでいる所の隣には東京都の国分寺市があります。1番目の写真は自分が撮った武蔵国分寺の本堂跡です。石柱に史跡武蔵国分寺跡と書いてあります。国分寺は741年(天平13年)に聖武天皇が仏教布教のためそれぞれの律令国家に建てたお寺です。国分僧寺と国分尼寺が分かれてあります。武蔵国分尼寺は国分寺の西隣にありました。その全国の国分寺はその後、各地の地方文化の発展をうながし日本の社会に深い影響を与えてきました。今日は国分寺と律令国家について振り返ってみたいと思います。律令国家の制定は大化の改新(645年)に始まり、その確定は大宝律令(701年)で完成したといいます。この律令国家は最近では、「令制国」と書くのが普通のようです...「現在の生活に深い影響を与えている国分寺と律令国家」
2024/09/28 09:53
「旧懐の情にかられて国分寺駅界隈を歩く」
アメリカ留学から帰国して直後の1961年に国分寺駅の南口を出た住宅街のアパートに住んでいました。1年間ばかりでした。それから小金井に家を作り住んでいます。ある時、旧懐の情にかられて国分寺駅界隈を歩きました。昔住んでいたアパートは消えていました。新しアパートが並んでかつての面影がありませんでした。写真を撮って来ました。1番目の写真は国分寺駅の南口です。2番目の写真は国分寺駅のホームの風景です。ここから本郷の東大に毎日通勤しました。この写真だけはインターネットからお借りしました。3番目の写真は現在の国分寺駅の商店街です。当時は商店が一切無くて貧し気な通路があるだけでした。4番目の写真は国分寺市の郊外にある武蔵国分寺の脇にある水路です。ここだけは昔のままです。「旧懐の情にかられて国分寺駅界隈を歩く」
2024/09/28 09:23
アメリカ留学から帰国して直後の1961年に国分寺駅の南口を出た住宅街のアパートに住んでいました。1年間ばかりでした。それから小金井に家を作り住んでいます。ある時、旧懐の情にかられて国分寺駅界隈を歩きました。昔住んでいたアパートは消えていました。新しアパートが並んでかつての面影がありませんでした。写真はインターネットからお借りしました。1番目の写真は国分寺駅の南口です。2番目の写真は国分寺駅のホームの風景です。ここから本郷の東大に毎日通勤しました。3番目の写真は現在の国分寺駅の商店街です。当時は商店が一切無くて貧し気な通路があるだけでした。4番目の写真は国分寺市の郊外にある武蔵国分寺の脇にある水路です。ここだけは昔のままです。「旧懐の情にかられて国分寺駅界隈を歩く」
2024/09/28 09:09
「武蔵国分寺と全国にある国分寺」
いきなり自分の新婚の頃の話で恐縮ですが、その頃、武蔵国分寺のあった国分寺市に住んでいました。家の近所に国分寺跡と国分尼寺跡の公園がありました。新婚の妻を誘って何度も遊びに行った懐かしい公園です。その写真を示します。1番目の写真は武蔵国分寺の本堂の礎石だけが並んでいます。周囲は広々とした公園になっています。2番目の写真は武蔵国分尼寺の本堂跡の礎石です。武蔵国分尼寺跡です。国分寺跡の西側にあります。これらのお寺の跡地を見ながら昔を偲んで散歩したものです。この武蔵国分寺の本堂の礎石群の北側に新しい武蔵国分寺があります。3番目の写真は現在の国分寺です。この本堂は1725年に再建されたものです。4番目の写真は現在の国分寺本堂の左の小山の上にある薬師堂です。宝暦6年(1756年)頃に薬師堂は再建されています。昔の武蔵...「武蔵国分寺と全国にある国分寺」
2024/09/28 08:34
「今日は小雨そして曇天、午後の散歩は小金井公園まで」
今日は朝から小雨で午後に止み、曇天になりました。午後に小金井公園まで散歩しました。「今日は小雨そして曇天、午後の散歩は小金井公園まで」
2024/09/27 15:59
嘗遊の地、フィンランドの紅葉の写真」
フィンランドの紅葉の写真の出典は、https://www.visitfinland.com/.../finland-de-koyo-o.../です。https://www.visitfinland.com/ja/kiji-ichiran/finland-de-koyo-o-mankitsu-suru-hoho/嘗遊の地、フィンランドの紅葉の写真」
2024/09/27 11:29
「アメリカの紅葉の風景」
アメリカの紅葉の風景写真をお送りいたします。写真の出典は、https://mikissh.com/diary/us-foliage/です。1番目の写真はロッキー山脈の中にあるコロラド州のスキーリゾートタウン、アスペン周辺です。紅葉の時期に人気のエリアです。2番目の写真はカリフォルニア州の、ネバダ州との境界に聳え立つ、シエラネバダ山脈周辺のヨセミテ国立公園の紅葉です。3番目の写真はニューヨーク州のキャッツキルズの紅葉です。ニューヨークシティから車で2時間程の紅葉スポットのキャッツキルズ(TheCatskills)です。4番目の写真はアメリカの紅葉で有名なバーモント州の人気リゾートタウン、ストウ(Stowe)です。「アメリカの紅葉の風景」
2024/09/27 10:48
「なぜ私は毎日ブログを書くのか?」
ブログを書きだしたのは2007年11月からです。それ以来毎日続けて書いてきました。旅行に出た日以外は毎日書いてきました。何故こんなに続くのか自分でも驚いています。今日はなぜ私が毎日ブログを書くのか考えてみました。理由は書くのが楽しいからです。2007年から毎日書き続けていると書きことが無くなります。しかし以前に用いた同じテーマを少し書きなして掲載します。書きなおす部分は冒頭の部分です。日月が流れると私の生活もかわります。考え方も変わります。そんな変化を反映した文章を冒頭部分に書くのです。そして続きの部分は以前に用いた同じテーマを少し書きなして掲載します。以前に用いた同じテーマを書くと楽しかった体験がよみがえって来るのです。楽しかった思い出は何時までも楽しいです。ブログを読んだ家内が、「同じことを書かない方...「なぜ私は毎日ブログを書くのか?」
2024/09/27 10:09
「山林の中の小屋の紅葉、そして人生が変わった」
人生にはいろいろなことがあります。でも終りに近づくと、嗚呼、邯鄲の夢だったと思う日々が多くなります。その人生の中で私は自慢出来るたった一つのことがあります。それは山梨県の甲斐駒岳の麓の山林の中に小屋を持っていることです。1974年に作ってから50年間も通っていることです。何故、自慢に思うのか理由は分かりません。春夏秋冬、その小屋の周囲の自然を眺め自然に魅了されてきたのです。しかも高齢になると自然の風景に一層深く感動するようになります。特に2016年には11月の紅葉の美しい時に行きました。周囲の雑木林が晩秋の色になっていました。撮ってきた写真を示します。1番目の写真は紅葉の雑木林の中を登りつめた所にある山林の中の小屋です。6畳間と4畳間の鉄筋コンクリートの小屋です。湿気の多い場所なので腐らないコンクリート製...「山林の中の小屋の紅葉、そして人生が変わった」
2024/09/26 16:08
「芸術の秋(5)山里の小さい清春白樺美術館の写真」
山林の中の私の小屋の近所にある美術館をご紹介いたしたいと存じます。山梨県の北杜市にある清春白樺美術館です。清春白樺美術館の南には白い花崗岩が輝く甲斐駒岳が美しく見え、北には八ヶ岳連峰が見える高台にあります。その高台は少しだけ平地になっていて、一歩足を踏み入れると急にパリの芸術的な香りが漂ってくるのです。エッフェルが設計した画家たちの集合アトリエのラ・ルーシュがパリの雰囲気をかもしだしているのです。ラ・ルーシュはパリから移築した本物です。そしてエッフェル塔の階段の一部が庭に展示してあります。その奥にはジョルジュ・ルオーの油彩画や白樺派の作家達の作品を多数展示してある美術館があるのです。谷口吉生設計の小さいけれども美術館らしい雰囲気の漂う清楚な建物です。白樺林の中にはルオー礼拝堂もあります。ステンドグラスは彼...「芸術の秋(5)山里の小さい清春白樺美術館の写真」
2024/09/26 12:15
「芸術の秋(4)夭折の画家、 中村彝」
中村彝(なかむらつね)は結核に苦しみながら感動的な油彩画を沢山描いて37歳で亡くなった夭折の画家でした。私は何年も前に水戸の近代美術館で彼の特別展を見た時の強い衝撃を忘れません。そして新宿の中村屋には何度も行って壁に掛かっている中村彝の絵画を見ています。油彩画はどれも暗い色で人間の苦悩と美しさを描いたものです。風景を描いても静物画を描いても何か中村彝の苦悩が滲んでいるのです。深い精神性を感じさせるのです。特に日本の重要文化財に指定されている「エロシェンコ氏の肖像画」はロシアの詩人エロシェンコの盲目の苦しみと強い情熱が描いてある彼の傑作です。そんな絵画を写真でお送りします。1番目の写真は大きさ45.5×42cmの「エロシェンコ氏の肖像画」です。1920年(大正9年)に描かれた油彩画で現在は東京国立近代美術館...「芸術の秋(4)夭折の画家、中村彝」
