鬱蒼とした樹々の写真を撮ってきました。近所の学芸大学の構内です。撮ってきた写真をお送り致します。「鬱蒼と生えている樹木の写真」
快晴でした。でも秋も深まり寒い風が吹いていました。小金井公園の樹々の写真をお送り致します。「今日の都立小金井公園の樹々の写真」
湖水の国、フィンランドの風景写真をお送り致します。フィンランドは首都ヘルシンキは賑やかな街ですが、地方は湖水が点在する淋しい風景でした。そんな写真をインターンットからお借りしました。「湖水の国、フィンランドの風景写真」
フィンランドの風景写真です。フィンランドは首都ヘルシンキは賑やかな街ですが、地方は湖水が点在する淋しい風景でした。そんな写真をインターンットからお借りしました。「湖水の国、フィンランドの風景写真」
以前にフィンランドの首都にあるヘルシンキのヘルシンキ工科大学の同じ専門の教授を訪問しました。この北欧の旅では何度かサウナを体験しました。サウナは家族でも楽しみますが、旅人をもてなすためにも使います。疲れた旅人にくつろいで貰うために提供する最大の歓迎のしるしなのです。そのような使い方は昔からの北欧の伝統文化なのです。1972年秋、ストックホルム工科大学へ三ケ月間行った折、大学のゲスト用サウナへ二度ほど招待されました。訪問者をもてなすためのサウナが必ず大学についているのです。広いサウナで16坪くらいはありました。日本の大学にサウナはありません。北欧のサウナは、極北の香り高い白木で内装されています。隣に談笑する大きな部屋が付いていて、窓からは広々とした風景が見えるのです。その談笑室には白木のテーブルと椅子があり...「北欧のサウナの思い出」
サーミ族はラップランド人ともよばれる、北欧スカンジナビア半島の最北部、北緯66度33分の北極線より北の北極圏中心に住んでいるトナカイ遊牧民です。ノルウェー、スウェーデン、フィンランドの北欧三国とロシアの四ケ国にまたがっています。サーミ族はラップ人ともよばれ、スウェーデン、フィンランド、ロシア、ノルウェーなどの国家が成立する以前の大古から北欧に住んでいた先住民です。そのサーミ民族写真をお送り致します。出典は、https://kinarino.jp/cat6/2299です。1番目の写真はサーミ民族が飼っているトナカイです。肉は食料にして皮は衣服にします。2番目の写真は伝統衣装を着た少女たちです。3番目の写真も伝統衣装を着た少女たちです。4番目の写真は伝統衣装を着た男性です。サーミ民族は伝統的に沿岸漁業、毛皮の...「北欧の先住民、サーミ民族の写真」
今日は寒い日です。本物の冬が来たようです。撮って来ました写真をお送り致します。「今日の都立武蔵野公園の風景」
老境に至って自分の人生を振り返ると、外国への留学で深い影響を受けたことをつくずく思います。はじめにアメリカへ留学しました。留学のおかげで私はアメリカが大好きになりました。アメリカ留学は24歳から26歳まででしたが、34歳のときドイツに留学し、今度はドイツにも魅了されました。外国に住むと、その国が好きになってしまうのです。今日はドイツでどのような影響を受けたか二つほど書いてみます。まず初めに私が3ケ月住んでドイツ語を集中的に勉強したローテンブルグの風景写真と隣町のバンベルグのをご紹介しましょう。1番目の写真はローテンブルグの夜の風景です。写真の出典は、https://beautiful-photo.net/medieval-town-of-rothenburg-ob-…です。2番目の写真はローテンブルグのル...「年老いて振り返る我が人生(12)ドイツ留学で受けた影響」
午後の散歩は小金井公園でした。樹々が鮮やかに黄葉しています。何故か嬉しくなって写真を撮りました。黄葉した樹々の写真をお送り致します。「美しく黄葉した樹々の写真」
「年老いて振り返る我が人生(11)熱烈日中友好の時代」その三
現在の日本人には信じられませんが、1978年に中国の最高指導者、鄧小平が初めて日本を訪問した後、中国では熱烈な日本ブームが巻き起こったのです。日本の物なら何でも大好き、日本人なら誰でも大歓迎という熱気あふれる時期が1978年から天安門事件の1989年まで続いたのです。現在の日中関係からは想像もつかない蜜月時代だったのです。それは現在の中国側にとっても貴重な歴史的な大転換だったようです。中国側の資料に基づいて鄧小平の日本訪問の様子と、私が1981年以後数回、中国で歓迎された体験をご紹介したいと思います。それは鄧小平による日本の先進技術と資金の導入の時代でした。1978年は、中国の国家戦略に大きな転換が起こった年でした。中日両国は同年8月、「中日平和友好条約」を締結し、続く10月22~29日、鄧小平氏が、中国...「年老いて振り返る我が人生(11)熱烈日中友好の時代」その三
「年老いて振り返る我が人生(10)熱烈日中友好の時代」そのニ
現在の日本人には信じられませんが、日中間に非常に熱烈な友好関係があった時代があったのです。それは1970年代後半から1889年の天安門事件のあった頃までの周恩来と鄧小平の時代の約10年間でした。この時代のことを振り返り、その歴史的な理解を深めるために以下のような記事を書きました。「年老いて振り返る我が人生(9)熱烈日中友好の時代」その一続いて「年老いて振り返る我が人生」の(10)を書きたいと思います。それでは今日の部分をご紹介いたします。周恩来(1898年-1976年)は中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた卓越した政治家でした。賢い政策と人情溢れる性格で中国人の絶大な信頼と尊敬を得ていました。彼は毛沢東に下で慎重な助言をして全ての政...「年老いて振り返る我が人生(10)熱烈日中友好の時代」そのニ
これは古い話です。1970年代のことです。しかし忘れられない時代でした。日中関係が非常に良かった時代のことです。正確に書くと、それは1970年代後半から1889年の天安門事件のあった頃までの周恩来と鄧小平の時代の約10年間でした。この時代をもう一度思い出します。まず1949年に中国が共産国家として成立した以後の歴史をもう一度振り返ってみましょう。周恩来、鄧小平の熱烈日中友好の時代を考える場合に以下のような3段階に分けて考えてみたいと思います。(1)毛沢東主席の新中国の誕生とソ連との離別(2)周恩来の英断による日中平和宣言の締結(3)鄧小平による日本の先進技術と資金の導入それでは上の3段階を順々に考えて行きます。(1)毛沢東主席の新中国の誕生とソ連との離別日中戦争は昭和5年(1930年)始まりました。当時の...「年老いて振り返る我が人生(9)熱烈日中友好の時代」その一
私が先程から見ていたユトリロのパリの風景画の写真をお送りします。モーリス・ユトリロは1883年に生まれ1955年に亡くなりました。生涯アルコール依存症に苦しみ私生活は悲惨なものでした。1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に私生児として生まれモーリスと名付けられました。精神薄弱児だったそうです。母の薦めで絵を描くことに目覚めました。そんなユトリロが多くの人々を感動させる美しい油彩画を沢山描いたのす。私は昔からユトリロの絵が大好きでした。7枚の彼の絵をお送り致します。1番目の写真はサクレクール寺院の見える風景画です。出典は、http://nekoarena.blog31.fc2.com/blog-entry-2628.htmlです。晩年の作品です。ユトリロがモンマルトルに居た期間は短かったそうですが、...「私の好きなユトリロのパリの風景画」
アルフレッド・シスレーは1839年、フランスのパリでイギリス人の両親の下に生まれました。実業家であった父親のおかげで、家庭は経済的に困ることはありませんでした。シスレーは18歳の時に商学を学ぶためにロンドンに留学します。約3年間のロンドン生活を終えたシスレーは再びパリに帰還。この時からシスレーの画家としての人生が始まります。『ポール=マルリーの洪水』1876年作。「マルリ・ル・ロア」1875年制作。「モレのポプラ並木」1888年の作品。『マルリのマシン』1873年作。写真の出典は、https://muterium.com/magazine/stories/si「アルフレッド・シスレーの油彩画」
何故かわかりませんが、私はピサロの絵が好きです。そこでその油彩画をお送りいたします。カミーユ・ピサロ(CamillePissarro,1830年-1903年)は19世紀フランスの印象派の画家で印象派の中心的な存在でした。風景画を数多く残しています。どれも穏やかで静謐な情感に溢れています。カリブ海のセント・トーマス島の生まれです。家業の金物屋を手伝っていましたが、画家フリッツ・メルビューの誘いで1852年(22歳頃)から1854年(24歳頃)まで、島を出ました。1855年(25歳)の時に画家を志してパリに出て、画塾でモネ、セザンヌといった画家と知り合ったのです。1859年(29歳頃)にサロン・ド・パリに初入選しましましたが、1860年代はサロンへの入選と落選を繰り返し生活は困窮します。当時はコローにならった...「印象派の中心にいたピサロの油彩画」
今日は印象派の油彩画を見て一日が始まります。印象派の画家は何人かいますがクロード・モネから始めたいと思います。何度見ても感動するクロード・モネの油絵から始めたいと思います。ClaudeMonet,は1840年11月14日に生まれ、1926年12月5日に亡くなりました。彼の絵を見ると私はしみじみと旧懐の情が湧いてきます。100年前のフランスの風景に強く魅了されるのです。昔の風景に魅了されるのです。そんな7枚の風景画をお送りいたします。出典は、https://ja.wikipedia.org/.../%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC...です。1番目の写真は『サン=ラザール駅』1877年です。(油彩、キャンバス、75×104)2番目の写真は『かささぎ(英語版)』1868-69年です。(油...「何度見ても感動するクロード・モネの油絵」
オハイイオ州に近いナイヤガラの滝の写真をお送り致します。写真の出典は下記です。、https://pixta.jp/.../%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%AC...「オハイイオ州に近いナイヤガラの滝の写真」
樹々が美しく黄葉しています。武蔵野公園です。先程その写真を撮ってきました。「樹々の黄葉」
「年老いて振り返る我が人生(4)仙台の愛宕中学の高橋貞明先生の思い出」
戦後すぐに日本の学校制度が新しく変りました。占領軍総司令部の命令です。仙台市には新制中学校が幾つも出来ました。私共が入学した第十中学校は昭和22年に発足しました。学校の名前はすぐ後に愛宕中学校と改称されました。我々はその二期生として昭和23年に入学したのです。その頃の新しい中学校の先生は本当に生徒や学生を愛していたのです。情熱的でした。自分の家に子供たちを招んでくれました。今でも忘れられません。特に忘れられないのが高橋貞明先生です。愛宕中学で我々のクラスの担任をしていた先生です。高橋先生は熱心に数学の授業をしていました。忘れられないのは踏査部の部活で一緒に仙台のすぐ西に聳える泉岳に登ったときの励ましの声です。喉がカラカラになったとき頒けてくれた生ぬるい水の美味しかったことです。この先生は踏査部やテニス部や...「年老いて振り返る我が人生(4)仙台の愛宕中学の高橋貞明先生の思い出」
「年老いて振り返る我が人生(3)悲惨でも楽しかった新制中学校の頃」
終戦直後の昭和23年に新制中学校に入学しました。仙台市立愛宕中学校です。新制中学校とはマッカーサー総司令官の命令で出来た新しい学校制度の中学校です。それまでの旧中学校は新制の高等学校になりました。昔の学校制度では小学校までが義務教育でしたが新制の学校制度では新制中学3年までが義務教育になりました。したがって全国に小学校の数と同じ中学校の校舎を急遽作らねばなりません。悲惨なことは校舎のない愛宕中学校に入学したことです。今日は校舎のない愛宕中学校での体験を書きたいと思います。教室も体育館もありません。そこで既存の荒町小学校の教室を借りたのです。荒町小学校は一クラスの人数を増加して教室をあけてくれたのです。しかし机と椅子はありません。間借りした我々は木の床に座ってミカン箱を机にして勉強したのです。木の床は酷いも...「年老いて振り返る我が人生(3)悲惨でも楽しかった新制中学校の頃」
昭和11年に生まれ昭和17年、かぞえで7歳の時小学校に入学し昭和23年に卒業しました。真珠湾攻撃が昭和16年12月8日でした。私の小学校の頃は戦前、戦後をまたいでいました。戦前の仙台の様子も終戦直後の仙台を覚えています。今日は戦前、戦後の小学生の頃のいろいろを書いてみたいと思います。当時新聞やラジオで知ったことと後に知ったことです。一番驚いたことは新聞やラジオで大々的に報道された日本航空隊の真珠湾攻撃のニュースでした。大勝利で日本中が大騒ぎしていました。今日は写真にしたがって真珠湾攻撃とそれに続く戦前、戦後のいろいろを書いてみたいと思います。1番目の写真は昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の写真です。アメリカの大平洋艦隊が大打撃を受け日本中が大騒ぎになりました。真珠湾攻撃の写真はその後何度も新聞や雑誌に掲載...「年老いて振り返る我が人生(2)戦前、戦後の小学生の頃」
私の邯鄲の夢も終わりに近づきました。そこで我が人生を振り返っていろいろなことを総括した連載記事を書くことにしました。私は昭和11年1月18日に父の秀弘と母のタエの子として仙台で生まれました。男だけの3人兄弟の長男でした。当時の父は東北帝国大学の教授で母は宮城県立女子専門学校の教師でした。父の実家は兵庫県の山里の曹洞宗のお寺で母の父は宮城県の宮戸島の小学校の校長をしていました。両親は仕事が忙しかったのか幼い頃遊んでもらった記憶があまりありません。家には2人の女中がいて私と2人の弟は女中に育てられました。女中に動物園に連れていかれたことが幼児の頃の楽しい思い出です。幼児の頃に住んでいたところは郊外の向山でした。広瀬川の南側の高台でした。ここで戦前の仙台や育った向山地区にある経ケ峰や愛宕山の写真をお送り致します...「年老いて振り返る我が人生(1)出生と幼児の頃」
ローマ法王のいるヴァチカンの風景の写真をお送り致します。写真はインターンットからお借りしました。「ローマ法王のいるヴァチカンの風景」
今日はインターネットを通してカトリック幟町教会のミサにあずかりました。今日のミサの風景写真をお送り致します。「広島のカトリック幟町教会の今日のミサの風景写真」
カトリック幟町教会の今日のミサの動画配信です。今日は年間第34日の主日です。今日のミサの動画配信は下記です。https://www.youtube.com/watch?v=SDyRcj23hQA第1朗読ダニエル書7章13~14節第2朗読ヨハネの黙示録1章5~8節福音朗読ヨハネによる福音書18章33b~37節カトリック幟町教会広島県広島市中区幟町4-42写真は長崎の大浦天主堂です。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)「カトリック幟町教会の今日のミサの動画配信」
仙台で生まれ育った私は何度も蔵王山の樹氷の間でスキーをしたことがあります。当時は仙山線で山形駅に行き、そこからバスで高湯温泉(現在の蔵王温泉)に上がりました。高湯温泉からはスキーを履いてドッコ沼の山小屋に逗留するのです。ドッコ沼の上の懺悔坂から地蔵岳までが樹氷地帯なのです。地蔵からの帰りは急坂の懺悔坂は怖いので、なだらかな大平コースを下ります。夕日を浴びた茜色の樹氷の光景が今でも私の網膜に焼き付いています。あれから茫々60年以上も経ちました。毎年、今頃になると懺悔坂の怖さと夕日の樹氷の姿を思い出します。今日は皆様に蔵王山の美しい樹氷の写真をお楽しみ頂きたいと思います。お送りする写真は「山形蔵王の樹氷写真集」、http://www.asahi-net.or.jp/~EH5W-KRD/zao/photo.ht...「蔵王山の美しい樹氷の写真」
甲斐の国の駒岳の麓に私の小屋があります。冬でも行きます。周囲の冬山の風景が良いのです。そこで今日は甲斐の国を囲む山々の寫眞をお送り致します。「甲斐の国を囲む山々の寫眞」
最近、東京も寒さが一段と厳しくなって来ました。毎年2月になると私が住んでいる小金井にも雪が降ります。私は北国の仙台に生まれ育ったので雪の坂道で橇遊びや竹スキーをしました。雪が懐かしいです。そこで小金井公園の雪景色の以前の写真をお送り致します。小金井公園が雪で埋もれています。1番目の写真は雪で覆われた「みんなの広場」の風景です。2番目の写真は3人の若者が雪達磨を作って遊んでいる風景です。写真を撮っている家内へ自分達はカナダから来てスノウマン造りのプロだと言ったそうです。3番目の写真は家内がジョギングしている風景です。毎年寒くなると戦前、戦後のころに過ごした仙台の冬の日々を思い出します。当時は日本中が貧しくて、ひもじくて冬の寒さが一層厳しく感じられたのものです。家の暖房といえば火鉢の小さな炭火と練炭コタツしか...「昔の日本の冬は貧しくて寒かった」
今日は温暖で散歩したくなる日和です。午前中に武蔵野公園に行きましたが午後も小金井公園まで散歩はしました。小金井公園の樹々の黄葉の風景写真をお送り致します。「今日の小金井公園の樹々の黄葉の風景」
風もなく温暖な秋晴れです。都立武蔵野公園の風景の写真をお送り致します。午前中に行って来ました。「今日の都立武蔵野公園の風景」
チベットは遥かな憧れの地です。その紅葉の風景はどうでしょう。インターネット上の写真から選んでチベットの紅葉の風景の写真をお送り致します。写真の出典は、https://jp.trip.com/travel-guide/attraction/lhasa/norbulingka-75937?rankingId=10070100003151&curr=JPY&locale=ja-JP&tagId=254015です。「遥かな秘境のチベットの紅葉の風景」
磐梯山は1888年(明治21年)7月15日に水蒸気爆発しました。山体崩壊を起こし発生した爆風と岩屑なだれにより北麓の5つの村の11集落が埋没する被害が出ました。そして477人の死者を出しました。この噴火は明治になってからの近代日本初の大災害です。現在は会津磐梯山と猪苗代湖はすっかり静かになり明治21年の大災害も忘れられています。私の大学時代の友人の星野君が大きなキャビン付きのヨットを猪苗代湖に係留していました。そのお陰で何度か猪苗代湖でセイリングを楽しみました。磐梯山が碧く輝いていました。懐かしい風景です。写真の出典は、https://imagenavi.jp/search/detail.asp?id=70273505です。「会津磐梯山と猪苗代湖の紅葉の写真」
今日ははじめに室生犀星の詩をお送り致します。「故郷」ふるさとは遠きにありて思ふものそして悲しくうたふものよしやうらぶれて異土の乞食となるとても帰るところにあるまじやこんな詩を思いながら我が故郷の山、蔵王山の宮城県側の紅葉の写真をお送りいたします。「蔵王山の紅葉の写真」を検索して選んだ写真です。「我が故郷の山、蔵王山の紅葉の写真」
昔は鎌倉や葉山の海によく遊びに行ったものです。時々葉山マリーナからヨットに乗って海へ出ました。年老いて懐かしく想うのは鎌倉の海とヨットのある風景です。そんな懐かしい風景を撮った昔の写真です。2番目の写真は鎌倉の海辺を家内が走っている光景です。「年老いて懐かしく想う鎌倉の海とヨットのある風景」
小生の住んでいる所は海からかなり内陸に入った場所にあります。50歳くらいから25年間、趣味にしていたヨットを随分前に止めましたが、時々、湘南の海やヨットの姿が懐かしく思い出します。そこである時三浦半島への小さな旅をしました。東名を横浜で出て、16号線を南下し、横横道路で三浦半島に入ります。佐島の手前で三崎のマグロを売っていたので、三崎港まで行かないで佐島湾に入りました。地魚料理の店で昼食を食べ、佐島マリーナに寄ってヨットの美しい姿の写真を撮りました。マリーナの中に整然と舫っている光景は良いものです。しかし漁港の沖に係留している姿も、何とも言えない風情があり美しいものです。そんな写真をお送りたします。なお佐島には地魚料理の専門店が3軒あり、その他に朝取れた地魚を売っている店が3軒あります。車載冷蔵庫を積んで...「懐かしい湘南の海の風景」