2024/09/26 10:35
「芸術の秋(3)茨城県近代美術館の展示絵画のご紹介」
今日は茨城県近代美術館の展示絵画をご紹介したいと存じます。美しい梅林の偕楽園の下にあります。碧いさざ波の広がる千波湖の岸辺にある美術館です。茨城県近代美術館では茨城ゆかりの作家をはじめ、日本と西洋の近代美術作品を紹介しています。偕楽園の下に広がる千波湖畔にある美術館です。横山大観など茨城県ゆかりの作家を中心に、国内外約4,000点の近現代美術作品を収蔵、展示しています。ロダン作「三つの影」、横山大観作の「流燈」など多数の所蔵作品を鑑賞することができます。また、美術館南側に、水戸市出身の洋画家である中村彝(つね)のアトリエを新築復元し、彝の遺品や資料を公開展示しています。詳しくは、茨城県近代美術館 TheMuseumofModernArt,Ibaraki(ibk.ed.jp)をご覧下さい。展示絵画の写真を示...「芸術の秋(3)茨城県近代美術館の展示絵画のご紹介」
2024/09/26 10:04
「芸術の秋(2)笠間日動画廊美術館と板谷波山記念館」
茨城県の水戸には県立美術館があり北茨城には県立天心記念五浦美術館があります。そして笠間市には笠間日動画廊美術館と県立陶芸美術館があります。笠間の西隣りの筑西市には板谷波山記念館があります。私はこれらの美術館を以前に家内と一緒に見てまわりました。水戸の県立美術館での中村彜の特別展は印象深いものでした。今日は笠間日動画廊美術館の展示の絵画と板谷波山記念館の板谷波山の陶芸作品をご紹介したいと思います。まずこれらの写真を示します。1番目の写真は「泉のそばの少女」オーギュスト・ルノワール(1841-1919)です。2番目の写真は「ヴェトゥイユ、水びたしの草原」クロード・モネ(1840-1926)です。3番目の写真は「パリ裏街」佐伯祐三(1898-1928)です。4番目の写真は板谷波山の彩磁藤文花瓶です。5番目の写真...「芸術の秋(2)笠間日動画廊美術館と板谷波山記念館」
2024/09/26 09:33
「今日の武蔵野の風景」
東京都は武蔵野の風景を保存しています。都立武蔵野公園です。手つかずの昔の武蔵野です。午後から写真を撮って来ました。「今日の武蔵野の風景」
2024/09/25 15:41
「私の好きなユトリロのパリの風景画」
私が先程から見ていたユトリロのパリの風景画の写真をお送りします。モーリス・ユトリロは1883年に生まれ1955年に亡くなりました。生涯アルコール依存症に苦しみ私生活は悲惨なものでした。1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に私生児として生まれモーリスと名付けられました。精神薄弱児だったそうです。母の薦めで絵を描くことに目覚めました。そんなユトリロが多くの人々を感動させる美しい油彩画を沢山描いたのす。私は昔からユトリロの絵が大好きでした。7枚の彼の絵をお送り致します。1番目の写真はサクレクール寺院の見える風景画です。出典は、http://nekoarena.blog31.fc2.com/blog-entry-2628.htmlです。晩年の作品です。ユトリロがモンマルトルに居た期間は短かったそうですが、...「私の好きなユトリロのパリの風景画」
2024/09/25 11:33
「妻の影響で絵画が楽しめるようになった」
大学の工学部を卒業した私はコチコチの理系で芸術に関心がありませんでした。芸術に盲目でした。結婚したら妻が私の目を開いてくれました。初めて見た画が『笛を吹く少年』でした。エドゥアール・マネが1866年に描いた油絵です。この写真が『笛を吹く少年』です。写実的でわかりやすい絵です。力強く写実的な画だと感動しました。その後ドイツに住んだので数多くの美術館に行きました。圧倒的の多いのが宗教画の美術館でした。宗教画はあまり芸術的ではないのです。イエス様の復活を信じず、疑いながら脇腹の傷に触れるトマスと哀れみの眼差しを注ぐイエスの画に感動しました。デューラーの作品の美術館や数は少ないのですが印象派などの絵を展示した美術館もありました。宗教画や印象派などの原絵を数多くに見たおかげで西洋の絵画が楽しめるようになりました。「妻の影響で絵画が楽しめるようになった」
2024/09/25 09:55
「杜の都、仙台の風景」
杜の都、仙台の風景です。写真の出典は、「杜の都、仙台の街並み編1」、https://yamatsutsuji.hatenablog.com/entry/2016/06/13/083000などその他です。「杜の都、仙台の風景」
2024/09/24 19:22
「仙台の向山小学校と往年のプロ野球で活躍した若林忠志選手の思い出」
仙台の向山小学校へ私は昭和18年に入学しました。その向山小学校は昭和9年仙台市立向山尋常小学校として開校しましたが,昭和16年4月1日には仙台市立向山国民学校と改称され,現在の名前になったのは昭和22年4月1日のことです。以来卒業生は約9,000名を越えています。その学校でやよく野球をして遊んでいました。当時は戦後の貧乏な時代でグローブは布でした。1番目の写真は仙台市立向山国民学校の当時の玄関です。2番目の写真は向山国民学校の当時の校庭です。この校庭では運動会をしたり野球をして遊んでいました。その校庭に、当時の阪神の若林忠志選手が現れたのです。若林選手は「七色の変化球」(ストレート、カーブ、シュート、スライダー、シンカー、ドロップ、ナックル)で有名でした。1936年に阪神に入団したハワイ生まれの日系二世で...「仙台の向山小学校と往年のプロ野球で活躍した若林忠志選手の思い出」
2024/09/24 09:10
「北海道の十勝平野に咲くルピナスの写真」
北海道の十勝平野に咲くルピナスの写真をお送り致します。写真は、「十勝平野に咲くルピナス」を検索してインターネットにある写真をお借り致しました。「北海道の十勝平野に咲くルピナスの写真」
2024/09/23 15:16
2024/09/23 15:11
「故郷の仙台の青葉城跡と『荒城の月』」
私は仙台で生まれ育って24歳まで住んでいました。青葉城跡へは何十回も登り眺望を楽しみました。天気の良い時は太平洋まで見えるのです。そして『荒城の月』という歌を口ずさみました。春高楼の花の宴めぐる盃さかずきかげさして千代の松が枝わけいでしむかしの光いまいずこ秋陣営の霜の色鳴きゆく雁かりの数見せて植るつるぎに照りそいしむかしの光いまいずこいま荒城のよわの月替わらぬ光たがためぞ垣に残るはただかづら松に歌うはただあらし天上影は替わらねど栄枯えいこは移る世の姿写さんとてか今もなお嗚呼荒城のよわの月(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)懐かしい青葉城跡の風景の写真をお送り致します。「故郷の仙台の青葉城跡と『荒城の月』」
2024/09/23 11:25
「ドイツの荒廃したハイデルベルク城の写真」
ドイツの荒廃したハイデルベルク城の写真です。写真は三十年戦争の爪痕が残っているハイデルベルク城です。写真の出典は、(http://gensun.org/?img=tabidachi%2Eana%2Eco%2Ejp%2Fstorage%2Fphoto%2F978%2F179901_2%2Ejpg)です。その戦争は宗教改革の後の1618年から30年続いた戦争です。当時のドイツ人の総人口1800万人が700万人に減少し、国土を荒廃させた大戦争だったのです。「ドイツの荒廃したハイデルベルク城の写真」
2024/09/23 10:50
「秀吉軍に落城された滝の城の写真」
北条氏康の三男として生まれた北条氏照は埼玉県の所沢に滝の城や、八王子の滝山城や、八王子城など数多くの城を作り関東の南部を支配していました。しかし天正18年(1590年)に秀吉に負け切腹しました。豊臣秀吉の小田原征伐の際には徹底抗戦を主張し居城である八王子城には重臣を置いて守らせ、自身は小田原城に籠もっていました。しかし八王子城は上杉景勝、前田利家に攻略され、小田原開城後、秀吉から主戦派と見なされ、兄の氏政と共に切腹を命じられ果てました。今日は所沢市の南東部にある滝の城の写真を撮って来ましたのでお送りいたします。高台の上にある城跡から見下ろした風景や城跡にある石碑や神社の写真です。もう少し詳しく書きます。天正18年(1590年)豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして隠居北条氏政と当主氏直が指揮する北条氏と開戦し、...「秀吉軍に落城された滝の城の写真」
2024/09/23 10:21
「東京の人々が忘れてしまった世田谷城、八王子城,、渋谷城と片倉城」
東京の人々は忘れてしまったようですが、昔の東京には世田谷城、八王子城,、渋谷城と片倉城などお城がいろいろあったのです。div>鎌倉時代の後は室町時代です。しかし室町幕府の力が弱く、その権力は遠い関東には届きませんでした。関東地方は鎌倉時代の直後からいきなり戦乱の続く戦国時代に突入したのです。その時代に関東地方では数多くの城や砦が作られたのです。現在の東京都にあった城や館は次の通りです。江戸城、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどです。東京都だけでこれだけあるのですから関東地方一円にはもっともっと数多くの城が存在していたの...「東京の人々が忘れてしまった世田谷城、八王子城,、渋谷城と片倉城」
2024/09/23 09:20
「ヘルナンデス君とローテンブルグの教会の思い出」
随分と昔のことです。1969年の晩夏から晩秋にかけて3ケ月間、ローテンブルグに逗留していました。ゲーテインスティテュートという学校でドイツ語の講習を毎日受けていたのです。その折、インド人のヘルナンデス君がカトリック教会へ連れて行ってくれました。カトリック聖ヤコブ教会でした。その外観と内部の写真を示します。この3枚の写真の出典は、https://plaza.rakuten.co.jp/laurier/diary/201001100001/、です。ミサはドイツ語ですが以前に行っていた日本のカトリック教会のミサと同じ内容なので大体の意味が分かったのです。そのミサのはじめに「あわれみの賛歌」を会衆が歌います。その意味を説明します。自分は神様の教えに従うつもりでしたが、意志が弱くて度々悪いことをしてしまいました。神...「ヘルナンデス君とローテンブルグの教会の思い出」
2024/09/22 12:07
「カトリック松原教会の今日のミサ」
今日はインターンットを通うしてカトリック松原教会のミサにあずかります。写真は今日のミサの風景です。今日のミサの動画配信は下記です。https://matsubara-cath.chu.jp/ja/online-mass/〒156-0043東京都世田谷区松原2丁目28番5号TEL.03-3321-0941FAX.03-3321-0009matsubara-church@gray.plala.or.jp「カトリック松原教会の今日のミサ」
2024/09/22 11:36
「中秋の名月の写真」
2024年の中秋の名月は、9月17日です。「中秋の名月」とは、太陰太陽歴の8月15日の夜に見える月のことです。中秋の名月をめでる習慣は、平安時代に中国から伝わったと言われています。写真はインターンットからお借りしました。「中秋の名月の写真」
2024/09/21 12:49
「紅葉は私の心を震わせる」
毎年秋になり樹々が紅葉すると私の心が震えます。紅葉の風景に感動するのです。まだ近くの小金井公園の樹々は紅葉していません。しかし見事に紅葉した風景を思い出して感動するのです。それで思い出すのは昔、仙台に住んでいた頃に見た蔵王山の紅葉です。今日は蔵王山の紅葉をご紹介いたします。山形県の蔵王温泉から登った蔵王の中腹にドッコ沼という神秘的な沼があります。昔、沼の前の山小屋に何度も泊まり、その上の懺悔坂でスキーをしたのです。懺悔坂の頂上が地蔵岳です。懺悔坂は急坂で狭い雪道です。その上雪が無くて氷になっているのです。スキーで滑り降りるのは恐怖の連続です。こういう時は人間は自然と悪行を懺悔しながら滑り下ります。もう60年以上も前のことですが懺悔坂をスキーで下りた時の恐怖を忘れません。怖いから面白いのです。地蔵まで登って...「紅葉は私の心を震わせる」
2024/09/21 09:10
「世界一美しいと言われるカナダの紅葉風景」
世界一美しいと言われるカナダの紅葉風景の写真をお送り致します。昔からカナダの紅葉風景は世界一美しいと聞いていました。しかし見に行けませんでいた。せめて写真をお送り致します。写真はインターネットからお借りしました。「世界一美しいと言われるカナダの紅葉風景」
2024/09/21 08:51
「日本の美しい紅葉」
世界中に紅葉が美しい所があります。しかし日本の紅葉は優しい風景です。カナダやヨーロッパの紅葉と色合いが微妙に違います。ここでは日本の紅葉の写真をお送り致します。写真の出典は、https://allabout.co.jp/gm/gc/447887/です。1番目の写真は上高地の大正池です。2番目の写真は旧白山スーパー林道の姥ヶ滝です。3番目の写真は広島県庄原市の帝釈峡です。4番目の写真は北海道えりも町の豊似湖です。「日本の美しい紅葉」
2024/09/21 08:42
「ビワコオオナマズの写真」
ビワコオオナマズの写真をお送り致します。写真の出典は、https://monsterkiss.co.jp/tsuji_report_202209/です。「ビワコオオナマズの写真」
2024/09/20 16:53
「松江の宍道湖のウナギの蒲焼き」
松江の宍道湖のウナギの蒲焼きも美味しいものです。詳しくは、https://jimohack.shimane.jp/matsue/222/をご覧ください。松江のうなぎは「宍道湖七珍」の一つにもなっている郷土料理です。「松江の宍道湖のウナギの蒲焼き」
2024/09/20 14:12
「鮎料理で有名だった坂東梁の閉店」
利根川の中流にある坂東梁から以前は毎年手紙が来ていました。今年も7月1日から9月30日まで営業を致しますのでお越しくださいと書いてあります。1番目の写真は坂東梁です。関越道路の渋川インターを出て、前橋方向に戻り利根川を渡るとすぐにこの坂東簗があります。2番目の写真は鮎を焼いている様子です。店の玄関を入ると直ぐに左手に広い焼き場があり、菅笠をかぶった職人たちが汗を流して熱心に数多くの鮎を焼いています。鮎料理はこの塩焼きだけでなく、味噌焼き、鮎の甘露煮、鮎のフライ、鮎のうるか、鮎のお澄まし、鮎ごはんなどが出ます。3番目の写真は客席からの風景です。客席に座ると上の写真のように木を組んだ簗が見え、その向こうに利根川と榛名山が広がっています。4番目の写真は鮎を捕る梁です。鮎料理を注文すると、料理が来るまでしばらく時...「鮎料理で有名だった坂東梁の閉店」
2024/09/20 11:28
2024/09/20 11:09
「美味しいものはウナギの蒲焼」
美味しいものはウナギの蒲焼です。ウナギの蒲焼の美味しさは結婚してから家内に教わりました。家内は魚は好きではありませんがウナギの蒲焼は大好きです。そのせいで利根川そいの坂東梁へウナギの蒲焼を食べに何度も行ったものです。坂東梁は廃業しましたが懐かしい場所です。「美味しいものはウナギの蒲焼」
2024/09/20 11:05
「霞ヶ浦に棲んでいる巨大なアメリカ鯰」
加藤英明さんのブログから転載します。http://shizuokakameken.seesaa.net/article/486281948.html霞ヶ浦で巨大なナマズ類が捕獲されています。その正体は、アメリカ原産の外来種、アメリカナマズIctaluruspunctatusです。最大130cmを超える大型の肉食魚です。アメリカナマズは、1971年にカリフォルニアから持ち込まれ、その後、各地に放されて拡散しました。霞ヶ浦では、1981年頃に野外で捕獲されるようになり、その後増殖しました。加藤英明さんとナマズの写真をお送り致します。「霞ヶ浦に棲んでいる巨大なアメリカ鯰」
2024/09/20 10:22
「ドイツ人のニシンとウナギと鯉の食べ方」
ドイツに住んでいた1969から1970年、魚をよく食べた。ニシンやマスは小麦粉をまぶしてムニエルにする。ところが魚売り場を良く見ると平べったい鯉も売っている。うろこがほとんどないドイツの鯉である。溶いた小麦粉をつけて煮え立つ油でカラリと揚げるて食べる。タラの切り身はムニエルやポアレ。ノルウエー産サケの切り身は高級な塩引きになる。ニシンは香草とともに酢づけにしてガラス瓶に密閉して売っている。1番目の写真は香草とともに酢づけにしてガラス瓶に入れたニシンです。ウナギは燻製にするか、生のままぶつ切にしてアールズッペというスープにする。ある時、ライン河の生きたウナギが市場でうごめいていた。購入し、苦労して三枚におろして蒸し上げ、醤油、砂糖、日本酒で作ったタレをかけ、オーブンで焼き上げた。香ばしい匂いが家中に漂う。大...「ドイツ人のニシンとウナギと鯉の食べ方」