「泳ぎが上手だった祖父と宮戸島の「みのあんつあん」の思い出」
今日は泳ぎが上手だった祖父と宮戸島のことを書いてみたいと思います。松島湾の宮戸島のことです。母方の祖父は松島の東にある宮戸島の小学校の校長をしていました。私が生まれる前に病死したので一度も会ったことがありません。昭和の初めころのことです。情に篤い人でしたが酔うと松島から泳いで宮戸島まで帰ってきたそうです。泳ぎが上手い豪の者だったそうです。弟子たちを可愛がることで島では有名な校長だったそうです。そんな弟子の一人に「みのあんつあん」という小父さんがいました。恩義に思って私どもを何度も島に招んでくれました。島で泊る所は決まっています。祖父が下宿していた曹洞宗のお寺です。室浜から山を隔てた小高い場所にある質素なお寺です。祖父は本堂の客殿に寝ていたそうです。校長をしていた室浜の小学校で一杯の酒を飲んでほろ酔いで道の...「泳ぎが上手だった祖父と宮戸島の「みのあんつあん」の思い出」
日本の高山地帯は自然が厳しいですが、短い夏に咲く高山植物の花は美しくけなげです。美しい日本列島の高山帯に咲く花や、植物の「高山植物の花図鑑」を是非ご覧ください。写真の出典は、高山植物の花図鑑、http://kamakura.travel.coocan.jp/mountain.htmlです。1番目の写真はキキョウ科ホタルブクロ属のイワギキョウです。2番目の写真はツツジ科スノキ属のコケモモです。3番目の写真はキキョウ科ホタルブクロ属のヤマホタルブクロです。4番目の写真はキク科アキノキリンソウ属のミヤマアキノキリンソウです。「高山植物の花の写真の追加です」
山に咲く恐怖のイワガラミの花をご紹介します。ガクアジサイに似ていますが違う植物です。大木に絡みつくと数年でその木は枯れてしまいます。そして強風の日に突然ドサッと大木が倒れて家を潰してしまう恐ろしい蔦です。甲斐駒山麓の私の小屋の近所でも別荘が押しつぶされて大変なことになったことがありました。それ以来家内が怖がって小屋の近くでイワガラミが松の大木に絡みつく度に取り払っています。ある時、森の松の大木に白い花を咲かせていたのを家内が見つけて写真を撮りました。そして田中一村の奄美の杜の絵のようだと自慢します。それほどの写真ではありませんが珍しい花なのでお送りします。イワガラミ(岩絡み)について、「https://ja.wikipedia.org/wiki/イワガラミ」から抜粋しておきます。岩絡みの学名は、Schiz...「山に咲く恐怖のイワガラミの花」
野に咲くスミレを品種改良してパンジーにしたのです。なおスミレを品種改良したものにビオラもありますが割愛しました。1番目の写真は野生のスミレです。2番目の写真は品種改良したスミレです。3番目の写真はスミレを品種改良したパンジーです。4番目の写真はおろいろな色に改良したパンジーです。「野に咲くスミレを品種改良してパンジーにした」
よく小金井公園へ電動車椅子に乗って散歩に行きます。帰りに公園のそばにあったある園芸花店の前を通ります。通る度にシクラメンの花を思い出します。そしてその園芸花店のことをいろいろ思います。その園芸花店は「よこき花園」といいました。今日は花や植木をよく買った馴染み深い「よこき花園」の思い出を書いてみたいと思います。その店は18年程前に突然倒産して消えてしまったのです。常日頃なじんで、生活の一部になっていた園芸店です。ショックを受けました。その大きな園芸花店では数棟の広い温室に熱帯の花々をあふれるように育てていました。花の売り場も広くて2棟の店内には鉢植えの花が沢山売られています。店の前には梅、桜、藤、椿などの花咲く苗木、実を付けた蜜柑、柚子、柿、栗、葡萄等果実の苗木を売っていたのです。毎年、11月末になると見事...「シクラメンの花とある園芸花店の思い出」
東北地方の山々は秋深くなると紅葉が美しくなります。山全体が燦然と輝くのです。しかし東北の山々は遥かに遠く交通も不便です。東北の仙台は私の故郷ですが東北の山々の紅葉はなかなか見に行けません。しかし若い頃は酸ヶ湯温泉、八甲田山、会津の紅葉、会津の磐梯山、猪苗代湖などの紅葉は見に行きました。仙台を出て茫々60余年。東北の紅葉を見ておりません。今日はそんな懐かしい東北の山々の紅葉の写真をお送りいたします。始めは酸ヶ湯温泉と八甲田山の紅葉で、続いて会津の梯山、猪苗代湖の紅葉の写真をお送りいたします。酸ヶ湯温泉は懐かしい曾遊の地です。東北の山奥にある実にひなびた温泉場です。近所の農民が湯治に来る素朴な宿があるだけです。写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?Se...「写真を見て懐かしむ酸ヶ湯温泉、八甲田山、会津の紅葉」
日本の秋は気温が丁度良く空気が澄んでいて実に気持ちの良い季節です。その上紅葉が野山を飾り見事になります。精神が高揚する季節です。今日はそんな紅葉の風景写真をまずお送り致します。十和田湖と奥入瀬渓流の紅葉です。十和田湖の写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRF.aspx?と、SearchKey=11076032925です。紅葉の奥入瀬渓流の写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRF.aspx?SearchKey=10211000216です。1番目の写真は紅葉の十和田湖と湖上を行く観光船です。観光船から眺めた回りの山々が美しい曲線を描ております。2番目の写真は観光船のいない静かな湖です。十和田湖周辺は静かな森になっていて小鳥...「写真を見て懐かしむ紅葉の十和田湖と奥入瀬渓流」
少年の頃から何故か高原にある湖に憧れていました。白樺の樹々に囲まれた静かな湖というイメージが心に一生焼き付いているのです。そんな風景を求めて旅に出ると必ずのように湖を訪れます。仕事を止めた後は北海道に魅せられてしまい何度も行きました。特に北海道には美しい湖が沢山あります。訪れたところを書くと次のようなります。洞爺湖、摩周湖、知床五湖、オンネトー、阿寒湖、支笏湖、屈斜路湖、サロマ湖、網走湖、大沼、風蓮湖、塘路湖など。北国のこれらの湖の周囲はもう美しい紅葉の風景が広がっていることでしょう。写真を見て遥かに懐かしいいのは摩周湖、オンネトー、阿寒湖などの紅葉風景です。今日は北海道の紅葉の風景の写真をお送りします。7枚の写真は、http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyamaにあります。...「写真を見て懐かしむ摩周湖、オンネトー、阿寒湖などの紅葉」
間もなく90歳代に手が届きそうになった私は車の免許を返上しました、それまでは車でいろいろな所へ旅をしたのものです。今日は八ヶ岳山麓の小屋への小さな旅の思い出をご紹介したいと思います。山梨県北杜市の山林の中の小屋への旅です。その小屋は甲斐駒岳の足元の深い、深い森の中にあります。人のいない淋しい雑木林の中の小屋への旅はチョッとした冒険の旅でもあります。そして俗界を離れた桃源郷への旅のような感じもいたします。それでは皆様を深い山林の中への小さな旅を写真にしたがってご案内いたしましょう。1番目の写真は北杜市武川町の山道の入り口に広がる稲田の風景です。ブランド米の武川米(農林48号)を作っています。寿司屋さんがよく使う米です。2番目の写真は雑木林の中の小屋へ登って行く悪路です。ゆっくり車を走らせないと路面に出ている...「写真を見て懐かしむ八ヶ岳山麓の小屋への小さな旅」
今日の小金井公園の晩秋の風景です。樹々が見事に黄葉してました。足場に季節がめぐります。撮って来ました写真をお送り致します。「今日の小金井公園の晩秋の風景」
神津牧場は日本で一番古い洋式の牧場です。120年以上の歴史があります。その写真をお送り致します。「妻が疎開した山里の下仁田町の隣にある神津牧場の写真」
私は見知らぬ町へ行ったことがあります。群馬県の山の中の淋しい下仁田町です。妻が1945年に疎開した山里の下仁田町です。私は深く溜息をつき、「はるか遠くに来たもんだ!]と独りつぶやきました。当時は高速道路も無く、遠路はるばる群馬県の下仁田町に着いた時のことでした。そこは皆様も多分ご存知ない遠い、山に囲まれた町で名物は葱とこんにゃく、妙義山麓の小さな町です。今日は下仁田町をご紹介し、そして下仁田ネギの話を書きたいと思います。下仁田町は群馬県の西端の妙義山の麓にあります。水田が無く、小麦やコンニャク、ネギなどの野菜しか採れない山郷です。しかし、養蚕業や織物産業もありかなり裕福です。1番目の写真は下仁田町から見た妙義山の主峰です。この下仁田町へ終戦の直前に家内は鎌倉から疎開しました。下仁田町での生活は家内にとって...「妻が疎開した山里の下仁田町の晩秋とネギの話」
季節は足早に変わります。2日見ぬ間に樹々が見事に黄葉しました。そんな風景の写真をお送り致します。「晩秋の都立武蔵野公園の樹々の黄葉」
今日は東京の四谷のイグナチオ教会のミサにインターネットを通うしてあずかりました。今日のミサの風景写真をお送り致します。「東京の四谷のイグナチオ教会の今日のミサの風景写真」
ドイツの教会はカトリックとエバンゲリッシュで多少違います。エバンゲリッシュとはプロテスタント教会のことです。ドイツのカトリック教会の写真を示します。壮大なケルンの教会等が有名ですが村の小さな教会も紹介します。1番目の写真はローテンブルクのカトリック教会です。私が1969年秋に4ケ月間通った教会です。2番目の写真はウルムの教会です。ドイツの都会にある典型的な教会です。3番目の写真はドイツの都会にある典型的な教会の内部にあるパイプオルガンです。4番目の写真はヴィースの巡礼教会です。南ドイツのどかな田舎の牧場の中にポツリと建つ教会です。南ドイツのコロマン教会です。山並みを背にし草原に立っています。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)「ドイツのカトリック教会の写真」
貫井弁天神社は昔の貫井村の神社でした。自宅から3Kmほど離れています。静かな場所です。良い気持ちで散歩してきました。貫井弁天神社の今日の写真をお送り致します。「午後の散歩は貫井弁天神社まで」