2024/09/20 09:36
「人間の不思議な絆、ド・ロさまそうめんと揖保の糸」
楽しい人間の絆のいろいろを書いていきたいと思います。まずそうめんの話です。私はソーメンが好きで一生懸命たべます。毎日でも飽きません。家内が何故そんなにお好きなのですかと不思議がります。ソーメンが好きなので揖保の糸そうめんは勿論、三輪ソーメン、小豆島ソーメン、氷見ソーメン、などなどいろいろ買ってきて食べています。ですから九州にはド・ロさまそうめんがあることを以前から知っていました。しかしそのそうめんが作られたのは明治時代の話なので、ド・ロさまそうめんは消えて無くなっていると思っていました。五島列島に旅をしましたらそのド・ロさまそうめんが現在でも製造している会社があるというのです。その会社のことは、http://www.sunflead.co.jp/doro.htmlにございます。下にド・ロさまそうめんの写真...「人間の不思議な絆、ド・ロさまそうめんと揖保の糸」
2024/09/19 15:43
「韓国のコスモスの花の写真をお送り致します」
首都、ソウルから近い九里漢江市民公園のコスモスの花の写真をお送り致します。出典は、「満開のコスモス畑で韓国の秋を感じる/九里漢江市民公園」OnemoreKorea(onemore-korea.site)です。「韓国のコスモスの花の写真をお送り致します」
2024/09/19 12:53
「懐かしいある友人とオハイオの思い出」
1960年に留学した時非常にお世話になったのが黒田さんでした。オハイオ州のコロンバスにある州立大学に私が留学した時です。大学の留学生受け入れ事務所に黒田さんは車で私を迎えに来てくれたのです。黒田さんはそのまま彼が住んでいた家に私を連れて行き2階の一室を私に与えてくれました。その家にはアメリカ人の学生3人と日本人の留学生3人が住むことになったのです。部屋は別々でしたが料理場と食堂は6人一緒です。黒田さんは男っ気の九州男児でした。6人の同居人の親分のような人でした。弱気なアメリカ人の学生を勇気づけていました。隣の家のアメリカ人一家と仲良くしていました。私は大らかな九州男児の黒田さんと同じ家に1年間住んでいたのです。日本から呼び寄せた婚約者とオハイオで結婚した時も披露宴などの写真を沢山撮ってくれました。オハイオ...「懐かしいある友人とオハイオの思い出」
2024/09/19 09:39
「不思議な人間の絆、忘れ得ぬ人々」続き
「不思議な人間の絆、忘れ得ぬ人々」の続きとして私のアメリカで出来た人間の絆を書きたいと思います。さて私どもは1961年にオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。その時、親身になってお世話をしてくれた大学の先生たち、そしてアメリカの友たちでした。茫々60年です。その思い出は一朝邯鄲の夢の一場面だったのです。昔、お世話になったアメリカ人たちの写真を掲載します。1番目の写真はオハイオ州立大学の学生会館のオハイオ・ユニオンの礼拝室での結婚式に出席してくれた先生方と同級生の友人たちです。2番目の写真は司式してくれた牧師さんです。中央は代父役をしてくれたケン・ローリイです。その奥さんのゲイルで、この2人は我々の送り迎えをしてくれ、家にも招待してくれました。3番目の写真は結婚式に続いてダウンタウンにあるディッシュラー・...「不思議な人間の絆、忘れ得ぬ人々」続き
2024/09/19 09:21
2024/09/19 09:12
「満州の建国と滅亡後の苦難」
日本民族は江戸幕府末期からいくつもの外国との戦争をくりかえしました。開国を決めて以降の明治政府も「富国強兵」を国是とし、1945年の敗戦までの77年間は戦争の連続で、まさに戦争の時代でした。その詳細な一覧は、「日本の戦争歴史年表」、http://www.yuseiunionkyusyu.jp/sennsounorekisinennhyou2.pdfに示してあります。この資料を見ると特に昭和時代の満州の建国と滅亡は1945年の日本の敗戦に直接つながる原因になっています。そんな理由で「昭和時代の悲劇」という連載を始めるにあたって始めに「満州の建国と滅亡後の苦難」を取り上げたいと思います。昭和6年の柳条湖事件を発端にし満州事変が起きます。そして短期間に満州を占領した日本軍によって満州国が建国されたのです。しかし...「満州の建国と滅亡後の苦難」
2024/09/18 12:47
「中国の都会と農村の美しい風景写真」
昔の中国を知っている人々が吃驚するような経済成長をしている中国です。1980年以後の鄧小平の時代からです。今日はその中国の都会と農村の美しい風景写真をお送りいたします。1番目の写真は夜の香港の美しい風景です。香港は英領の頃も高層ビルがありましたが中国領になってからさらに高層ビルが増えてのです。{https://publicdomainq.net/hong-kong-cityscape-night-0013280/)2番目の写真は上海です。(https://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/page/0000017093.html)3番目の写真は蘇州のそばの銭江新城です。(https://crea.bunshun.jp/articles/-/11485)4番目の写真は蘇...「中国の都会と農村の美しい風景写真」
2024/09/18 11:29
「紫禁城(故宮)、頤和園、万里の長城、北京原人の周口店など」
私は1981年に北京と瀋陽に行きました。周栄章さんと金応培さんは約束通り私を紫禁城(故宮)、頤和園、明の13陵、万里の長城、天壇、北京原人の周口店、瀋陽の清朝の発祥の宮殿、そして文化大革命で荒らされたキリスト教の教会(天主堂)などなど何処でも案内してくれたのです。その上、西安の大雁塔や玄奘法師の墓のある慈恩寺まで案内してくれました。特に印象深かったのは紫禁城(故宮)と頤和園でした。1番目の写真は紫禁城、故宮です。2番目の写真は故宮の中にある主殿です。故宮は3度ほど訪問し内部の部屋の奥まで丁寧に見て回りました。3番目の写真は故宮の奥にさる玉座です。玉座や後宮は興味深く見学しました。この故宮は多くの日本人も観覧していますので説明は省略します。しかし一言だけ書けば、確かにベルサイユ宮殿より大規模で素晴らしいと感...「紫禁城(故宮)、頤和園、万里の長城、北京原人の周口店など」
2024/09/17 13:13
「ホテルの思い出(15)北京のホテル前門飯店と中国人」
1981年に中国に初めて行きましいた。ホテルは大きな前門飯店でした。夜に周栄章さんが来て案内したい所があると言います。ついてい行くと北京鋼鉄学院の地下室でした。彼等の秘密の地下室でした。初対面の私を深く信用して秘密の地下室へ案内してくれたのです。そしてそこで見たことから、中国人は恩義を絶対に忘れない民族なのだと確信したのです。頭が下がりました。尊敬せざるを得ません。その経緯を以下に書きます。1969年以前の私はアメリカ在住の影響もあり、共産党の中国は嫌いでした。また、第二次大戦中の中国を「支那」と蔑視する文化の中で育ちましたので、中国に対しては内心深く軽蔑していました。しかし1969年にドイツのマックス・プランク研究所で会ったドイツ人に中国を軽蔑してはいけないと言われたのです。そのドイツ人はプルシュケル氏...「ホテルの思い出(15)北京のホテル前門飯店と中国人」
2024/09/17 13:07
「ホテルの思い出(12)北海道のキロロのホテル・ピアノ」
今日は大規模で贅沢なリゾートホテルの北海道のキロロのホテル・ピアノをご紹介いたします。日本が高度成長していた頃に設計され建設された驚異的な施設です。2010年の6月に行き、感動しましたので、何度かキロロのホテル・ピアノに泊りました。キロロはアイヌ語で「心」を意味するそうです。小樽から毛無山峠を越して、深い山に入った北海道余市郡赤井川村にあります。ホテルの部屋も広く、インテリアも落ち着いています。食事も美味しかったです。ホテルから続くレストラン街も良い雰囲気でした。そんな風景を下に写真で示します。まず2010年の6月の新緑の頃に撮った2枚の写真を示し、その下に晩秋の風景写真を3枚示します。季節によって風景が変化している様子をお楽しみ下さい。アクセスや宿泊料など詳しくは、http://www.kiroro.c...「ホテルの思い出(12)北海道のキロロのホテル・ピアノ」