冬になると街々には大規模な光のページェントが輝きだします。上の写真は有名な仙台市の定禅寺通りの光のページェントです。東京でもあちこちにこのような輝きが楽しめます。特に立川の昭和記念公園の夜の光のページエントは夜9時まで毎晩楽しむことが出来ます。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)「冬の故郷、仙台の光のピージェンドの写真」
最近寒くなってきて初冬のような陽気です。冬になるといろいろ思い出す風景が1あります。それらは私の心にある風物詩です。柿の枝に取り残した柿の実、大根干しの風景、枯れた茅の束、そして街の夜のイルミネーションの風景が思い出されます。今日はそんな懐かしい初冬の風物詩の写真をお送り致します。写真の出典は、http://www.uchinome.jp/nature/land/2009/land36.htmlです。1番目の写真は取り残した渋柿です。後で干し柿にします。昔は甘いものがないので干し柿の甘さは格別でした。今は格好の鳥のエサでしょうか。でも、鳥たちも木で真っ赤に熟した柿よりも、家の軒先にある干し柿に来ます。2番目の写真は大根干しです。以前は農家の周辺にずらりと並んでいるダイコンがありました。農家ではどこの家でも...「懐かしい初冬の風物詩」
越前海岸の水仙は「越前水仙」のブランド名で知られています。寒い冬と日本海の荒波に耐えて可憐に咲くその様子が、県民性と一致することから、福井県の花にも指定されていて、同時に越前町の花でもあります。https://www.town-echizen.jp/spot/spot01Detail.php?id=262「冬の花(10)福井県の越前海岸水仙郷の写真」
もうすぐ師走になります。年をとると月日の流れが速くなります。毎年、12月になると伊豆の爪木崎から15年ほど前に買って来た日本スイセンが庭に咲き出します。すると伊豆半島の日本スイセンの群生地の風景が目の前に浮かんで来ます。十数年前から何度も通った群生地なので、その美しい風景が私の網膜に焼き付いているのです。伊豆半島の先端の爪木崎(ツメキサキ)の海岸には昔から冬でも自然のスイセンが花を咲いていたそうです。日本スイセンの花弁は一重で中の盃が黄色です。都会の花屋さんでは球根を売っていないスイセンです。それが海岸の丘にえんえんと咲いているのです。2009年の12月15日にその原種の球根を10個買って来ました。売り場の回りを見まわすと隣の畑に菜の花も満開でした。それ以来、毎年12月になると花を咲かせています。そこで今...「冬の花(9)伊豆爪木崎の水仙の群生地」
冬の花(8)サイネリアの花の写真をお送りいたします。サイネリアは11月~翌年5月にかけて花を咲かせるキク科ペリカリス属の植物で、華やかな花姿と花色が美しく、寒い冬のお庭やベランダ、玄関先を色鮮やかに彩ってくれます。秋から翌春まで楽しめるので、鉢植えや地植えで楽しむガーデニングの花として定番の花の一つです。オレンジ以外のほとんどの花色があり、花びらの中央から先にかけてグラデーションカラーになっている花色や花模様など種類も豊富です。写真の出典は、https://www.suntory.co.jp/flower/asuhana/70.htmlです。「冬の花(8)サイネリアの花の写真」
冬の花(7)クリスマスローズの花の写真をお送りいたします。写真は「クリスマスローズの花の写真」を検索して、インターネットに出ている多数の写真から選びました。クリスマスローズは、冬の時期に花を咲かせる数少ないお花です。ロマンチックな名前と、かわいらしい花びらから冬の花束にもよく使われています。クリスマスローズには、『追憶』『私を忘れないで』など、ちょっとセンチメンタルな気持ちにさせる花言葉がつけられています。クリスマスローズの花言葉の多くは、中世のヨーロッパで騎士が戦場に行くとき、自分のことを忘れないでほしいとい願いをこめて恋人にクリスマスローズを贈っていたことに由来しています。「冬の花(7)クリスマスローズの花の写真」
以前に自分の家の庭にも咲いていました。懐かしい花です。写真は「ツワブキの花の写真」を検索して、インターネットに出ている多数の写真から選びました。ツワブキはキク科ツワブキ属に属する常緑多年草です。海岸近くの岩場などに生え、初冬に黄色い花を咲かせます。日本では太平洋側では福島県から、日本海側では石川県から西の地域に生えています。四国や九州及び南西諸島にもにも分布しています。「冬の花(6)ツワブキの花の写真」
冬の花(5)ビオラの花の写真をお送りいたします。写真は「ビオラの花の写真」を検索して、インターネットに出ている多数の写真から選びました。パンジーとビオラはどちらもスミレ科スミレ属の草花で、学術的には同じ花です。それゆえに明白な違いはありません。園芸界において一般的には、花の大きいものをパンジー、そして小さいものをビオラと区別しています。大きさは約5cm以上の花を咲かせるものをパンジーと呼びます。「冬の花(5)ビオラの花の写真」
冬の花屋さんで華やかに咲いているのはパンジーです。パンジーは3色スミレから作れたのです。1800年代に北欧で、アマチュアの園芸家が大きく鮮やかな群性のスミレを作るために、野生のサンシキスミレと野生スミレビオラ・ルテア、さらに近東のスミレビオラ・アルタイカを交配して生まれました。1835年までには400品種が存在しており、1841年までには、パンジーは観賞植物として親しまれるようになったのです。色彩ゆたかなパンジーの花の写真をお送りいたします。「冬の花(4)色鮮やかなパンジーの花の写真」
サザンカ(山茶花)は椿の仲間です。ツバキと共に、代表的な冬から早春の花です。自生種は、日本の本州山口県、四国南西部から九州中南部、南西諸島(屋久島から西表島)などに生えています。日本国外では台湾、中国、インドネシアなどに分布しています。山地に自生するほか人手によって植栽されて庭でもよく見られる冬の花です。「冬の花(3)サザンカの花の写真」
冬の花の(2)としてシクラメン花の写真をお送りいたします。写真は「シクラメン花の写真」を検索して、インターネットに出ている多数の写真から選びました。「冬の花(2)シクラメン花の写真」
関東地方は冬でも温暖です。海には暖かい黒潮が流れ西に連らなる山並みがシベリアからの冷たい風を遮ります。ですから冬でも花々が美しく咲きます。今日は近所に咲く花々をご紹介致します。冬の花の(1)として蝋梅の花の写真をお送りいたします。写真は「ロウバイの花の写真」を検索して、インターネットに出ている多数の写真から選びました。ここ2,3日は曇りで寒い日が続いていますが、いよいよ冬到来なのでしょうか。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)「冬の花(1)ロウバイの花の写真」
ついに南米原産の皇帝ダリアが咲き出しました。「今日の小金井公園の風景」
「老境で思い出すのは空襲で全国の市町村が焼け野原になったこと」
老境で思い出すのは空襲で全国200市町村が焼け野原になったことです。アメリカ空軍のB29の空襲で全国200市町村が焼け野原になったのです。まず東京大空襲の写真をお送りいたします。東京大空襲は1945年(昭和20年)3月10日のアメリカ空軍による夜間空襲でした。死者数が10万人以上で、罹災者は100万人を超えた大空襲だったのです。その写真をお送り致します。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2です。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/28/5216067dc5cbd84b3e4b7732949c7120.jpg"alt="...「老境で思い出すのは空襲で全国の市町村が焼け野原になったこと」
近所に学芸大学があります。その敷地の一角に農村の風景があります。学生に日本の農業を教えるために使うのでしょうか。先程、家内が散歩しながら写真を撮って来ました。その写真をお送り致します。「近所にある農村の風景の写真」
近所に学芸大学があります。その敷地の一角に農村の風景があります。学生に日本の農業を教えるために使うのでしょうか。先程、家内が散歩しながら写真を撮って来ました。その写真をお送り致します。「近所にある農村の風景の写真」
馬頭観音とは?ヒンドゥー教の最高神・ビシュヌが馬の頭に変化して敵を倒したとされる神話を起源とされています。他の観音様は女性的な美しい表情であることが多いですが、馬頭観音は憤怒の形相で表され、馬頭明王と呼ばれることもあります。写真の出典は、https://jp.123rf.com/photo_35062028_2014-%E5%B9%B4-2-%E6...です。「インドの馬頭観音の写真」
今日は日本の道端にある信仰の対象について書いてみようと思います。道祖神、馬頭観音などについてです。(1)道祖神道祖神は村の守り神として村の中心、道の辻、三叉路に立っています。村人たちが五穀豊穣、無病息災、子孫繁栄を祈願するもっとも身近な神です。具体的な男女像です。信州の安曇地方の独特の信仰です。ローカル文化です。1番目の写真は長野県の安曇野にある道祖神です。さて「道祖神-Wikipedia」によると、道祖神は、路傍の神で村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されているのです。中国では紀元前から祀られていた道の神「道祖」と、日本古来の邪悪をさえぎる「みちの神」が融合したものといわれています。全国的に広い分布をしていますが出雲神話の故郷である島根県にはありません。甲信地方や関東に多くあります...「日本人の信仰の変化(4)道祖伸と馬頭観音の写真」
いろいろな宗教が日本に入ってくると時代、時代の文化的土壌によって変化するのが当然です。日本に中国から入ってきた仏教の諸宗派も、そして道教も時代に流れに従って変わって行ったのです。そこで今日は中国の道教の庚申信仰が日本に伝承された後どのように変化して来たかを説明いたします。庚申信仰の時代による変化をいろいろ調べてみましたところ、実に精緻な、そして学問的な記述を発見しました。それは、戸原のトップページ:http://y-tohara.com/でした。それは素晴らしい研究報告なので感動いたしました。そこで以下にその一部をそのまま転載させて戴きました。=======庚申信仰の時代による変遷==========-庚申信仰とは:今、“庚申(コウシン)信仰”とか“庚申さん”といっても知る人は少ないであろう。“庚申”とは...「日本人の信仰の変化(3)道教の庚申信仰の変化」
庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことです。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いそうです。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれています。その信仰の内容は奇妙なものです。不思議な迷信と考えることも出来ます。人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜に寝ている間に抜け出すのです。そして抜け出したその虫が天帝にその人間の悪事を報告しに行くのです。それを避けるため、庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習があったのです。庚申塔には、庚申の本尊の青面金剛が彫られています。そしてその足...「日本人の信仰の変化(2)道教の庚申信仰」
日本民族が長い間信仰して来たある宗教が忘れられようとしています。消えてなくなるのです。それは宗教の興亡の実例として非常に興味深い文化現象です。今日は中國の道教から日本へ導入された妙見信仰の様子をご紹介致したいと思います。妙見信仰は北極星を宇宙を司る神として崇める宗教です。仏教とはまったく異質の道教起源の信仰です。妙見信仰の明快な説明は「戸原氏のホームページ」(http://y-tohara.com/index.html)にあります。それによると妙見信仰とは道教の北極星(北辰)と北斗七星に対する信仰です。妙見信仰は、インドに発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものです。日本では仏教と混淆した北辰妙見菩薩に対する信仰として隆盛しました。一方、神道と混淆したの...「日本人の信仰の変化(1)北極星を崇める妙見信仰」
埼玉県に行き武蔵野の広い畑と雑木林の写真を撮って来ました。平凡な写真ですがお送りいたします。「武蔵野のクヌギやコナラの雑木林の写真」
すっかり秋めいてきた阿寒湖は朝晩の冷え込みによりカツラの黄葉と甘~い香りがします。写真の出典は、https://www.npfj.or.jp/akanko/blog/25345/です。日本の北海道、本州、四国、九州の各地[3]、さらに中国、朝鮮半島に分布する。街路樹や公園樹として植えられ、アメリカなどでも植栽されている。日本で自生するものはブナ林域などの冷温帯の渓流などに多く見られる。水際に多く自生し、湿地を好む典型的な樹種で、日当たりの良い乾いた尾根ではほとんど見られない。カツラの大木の下には、必ず水脈があるといわれる。「北海道の桂の木の写真」
神代植物公園の桂の木の林の風景写真をお送り致します。「神代植物公園の桂の木の林の風景」
中年の頃に雑木林の広がる甲斐駒岳の麓を散策したことがあります。ある晩秋の日にスウェーデンの学生さんと家内の3人で、黄葉した大きなカツラの木が一面に生えている林を通り抜けました。甘い香りがあたりにに漂い、それが晩秋の山の冷気とあいまって何故かとてもロマンチックな気分になりました。それ以来、桂の木の林のある場所を数ケ所覚えていて晩秋になると行く習慣がついてしまいました。ある時は四季折々によく行く裏高尾の日影沢の大きな桂の林の黄葉を見に行きました。残念ながら桂の木はみな落葉してしまっています。しかし落葉した桂の葉から例の砂糖菓子のような甘い芳香が一面に漂っています。その芳香と日影沢の清流の水音とが相まって、香りと音楽の競演のような世界を作っていました。音楽は強いて言えばチャイコスキーのヴァオリン協奏曲でしょうか...「思い出多い桂の林と庭に植えた桂の木」
秋も深まりました。紅葉も黄葉も色濃くなっております。まさに晩秋の色です。青空のもと爽快な散歩を楽しんで来ました。撮って来ました写真をお送り致します。「今日の散歩は都立武蔵野公園まで」
自分が貧乏だから持っているお金だけで出来る趣味を楽しむ。これが引退後の人生を輝かしい日々に変える為の鉄則と確信する境地に至りました。まず自分が貧乏であると、しっかり認識します。しかし、お金持ちになろうと考えてはいけません。創意工夫を重ねて、あるお金だけで賢い生活をすることです。この時、一つや二つの趣味を持ち、その為の最小の出費を惜しんではいけません。何度も書きましたが、別荘と「山の中の小屋」との出費の違いは大きいものです。建造費が10対1位違います。別荘地と山林地とは値段も違う上、不動産税が雲泥の差です。しかし豊かな想像力と自然へ対する憧憬が強ければ同じように楽しめます。ロマンチシズムを持っていると、より一層豊かに趣味を楽しめます。十畳位の小屋を50年間、増築もせず通っています。1番目の写真は私の山林の中...「貧乏でも趣味を楽しむ、すると人生が輝き出す」
自分が貧乏で不幸だと思いたがる人々が多いものです。そして他人の貧乏物語へ異常なほど興味を持つ人も多いのです。ですから、昔から所謂、貧乏物語はよく売れるといいます。林芙美子の貧乏物語は悲しくて美しい文学作品です。河上肇さんという経済学者は「貧乏物語」という本を出し、世の紙価を高めました。戦後、日本中が貧乏だった時代に教育を受けました。学校の先生は毎日のように、「お金が無くて貧乏なことは恥ずかしくないのです。貧乏に負けて卑しい心になることが恥ずかしいのです」と教え込みました。ところが、成人して女性の話を聞くと、「貧乏は恥ずかしい」とか「貧乏は嫌いです」と公言します。吃驚しました。その上、自分が貧乏であることを隠そうとします。貧乏を恥ずかしいと思いこみ、それを隠そうとする心には感心できません。貧乏の奥にある素晴...「私の貧乏物語、貧乏の功罪とは?」
今日は初冬のような寒い日ですが晴でした。風が冷たく寒い散歩でした。冬が近いのです。撮って来ました写真をお送り致します。「今日の散歩は武蔵野公園まで」
カトリック葛飾教会の今日のミサの風景写真です。インターネット上を通してカトリック葛飾教会のミサにあずかりました。カトリック葛飾教会の今日のミサの風景写真をお送り致します。〒134-0083東京都江戸川区中葛西1-10-15TEL:03-3689-0014FAX:03-5696-4449「カトリック葛飾教会の今日のミサの風景写真」
人間は自由で平等だと言います。嘘です。貧乏な家庭に生まれた人は始めから困難な状況にあります。始めからハンディキャップを背負っているのです。人間の現実には不平等が付きまとっているのです。しかし私は貧乏な家庭に生まれた人から学んだことが2つあります。一つは不撓不屈の精神の重要さと、二つめは常に感謝の気持を持つ重要さです。貧乏な家庭に生まれた人には2種類の人がいます。上に書いた2つの精神を持てる人と持てない人です。持てる人は成功者になり持てない人は貧乏に負けて不幸な一生を送ります。貧乏な家庭に生まれたために不幸になります。私はこの事実をある夜間高校の教師をした時に生徒から学びました。その夜間高校は東京の海に近い下町にあります。30人位の生徒がいましたが皆働いていました。中小企業で過酷な作業をした後で夜の学校に来...「貧乏な家庭に生まれた不幸と夜間学校での体験」
晴天でしたが風が冷たく初冬のようでした。でも気分爽快です。帰りにスーパーマーケットに寄り夕食の材料を買って来ました。暖かい湯豆腐です。晩秋の小金井公園の風景写真をお送り致します。「晩秋の小金井公園の風景」
富永親徳の絵画展に行ってきました。小金井市の美術館、はけの森美術館での富永親徳の絵画展に行ってきました。富永親徳は1896年生まれ1964年没の熊本出身の画家でした。23歳で東京美術学校の入学しました。台湾や東京で油彩画を描きつずけました。その絵を1点、1点丁寧に見きました。楽しい絵です。どれも静かな風景です。裸婦の絵も静かです。富永親徳は絵を描くのが嬉しいのです。そんな印象でした。「富永親徳の絵画展に行ってきました」
社会の大きな変革は1990年頃からの小型コンピューターとインターネットの普及で起きました。しかし時代がどんなに変わっても絶対に変わらぬものがあるのです。絶対に変わらぬものは愛の重要性です。男女の愛、夫婦の愛、兄弟姉妹の愛、親子の愛、友人たちへの愛、郷土への愛、祖国への愛、宗教へ対する愛などなど。沢山の愛があるのです。愛の重要性は時代がどんなに変わっても絶対に変わらぬものなのです。今日は一番抽象的で分かり難い仏教とのかかわりについて書きたいと思います。かかわりとは仏教へ対する愛です。日本人は宗教を信じていない人も仏教の影響を逃れることが出来ません。仏教の空気の中に生きているからです。しかし日本の仏教は教祖であるお釈迦さまの教えとは違います。下にその違いを示します。(1)釈迦は自分が死んだら墓を作らず、遺骨は...「時代がどんなに変わっても絶対に変わらぬもの」
冬の北海道の風景の寫眞をお送り致します。写真の出典は、【北海道】冬の絶景21選、https://rurubu.jp/andmore/article/18225です。「冬の北海道の風景」
昨夜、NHKテレビの日曜美術館で版画家で絵本作家の手島圭三郎さんが詳しく紹介されていました。私はその版画の数々に魂が奪われました。北海道の森に棲むハクチョウ、シマフクロウやキタキツネ、ヒグマ、エゾシカ、リスの版画です。何よりも版画が美しいのです。力強くてしかも繊細です。美しいだけでなく手島圭三郎さんの哲学や自然崇拝の宗教観が感じられるのです。下絵を大きなベニヤ板に貼り付けると彫刻刀でグイグイ彫っていきます。北の大地のエネルギーが乗り移ったかのような力強さと、生き物たち・自然界に対する愛情と畏敬の念を込めて。色彩を乗せる時も迷いは全く感じられません。北海道の大地に同化してしまったかのような色使いです。感動しました。今日は版画家で絵本作家の手島圭三郎さんのことをあらためてご紹介致したいと思います。まず手島圭三...「北の息吹を刻む手島圭三郎の版画芸術と絵本の世界」