2024/09/17 09:29
「ホテルの思い出(11)ザ・ウインザーホテル洞爺の有為転変」
今日は北海道のザ・ウインザーホテル洞爺をご紹介したいと思います。このホテルは洞爺湖を見下ろす山の上に建っています。周囲の風景が良く、その上内装が華麗で美しいホテルです。2014年12月10日に泊りました。ウインザーホテル洞爺は絨毯が厚く、その模様が落ち着いた美しい柄で感動的でした。その上ホテル内の壁紙や装飾が実に華やかです。ケバケバしくない品の良い華やかさです。そこでホテルの外観と内装の写真をお送りします。華麗な内装の美しさもお楽しみ下さい。外観の写真以外は家内が撮った写真です。最後の写真は私どもが食べた朝食です。窓の下に洞爺湖が広がっています。さてウインザーホテル洞爺の内装は華麗です。しかしそのかげには経営の破たんによる有為転変があったのです。そんな苦難の歴史があったような気配を感じさせない従業員の態度...「ホテルの思い出(11)ザ・ウインザーホテル洞爺の有為転変」
2024/09/17 08:57
「チベット仏教の風景の写真」
何故かチベット仏教に心が惹かれます。神秘的です。チベット仏教は7世紀初めに伝来した仏教がチベット土着の民間信仰ボン教と融合したものです。別名ラマ教ともいいます。ラマとは仏僧の意味です。7世紀に中国から仏教が伝播します。そして8世紀半ば,インド系仏教が中心となってボン教と融合して成立のがチベット仏教です。そんなチベット仏教の風景の写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。「チベット仏教の風景の写真」
2024/09/16 13:17
「思い出の穂高連峰の写真」
茫々何十年も前に登った穂高連峰の風景が忘れられません。懐かしいのでインターネットで写真を探しました。写真の出典は、https://stock.adobe.com/jp/search...です。「思い出の穂高連峰の写真」
2024/09/16 11:35
「ホテルの思い出(10)山岳リゾートホテルの上高地帝国ホテル」
上高地帝国ホテルは、日本初の本格的山岳リゾートホテルとして昭和8(1933)年開業。現在の建物は、昭和52(1977)年に建て替えられたものだが、スイス・アルプスの山小屋を思わせる赤い三角屋根と、丸太小屋風の外観は創業当時の趣そのままに、今なお変わらないおもてなしの心でお客様をお迎えしている。館内ロビーは上高地の自然と調和した木の温もりを大切にした空間。中央に設けられたホテルのシンボルともいえるマントルピースが、ここで過ごす優雅なひとときを演出している。夏場以外、日中の気温が15℃以下となる寒い時期、夕方5時からベルマンによる火入れ式が行われる。ゆっくりとディナーを堪能した後は、マントルピースを囲んでコーヒーやカクテルと共に静かな山の夜を満喫できる。宿泊以外にも、昼はカフェやランチで利用できる。ロビーラウ...「ホテルの思い出(10)山岳リゾートホテルの上高地帝国ホテル」
2024/09/16 08:52
「白馬東急ホテルに泊まって栂池高原の花畑で遊ぶ」
以前に白馬東急ホテルに泊まった時に近くの栂池高原の花畑で遊んだ思い出があります。栂池高原は小谷村に広がる高原で綺麗な花畑が広がっています。高原上部には高層湿原の栂池自然園があります。冬にはスキー場になります。花畑の写真をお送り致します。出典は、https://www.jalan.net/kankou/spt_20486ca3470058188/です。「白馬東急ホテルに泊まって栂池高原の花畑で遊ぶ」
2024/09/15 14:50
「白馬東急ホテルに近い大雪渓の写真」
白馬東急ホテルに近いところに白馬の大雪渓があります。その写真をお送り致します。写真の出典は、https://stock.adobe.com/jp/search...です。「白馬東急ホテルに近い大雪渓の写真」
2024/09/15 14:10
「秋はコスモスの花!霧島連山のコスモス畑の写真」
秋と言えばコスモスの花です!霧島連山のコスモス畑の写真をお送りいたします。写真の出典は、https://www.lotascard.jp/column/travel/kyushu/16174/です。「秋はコスモスの花!霧島連山のコスモス畑の写真」
2024/09/15 13:36
「聖イグナチオ教会の今日のミサの風景」
今日はインターンットを通うして聖イグナチオ教会のミサにあずかりました。聖イグナチオ教会の今日のミサの動画配信は下記です。https://www.youtube.com/live/zqzRfZBaEH8写真は聖イグナチオ教会の今日のミサの風景です。「聖イグナチオ教会の今日のミサの風景」
2024/09/15 11:34
「ノルウェーの美しい風景」
ノルウェーの美しい風景写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。https://jp.123rf.com/photo_64786734_%E7%BE%8E%E3%81%97%E3...「ノルウェーの美しい風景」
2024/09/14 15:34
「北極圏にあるヘルシンキに行く」
1972年にストックホルム工科大学のエケトルプ教授に招待されて4ケ月滞在して講義をしました。その折に北極圏の北欧への旅もしました。北極圏にあるヘルシンキの工科大学のハイキンハイモ先生を訪問しました。寂しい北国への独り旅でした。冷えた私を温かく迎えてくれたのがハイキンハイモ先生でした。先生は私を自宅での夕食にも招待してくれました。フィランドが辺境の地にあり外国と隔絶した国です。思えば遠くに来たものです。ハイキンハイモ先生は自宅に招待してくれただけでなく大学のサウナへも案内してくれたのです。フィンランドは北欧のスカンジナビア半島の北端の北極圏にある国です。国土の約80%が森林や湖沼、河川に覆われています。「湖沼の国」という意味が転じてフィンランドという国名になったといわれています。人口は554万人ほどの小さな...「北極圏にあるヘルシンキに行く」
2024/09/14 12:01
「スウェーデンとドイツの野原に咲く花」
スウェーデンとドイツの野原に咲く花々をご紹介します。その後で草原の花々にまつわる思い出を書いてみたいと思います。まず写真をお送りします。写真は「スウェーデンの野原に咲く花々の写真」と「ドイツの野原に咲く花々の写真」を検索してインターネットにある写真からお借りしました。はじめの3枚はスウェーデンの野原で後の2枚はドイツの野原の写真です。さて野原の花々にまつわる思い出を書いてみたいと思います。私は長い生涯で花々が一面に咲いている光景を3度だけ見たことがあります。1度目は北アルプスの大天井岳の斜面でした。そうして2度目は夏の白夜のスウェーデンの野原でした。3度目はドイツの野原でした。1度目は23歳の夏でした。北アルプス表銀座に登り縦走したのです。その時、大天井岳の下の広い斜面に一面に咲いていた花畑があったのです...「スウェーデンとドイツの野原に咲く花」
2024/09/14 10:41
「ホテルの思い出(8)箱根、宮ノ下の富士屋ホテル」
ご紹介したいホテルは箱根の宮ノ下の富士屋ホテルです。明治11年創業です。の箱根、宮ノ下の富士屋ホテルのこと。訪問した2008年5月16日は曇天で写真映りが悪かったです。でも、明治期の木造洋風建築のシェルエットが浮かび上がります。誰も実物を見たことの無い、「竜宮城」を連想させます。これを作った明治の人々も設計・建築の過程を楽しんだ夢多い人々でした。中へ入れば薄暗い。蛍光灯を使わないで昔風の暗い照明。以前に泊まった時と何も変わっていない。ロビーのフロントの机が高くて首近くまである。西洋人の身長にあわせた家具調度です。天井は格天井で、とくにメインダイニングの格天井には一枚一枚、花の絵が描いてあるのです。泊まった時の、夕食のコースは昔の通りに丁寧に料理した西洋料理でした。。定石通り、スープ、パン、フィッシュ、サラ...「ホテルの思い出(8)箱根、宮ノ下の富士屋ホテル」
2024/09/14 10:08
「ホテルの思い出(5)志賀高原の熊の湯ホテル」
長野県の志賀高原に初めて行ったのは1962年の冬にスキーに行った時でした。スキーコースが上級向けや中級用や初心者用と沢山あって規模雄大なことに驚きました。そしてその後、家内と一緒に何度か行きました。春、夏、秋と何時行っても自然豊かな山々と澄んだ水を湛える天然の池が美しい所なのです。志賀高原で熊の湯温泉の熊の湯ホテルに泊ったことがありました。熊の湯温泉は、昔小熊が傷をいやしているところを発見した為、熊の湯温泉と名づけられました。ホテルの裏には日本最大のスキー場があり、ホテルを出て1分というスキーヤーには好条件の場所です。熊の湯ホテルは大正年間創業と歴史ある温泉で、湯小屋などは昔の湯治場を思わせる雰囲気です。元々熊の湯温泉と呼ばれるところは熊の湯ホテルのみでした。写真を示します。1番目の写真は現在の熊の湯ホテ...「ホテルの思い出(5)志賀高原の熊の湯ホテル」
2024/09/13 12:56
「美しい洞爺湖の風景」
美しい洞爺湖の風景写真です。ここに示した写真は、「洞爺湖の風景写真」を検索してインターネットからお借りいたしました。 「美しい洞爺湖の風景」
2024/09/13 10:49
「八ヶ岳と清里の八ヶ岳ロイヤルホテルの思い出」
老境の幸せは時間が自由なことです。数年前の3月に思い立って、甲斐駒の麓にある山小屋に遊び、その足を伸ばして八ヶ岳の麓を巡る旅に出ました。夜は以前にも泊まった八ヶ岳ロイヤルホテルに投宿しました。一泊する小さな旅です。甲斐駒岳と八ヶ岳の写真を撮りながら清里まで行きました。清里では清泉寮に遊びました。撮った風景写真をお送り致します。。1番目の写真は甲斐駒岳の写真です。中央高速道路の須玉インターを出て日野春の駅を越えると武川町が見下ろせる公園があります。その公園から撮った写真です。釜無川が眼下に流れ、その向こうに甲斐駒岳が聳えている場所です。2番目の写真は甲斐大泉の展望台から見た八ヶ岳です。ここから清里へ行きました。甲斐大泉は標高1200m位の素晴らしい高原でホテルやペンションや洒落た別荘が散在しています。3番目...「八ヶ岳と清里の八ヶ岳ロイヤルホテルの思い出」
2024/09/12 13:55
「サンフランシスコ講和で日本は再び独立国になる」
1945年8月15日から日本は実質的にアメリカの領土になっていました。しかし1951年のサンフランシスコ講和で日本は再び独立国になったのです。サンフランシスコ講和は1951年9月8日に第太平洋戦争後に連合国諸国と日本との間に締結された平和条約です。通称はサンフランシスコ講和条約です。この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認したのです。この条約により日本と多くの連合国との間の「戦争状態」が終結しました。なおソビエト連邦は会議に出席したが、アメリカ軍の駐留継続に反対する姿勢から条約に署名しなかったのです。旧イギリス領のインドとビルマは欠席しました。旧オランダ領のインドネシアは条約に署名したが、議会の批准は実施しませんでした。その後、日本はインドネシア、中華民国(台湾)、インド、ビルマとの間で個々に平和条約...「サンフランシスコ講和で日本は再び独立国になる」
2024/09/11 16:23
「終戦後によく見た写真」
終戦後に新聞や雑誌でよく見た写真です。懐かしいです。1番目の写真は日本本土に上陸するアメリカ軍の写真です。続く写真は終戦後によく見た写真です。「終戦後によく見た写真」
2024/09/11 12:40
「南の国、沖縄の美しい花」
南の国、沖縄の美しい花の写真をお送り致します。写真の出典は、https://bluegreen.jp/2247/などです。1番目の写真は竹富島の赤いユリです。2番目の写真は竹富島のピンクのブーゲンビリアです。3番目の写真は竹富島の黄色いキンレイジュです。4番目の写真はナンバンサイカチです。「南の国、沖縄の美しい花」
2024/09/11 10:23
「長崎の平戸島の教会の写真」
長崎県の北西の海上に平戸島があります。幅の狭い平戸瀬戸の上に橋がかかっていて九州本土の平戸口と繋がっています。この平戸瀬戸へ面した平戸島の港は船の往来で繁栄した港町でした。この海峡は九州の南の海と玄界灘をつなぐ最短距離なのです。奈良時代や平安時代には遣隋使や遣唐使の船の出発港としても重要でした。現在は九州本土から観光バスで行ける上に、平戸市には昔の領事館、商館の跡やキリシタン関連の史跡が多いので、一つの観光スポットになっています。私共も3回ほど訪問し、古い平戸の町並みを歩き、キリシタン時代の教会を訪ねたことがあります。そんな観光案内を以下に示します。1番目の写真は手前が九州側で橋の向うが平戸島です。上と下の全ての写真は平戸写真画像集からお借りしました。2番目の写真は現在の平戸港です。木造の遊歩道が付いてい...「長崎の平戸島の教会の写真」
2024/09/10 11:06
「異国の香りあふれる長崎」
江戸時代の鎖国中も唯一貿易が許されていた街、長崎。今では国際交流が当たり前になった日本でも、長崎ほど国際色あふれる街は数少ないでしょう。そんな長崎には、国内外から観光客が訪れるスポットがたくさんあります。https://rlx.jp/journal/kyushu/44475「異国の香りあふれる長崎」
2024/09/10 10:19
「長崎の五島列島はカトリックの巡礼地」
日本のカトリックにとって五島列島は巡礼地と私は思っています。日本の全てのカトリック教会はローマ法王へ直属していますので「日本の本山」というものはありません。しかし私は長崎の大浦天主堂が「日本の本山」だと思っています。日本を訪問したフランシスコ教皇も長崎へ巡礼の旅をなさいました。五島列島には江戸時代に隠れキリシタン達が沢山住んでいたのです。明治時代になって禁教が解けた以後に隠れキリシタン達が美しい教会をたくさん作ったのです。数年前、私は家内とともにこれらの美しい教会を巡る旅に行ったのです。それは隠れキリシタン達を偲ぶ巡礼の旅でした。そこで今日は美しい五島列島の風景写真をお送りしようと思います。風景写真は「五島アルバム」からお借りしてここにお送りいたします。https://gotoproject.jp/pho...「長崎の五島列島はカトリックの巡礼地」
2024/09/10 09:49
「日本の悲劇(7)広島と長崎への原爆投下」
原爆投下に最初に選ばれた標的は広島市だった。それまで空襲を受けていなかった広島は、原爆の影響を観察するのに適していた。加えて、広島は軍都でもあった。 1945年8月6日午前8時15分原爆が爆発した。爆発によって、4.5平方キロ圏内の温度は摂氏4000度を超えた。原爆投下のその日の内に、5万人から10万人が亡くなったと考えられている。爆心地から10平方キロの圏内は壊滅した。爆発は60キロ以上離れた場所でも、体感された。市内の建物の3分の2に当たる、約6万棟が瓦礫と化した。猛烈な熱線のためあちこちで火災が発生し、爆心地から7キロの距離の場所が3日にわたり燃え続けた。1番目の写真は原爆投下後の広島の全景です。2番目の写真は原爆投下後の広島の拡大写真です。一方、長崎には1945年8月9日に原爆が落とされました。3...「日本の悲劇(7)広島と長崎への原爆投下」
2024/09/10 09:04
「ニューギニアの現在、東半分は独立、西半分はインドネシアに編入」
現在、ニューギニアの東半分は独立国で、西半分はインドネシアに編入されています。ニューギニア島は、グリーンランドに次ぐ世界第2位の面積を持つ島です。1828年にニューギニア島の西半分をオランダが併合し、1884年にはドイツがニューギニア島の北東部を、イギリスが南東部を保護領としました。その後ニューギニアは、国際連盟によりオーストラリアの委任統治領となりました。1963年に西半分はインドネシアに編入され、東半分は1975年に独立しました。国土の大部分は熱帯気候で、ニューギニア島南部のパプア湾に面したガルフ州では年間降水量が8000mmに到達します。一方、そこから海岸沿いを南東に進んだ首都ポートモレスビーでは、年間降水量が1000mm程度と少なくなります。内陸部は高山地帯で、標高4500mに達するウィルヘルム山...「ニューギニアの現在、東半分は独立、西半分はインドネシアに編入」
2024/09/09 16:17
「夏の名残りの花々の写真」
この夏は連日の猛暑で大変でした。数日前から少し涼しくなりました。季節の変わり目です。立秋はとっくに過ぎましたが、最近やっと本当に秋がやって来るという感じが致します。そこで今朝は「秋立つ」という季語を用いた俳句を読んでみました。下に私が気に入った幾つかの俳句をご紹介いたしま秋立つや雨後の夕ベは樹も匂ふ田口泡水秋立つや軽井沢にて購ふ髪飾り柴田蓉子秋立つや残り風鈴鳴りやまず永野秀峰身ほとりに物を少なく秋立ちぬ田中藤穂川波の縹渺として秋立てり斎藤道子灯台の白さに風の秋立ちぬ須藤常央秋立つや山に小さな美術館前田達江熊笹の鯖街道に秋立ちぬ大島翠木秋立つや蝉声はたと止むあした久保晴子以上は季語、「秋立つ」の句集(http://www.haisi.com/saijiki/akitatu.htm)より。「秋たちぬ」とは美し...「夏の名残りの花々の写真」