懐かしいオハイオ州などアメリカの紅葉の写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.fujingaho.jp/.../beautiful-fall-pictures.../です。1番目の写真はオハイオ州のクヤホガバレー国立公園です。2番目の写真はレークプラシッド/アメリカ(ニューヨーク州)です。3番目の写真はニューヨークのセントラルパークの紅葉です。4番目の写真はキャッスル・バレー/アメリカ(ユタ州)です。「昔住んでいたオハイオ州などアメリカの紅葉」
先程、上高地の去年の紅葉の写真と現在の紅葉の写真を掲載致しました。二つを見比べるとよく似ているのです。「年々歳々紅葉相似たり歳々年々人同じからず」という感慨を覚えます。嗚呼!「年々歳々紅葉相似たり歳々年々人同じからず」
高地の紅葉は現在見頃です。その風景写真をお送り致します。現在の紅葉の写真の出典は、https://yamahack.com/2178です。「上高地の紅葉は現在見頃です」
平凡な私の人生にもいろいろなことがありました。歳老いて思い出すこともいろいろです。しかし学生のころ北アルプスの燕、大天井、槍、穂高と縦走し、疲れ切った状態で初めて見た上高地ほど感銘を受けた場所はありません。それは鮮明な思い出としてよく蘇ってきます。昨日も小金井公園の樹々の紅葉見ながら上高地の紅葉風景を想像してました。上高地は遥かに遠く、年老いた私にはもう行けません。遥かに想うだけです。そこで今日は上高地の紅葉風景をご紹介したいと思います。明神池、河童橋、田代池、大正池、そして焼岳の紅葉風景の写真をお送りいたします。そして何度か泊った上高地帝国ホテルの思い出を書きたいと思います。1番目の写真は明神池の紅葉です。1番目から4番目の写真の出典は、「上高地の紅葉、2020年」、https://yamahack.c...「遥かな上高地、河童橋、大正池の紅葉、そして帝国ホテル」
紅葉の美しいところは、「日本全国おすすめの紅葉絶景スポット15選」、https://www.nta.co.jp/media/tripa/articles/F0mdTに掲載されています。4つの例の写真をお送り致します。1番目の写真は福島県の磐梯吾妻スカイラインです。2番目の写真は北海道の大雪山です。3番目の写真は山梨県の猿橋です。4番目の写真は広島県の宮島・紅葉谷公園です。「紅葉の美しいところ」
ドイツの紅葉の風景の写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.learning-german.work/entry/autumn-germany-2021です。「ドイツの紅葉の風景」
数年前に小さな旅をしました。その折に八ヶ岳の西側の山麓にある日本一美しい村、原村へ行ってみました。「日本一美しい村」という宣伝につられて行ったのです。確かに美しい村でした。原村の道からは東に八ヶ岳と西に北アルプスの山稜がパノラマのように見える風景絶佳の村なのです。しかしこの程度の場所は八ヶ岳の東側にいくらでもありますNPO法人「日本で最も美しい村」連合で原村を「日本で最も美しい村」の一つに選んでいるのです。日本一かどうかは分かりませんが日本には自称日本一の美しい村が63の町村・地域があるのです。「日本で最も美しい村」連合に加盟しているこれらの63の町村・地域は皆日本一だと自称して良いことになっているのです。重要なことはそこに住んでいる人々が自分の郷土を日本一美しいいと信じていることです。そうしてその美観を...「日本で一番美しい村をご紹介」
広瀬川は仙台市のシンボルとして親しまれている川です。『青葉城恋唄』(歌/さとう宗幸)にも唄われています。中流では仙台市の西縁から南縁を経て東へ流れています。両岸には自然が多く残され、初夏の鮎釣り、秋の芋煮会など市民がレジャーを行うことも多い川です。仙台七夕花火祭や広瀬川灯籠流しなど祭りの会場にもなっています。上流には紅葉の名所の作並温泉があります。宮城県と山形県の境にある関山峠付近が源になっています。全長は45Kmの一級河川です。江戸時代に伊達氏が居城にした仙台城は、広瀬川中流の右岸にある青葉山に築かれ、川を第一線の守りにしていました。幕末に広瀬川中流域で亜炭が発見されて以降、家庭で亜炭が広く使われてきました。しかし亜炭採掘は1950年代に終わりました。江戸時代には、広瀬川は上流から流れる場所の地名をとっ...「仙台の広瀬川」
美しい千曲川の写真をお送り致します。写真の出典は、https://stock.adobe.com/jp/search?k=%E5%8D%83%E6%9B%B2%E5%B7%9Dです。「美しい千曲川の写真」
岩手県を流れる北上川の写真です。岩手町の弓弭の泉(ゆはずのいずみ)に源を発し、盛岡市、花巻市、北上市、奥州市、一関市などを通って北から南へと水量豊かに滔々と流れる大きな川です。石巻市で太平洋へ流れています。この北上川が流れている岩手県は宮沢賢治や石川啄木の故郷です。彼等の関連のある土地の盛岡や花巻も私は何度も訪問しました。小岩井牧場にも行きました。いつも妻が一緒でした。岩手への旅は思い出深い旅でした。あれから10年以上たちましたが岩手の風景は鮮明に心に残っております。今日は北上川の写真をご紹介致します。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)北上川の写真をインターネットからお借りお送りします。「大好きな北上川の写真」
静かな池や湖を見るとつい長い間眺めるようになりました。海の碧さも心が吸い込まれます。じっとたたずんでいると他人はボケた老人が気の抜けた顔をして立っていると思うでしょう。静かな水面には樹木が写っていたり雲が映っています。下に日野市の仲田の森の公園にある池の写真をしめします。1番目の写真は日野市の仲田の森の公園にある池です。こんなにも小さな池でも何故か魅力的です。時々は少し足を延ばして相模湖まで行きます。光り輝く湖面を眺めるのです。下に相模湖の写真を示します。2番目の写真は相模湖です。太陽に輝いていることは宇宙にある一つの星からの陽に輝いていることになります。宇宙には太陽のように燃え盛る星が無数にあるのです。下は茅ヶ崎の海の写真です。碧い海原が広がっています。妻が海辺wくぉ走っています。私は海の深い藍さは宇宙...「老境の幸せは静かに輝く水面を眺め単純に生きること」
趣味はいろいろありました。感動的だったのは20年間ほど続けたヨットの趣味でした、よく帆走したのは霞ヶ浦と湘南の海でした。湘南の海では2つのマリーナでヨットを習いました。葉山マリーナと江の島マリーナです。懐かしいのでその写真をお送り致します。はじめの2枚の写真は葉山マリーナで後の2枚は江の島マリーナの風景写真です。写真はインターネットからお借りしました。「懐かしい葉山マリーナと江の島マリーナの風景写真」
「息をのむほど美しい!世界の紅葉スポット22選」は、https://www.fujingaho.jp/.../beautiful-fall-pictures.../に掲載されています。写真はコペンハーゲンのヨットハーバーの紅葉です。「息をのむほど美しい!世界の紅葉スポット22選」
数年前に奥多摩の御岳峡と鳩ノ巣峡の紅葉を撮りに行きました。そこで御岳峡の紅葉の写真をお送りいたします。御岳峡は多摩川の上流で寒い筈ですが紅葉は始まったばかりで色が鮮やかになっていません。もう1週間後に美しくなるのでしょう。写真をお楽しみ頂けたら嬉しいです。「東京の裏庭、奥多摩の御岳峡の紅葉」
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鬱蒼とした樹々の写真を撮ってきました。近所の学芸大学の構内です。撮ってきた写真をお送り致します。「鬱蒼と生えている樹木の写真」
日本4大アヤメ園とは、広大な敷地に多数の品種が植えられ、特に大規模なあやめ園として知られる4つの場所を指します。具体的には、山形県長井あやめ公園、茨城県水郷潮来あやめ園、千葉県水郷佐原あやめパーク、そして新潟県新発田市五十公野公園あやめ園です。1,長井あやめ公園(山形県長井市):120種以上のあやめが植えられ、毎年6月には「長井あやめまつり」が開催されます。2,水郷潮来あやめ園(茨城県潮来市):150種類以上のあやめが咲き誇り、6月には「水郷潮来あやめまつり」が開催され、花菖蒲にちなんだイベントも行われます。3,水郷佐原あやめパーク(千葉県香取市):300品種以上のあやめが植えられ、見頃には一面の花菖蒲が広がります。4,五十公野公園あやめ園(新潟県新発田市):300品種、60万本のあやめが咲き競う...「日本の4大アヤメ園」
一面にアヤメが咲いている場所はもう一つ東村山市にもあります。北山公園のアヤメです。撮ってきた写真をお送り致します。撮影は2013年6月6日でした。「東村山市北山公園のアヤメの花々」
毎年、茨城県の潮来では『潮来あやめ祭り』を開催しています。それは色とりどりのアヤメが一面に咲く華やかな花まつりです。今年も潮来のあやめ祭りの季節になりました。この『潮来あやめ祭り』は以前から関東地方では有名でした。そして昭和30年に美空ひばりさんの「娘船頭さん」のロケが水郷潮来で行われたのがきっかけとなり、その名は全国的にも知られるようになったのです。美しい娘さんが船頭になった小さな船に観光客が乗り、水郷を巡りながらアヤメの花を楽しむのです。何かロマンチックで美しい風景です。私も長い間、潮来につながる霞ヶ浦でヨットをしていたので一度行って見たいと思っていました。そこでついに2008年の6月17日に行ったのです。それでは写真に従ってお話を進めて行きたいと思います。1番目の写真は妻をヨットに乗せ、霞ヶ浦の沖に...「今年も潮来のあやめ祭りの季節になりました」
庭の花の写真です。10年以上前に潮来から買って来たアヤメが今年も咲きました。他の花の写真も含めてお送り致します。「庭の花の写真」
今日の小金井公園の風景です。小金井公園は東西に2kmあります。今日行った場所は西の端の部分です。撮ってきた写真をお送り致します。「今日の小金井公園の風景」