2024/09/09 13:14
「日本の悲劇(6)ニューギニア島での悲惨な戦闘」
東部ニューギニア戦線に動員された日本軍(第18軍、第4航空軍、海軍部隊)はおよそ15万名、うち、約12万8千名が戦没したとされていますが、その多くは飢餓やマラリアなどの病、さらに長距離にわたる敗走のさなかに密林や山岳地帯において斃れたとされています。ニューギニアへの進出はブナ・ゴナ地区での戦闘から始まりました。1942年3月8日、日本軍は連合国軍の拠点ポートモレスビーの攻略を視野に入れて飛行場を確保するため、南海支隊の一部をサラモアに、海軍陸戦隊をラエに上陸させます。どちらも連合軍はすでに撤退していたため、抵抗を受けることなく占領が行われました。しかし3月10日、空母「ヨークタウン」「レキシントン」を基幹とするアメリカ軍空母機動部隊が日本軍を空襲します。この攻撃で付近にいた日本の艦船が4隻が沈没、9隻が損...「日本の悲劇(6)ニューギニア島での悲惨な戦闘」
2024/09/09 12:16
「カトリック葛西教会の今日のミサの風景」
カトリック葛西教会の今日のミサの風景の写真をお送り致します。「カトリック葛西教会の今日のミサの風景」
2024/09/08 11:55
「今日のミサのライブ配信」
今日のミサのライブ配信です。カトリック葛西教会年間第23主日ミサ2024年9月8日(日)10時、〒134-0083東京都江戸川区中葛西1-10-15電話:03-3689-0014Fax:03-5696-4449「今日のミサのライブ配信」
2024/09/08 09:22
「鹿児島県三島村の硫黄島」
もう一つの硫黄島は薩南諸島北部にある島です。郵便番号は890-0901。人口は125人、世帯数は62世帯です。(2020年5月1日現在)[薩摩硫黄島とも呼ばれます。島内には民宿5軒、商店2軒があります。「鹿児島県三島村の硫黄島」
2024/09/07 16:43
「硫黄島の星条旗」
硫黄島の星条旗は第二次世界大戦中の1945年2月23日にジョー・ローゼンタールによって硫黄島で撮影された報道写真です。5人のアメリカ海兵隊員と1人のアメリカ海軍兵が硫黄島の戦いの最中、摺鉢山の頂上に星条旗を立てる姿を撮影したもので、史上もっとも有名な報道写真の一つです。太平洋戦争のイメージとしてよく知られた写真となり、1945年度のピューリッツァー賞の写真部門を受賞した唯一の写真となったのです。写真に写っている6人のアメリカ兵のうち、3人は硫黄島で戦死しました。「硫黄島の星条旗」
2024/09/07 13:35
「日本の悲劇(4)サイパン島の玉砕、そして硫黄島の玉砕」
日本軍はサイパン島で全滅しました。続いて硫黄島でも玉砕しました。戦局は坂を下るように悪化しました。サイパン島のアメリカ軍の飛行場からB29が毎晩のように空襲に来るようになりました。日本本土が史上はじめて直接攻撃されたのです。サイパンの戦いは1944年6月15日から7月9日にかけて行われたました。7月7日から最後の攻撃をし16日までに全員が玉砕そました。最高指揮官の海軍中将南雲忠一も戦死しました。サイパン島の在留邦人は終始軍に協力し戦闘に参加し将兵と運命をともにしましいた。サイパン島の戦いは太平洋戦争の中で初めて、膨大な市民が犠牲となった戦いでした。日本人2万人が暮らしていたこの島に、アメリカ軍は爆撃機の拠点を築こうと上陸したのです。日本軍は4万3千の守備隊で迎え撃ちましたが全滅しました。やがて、サイパン島...「日本の悲劇(4)サイパン島の玉砕、そして硫黄島の玉砕」
2024/09/07 09:04
「スエーデンの紅葉の思い出」
随分前にスエーデンへ短期集中講義に行きました。秋だったので紅葉が綺麗でした。北国の紅葉は鮮烈な黄色と赤色でした。忘れられない風景です。そんな風景写真をインターネットからお借りしてお送り致します。「スエーデンの紅葉の思い出」
2024/09/06 14:30
「皆様はこのような森を最近ご覧になったことがありますか?」
今朝は「日本の悲劇(3)敗北の転機になったガダルカナルの玉砕」と題した重い内容の記事を書きましたので疲れました。太平洋戦争の一つの悲劇です。気分転換のために、森の写真を眺めて楽しんでおります。それは本当に深い森の風景写真です。場所は甲州の甲斐駒岳の東の麓にある北杜市武川町から山道を根気よく登ったところです。以前の秋に撮った写真です。1番目の写真は武川町の黄金色の稲田の間を通り過ぎて入った山道の写真です。2番目の写真は同じ山道の写真ですが、登るに従って険しい凸凹の道になります。道の両側からは樹木が覆いかぶさり梢の間から秋の陽が射しこんでいます、3番目の写真は樹木の繁る悪路を2Kmくらい根気よく登った所にある私の山小屋です。小屋の向こうに年中水の涸れない小川がています。55年前に作った山小屋です。4番目の写真...「皆様はこのような森を最近ご覧になったことがありますか?」
2024/09/06 12:34
「紅葉の写真を見て秋を楽しむ」
最近は「紅葉の写真」を検索して紅葉を楽しんでいます。今日は感動した紅葉の写真をお送り致します。出典は、https://www.pixpot.net/view_spots/spot/2374/sinasawa/です。1番目の写真は長野県駒ヶ根市の宝剣岳直下にあるカール。通年営業の駒ケ岳ロープウェイ終点「千畳敷駅」を降りると鋭い岩峰の宝剣岳が聳え、その下に広がる氷河地形「千畳敷カール」には遊歩道が整備されおり高山植物、錦の紅葉、満天の星空、白銀の冬景色など目の前に広がる四季折々の絶景を楽しむことができる。2番目の写真は苗場山と小赤沢の集落を展望できるビューポイントです。小さなトンネル横の旧道を5分程歩くと展望が開けた場所に着きます。11月上旬冠雪した苗場山と山麓の紅葉が重なった時は見事です。昼12時ぐらいが影...「紅葉の写真を見て秋を楽しむ」
2024/09/06 10:42
「日本の悲劇(3)敗北の転機になったガダルカナルの玉砕」
ガダルカナル島の戦いは、太平洋戦争開戦以来、連戦連勝だった日本陸軍が敗北を喫し、アメリカとの攻守が逆転するきっかけとなった歴史的な戦いと位置付けられています。1942年7月に日本軍が飛行場を設営しました。しかしアメリカ軍の攻撃が始まり1943年2月に玉砕いました。以下の内容は次の2つの資料を参考にしました。https://www.nhk.or.jp/archives/sensou/special/warmuseum/04/とhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84です。さてガダルカナル島では日本軍の将兵2万人...「日本の悲劇(3)敗北の転機になったガダルカナルの玉砕」
2024/09/06 10:04
「今日の散歩は小金井公園まで」
秋の晴天です。今日の散歩は小金井公園の中をあちこちゆっくり歩いてきました。気分爽快です。「今日の散歩は小金井公園まで」
2024/09/05 16:00
「日本の悲劇(2)ラバール基地の撤収」
『さらばラバウルよー又来るまではーしばしわかれの涙がにじむ.・・・』という歌の通り日本軍はラバール基地を撤収しました。その経緯は次のとうりです。ラバウル航空隊とはラバウル基地から戦闘に参加した日本海軍・陸軍の航空部隊の総称です。1942年(昭和17年)1月から日本軍はラバウルに進出しラバールを重要拠点にしました。しかし日本軍は劣勢になり1944年(昭和19年)2月にラバウルから撤退したのです。この撤退が日本軍の敗戦を決定的にしました。ラバールはパプアニューギニアの東ニューブリテン州の都市です。1番目の写真はラバール市のある島の遠景です。2番目の写真はラバール島の残るアメリカ軍の飛行機の残骸です。3番目の写真はラバール島に駐機当時の日本の航空隊です。4番目の写真はラバール島の戦いに参加した零戦を復元塗装した...「日本の悲劇(2)ラバール基地の撤収」
2024/09/05 13:18
「源氏物語の奈良の初瀬山、長谷寺の紅葉」