毎年、お盆のころになると日本のあちこちで灯篭流しや精霊流しがあります。この世を去ってしまった家族や友人の魂を弔うのです。あの世で平安に暮らしていることを祈るのです。そして故人があの世から暗い水面をゆらゆら揺れて流れてていく灯を見て慰められるのです。それは日本の夏の美しい風物詩です。そんな光景を下の写真で示します。真は灯篭流しと精霊流しの画像検索によって転載させて頂きました。1番目の写真は長崎と佐賀県の一部で作られる精霊船を町中を引いて海辺に運んでいる様子です。2番目の写真は佐世保市の灯篭流しです。3番目の写真は曹洞宗本山、永平寺の灯篭流しです。4番目の写真は灯篭流しと精霊流しの画像検索によって転載させて頂きました。それはそれとして、毎年、実際に灯篭流しをしている人はそんなに多くありません。テレビや新聞で灯...「灯篭流し、精霊流しは夏の美しい風物詩」
我が故郷、仙台の広瀬川の灯篭流しは江戸時代から引き続き灯ろう流しは行われ、昭和に入ると花火大会も同時に開催されるなど、「夏の終わりを告げるの風物詩」として親しまれるようになりました。仙台市内有数の夏祭りです。その風景写真をお送り致します。「我が故郷、仙台の広瀬川の灯篭流し」
今年も7月になるとお盆が来て各地で精霊流しをします。お盆の期間は、8月13日~16日の4日間(8月盆)が一般的ですが、東京をはじめとする一部地域では、7月13日~16日の4日間(7月盆)で行われます。また、東京の多摩地区では7月31日〜8月2日に行う場合もあります。お盆には、お盆提灯やキュウリ・ナスで作った牛馬など、お盆独自のお飾りをして故人様をおもてなしする風習があります。ご自宅の玄関先・庭先やお墓などの場所で「迎え火」を焚き、ご先祖様の霊をお迎えします。迎え火と同様にお盆が終わると、玄関先・庭先やお墓などの場所で「送り火」を焚き、ご先祖様の霊をお見送りします。そしてお盆の風物詩は「精霊流し」です。有名なのは長崎の江迎千灯籠祭りです。毎年8月23日と24日に行われる祭りです。3000個以上の灯籠で飾られ...「今年もお盆が来て精霊流しをします」
家内の夏の思い出と言えばまず由比ヶ浜での海水浴、親類の若者が大勢泊りに来て砂浜にビーチパラソルを立てて、水浴びしたり海の家で食事やかき氷を食べたり小屋掛けの射的・ボットル落としや楽焼をした楽しい思い出をよく話しています。戦争末期に群馬県の下仁田町に疎開したのですがそこでも楽しい思い出が沢山あるようです。本来楽天的というか人懐こく物おじしない性格なので山あいの生活や小学校にすぐ慣れて、友達とカブラ川へ水浴びに行き、帰りに河原の桑の実を食べるのがとても楽しかったそうです。ママのお土産にしようとポケット一杯摘んで帰ったら白いワンピースのポケットが真っ赤に染まってしまったそうです。川の上流の浅瀬でバチャバチャしていたら流されて大渕という深みまで行って溺れていたら、大岩の上にいた3歳上の姉が飛び込んで救ってくれた。...「家内の夏の思い出」
1945年の7月10日にB29の空襲があり仙台はすっかり焼け野原になってしまいました。そしてB29の焼夷弾空襲によってし全国の200市町村が焼け野原になってしまったのです。まず東京大空襲の写真をお送りいたします。東京大空襲は1945年(昭和20年)3月10日のアメリカ空軍による夜間空襲でした。その7枚の写真をお送り致します。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2です。1番目の写真は東京を空襲しているB-29爆撃機です。多量の焼夷弾を落としています。2番目の写真は1945年1月27日の空襲で数寄屋橋上を逃げ惑う親子です。この日の爆撃の主目標は郊外にあった中島飛行機武蔵製作所でしたが、...「夏の思い出はB29の空襲と焼け野原の光景」
夏の思い出は我が故郷仙台の七夕祭りもあります。仙台の七夕まつりは、江戸時代に仙台藩祖・伊達政宗公が婦女子の文化向上を奨励するために始めたのが由来とされており、以来仙台の伝統行事として民衆に広まり現在に至ります。故郷の仙台の七夕祭りは毎年、8月6日、7日、8日と開催されます。夏が来ると思い出します。毎年、幼少の頃から七夕飾りを見に行った東一番丁や大町通りの光景を思い出すのです。結婚して東京に住むようになってからも毎年、家内や子供連れで仙台の七夕飾りを見に帰りました。父母が健在だったあいだは毎年仙台に帰省していました。ですから七夕飾りは私の故郷の光景として心の中に焼き付いています。それではその七夕飾りが夏風に揺れている写真をお送りいたします。1番目の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co....「夏の思い出は我が故郷仙台の七夕祭り」
何故か知りませんが夏が来るとしきりに思い出すのが幼い頃の光景です。昔の茶の間、花火遊び、夜店、金魚売り、海水浴などの光景です。私の幼い頃は戦前、戦後にまたがっていました。エアコンは勿論、電気冷蔵庫も無い時代でしたので暑かったに違いありませんが、不思議に暑くて困ったという記憶がないのです。当時の茶の間には柱時計、茶箪笥、ちゃぶ台がありました。テレビはありませんでした。夜になると「ちゃぶ台」をかたずけ、蚊帳を吊り、布団を敷いて寝ます。当時は網戸が無いので、寝ていると迷ったセミやハンミョウなどが開け放した廊下から飛び込んで来ます。寝る前には近所の子供たちとよく花火遊びをしたものです。1番目の写真は子供たちの花火遊びの写真です。この写真の出典は、http://www.kobe-np.co.jp/news/shak...「夏の思い出は花火、金魚売、海水浴」
小屋は山梨県の西端の甲斐駒岳の麓にあります。その付近の新緑の写真をお送り致します。写真は2008年の5月に撮りました。なお2枚目の写真には家内と息子と幼い頃の3人の孫がが写っています。左の白服が家内で右端が小学校野球部の一番上の孫です。黒服の男が息子で傍にちいさい二人の下の孫が写っています。17年前は3人の孫も児童でした。一番上の孫は父親になりました。時の流れは早いものです。3番目の写真は山林の中の小屋の前の小川に手作りしたヤマメの魚道です。「山林の中の小屋の近くの新緑の写真」
東京の街街には一種独特な雰囲気がまとわり着いているところが多く有ります。江戸時代の屋台が連なったような浅草の仲見世通り、寅さん映画で有名な柴又の帝釈天の参道、昭和のモダンな雰囲気が漂う日本橋三越界隈、新宿駅東口から中村屋、紀伊国屋書店、伊勢丹へと続くなにか懐かしい雰囲気の通り、そして原宿や竹下通りの気楽な若者の群れる町。それぞれ独特の雰囲気があります。そして新橋駅を出て西側の広場へ出る度に、ああ戦後の雰囲気がまだ残っているなあ、と感じるのです。広場は綺麗に舗装され、向こうに蒸気機関車が飾ってある平凡な広場なのです。何故、終戦後の雰囲気があるのでしょう?そんなことを感じるのは私だけかも知れません。写真を3枚掲載します。ご意見を頂ければ嬉しいです。(終わり)添付の写真は浅草の仲見世通りと戦後の雰囲気が漂う新橋...「戦後の雰囲気が漂う新橋駅前、江戸時代の仲見世通り」
人間は老境になると昔のことが非常に懐かしくなるようです。家内が昔のことより現在や将来のことを考えたらとよく言います。しかし昔の懐かしいものについて今日も書きたいと思います。懐かしい台所、真空管ラジオ、蒸気機関車、市電、小さな連絡船、青函連絡船、などです。まずこれらの写真を示しましょう。1番目の写真は昭和時代の台所です。昭和11年に生まれた私の祖父の兵庫県のお寺の台所はこのようでした。懐かしいです。一方、私の自宅は仙台市にありましたので台所は近代的でした。2番目の写真は真空管のラジオの裏側です。高校生の頃の趣味は真空管のラジオを作ることでした。最後に写真のようなスーパーヘテロダインを作りました。大きな電蓄も作ったもです。3番目の写真は私が中年になるまで東北本線を走っていた蒸気機関車に引かれた列車です。新幹線...「懐かしい台所、真空管ラジオ、蒸気機関車、市電、小さな連絡船、青函連絡船、など」
夏になると若い頃の北アルプス縦走を思い出します。若い頃の登山の思い出です。その北アルプス縦走の思い出を写真に従ってお送り致します。しかし私は当時写真機を持っていなかったので、インターネットからお借りしました。さて縦走は大糸線の穂高駅から中房温泉への登高から始まりました。そこに一泊して燕岳、大天井、西岳、槍の肩の小屋で一泊し、南岳、キレット渡り、北穂高、涸沢、横尾と歩いて上高地に降りて来ました。歩いた行程は全部で2泊3日の山歩きでした。毎日10時間ほど歩きました。写真で説明します。1番目の写真は中房温泉から1時間ほど登ると突然見える燕岳です。この地点から槍ヶ岳を遥かに見ながら縦走路を行くのです。2番目の写真は燕岳と大天井岳の間の尾根から見える槍ガ岳です。まだ遠方です。3番目の写真は大天井岳の肩を回りこみ近く...「夏になると思い出す北アルプス縦走」
今日は爽快な白帆漁の写真をお送りいたします。お楽しみ頂ければ大変嬉しく思います。以前の夏、霞ヶ浦で撮影したものです。土浦観光協会で検索し観光のために出漁する日時をお確かめの上、お出かけ下さい。見物は観光船、ホワイトアイリスに乗船して船上から見るのが良いと思います。今日も皆様のご健康と平和を心からお祈り申し上げます。藤山杜人幅の広い大きな網を船の横に入れ、船の長さいっぱいの巨大な白帆で網をゆっくり引いて行きます。数キロメートルも引いて行きます。ワカサギを取っていますが、10月になると透明な白魚をとります。霞ヶ浦に江戸時代からあった伝統的な漁法だそうです。ワカサギは佃煮にします。沖宿でも売っていますが、土浦駅ビル地下食品売り場の小魚佃煮専門店でも売っています。白魚の生の刺身は蓮田の中の「うなぎの山中」(電話0...「夏の風物詩、霞ヶ浦の伝統的な白帆漁」
このところ湿気が多く暑いですね。間も無く本格的な夏が来るのでしょう。。そのせいか美ヶ原高原美術館の涼しさ、爽快さを思い出します。霧が流れる高原のロマンです。今日は美ヶ原高原美術館をご紹介したいと思います。この美術館は遥かに遠い天空の上の美術館なのです。標高は2004mです。4万坪の屋外展示場に350点あまりの現代造形作品を常設展示しています。1981年6月に、「箱根・彫刻の森美術館」の姉妹館として開館しました。長野県の上田市にあります。この彫刻群を楽しむため一番重要なことは天気予報を注意深くしらべ、寒い雪の日、強風の日、猛暑の日は行かないようにします。私達が訪れたのは2008年の8月5日でした。霧が流れ、幻想的な日でした。高原の丘一面に遊歩道がひろがり世界中の作品が展示されています。すべて野外で鑑賞するた...「夏の風物詩、霧が流れる美ヶ原高原美術館のロマン」