源氏物語に出てくる長谷寺は例年10月下旬になると紅葉が美しくなります。長谷寺の本堂は国宝でもあります。その風景写真をお送り致します。出典は、https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2176/です。1番目の写真は初瀬山の中腹に立つ国宝の本堂です。2番目の写真は戦後日本に初めて建てられた五重塔です。3番目の写真は床板に外の紅葉が映り込み美しい光景です。大和国と伊勢国を結ぶ初瀬街道を見下ろす桜井市の初瀬山の中腹に長谷寺の本堂が建っています。このお寺は古くから「花の御寺」と称されて『枕草子』『源氏物語』『更級日記』などにも登場する有名なお寺です。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する「二本の杉」は現在も境内に残っているそうです。「源氏物語の奈良の初瀬山、長谷寺の紅葉」
2024/09/05 08:49
「奥入瀬渓流の紅葉の輝き」
十和田湖の湖水が子ノ口から焼山へと下る部分に奥入瀬川の渓流があります。紅葉の名所です。渓流には魚止めの滝になる銚子大滝をはじめ、阿修羅の流れ、雲井の滝などの景勝が並んでいます。紅葉の見頃は例年10月中旬~10月下旬頃です。奥入瀬渓流の紅葉の輝きの写真をお送り致します。写真の出典は、https://tabi-mag.jp/autumnleaves-oirase/です。「奥入瀬渓流の紅葉の輝き」
2024/09/05 08:32
「激しく流れる野川の写真」
今日は秋晴れです。午後から武蔵野公園しへ散歩に行きました。野川が昨日の雨のせいで激しく流れていました。草原に秋の虫が鳴いています。秋になりました。「激しく流れる野川の写真」
2024/09/04 15:50
「アッツ桜の写真」
アッツ桜の写真をお送り致します。アッツ桜は高山植物のようにも見え、花の印象からアッツザクラと呼ばれるようになったものと思われますが、南アフリカ原産の半耐寒性球根植物で、北太平洋のアッツ島の原産ではありません。写真は「アッツ桜の写真」を検索してインターンットからお借りしました。「アッツ桜の写真」
2024/09/04 12:57
「椰子の実の歌」
「椰子の実」は島崎藤村が明治時代に執筆した詩で、昭和に入って曲が付けられました。「椰子の実」名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子やしの実み一ひとつ故郷の岸を離れて汝れはそも波に幾月いくつき旧の樹きはおいや茂しげれる枝はなお影をやなせるわれもまた渚なぎさを枕ひとりみの浮寝うきねの旅ぞ実をとりて胸にあつれば新あらたなり流離のうれい海の日ひの沈むを見ればたぎり落ついきょうの涙思いやる八重のしおじおいずれの日にか国くにに帰らん歌は下記にあります。https://www.youtube.com/watch?v=iKio7_cP2Pk「椰子の実の歌」
2024/09/03 13:04
「オハイオ州の紅葉の写真」
オハイオ州はアメリカ中西部にあり北側にはエリー湖があり南はケンタッキー州です。首都はコロンバス市です。学生数が6万人近い巨大な州立大学があります。私は1960年から1962年までと1988年から1990までの通算4年間この大学に留学したり教えていました。高い建物はコロンバス市の中心街にありました。そのディッシュラー・ヒルトンホテルで1961年に結婚披露宴をしました。コロンバス市にはサイオート河とオレンタンジー河が流れていてケンタッキー州へ流れ下りミシシッピーの大河へ合流します。老人になった私は今更ながら若い時のアメリカ留学の影響の深さを感じています。そんな思い出を懐かしながらオハイオ州の紅葉の写真を4枚お送り致します。写真の出典は下記です。https://ja.traasgpu.com/%E5%8C%97...「オハイオ州の紅葉の写真」
2024/09/03 11:16
「ドイツの紅葉の思い出」
ドイツの紅葉は緯度が高いので、急に真っ赤、真っ黄色になって、冷たい雨が降って、すぐに散ってしまいます。その紅葉の色は鮮烈です。もうすっかり遠い昔になってしまいましたが、1969年の9月に見たローテンブルグの町の紅葉は忘れられません。城壁の外の住宅に下宿していたので、毎日、車で城門をくぐり、ドイツ語学校へ通ったものです。そして日が暮れ行くころには、タウバウ川のほとりから、紅葉に彩られた町を囲む城壁が夕陽に輝くのを毎日見上げたものです。それはいつも独りで見上げていた晩秋の風景でした。異国の秋の夕暮れは何故かもの悲しいものでした。そんなドイツの紅葉を思い出したのでネットに写真が無いか探してみました。そうしたら、「もうすけさん」のブログ(http://mo-suke1122.blog.so-net.ne.jp/2...「ドイツの紅葉の思い出」
2024/09/03 10:51
「倍賞千恵子の『里の秋』という歌」
秋といえば必ず口ずさむ歌があります。日本人の心に刻まれている「里の秋」という歌です。斎藤信夫作詞、海沼實作曲です。それでは皆様とご一緒に倍賞千恵子が歌った「里の秋」を聞いてみましょう。https://www.youtube.com/watch?v=h144mLquMFsをクリックすると倍賞千恵子のしみじみした歌声が流れます。そして里の秋の風景写真をご覧ください。1番目の写真の出典は、https://www.fukei-kabegami.com/k00007915/です。2番目の写真の出典は、https://www.kabegamikan.com/p/i.php?url=www.kabegamikan.com%2Fimg%2Fna10%2F131483.jpgです。3番目の写真の出典は、https://bl...「倍賞千恵子の『里の秋』という歌」
2024/09/03 09:26
「夏が過ぎ、小さい秋見つけた」
長く続いた暑い夏も過ぎ、やがて抜けるような青空の秋がやって来まさす。間もなく本当の秋が来るたのです。秋になると毎年、「小さい秋見つけた」という歌を思い出します。皆様もご存知と思いますが、次の動画にこの歌があります。https://www.youtube.com/watch?v=『小さい秋見つけた』、【作詞】サトウハチロー、【作曲】中田喜直1.だれかさんがだれかさんがだれかさんが見つけた小さい秋小さい秋小さい秋見つけた目かくし鬼さん手のなる方へすましたお耳にかすかにしみた呼んでる口笛もずの声小さい秋小さい秋小さい秋見つけた2.だれかさんがだれかさんがだれかさんが見つけた小さい秋小さい秋小さい秋見つけたお部屋は北向きくもりのガラスうつろな目の色とかしたミルクわずかなすきから秋の風小さい秋小さい秋小さい秋見つけ...「夏が過ぎ、小さい秋見つけた」
2024/09/03 08:46
「秋は喨喨(りょうりょう)と空に鳴り」
高村光太郎の詩で「秋の祈り」です。秋の祈り秋は喨喨(りょうりょう)と空に鳴り空は水色、鳥が飛び魂いななき清浄の水こころに流れこころ眼をあけ童子となる多端粉雑の過去は眼の前に横はり血脈をわれに送る秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る地中の営みをみづから祝福しわが一生の道程を胸せまって思ひながめ奮然としていのるいのる言葉を知らず涙いでて光うたれ木の葉の散りしくを見獣(けだもの)喜喜としてとして奔(はし)るを見かくの如き因果歴歴の律を見てこころは強い思愛を感じ又止みがたい責(せめ)を思ひ堪へがたくよろこびとさびしさとおそろしさとに跪(ひざまず)くいのる言葉をしらずただわれは空を仰いでいのる空は水色秋は喨喨と空に鳴る(大正3年作「道程」の巻末に収められている)写真の出典は、https://www.kobo...「秋は喨喨(りょうりょう)と空に鳴り」
2024/09/02 12:34
「北海道の紫竹ガーデンの秋の花園の写真」
北海道ガーデン街道の紫竹ガーデンの秋の花園の写真をお送りいたします。帯広~旭川にガーデン街道があります。花園のつながりです。その中に紫竹ガーデンもあります。紫竹ガーデンの花園の写真を、https://www.hanagoto.daiichi-engei.jp/hanatabi/1486.htmlからお送りいたします。1番目の写真は「白樺並木の散歩道」です。十勝平野と紫竹ガーデンをさりげなく繋ぐ、白樺のパーテーションです。2番目の写真は「紫竹(しちく)ガーデン」です。紫竹ガーデンは紫竹昭葉さんが60代で残りの人生をかけて庭づくりを始めて、2019年で30周年になりました。3番目の写真は紫竹ガーデンの花の小径です。150mに渡ってさまざまな宿根草が植えられた小道です。4番目の写真は紫竹ガーデンのイヌサフランで...「北海道の紫竹ガーデンの秋の花園の写真」
2024/09/02 11:45
2024年9月 (1件〜100件)
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