蓮の花の咲く景色は夏の風物詩です。お寺の境内、各地の城のお堀や一面に広がる蓮根畑に咲いています。夏の陽に輝く白い花が風に揺れている光景は心に刻み込まれています。私は霞ヶ浦でヨットをしていたので周囲に広がる蓮根畑の白い花が忘れられません。そして同級生の大泉君と一緒に見た小田原城の堀に咲く花は背景の天守閣の風景とともに忘れません。その上家内と一緒に行った行田の蓮の公園に一面に咲いていた蓮の花には感動したものです。そこで今日はこれら3ケ所の蓮の花の写真をお送り致します。1番目の写真は霞ヶ浦の蓮根畑の写真です。2008年の夏に撮ったものです。2番目の写真は小田原城の堀に咲く蓮の花です。観賞用の花なので種々の色の花が咲いています。出典は、https://www.jalan.net/kankou/spt_14206a...「夏の風物詩、あちこちに蓮の花が咲く風景」
今日の散歩は小金井公園まででした.今日は曇りですが乾燥した軽やかな風が吹いていました。気分爽快に小金井公園まで行って来ました。「今日の散歩は小金井公園まで」
郷愁を誘う昔の町の面影をお送り致します。郷愁を誘う昔の町の写真が沢山掲載されているブログを見つけました。https://4travel.jp/travelogue/11815459です。そこから4枚の写真をお借りして示します。「郷愁を誘う昔の町の面影」
安曇野の奥、木崎湖や青木湖のさらに奥の白馬東急ホテルに泊ったことがありました。そのホテルはスイスの山岳ホテルのような三角屋根の木造でした。部屋は屋根裏部屋の感じのような内装で、小さな縦型の窓がついていました。バルコニーの椅子に座って眺めると、芝生に覆われた広い庭の向こうは森になっています。ヨーロッパの古いホテルの雰囲気でした。写真をお送り致します。1番目の写真は白馬東急ホテルの玄関です。写真はインターネットからお借りしました。2番目の写真は私どもが泊まった部屋と同じような部屋の写真です。写真はインターネットからお借りしました。ここのホテルを出て、暗い森の中を歩き、崖の道を下るとゴンドラの駅があり八方池まで登れたのです。そ八方池まで登る道からは、八方尾根の向うに広がる白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳、小蓮華岳など...「安曇野の奥の白馬東急ホテルの寫眞」
大糸線の大町駅から白馬駅の間に車窓から3つの湖が見えます。その周囲には何も無い静かな湖沼群で標高が一番高い西端の青木湖から中綱湖、そして木崎湖と農具川でつながっていて、木崎湖から流れ出ているのも農具川といい、それは高瀬川に合流し、信濃川になります。この仁科三湖は透明度の高い水で、遥か遠方には残雪の白馬連山が横たわっています。そんな美しい水をたたえた風景写真をお楽しみ下さい。大糸線の車窓から撮った写真です。そして下の写真はこの仁科三湖と北アルプスの山々ととの位置関係を示しています。この写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%B9%96です。「安曇野の仁科三湖、木崎湖、中綱湖、青木湖の寫眞」
思い出ばかり書いているのは老人の悪い傾向です。と知りながら今日も書きます。安曇野の風景と大きな水車の思い出です。思い出すたびにすがすがしい気分になります。元気が出ます。そして老境を格調高く生きることが出来るのです。1番目の写真は残雪が輝く北アルプス連峰です。写真の出典は、https://www.kabegamikan.com/p/i.php?url=www.kabegamikan.com%2Fimg%2Fna14%2F169619.jpgです。2番目の写真は北アルプスの麓に広がる水田の風景です。写真はインターンットからお借りしました。続いて自分が2017年6月に撮った安曇野の清流と水車の写真をお送りいたします。3番目の写真は訪れた安曇野の山葵園の脇にある美しい流れの光景です。川底の藻がゆらゆら揺れていて、...「安曇野の風景と大きな水車の思い出」
武蔵野公園までの道すがら撮った写真です。順に真蔵院、小金井市立美術館、昔風の農家の写真です。「今日の散歩道の風景」
初夏の陽に輝く草原の風景です。今日は初夏の碧い空が広がっています。先程、その写真を撮って来ました。「初夏の陽に輝く草原の風景」
牡丹は花びらを何枚も重ね大輪の花を咲かせます。牡丹の花言葉は「王者の風格」「富貴」「恥じらい」です。原産国の中国では、観賞用の花として牡丹が大人気です。唐代の詩人・白居易は牡丹の人気を「街中の人が狂ったようだ」と記しています。その大きく鮮やかな花姿から、牡丹は「花王」「花神」とも呼ばれ、中国でもっとも格式の高い花とされました。その牡丹の花の写真をお送り致します。写真の出典は、https://news.biglobe.ne.jp/trend/0222/mwk_230222_4045486843.htmlです。「中国人が大好きな牡丹の花」
皆様ご存知のように中国は共産党独裁の国です。ですから民主主義の日本の仮想敵国でしょうか?しかし私はその中国の数人の人と親しく付き合っていました。今日は中国の周恩来、鄧小平、胡耀邦、温家宝などの思い出を書いてみたいと思います。私は1981年に北京と瀋陽に行きました。私を紫禁城(故宮)、頤和園、明の13陵、万里の長城、天壇、北京原人の周口店、瀋陽の清朝の発祥の宮殿、そして文化大革命で荒らされたキリスト教の教会(天主堂)などなどに行きました。西安の大雁塔や玄奘法師の墓のある慈恩寺も行ました。1番目の写真は紫禁城、故宮です。この故宮は多くの日本人も観覧していますので説明は省略します。そして頤和園のいかにも離宮らしいロマンチックな雰囲気に圧倒されました。湖も山上の楼閣も素晴らしいのですが、特に美しい左右の風景を見な...「周恩来、鄧小平、胡耀邦、温家宝などの思い出」
昔の武蔵野にあった農家はそれぞれ屋敷森に囲まれていました。そんな屋敷森に囲れている家が現在の小金井市に数軒あります。今日は北はずれにある屋敷森の写真を撮ってきました。家は森に隠れて写真には写っていません。「昔の武蔵野の屋敷森の写真を撮って来た」
ある時代に繫栄していたが現在はすっかり忘れられている町が沢山あります。時代の変化についていけず寂れてしまうのです。私はそんな町を訪れて繁栄していた頃の様子を偲ぶのが好きです。現在住んでいる人の静かな息づかいが感じられ、しみじみと旅愁を憶えます。そんな町の一例に北海道の松前藩の松前町があります。北海道の南端にあります。以前に独りで旅をした曾遊の地です。今日はこの松前藩の歴史と独り旅の思い出を書いてみたいと思います。松前藩は徳川幕府に正式に認められた北海道唯一の藩でした。慶長九年(1604年)に徳川家康から安堵状が与えられ、蝦夷地の領地権、蝦夷地の交易の独占権を得ます。こうして日本最北の藩、松前藩が成立しました。(town.matsumae.hokkaido.jp)しかし領内に米の生産がないので、幕府の『武鑑...「北海道の魅力(2)松前藩の盛衰と現在の寂しい町の風景」
北海道は魅力溢れる旅先です。特に夏の北海道は暑くなく旅行が快適です。私も何度も旅を楽しみました。北海道には美しい湖や原野が広がっています。今日は美しい洞爺湖と隣接する新しい昭和新山をご紹介します。そして洞爺湖を見下ろすザ・ウインザー・ホテル洞爺をご紹介します。この地は千歳空港から近いので何度も訪れました。さて洞爺湖ですが、この湖は北海道の虻田郡の洞爺湖町にあります。周辺は支笏洞爺国立公園に指定されています。また、「日本百景」や「美しい日本の歩きたくなるみち500選」にも選ばれている美しい湖です。1番目の写真は洞爺湖の全景です。湖の中心に島のある大きなカルデラ湖です。2番目の写真は湖の中心の中島の近景です。島にはエゾシカが棲んでいます。洞爺湖には在来種のアメマス、ウグイ、ヨシノボリ、ハナカジカ等が棲んでいま...「北海道の魅力(1)洞爺湖、昭和新山、ザ・ウインザー・ホテル」
近所の道沿いに咲いているムクゲの花です。道沿いに沢山咲いています。素晴らしい7眺めです。「近所の道沿いに咲いているムクゲの花」
狭い庭にも花々が今年も綺麗に咲きました。家内が世話をしている花々です。「庭に綺麗に咲いた花々」
カトリック松原教会の今日のミサの動画配信は、https://www.youtube.com/watch?v=NQfCUMTgGW8にあります。「カトリック松原教会の今日のミサの動画配信」
今日は広島の教会も東京の教会も動画配信が遅れましたので、先週のイグナチオ教会のミサにあずかりました。その風景の写真をお送り致します。「今日はイグナチオ教会のミサにあずかりました」
旅に出ると時々教会に寄ります。その地方の人々の気持ちが分かるようで楽しいのです。今日は懐かしいカトリック韮崎教会の思い出を書いてみたいと思います。2012年のことでした。山梨県の甲斐駒の麓の小屋へ行く途中にあるカトリク韮崎教会の思い出です。その教会の庭で神父さんらしい若い人が花壇の手入れをしていました。ちょっとお祈りさせて下さいと挨拶をしました。どうぞ、どうぞ。何処からいらっしゃいましたか?東京です。旅先では時々教会による習慣があるものですから。どうぞごゆっくり。下に御堂の中の写真と、信者さん達の集合写真を示します。1番目の写真はカトリック韮崎教会の内部です。中は立派な教会です。机の下のお祈りの冊子を手にとって、主の祈りを唱えました。ついでに信仰宣言も。2番目の写真は窓と窓の間にはイエス様の道行きの彫刻が...「懐かしいカトリック韮崎教会の思い出」
広島のカトリック幟町教会の今日のミの動画配信です。6月9日広島のカトリック幟町教会の今日のミの動画配信です。https://www.youtube.com/watch?v=zSTtJ21fqp4第広島のカトリック幟町教会の住所、広島市中区幟町4番42号原爆犠牲者を追悼し、世界平和の実現を祈念する教会堂です。「広島のカトリック幟町教会の今日のミの動画配信」
我が散歩道は野川沿いの道です。その先に武蔵野公園があるのです。先程撮った写真をお送り致します。「我が散歩道に咲く花々の写真」
武蔵野の面影を保全した都立武蔵野公園で写真を撮って来ました。気分が爽快になりました。「広々とした武蔵野の風景を撮りに行く」